3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
俳句は、自身の心を表現する短い詩です。喜怒哀楽を表現できる五七五、計十七文字(十七語韻)のショート・ポエムなのです。当然そこには、さまざま人生が描かれます。さあ、俳句の楽しい扉を私とくぐりませんか。
今年の桜は、新型コロナウィルスの影響で、花見されることもなく、散ってゆくしかない。なんとも寂しそうである。花の美しさは、例年と変わらないのだから、ひとしおそう思うのである。さてこの句、遠くの山の中腹あたり、はっきりと桜のいろが塊になって見えたという句。あ
十六歳というと高校1〜2年生ぐらい、もっとも多感な時である。自分に目覚め、将来を考えはじめる。大人になりきれない年代だから、大人のごまかしがイヤだと思い、反抗してしまう。たれもが通った道であろう。その年代のもやもやを「花ぐもり」に仮託した。桜満開の頃の曇
季語は「花の雨」、桜が咲いているころに降る雨のこと。晴れた空の下で味わいたい桜の花だが、無情な雨はゆっくり立ち止まることもままならず、花のことはやや脇に寄せられてしまう。それでも花見の客は多いのであろう。駅までの道は、人、人、人で混みあっている。雨であれ
落花はいうまでもなく落ちてきた桜の花びらのこと。「おくれ来し人」とは、遅れて来た人のこと。パーティーかなにかの会合に遅刻して現れたその人ということだ。その人、よく見ると、肩などに桜の花びらが着いているではないか、という驚きがそのまま一句になっている。遅れ
今年(令和2年)の連休中の3月22日、関東は桜の満開の時を迎えた。ただそのあと、北風が吹いたりして、寒い日が続いている。こんな陽気を「花冷え」という。まだ開いたばかりの花びらだが、風には弱く、すぐに散りはじめてしまう。花見は今週いっぱいはできると思うが、新型コ
鍵和田秞子(かぎわだ・ゆうこ)さん、このたび日本詩歌文学館賞を受賞された。おめでたい限りである。さて、掲句は、何年か前の作であるが、鍵和田さんの句は、情緒をもろに表すことなく、硬質な抒情で観念的に納得させていく作法で、師の中村草田男ゆずりの作法である。そん
この句、季語は「鳥雲に」である。俳句をつくらない人にはわかりにくい季語であるかもしれない。鳥が雲に上がるというような意味だ。春になると、鳥たちも活気にあふれて空高く舞い上がる。春の初めは三寒四温だが、だんだん暖かくなってくる。そうすると、鳥たちも元気に空
春とはいえ、まだ寒い日が続いていることが多い。冬はマフラーが必需品だったが、それほど寒さを感じなくなった春、和服の女性の場合、ショールを巻いて出かけることが多い。ショールは、なかなかの小道具でもある。巻いている立ち姿が美しいのだ。だから、和服を着る機会の
この句の本意は、あまねく降り注ぐ春の光の中に、瀬戸内の海が広がっている、その光の眩ゆさに、いくつかある小さな島々も見えなくなっているというのだ。光に隠されたようで、なんとも不思議だけれど、それだけ光が強いということである。「紛れ込む」とは、擬人化した表現
この句、「海から山」をどう解釈するかであろう。海の旅といえ船旅を思う。山旅といえば登山、ハイキングなどがある。一つのツアーで海から山へと続けて出かけた、というふうにも理解できるし、海の旅もした、山の旅もしたな、と、それらを回想しつつ、イメージの中で一つの
うららかな陽気は、人のこころをとろかし解放する。目の前には、右といわず左といわず、大きな森が広がる。森は冬の寂しさから少しずつ脱皮しつつある。冬、樹木は枯葉を散らし、枯木となる。しかし今、枯木から木の芽が伸びつつある。その木の芽は、やがて美しい葉を着け、
西行は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、日本各地を歩いて和歌を詠んだ僧侶にして歌人として有名。「嘆けとて月やはものを思はするかこ ち顔なるわが涙かな」(「小倉百人一首」86番)「願はくは花の下にて春死なむそのきさらきの望月のころ」等の歌が知られている。
明日は3月3日、雛祭りである。今もなん段もある雛段を設置し、みやびやかな雛人形を飾っている家庭がどのくらいあるかはわからないが、公共施設やホテルのロビーなどに飾られているのを目にすることがある。見ると、やはり、その華やかさや懐かしさについうっとりするのは、
蕗の薹は春の訪れを知らせる、明るい植物。小さな植物ながら、人のこころをほっこりとさせてくれるところがある。道端で見つけたりすると、はっと嬉しくなる。掲句、蕗の薹はまさに「日のかけら」だという。それを「集めて」、そして「散らす」、そんな動きをする可愛い姿か
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3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
「うすらいを踏む思い」などというように、薄氷は「うすらい」と読む。水たまりに張った薄い氷などを踏むと、ピシピシと音を立てて割れていく。まだ若い恋人同士は、この薄氷を割る遊びのように、わざと二人の間をこわすようなことを言ってしまうことがある。悪意はないのだ
あれこれしても泣き止まない赤ちゃん。万策つきて庭の梅の木の下に抱っこして連れてゆくと「ほうらほら」と花に顔を近づけて見せる。そこまでは言っていないが、なんとふしぎに泣き止んだのであろう。梅は白梅か紅梅かなどは一切言わない。ただただ梅の花を見せる。冬から春
節分に「福は内 鬼は外」といって豆を撒く。しかし掲句は「福は外 鬼は内」というのだ。つまり福(しあわせ)は外へ出しましょう、鬼(ふしあわせ)は外に出さず、我が家で引き受けましょう、といっているようにとれる。世間一般の常識の裏返しとして面白い。筆者もそうだが、
駅の改札を出たところで人を待つ。あるいはデパートの入り口のライオン像の前なんていうのもある。いまはスマホ一人一台の時代だから、待ち人の姿が見えないときは、すぐに電話をするかメールをする。時間の無駄のない現代だ。しかし、スマホを忘れてきたりすると、たちまち
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する
「針葉樹」は、文字通り針のような葉の樹林のことで、松や杉などを指す。針葉樹は年間を通して緑の色を変えない常緑樹が多い。密集した大きな葉叢をそよがせている広葉樹林とは対照的で、少し寒々とした印象を与える。そんな針葉樹林に分け入ってゆくと、蟬の一種である「ひ
俳人協会発行の「俳句文学館」紙9月5日号を見ていたら、4月に行われた愛知県支部の俳句会で入選した句が掲載されていた。そのなかで、山本比呂也さんが特選に選んだ句がこれである。フラメンコがどう俳句に詠まれているか興味が湧き、読んだ句であるが、さらりとした味わいが
ここでいう日とは、日のさすところすべてをいうのであろう。「自然」といいかえてもよいかもしれない。そこに「水をゆきわたらせ」ることによって「自然」は血液を得ることができるのである。血液を得た自然は、いよいよ枝を伸ばし葉を広げ緑を輝かせるのである。その血液を
以下「馬酔木」2023年7月号、一 民江さんの太田土男著『田んぼの科学ー驚きの里山の生物多様性ー』の書評を引用します。まえがきに、季語を手がかりにして稲作の一つ一つがいつ頃、どう変わったのか点検しながら、季語の意味を少し深く耕してみた。と書かれる。稲の起源から
作者は、平成2年「雲母」入会、その後「白露」へと引き継がれ、今は井上康明主宰誌「郭公」にいる同人である。自然諷詠の流れの中にいる俳人である。六月、「鴉は不機嫌」だという。不機嫌とはどういうことであろうか。筆者も五月であるが、道を歩いていて、突然頭上に鴉が乗
山深い熊野の地。目の前に広がる海は、熊野灘だ。古来から峰々をゆく貴族たちは「アリの熊野詣で」といわれた。宮廷人たちに、本当に愛された聖地なのだ。変化に富んだ熊野の大自然は、スケール大きく、それこそ「神っている」。古代からの樹木や瀧など、とにかく見上げるも
ひらがなの「けん」は県のこと、「ちょう」は町、「あざ」は字で、要するに住所を表している。だが、この句にはオチがある。そのオチは、いうまでもなく「あざ鰯雲」というところである。まず岩手県の風景が、漠然とイメージされる。そして具体的には空だ。真っ青な空。その
ハクレン(白木蓮)は、春の到来を告げる美しい花。その純白さは、見る人の心を浄化してくれるようである。今年(2020年)は、新型コロナウイルスの蔓延で、そんなウイルスの汚染を浄化してほしいという願いは、ひときわ強いのである。掲句は、「無垢の憂いを裹む」、その姿がハ
浜辺近くに海月が打ち寄せられたのだろう。次の波が押し寄せると、引いて行く波に乗って海月も海の方に戻っていった。作者は、例えば高濱虚子が大根の葉に焦点を絞って句を作ったように、ひたすら海月に焦点を絞って作っている。ここには海月以外のなにもない。そのシンプル
人は人生の節目に、「さよなら」という。永遠の別れということもある。あるいは、もっと日常的なところで、たくさん「さよなら」は使われている。考えてみれば、味わい深い言葉である。この句、町角でする「さよなら」だが、さて、重い「さよなら」か、軽い「さよなら」かは
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する