『法華玄義』現代語訳 208 〇記者が私的に異説について記す。 ①.異説を挙げて記す ①.a.『法華経』と『般若経』の比較 ある人が、『大智度論』の「会宗品」に、十の大いなる経典を挙げていることを引用している。「『雲経』『大雲経』『法華経』がある。『般若経』は最大である」とある。また「大用品」に、「あらゆる善法は、般若の中に入る。『法華経』もまた善法である」とある。また第百巻に「『法華経』は秘密であり、『般若経』は秘密ではない。二乗が仏になることを明らかにしていないためである」とある。また「般若、法華は名称が異なっているだけでる」とある。ここに、『般若経』が『法華経』より優れていること、『法華…
『法華玄義』現代語訳 207 E.5.6.「増数」に教えを明らかにする まず「迹」について述べ、次に「本」について述べる。そもそも、教えとは衆生に与えるものである。衆生の能力は一つではないので、教え(=法:法の意味は多いが、ここでは教えを法としているので、以下「教え」とする)である「迹」は数が多い。どうしてただ「半字」「満字」「五時」だけであろうか。まさに知るべきである。教えは無量である。その無量の教えをここでは「一法」から「八法」までとして述べる。 まず「一法」について「開合」を明らかにする。「あらゆる仏国土の中にはただ一乗の法があるのみである」とある。この教えについて理解できなければ、全く…
『法華玄義』現代語訳 206 E.5.5.「通別料簡」 「料簡」にあたって、三つの項目を立てる。一つめはa.「通別について」であり、二つめはb.「益・不益」であり、三つめはc.「諸教について」である。 E.5.5.a.通別について 「五味の教え」と「半字」「満字」については、その教えが説かれた次第を個別に論じるならば、それぞれの時に限定される。一方、共通することを論じるならば、最初から最後までに共通する。『華厳経』の「頓教」と「乳味」については、個別的にはただ最初ということであり、共通的には最後まで通じる。このため『無量義経』に「次に般若の歴劫修行、華厳海空を説く」とある。『法華経』において仏…
『法華玄義』現代語訳 205 E.5.3.「五味半満相成」 もしただ「五味の教え」だけを論じるだけならば、なお「南師」の「方便」を得た説と同じである。もしただ「半字」「満字」だけならば、なお「北師」の「実」を得た説と同じである。ここで、「五味の教え」は「半満」を離れず、「半満」は「五味の教え」を離れないと明らかにする。「五味の教え」に「半満」があれば、すなわち「智慧」がある「方便」の解釈となる。「半満」に「五味の教え」があれば、「方便」がある「智慧」の解釈となる。「権」と「実」が共に遊戯することは、鳥の二つの翼のようである。また共に遊戯するといっても、収穫と蔵に収めることとがそろう。 『華厳経…
『法華玄義』現代語訳 204 E.5.2.c.「信解品」から引用する 「信解品」の須菩提と摩訶迦旃延と摩訶迦葉と摩訶目揵連の四大声聞が教えを理解したことの記述を引用して、この「教判」の次第を証明する。その経文に「父はいつもその子のことを思っていたが、子には会えずにいた。ある時期、一つの町に留まっていたが、その家は大いに富んで、多くの従者や大臣、また多くの司祭や王侯貴族や商人たちが取り巻いていた。その時、その子はさまよい歩いたあげく、父の家の前にたまたま来たが、すぐに走り去ってしまった。しかし、その長者である父は、その座っている椅子から子を見つけて、すぐにわが子だとわかり、人を遣わして、すぐに連…
『法華玄義』現代語訳 203 E.5.2.b.『無量義経』から引用する 経文に「私は仏の眼をもってすべての法を観じれば、説くべきではないと思った。それはなぜか。あらゆる衆生の能力や願いは同じではない。能力や願いが同じでないならば、さまざまに教えを説いても、文は同じで一つであっても、意義は別となり異なる。意義が異なるために、衆生の理解も異なる。理解が異なるために、得る法も、得る果も、得る道もまた異なる。最初に四諦を説き、声聞を求める人のために教えた。そして八億の諸天が降りて来て教えを聞き、悟りを求める心を起こした。中ごろには、あらゆる場所において、非常に深い十二因縁を説き、縁覚を求める人のために…
『法華玄義』現代語訳 202 E.5.2.三箇所からの文を引用して証する 三箇所とは、『法華経』の「方便品」と、『無量義経』と、『法華経』の「信解品」である。 E.5.2.a.「方便品」から引用する 「方便品」に「私が初めて道場に坐って、菩提樹を見て歩み、二十一日間の中において、このようなことを考えた。『私が得た智慧は、微妙であり最も第一である。衆生の能力は劣っている。どのようにして悟りに導くべきか。私はむしろ教えを説かず、速やかに涅槃に入るのがいいだろう』と。そして、過去の仏の行じるところの方便を思い、『私が今得たところの道も、三乗の教えとして説くべきだろう』と考えた」とある。「私が初めて道…
『法華玄義』現代語訳 201 E.5.教相を判別する 「教相」を判別するにあたって、六つの項目を立てる。一つめは大綱を挙げ、二つめは三箇所からの文を引用して証し、三つめは「五味半満相成」であり、四つめは「合不合」を明らかにし、五つめは「通別料簡」し、六つめは「増数」に教えを明らかにする。 E.5.1.大綱を挙げる この大綱を挙げるにあたって、三種ある。一つは「頓教」であり、二つは「漸教」であり、三つは「不定教」である。この三つの名称は昔から使われてきた用語と同じであるが、意義は異なる。 ここで、この三つの教えを解釈するにあたって、二種の解釈をする。一つはa.「教門」について解釈し、二つはb.「…
『法華玄義』現代語訳 200 E.4.研詳去取 「実」を詳しく調べることを「研」といい、「権」を詳しく調べることを「詳」といい、「法相」に適うために「去取(取捨選択のこと)」するのである。 もし「五時」をもって「教」を明らかにすれば、「五味」の「方便」の文を用いることができるが、一つの道の真実を失う。この文を用いることができるといっても、「五時」に対応する教えに分配する主旨を失う。この文は共通して用いるが、その対応は適宜に止めるべきである。 もし十二年の前に「有相教」を明らかにするといえば、これは小乗の「四門」の中の「有門」の一門を得ることができるが、他の「三門」を失う。なぜなら、「三蔵教」に…
『法華玄義』現代語訳 199 E.3.2.g.「五宗」の批判 「五宗」に対する批判は、その中の「四宗」に対して非難したことは同じである。もし『華厳経』を「法界宗」として、『大般涅槃経』と異なり、『涅槃経』は「法界宗」ではなく、ただ「常宗」と名付けると言うならば、『大般涅槃経』に「大般涅槃は諸仏の法界である」とある。どうして『涅槃経』が『華厳経』よりも劣っているのか。もし「常住」は「法界」ではなく、「法界」は「常住」でないならば、まさに「生滅」があるはずである。「常住」は「法界」でなければ、法を摂取し尽くすことはできない。これはみなあり得ないことである。『大品般若経』に「一法として法性の外に出る…
『法華玄義』現代語訳 198 E.3.2.「北地」の批判 E.3.2.a.「五時」の意義の批判 もし『提謂波利経(だいはりきょう・現在では中国で作られた偽経とされている)』に「五戒」「十善」を説くと言うならば、実際は、その経典にはただ「五戒」を明らかにするのみであり、「十善」を明らかにしてはいない。ただこれは人に対する教えであり、天に対する教えではない。たといこれを「人天教」とすれば、あらゆる経典ではみな「五戒」や「十善」は説いている。これらも「人天教」であろうか。また『提謂波利経』には、「五戒を諸仏の母とする。仏道を求めようと願えば、この経を読み、阿羅漢を求めようと願えば、この経を読め」とあ…
『法華玄義』現代語訳 197 E.3.1.d.「第五時教」の批判 「第五時教」が、釈迦入滅時の「仏身」の「常住」、衆生の「仏性」、一闡提の「作仏」を説いている、ということについての批判は以下の通りである。問う。成実宗の論師は、「二諦」によって理法を理解している。「第五時教」は「二諦」を摂取するのか。もし「二諦」を摂取するならば、他の経典と同じである。「第五時」より前の教えの「二諦」は「無常」ならば、釈迦入滅時の「仏身」の「二諦」はどうして「常住」となることができようか。釈迦入滅時の「仏身」は「二諦」を出ないで、「別教」の理法を照らし、「別教」の「惑」を破って、「常住」であるとすることができれば…
『法華玄義』現代語訳 196 E.3.1.c.「褒貶抑揚教」の批判 これは「第三時」であり、七百阿僧祇(ななひゃくあそうぎ・『首楞厳三昧経』に釈迦の寿命がこのように記されている。阿僧祇も数えきれないほどの長い時間を指す)といっても、なおこれは「無常」であって、「常住」を明らかにしていない。ただ責めたり褒めたりするだけの教えである。 今、問う。『般若経』を説く時、あらゆる大弟子は、みな自らもその教えを説法する。願ってそれを受け取ったということではないが、すべて詳しく菩薩の法門を知る。どうして、小乗であることを叱られ、茫然として、何の言葉だかわからない、というようなことがあろうか。このために知る。…
『法華玄義』現代語訳 195 E.3.「難」を明らかにする 「難」を明らかにするにあたって、まず「南地」の「五時教」を批判する。その意義が成就しなければ、他の「四時教」と「三時教」も同じように破られるのである。 (注:あらゆる仏典は、歴史的釈迦一人の説ではない。したがって、すべての経典を統一した教判など、最初からあり得ない。最初から無理なことを中国仏教の諸論師は行なおうとしているわけであり、教判においては天台大師も同じである。教判そのものが成り立つわけがないのであるから、どの教判が正しく、どの教判が間違っているということはないのである。そのため、天台大師が他の論師の説を批判する内容が正しいとい…
『法華玄義』現代語訳 194 E.2.異解を出す 異なった解釈を挙げることにおいて、十種ある。いわゆる「南三北七(なんさんほくしち・天台大師当時、教判における十種の説が、揚子江流域の三人と、黄河流域の七人によって主張されていたことによる)」である。南北の地においては、共通して三種の「教相」を用いている。一つは「頓教」、二つは「漸教」、三つは「不定教」である。 『華厳経』は菩薩を教化するために、日の出の太陽がいきなり高山を照らすようであるため、「頓教」と名付ける。 「三蔵教」は小乗の人を教化するために、まず「半字(はんじ・円満でない偏った教え)」を教えるため、「有相教」と名付ける。その十二年の後…
『法華玄義』現代語訳 193 E.判教 もし他の経典を広めるに際し、その「教相」を明らかにしなくても、その意義において傷つくことはない。しかしもし『法華経』を広めるに際し、その教えを明らかにしなければ、文義に欠けてしまう。ただその聖なる意義は隠れており、教法はさらに難しい。前代の諸師は、あるいは優れた学者の説を継承し、あるいは思いに秘めた。その意義は非常に多様であり、どれが正しいものかわからない。しかし、意義は並び立つわけがなく、理法は二つあるわけがない。もし深い真理が隠されており、また経として成り立つならば、文字に記されて用いられるはずである。文もなく意義もなければ用いられるはずがない。南嶽…
『法華玄義』現代語訳 192 D.4.「四悉檀」に対する 「権実」の「二智」の「十用」は同じではない。すなわち同じ仏の説法は、衆生の能力に従ってそれぞれ理解される。「迹」の中の破廃は、「七方便」の人々に仏の知見を開かせる。「本」の中の破廃は、大河の砂の数ほどの菩薩が起こす疑いを断じ、道を進ませる。みなこれは「四悉檀」の意義をもって、衆生を成熟させる。 ここで、この「十用」をまとめて「四悉檀」とする。先に「迹門」をまとめ、次に「本門」をまとめる。 「迹門」をまた二つとする。さきに個別的にまとめ、次に共通してまとめる。 個別的とは、「開三顕一」「住三用一」「会三帰一」の三つは、「各各為人悉檀」に属…
『法華玄義』現代語訳 191 D.3.2.「本門」の「歴別」 「本門」の「用」の段階を分別するにあたって、十の項目を立てる。もし文の便宜を助けるならば、まさに「開近顕遠」と言うべきである。もし意義の便宜を取るならば、まさに「本迹」と言うべきである。「迹」を「近」とし、「本」を「遠」とするのみである。名称は異なっていても、意義は同じである。 十種の一つめはa.破迹顕本、二つめはb.廃迹顕本、三つめはc.開迹顕本、四つめはd.会迹顕本、五つめはe.住本顕本、六つめはf.住迹顕本、七つめはg.住非迹非本顕本、八つめはh.覆迹顕本、九つめはi.住迹用本、十はj.住本用迹である。 この意義は「本門」に共…
『法華玄義』現代語訳 190 D.3.「歴別」を明らかにする 「用」の段階を分別するにあたって、1.「迹門」と2.「本門」に分ける。 D.3.1.「迹門」の「歴別」 「迹門」の「用」の段階を分別するにあたって、十の項目を立てる。一つめはa.破三顕一、二つめはb.廃三顕一、三つめはc.開三顕一、四つめはd.会三顕一、五つめはe.住一顕一、六つめはf.住三顕一、七つめはg.住非三非一顕一、八つめはh.覆三顕一、九つめはi.住三用一、十はj.住一用三である。 この意義は「十妙」に共通している。それぞれの「十妙」の一つ一つの中に、みなこの十種の意義を備える。その意義はわかるであろう。 ここで、個別にこ…
『法華玄義』現代語訳 189 D.論用 「用(ゆう)」とは如来の「妙」の能力であり、『法華経』の優れた働きのことである。如来は「権」と「実」の二つの「智慧」をもって「妙」の能力とし、『法華経』は疑いを断じて信心を生じさせることをもって優れた働きとする。ただ二つの「智慧」は疑いを断じて信心を生じさせる。疑いを断じて信心を生じさせるのは二つの「智慧」による。人について、また法について述べ、またこの両方について述べるのみである。前に「宗」を明らかにしたが、「宗」と「体」について分別し、「宗」と「体」が混同されないようにした。 ここで「用」について述べるにあたって、「宗」と「用」について分別し、「宗」…
『法華玄義』現代語訳 188 C.5.「因果」を結成する 「因果」を結ぶことを述べるにあたって、二つの項目を立てる。一つめは「因果」を結び、二つめは「四句」をもって考察する。 C.5.1.「因果」を結ぶ そもそも経典に「因果」を説くことは、正しく共通して「三界」の中の「生身」と、「三界」の外の「法身」の修行者をして、利益を与えようとするためである。もし「開権顕実」するならば、中心的に「七方便」の「生身」の者でまだ道に入っていない者を入らせ、付随的に「生身」と「法身」の「二身」の者で、すでに入っている者をさらに進めさせる。もし仏の寿命が永遠であることを説けば、付随的に「生身」のまだ道に入っていな…
『法華玄義』現代語訳 187 C.3.あらゆる経典の同異を明らかにする あらゆる経典の「迹門」の「因果」については、あるものは『法華経』と同じで、あるものは異なる。「本門」の「因果」はすべて異なっている。 「迹門」の「因果」については、そもそも「実相」はすべてに通じて、あらゆる「体」を証明する。いったいどの経典が、この「実相」について「因果」を語らないことがあろうか。 『大品般若経』には、「非因非果」の「実相」を明らかにして、それを「体」とするが、ただ「因」を「宗」とするのみである。『般若経』の「空」は、まさしく「因」の意味である。このために「菩薩の心の中を般若と名付け、仏の心の中にあるものを…
『法華玄義』現代語訳 186 C.明宗 『法華玄義』の大きく分けた章のうちの第三章は、「明宗」である。「宗」とは、修行の重要な意味、「体」を顕わす大切な道である。家が保たれるための梁や柱のようなものであり、網を結ぶ大綱のようなものである。大綱を引っ張れば網の目が動き、梁が安定していれば、垂木が保たれる。「宗」を解釈するにあたって、五つの項目を立てる。一つめは、1.「宗」と「体」を分別し、二つめは、2.正しく「宗」を明らかにし、三つめは、3.あらゆる経典の同異を明らかにし、四つめは、4.「麁」と「妙」を明らかにし、五つめは、5.「因果」を結成する。 C.1.「宗」と「体」を分別する ある人が「宗…
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