3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
俳句は、自身の心を表現する短い詩です。喜怒哀楽を表現できる五七五、計十七文字(十七語韻)のショート・ポエムなのです。当然そこには、さまざま人生が描かれます。さあ、俳句の楽しい扉を私とくぐりませんか。
俳誌「好日」(高橋健文主宰)5月号掲載の句です。
瀧春樹さんの「樹(たちき)」5月号に載っていた句です。
前回、文章を引用させていただいた森竹さんの一句。正式には「新型コロナウイルス」であるが、まるまる一句に読み込むのは窮屈だから「新型」を省略している。とにかく恐ろしい名称である。草木に芽が付くころ、人間はコロナウイルスに左右されているのだというもの。草木に
最近いただいた俳誌「暖響」5月号を見ていたら、この句に出会った。森竹須美子さんが引用され、「薔薇の中でも白薔薇を選ばれたことに、昭和の始め頃の時代背景を感じる。楸邨先生は、明治38年生まれで、この頃、仕事においても、家庭においてもきびしい日々であった」と書か
4月26日の東京新聞(朝刊)、小澤實さん入選の一句。新型コロナウィルスの惨状を詠んだ句。「ウイルス封鎖の都市」とは、中国、イギリスやアメリカ、イタリア、韓国などをいうのであろう。日本で今行われているのは「自粛」ということで、封鎖というほど強いものではない。詳
日本語をはなれたのは、むろん、蝶ではなく、作者本人だ。(蝶はしゃべれない)だが、蝶がH音の強い発音で「はひふへほ」と話しかけてきたというのである。作者はシルクロードの旅に三度出かけているという。第一回目は昭和47年でシベリア、天山山脈、サマルカンドなど。二回目
今、牡丹の花が盛りを迎えている。寺院などの名所に行かなくても、庭に咲かせているお宅も多い。筆者も時々、道端から拝見させていただく。牡丹といえば森澄雄の一句をどうしても思い出してしまう。ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに 澄雄さて掲句である。庭に降り立ち、美
桜の咲く頃は、木を見上げることが多かったが、花が散りはじめると、なんとなく足元を見つめることが多くなったように思う。それは、周辺の低木や草が花をつけ始め注目させるようなるからである。足元の草も次第に緑色を強めてくる。そんな一面の緑色の中に、ぱっちりと鮮や
「蛇穴を出づ」という季語がある。春、陽気もよくなり、冬眠していた蛇も穴から出てくるころ、またはその頃の蛇をいう。実際に蛇を見たというのでなく、蛇も穴を出てくるころ、として使われることが多い。大昔は、蛇も神さまと崇められることがあったが、現代のわれわれの生
阪神淡路大震災、東日本大震災、そしてその後多くの災害に見舞われ続けてきた日本列島。いまも蔓延し続けている新型コロナウィルス。全世界も危機に瀕している。今後も人類に多大な悪影響をおよぼすであろう。被害の大きさは、測りしれないものがある。このような災難に遭遇
昨日、路ばたに白いつつじがひっそりと咲いているのを見つけた。赤いつつつじは自己主張するような華やかさがあるが、白つつじはむしろ静かに、控えめな生き方を思わせるものがあると思う。現在、出口の見えない新型コロナウィルスの災禍の中にあるせいか、白いつつじは、い
「さよならは接続詞なり」と一気に言い切り、一呼吸置いて「さくら散る」となる。「なり」は断定するときに使う。この句、前と後が関連していると思えばよいが、関連していないと思うとダメという評価になる。そういう作りの句である。その評価は、読者に委ねられる。そこが
桜が花びらを散らしたあと、空はますます青く澄んだ日が多くなってくる。そんな空には鳥の鳴き声が溢れる。地上に猫の恋が展開しているころ、空では鳥の恋があちらでもこちらでも展開している。現代の猫は、車の走る道路や人間の姿を避けて、臆病そうな目で異性を求めて走っ
季語「花の雲」は、満開の桜の木の上の空にひろがる雲をいう。のんびりと春の空に浮かんでいる雲がイメージされる。似た季語に「花曇り」があるが、こちらは、曇った空の色をいうから、それとは異なる。やや暗い印象がある。掲句、明るい雲が「はるかなる」であるから、高い
「花筏」は、桜の傍題。散った桜の花びらが川面に固まって浮かんでいるさまが、まさに筏のようだというので、この季語がうまれた。花びら製のイカダということである。この句、水に流されてゆく花びらの筏だが、よく見ると、水のほうが早く流れているという。水に比べ、花び
句集「朝さくら夕さくら」より。今年は桜の開花どき雨がよく降った。雨は風を呼ぶから、はらはらと桜の花びらが散らしてしまう。筆者の住む埼玉県は、今日4月3日現在桜の花はもういくらも残っていない。今年は自粛自粛で遠出しなかったが、地元の桜はよく見た。さて掲句、さ
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3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
「うすらいを踏む思い」などというように、薄氷は「うすらい」と読む。水たまりに張った薄い氷などを踏むと、ピシピシと音を立てて割れていく。まだ若い恋人同士は、この薄氷を割る遊びのように、わざと二人の間をこわすようなことを言ってしまうことがある。悪意はないのだ
あれこれしても泣き止まない赤ちゃん。万策つきて庭の梅の木の下に抱っこして連れてゆくと「ほうらほら」と花に顔を近づけて見せる。そこまでは言っていないが、なんとふしぎに泣き止んだのであろう。梅は白梅か紅梅かなどは一切言わない。ただただ梅の花を見せる。冬から春
節分に「福は内 鬼は外」といって豆を撒く。しかし掲句は「福は外 鬼は内」というのだ。つまり福(しあわせ)は外へ出しましょう、鬼(ふしあわせ)は外に出さず、我が家で引き受けましょう、といっているようにとれる。世間一般の常識の裏返しとして面白い。筆者もそうだが、
駅の改札を出たところで人を待つ。あるいはデパートの入り口のライオン像の前なんていうのもある。いまはスマホ一人一台の時代だから、待ち人の姿が見えないときは、すぐに電話をするかメールをする。時間の無駄のない現代だ。しかし、スマホを忘れてきたりすると、たちまち
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する
「針葉樹」は、文字通り針のような葉の樹林のことで、松や杉などを指す。針葉樹は年間を通して緑の色を変えない常緑樹が多い。密集した大きな葉叢をそよがせている広葉樹林とは対照的で、少し寒々とした印象を与える。そんな針葉樹林に分け入ってゆくと、蟬の一種である「ひ
俳人協会発行の「俳句文学館」紙9月5日号を見ていたら、4月に行われた愛知県支部の俳句会で入選した句が掲載されていた。そのなかで、山本比呂也さんが特選に選んだ句がこれである。フラメンコがどう俳句に詠まれているか興味が湧き、読んだ句であるが、さらりとした味わいが
ここでいう日とは、日のさすところすべてをいうのであろう。「自然」といいかえてもよいかもしれない。そこに「水をゆきわたらせ」ることによって「自然」は血液を得ることができるのである。血液を得た自然は、いよいよ枝を伸ばし葉を広げ緑を輝かせるのである。その血液を
以下「馬酔木」2023年7月号、一 民江さんの太田土男著『田んぼの科学ー驚きの里山の生物多様性ー』の書評を引用します。まえがきに、季語を手がかりにして稲作の一つ一つがいつ頃、どう変わったのか点検しながら、季語の意味を少し深く耕してみた。と書かれる。稲の起源から
作者は、平成2年「雲母」入会、その後「白露」へと引き継がれ、今は井上康明主宰誌「郭公」にいる同人である。自然諷詠の流れの中にいる俳人である。六月、「鴉は不機嫌」だという。不機嫌とはどういうことであろうか。筆者も五月であるが、道を歩いていて、突然頭上に鴉が乗
山深い熊野の地。目の前に広がる海は、熊野灘だ。古来から峰々をゆく貴族たちは「アリの熊野詣で」といわれた。宮廷人たちに、本当に愛された聖地なのだ。変化に富んだ熊野の大自然は、スケール大きく、それこそ「神っている」。古代からの樹木や瀧など、とにかく見上げるも
ひらがなの「けん」は県のこと、「ちょう」は町、「あざ」は字で、要するに住所を表している。だが、この句にはオチがある。そのオチは、いうまでもなく「あざ鰯雲」というところである。まず岩手県の風景が、漠然とイメージされる。そして具体的には空だ。真っ青な空。その
ハクレン(白木蓮)は、春の到来を告げる美しい花。その純白さは、見る人の心を浄化してくれるようである。今年(2020年)は、新型コロナウイルスの蔓延で、そんなウイルスの汚染を浄化してほしいという願いは、ひときわ強いのである。掲句は、「無垢の憂いを裹む」、その姿がハ
浜辺近くに海月が打ち寄せられたのだろう。次の波が押し寄せると、引いて行く波に乗って海月も海の方に戻っていった。作者は、例えば高濱虚子が大根の葉に焦点を絞って句を作ったように、ひたすら海月に焦点を絞って作っている。ここには海月以外のなにもない。そのシンプル
人は人生の節目に、「さよなら」という。永遠の別れということもある。あるいは、もっと日常的なところで、たくさん「さよなら」は使われている。考えてみれば、味わい深い言葉である。この句、町角でする「さよなら」だが、さて、重い「さよなら」か、軽い「さよなら」かは
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する