船内の様子 ・昭和44年6月24日(火)~7月3日(木)(船旅を楽しむ)▲船内の食事風景(一番右が私)▲船長主催のディナー・パーティにて-右から私、フィリップ、タン、エバンス夫人、ベンドレィさん▲船長主催のディナー・パーティにて-船長と握手する私▲RoyalInteroceanLinesTjiluwahVoy.149-A(チルワ149号、オランダ船籍)▲ダンス・パーティーにて~股にオレンジを挟み、マドロス・パイプを吸っている私と同じ食事テーブルのおばさん▲ホース・レーシング・ゲーム~後ろの一番左が私 最初の頃、救命袋の着用方、及びBoatStation(救命ボートが格納されている所)へ集まり、ボートへの人員並びに割り当等を確認し、異常時に於ける脱出訓練が3回あった。 船旅で一番の楽しみ、それは食事であった。朝は...船旅を楽しむ~船内の様子
・昭和44年6月23日(月)晴れ(黄金色に染まった港を出港)本日12時に出航予定であったが、午後の5時に変更された。そして太陽の沈む頃、ブリスベン港に黄金色の光景を残し、静かに船は出港した。これでオーストラリア連邦国、そしてオーストラリア大陸の本当の見納めになるので、その想いは一塩の物があった。私はデッキに佇み、黄金色に染まったブリスベン港、そして日が沈んでからもモートン湾の光景を虚ろに見ながら、いつまでオーストラリアの日々に思いを馳せた。シドニーと同じくブリスベンも内陸まで“湾が入りこみ”(河口まで20km程)、外洋に出るまで1時間余り要した。黄金色に染まった港を出港~出航
・昭和44年6月22日(日)晴れ(ブリスベンの日曜日の様子)船はブリスベン港に1日中、停泊していた。退屈で仕方ないので午後、映画でも見に行こうと街へ出掛けたが、3軒ある映画館全てが日曜の為、閉まっていた。1軒ぐらい営業しているであろうと思ったが、オーストラリアの徹底した日曜日のあり方を再確認した思いであった。無人となった街をぶらついて、船に戻りボンヤリと過した。ブリスベンの街は、閉まっているのは何も映画館だけではなく、シドニーより徹底して全ての店が閉まっていた。街から人々が居なくなり、まるでゴースト・タウンの様に静かであった。市民は、郊外のゴールド・コーストヘ行って過しているのであろうか。出掛けない人は何もする事がないので奥さんの手伝い、或いは庭や家の手入れをするぐらいしか術がないのがこの国なのだ。『オーストラ...ブリスベンの日曜日の様子~出航
・昭和44年6月21日(土)晴れ(スケベなフレッド) 一昨日夜から昨日、船はかなりローリングしたので気持が悪かった。お陰で昨日の昼食は、喉を通らなかった。 チルワ149号は、今日の朝方の早い時間にブリスベンに入港した。昨日知り合ったFreadKelly(私は「フレッド」と呼んでいた)と共に朝食後、バスでブリスベンの街へ出掛けた。 ブリスベンは、クィーンズランド州の州都。ここはシドニーよりとても温かく(少し暑いぐらい)、通りに椰子の木の繁るのが見られ、南国の風情を感じた。今日は土曜日で、街は静かであった。特に何処かへ行った、或は見学したと言う事ではなく、我々はブラット街を一回りして、再び船に戻って来だけであった。 クィーンズランド州に足を踏み入れたのは、これで2度目であった。地図を見ると、このブリスベンから真っ直...スケベなフレッド~出航
出 航・昭和44年6月19日(木)曇り(心残りでオーストラリアを去る) 4月14日からルーム・メイトの栗田と共に住み始めたこのキングス・クロスのレント・ルームを去る日が来た。9時頃起きて出発の準備をしていたら、岡本と杉本が見送りの為に来てくれた。10時半頃、大屋のミセズ・ジャクソンおばさんにお世話になったお礼と共に別れの挨拶をし、大通りのウィリアムズ通りから相棒の栗田と共に4人はバスに乗った。私はシドニーに来て以来、初めてバスに乗ったのが、シドニーの最後の日であった。 バスは思い出のあるキングス・クロス地区を後にし、博物館を左に見てハイド・パークを横切り、ダーリング港(WharfofOceanTerminal,SydneyCove)まで行った。杉本はカメラを取りに途中下車し又、後から来てくれた。 私の乗船するロ...心残りでオーストラリアを去る~出航
日豪の経済発展と対日感情好転の理由の話~キャンベラ、シドニーの旅
*日豪の経済発展と対日感情好転の理由の話(1969年の視点)オーストラリアと言えば、『広い国、メルボルン・オリンピックが開催され水泳が強い国、そしてカンガルーと羊毛の国』と言う、ただそれだけのイメージしかなかった。その原因は、オーストラリアの歴史や地理について学校で教えない、テレビ等でオーストラリアの事について全く報道、放映されていない、と言う状況であったからだ。それは日本の外国に対する目は、殆ど欧米に向けられていた為であったのだ。欧米でなければ外国にあらず、そんな外国に対する偏った見方、意識があった様だ。しかし日本の経済発展の過程で、資源をオーストラリアに依存しなければならない現状とそのニーズの高まりがあった。一方オーストラリアは、農業依存(農業国)から鉱物資源の輸出と重工業化(工業国)への移りを求め、イギリ...日豪の経済発展と対日感情好転の理由の話~キャンベラ、シドニーの旅
博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅
・昭和44年6月18日(水)晴れ(博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ)昨日、家族や友達の為に何かちょっとした物でも良いからオーストラリアの記念となるお土産(カンガルーの毛皮、ブーメラン等)をジョージ・ストリートのシドニー・ケイブ寄りに買いに行った。そして今日、岡本と共にAustralianMuseum(オーストライア博物館)へ行った。この博物館はハイド・パークの東側ウィリアムズ・ストリートに面して、いつも貨物駅とステーキ・ハウス・レストランへの勤めの行き帰りに見ていたが、入ったのは今日が初めてであった。その博物館はオーストラリアの自然、古生物、動植物、鉱物、人種等に関する展示品があった。その中でポリネシア、メラネシア及びアボリジニの美術、彫刻、生活様式、道具、調度品等が印象深かった。特に、メラネシア諸...博物館、美術館巡り、そしてヴェラさんとの別れ~キャンベラ、シドニーの旅
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