このブログは、主に私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話します。
本日は、東京都台東区根岸にある元三島神社を紹介したいと思います。参拝日は、2019.02.01です。この神社は、弘安4年(1281年)の元寇、「弘安の役」で活躍した伊予水軍の河野通有が勧請したもので、大山祇命を祭神としています。神社は鶯谷のホテル街の中にありますが、もとは「根岸の里」、江戸時代の別荘地であり、寛永寺の住職が、京都の鶯をこの地に放って、鳴き声を楽しんだことから、「鶯谷」の名前がついているのであります。Youtubeなどで、遊郭があったなどと言っている方がいますが、全くの誤りです。また、加山雄三さんはこの地出身で、子供のころは元三島神社で遊んでいたそうです。このように由緒ある元三島神社ですが、現在では、社殿もかなり近代的な建物になっています。この日は、さきに摩利支天大徳寺に行ったため。午後になってし...元三島神社
栃木県、那須高原には北温泉という温泉があります。江戸後期に建てられた家屋がいまだに健在というところで、個性的な宿です。北温泉といえば、漫画家の水木しげる氏、つげ義春氏に愛された温泉としても知られています。ゲゲゲの鬼太郎でも、妖怪土転びの登場する回は、舞台として北温泉が採用されています。これは1995年ころに撮影したものです。この宿内には、神社があり湯元の神様が祀られています。湯気がもうもうとして写真も曇り気味です。好きな人にはたまらない古いつくりの廊下です。宿の中を温泉が流れています。デジカメならばもっとよく写るんでしょうね。北温泉湯元の神
冬場の里帰りで、訪ねてきた城館跡や神社仏閣の写真もほぼネタが尽き、まだ、あといくつかストックがあるものの今一感があるので出さないのですが、今回は資料部屋から発掘してきた1980年代の城館跡の写真フィルムも現像しただけでスキャンデータ化していない・・・肝心のスキャナがPCと相性が良くないなどあってちょっと過去の写真の中で、自分が好きな城館遺構を拾ってみました。80年代は、わたしは中学・高校時代でロクなカメラもなく、11mmフィルムとか言うのを使うポケットカメラを愛用していました。フィルムも現像代も高い時代でしたが、あの頃は町中にも城館遺構が残っていました。これは、行田市内忍城の支城皿尾城で、正月松の内に尋ねたものです。かつて、上杉謙信の忍城侵攻を最前線で迎撃し、銀の銃弾を装備した謙信狙撃チームが派遣されたという皿...好きな城館跡の写真
滑川町は、埼玉県北にある隠れ里のような町です。農道には、興味深いものが点在します。ここは谷城跡付近の農道です。路傍に板石塔婆がいくつも見られます。最近ではイノシシ注意の看板をたくさん見るようになりました。イノシシは猛獣と言ってもよい凶暴性をもっており、動物愛護では済まないケモノです。最近では、野生のシカも見られるということで、夏場は、彼らについて移動する山ビルがいる可能性もあります。注意してください。滑川町点景
今回は、吉見観音:安楽寺(吉見町)について書きたいと思います。参詣日は2019.02.14です。これは、首切り谷、地獄谷の帰りに立ち寄りました。お寺さんも、神社さんも、そこの住職さん、宮司さん、檀家さん、氏子さんの熱意によって参拝、参詣するお客さんにいい思い出を提供できるところと、そうでないところの二つに分かれます。安楽寺は、比企郡屈指の古刹の一つで、近くの息障院を館とした源範頼公が身を寄せていたということなのですが、近くに関東支配の要、松山城があったために、再三再四の兵火に見舞われました。元来、参道はにぎわっていた雰囲気が残っていますが、いまでは、途中に茶店が一軒頑張っているだけで、寂しいですね。安楽寺付近は崖からの湧水が豊富で・・・・言い換えれば水の臭いがプンプンするのですが、わたしは、水の神が好きというこ...2019.02.14吉見観音:安楽寺(吉見町)
本日は、東京上野の下谷神社を紹介いたします。参拝日は、2019.01.31です。下谷神社は、上野の中央改札を出て、左側、大通りを北方面に向かいます。ここを直進すると地下鉄銀座線の稲荷町や合羽橋、浅草方面へと向かうわけです。また、この辺りには古い釣り道具屋さんや和竿職人さんいたり、お仏壇で有名な山口翠雲堂さんの第1ビル、第2ビルと、たくさんあるのです。下谷稲荷は徒歩10分もかかりません。北に向かって歩いていると右側に大鳥居が見えてきます。本当はもっと手前にさらに大鳥居があるのですが、それを撮影するときには道路を挟んで向う側に渡らなければなりません。下谷神社には下谷稲荷が合祀されています。下谷神社はしばしば時代劇にも登場するため、なんとなくなじみがあります。下谷神社は夜も参拝者がおり、ぼんやりと火の灯る様子は、タイ...下谷神社(東京上野)
東京の上野駅から山手線に乗ると、アメ横の真ん中にお寺の屋根が現れます。なんじゃありゃあ?これが、摩利支天大徳寺。参拝日は2019.02.01です。創建は寛永年間ということで、やや新しめのお寺です。節分が近いこともあって、お寺の方がおみくじやお守りを特設コーナーで売っています。都会のお寺は、地方のひなびたお寺さんとは雰囲気が違っていて面白いです。忙しいようで、こちらの御朱印は書置きのものです。摩利支天大徳寺(東京都上野アメ横)
藤田善導寺、正龍寺と続いたので、今回は寄居の十二支守り本尊の御集印帳について書きます。現在の御朱印ブームにさかのぼること35年くらい前のものです。資料箱の中から出てきたのです。父の守り本尊が虚空蔵菩薩ということで、何度か天昌寺に新年のお参りに通ううち、この御集印帳があるのを知り、集めたのでした。天正寺さんの御朱印をいただいたのは不明ですが、おそらく56年。藤田善導寺さんは昭和57年ですね。58年にいただいたものもあります。なぜか正龍寺だけがありません。理由は分かりませんが、今年、別の和紙カードにいただきました。30数年越しでめでたく完成しました。武州寄居十二支守本尊御集印帳
本日は、鉢形北条氏に縁の深い、藤田善導寺について書きたいと思います。訪問日は正龍寺と同日です。藤田善導寺はその名の通り、北条氏の縁戚関係にあった藤田氏の菩提寺です。私が中学生のころは善導寺と呼ばれていた気がしました。扁額も善導寺なのですが、現在は藤田善導寺と呼ばれています。藤田善導寺最大の見どころは本堂の天井の百人一首画で、中学生の時に見せていただいたことがあります。本堂内の彩色がガラス越しに少し見えます。以前は、本堂の天井の百人一首画も、かなり傷んでいたのですが、現在では修復が完成しております。それが映っているのでしょうか・・・?今では彩色もすっかり剥離してしまい、渋い雰囲気ですが、ところどころに残る彩色の痕跡は往時をしのばせてくれます。藤田善導寺(寄居町)
本日は、寄居町にある鉢形北条氏の菩提寺である正龍寺について書きたいと思います。お参り日は、2019.02.12です。正龍寺は猪俣氏が箱根権現を祀ったのが最初であり、1348年には青龍寺と号されたといいます。藤田氏15代目藤田康邦が開基し、1532年創建、以後、北条氏邦の帰依を受けて栄えたそうです。現在では、北条氏邦夫妻、氏邦の養父、藤田康邦夫妻の墓所があります。小田原落城にともなう鉢形城の開城の協議はこの寺で行われたのでした。北条氏、藤田氏の墓所は坂の中腹にあります。廟宇の中には、4基の宝篋印塔があります。また、廟宇の外には五輪塔寄居の町を見下ろすように立っていました。このお寺では御朱印がいただけます。これは私が中学校のころから続いているものです。その代わり手書きではなく「印」です。正龍寺(寄居町)
2019年02月02日に鬼鎮神社にお参りに行きました。鬼を祀るかわった神社です。豆まき神事が有名ですが、豆まきの直前に行ったのは混雑を意識したわけではなく偶然です。創建は1182年で、菅谷館の鬼門除けとして祀られたということなのですが、川越城の鬼門除けとも、松山城の鬼門除けという説も聞きました。鬼門って、どっちの方角なんだ?というか、鬼門とは北東のことですよね。裏鬼門というのもありますが、これは南西です。すると菅谷館にとっては、北東になります。川越城にとっても北東なのか・・・。松山城にとっては南西といえば南西ですね。さて、実は私、鬼神神社に行くのは3度目。いずれも水房館に行く途中に立ち寄りました。昭和50年代末から60年代のことですから、当時はまだ周囲が舗装されていなくて、土に玉砂利が踏み固められた道でした。人...鬼鎮神社
愚禅和尚の馬頭観音碑の隣にこんな用水施設がありました。丘陵の橋から脇である細粒をここに一度貯めてるんですね。埼玉県北における滑川町は周辺の自治体とは全く異なる個性を持っています。私にとって、住んでみたい街の一つです。問題は交通の便ですが。このため池は、実は意外に知っている人の多い池です。ちょっと珍しい構造だからでしょうか。最近は、地元でビオトープとしても大事にされているようです。水利施設好きには、なかなかの見どころだと思います。愚禅和尚馬頭観音脇ため池と堰
多少さかのぼりますが、2019.01.23、城原城(滑川町)の調査後、羽尾堀の内に向かう途中に、大きな馬頭観音の石碑がありました。愚禅和尚の馬頭尊(滑川町)ということです。大里郡の口碑集を読むと、この愚禅和尚の揮毫による石碑がたくさんあるのです。愚禅和尚は滑川の出身だったそうです。いわば地元の偉人なんですね。映りが悪いですね。わたし、実はこの隣にある水利施設の方に関心がありました。それはまた明日。愚禅の馬頭尊(滑川町)
上の写真と下の写真の違いはどこだ?御嶽城跡の西郭の降りる途中です。遺跡を巡っていると時々こんな写真が撮れます。でも、デジカメになってから本当に少なくなりました。今は手元から紛失して、資料部屋内を捜索中の写真には、もろに大きな顔のおっさんが映っていたものがあって、たまげたことがありましたが。デジカメ移行後、多くは、光の玉が飛んでいるようなオーブ系のものです。これはもうはっきりと原因がわかっていて、レンズについたほこり、指紋、水滴で、これはかなり恥ずかしい。レンズの汚れなどそのままで写真を撮りまくっていることになりますから。いくら専業カメラマンではないとはいえねぇ・・・。この写真は、クレヨンで書いたような印象で、はじめての事例でした。もうお分かりですよね。左側の白い落書きのような痕跡です。原因がわからないので、珍し...おまけ上の写真と下の写真、どこがち~が~う?
本郭を経由して、東の郭に向います。往路で撮影した場所をもう一度撮っていきます。本郭手前ですが、虎口状に見えますよね。御嶽城の場合、自然地形がそのまま活用されている場所が多い。人口構築物だったら虎口としてカウントしたいところです。そういう場所が、上の写真のように、結構たくさんあるのです。本郭手前にあった小さな石の祠も撮影しました。さて、東の郭です。この郭も物見に非常に適しています。東端に岩盤が露出しており、この場所が江戸期には修験の行場として使われていたのです。郭内から入口方向を見ると、虎口、土塁に見えますが、かなり形が崩れてしまっています。東の郭は、むしろ本郭よりも広いようにみえます。岩山の上から眺望が得られます。長い報告になりましたが、御嶽城の報告は以上です。いざ、パソコン前に座ってみると、行ったつもりで行っ...御嶽城(神川町)⑥
どたばたと御嶽城内を歩いているうちに、思ったよりも時間が過ぎてしまいました。これまでは、東側、北側を歩いていたため、太陽光線が少なかったのですが、西側に回り込むと、お昼を過ぎて傾いた太陽光が差し込んでいます。どうも、斜面を移動できないようなので、本郭に上がります。本郭から北西方面の眺望です。本郭から西稜線と言っても、北西方面と西方面の2方向に分かれています。長い北西稜線を降ります。堀切ですね。下り坂なのですが、疲れてくるとひざが笑っています。堀切の底から一枚。堀切を過ぎると露出した岩盤があります。大きな堀切が現れました。角度を変えてもう一枚。堀の底です。この盛り上がりは、土塁なのでしょうか。北西の稜線は、延々と山道、途中に堀切がある程度です。山道もなだらかです。ここにもう一つ堀切状の構造がありますが、むしろ急な...御嶽城(神川町)⑤
御嶽城の探索では、梅沢太久夫先生の埼玉の城所収の地図をベースに行動していますが、今回は、二の郭東側の尾根から北側の尾根に行ってみたいと思いました。東側尾根を二の丸下に戻りながら写真を撮影します。尾根伝いに降りていくときは周囲の様子もよく見えないもので、夢中になっておりていきましたが、戻るときにはずいぶん開けているような気がします。前を見たり後を振り返ったりしながら写真を撮影します。岩盤が虎口状になっていますね。二の郭下の堀切です。右側には石積が見られます。時間をかけて調査を重ねれば相当石積み遺構が見つかると思われます。北側の尾根に降りていきます。こちらの腰郭は狭いです。足場が悪いので、結局、北側に降りられずに困ってしまいました。結局、二の郭に戻ります。図によれば、この岸壁が、二の郭と北尾根を分断しているもののよ...御嶽城(神川町)④
昨日は、この石積みまで見ました。あと、念のため申上げておきますが、写真の整理がどうもうまくいっていないので、メモを見ながら誤認や不足があった際には、記事に修正や、加筆をしております。さて、こちらの方がはっきり石積みだとわかりますね。この先にはさらに、腰郭がありますが。この辺り、東端が近いようです。これ以上は、下に行けそうもないのですが。これは堀切です。とにかくむき出しの岩石が多く、こうしたものの一つ一つが防衛機能を担っていたのでしょう。御嶽城(神川町)③
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