田舎の個人医院。1980年頃から誰も住まなくなった。老朽化が進み、いつか雪で倒壊するのではと近所の方は心配している。
1970年代から確認できる謎のコンクリート平屋建て。かなり朽ちた状態で全体に蔦が這い、落書きも確認できる。廃業しているガソリンスタンドが隣接している。
2001年に閉校となった。雨漏りと崩落防止のため屋根が緑色のシートで養成されている。保存活動が施され、校内も自由に見学出来るようになっている。
1968年頃に建設を始めたが、途中で放棄されたという巨大ビル。この独特の奥行きは唯一無二。「く」の字に地上三階建ての二棟のビルが向き合っている。
菜園場(さえんば)劇場。昭和30年代にオープンした映画館だ。当初の見込みより客の入りが悪く、数年間で閉店となったらしい。
1970年代から確認されている絶景オーシャンビューの廃ペンション。渥美湾に直接面する風の強い立地で、窓がほぼ全て損壊し、天井も崩れ落ち危険な状態にある。
昭和初期に建てられた木造校舎。林業が盛んだった時代には30人程の児童が通っていたという。1977年に統合のため閉校となった。
道幅の狭い日原街道をひた走る。バス停と灯籠が目印だ。車を降りて、少し歩いて下ると目的の鍾乳苑が姿をあらわした。
1973年に重力研究所として開設され、その後に改称されたものである。UFO研究家として知られる清家新一氏の私設研究施設であったが、2009年に本人の逝去により閉鎖した。
福島の国道を走っていると突然パチンコ屋の廃墟。閉業時期不祥ながら、10年以上は放置されていそうな佇まいである。
うららかな秋空。山頂にあるマイクロウェーブ中継所跡にやってきた。建設時期不祥ながら、1960年代にはあったようだ。新たな中継所の完成により、1977年に廃止された。
1964~71年に建設された百貨店の女子独身寮。二階建ての8棟が並んでおり、1987年まで使用されていた。地元では心霊スポット扱いで、建物全体が緑に飲み込まれつつある。
百年以上の歴史があったが、統合により1980年に閉校。木造平屋建て校舎が今でも残り、かなり朽ちた状態となっている。
別名「落書きの家」1980年代に建てられたと推測される。近くには学校もある長閑な住宅地の中に、突如として姿を現した。
1981年頃に開業。三階建ての大型ペンション風ホテルで、プールまで備える豪華施設だった。1983年頃から放置されている。多くのガラスが損壊、壁面が剥落し、全体が蔦に覆われ朽ちた状態となっている。
生駒(いこま)山に広がる廃墟群。それぞれは小粒ながらも個性派揃いである。ここもまた思い出深い場所となった。右下に生駒山荘の表札。きっと誰かが律儀に立て掛けて置いたのだろう。
1979年に閉校した小さな小さな分校。山深い中にひっそりと佇んでいる。
川の向こうに圧倒的なオーラを放つ三角屋根の建物。よく目を凝らすと廃墟ではないか!!偶然見つけて、胸が高鳴る。
草に覆われた表札。事前知識が無かったらきっと読めなかった。
名前の由来。航空写真で見ると、カタカナのコの字になっているから。入院病棟のみが残る。
1970年代後半に開業したレストラン。緑に包まれたこの看板が目印だ。2000年頃から廃墟化が始まり、半壊状態にあると聞く。
「歓」の赤い文字がうっすら見える。まだ暑さが残る昼下がり、小高い丘にあるレジャーセンターにやってきた。
1982~86年頃に開業。2000年頃には廃墟としての言及が見られる。近くに事故が多発しているというカーブがあるためか、心霊スポット扱いである。
1903年に創業。割烹旅館として営業し、一~三番館のほか桃山館の四棟からなり、収容人数450名、客室84室、大浴場、婦人専用風呂場、岩風呂を備える大型ホテルであった。印象的だった正面の赤いエントランス
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