3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
俳句は、自身の心を表現する短い詩です。喜怒哀楽を表現できる五七五、計十七文字(十七語韻)のショート・ポエムなのです。当然そこには、さまざま人生が描かれます。さあ、俳句の楽しい扉を私とくぐりませんか。
いよいよ関東地方も、梅雨入りのカウントダウンがはじまった。この句の作者、中川宋淵(そうえん)は明治、大正、昭和を生きた稀代の禅僧。東京帝国大学在学中に突如出家。同時に飯田蛇笏に入門し、その激賞を受けた。いわゆる俳禅一如の詩境から生み出される句品は当代独歩の
パンデミックとは流行と訳される。特定の地域や集団で感染症が短期間に通常より高頻度に多発することである。このたびの新型コロナウイルスは、日本人にも、この凶々しい言葉をはじめて記憶させた。この句、「ひとかたまりの母子草」と、パンデミックからまったく別の風景に
瞬間を揺らぎ合わせるようにしてページの隅に数は降り積む 金原弓起
「東京新聞」2020年5月24日俳壇、東直子選より。ページというから、本がイメージされるだろう。もしかすると、本物の本でなく、ストーリーをもったもの、という暗喩なのかもしれない。瞬間というものは不安定だ。その不安定で不確定な瞬間瞬間の積み重なりは、次第に本のよう
ウエットティッシュ囁く 君はどれだけの人に守られ今があるかと 高橋よしえ
「東京新聞」2020年5月24日俳壇、東直子選より。「コロナ禍で品薄高騰中のウエットティッシュからの戒めという妙味」というのが、この歌に対する東さんの言葉。まるで演劇のセリフがそのまま一首になったようである。「君はどれだけの人に守られ、今があるか知っているか?」
ありふれたスーパー勤めの我なれど今は戦地に赴(おもむ)く心地 岡田広子
「読売新聞」2020年5月25日歌壇、小池光選より。普通ならありふれたスーパーマーケットに勤務している私だが、新型コロナウイルス禍のさなかにある今は、普通ではないのだ。いうまでもなく、食料品、日用品を置くスーパーは毎日たくさんのお客がくる。店内は、どうしても密に
「読売新聞」2020年5月25日俳壇、矢島渚男選より。「社会的距離という言葉は今年の新語だろう。哀しいが、そのことを巧みに詠った。人間という言葉も考えさせる。昔はジンカンと読んで世の中のこと。人の間にあってこそ人は人間なのだ、と」は、矢島さんの評である。先に「ニ
「東京新聞」2020年5月24日俳壇、小澤實選より。「梵天とは、耳掻きの先端についているふわふわとしたもの。それを耳の奥にまで入れて耳掻きの仕上げ。まさに日永」とは小澤さんの評。日永は、日の短かかった冬から、春になって日がだんだん長くなったのを実感した時に使う季
特養も面会自粛で介護士はちょっと待ってと母にスマホを 二宮保子
「読売新聞」2020年5月25日俳壇、栗木京子選より。特養は特別養護老人ホームの略称。「面会自粛」は、面会を自粛する、ということ。このたびの新型コロナウイルスは、老人が重篤化する確率が高いといわれ、疾患がある方の場合は、さらに恐ろしいことに死にいたることもあると
見えぬものこそは怖ろしウイルスも施政者の隠す本音も 石井照子
馬場あき子主宰誌「かりん」2020年5月号より。ウイルスは目にみえないし、施政者(首相)の隠した本音というものも見えにくいものである。そういう目に見えないものというのは、怖ろしいものとして感じられる、というのが歌意である。施政者の見えない本音、という捉え方の背景
宇野千代のさくらのハンカチ取り出してわたくしだけのお花見をする 明星敦子
明るい歌。だが、さくら柄のハンカチで、一人の花見というのは、今春の花見自粛の風潮に対する皮肉ともとれる。だが。宇野千代のさくら柄🌸はいい。そこに救いがある。「読売新聞」2020年5月18日、歌壇、栗木京子選より。
九分九厘(くぶくりん)春の風邪(かぜ)とは思へども 中島さやか
「読売新聞」3月30日、俳壇、小澤實選より。この句、「もし新型コロナウイルスだったらどうしよう」と続く言葉が隠されている。たれもが感じている恐怖感を、さらりと詠んでいる。いささかとぼけた味わいがあることが救い。
マスクして心閉じゐる如き日々老いにきびしきコロナウイルス 塚本 史
「読売新聞」3月30日、歌壇、黒瀬珂瀾選より。このたびの新型コロナウイルスは、あらゆる年代の人にとって恐ろしい病魔であるのだが、特に高齢者は死亡率が高いという。免疫力が関係しているらしい。朝からずっとマスクを外さない生活は、つらいものである。慣れない高齢者に
電車降りすぐに手拭きで指ぬぐふ悲しいやうな安堵の時間 桃原晴美
「読売新聞」3月30日、俳壇、栗木京子選より。コロナから身を守る手段として、まず言われているのは、外からもどったら手洗いとウガイだ。決して大変なことではない。それさえ済ませば、まずはひと安堵。この習慣そろそろ当たり前になりつつある。栗木さんは「安心のためとは
ウイルスがコースを決める散歩なり人の少なき道をゆく春 山崎三千子
「読売新聞」2020年3月30日歌壇、栗木京子選より。この日の栗木さんの選に残ったコロナ関連の歌は8首。3月は、5月の現在よりもその正体がわからず、恐怖とショックの大きかった時期である。掲歌、不要不急の外出は避けようと叫ばれ、花見も中止になった時期だ。唯一のストレ
コロナ禍でライトアップはみな中止スーパームーンが夜桜照らす 秦 一憲
たとえば本州最北端、青森県弘前の弘前城にある桜は、ライトアップの美しさでも有名なのだが、今年は城の門が閉ざされ、一般人たちが桜を見ることは叶わなかった。もちろんライトアップも中止だったという。花見の客がうろうろすれば、コロナウイルスに感染するリスクが高ま
「朝日新聞」2020年5月17日、俳壇、大串章選より。さらりとした句ながら、まぎれもなく今年の春の光景。季語は、いうまでもなく「花」で、桜を指す。新型コロナウイルス予防のため、マスクをしている私。立ち止まって桜の落花を見ていたのであろう。今年の桜とのお別れは、こ
ぼつ、ぼつ、と世界のきしむ音がして夜中の雨が降り始めている 富田睦子
「ぼつ、ぼつ、」といきなり始まり、それは「世界のきしむ音」だという。雹でも落ちてくるような恐怖を誘う音だ。擬音語に不思議な臨場感がある。この歌の作者にとって、「世界のきしむ音」というのは、観念的なものであるのかもしれない。が、世界は今、新型コロナウイルス
ウイルスに感染しているこの星を大きな月の光が照らす 藤野寛己
ウイルスに感染したこの星=地球。その星を、照らす大きな月の光。大きな月というのは、スーパームーンと呼ばれ、月が大きく見える現象。先日あったが、それをいうのであろう。すべて天体の出来事を語りつつ、視点はまたウイルスに感染したこの星=地球へと戻ってくる。月光
ニメートル離れて囲碁は打てませんやっと見つけた老後の趣味が 浅川栄子
「読売新聞」2020年5月18日の歌壇、栗木京子選から。新型コロナウイルス発生以後、他者との距離を2メートルあける、ということが常識化しつつある。スーパーのレジなども、一人一人の間を2メートルあけねばならず、10人もならぶと大変な距離になってしまう。今までの常識では
こちらは「朝日新聞」2020年5月17日、俳壇の稲畑汀子選の一句。医師の立場から新型コロナウイルスを詠んでいる。見えないウイルスとの闘いだ。中でも、この新型は、いくつか厄介な点がある。感染していても症状(熱や咳)が出ない人がいる、とか。そういう人と接触しただけで感
動画にはソファーに寛(くつろ)ぐ首相あり格差社会の現実ここに 神蔵 勇
同じく「朝日新聞」2020年5月17日、永田和宏選。先頃話題になった、YouTubeの星野源の歌の動画に合わせて、見た人たちが動画を投稿できるというもので、多くの芸能人や文化人が動画を投稿したらしい。その中にあって、いまの安倍首相もプライベートに寛ぐ日常の姿を投稿した
唐突にコロナ離婚がわかるわとピアノに向かう休日の妻 上門善和
同じく「朝日新聞」2020年5月17日、永田和宏選より。ピアノの練習に夢中になっていると思っていたら、その妻が突然「コロナ離婚、わかるわ」と言ったというのである。コロナ離婚ということばが、最近マスコミに取り上げられるようになった。今まで会社に出勤していた夫が、コ
レジ前は透明シートでガードされ店員さんとの会話は単語 佐藤雅子
同じく「朝日新聞」2020年5月17日、歌壇欄より。佐佐木幸綱選より。よく見るスーパーのレジでの情景。いつもなら店員さんとの会話は密なのだが、いまはそれが許されない。笑いがないのだ。事務的になっている、店員さんと私。「単語」での会話なんて、まだ日本語をマスターし
同じく「朝日新聞」2020年5月17日歌壇欄。馬場あき子選より。今の時代、ここまで献身的な女性がおおぜいいるかどうかは別にして、筆者はラジオ、文化放送の午後の番組「大竹まことゴールデンラジオ」を聴くことがよくあり、日替りだが、アシスタントに壇蜜さんが出ている時、
移るより移すことへの恐れから人は優しく人を遠ざけ 箕輪富美子
今日(2020年5月17日)「朝日新聞」歌壇より。永田和宏選の一首。一読、新型コロナウイルスに関係する歌であることがわかる。新型コロナウイルスは、人から人に伝染していくのだという。人によっては、症状がまったく現れないままにウイルスを持ちつつ、免疫力の弱い人に移して
待ちてゐてくれるひとゐるたそがれはかつてありにし沈丁花の香 渡辺松男
先に掲げた馬場さんの孤独感とはまた違う孤独感がここにはある。待ってくれる人のいる夕暮れ時、それはかつてあった沈丁花の香ばしいかおりのようだという。筆者は作者のプライベートな事情を知らない。ゆえに、突っ込んで解釈はできないが、沈丁花に対する讃歌として読ませ
影のごと帰り来て鍵をあけ影のごと入りゆけり灯のなき家 馬場あき子
「かりん」2020.1より。「影のごと」という比喩が二つある。一つは、家に帰り来たときをいい、もう一つは、鍵をあけて家に入ったときをいっている。最後は「灯のなき家」で、ここにすべては収斂されている。もう一首、鍵をあけ影のごと入り灯ともせばみにくき荷下げしわが身
ナチュラルで透明感のある写真を撮る写真家、浅井愼平さんの俳句だ。恐らく、ご自身の少年期を思いながら作られたのであろう。「少年の雨」と一気にいい、ここでひと呼吸置く。そして「夏空の水たまり」と場面が転換する。少年のころ、降る雨は、夏空のどこかにある水たまり
「人待つ人等」=「ひとまつひとら」。人(ひ・と)がリフレインを奏でている。待つ人がいて、来る人がいる。そして、去る人も。人、人、人というから、大きな駅をイメージする。ことばあそびのような柔らかさがいい。俳句の場合、深刻なテーマはあまり成功しない。(まったく無
「東京新聞」2020年5月10日朝刊より。俳壇の石田郷子選の一句。風船はイベント会場で束ねられている。来場した子どもたちにプレゼントされるそれであろう。ガスが入っているから、紐をはなせば空高く飛んでいってしまう風船。そこを「逃れたき意思」と擬人化して言っている。
毎日毎日新型コロナの新聞をギュウッと縛って回収に出す 髙田美智子
「東京新聞」2020年5月10日朝刊より。歌壇、佐佐木幸綱選の一首。この短歌、「毎日毎日新型コロナ」という出だしで、まず読者の共感をよび、続いて、「新聞をギュウッと縛って」そして「回収に出す」という動きを語ることで、そこにいきいきとした生活感がうまれる。主役は新
間隔をあけて表情のこわばるも地下鉄の人らつぎつぎと座す 恩田紀子
「毎日新聞」2020年5月11日朝刊の歌壇より。篠弘選の一首。これも、最近よく見る車中の光景だ。間隔をあけて坐ることは、ふつうあまりしない。しかし、新型コロナウイルスのせいで、いまはそれを奨励される。慣れないことをするから、表情も少しこわばるのだろう。短歌は時事
大仏のようなお顔とお姿におがみたくなるマツコデラックス 末広正己
「読売新聞」2020年5月11日朝刊、小池光選の一首。新型コロナウイルスのことを忘れ、素直に笑える。マツコデラックスが短歌に登場しても、川柳的な軽さがないのはさすがである。俳句だとこうはいかない。
「読売新聞・歌壇」2020年5月11日朝刊より。小池光選の一首。読んでいて、見につまされる人は多いと思った。核家族の悲劇だ。こうなったら、病気にはなれない。ペットを先に見送らないかぎり、死ぬこともできない。笑えない現実である。短歌はここまで語れる。
今日の死者二十五とあり二十五の顔と五十本の手を思うべし 佐佐木幸綱
新型コロナウイルスで犠牲となられた方の報道が、今も続いている。「今日の死者二十五とあり」、人間を数でしか表せない虚しさを思う。不条理な死に対して人間は為すすべがないのだ。そこで作者は強調する。「二十五の顔と五十本の手を思うべし」、つまり、亡くなられた方々
大いなる春月出(い)でてウイルスに右往左往のこの世を照らす 深沢ふさ江
同じく「読売新聞」4月20日読売歌壇より。小池光選から。月が大きくきれいに見えるときがある。それを「大いなる春月出でて」という。このあと、話題ががらりと変わる。その春月が、「ウイルスに右往左往」している「この世を照ら」しているというのだ。春の月は、朧月ともい
今回、短歌を取り上げる。新型コロナウイルスを詠むという場合、俳句よりも長い短歌の方が、よりリアリティを持って表現できることがわかったのである。この歌は、「読売新聞」2020年4月20日の読売歌壇に載った句。俵万智さんの選から。 「新型コロナウイルスの影響で、在宅
「藍」2020年5月号を繰っていたら、川崎幸子さんが「花谷和子作品よりこの一句」というページに、この句を取り上げられていた。この句は句集「五月の窓」の題名になった句である。この句集も、また、第一句集「ももさくら」の文庫版の新版も、制作させていただいたので、筆者
新型コロナウイルス対策で「自粛」という言葉が流行している。みずからつつしむということである。外に出て、大勢の人々と賑やかに振る舞わないこと。そういう生活態度を、政府が国民に奨励しているのである。奨励しているというより、強要しているといったほうが当たってい
「未来図」の編集長を長年されている守屋さんの句である。裸木は、葉をすっかり落とした裸の木。何の飾りも持たない冬の木の存在は、男気そのものに通じるとみたのである。今はあまりいわれなくなった「男気」である。例えば高倉健の任侠映画に出てくる男たちのようなものか
今年は新型コロナウイルスの影響で、各地の花たちも人々にじっくり鑑賞されることがなく、いかにも寂しそうである。場所によっては、美しく咲いた花をバッサリ切られたところもあった。人数的に入場制限をすれば、花を見ることまで中止する必要はなかったようにも思ったのだ
暑くなると、ところてんの季節がくる。つめたく冷やした細い寒天を、酢醤油をけ、辛子を一サジ加えていただく。口に入れた時の清凉感。昔も今も夏の食品のナンバーワン。作者は昭和7年のお生まれ。だから「この齢」という言葉が出る。ご高齢である。高齢者にはたしかに「勇
五月に入り、気候も温暖、さわやかな風の吹きわたる季節になると、聖五月などという言葉も素直にうなずけるのである。もちろん、これが季語。中七、下五で、「詩を生むためのペンを買ふ」と、言いたいことを一気にいう。詩、この場合は俳句だが、俳句を書くためのペンを買っ
苗代(なわしろ)に午後の山影被(かぶ)さり来(く) 山﨑千枝子
もうゴールデンウィークに突入した。マスコミは、新型コロナウイルスのことがあるので、観光的な話題は全く報道されない。この時期は、電車に乗っていると、窓から田植えの風景がよく見られる。もちろん今年もそういう情景が日本各地で展開しているだろう。この句でいう苗代
この句は、毎年12月初旬に行われる秩父夜祭での句。街の辻々を、賑やかなお囃子を演奏して練り歩く山車たちの2日間続く秩父夜祭だが、2日めの夜9時にはフィナーレのときを迎える。凍空に弾ける花火の乾いた音が、まるで一年が終わったかのように派手に響きわたり、それが終
新型コロナウイルス騒ぎで、筆者も含めどんどん気持ちが萎縮している昨今である。しかし、半年前までは、この句のような考えが当たり前だった。旅好きな人は、船や飛行機でじっさい世界中に飛び出していたのである。まあ「星の生まるる涯までも」は、現実的に考えて、ちょっ
同じく「沖」2020年5月号より。コロナウイルスを全面的に捉えるのでなく、「猫の恋」と並立させることで、日常的な風景となった。「猫の恋」とコロナウイルスとは、まったく違う素材をもってきたところが、なんとも新鮮な印象を生んでいるのである。今後もこの新型コロナウ
能村研三さん主宰の「沖」2020年5月号より。「この世」以下、世情の混乱を客観的に描いている。
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3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
「うすらいを踏む思い」などというように、薄氷は「うすらい」と読む。水たまりに張った薄い氷などを踏むと、ピシピシと音を立てて割れていく。まだ若い恋人同士は、この薄氷を割る遊びのように、わざと二人の間をこわすようなことを言ってしまうことがある。悪意はないのだ
あれこれしても泣き止まない赤ちゃん。万策つきて庭の梅の木の下に抱っこして連れてゆくと「ほうらほら」と花に顔を近づけて見せる。そこまでは言っていないが、なんとふしぎに泣き止んだのであろう。梅は白梅か紅梅かなどは一切言わない。ただただ梅の花を見せる。冬から春
節分に「福は内 鬼は外」といって豆を撒く。しかし掲句は「福は外 鬼は内」というのだ。つまり福(しあわせ)は外へ出しましょう、鬼(ふしあわせ)は外に出さず、我が家で引き受けましょう、といっているようにとれる。世間一般の常識の裏返しとして面白い。筆者もそうだが、
駅の改札を出たところで人を待つ。あるいはデパートの入り口のライオン像の前なんていうのもある。いまはスマホ一人一台の時代だから、待ち人の姿が見えないときは、すぐに電話をするかメールをする。時間の無駄のない現代だ。しかし、スマホを忘れてきたりすると、たちまち
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する
「針葉樹」は、文字通り針のような葉の樹林のことで、松や杉などを指す。針葉樹は年間を通して緑の色を変えない常緑樹が多い。密集した大きな葉叢をそよがせている広葉樹林とは対照的で、少し寒々とした印象を与える。そんな針葉樹林に分け入ってゆくと、蟬の一種である「ひ
俳人協会発行の「俳句文学館」紙9月5日号を見ていたら、4月に行われた愛知県支部の俳句会で入選した句が掲載されていた。そのなかで、山本比呂也さんが特選に選んだ句がこれである。フラメンコがどう俳句に詠まれているか興味が湧き、読んだ句であるが、さらりとした味わいが
ここでいう日とは、日のさすところすべてをいうのであろう。「自然」といいかえてもよいかもしれない。そこに「水をゆきわたらせ」ることによって「自然」は血液を得ることができるのである。血液を得た自然は、いよいよ枝を伸ばし葉を広げ緑を輝かせるのである。その血液を
以下「馬酔木」2023年7月号、一 民江さんの太田土男著『田んぼの科学ー驚きの里山の生物多様性ー』の書評を引用します。まえがきに、季語を手がかりにして稲作の一つ一つがいつ頃、どう変わったのか点検しながら、季語の意味を少し深く耕してみた。と書かれる。稲の起源から
作者は、平成2年「雲母」入会、その後「白露」へと引き継がれ、今は井上康明主宰誌「郭公」にいる同人である。自然諷詠の流れの中にいる俳人である。六月、「鴉は不機嫌」だという。不機嫌とはどういうことであろうか。筆者も五月であるが、道を歩いていて、突然頭上に鴉が乗
山深い熊野の地。目の前に広がる海は、熊野灘だ。古来から峰々をゆく貴族たちは「アリの熊野詣で」といわれた。宮廷人たちに、本当に愛された聖地なのだ。変化に富んだ熊野の大自然は、スケール大きく、それこそ「神っている」。古代からの樹木や瀧など、とにかく見上げるも
ひらがなの「けん」は県のこと、「ちょう」は町、「あざ」は字で、要するに住所を表している。だが、この句にはオチがある。そのオチは、いうまでもなく「あざ鰯雲」というところである。まず岩手県の風景が、漠然とイメージされる。そして具体的には空だ。真っ青な空。その
ハクレン(白木蓮)は、春の到来を告げる美しい花。その純白さは、見る人の心を浄化してくれるようである。今年(2020年)は、新型コロナウイルスの蔓延で、そんなウイルスの汚染を浄化してほしいという願いは、ひときわ強いのである。掲句は、「無垢の憂いを裹む」、その姿がハ
浜辺近くに海月が打ち寄せられたのだろう。次の波が押し寄せると、引いて行く波に乗って海月も海の方に戻っていった。作者は、例えば高濱虚子が大根の葉に焦点を絞って句を作ったように、ひたすら海月に焦点を絞って作っている。ここには海月以外のなにもない。そのシンプル
人は人生の節目に、「さよなら」という。永遠の別れということもある。あるいは、もっと日常的なところで、たくさん「さよなら」は使われている。考えてみれば、味わい深い言葉である。この句、町角でする「さよなら」だが、さて、重い「さよなら」か、軽い「さよなら」かは
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する