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  • そもそもこの荒島岳の頂上の祠の影の石積の塔には、南無妙法蓮華経と彫られていて、北陸でも法華経が山岳信仰と結びついていたことは明白だ。 霊鷲山で説かれたのだから。 そして、行者になれない女のために、方便としての極楽浄土があり、 阿弥陀の誓願が発せられたはずである。 その女人往生の願いが先で、涅槃・法華が顕れ、 弥陀の誓願で浄土に往生させられる。 これが真宗で、 逆に浄土の根源を探したら、法華・涅槃が見えてしまい、 如来神力を仰ぐことになったのが、日蓮だろう。

  • そもそも念仏は称えるのでなく聞くものだった・・

    そもそも、大谷派以外にはあまり、親鸞が聞いた女犯ゲの和讃のようなリズムは伝わってない。親鸞は山を降りる前、千日回峰の前行である常行三昧の堂僧である。 ▼北陸荒島岳下山時の夕暮れ みい だあ だい ひの おんどくを ふうかくしんぜん ひとはみな おくねん のお しん つね に して ぶっとん ほおずる おもい ありい ▲荒島岳頂上への登り ぎょうじゃあ しゅく ほう せつ にょほん があ じょう ぎょく にょお しん ぴい ぽん いっしょう しいけん のう しょう ごん りん じゅう いんどう しょう ごくらああく 行者 宿報 設 女犯 我成 玉女 身 被犯 一生 之間 能 荘厳 臨終 引導 生…

  • 風に吹っ飛んで 拙訳

    Blowin' in the wind 風に吹っ飛んで 作詞: Bob Dylan 拙訳 How many roads must a man walk down どれだけの道を歩いたら Before you call him a man? 男と、認められるの? How many seas must a white dove sail どれだけ鳩が海渡り Before she sleeps in the sand? 彼女は、砂浜で眠る? Yes, and how many times must the cannon balls fly ああ、何回、砲弾(タマ)が飛んだなら Before they…

  • その答えは風の中、風に吹っ飛んでる・・

    ノーベル文学賞に決まったボブ・ディランの、有名なBlowing in the Windの風は、そよ風のbreeze では無いのだから、9日に甲斐駒が岳の頂上近くで体験した、体が吹っ飛ぶ感じの風に違いない。 ディラン自身が、答えをしたり顔で言う人に対して、「そんなヒップな奴らの答えは吹っ飛んでんで、そうして俺たちは結局紙切れみてえに地上に吹っ飛ばされて落ちるんだろうなあ」、なんて、解説しているのだから。 村上春樹がノーベル文学賞を取れないわけだ・・・ 日蓮の表現で言うと、理の一念三千ではダメで、事の一念三千なんだろう・・

  • 南アルプス仙丈ヶ岳にて

    それにしても、南アルプスの仙丈ヶ岳頂上付近、標高3033mにもある、この修験道の行者の遺物は、いかに日本の登山道が熊野修験と結びついてできたかが分かる。那智山青岸渡寺とあるこの卒塔婆の横の石仏は手にロープを持っている。 こういう世界を「霊前浄土」というのではあるまいか?

  • 南木曽岳登山道は妻籠の裏なのだが、入道する人は少ない!・・

    高校時代にキャンプをはっていたことがある南木曽岳のキャンプ場に行くと、あまりに変わっていて、林道は覚えているのですが、さびれていて、工事中で迂回路ができている登山道入り口を見つけ、確認するのに半日かかりました。妻籠の宿の近くなんですが。 どうも山というのは、案内がないと、そもそも登る前に入り口にたどり着くまでが大変です。登山する以前に、入道することが意外に困難です。 法華経の迹門と本門の関係のようです。方便と真実を、いにしえの人々は、山を登って体験の中から考えており、それを行と考えていたようです。

  • 親鸞の流罪ルートは春なので雪を避け、北陸でなく三河ルートである!

    そもそも親鸞が越後の国府に流された時、北陸を通ったことはありえない。東海地方を経由したに決まっているのである。 なぜならば、流罪になったのは下記の正明伝のとおり春であって、3~4月に北陸の加賀から富山を通ることは、国境の豪雪によって、鎌倉時代には不可能だからだ。 下の写真は、先週に登った岐阜県と長野県の境目にある標高2191mの中央アルプス最南端の恵那山の登山道から見たものだが、上に見える盆地が飯田盆地で、そこにある天台宗の寺は元善光寺である。恵那山登山道は天台修験の道場として平安時代に開かれた。もともと長野市にある善光寺の阿弥陀の一光三尊仏は、飯田の元善光寺にあったものを頼朝の時代に諏訪湖経…

  • 横川定光院にいた日蓮の方が、朝法華夕念仏の元三大師や恵心僧都に近い

    ▲琵琶湖湖畔にある元三大師ゆかりのお寺 一方、比叡山の通常、恵心僧都がこもっていた天台浄土教の聖地であることで有名な、横川にいたのは、日蓮の方です。彼が横川の定光院にいたのは有名です。 横川はもともと元三大師良源が開いた比叡山の東塔や西塔から大幅に北の方の、琵琶湖に降りてゆく谷であって、それは日枝山王社や上の写真の元三大師がここから山に登ったという堂の近くです。 ここに天台の朝法華夕念仏の考えは、むしろ日蓮に受け継がれたのであって、浄土真宗が密教的なのに対して、日蓮の立脚点が、顕教であることが分かります。

  • 京都から琵琶湖まで縦走して気づく比叡山時代の親鸞の立脚点

    ▲無動寺谷に降りる山道から見た琵琶湖 6月6日、つゆの最中の晴れの日に修学院の裏のきらら坂から琵琶湖まで縦走しました。 すると発見したのは、親鸞が妻帯をすべきという、六角堂の夢告の前に密行をしていたと正明伝に伝わる無動寺谷が、東塔の南のケーブルカーが琵琶湖側に降りる険しい谷間にあって、千日廻峯の行者が行く方だということです。 二十八歳十月三七日のあいだ、根本中堂と山王七社とに毎日毎夜参詣し、丹誠の御祈あり。これ末代有縁の法と、真知識とを求むるとの御祈誓なり。同冬、叡南無動寺大乗院に閉籠りて、密行を修せらる。是も三七日なりしが、結願の前夜四更に及で、室中に異香薫じ、如意輪観自在薩*(タ 土+垂)…

  • 御在所岳にでも登ったら法華経の意図が分かるのでは??

    実際、法華経は霊ジュ山で説かれたのであるから、素直に読めば、地湧の菩薩とは、下の写真の御在所のキレットのようなV字の岩場や地面を、3点登攀で登り降りする行者のイメージが源泉にあるとしか思われません。そもそも釈尊はネパールからインドの平野に降りてきた人であり、最後に故郷の方に登ってゆく途中の沙羅の林の中で死んだことは、長阿含経十六の涅槃経で明らかです。大乗仏典の涅槃経のイメージもその延長にあって、法華・涅槃時の意味もそこらにあるのでしょう。 まことに法華経の意味を体感したければ、文字を読むだけでなく、登山するといいと思えます。現に、御在所岳は天台宗の修験の山として開け、一般人に結界が開かれたのは…

  • 本来の法華経は山科毘沙門堂のように神仏習合の山寺たるべきだ!

    4月9日に、高校時代の友人らと山科毘沙門堂に行った。この寺は、家康の宗教顧問天台宗の天海大僧正が作った寺で本堂の中は、文化財だらけの門跡寺院でものすごい。 中でも法華経を納経した宝塔のケースなんぞがあり、神仏習合していて、皇室が入ることになっていた寺だけに大変な山寺である。 この寺の入口までは、しっかり駅からハイキングしなければならず、琵琶湖疎水沿いにこの寺の麓から歩くと、天智天皇陵の北に西本願寺の北で倒壊していおり昭和44年に移転された再建日蓮宗本囶寺がある。 法華経系の檀家の方は、このあたりをぜひ訪れるとよいだろう。住職と話すと天海と会った時家康がもっと早く会いたかったと言っていたが、なぜ…

  • 秀吉の正妻、高台院ねねは土葬だ!

    さて、ここで上の写真のもみじがきれいな、京都高台寺のお堂の中に、秀吉の正妻ねねが土葬されているのをご存じだろうか? 寺の解説によると、ねねは最初、曹洞宗だったのだが、家康の知り合いの三河の出身の和尚によって、臨済禅に鞍替えしており、結局、藤吉郎の親戚の木下家定とこの地に土葬された。 実は、浄土真宗が火葬を白骨の御文とともに流行らせる以前は、日本で火葬を行う人は少なかった。どうも臨済禅の人は、死んだら土に帰るという考え方で、木の肥やしになるのが自然だと考えていたらしい。 すなわち1575年、蓮如が現在の石川県と福井県の境の吉崎御坊で、2人目の妻、蓮佑を追悼し、合わせて禅寺に出していたが応仁の乱に…

  • 本能寺は四条門流。本囶寺は六条門流。

    http://www.kyoto-honnouji.jp/about/nobunaga.html そもそも本能寺は、現在の京都の四条元本能寺町にあった。 織田信長は本能寺の変の時、なぜこの寺に泊まっていたのかと言えば、上記URLをクリックすると分かるとおり、日承上人に帰依していた。法華宗本門流(四条門流)と名乗り、日蓮宗と名乗ることに反対しているこの寺は、「日蓮宗」になっていった六条門流とは違い日蓮の神格化に反対していた寺である。 あべこべに、六条門流の中心だった本囶寺(ほんこくじ)は、現在の西本願寺の北の門法会館の部分を中心とし、西本願寺の北の方までを占めていた。文字通り「日蓮宗」の寺であり…

  • 敵は本囶寺にあり!!(本能寺ではないぞ光秀!!!)

    愛知県について意外と知られていない事実。それは、名古屋が家康の時代、清洲にあった町を移転してできた城下町なことは知られているが、もともと清洲城が、応仁の乱の時の斯波義廉・義敏公の尾張屋敷であって、乱の後に起きた本願寺継承戦争&天文・法華の乱(1532年~1536年)から逃れた人だらけだったという史実です。 そんな愛知県と京都にまつわる歴史的秘話をご紹介しましょう。 ▲猿投山自然観察路

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敵は本囶寺にあり!!!
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