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NHKBSの時代劇「まんぞくまんぞく」。「時代劇らしい時代劇」というか、「昔よく見た時代劇に、女性剣士+恋愛という新味を加えた」というか、面白い番組でした。全く文句はありません。まんぞく、です。なにより主演の石橋静河さんが可愛かった。美しいというより、私は可愛く感じました。殺陣は初めてだそうです。でも私には殺陣を鑑定する能力がないので、いい動きをしていたとしか思えません。「殺陣」なんてしばらく見たことがなかったので、昔がどうだったか、もう忘れてしまいました。とにかくいい動きです。調べてみると石橋さんはダンサーだということで、運動能力が高いのでしょう。きっと。「可愛い」、素敵なお嬢さんです。母親の原田美枝子さんは「鋭い美人」ですが、娘さんはやや「ゆるキャラ」で、とにかく可愛いなと思いました。というのが素直な...BS時代劇「まんぞくまんぞく」の感想
私は男性で、中一ぐらいまでは「女のくせに」って言っていたような記憶があります。ところが高校に入った頃には完全な「男女同権論者」だった。その間、どういう精神的経緯があったのか。よく覚えていません。それはさておき、日本で男女同権とか、ジェンダー平等がなかなか実現しないのは、そりゃ色々理由はあるでしょうが、日本が「儒教の国」であることが最大の要因だと思います。儒教は「江戸時代に日本人の伝統となった」と思われていますが、調べてみるとそうではない。なんと律令国家の成立(7世紀)まで遡ります。これはウィキペディアで王土王民思想を読んもらえれば分かります。そもそも「日本律令国家の建国理念」が「儒教」なのです。仏教ではありせん。また律令の背景にある思想は法家ではないようです。儒教の中でも「礼の思想」が実は男女の「区別」に...儒教とジェンダー平等について考えてみた
日本史を見るとき、為政者の歴史において見るということは「全く否定」しませんし、逆に「民衆の歴史」をたどることも全く否定しません。ただそれだけが「日本史」なのかと考えると、私は違うと考えます。私の日本史の構造・構想1,身分社会の変化を考える。身分といった場合、為政者などの権力者も民衆も「身分」に組み込まれます。ここで重要なのは「建前の身分と現実の身分感覚が乖離していることで」、そこは見ないといけない。その上で日本史は「身分差が徐々に縮まる方向において変化してきたではないか」このことをまず私は考えています。明治になって四民平等とはされたものの、女性の地位など様々な問題が残りました。戦後の改革によって文章の上では(憲法では)、完全な平等が実現したはずでしたが、「現実感覚」は違います。主に女性差別の問題が残りまし...権門体制ではなく、権門顕密体制である。
「鎌倉殿の13人」における「後鳥羽上皇」の描き方について思うこと
全くの個人の感想なので、自分の感覚と違っても怒らないでくださいね。「怒る」傾向がある方はここでやめた方がいいと思います。まず全体にどんなことを書くかというと、・三谷さんに対する批判はしない。特に不満もないし、むしろ褒めたいぐらいだけど、あまり褒めもしない。・上皇や天皇という存在に忖度は一切しない。といって故意に「おとしめる気」もない。でも忖度しない時点で、一般的感覚からすると不敬に見えるかも知れない。・私は史実を学者の本で勉強しているが、学者じゃないので知識は足りない。間違った史実認識があるかも知れない。・ドラマの批評というより日本史や史実の話である。1,後鳥羽上皇の描き方はバランスがとれていたとまあ、ここまで注意書きをしておけば、あとは何を書いてもいいでしょう。では本論。全体としては後鳥羽の描き方は良か...「鎌倉殿の13人」における「後鳥羽上皇」の描き方について思うこと
中世史学の多数派を形成している権門体制論ですが、さてその考え方はA~Cのうちどれでしょう。1,中世の一時期(院政期から応仁の乱まで)、日本を支配していたのは公家(上皇家を含む、以下同じ)、武家、寺家であり、天皇機構は形式的権威によってその利害を調整した。2,中世の一時期、日本を支配していたのは公家、武家、寺家であり、天皇機構は「中世的な天皇権威」によってその利害を調整した。3,中世の一時期、日本を支配していたの公家、武家、寺家であり、3勢力は「天皇の名において」、その利害を調整した。答えは、上記のどれかです。まだ私にもわかっていません。天皇は権門なんです。朝廷、藤原氏も権門です。天皇の位置に関してはそこが問題となります。寺家と寺社は同じです。折に触れて提唱者である黒田俊雄氏の文章を読んできて、私の考えは今...日本一短い「権門体制論」の解説
2022年のM1で敗者復活から本選に進んでものの惨敗した「オズワルド伊藤」に、「普通の人なら死にたくなるような罵詈雑言」が送られているそうだ。自分の「推し」をはねのけて、知名度で上に上がって負けやがって、、、ということなのか。怖い世の中になったもんだ。ということで「近代史」のお話1980年前後の漫才ブーム。私が一番好きだったのは「ビートたけし」の「ツービート」。でも一番人気じゃなかった。一番人気はB&B。島田洋七、洋八。「笑っていいとも」の前に「笑ってる場合ですよ」という番組をやっていた。「もみじまんじゅう」のギャグでおなじみ。あと紳助竜助、ヤンキー漫才。パターンとしては「ヤンキーなんだけど弱い」というお話。あとサブローシローが実力派。それとノリオヨシオ。「ホーホケキョ」「冗談はよせ」のギャグでおなじみだ...Theマンザイ・M1の近代史・オズワルド伊藤の憂鬱
拓郎さんがアーテイストとしては引退なさるそうです。76歳。そんなに年が自分と離れているとは思ってもいませんでした。私が小学生の頃、拓郎ちゃんはまるで「ガキ大将」みたいだったからです。5つぐらい上かなと思っていた。よく考えると、10歳の5つ上では15歳です。1,イメージの歌これには多大な影響を受けたと思います。今私は趣味で歴史の勉強をしていて、尊大にも「どんな偉い学者の説だっておいそれとは信じない」という不遜な態度をとっています。私の中では「方法的懐疑」と呼んでいます。これを教えてくれたのが、小学校の時に聞いた「イメージの歌」☆これこそはと信じれるものが、この世にあるだろうか。信じるものがあったとしても、信じないそぶり。大学時代、統一教会の勧誘を断ったのも、民主青年同盟(共産党)の誘惑(これは貧乏な僕には実...1972年の吉田拓郎・イメージの歌
鎌倉殿の13人には、ほぼ民は登場しませんが、それでも実に面白い、おそらく大河の中でもトップクラスの芸術的作品であることは揺らぎません。その上で、、、。北条小四郎義時は、若い頃は少しですが「民のため」を口にします。飢饉の心配もしていたようです。しかし後半になると、作品自体にほぼ「民」は登場しなくなります。・太郎泰時が「民の税」を減免して、民にコメを与えた。・政子が最後にちょこっと民衆と交わった。これぐらいでしょうか。全部で5分ぐらいです。徹底して民がいないドラマなのです。理由としては「そもそも小四郎は民であるという扱い」が考えられますが、彼は領主の子であって民でないことは、作品を見れば誰でも分かります。ではなぜか?1,上皇が「民の敵になってしまう」ことを避けた。小四郎が「民の味方」なら、後鳥羽上皇は「民の敵...「鎌倉殿の13人」は何故「民衆」を登場させなかったのか。
重くならないため、なるべくリラックス文体で書きます。たぶん重くなるけど。後醍醐天皇ぐらい「アゲられたり」「サゲられたり」、まー評価がコロコロ変わる人物はいません。同時代の評判はすこぶる悪いんです。お仲間の北畠親房も北畠顕家もぼろくそ批判してます。なぜって「新しいことをやったるぞ」と言ったから。朝廷は「超先例主義」ですから、「新しいこと」は生理的に無理なんです。「やったるぞ」はいいけど、「仕組みを作らない」から日本がカオス状態。武者にもその他市民にも、すこぶる評判が悪い。ところが昭和、戦前。今の皇室は北朝なのに、南朝を正統としてしまったから、後醍醐天皇を上げざる得なくなっちゃった。悪名高い皇国史観ね。好きな人もいるけど。皇国史観といえば、布教者は東大教授の平泉澄。ないことないこと書いて歴史を捻じ曲げたくせに...後醍醐天皇の「理想と現実」・リラックス文体で書く。
悪人・北条義時に捧ぐ承久の乱の後、北条太郎泰時と北条時房は「六波羅探題」の長官として京に「出張」ということになった。「京で修行してこい」、これが親父である義時の言葉である。公家は噂が好きだ。嘘と分かってもその嘘を楽しんでいる。時には嘘と分かりつつ、日記に「さも本当のように」書くことも多い。正確な歴史を記述するという観念自体が存在していない。ただし儀礼に関しては違う。日記とは子孫に伝える儀礼の記録である。時事情報はあくまで「おまけ」であった。時事情報は正確でなくても、いいのである。その公家の間では鎌倉に関するいくつも噂が飛び交っている。「鎌倉がこうなってしまえばいい」という悪意に満ちた願望であることも多い。「義時の妻の伊賀の方が、実子の政村を執権にするため、義時に少しずつ毒を盛っているらしい」「北条は怨霊に...即興歴史小説「義時の涙、泰時の誓い」、「義時死す」
鎌倉殿の13人関連・「後鳥羽上皇の目的は討幕ではない説」は論理的に成り立つか。
最近、後鳥羽上皇は討幕を企てていない。北条義時を排除しようとしただけだ。と偉い学者さんがよく言います。これは妥当でしょうか。まず結論から書くと「妥当ではないが、成り立つ可能性も残されてはいる」と思います。以下少し詳しく。なお大河は物語ですから「史実じゃない」という「物語のあげ足取り」ではありません。基本「鎌倉殿の13人」とは関係がない「ただの史実論議」です。1,討幕なんて言葉は当時なかった。追討宣旨は「個人宛」である。当時、幕府という言葉は禅僧ぐらいしか使いません。京都政権が幕府と呼んだことはない。鎌倉も自らを幕府と呼んだことはありません。京都政権は鎌倉幕府を「関東」とか「武家」とか言っていました。六波羅探題ができてからは探題が「武家」、幕府は「関東」と呼ぶことが多かったようです。幕府という言葉を使用しな...鎌倉殿の13人関連・「後鳥羽上皇の目的は討幕ではない説」は論理的に成り立つか。
鎌倉殿の13人・北条泰時はなぜ後鳥羽上皇の「敗戦の院宣」が読めなかったのか。承久の乱。
吾妻鏡にこうあります。概略です。泰時は5千の兵を率いていた。そこへ後鳥羽上皇の敗戦の院宣がもたらされた。泰時は馬を降りて受け取った。そして「この中に誰か院宣を読めるものはいるか」と言った。武蔵の国の藤田三郎が読むことができたので、彼が読んだ。「この度のことは、全て院の意思ではなく、謀臣のしわざである」以上のことから分かるのは、泰時は院宣を読めなかったこと、5千人の中でも読める人間はほぼおらず「もしかしたら藤田一人だったこと」です。それにしても藤田はなぜ読めたのか。そっちがびっくりです。吾妻鏡が「とても信用できない、泰時顕彰のための曲筆ばかり」なら、ここは「読めたこと」にしてほしいものですが、ちゃんと「読めなかった」としています。この院宣は承久記前田本にあって、国会のデジタルコレクションで見ることができます...鎌倉殿の13人・北条泰時はなぜ後鳥羽上皇の「敗戦の院宣」が読めなかったのか。承久の乱。
「承久の乱」を「どう評価」すべきでしょうか。社会の混乱という意味では、さほどの戦いではありません。後醍醐帝と足利尊氏が明確なビジョンもなく「鎌倉幕府を倒してしまって」から、60年の内乱の時代が訪れます。そういう意味では、この2人、とんでもない人たちです。フセインを倒したはいいが、さしたるビジョンもなかったため、イラクを今も混迷の中に沈めているアメリカ、と同じことをやっています。皇国史観においては「後醍醐帝に逆らった足利尊氏」は「日本最大の悪人」と呼ばれましたが、「皇国史観大嫌い」の私ですら「もっとちゃんとやれよ」とは思います。むろん後醍醐天皇も同罪です。この南北朝時代の戦い、いわゆる「観応の擾乱」(じょうらん、意味なく難しい言葉ので、この言葉は変えた方がいい)に比べれば、あっという間に決着がつきます。数か...鎌倉殿の13人関連・「承久の乱」をどう考えたらいいのか。
天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説
織田信長の時代、天下とは畿内を指した。したがって「天下布武」とは「畿内を」、布武(武とは徳であり、徳によって徳治)することだ。誰が考えた「言葉遊び」かは分かりませんが、ちょっと前にはこういう「言葉遊び」にこだわる人がいました。今は最新の研究によって「乗り越えられて」、、、、いません。私は素人ですがちょっと考えて「奇妙な詐術」であることは分かります。そもそも「印鑑の意味」などいくら探っても、その武将の「実体」には迫れません。豊臣秀吉の印鑑の中にはいまだに「読めない」ものもあるのです。「印」なんてその程度のものです。それでもこだわるとすると・お釈迦様の「天上天下唯我独尊」、、、この天下も畿内なのか。お釈迦様は日本の畿内で独尊なのか。中世にもこの言葉はある。・源頼朝の「天下草創」、、、頼朝は畿内を「草創」したの...天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説
鎌倉殿の13人・スピンオフ小説「比奈の乱」・「承久の乱前夜」
後鳥羽上皇の願いを受けて、比奈は鎌倉に下向した。義時とは直接文を交わしたことはないものの、比企の乱から16年、義時は京の比奈に、定期的に莫大な金銭を送ってきてくれていた。途中からは泰時の名で送られてきたが、義時に意向であることは間違いない。比奈はまずその礼を述べた。「少しもお変わりになりませんね、小四郎殿」「そうか、人には別人になったと言われるが」「同じです。あなたはいつも鎌倉のことばかり考えて、そして疲れていらした」「そうか」「さて、京は上皇様のお言葉を伝えに参りました」京で比奈と後鳥羽上皇が懇意であることは、義時はよく知っている。「文を託すまでの仲とはな。比奈、つらくはないのか」比奈にとってはマツリゴトに関わることが苦痛であると義時は思っている。「比企の一族のことは、すべて昔のことです」と言って比奈は...鎌倉殿の13人・スピンオフ小説「比奈の乱」・「承久の乱前夜」
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徳川家康を描く場合、系統は「山岡荘八系」と「司馬遼太郎系」に分かれます。山岡系だと「聖人君子」「神君」「いい人」となり、司馬遼太郎系だと「たぬき親父」「空虚な凡人」「ちょいわる親父」「大坂の陣では、ほぼ犯罪者」となります。山岡という人は、いわゆる日本凄いぞ系の人で、強いイデオロギーを持っていました。嘘に嘘を重ねて家康を聖人君子として描いたわけです。ただそれが1960年代に大ヒットし、1980年代には大河「徳川家康」が製作されています。かなり古い大河ですが「春の坂道」などでも「神君家康」は登場しました。日本は武士の国で、その武士の国を作ったのが徳川家康であるとするなら、「徳川家康は立派な聖人君子、神の子、神君じゃないといけない」と思っていました。そうした「思想」のもと、山岡は神君家康像を作りあげ、それが史実...どうする家康・徳川家康を「いい人」にするための「嘘のつき方」について
「鎌倉幕府」は日本全土を統治していたわけではありません。朝廷・寺社という古くからの勢力と、荘園の「権利」(職)を分け合うことで鎌倉幕府は成立しました。朝廷を重く見る場合は、鎌倉幕府は国家の機能のうちの治安を担当しただけであり、「朝廷の侍大将に過ぎない」という言い方を好む方も、西の研究者にはいるようです。ただちょっと考えただけでも「治安のみ担当したわけでない」ことは明確です。明らかに「政治」というものを行っているからです。御成敗式目という新しい法も導入しました。鎌倉幕府は「律令制の衰退がもたらした地方の混乱」に一定の秩序をもたらすために誕生しました。そしてそのことが朝廷・寺社の意識を改革し、朝廷もまた「政治」を行うようになっていきます。「鎌倉殿誕生の歴史的意義」はそこにあると思います。律令制国家は、天智天武...「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。
架空の世界の、架空のお話。慶長3年、1598年7月、徳川家康は秀吉の病床を見舞った。「おお、家康か」。普段は秀吉は家康を内府と呼ぶ。家康と呼ぶ時は、無礼講でいこうという合図だった。家康はその機微を敏感に察した。「どうした筑前、醍醐の花見の時は、元気だったではないか。お前らしくもない。しっかりせえ。」「あん時からもう体はガタガタだったのよ。これもみんな信長様のせいだで。若い時あんだけこき使われたら、年取ってガタもくるわ」「そうじゃ、その調子じゃ。信長殿の悪口でもたんと言うがいい。それでこそ筑前じゃ。信長ってのはそりゃひどい主君だったわな。人の情というものがねえ」「信長様を悪く言うな。恩人は恩人なんじゃ。ひでえやつだったが、恩は恩」「ああ言えばこう言うの。それでこそ筑前じゃ。実際のところ、今お前が死んだら、わ...架空小説「豊臣秀吉の遺言」
国家間の戦争というものに「個人の責任」が存在するのか。私は「存在するとすべきだ」と考えます。無責任に戦争を起こされてはたまりません。個人の責任が問われるという前提で政治家には軍事行為を決めてもらいたいからです。つまり論理的に「存在するか否か」を議論したいわけでなく「戦争抑止のために、個人責任が問われる」というルールが必要だと思っているのです。例えばイラク戦争・アフガン戦争、イラク国民もアフガン国民も今なお苦しんでいます。この責任は「ブッシュにある」と「すべきだ」と考えているということです。イラク占領の失敗の責任は特に大きい。「日本占領と同じことをやる」とブッシュは言いました。「歴史」に対する理解が全くない。イラクと日本がいかに違う国か。日本占領の奇跡的成功が他の国でなせるわけがない。そういう「無知無能」も...今こそ「戦争責任論」が必要だ。
関西方面で人気がある「権門体制論」は極めて単純な理論です。中世において日本の支配階級は、公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。これだけです。これ以外のことはあまり考える必要はない。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。天皇制がある限り、歴...黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。
家康が結局のところ信長を深くリスペクトしていた、というのは、話としては感動的です。瀬名のなにやら「おとぎ話」のような関東自立論に乗っかり、「武田勝頼と戦争しているふり」をして信長を騙そうとし、でも結局は武田勝頼に裏切られ、なんやかやで瀬名と嫡男信康が死ぬ。それをなぜか「自己のバカさ加減」を考えることなく、「信長のせい」と思い込み、韓国ドラマさながらに「復讐の鬼」と化す。そして3年、服従をしたふりをして信長を騙しぬき、本能寺で信長を殺そうとする。その前には「富士山観光」で信長をもてなし、「殺す機会など無数にあった」にもかかわらず殺さず、なぜか「それなりに要塞であったはずの本能寺」で殺そうとする。話自体は「史実でない」とか言う以前に、「ストーリーとして不自然すぎて」、破綻しまくっているのですが、「本能寺の変」...「どうする家康」・第28回「本能寺の変」・感想
そういえば「どうする家康」には上杉謙信が登場しません。上杉謙信と徳川家康は対信玄で「同盟」して起請文まで交わしていたのに。でもここは織田信長のお話。織田信長と上杉謙信は直接会ったことも「直接戦ったことも」ありません(戦ったのは柴田勝家)が、共通の友人(足利義輝)を持ち、桶狭間の戦いの4年後にはすでに「交友関係」を持っています。交友関係どころか、実現はしないものの、信長の息子の一人を謙信の養子にするという話すらありました。信長上洛の4年も前の話です。そして謙信の死のたった2年前まで、信長と謙信は「大の仲良し」だったのです。謙信は「義の人」であり、「不義の人」である信長を嫌っていた。大河「天地人」などではそう描かれましたが、史実は違います。謙信は信長を親しいメル友(手紙友)と思っていたはずです。そもそも信長は...織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。
「どうする家康」はドラマであって史実ではありません。しかしこの番組を通じて「本当の歴史を学ぶ」ことは可能です。つまり「では史実はどうだったのか」ということです。「どうする家康」に描かれた、信長・家康・信玄の関係は史実ではありません。では史実はどうであったのでしょう。1.織田信長と武田信玄は強い「同盟関係」にあった。「どうする家康」では、初めから信長と信玄が敵対関係にあるように描かれています。信玄は偉大な人物として描かれます。さらに信長は「京都に巣くう魔物」だと信玄は言います。これは信玄が信長の「手切れ」段階でのセリフですので、この段階1572年には信玄が「巣くう魔物」と考えていた可能性はなるほどあります。しかし問題なのは「裏切ったのは信玄のほう」だと言うことです。信長の「上洛」1568年は、信玄の「了解」...「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係
「どうする家康」は一見すると史実無視の「いい加減なことを並べ立てているように」見えますが、実はある「歴史の見方」に基づいて作られています。それを私の言葉で言うなら「国衆史観」(くにしゅうしかん、くにしゅしかん)と言います。私の言葉です。一見すると「国は戦国大名のもの」みたいに見えますが、国衆と戦国大名の「連合体」、または「同盟組織」と考えるのです。国とは今でいう県です。で、この国衆というのは独立性が強かったと考えます。国衆とは小領主で、その一つ一つも「国」と考えます。その「小領主の国」の中にまた「国みたいなもの」があって「村」です。なんで国なのかというと、独立性が強いからです。国衆が「独立」しているなら、何も戦国大名の傘下に入らなくてもいいし、入ったらもう「国じゃないのでは」とも思えます。でもどうやらこう...「どうする家康」の歴史学
1,本郷氏の本当の偉大さは、こういう文章を書いても怒らないだろうことである。他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは...本郷和人論・リスペクトを込めて
ある歴史ドラマにリスペクトを込めて。金ケ崎から逃げ帰った信長は岐阜城に戻った。帰蝶は急いで信長の部屋を訪れた。いつもにもまして、信長は孤独に見えた。帰蝶の顔を信長は見た。抑えていた感情がはじけたのだろう。信長は泣き崩れた。「またおれの兵が死んだ。あの権助も死んだ。弥太郎も死んだ。子供のころから親しくしてきた友が死んだ」信長は顔を覆った。「また、、、まただ、、、また殺してしまった」帰蝶は涙を堪えた。ここで泣くわけにはいかない。「信長様のせいではありません。信長様は天下静謐のため尽くしているのです」信長の涙顔が怒りに変わった。「帰蝶、よくそんなことを言えるな。おれの為に働いてくれた家臣が死んだのだ。朝倉は、すぐにも降伏すると思っていた。浅井が裏切った。朝倉の兵も死んだ。浅井の兵も死んだのだ。そしておれは、長政...即興小説「信長の涙」・金ケ崎ののちに
冒頭の「なんやかやで」金ケ崎の戦いは終わって、というナレーションにびっくりしました。「描かない」という選択肢があることに驚いたのです。私は、あまり人の意見に左右されない人間なのですが、ちょっと調べてみるとこうあります。他人様の意見「もう解釈とか脚色というレベルの話でなく、単に若者受けを狙ったつもりだけの史実を大きく逸脱して歪曲したパロディドラマ。フィクションとしてのおもしろさもないどころか、不快の連続。プロデューサーと脚本家に歴史への愛情と敬意ないと、こんな酷いものが出来上がるという事例。」引用終わりここまで辛辣な感想は私は持ちませんでした。ただ参考にはなります。1,大河は全てフィクションで史実ではないのに、なぜこの作品だけが「史実の歪曲感」を強く感じさせるのだろう。2,上記と本質的に同じ問題であるが、「...どうする家康・第15回・姉川でどうする・感想
きちんとした文を書く前のウォーミングアップとしての「書き散らし文」なので、文章の質の悪さはご容赦ください。1,天皇の位置さえ考えなければ、権門体制論は単純明快権門体制論(けんもんたいせいろん)は、天皇を度外視すれば、極めて単純である。鎌倉幕府の発生以降、ある時代(荘園消失)まで日本を支配したのは3つの階層である。それは公家、武家・寺家。公家のトップは天皇ではなく治天の君。天皇が治天なら天皇。この3つは荘園を基盤としている点において同じようなものである。だから上級国民として互いに助け合って政治を行った。つまりは「同じ穴のむじな」である。天皇は、、、、「中心にいて彼らをゆるやかに結びつけた」とか「この体制の頂点にいた」とか曖昧な感じで色々言われる。論者によって言い方が違うだけでなく、提唱者の黒田俊雄でさえ、論...天皇と「権門体制論」と「東国国家論」、何を考えればいいのか。