2019年6月
ずいぶん曖昧な言い方になってしまって恐縮ですが、ペルセウスは東洋では、ものごとを見る姿勢に動きや変化そのものを根本要素としてとらえる傾向があり西洋では、モノを究極のところまで分解して元素に迫ろうとする姿勢が世界観の根本にあるのではないかと思っています。もっと言えば、東洋の世界観は果てしなく変化してやまないこの世の現象を循環する時間の相でとらえている。これに対して西洋の世界観は原初の一点にまでさかのぼってものごとを突き詰めようとする情熱と共にある。だから時間も、循環するのではなくあの原初の一点から、ビッグバンさながらに現在の「今、ここ」にまで直線的に伸びてきている。原初の一点にまでさかのぼって。
東洋系の占いの元素として知られている「木・火・土・金・水」と、西洋系の占いの元素である「火・土・風・水」とは、字面だけを比較しますと東洋系の方が一つ元素(木)が多いというだけの話になってしまいますがそもそもこの「元素」という言葉の意味するところが東洋と西洋では違うように思われます。西洋のそれは、物質現象の根本要素……といった面がハッキリとあるのに対して東洋のそれは物質現象と人間の経験との間に線引きがない、という印象をペルセウスは持っています。具体的にはどんなことかと言えばたとえばこんなことです。西洋的には「火・土・風・水」がこの世の森羅万象の大本であるなら人間もこの世の一つの存在として火の性質、土の性質、風の性質、水の性質をそれぞれ備えているに違いない……と考えるのに対して東洋的にはむしろ人間や物が互いに親しみ...モノ(物質現象)と人間。
昨日の記事をお読みになった方で西洋占星術を研究されている人がいたら「いや、西洋占星術でもゲームで特定の誰かが他の誰かに強いとか弱いとかを判断することは十分に出来るぞ」と、お思いになったかも知れません。それはつまりAさんとBさんのホロスコープを重ね合わせるようにして相性を読むシナストリーの手法を用いればよい……ということだと思います。例えばAさんのホロスコープの第5ハウスにBさんの木星がやってくる……というような関係があれば、マージャンのメンバーにBさんが加わっているとき、Aさんは有利だろうというように。これは大変もっともな反論です。が、それでもやはりペルセウスは比較的に狭い、閉じられた傾向の強い人間関係のバランスを説明することにかけては東洋系の占いの方が、より根底的な答えを提出していると、考えます。というのも、...シナストリーで見れば?
マージャンの卓を囲む特定の4人についてそれぞれのホロスコープを出し趣味、楽しみごと、恋愛、ギャンブルなどを管轄する第5ハウスに来ている天体から(あるいはその境界線のサインや、サインの支配星の配置やアスペクトなどから)メンバーひとりひとりがゲーム全般についてどんな取り組み方をするか、その傾向を探ることは出来ます。けれどもちろん、これらは誰が誰を利する傾向があるかについては、間接的な情報しか与えてくれません。「木」が「水」を吸い上げて育つ、(だから「水」の強い人は、「木」が強い人を結果的にいつも利することになってしまう)というような、直接的な関わりの暗示は西洋占星術からはダイレクトには得にくい……と言って良いのではないでしょうか?四人のホロスコープから!
では、同じ麻雀での勝ち負けの傾向を西洋占星術で読み解くとしたらどんな風になるでしょうか?「水」が「木」を育てる、といった説明づけはもちろん西洋占星術にはないわけですが麻雀をゲームの楽しみとして第5ハウスの管轄とみなせばこのハウスに火星があれば勝負に真剣になる、熱くなるなどと解釈できますしそこにさらに水星があれば分析研究してゲームの奥義に迫ろうとすると解釈してもよいと思いますがそうした配置が単純にゲーム一般に強い(勝ちやすい)とまでは言い切れないと思いますしまして対戦者の、特定の誰かとの関係を読む材料としては、あくまで副次的なものでしょう。西洋占星術で読み解けば……。
東洋系の占いも、西洋系の占いもこの世の森羅万象に及ぶものを原理として持っているはずだと思いますがこのブログで、ご覧のような記事を書き続けているうちに、ペルセウスは(どうも東洋系の占いが得意の分野と西洋系の占いが得意とする分野とがあるのではないか)と思うようになってきました。あ、思い出しましたが書き始めは確か、占いの前提にある時間の観念が東洋と西洋で違うのではないか、という話でしたね。しかしともかく昨日の記事に書きましたような何らかのゲームで、メンバーのAがいつもメンバーのBを利する形になってしまう……そういう傾向がとても強いときに五行の相生と相剋(つまり東洋の占いの原理のひとつ)の説明づけに大変説得力があるのは東洋では、西洋と比較したときどちらかと言えば閉じられた人間関係のうちで動く人間心理に焦点を当てる発想が...閉じられた人間関係の内で動く人間心理。
ペルセウスが五行の相生と相剋で説明される人間関係に感心した……というのは、こういう話です。学生時代にペルセウスはよく友人たちと麻雀をしていましたが同じメンバーでやっている限りは大体、勝ちと負けのパターンが決まってしまうのです。それも、なぜかいつも自分が或る男(Kとしておきましょう)を勝たせてしまうのが気になっていました。途中の展開ではいろいろあっても結局終わってみればペルセウスが大きいのをKに振り込んで彼のトップを許してしまう……。で、あるとき四柱推命でKと自分を占ってみるとそれはなんと、「水」の強いペルセウスが「木」の強いKを育てているという「水相木」の関係だったのです。もちろん偶然かも知れない訳ですが(おれは別にこの男に勝たせるつもりなんか全然ないのに結果はいつもそうなってしまう。なぜなんだ!)という疑問に...いつも、あいつを勝たせてしまう。
いわゆる「相性(あいしょう)」の問題を自分とAさん、自分とBさん、自分とCさん……というように果てしのない組み合わせの問題として考えるのではなくたった一つの自分の物語に登場してくるさまざまな人物たち、ととらえることの出来る可能性が西洋占星術にはあるとペルセウスは思っている訳です。しかしまた、その一方で自分の人間関係を五行の相生(そうしょう)と相剋(そうこく)で説明されたときに「なるほど!」と、膝を打ちたくなった経験もペルセウスにはあります。さまざまな登場人物。
西洋占星術でも、もちろん相性を判断しますけれど醍醐味ということで言えばそのご当人が、ご自分のホロスコープから自らの人生の本質に迫りその結果、なぜ自分がそういう相手を選びまたはそういう相手に惹かれ、あるいは近づいて行ったのか(これから近づいて行こうとするのか)ということが、まさに他の誰のものでもない「自分の物語」として納得できたとき(腑に落ちたとき)ホロスコープ読みの良さが極まる……と、ペルセウスは考えます。ですから、極論を承知で書きますけれどもご本人ひとりのホロスコープが充分に深く解釈され、納得されていればあえてAさん、Bさん、Cさんとの相性を調べなくても自分本来の物語に登場してくる人物としてAさん、Bさん、Cさんのどなたが一番ご縁が深そうなのかはご本人ひとりのホロスコープを読み切ることで分かってしまう……そう...いちいち相性を見なくても!
東洋の占いの原理的なものと言えば陰陽五行の考え方が思い浮かびます。あらゆる現象には陰陽の違いがある……というのは洋の東西を問わず広く認められる原理でしょう。しかし五行(木・火・土・金・水)説は明らかに東洋的(中国的?)な考え方で西洋の火=土=風=水という四元素の考え方とまことに対照的です。特に、五行の相生と相剋の関係は西洋的な4元素に並立の要素が強いのに対して東洋では5つの元素が初めから複雑に絡み合うものとして想定されています。一見別々のものたちが引かれ合いまた反発する様(動き)を見事に捕らえてた相生&相剋の関係は原理のユニークさとして西洋と互角、あるいはそれ以上のものを持っていると思います。五行の相生と相剋
今日は、これから占星術の勉強会に行ってきます。どんな話になるかとても楽しみです!今回は顔見知りの方々だけにお声をかけて開催することにしましたが、次回以降、このブログを見に来て下さっている方々のご参加も募ろうかと計画中です。「こんなテーマの勉強会なら、ぜひ出てみたい」といったリクエストがありましたらコメントでお気軽にお寄せ下さい。よろしくお願いします!占星術の勉強会。
西洋では天体の動きをシンボル(何かの象徴)として読もうとする占星術と物理現象として理解、説明していこうとする天文学とが、徐々にはっきりと別れて行きますが東洋では、そういう明確な切り離しには至らなかった……といっていいと思います。これはわたしたちの、占いについての自覚に関しても言えることで西洋人は、学問(近代的な意味での学問、です)としての天文学を他方で意識した上で同じ天文現象を扱いながらも、まったく違う方面に考えを進めて行こうとする営みとしての占星術に関わっているように見えます。これに対して東洋人は、学問的なアプローチがまったく別物として占いの対局にある……などとは、恐らくほとんど意識することなく占いに関わっているように(ペルセウスには)見えます。間違っているかも知れませんが占いが「Aは~で、Bは……だ」と断定...明確な切り離しには至らなかった。
地上では民主政体の実験とも言うべき合理性の高い政治のあり方が追求されその反映のように、天体の動きについても地上の人間の経験で説明(納得)可能な現象をまず基礎において観察していこうという合理性が発揮される。これこそは西洋が東洋に対して持っている「光」の原型であってそういう意味で西洋人が文明の輝きの原型を古代ギリシャに認めているのであればそれは東洋人であっても無理なく共有出来るのではないでしょうか?一方、東洋では天上の論理と地上の論理が別々にあることは認めつつどこかで明確に線引きしてそれぞれに当たる……といった姿勢ではなく、むしろ両者を溶け合わせるような思想こそが追求されてきました。※明日はお休みします。すみません!また、今週水曜日は津田沼のモリシア1F開運館での出演もお休みさせて頂きます。で、その代わり……という...「光」の原型。
きのうの記事に書きましたようなアリストテレスの線引きにペルセウスは何か近代を予感させるような見事な思想的な跳躍を感じます。アリストテレスの時代はギリシャが崩壊へと向かっている時代かも知れませんがそれでも神話を世界そのものとして生きてそういう自分たちの生き方にまったく無自覚でいられた過去の人々との隔たりはこのアリストテレスに至って決定的になっています。こうした線引きがあってこそ神々と戯れているような天体観測から決定的に隔たって物理現象としての天の動きが追求されるのでしょうし、地上は地上で共同体をどう運営していくのかについて人類の遺産とも言うべき試行錯誤がなされたのだとペルセウスは思います。見事な思想的跳躍。
もしも、天上の論理と地上の論理二つのものがあるとするならこの両者をどこかで切り離して(線引きして)それぞれに追求していく……といった姿勢が西洋の考え方の根本にはあるようだ、とペルセウスは考えています。そうした姿勢を見事に表しているのがアリストテレスの天体論です。アリストテレスは天上のことを論じる際に「月まで」と「月より先」とを区別します。月までは人間があれこれ考える対象にして現実的な論議(たとえば潮の満ち干との関係など)が出来るけれどその先の天体は人間が考察しても現実的な論議にはならない……というのです。古代ギリシャの何がそんなに偉大なのかあんまりぴんとこない、という方でもこういう線引きに象徴される思考の組み立てには感心するのではないでしょうか?天上の論理と地上の論理。
2019年6月
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