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歴史好きの徒然日記 https://www.yamatotsurezure.com/

奈良県を中心とした街歩きやおすすめスイーツ、歴史の話題を書いてます。 城跡や城下町、古民家、遊郭、神社仏閣などの古跡に興味がある方は一度ご覧ください。 あと、奈良県(大和国)を中心にした歴史上の人物のご紹介もしていきます。

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2019/06/30

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  • 筒井順慶反撃の最前線となった中世城館・窪之庄城~上街道散歩(11)

    奈良市南郊の窪之庄城は戦国時代は筒井順慶と松永久秀の抗争で最前線となった城郭。 中世国人館城の土塁と堀が良好に残る貴重な城跡です。

  • 安産祈願の帯解地蔵と貴重な和算の算額・帯解界隈を歩く~上街道散歩(10)

    奈良市のJR帯解駅周辺には、帯解寺、龍象寺と安産祈願で信仰を集める帯解地蔵尊が二つあり、円満寺には奈良県内では5つしか残されていない貴重な和算の算額を見ることができます。 中世の街村をベースに近世に発展した帯解の注目スポットをご紹介します。

  • 南都攻防の重要拠点・今市城を歩く~上街道散歩(9)

    奈良市の今市城は奈良の戦国史を語る上で外せない重要な城郭。 城域は現在住宅地となっていますが各所に堀跡など城郭の痕跡が残っています。 今市城の歴史と現在の様子を紹介します。

  • 美しい天空の城塞環濠集落・竹之内環濠を歩く~上街道散歩(8)

    奈良県天理市の竹之内環濠集落は県内の環濠集落で最も高所にあり環濠越しの眺望がすばらしいスポットです。 戦国時代は城郭としても使用され、大和戦国史のターニングポイントとなる戦いもありました。 見所を含めて詳しくご紹介します。

  • 古墳を巧みに活用した中世環濠集落・萱生環濠を歩く~上街道散歩(7)

    奈良県天理市の萱生環濠集落は県下でも有数の古墳密集地帯にある環濠集落で、古墳の周濠を濠としたり墳丘を集落中央の神社とするなど集落防衛に地域の特性を大きく活用して独特の環濠風景を持つ集落です。

  • 美しき国宝本堂は中世建築の傑作・長弓寺~きたやまと散歩(3)

    奈良県生駒市上町の長弓寺は中世建築の傑作と評される国宝本堂で知る人ぞ知る名刹。 失われた三重塔の数奇な運命やかつての鎮守社にまつわる古代史ロマンを紹介します。

  • 二つの宮座が併存する高山八幡宮・無足人座と高山茶筌の発祥を考える~きたやまと散歩(2)

    奈良県生駒市高山町の高山八幡宮は重要文化財の本殿があり、かつての農民層による平座と茶筌師による無足人座という2つの宮座が併存する珍しい神社。 平座の後に発足した無足人座の歴史からは高山茶筌興隆の歴史が見えてきます。

  • 北和の有力国人・鷹山氏と奈良県最北の城・高山城~きたやまと散歩(1)

    大和国人ながら最盛期には南山城や河内、摂津にも影響力を持ち、畿内の戦国史に大きな足跡を残した鷹山氏と、鷹山氏が拠点とした現在生駒市北部の中世城郭・高山城を詳しく紹介する記事です。

  • ちゃんちゃん祭りの御旅所を巡る・大和神社(後編)~上街道散歩(6)

    奈良県天理市の古社・大和神社は境外の関連スポットも歴史のロマンと謎が詰まったエリアです。 毎年4月1日に行われる御渡り神事(ちゃんちゃん祭り)の御旅所を中心に紹介します。

  • 記紀神話から丹生川上神社、戦艦大和まで多くの「ゆかり」を持つ古社・大和神社(前編)~上街道散歩(5)

    天理市の大和神社は記紀神話の時代から近代にいたるまで、多くの所縁や逸話をもつ魅力的な神社です。 参拝したときに、より深く神社を味わっていただける由緒や歴史を詳しくご紹介します。

  • 伝説と文化財にあふれる山の辺の道の古刹・長岳寺~上街道散歩(4)

    平安時代から続く山の辺の道の古刹・長岳寺の紹介記事です。 長岳寺は平安・鎌倉時代から残る貴重な建築や仏像といった文化財だけでなく、血天井伝説や名刀伝説といった歴史ロマンあふれる伝承が残る名刹です。

  • 行基、忍性 二人の菩薩が眠る寺・竹林寺~生駒谷散歩(2)

    奈良県生駒市有里町の文殊山にある竹林寺は行基と忍性という民衆教化と救済の先駆的活躍をした二人の高僧の墓があります。 鎌倉時代に復興されたものの室町、江戸と衰え明治には一時廃寺となりましたが、1997年に再建されました。

  • 往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社)を参詣する。近世以前の生駒の歴史・生駒谷散歩(1)

    新興住宅地として戦後急速に発展したイメージが強い奈良県生駒市ですが、創建から1300年以上の歴史を持つ古社・往馬大社が鎮座しています。 生駒の町の歴史的背景の土台となる往馬大社とこの社を氏神としてきた中世以来の生駒谷十七郷の歴史について紹介します。

  • 江戸時代の大和と大和国人の末裔たち~大和武士の興亡(21)

    大坂夏の陣が終わった後、江戸時代に大和で大名、旗本として残った旧大和国人は柳生氏と中坊氏だけでした。 江戸時代、新たな領主として大和に入った大名や天領の支配、そして大和を去った国人たちのその後を紹介します。

  • 大和国人たちの運命を決した関ヶ原の戦いと大坂の陣~大和武士の興亡(20)

    筒井氏の伊賀転封によって大和国は中世以来の国人支配が解体され、近世武家政権による支配が始まります。 関ヶ原の戦い、大坂夏の陣と戦国の最末期に起きた大戦で、大和国人たちはどのような活躍を見せたのかを紹介します。

  • 大和武士の黄昏。豊臣政権下の大和国衆と筒井氏の伊賀転封~大和武士の興亡(19)

    筒井順慶が織田信長、豊臣秀吉に臣従することで大和では興福寺を中心とした中世的支配が崩壊し、近世武家政権による支配が確立する。 順慶死後、筒井氏は伊賀に転封され大和には豊臣秀長が入り豊臣政権による大和直轄化が進行して中世以来の大和国人たちは歴史の渦の中に飲み込まれていくことになる。

  • 古代ロマンと江戸の面影が残る伊勢本街道の宿場町、榛原・萩原宿~おすすめ散歩スポット

    現在奈良県宇陀市の中心市街となっている近鉄榛原駅周辺は、江戸時代まで奈良、京都、大坂と伊勢を結ぶ伊勢本街道の宿場町・萩原宿として栄えました。 現在に残る旧街道の様子と往時の賑わいを伝える痕跡を紹介します。

  • 筒井氏の近世大名化と中世大和の終焉~大和武士の興亡(18)

    松永久秀滅亡後、知行宛行権を除く広範な大和の支配権を織田信長から認められた筒井順慶は、信長政権のもとで急速に近世大名への道を歩みます。 順慶によって大和の中世は終焉を迎えることになるのです。

  • 思ってたんと違う(16)~1964年阪神対南海の関西ダービーは閑古鳥が鳴いていた

    59年ぶりに2回目の関西ダービーとなった2023年の日本シリーズ。 関西のメディアを中心に大きな盛り上がりを見せていますが、1964年に阪神と南海が戦った日本シリーズは、日本シリーズ史上最低の観客動員を記録するほど集客面で苦戦しました。 その原因はなんだったのかご紹介します。

  • 筒井順慶の大和制覇~大和武士の興亡(17)

    大和で1559年から続く筒井順慶と松永久秀の抗争は1571年辰市城の戦いで順慶が久秀に勝利したことで大きく筒井氏の優勢に傾きます。 織田信長が大和支配で順慶を重用する一方、劣勢の久秀は1577年、居城・信貴山城に籠って信長に反旗を翻しました。

  • 筒井順慶、松永久秀の激闘~大和武士の興亡(16)

    1564年から70年にかけ、大和で繰り広げられた筒井順慶と松永久秀の一進一退の攻防を紹介します。 三好長慶の死から大きく畿内の情勢は動き出し、三好家中で孤立した久秀に順慶の反転攻勢が始まります。

  • 松永久秀の大和乱入~大和武士の興亡(15)

    1550(天文19)年に大和を統一した筒井順昭が28歳の若さで死去すると、2歳の遺児・順慶が当主となります。 一族・家臣の支えで筒井氏による大和の平和は守られましたが、1559年松永久秀による大和侵攻でその平和は打ち破られました。

  • 戦国大和の覇者・筒井順昭~大和武士の興亡(14)

    木沢長政の死後、大和で台頭したのが筒井順昭でした。順昭は長政派の残党を掃討しながら勢力を強め、元々同格の有力国人だった箸尾氏、十市氏、そして最大のライバル越智氏を降してわずかか4年で大和統一を果たします。 順昭の大和統一事業と最期を紹介します。

  • 木沢長政の大和侵攻と歌人大名・十市遠忠の奮戦~大和武士の興亡(13)

    享禄・天文の畿内の混乱から下剋上を果たした木沢長政は、信貴山城を築いて大和への侵攻を開始する。 筒井氏を始め多くの国人たちが長政に従う中、十市遠忠は龍王山城を拠点に敢然と立ち向かい、十市氏を大和有数の戦国大名へと成長させた。 また十市遠忠は中世を代表する歌人であり、その奮戦と最期を紹介する。

  • 柳本賢治の大和侵攻と天文一揆~大和武士の興亡(12)

    明応の政変以来続く他国衆による大和侵攻の流れの中、1528年には筒井と越智の戦いで混乱する大和へ柳本賢治による大和乱入、1532年には一向一揆が相次いで勃発。 筒井、越智を中心とした大和国人の動向を畿内の政治情勢と併せて紹介します。

  • 大和国人一揆崩壊と薬師寺炎上~大和武士の興亡(11)

    永正の錯乱以降の混乱で細川京兆家家督を握った細川高国も、家中の混乱を宿敵・細川晴元、三好元長主従に衝かれて京都を追われます。 畿内が混乱する中、筒井順興は越智家頼との同盟を破棄して再び筒井と越智の抗争が再燃。 再び大和の争乱が激しくなる中、薬師寺の西塔が兵火に巻き込まれて炎上します。

  • 両細川の乱と戦国大和の争乱~大和武士の興亡(10)

    永正の錯乱で細川政元が暗殺され勃発した細川高国と細川澄元の細川京兆家家督を巡る争いは幕府と畿内全域を巻き込む争乱へと発展します。 激動の畿内の戦国史を大和武士の活躍を中心に紹介します。

  • 細川京兆家の分裂と大和国人一揆の終焉~大和武士の興亡(9)

    永正の錯乱により赤沢朝経が死亡すると一度は領地を追われた大和国人一揆は故地に戻ります。 細川氏の分裂によって混迷を極める畿内の戦乱に巻き込まれていく大和国人たちの活躍を紹介します。

  • 大和国人一揆・赤沢朝経の猛威~大和武士の興亡(8)

    応仁の乱から明応の政変と戦国の争乱が進む中、ついに大和の領地が他国衆に知行される事態が発生します。 1499年に畠山尚順に与する筒井党を討伐するため大和へ乱入した細川政元家臣の赤沢朝経は北和を席巻して寺社を焼き、反抗する国人の土地を自領としました。 この他国衆による大和侵略を前に大和の国人たちは、筒井党、越智党に分かれて多年にわたる対立を乗り越え、興福寺・春日社を精神的紐帯として一揆を結んで立ち向かいました。

  • 思ってたんと違う(15)奈良県を襲った空襲~奈良も戦災は免れなかった!?

    「奈良や京都は文化財が多いので空襲を免れた」という言説が戦後まことしやかに語られましたが、奈良は被害のあったものだけでも15回の空襲を受け、多数の犠牲者が出ました。 奈良を襲った空襲とはどのようなものだったかを紹介します。

  • 明応の政変と越智氏の没落~大和武士の興亡(7)

    応仁の乱後、将軍・足利義尚、大御所・足利義政が相次いで死去すると、足利義視の嫡男・義材が11代将軍となります。 しかし新将軍・義材は幕府の実力者である日野富子、細川政元、伊勢貞宗らの支持を得られず、河内へ親征中にクーデターを起こされ、将軍の座を追われました。 この明応の政変で大和では政元らに加担した越智氏、古市氏が全盛期を迎えましたが、その栄光は長続きしませんでした。

  • 丹波市界隈・天理市中心街を歩く~上街道散歩(3)

    現在の奈良県天理市の中心地域は昭和29年の合併前までは丹波市町という町でした。 丹波市は中世以来、上街道沿いに発達した宿場町で、江戸時代は伊勢藤堂家の宿駅として整備され、山辺地域の中心的存在でした。 現在も江戸時代以来の町屋が残るかつての中心市街である丹波市の町と天理駅から天理教本部前に続く現在の中心街の様子を紹介します。

  • 歴史・地域情報の紹介ブログ記事作成でおすすめ便利サイト

    奈良県内を中心に地域の歴史や現在の情報を中心に発信してきた当ブログですが、お陰様で2023年7月9日で4周年を迎えました。 当ブログの記事は、実際に現地を足を運んで取材して書くことも多いですが、資料や絵図などを調べたり、集めたりすることも大変多いです。 今回は、筆者が記事作成するうえで利用している、おすすめの調べものや引用に便利なサイトをご紹介します。 国立国会図書館デジタルコレクション 国土地理院HP・地理院地図 奈良県立図書情報館・まほろばデジタルライブラリー 奈良盆地歴史地理データベース・小字データベース さいごに 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館で保存・収取しているデ…

  • 筒井党の没落と山城国一揆~大和武士の興亡(6)

    1477(文明9)年11月、応仁元年以来11年続いた応仁の乱は、外形上東軍・幕府方の勝利で終結し、京都での戦闘は終結しました。 しかし、大乱以前から続く畠山義就と政長による家督争いはなおも続き、京都を去った義就は幕府に反乱したまま、河内、大和を実力で切り取ります。 大和では西軍だった義就方の国人、越智氏、古市氏が勝利を収め東軍に付いた筒井氏、十市氏は没落しました。 畠山氏の内訌は乱後も激しく続き、その渦の中に大和の国人衆も巻き込まれます。 主戦場は大和そして南山城へと移り、戦いは意外な形で収束することになりました。

  • 古市城~風流を愛した国人・古市氏の夢の跡を歩く

    古市城は中世奈良で有力だった5つの国人の一、古市氏の居城。 その城域は南北400m以上に及ぶ広大なものという説がある一方、それほどの者ではなかったという説もあり、謎が多い城跡です。 現在の城跡の様子を発掘成果や学説なども交えながら紹介します。

  • 応仁の乱・激戦地の大和~大和武士の興亡(5)

    1467(応仁元)年5月、御霊合戦で山名宗全によって面目をつぶされた細川勝元はついに反撃を開始して応仁の乱が始まります。 将軍・足利義政は停戦を働きかけますが、宗全と勝元の幕府における主導権争いに、畠山氏、斯波氏の内訌、日明貿易を巡る大内氏と細川氏の対立に果ては将軍継嗣問題も複雑に絡み、大乱は解決の意図具とを見いだせないまま長期化しました。 その乱の開始から終結まで、大乱の渦中に巻き込まれた大和武士たちの活躍を中心に詳しく紹介します。

  • 宇陀松山~旧街道沿いの町並み散歩

    奈良県宇陀市の宇陀松山地区は、江戸から昭和にかけて建てられた町屋が数多く残り、歴史的景観を体感できる町です。 今井町、五條新町と並んで重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている宇陀松山の町を詳しく紹介します。

  • 大和の戦乱と応仁の乱のはじまり~大和武士の興亡(4)

    応仁の乱の大きな原因となった畠山氏家督を巡る争いは、南北朝争乱以降の抗争の図式が残る大和を中心に起こりました。 大和国内での戦乱を中心に応仁の乱に至る経過をわかりやすく解説します。

  • 高原にそびえた大和第三の近世城郭・宇陀松山城~破却された幻の城郭を歩く

    奈良県宇陀市の宇陀松山城は、奈良県下では郡山城、高取城とならぶ近世城郭でした。 もとは在地国人・秋山氏の詰城でしたが、伊勢街道を抑える豊臣政権の拠点として近世城郭として大規模拡張されました。 しかし、1615年に大坂の役で豊臣方への内通を疑われた城主が改易されて廃城となり、幕府の命を受けた小堀遠州によって城跡は破却を受け再建されることはありませんでした。 現在は大規模な破却の跡が生々しい城跡として残っており、近年登城ルートも整備が進み、多くの人が訪れやすい城跡になってます。

  • 応仁の乱への道~大和武士の興亡(3)

    大和永享の乱は幕府方筒井氏の勝利で終結しました。 しかし乱後間もなく嘉吉の変で将軍・足利義教が暗殺されると、義教によって失脚していた各地の実力者が復活。 大和でも筒井氏出身の成身院光宣と一時将軍・義教によって失脚していた経覚が、興福寺の権益を巡って10年以上争うことになりました。

  • 上街道沿いの幻の中世城跡・井戸城と別所城~上街道散歩(2)

    戦国時代、筒井氏の重臣であった井戸氏が本拠とした井戸城は、幾度も大和の戦国史における重要な戦いの舞台となり、史料上に頻出する城郭でありながら、廃城後どこにあったのか現在では判然としない幻の城郭になっています。 その有力な候補地となる奈良県天理市の二つの城跡を散策しながら紹介します。

  • 南北朝の争乱・興福寺支配の解体と大和永享の乱~大和武士の興亡(2)

    鎌倉時代末期から南北朝時代を経て興福寺の支配を脱していく大和武士の姿をご紹介します。 鎌倉時代末から大和国内では興福寺の両門跡寺院の争いが激化して寺門の権威が失墜する一方で、南北朝の争乱を通じて衆徒・国民たちは興福寺からの自立し、幕府・北朝方の筒井氏と南朝方の越智氏が二大勢力として成長。 以後、両氏の対立を軸に大和の中世動乱は新興することになります。 南北朝の和議が成立した15世紀初頭には幕府の介入なしに大和国内の争乱が鎮まらなくなり、大御所足利義持の死を契機に幕政に動揺が走る中、大和では10年にわたる大乱・大和永享の乱が勃発します。

  • なぜ興福寺は中世大和の支配者となったのか~大和武士の興亡(1)

    奈良県域の大和国は中世興福寺が治めたことで知られ、鎌倉、室町を通じて守護が置かれませんでした。 しかし、他国同様平安時代の後期には武士が出現しており、大和の武士たちは興福寺によって組織化されていきました。 なぜ興福寺が中世大和の支配権を握ったか、大和の武士はどのように興福寺に組織されていったか、他国とはちょっと違った中世武士の姿をご紹介します。

  • 奈良県下最大の花街・生駒新地とその跡を辿る

    奈良県生駒市の近鉄生駒駅から宝山寺門前に延びる参道は、かつて生駒新地と呼ばれた巨大花街でした。 現在は宝山寺門前をのぞいて新地の趣は失われましたが、生駒新地の歴史とかつての旧跡をご紹介します。

  • 古社と古道が交差する町・櫟本を散歩

    奈良県天理市櫟本町は古代官道に由来する上街道と北の横大路が交差し、名張と大和国を結んだ幹線道・高瀬街道が交差する市場町として栄えました。 旧街道沿いにはかつての市場町の風情が残り、和爾下神社、在原神社といった古社があり、散歩を楽しむスポットがたくさんあります。

  • 奈良県の怪異・妖怪の伝承(10)「きつね」と「たぬき」

    全国的にも「きつね」や「たぬき」にまつわる怪異譚は非常に多く見られます。 奈良県内にも多くの伝承が残りますが、その中から以下の伝承を紹介します。 ・古女郎大明神 ・おきよ橋 ・安村坂の狐 ・きつねの井戸 ・たか坊主 ・光慶寺の狸 ・北林の狸

  • 椿井文書~奥深い偽文書の世界

    椿井文書は江戸時代後期に山城国相楽郡の椿井政隆が作成したとされる一連の偽文書です。 流布した範囲は京都府はもちろん滋賀県、大阪府、奈良県や三重県の伊賀地方にまで及び、中世文書として自治体史に引用されたものも少なくありません。 椿井文書の特徴や流布した要因などをご紹介します。

  • 筒井氏の戦国期拠点城郭・椿尾上城~奈良県下屈指の中世石垣遺構を残す城

    奈良市北椿尾町の城山山上にある椿尾上城は、筒井氏の山城で、筒井城を松永久秀に奪われた筒井順慶は、この城を拠点として故地回復を図り、久秀と熾烈な抗争を繰り広げた。 元は戦時の詰め城として築城されたが、順昭の時代から政庁機能を持つ戦国期拠点城郭として拡張され、順慶の時代には石垣を多用した巨大城郭に改修された。

  • 奈良県の怪異・妖怪の伝承(9)「幽霊」

    各地に伝わる怪異譚で定番の一つが幽霊にまつわるものです。 奈良県内でも各地に幽霊にまつわる伝承が残されています。 奈良らしく歴史にまつわるものから、一風変わった独特のものもあり、「大鹿の怨霊」など怖ろしい話ながら「鹿」の亡霊が登場するのは奈良らしいと、少し頬が緩むものもあります。

  • 唐院城~巨大古墳と環濠集落(唐院環濠)

    奈良県川西町の唐院は中世城郭の唐院城をルーツとする環濠集落です。 城跡一帯は主に畑地となっていますが、堀跡の道路や南側水路、主郭跡に残された祠が、往時の城郭の姿を微かにうかがうことができます。 集落は下街道と丹波市街道の辻となっており巨大前方後円墳の島の山古墳や延喜式内社の比売久波神社など散策の見所も多くある集落です。

  • 大和郡山のもうひとつの城下町・小泉城(小泉陣屋)の歩き方

    奈良県大和郡山市の小泉城(小泉陣屋)は、江戸時代の陣屋としては規模が大きく、二重の堀と複雑な枡形まで備えた城郭と言って差支えのないものでした。 明治以降、白は住宅地の中に飲み込まれた城跡の見所をご紹介していきます。

  • 太子道沿いの屏風環濠~洪水多発地帯の環濠

    奈良県三宅町の屏風環濠は、太子道沿いの環濠集落で、聖徳太子由来の旧跡が残り、その集落名も聖徳太子に由来する。 鎌倉時代の律僧・忍性の出生地であり、中世以来の町割りと環濠を残している。

  • 結崎環濠散歩(2)歴史ある古社と惣村の町並み

    奈良県川西町の中心市街である結崎は、県内でも環濠集落が集中している地域で、井戸、辻、市場、中村の4つの集落が役場周辺にあります。 市場集落には延喜式内社である糸井神社が鎮座し、その神宮寺であった和福寺に祀られていた薬師如来や平安時代作とされる観音菩薩立像が、住民の方々によって今も守られています。 中村集落は一部に環濠跡の水路を残し、かつての環濠集落の町並みを今も見ることができます。

  • 結崎環濠散歩(1)~美しい水堀を残す井戸環濠・辻環濠

    奈良県川西町の結崎環濠は、井戸、辻、中村の3つの環濠集落にわかれます。 井戸環濠、辻環濠は中世国人領主の居館を囲んだ濠に由来する環濠集落で、埋め立てられた濠あるものの、一部が良好な形で残り往時の姿を偲ばせます。

  • 喜連環濠(喜連城)・大阪屈指の難読地名・喜連の消えた環濠跡を歩く

    大阪市平野区にある旧喜連環濠地区は、中世以来の環濠集落で、高度経済成長期に集落の四方を囲んだ濠は失われましたが、現在もかつての環濠の出入り口に祀られた地蔵尊と中世以来の町割りが残ります。 また、江戸~明治にかけての古民家が多く残り、大阪市内屈指の集中度で、市内では大変貴重なスポットです。

  • 思ってたんと違う(14)血統より家の利益存続を重視した日本の「家」

    「家」というと、男系によって家名が存続されていく制度というイメージがありますが、日本では古来より家名の存続において男子の血統は必ずしも重視されず、他氏からの養子縁組が、貴族・武士から庶民に至るまで頻繁に行われてきました。 しかし例外もあり、天皇家や足利、徳川将軍家では男系継承が徹底されました。その理由を考察し、「同性婚」や「女系天皇」の問題について考えていきます。

  • 奈良の城郭~知られざる城跡ホットスポット・奈良県

    奈良県は中世から近世まで、時代ごとに特徴的な城郭が集中するホットスポットです。 およそ560あるとされる県内の城跡のうち、見学がしやすくおすすめの城跡を、日本の城郭発展の概要とともに紹介します。

  • 平群谷の謎多き山城~椿井城

    奈良県平群町の椿井城跡は矢田丘陵南西の尾根上に築かれた山城跡で、その周辺や内部を紹介します。 築城年代は15世紀と見られ16世紀に大幅な拡張・改修が加えられたと見られます。 城主の名や、そもそも城がどのような名で呼ばれていたかも確かな史料がなく、かつては島左近の城という説が巷間流布されましたが、近年では松永氏による拡張・修築の可能性が示されています。

  • 保津環濠集落~その環濠は防衛対策か洪水対策か?

    奈良県田原本町の保津環濠集落は集落を取り囲んでいた水堀が水路としてほぼ完存します。保津環濠集落の形成については灌漑、洪水対策とする説も有力ですが、出入り口の形や横矢掛りを設けた構造から、外敵に対する防衛対策が集落形成の背景にあったと考えられます。

  • 平野郷散歩(4)昭和レトロ漂う平野本町通、全興寺界隈

    大阪市平野区の中心市街は、江戸時代まで平野郷と呼ばれた環濠集落です。 戦後、平野の中心的な商店街となった本町通には昭和レトロなアーケード街がある他、平野郷発祥の地である全興寺は、気軽に楽しく仏教の世界を体験できる施設がいくつもある楽しいスポットです。

  • 平野郷散歩(3)大念佛寺と商家の町屋、平野南海商店街界隈

    大阪市平野区の中心市街はかつて平野郷と呼ばれ、大阪府内で最も古い歴史を持つ集落の一つです。 町内のそこかしこに長い歴史を感じるスポットがあって、散歩がホントに楽しい町。今回は平野郷の西部を中心に大念佛寺や江戸時代まで町の繁栄を支えた商家の町並み、廃線となった南海平野線の駅前周辺を紹介します。

  • 平野郷散歩(2)舟入と大阪初の民間教育機関・含翠堂、奈良街道界隈

    大阪市平野区の中心街区はかつて巨大な環濠に囲まれた自治都市で、大阪市内では最も古くから集住が始まった町の一つです。 江戸時代の木綿産業による繁栄を偲ばせる旧舟入跡、大坂で最初の民間教育機関・含翠堂と奈良街道の沿いの町並みなどの旧跡をご紹介します。

  • 平野郷散歩(1)環濠都市の歴史と杭全神社界隈を巡る

    大阪市平野区の中心街区は江戸時代まで平野郷と呼ばれ、大阪市内で最も古くから集落が形成された場所です。 中世には防衛のため集落全体を水堀で囲んだ環濠集落で、郷民による自治都市でした。 江戸時代も商業都市として繁栄し、今は堀はほとんど失われたものの、古い町並みと環濠の痕跡、歴史ある古社寺と見どころ満載のお散歩スポットです。 今回は平野郷の歴史概略と散歩が一層楽しくなる往時の痕跡などの情報を杭全神社界隈を中心にご紹介します。

  • 思ってたんと違う(13)どうする家康!?誤算だらけの関ヶ原の戦い。

    2023年大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が、その勝利によって天下の覇権を握った関ヶ原の戦いは、司馬遼太郎の『関ヶ原』などの小説やドラマなどの影響もあり、従来、家康必勝の戦いとしてイメージされることも多い合戦です。 しかし、近年発見された史料で浮き彫りになった事実を追うと、石田三成の挙兵から関ヶ原での合戦に至る経過は家康の思惑を大きく外れ、関ヶ原の戦いは家康の人生最大級の危機だったことが浮き彫りになります。巷間伝わる従来のイメージと、その実情を見比べながら、合戦に至る経過をご紹介していきましょう。

  • 平安きってのモテ男・在原業平ゆかりの高安環濠集落

    奈良県斑鳩町の高安環濠集落は、在原業平の『高安通い伝説』ゆかりの環濠集落。集落内の勝林寺は聖徳太子ゆかりの古刹であった高安寺(現在廃寺)の名跡と寺宝を継ぎ、所有する3つの仏像が国の重要文化財指定を受けています。重文の仏像3体は現在奈良国立博物館に寄託され、タイミングが良ければなら仏像館で鑑賞できます。

  • 奈良盆地一望の絶景を誇る巨大中世山城・龍王山城

    奈良県天理市の龍王山城は奈良県下最大級の中世山城です。 北城、南城の二つの曲輪群からなる巨城で、北城は複雑な曲輪の構造や堀切、石垣などの遺構が残り、南城本丸は龍王山山頂で奈良盆地一望の絶景スポット。 大和の有力国人・十市氏の栄枯盛衰の舞台となった城郭で、「じゃんじゃん火」の伝承は十市氏の悲劇的な衰亡にまつわる物語を今に伝えます。

  • 山城国一揆の拠点・上狛環濠集落(大里環濠)と茶問屋街(福寿園)・旧山城町中心街区を巡る

    京都府木津川市のJR上狛駅西側に広がる旧山城町中心地域は、中世の環濠集落と幕末以降発展した茶屋問屋街の町並みが残ります。 上狛環濠集落は京都府下最大級の環濠集落で、一部の環濠は農業水路として両行に残ります。環濠集落南側の茶問屋街には、幕末からの古い商家の町並みと、「伊右衛門」ブランドで有名な福寿園本店があります。

  • 戦国大和の最前線~片岡城~AR(拡張現実)で在りし日の城郭の姿を偲ぶ

    奈良県上牧町の片岡城跡は、城域のほとんどが民有地で、以前は立ち入りできる場所がほとんどなく表面観察できる遺構も限られていましたが、近年城跡が整備され、主郭にも立ち入ることができるようになりました。 城跡には片岡城の往時の姿をCGで再現したAR(拡張現実)を手持ちのスマホで体験できる場所も設置されるなど、現在は失われた戦国時代の片岡城の姿を実地で感じることのできる整備も進められていました。

  • 戦国大和の覇者、筒井順慶の居城・筒井城の歩き方

    奈良県大和郡山市にあった筒井城は中世大和の主要な国人領主だった筒井氏の居城で、奈良盆地の中世城郭としては最大規模を誇ります。 廃城後、城跡は市街地の中に埋もれていきましたが、内堀や外堀の一部は残り、かつての堀跡は多くが水路に形を変え残されていますので、筒井城のおすすめの探訪ルートをご紹介します。

  • 竜田越え奈良街道・西和最大の宿場町、龍田。旧街道沿いの町並みと龍田神社、中井正清ゆかりの古刹とぽっくり寺・吉田寺を巡る

    奈良県斑鳩町にある龍田神社を中心とする龍田の町は、竜田越え奈良街道に面する市場町として鎌倉時代から栄えた歴史ある地域です。 江戸時代からの町屋が残る町並みや徳川家康お抱えの大工棟梁となった中井正清ゆかりの寺院や、ぽっくり往生の寺など見どころも多く、観光地化されていませんが、散策にはもってこいの地域です。

  • 紅葉の名所・竜田公園を外堀とした幻の城郭・龍田城(龍田陣屋)

    奈良県斑鳩町の紅葉の名所・竜田公園の東側一帯は、「賤ケ岳の七本鎗」の一人で、豊臣秀頼の家老であった片桐且元の居城・龍田城がありました。現在は城地のほとんどが住宅地となり、遺構は内堀の一部しか残されていませんが、古絵図と見比べながら現地を歩くと、往時の道筋や地形がそのまま残されており、幻となった城郭の姿を鮮やかに思い浮かべることができます。

  • 思ってたんと違う(12)どうする家康!?神君伊賀越え~決死の逃避行で大和を越えた家康

    2023年大河ドラマの「どうする家康」でも、山場エピソードの一つとなるのが、本能寺の変後に堺から領国三河への決死の逃避行「神君伊賀越え」で、徳川家康人生最大の苦難の一つとされます。 堺を発った家康は山城から信楽、伊賀と経由して伊勢に抜けたというのが通説ですが、大和を経由したという異説が古くからありました。昭和40年代に一度は妄説と退けられた大和経由説ですが平成29年歴史作家の上島秀友氏によって、家康が発給した大和越えの感状という史料の存在が発表され、再び検討に値する異説として脚光を浴びています。

  • 祝・国史跡指定!紅葉色づく晩秋の郡山城城跡を巡る。

    2022年11月に国史跡に指定された郡山城跡は、桜の名所として有名ですが、晩秋、柳沢文庫付近を中心に紅葉が鮮やかに色づきます。 郡山城の内郭を中心に見どころをご紹介します。

  • 多武峰街道、大和鯖街道の終着地と桜井発祥の地を歩く~桜井まち散歩2

    奈良県桜井市の札の辻、多武峰街道沿いに桜井魚市場の石碑があります。江戸時代、遠く熊野灘で水揚げされた鯖は大和の鯖街道を通って桜井まで運ばれ、三輪そうめんと並ぶ桜井の看板商品でした。多武峰街道沿いや桜井の地名由来の旧跡をご紹介します。

  • 江戸~昭和初期の町屋・建築が残る旧伊勢街道とアーケード街~桜井まち散歩1

    今回ご紹介する奈良県桜井市の中心市街は江戸時代にお伊勢参りで賑わった伊勢街道の宿場町でした。今も往時をしのぶ町屋をはじめとした江戸~昭和初期の建物や街道沿いの宿場町に特徴的な道筋がのこります。また、町内寺院には明治の廃仏毀釈で姿を消した興福寺大乗院の貴重な移築建築が現存して、見どころある散歩スポットです。

  • 思ってたんと違う(11)「洞ヶ峠の順慶」にあらず。山崎の戦いのキャスティング・ボートを握った男・筒井順慶

    筒井順慶は戦国大和を代表する戦国武将ですが、一般的には「洞ヶ峠の順慶」として有名です。山崎の戦いでは日和見を決め込んで後日秀吉に叱責された優柔不断な武将というイメージが巷間流布していますが、実は山崎の戦いの結果に重大な影響を与える重要な立場にあった武将でした。

  • 中世大和一向宗の拠点・吉野。蓮如創建の飯貝御坊・本善寺は美しい桜と近世真宗建築の宝庫

    奈良県吉野町の飯貝御坊・本善寺は中世以来、吉野を中心とした本願寺教団の布教拠点だっただけでなく、大和国では一家衆寺院として最高の寺格を持って崇敬を集めました。境内には近世浄土真宗建築の特徴を伝える堂宇が建ち並び、春境内を彩る「懐桜」は大変美しい名木です。

  • 思ってたんと違う(10)ヤクザ、右翼~近代議会政治と暴力はいかに結びついたか~政治と暴力2

    現在では議会政治の場で公然と暴力を振るうことは考えられませんが、かつては議会政治において暴力は密接な関係にありました。吉田磯吉など現在なら暴力団の首領といえる人物が国会議員となり、政党政治家が博徒を糾合して公然と右翼団体を設立することもあったのです。現在もなお安倍元首相の殺害事件で明らかなように、暴力は厳然として政治へのインパクトを持っているのです。

  • 中世大和における一向宗の一大拠点・吉野。下市御坊・願行寺は蓮如ゆかりの古刹

    奈良県下市町の下市御坊・願行寺は奈良県で二つしか現存しない室町時代の枯山水の庭園のほか、室町から江戸中期までの建築が現存する浄土真宗寺院で、穴場の散策スポットです。 中世の本願寺教団が大和国で最初に教線を伸ばした吉野。その拠点寺院の一つが願行寺でした。その歴史や現在の境内の様子をご紹介します。

  • 思ってたんと違う(9)志士、ヤクザ、壮士、院外団~日本の政治と暴力の切っても切れない関係はどのように作られたか~政治と暴力1

    コンプライアンスが徹底され全国各地に暴排条例が作られている昨今、ヤクザなどの暴力集団が公然と政治にかかわることは現在考えられないことになています。 しかし、最近まで日本の政治と暴力は強く結びつき、それは日本の議会政治の発展とともにありました。幕末の志士から近代のヤクザ、博徒、壮士、そして院外団らがどのように政治に影響を与え関係を深めたのかを解き明かします。

  • 般若寺~15万本のコスモスが境内を埋める奈良坂のコスモス寺は花と歴史があふれる場所

    お花の寺として有名な般若寺は初夏と秋のコスモスがとくに有名でコスモス寺の愛称で親しまれています。境内には国宝の楼門、重文の十三重宝塔があり境内に咲き誇るコスモスと堂宇のコントラストが美しいだけでなく、相次ぐ戦乱に晒され、平重衡、護良親王所縁のお寺でもあります。コンパクトな境内に花と歴史が詰まったお寺、般若寺の拝観をより深く楽しめる情報をお届けします。

  • 奈良きたまち散歩・多聞山城や話題のスポット旧奈良監獄など見所いっぱいの奈良坂エリアを散策

    皆さんこんにちは。 奈良市内で散策エリアといえば、興福寺の門前町だった「ならまち」エリアが有名ですが、現存する唯一の明治五大監獄、旧奈良監獄が重要文化財に指定され、人気ホテルチェーンの星野リゾートによって日本初の監獄ホテルになる計画が進んでいることもあり、最近「奈良きたまち」が新たな散策スポットとして注目されつつあります。 今回、奈良きたまちの中でも、旧奈良街道が走る奈良坂エリアを中心に散策してきましたので、ご紹介します。 旧奈良監獄以外にも、城跡あり、寺院ありと見ごたえ一杯のエリアでした。 奈良きたまち、奈良坂とは ロートフィールド奈良(鴻ノ池運動公園) 多聞山城跡 北山十八間戸~般若坂界隈…

  • 知られざる島左近ゆかりの城跡スポット・平群中央公園(2)西宮城

    皆さんこんにちは。 二つの中世城郭が敷地内に含まれる都市公園・平群中央公園。 前回は公園内の城跡のひとつ、下垣内城をご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 今回は公園内のもう一つの城跡、西宮城をご紹介します。 馴染み深いご近所の児童公園が、実は有名な戦国武将ゆかりの城跡。 西宮城跡は、そんなことが実際に体感できる場所になります。 妻の実家のすぐそばにある公園で、子どもを連れて実家に帰った際によく遊びに行く場所なんですが、今回は城跡巡りも兼ねて訪れました。 西宮城とは 現在の城跡 おすすめの宿 西宮城とは 西宮城の場所はこちら。 近鉄生駒線の平群駅と竜田川駅の中間付近に…

  • 知られざる島左近ゆかりの城跡スポット・平群中央公園(1)下垣内城

    皆さんこんにちは。 奈良県平群町の平群中央公園は、多目的広場やテニスコートの他、ジョギングコースや巨大スライダーが目玉遊具の冒険広場など、大人から子どもまで楽しめる平群町民にはお馴染みの公園です。 実はこちらの公園、その敷地内に中世城郭の跡が二つもある珍しい公園で、両城とも、石田三成の懐刀として名高い戦国武将・島左近ゆかりの城跡なのです。 ※島左近については、下記の記事等で詳しく取り上げていますので、よろしければこちらもご一読ください。 www.yamatotsurezure.com 有名な戦国武将ゆかりの城跡なんですが、城跡としての知名度は高くないらしく、筆者の妻は公園の近所に生まれ育ったに…

  • 環濠の成立年代が確定された貴重な中世集落・若槻環濠集落で中世以来の美しい水堀を巡る

    皆さんこんにちは。 中世、外敵の侵入を防ぐため集落のまわりを堀で囲んだ、いわゆる環濠集落が全国各地に出現しましたが、奈良県は中世以来の環濠集落が、現在も数多く残されていることで知られます。 県内の多くの環濠集落が、南北朝時代から戦国時代にかけて成立していったと「見られている」のですが、実は、環濠がいつ頃築かれたのか、史料上明らかになっている集落って、ほとんどありません。 ほとんどの環濠集落の成立年代が実際のところ不明な中、奈良県大和郡山市の若槻環濠集落は、その環濠の成立過程・年代が文献史料で特定されている、全国的にも珍しい集落になります。 その貴重さにもかかわらず、稗田環濠集落などに比べると、…

  • 思ってたんと違う(8)決して衰退していない!室町・近世の建築・仏像文化

    皆さんこんにちは。 筆者の地元、奈良県は飛鳥・奈良時代から伝わる建築や仏像彫刻の宝庫です。 法隆寺や薬師寺の東塔、興福寺の奈良、鎌倉時代の仏像群は、現在残っているだけでも貴重なうえに、その造形の素晴らしさからも、文化財として高い評価を受けていますね。 私も法隆寺の壮麗な伽藍や、興福寺、東大寺に伝わる天平や慶派の仏像の圧倒的存在感に、心打たれる者の一人ですが、一方で日本の建築・彫刻(仏像)は、鎌倉時代までが「文化的」に顕著な発展と特徴を示し、特に近世(江戸時代)以降のものは文化的な価値が低いといった言説を耳にすることがあります。 極論すると、古代から鎌倉初頭にかけては、日本の彫刻・建築は目覚まし…

  • 横田環濠(横田平城)・筒井順慶の重臣・松倉右近の旧跡を巡る

    皆さんこんにちは。 大和国の戦国大名と言えば筒井順慶が有名ですが、順慶を支えた重臣として知られるのが、島左近と松倉右近。 今回はかつて松倉右近が本拠とした、現奈良県大和郡山市横田町の横田環濠をご紹介します。 島左近は、後に石田三成の家臣として関ヶ原の戦いなどで活躍したこともあって、知名度が高い戦国武将ですが、同じ順慶の家臣であった松倉右近の知名度は、いささか低いかもしれませんね。 歴史に詳しい方なら、子孫の松倉重政や勝家が、転封された肥前で暴政を働き、島原の乱を誘発したことで、記憶にとどめていらっしゃる方もおられるかなと思います。 平群町などで島左近が、町を代表する人物として顕彰される一方、松…

  • 十市城~水田に消えた中世城郭の面影

    皆さんこんにちは。 今回は奈良県橿原市にある中世城郭、十市(とおいち)城の周辺を散策してきましたので、ご紹介します。 堀や土塁などの遺構はほとんど見当たりありませんでしたが、外郭の市場町であったと推定される、現在の十市町の集落は、遠見遮断の路地が入り組む中世環濠集落の特徴を色濃く残す町でした。 十市城とは 城跡周辺 十市城とは 十市城の場所はこちら。 近鉄橿原線の新ノ口駅の北東1Kmほどの場所にあります。 奈良県民にはお馴染みの、運転免許センターから寺川を挟んですぐ北側になります。 奈良県民でも「あれ、あんなとこにお城なんてあったっけ??」と頭にクエスチョンマークが出る方も多いかもしれませんね…

  • 思ってたんと違う(7)倒幕に失敗した後鳥羽上皇は日本史上屈指の帝王だった!?

    皆さんこんにちは。 日本史上、唯一官軍が破れた戦いである承久の乱。 鎌倉時代初頭の1221(承久3)年、それまでの支配勢力であった京都の朝廷と、新興勢力として台頭した鎌倉の武家政権、いわゆる鎌倉幕府が軍事衝突して幕府側が勝利。武家による全国支配が以後、600年以上も続く切っ掛けとなった兵乱です。 この戦いを鎌倉幕府に仕掛け、結局敗退して隠岐に配流されてしまった人物として知られるのが、今回取り上げる後鳥羽上皇です。 歴史の教科書には、主に承久の乱の敗者として取り上げられ、その他の事跡としては、新古今和歌集の編纂を命じたことくらいしか、取り上げられることも少ない人物かもしれません。 承久の乱があま…

  • 皇紀2600年で消えた寺内町、畝傍御坊・信光寺

    皆さんこんにちは。 今回ご紹介するのは、大和五ヶ所御坊の一つ、奈良県橿原市の畝傍御坊・信光寺です。 大和国内、とりわけ国中(くんなか=奈良盆地内)における本願寺教団の布教拠点として、戦国時代から江戸時代の初期にかけて建立された、今井、御所、田原本、高田、そして畝傍の各御坊は、周囲に濠を巡らした寺内町を形成し、江戸期を通じて隆盛を誇りました。 現在も各御坊の周辺は、その多くが寺内町の往時の町並みを残しますが、今回ご紹介する信光寺は、大和五ヶ所御坊の中では、たいへん数奇な運命をたどった寺院です。 畝傍御坊とは 皇紀2600年祝典事業による移転 現在の信光寺と旧寺内町 畝傍御坊とは 信光寺の歴史は、…

  • 日本で2番目に小さな町の太子道が縦貫する中世環濠・伴堂環濠

    皆さんこんにちは。 今回は、奈良県三宅町の伴堂(ともんどう)環濠をご紹介します。 「ともんどう」って、少し変わった読み方ですが、コンパクトな中にも見所の多い環濠集落でした。。 伴堂環濠とは 環濠 太子道 三宅町交流まちづくりセンターMiiMo 伴堂環濠とは 伴堂環濠の場所はこちらです。 奈良県三宅町の町役場東側一帯で、町の中心集落です。 ちなみに三宅町は奈良県内で最も面積の小さな町で、全国でも2番目に面積の小さなコンパクトシティ。 伴堂は6つある大字の一つになります。 鉄道の最寄駅は近鉄田原本線の黒田駅。 お車でお越しの場合は、町役場の駐車場が便利です。 伴堂環濠は南北に細長い環濠集落で、集落…

  • 思ってたんと違う(6)江戸時代のサムライは意外と実力主義

    皆さんこんにちは。 江戸時代の身分制度というと、筆者が学生だった時分は、士農工商に分かれ、基本的に生まれついた身分から、別の身分にはなれないものと習った方も多いかと思います。 2000年以降は、江戸時代には士農工商といった身分制度と、上下関係は存在しなかったことが明らかになり、文部省の検定済教科書からは削除されたそうですが、一般的に武士に生まれたらずっと武士、農民なら農民のままというイメージが、まだまだ強いんじゃないでしょうか。 しかしその実態は、現在ほどではないにしても、身分間の流動性がある社会だったのです。 武士も、武士の家に生まれたら、自動的に武士になれる…という人たちばかりでは、なかっ…

  • 環濠の森に立つ室町の美しい神社本殿~奈良県景観資産・藤森環濠

    皆さんこんにちは。 2022年、新たに国の重要文化財として登録されることになった、奈良県大和高田市にある十二社神社本殿は、中世からの環濠に囲まれた小さな集落、藤森環濠集落にあります。 場所はこちら。 中和幹線の藤森交差点を下街道沿いに少し北に向かった場所になります。 今回十二社神社本殿が 藤森環濠とは 十二社神社 環濠 南西側 北西側 北東~北側 南西~南側 藤森環濠とは 藤森環濠は、成立年は明らかではありませんが、大和国で多くの環濠集落が形成され始める南北朝期以降、集落が形成されていったと見られます。 中世以来、奈良と五條、紀州を結ぶ主要交通路であった下街道のすぐ東側に位置し、領主居館の館城…

  • 思ってたんと違う(5)前近代の罪と罰

    皆さんこんにちは。 悪いことをしたら捕まって、裁判を受けた後、罰を受けます。 現在では当たり前のことなんですが、前近代、とりわけ中世以前では、その様子はずいぶん違ったものでした。 今回は、そんな今と違う前近代の刑罰事情や治安のあれこれをご紹介します。 平安時代に「死刑」はなかったのか 盗みは殺人と同じ!? 殺人事件はほったらかしの無法地帯 平安時代に「死刑」はなかったのか 平安時代は「死刑」がなかったと聞くことがあります。 巷間よく広まっているのは、平安初期に起こった薬子の変(810年)で藤原仲成が処刑されてから、保元の乱(1156年)の戦後処理で処刑が実施されるまでの間、政府公認の死刑は行わ…

  • 開業100周年を迎えた東信貴ケーブル(東信貴鋼索線)廃線跡をたどる

    皆さんこんにちは。 大阪府と奈良県の府県境にある信貴山は、「信貴山の毘沙門さん」こと朝護孫子寺で有名ですね。 こちらへのアクセス経路としては、現在自動車の他、大阪府八尾市の信貴山口駅からケーブルカーがありますが、かつて、もう一つルートがありました。 奈良県三郷町の信貴山下駅から信貴山駅までをつないでいた近鉄・東信貴鋼索線、通称東信貴ケーブルです。 2022年、その開業から100周年を迎えた、その廃線跡をたどってみました。 東信貴鋼索線とは 信貴山下駅前 廃線路跡 旧信貴山駅 表参道 東信貴鋼索線とは 東信貴鋼索線は1922(大正11)年、現在の近鉄生駒線の前身となる信貴生駒電気鉄道が、信貴山朝…

  • 鎌倉殿の13人~後世まで子孫が生き残り栄えたのは誰の家か

    皆さんこんにちは。 2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、今まで日本史では、戦国や幕末維新に比べて人気のなかった平安末期から鎌倉初期の時代が、にわかにスポットを浴びました。 このドラマのタイトルにある13人とは、鎌倉2代将軍源頼家のとき形成された、幕府有力者たちによる合議体制のメンバーが、13人だったことに由来します。 史上初の本格武家政権となった鎌倉幕府の草創期、中核だったこの13人のメンバーはその後内部で、血で血を争う凄惨な権力闘争を繰り広げ、最終的に北条氏が鎌倉時代を通じて権力を掌握。北条氏得宗家による独裁体制を築いていくことになります。 一家、また一家と滅亡・没落する中、生き残った…

  • 西大寺~荒廃と復興を繰り返した不滅の法灯

    皆さんこんにちは。 2022年7月8日、安倍晋三元首相が遭難した場所として、にわかに全国的な注目を受ける場所となってしまった、近鉄大和西大寺駅。 近鉄沿線の奈良県民には、とても馴染み深い駅が、全世界を震撼させるような事件の現場となってしまったことを、非常に残念に思います。 さて、大和西大寺駅を利用したことのある方でも、その駅名の由来となっている西大寺に参拝された方は、もしかしたら多くないかもしれません。 駅名で馴染みはあるんだけど、実際にお寺は行ったことがない。 私もそんな奈良県民の一人でしたが、4月末に初めてお参りしてきました。 西大寺とは 境内 南門 四王堂 護摩堂 本堂 東塔跡 愛染堂 …

  • 廃仏毀釈で廃寺となった、大神神社の神宮寺(大御輪寺、浄願寺、平等寺)を巡る

    皆さんこんにちは。 以前廃仏毀釈で廃寺となった、奈良県桜井市にある大神神社の3つの神宮寺についてご紹介しました。 www.yamatotsurezure.com 今回は、明治に廃寺となった大神神社神宮寺である大御輪寺、浄願寺、平等寺の現在の姿をご紹介します。 訪れる場所は、こちらの境内図で赤丸で囲った3か所。 大神神社境内図(大神神社HPから転載) かつて三所寺と呼ばれ、神仏習合の三輪神道の中心にあった場所が現在どうなっているか、見ていきたいと思います。 大御輪寺 浄願寺 平等寺 大御輪寺 大御輪寺は、3つの神宮寺の中で最も古く、既に奈良時代には大神寺の名で成立していたとされます。 1285(…

  • 談山神社は夏の穴場スポット。如意輪観音と涼風薫る青紅葉に癒される空間

    皆さんこんにちは。 奈良県桜井市にある談山神社は、紅葉の名所として知られます。 場所はこちら。 奈良盆地南東の山間にあります。 実はこの談山神社、江戸時代以前は、多武峰妙楽寺と呼ばれた巨大な仏教寺院でしたが、明治初頭の神仏分離令により、全山がそのまま神社に転身したという、非常に珍しい場所です。 ※談山神社の由緒や廃仏についての詳細は過去記事をご一読いただければと思います。 www.yamatotsurezure.com こちらは江戸時代の妙楽寺境内図。 多武峰之図(奈良県立図書情報館蔵・江戸後期19世紀初め頃) 明治の神仏分離によって、多くの神仏習合の寺院では、従来の伽藍が失われました。 しか…

  • 奈良は「何もない」と思われている地域の「中世」が面白い!奈良の中世史と町の成り立ち

    皆さんこんにちは。 飛鳥から奈良時代にかけての、古代史ロマンにあふれるスポットが注目されがちな奈良。 しかし、中世から近世にかけての遺構や人物も、奈良は見所いっぱいの場所であることを紹介したい。そんな思いで書き始めた当ブログも、2022年7月8日で丸3年となりました。 ここまで書き続けられたのも、読者様のお陰と心から感謝です。 今後ともよろしくお願いします。 さて、奈良県内の一般的な観光スポットと言えば、世界遺産となっている3つの地域、東大寺、興福寺、そして薬師寺のある奈良市中心部と西ノ京地域、法隆寺を中心とする斑鳩地域、桜が有名な吉野山周辺、そして古代ロマンあふれる飛鳥や、山の辺の道といった…

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