>自分を信じていないと、 「自分を信じていないと、どうなりますか」 もしあなたが、自分を信じない人、あるいは信じられない人だとしたら、どんな生き方を選ぶかということです。どんな考え方や判断、どんな行動を選ぶのかということです。自分を信じていないのですから、相手や周囲や組織の言いなりになって生きるしかありません。自分を信じていないのですから、新しい何かを始めることも、新しいやり方を試すこともしなくなります。 あるいは、自分を信じていないのですから、おカネや地位だけにしがみついたり、そのときそのときの流行を追いかけるかもしれません。もちろんそういう生き方のほうが楽だと思う人だっているかもしれません…
>異性を見て興奮することとオバケを見て恐怖すること 例えば、何か恐いものを見たとしよう。心臓がドキドキして、恐怖を感じ、逃げ出したりなどするはずである。そこで、恐いものと切り離して、恐怖だけを考えることができるだろうか。恐怖とは何かが恐いことであり、恐いもののない恐怖とは理解しがたい文章である。確かに、漠然とした恐怖というものはあるだろう。しかし、それは恐いものが漠然としているのであり、漠然とした何かを恐がっているのである。性的なものを見て、性的興奮を覚え、セックスしたいと思い、性器が勃起し、性的行為に駆られるという性的な場面から、性的なものを切り離して、興奮し、抱きたいと思い、勃起し、行為に…
>なぜ失敗してはいけないのか 私は、新人ホスト時代に、「キャッチ」といって路上でお店への呼び込み行為をさせられていた(現在は条例により禁止)。当時は、どのホストクラブも、新人にはまずキャッチをさせていたのである。 最初に私は、路上でキャッチをしている何人ものホストを観察することから始めた。そこで目の当たりにした光景は、イケメンであまり声をかけないホストより、ブサイクでも、遠慮なくアタックしているホストの方が、成功率が高いということだった。 …(略)… とにかく、自分の気持ちを相手に伝えることから始めてほしい。そして、もしそこでうまくいかなかったとしても、まったくめげることはない。なぜなら、うま…
『売る身体/買う身体 ― セックスワーク論の射程』田崎英明編著
>セックスワークとセックスワークでない労働の比較から見る職業選択の自由 本書は、性風俗は労働である、との視点に軸足を置いて論じられている、ということが後書きで言われています。これは、女性解放論の文脈でこう言われる時には、性風俗を一律で禁止するのではなく、セックスワーカーのワーカーとしての権利を認めて、労働環境の改善、労働者の地位向上を図っていく、その枠組みの中で戦うべきであるという話になって、第一章「プロスティチュート・ムーブメントが問うもの」の中では、旧来のジェンダー論で主張されてきたプロスティチュートを全て被害者と見做して、セックスワークという枠組み自体をなくすという趣旨の主張に幾つかの反…
>感謝とは 感謝とはなんでしょうか。本書によれば、 自分の周りに存在している有難いことの事実を認めること だそうです。意外に中立的な定義です。感謝とは利己的行為か、利他的行為かと問われて、利己的行為であると答える人は少ないと思います。感謝というとなんとなく利己よりは利他に近い、身勝手からは遠いような感じがします。けれども、感謝が他人に対して何か利益になる、ということは直接的にはありません。この意味で感謝は別に利他的ではないわけです。感謝の対象を考えるとどうでしょう。なぜ感謝するのか、というとそれは、自分にとって有難いからです。自分以外の人が受益したことについて感謝するというのは美しい行いですが…
>野生 物語冒頭から逮捕までのアレックスは野生そのものと言えると思います。無関係な人間への暴力、仲間への気まぐれな虐待、これら無軌道な行いが、アレックスの純粋な自由、自主性から生まれ出ていることは間違いありません。スクリーン上の毒々しい色遣いと露骨な性のモチーフが、アレックスの無辺の衝動の心象をアートに昇華したキューブリック監督の技巧の結晶だと言える出来です。このころのアレックスの無軌道さは、私利私欲をその源泉としているのでしょうか。私はそうではないと感じました。敵の一派をぶちのめすのも、気まぐれで仲間をシバくのも、究極的には面白いからなんだと思います。面白いというのと、私利私欲というのは、ど…
>罪 人の行いの中で、罪になるもの、というのはどういうものでしょうか。人に大小の迷惑をかける行為である、というのが一般的な回答だと思います。この意味に取ると、本作の主人公葉一はまさに、無罪の人ということができます。彼の懸案は一貫して人に迷惑をかけないことにあって、普通の人が抱える幸せになりたいという利己的な願望が全くなかったわけです。無罪の人であった葉一は、みんなに嫌われることなく愛されて幸せにその生涯を送りました、というのが普通の帰結ですが、本作ではそうはなりませんでした。
>正しさと苦痛 正しさを捨てる、というコンセプトが繰り返し出てきます。正しさとは何でしょうか。 みつろう:「苦しいな」と思ったのなら、絶対に自分の中に「正しさ」を隠し持っているのか。 悪魔:当然さ。人間は「正しさ」以外の方法で、苦しむことなどできないのだから。 この文脈では正しさは苦しみを生み出すもの、という説明のされ方をしています。正しい状態から外れている状態のとき、焦りとか自己嫌悪とか、投げやりな気持ちとか、不快な感情が出てくることになるというのはうなずける話です。 「誰にも」「何にも」期待していない人間は、怒ることが絶対にできない。先に抱えた「期待」がなければ、怒りたくても絶対に怒れない…
>○○な自分になる 例えば、「初対面の人とすぐに仲良くなりたい」という願望を持つのは、「初対面の人とすぐに仲良くなれない、人見知りをしてしまう」という前提認識が自分の中にあり、それを変えたいと思っているわけです。「思考は現実化する」というフレーズがあります。これは、成功哲学の第一人者であるナポレオン・ヒルの有名な書籍のタイトルですが、この表現はあまりにも大雑把すぎると私は感じます。 事実、「思考は現実化」しますが、もっと詳細かつ具体的に表現すると、「前提となっている思考が現実化する」ということなのです。 「もっと自分をストレートに表現できるようになりたい」という願望を持っている人は、基本的に「…
>ミリオネア脳 そのアンケートは次のようなシンプルなものでした。低所得者層、中所得者層、高所得者層それぞれに「今、何に興味関心がありますか?」と聞いたのです。低所得者層に関心があることは、消費稅問題と年金問題。身近なお金のことに関心がありました。中所得者層になると、消費稅問題、年金問題に加えて、安保法案や、大企業の不祥事、政府の問題が上位3位を占めました。自分の正しさを証明するために、その対比として「悪者」「戦う相手」が欲しいわけです。 面白かったのが高所得者層の回答結果です。 政治や大企業の不祥事に興味のある人は2パーセントくらいしかいませんでした。彼らの興味関心があったのが、「1位健康づく…
>いまとは何か 「過去」と「未来」は考えることはできても、「感じること」はできなくて、逆に「いま」は「感じること」はできても「考えること」ができません。 たとえば、「ゾンビの映画」を観ているとします。 ここでもし、自分は「ゾンビに襲われる映画の主人公なんだ」と信じ切ってしまったら? 「こんなのいやだ、平和を味わいたい」と思ったら、「ゾンビを倒す方法、ゾンビから逃げる方法がいる!」と考えますよね(映画の中で)。 毎日、「どうすればゾンビを倒せるか、どうすればゾンビから逃げられるか」で悩み続けるはず。ほんとうに「自分はこのゾンビドラマの主人公だ」と思いこんでいるんだから、そりゃあもう一大事でしょう…
>ストレスとその解消 ここで心地よいということと、いやだということについて考えてみたい。心地よいというのは、本人がその感覚を受け入れている状態であり、いやだというのはその感覚を本人が排除したいと思っている状態である。このように、本人がその感覚をどのようにとらえているかによって両者の違いが出てくる。
>言語的なアプローチの限界 ヤージュニャヴァルキヤが一貫して追い求めたものは、真実のアートマンである。世間の人びとがアートマンだと思っているものは、真実のアートマンではない。というのも、「アートマン」を意味するとされる「わたくし」ということばを主語として、世間の人びとは、それにさまざまな述語(属性、限定)を連結させるからである。「わたくしは~である」と世間の人びとは口にし、それがアートマンであると思っている。しかし、真実のアートマンは、いかなる属性も限定ももたない。つまり、真実のアートマンは、こうである、ああである、というように、ことば(概念)によって捉えることはできない。あえて真実のアートマ…
>楽天思考 夢や希望を実現していくプロセスで一番重要なことは、「心を楽天的に、快に保つ」ということです。「快」は、脳の自動目的達成装置をONにします。全細胞を喜ばせ、はつらつとした体の代謝リズムをもたらします。結果的に、大きなことを容易になし遂げてしまうケースが多いのです。そしてもうひとつ、「夢を思い描くなら、できるだけ大きな考え方をしたほうがいい」ということです。 …(略)… 夢が大きすぎて困るということはありません。なぜなら、人は実現不可能な夢は決して持てないからです。 楽天家と言われる人々は、明るく、やさしく、陽気な笑いに満ちています。不安や後悔を寄せつけません。そして、数えきれないほど…
>少しだけ不幸 誰もが自分のことをなんらかの意味で不幸だと思っている部分があるということです。主婦の人たちを例に挙げると、彼女たちは、夫に対する不満をたくさんもっています。「私はいい心をもっているのに、夫はわかってくれない」「私は優しい言葉をかけているのに、夫はかけてくれない」「私は家族のことをこんなに心配しているのに、夫は理解してくれない」......。 十人中八人くらいは、こういうことをもらします。では、不幸かというと、そうでもないのです。それなら別れたらいいといっても、絶対に別れない。つまりは、少しだけ不幸、なのです。
>モチーフの対置がスゴイ たとえば訓練所で浴びせられる罵声の過激で過酷な内容と、ランニングのときに歌うバカな歌、陽気な長調のメロディと厳格さを排除した歌詞が与える印象が、それ以外の自由や尊厳のはく奪を強調しています。彼らはベッドで休むとき、銃を抱いて寝る、休息や弛緩の場であるはずのベッドに、最も似つかわしくない義務と業の象徴である銃が持ち込まれ対比されるわけです。さらにその銃に女の名前をつけて呼ぶというおまけつきです。こういう細部に対する病的なまでのこだわりは、のちのレナードの発狂と凶行に妙な説得力をあたえています。
>奇妙な同一性 阿Qは、未荘の中でも社会的なカーストの低位に位置する存在として描かれています。未荘の人々の振る舞いから、そのことが読み取れる箇所がいくつもあります。 阿Qは心の中で思ったことを、後にはいつも口に出していうようになった。だから阿Qをからかうすべての人々は、ほとんどみな彼がこのような一種の精神的勝利法をもっていることを知った。それからというもの、彼の解髪をつかむと、人はまず最初にこういう、 「阿Q、これは子供が親父を殴るのではないぞ、人間が畜生を殴るのだぞ。お前自身でいえ、人間が畜生を殴るのだ!と」阿Qは両手で自分の解髪の根元を握りしめて、頭をゆがめながら、いうのである、「虫けらを…
>墓を開く お墓の移築のシーンは強烈です。 大きな白い経帷子が死体を蔽うて、ところどころからだの曲線を描き出していた。この経帷子は片すみがほとんどすっかり腐って、そこに死人の片足がのぞいていた。 わたしは気分が悪くなるような思いがした。今こうやって書いているときでさえも、あの光景の思い出がまざまざとよみがえってくるようだ。 「さあ、急ごうぜ」と警官が言った。すると、ひとりの男が、手をのばして経帷子の縫い目をほどきにかかった。そして、端をつまみあげたかと思うと、いきなりそこにマルグリットの顔があらわれた。それは見るも恐ろしく、語るもすさまじい光景だった。両眼は、もはや二つの穴でしかなかった。くち…
>ニルヴァーナとは何か 生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、―それは喜ぶに足りない。 それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。 そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。 来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまること無く、依拠することも無い。それが苦しみの終滅であると…
>協働の物語 この話は、理想の協働のあり方の物語と読むことができます。 この作品の主人公、フォッグとパスパルトゥーはお互いに対立する性質をそれぞれ持っていて、それぞれ静と動の人ということができます。例えば
>試験が終わった後の解放感 夏休みはこうなくてはならない。山々の上にはリンドウ色に青い空があった。幾週間もまぶしく暑い日が続いた。ただときおり激しい短い雷雨が来るだけだった。川はたくさんの砂岩やモミの木かげや狭い谷のあいだを流れていたが、水があたたかくなっていたので、夕方おそくなってもまだ水浴びができた。小さい町のまわりには、干草や二番刈りの草のにおいがただよっていた。細長い麦畑は黄色く金褐色になった。あちこちの小川のほとりには、白い花の咲くドクゼリのような草が、人の背ほども高く茂っていた。その花はかさのような格好で、小さい甲虫がたえずいっぱいたかっていた。その中空の茎を切ると、大小の笛ができ…
>尊い無為 その幸福とはいったいどういうものであったか?またどんなふうにその幸福を楽しんだか?わたしはそこで送った生活を描いてみせるから、現代のすべての人々に、できればそれをわかってもらいたい。尊い「無為」こそ、その快い味わいを思いのままに味わえたらと願った楽しさの第一のもの、主たるものだったが、じっさいのところ、そこに滞在しているあいだにやっていたことは、すべて、閑居に身をゆだねた人間に必要な甘美な仕事にほかならなかった。
>究極的に孤独 本書は家族小説です。解説に、 ぼくたちに自分自身の親子のあいだの食いちがいを思い起こさせ、さらには、家族というものが、外なる現実社会にたいしてはおたがいに寄りそうと同時に、家族内部においてはそれぞれが究極的には孤独であることを思い当らせてくれるのである。
>理性と本能の対立 まず、理性と本能が対立的に描かれています。理性はキリスト教とその伝道師であるディヴィドソンで、彼に関する記述は、
>読む時期の問題 一度過去に読んで挫折していたのを再読して読み通しました。読んでみてわかったのですが、これは完全に
前にホラーとは何かを考える記事を書きました。 ホラーというジャンルについて - H * O * N この作品もまた、ホラーが満たすべき条件をよく備えたいい作品だと思いました。
三人兄弟の末っ子「にんじん」の上手くいかない日々を描いた作品です。 >ブラックユーモアの嵐 ニンジンの上手くいかなさが本作の見どころの一つであることは明らかだと思います。 また別の晩には、うまいぐあいに、街角の車よけの石から、ほどよくはなれたところにいる夢を見た。それで、かれはまったく無心のうちに、ぐっすり眠ったまま、シーツの中にしてしまったのである。かれは、はっと目を覚ます。 驚いたことには、自分のそばには、石などありはしない!
>かなり独特な文体 に最初驚きました。こういう口語そのままの語彙やリズムをそのまま残す表現方法は小説というより落語に近いと感じました。と思っていたら、本作執筆前に二葉亭四迷は先輩の坪内逍遥に落語みたいに書いてみたら、とアドバイスされていたというエピソードがウィキペディアに載ってました。
>アン的なもの を随所に感じることが、この作品の読書体験であり、また読みどころだと思います。それはアンの行動から感じられることもあれば、アンを取り巻く環境から間接的に感じられることもあります。この作品に登場するものは、人物であれ自然であれ、作者の体験、作者の一面であって、同じ一個人の想像力というところにアンと出自を同じくしていますし、またアンが物語の中で、それらの表象と反応しあいながら人生を送っているという意味で、やはりアン的なものの原因であり、結果であるとも言えると思います。その意味でアンは作者自身である、という訳者解説の言葉はその通りだと思います。
■ワーニャ伯父さん 本作の主人公、ワーニャ伯父さんの不平不満が読みどころだと思います。亡き妹の夫であり大学教授「セレブリャコーフ」に経済的援助をしながら、教授への尊敬はとうに失せてしまって、 まる二十五年の間、やれ芸術だの、やれ文学だのと、書いたり説教したりしてきた男が、そのじつ文学も芸術も、からっきしわかっちゃいないという事実だ。やっこさん二十五年のあいだ、やれリアリズムだ、やれナチュラリズムだ、やれくしゃくしゃイズムだと人様の考えを受け売りしてきただけの話さ。二十五年のあいだ、あいつが喋ったり書いたりしてきたことは、利口な人間にはとうの昔から分かりきったこと、ばかな人間にはクソ面白くもない…
■他者を意識すること 訳者の解説によると、 トルストイはこの作品の中で少年時代という時期の特色を、「それまで見慣れていたあらゆるものが突然まだ知らなかった別の面を示したかのように、ものの見方がまったく変わってくる」ことにあると説明している。そして『少年時代』という作品を前作『幼年時代』からはっきり際立たせているのは、まさに作品の中にはじめて「外部の世界」が示され、「他者」にたいする意識が目覚めた点にあると言ってよい。 この旅でニコーレニカははじめて、自分たちにおじぎをしようとしないばかりか、視線さえ送ってよこさぬ商人や百姓たち、すなわち他人の存在を意識する。 であって、外部の世界、他者の存在が…
■無邪気さ エリザベートは着物をぬいだ。姉と弟の間には、何の気兼ねもなかった。この部屋はひとつの甲羅みたいなもので、二人は同じからだの二つの手のように、そのなかで生活し、洗ったり、着物を着たりするのだった。
『アンキャニー 不気味の谷』に寄せて ~読書という体験について~
『アンキャニー 不気味の谷』というのは、AIとそれを作った科学者がAIのテストのために他人を利用する話です。話自体はどうということもなかったのですが、ちょっと考えさせられたので記事にします。 ■本作はなぜ微妙なのか というと、やはり主題がはっきりしていないからだと思います。博士と記者の実らない恋に焦点を当てるのなら、博士は実験をやめているはずで、さらに敢えて言うと、少なくとも文学の文脈では、実験をやめなければならない、とまで言うことができると思います。
アガトンの家でみんなで飲んでいると、愛についての演説を順番にしていこうという流れになって、いろいろあって最後にソクラテスがすごいいい演説をする話です。みんなの演説が本作の中心なのですが、読んでみて演説を順番にしていってみんなで聞く、というこの文化は割とラップバトルっぽいな、と思いました。当時はソフィストという弁の立つ人が華麗に相手を論破するのが流行っていたので、言語の発達が著しい文明だったんだと思います。
■章立てがわかりやすい ニーチェの生涯の思想を五つに分けて、それぞれに説明を付して時系列で配置していて、非常に直感的でわかりやすいです。説明だけを通しで読んだらわかった気になるし、中身を読む前に説明を読むことで準備ができていいと思います。基本的に古典の原典を読むことを至高の価値としているので、最初この本を編集したのが著者本人でないというところに抵抗がありましたが、いとうせいこう氏の解説でニーチェの原典がかなり難解そうだとわかり、これでよしとしました。
ホラー映画が好きでよく見るのですが、ホラーというジャンルはかなり作るのが難しいだろうなあ、と、見てて思います。 ■ホラーを構成する2要素 ホラーと呼ばれる作品を考えた時、どの作品にも共通して二つの側面があることは、割と明証的に知れると思います。すなわち、 ①感覚的側面 ②論理的側面 の二つです。
■不健康な人たち 登場人物の心象風景が、普通の人たちの病的な心の側面を拡大したかのようなものが多く、作品全体に非常に危うい印象を与えていると思います。 とうとう一週間立っても、まだ娘は来なかった。恋しい、恋しいという念が、内攻するように奥深く潜んで、あいつ楽な身の上になって、親のことを忘れたのではあるまいかと云う疑(うたがい)が頭を擡げて来る。この疑は仮に故意に起してみて、それを弄んでいるとでも云うべき、極めて淡いもので、疑いは疑いながら、どうも娘を憎く思われない。ちょうど人に物を言う時に用いる反語のように、いっそ娘が憎くなったら好かろうと、心の上辺で思って見るに過ぎない。 それでも爺さんはこ…
世界史の教科書に載るレベルの有名なやつです。有名な考えるゆえにわれありを生で見たいというミーハーな動機から読み始めた本書でしたが、哲学書の中では非常に読みやすかったです。 ■仮の格率 デカルトは真理を探すために疑えるものはすべて疑っていましたが、真理が明らかになるまでの間、拠り所とする指針がないと生活に支障をきたすということで、いくつかの格率(自分ルール)を考えました。これが短くまとまっていて結構面白かったです。第二、第三の格率がお気に入りです。
■信仰について 本書を読んで一番強く感じたのがこの信仰に関することを考えないといけない、ということでした。まず、本書における神、信仰は哲学の対立概念です。哲学が古代から近代にいたるまで、人々が求める疑問への回答を提出出来ていないこと、に触れ、そのことをもって疑問への回答は不可能である、と結論付け、その回答不可能、説明不可能なものを「神」と名付け、神の目で疑問を理解することで、幸福に至る、というのが本書の主張(哲学の失敗から信仰の必要性に至る主張)です。
■ストア派 続きです。 サラダはどれほどで売られるか。多分1グロッセンぐらいであろう。さて今、ある人が自分のもっている1グロッセンを支払って、その代わりにサラダを得たとする。君は金を手離さず、何物も得なかったとする。しかし、きみはその人よりも決して少なく持っているわけではない。彼は彼のサラダを持っているし、きみはきみの手離さなかった金を持っている。 …それが有利だと思われるなら、きみはその対価を支払うがよい。しかし与えずに受け取ろうとするなら、きみは貪欲な愚か者である。
■仕事 最近仕事のことでツキが回ってきて、機嫌よく仕事をしているのですが、そんな中幸福論と題された本作の第一章が仕事の話題で、共感するところが少なくなかったです。 ひとの求める休息は、まず第一に、肉体と精神を全く働かせず、あるいはなるべく怠けることによって得られるものではなく、むしろ反対に、心身の適度な、秩序ある活動によってのみ得られるものである。 働く人だけが真に楽しみと休養の味わいを知りうる…。先に働いていない休息は、貪欲のない食事と同じくらい楽しみのないものだ。
コミカルな設定とテイストを持ちながら、人間の中の社会的な部分と反社会的(犯罪的な意味ではなく理屈を超えているという意味で)な部分の境界を問うた重厚な作品だと思います。
『魔女と呼ばれた少女』というのは、映画のタイトルで、簡単に言うと内戦が続くアフリカのどっかの国で、ひどい目に遭う少女の話です。某サイトの評価が非常に高かったので観たのですが、自分的には微妙でした。その所感に至った理由をあれこれ考えるうちに、思うところあり、筆を執った次第です。
無人島に不時着した子供たちが、集団生活を企図しますが破綻を来たし、暴力と破壊の中に飲み込まれていく話です。成行で指導者に選ばれたラーフが、救助のために理性的に秩序立って集団を統率しようとしますが、集団は瓦解し、当初の目的が完全に失われるまでを描いています。子供たちの集団における様々な概念を象徴的に表したアイテムが多く出てきます。
サリンジャーについては、実は以前『フラニーとゾーイ―』を読もうとして挫折した苦い経験がありまして、この度短編集なら何とかなるかと思い今作を手に取った次第です。『フラニーとゾーイ―』については、一見して必要性がわからないような冗長なワードサラダ的記述がキツかったんですが、こんどの短編集も最初の一つ二つの時点でその傾向があり絶望しつつ、それでも何とか短編集ということで読み進めたところ、『笑い男』が自分的に激ササリでした。最近読んだ本の中では一番泣いたと思います。それに続く『エズミに捧ぐ―――愛と汚辱のうちに』も、少女エズミの愛らしさとその後の展開の汚辱のコントラストが圧倒的切なさを見せる名作で、さ…
■読み終わった最初の印象 は、 めちゃくちゃカッコイイレトリックで書かれた悪趣味な前衛芸術 でした。普段海外の文豪の著作の訳書をよく読むので、文豪が自国語で書いた文の威力というのが強烈で非常に印象的でした。
子供の頃童話の本でイソップの名前を知って、その印象が強かったので、イソップ=童話作家のようなイメージだったのですが、本作を読んでひっくり返りました。男女の情事の話や、動物の話と見せかけた都市国家間のマキャベリズムの話などがあって、またイソップ自体レイシストな側面があり、思っていたより過激でした。印象的だった寓話を引用します。 ■共感
クリスマス前のギムナジウムを舞台に、そこの生徒たちの戦いと友情を描いた作品です。 訳者解説に、 ケストナーは多くの読者に愛され(たから?)、多くの批評家や研究者からうとんじられた。現在もそうだ。読めばわかるから、研究者や批評家の出る幕があまりない。 とありますが、その通りで、読めばわかる作品でした。
主人公のムルソーが、ふとしたきっかけで人を殺し、死刑を宣告される話です。ムルソーは、普通の社会生活を営んでいるように見えます。経済的な事情から親を養老院に入れていること、職場で知り合った女性と恋に落ちたこと、少しアウトローな友人と近所づきあいしていること、といった個々の事情は、それ単体では何ら違法性がなく、取るに足らないことです。しかしムルソーが殺人を犯した途端、それらのことがまるで原因であるかのように司法から糾弾を受けます。つまり、親を施設に入れたことや、親の葬式のすぐ後に恋人と海に行ったことをもって彼の倫理観の欠如を、アウトローな友人の存在をもって彼の反社会性を、説明しようとします。それら…
『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ著、村上春樹訳
カポーティの著作は、この前『冷血』を読みまして、それ自体は取り立ててすごいというわけではなかったのですが、その時にカポーティという作家が有名らしいということを知りまして、古本屋の棚にそのカポーティの作品があったことで手に取ったのが本書です。購入してから、あの村上春樹氏の訳だったことに気づき、同氏がご自身の個性を前面に押し出してしまっているとワケワカラン感じになってしまっているのでは、という危惧があったのですが、そんなこともなく、非常に素晴らしい作品でした。またこれも購入してから気づいたのですが、本書は表題作『ティファニーで朝食を』を含む短編集で、表題作以外の3本の短編も名作揃いでした。
人生全般について論じた本です。本書では人間を動物的基盤の上で生きる理性的な存在と規定し、それに基づいて幸福の在り方や生と死の在り方を論じています。
この作品は、1997年-1999年にかけて放映されたアニメです。 夢のクレヨン王国 - Wikipedia オープニングとエンディングが印象的なので名前は憶えていなくても聞くと思いだす人もいるかと思います。 夢のクレヨン王国OP「ン・パカ マーチ」徳光由香・東京少年少女合唱隊 - Youtube 夢のクレヨン王国 エンディング ありのままに(杉山加奈・1997) - Youtube
■あらすじ・みどころ 測量士として仕事を依頼されやってきた「K」が、当地の決まりや手続きに翻弄されて、ついに職務に就けずに、測量士としての本領を発揮できない話です。測量士として働こうとする中でKは、依頼者である『城』との交渉を絶えず試みますが、城はその複雑な行政機構から多くの代弁者、使者を抱え、Kの交渉は遅々として前に進みません。Kが非凡な熱意をもって城と意思疎通をはかろうとする様子と、いかにしても手の届かない城側の曖昧模糊な受け答えがこの作品の見どころだと思います。例えば、Kは測量士としてこの地に派遣されますが、直接の上司である村長に掛け合うと、測量士は不要であるとの回答を受け、憤慨して村長…
やさしい『Amazon music unlimited』30日間無料体験のはじめかた
本日は、amazonが提供しているサービス Amazon music unlimitedの30日間無料体験の始め方 を解説します。読書のお供にどうぞ。 読書のお供に、Amazon music unlimited。
■要するに 小論文を書く機会があり、読みました。一応小論文一般の参考書ということになっていますが、著者の経歴が出版社→新聞社→フリージャーナリストということで、かなり出版・マスコミ業界に特化した内容で、他の業界の選考ではまれな三題噺や、抽象的なテーマの作文の対策に紙面が割かれています。
先日友人に上記の曲を進められたので、聞いてみたところ非常にすばらしい曲でした。 微笑がえし - YouTube この曲は主人公の女性である「私」と、付き合っていた彼氏の「あなた」が、同棲していた住まいを引き払う話です。周囲の人たちから引っ越し祝いをもらって、そのお祝い返しをするという描写から、二人の関係は周囲の公認のもので、周囲からはそんな二人が順風満帆な新生活をスタートしたように見えたであろうことが伺えます。 その二人の同棲の解消には二人にしかわからないやんごとない事情があるのでしょうが、その事情をいちいち説明することなく、表向きは引っ越しにまつわるこまごまとした情景の描写に終始しています。…
深秋の候、皆様におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。年がら年中読書をしていますが、読書の秋、ということで、この時期、深まる秋の空気を感じながら喫茶店などに出向いてのんびり読書などするのもまた格別な趣がありますね。 こちらは、よくモーニングと読書で利用している喫茶店です。家からは少し遠いのですが、ここら辺ではコーヒー、料理共にダントツでおいしくて雰囲気も素敵なお気に入りの店です。
趣味は読書と称して憚らない私ですが、読まないジャンルがあります。 推理小説 です。特にミステリーが嫌いで読まないというわけではなく、何となく選ぶ本の中に推理小説が決まって入っていないということなのですが、この無意識の本のセレクトの中に、私の読書にかける思いが端的に表れているように感じました。 推理小説を読まない
■要するに 読者様各位 新年あけましておめでとうございます。 2018年1月3日の『君の名は。』地上波公開に先立って、新海誠氏が手掛けた過去作品が地上波でいくつか放送されており、本作はそのうちの一つとして放送されたものです。この作品は過去に見たことがあって、その時も憂鬱になるほどの切なさを有した素晴らしい作品だと感じた記憶がありますが、しばらくしてみてみるとやはり色あせない印象を持った素晴らしい作品だと感じました。 本作は、 内的な体験としての恋愛 を描いた作品であると感じました。 内的な体験としての恋愛を描いた、色褪せない作品
参考にするのは下記の論文です。 フランツ・カフカの『変身』について 一「虫」の大きさの考察一 ■要するに この論文では、作中の主人公が変身してしまった「虫」の大きさが場面によって伸縮していると指摘し、虫の体長はの大きさは、主人公と社会のつながりの大きさに比例するとしています。ストーリーとしては、部を追うごとに主人公と社会との関係は断絶していき、虫の大きさはそれに伴って縮小していきます。具体的には、1部で家に来た会社の上司が肝をつぶして逃げ出し、3部で家族にも愛想をつかされ、それに伴って冒頭では虫の大きさは人の背丈ほどもあるのが、終盤ではやや大きいカブトムシほどの大きさになっています。 虫の大き…
■要するに ある朝目覚めると虫になっていた男と、その家族の苦悩、男の死までを描いた作品です。この作品を読む前に著者カフカについて、『絶望名人カフカの人生論』という本を読んで、カフカという人のおおざっぱな特徴は前情報として知っていました。 『絶望名人カフカの人生論』カフカ著 頭木弘樹編訳 - H * O * N この本によると、カフカはネガティブすぎて病気になったときに生きる苦しみから逃れられると言って狂喜するほどの人物だったとのことでしたが、本作にもカフカのそんなネガティブな一面がいかんなく発揮されていて、数々の不快さの小ネタが本作のいいアクセントになっていると思います。 そして意外にも、割と…
■要するに この本は殺人犯の市橋達也氏が、犯罪を犯してから逮捕されるまでの2年7か月の逃亡生活を述べた作品です。飾らない言葉で、起こった事実に基づいた事柄のみを淡々と叙述していますが、全国を転々とする中で氏が体験した、沖縄でのサバイバル生活、大阪での肉体労働の日々、そう言った特異な体験が、本書を特異な作品にしていると思います。 平易な語り口で特異な体験を語る特異な作品
下記のサイト(pdf)を参考にスタインベックの『蛇』について解説します。 ジョン・スタインベックの『蛇』について_中村正生 - 長崎大学学術研究成果リポジトリ ■あらすじ この作品はフィリップス博士の研究所にやってきた女が、ガラガラヘビを売ってほしい、えさを食べるところを見たいという奇妙な要求をする話です。蛇が餌を食べるのを見る女は、蛇と二重写しのような所作を見せ始め、蛇が顎を外して口を開けて獲物を飲み込むとき、博士は恐怖で女の顔を見ることができずに目を背けます。女はまた餌をやりに来ると言い残したきり、二度と戻ってこなかった、という筋書きになっています。 蛇を買いたいという女 蛇が餌を食べてい…
下記の文献を参考にスタインベックの『菊』を解説します。 冬の花 - 滋賀大学学術情報リポジトリ スタインベックの「菊」 ―或るちぐはぐな夫婦の物語― - 長崎大学学術研究成果リポジトリ ■あらすじ 中堅農場経営者ヘンリーの妻として菊を育てながら平和な毎日を送るイライザが、庭で仕事をしていると、旅をしながら金物の修理をしているその日暮らしの鋳掛屋がやってきて「何か仕事はないか」と言います。相手にせずやり過ごそうとするイライザでしたが、鋳掛屋が菊のことに話題を向けると途端に心を開き、鋳掛屋の知り合いに渡すために菊の新芽を持たせてやり、さらに家から仕事を探してきてやります。菊の行く末に期待を寄せるイ…
拝啓、秋雨の候、読者の皆様におかれましては、ますますご隆盛のこととお喜び申し上げます。掲題の通り告知いたします。 ■解説とは その作品について書かれた論文を参考に、作品の伏線や、ただ読むだけではわかりにくい意味をわかりやすくまとめていきます。論文はだいたい1本~3本ほどを参考文献として使用しています。個人的に、文豪の作品を読むときは読後によく関連する論文を読んで、作品の意味や主張の理解を深めるということをやっていましたが、これが意外と面白いです。文豪の作品をただ漫然と読んでしまうと、文章の意味としては判るんだけども作品全体として何が言いたいの?ということになってしまいがちなのですが、読後に論文…
■要するに この本は、今年の六月ぐらいに読んで当ブログで感想を書いた本です。その時の記事はこれ↓で、内容をざっくりいうと、 『「友達いない」は"恥ずかしい"のか』著:武長脩行 - H * O * N ・「孤独」という状態は、社会から個人へのネガティブな働きかけの一形態である ・何らかの行動を起こした行為主体に対して、社会が甲斐であると判断した場合、その行為主体を排斥するために孤独という措置がとられる ・孤独という状態を経験することは、何か行動を起こすときに、そのリスクを正しく見積もることに資する ・多くの人は孤独の恐怖を過大評価して、多くのことを諦めて生きているように見える こんな感じです。そ…
■要するに 実際にあった一家四人の惨殺事件を題材にした作品です。徹底した取材と膨大な資料を基に物語を構成するニュージャーナリズムと呼ばれる手法で書かれた、筆者曰くノンフィクション・ノヴェルであるところの本書は、実話であるが故の荒唐無稽さ、些末さといったものが実話としての重みをもって読者に伝わる、なかなか読み応えのある作品だと思います。特に訳者があとがきにて指摘している通り、犯人や被害者、捜査官、隣人など、ほとんどすべての登場人物の家族との絆に意図的に焦点を当てることで、物語に非常な厚みが、少なくとも多大なページ数を費やしただけの厚みが出ていると思います。冒頭では被害者の家族の生活が事細かに描か…
■要するに 少年である主人公が、年上の女性「ハンナ」と行きずりの肉体関係を持ち、彼女との生活の幸福、その破綻が主人公の心象に拭い難い強烈な印象を残す話です。これだけだと悲恋風の普通の恋愛小説なのですが、この作品では主人公とハンナを媒介する要素として「ナチ政権」が出てきます。主人公は戦後のナチ政権をめぐる裁判を通してハンナと再会することになりますが、その再会の経緯がこの作品に独特なカラーを与えていると思います。 戦争が深い影を落とす悲恋
サバサバ系、という概念があります。これは主に女性の性格を形容するときに使用される言葉で、ざっくりいうと女子っぽくない、男っぽい性格を表現する言葉です。世間に目を向けると、この概念が濫用されていることがわかります。試しにインターネットで、お手元のブラウザの検索窓に「サバサバ」と入力していただくと、たちどころに下記二つの記事がヒットします。 うざい!と話題「自称サバサバ系女子」とは? サバサバ女子の特徴って?男ウケ抜群の「モテ女」パターン6つ
最近海外文学の短編集に凝ってまして、この本はその一環として読みました。マーク・トウェインと言えばトム・ソーヤーの冒険が有名ですが、私は過去に一度読もうとして挫折しました。平たく言うと無駄に長かったからだと思います。その点これは短編集なので、一つ一つの話の切れ目が明確なのでダラダラ長くなることがなく、しかもトム・ソーヤーの冒険にみられるようなユーモアや滑稽さで暗示される真理の描写が随所にあって非常に機嫌よく読むことができました。 特に面白かったのは、『私が農業新聞をどんなふうに編集したか』『エスキモー娘のロマンス』の二編です。
本書は著者の前作、『情報は一冊のノートにまとめなさい』がベストセラーになったことを踏まえて書かれた続編で、読書ノートの作成を奨励しています。本書の真価は1冊のノートにまとめる方法論ではなく、読書家の同氏が自身の読書の仕方を述べたところだと思いました。
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