画一的な見方から脱却してみよう。そこに新たな歴史の視点が開けるかもしれない。
Essays on Japanese history trying to get a unique point of view.
学校で教わった日本史の教科書には任那日本府が562年に滅びたということが出てきた。不思議なことに、ではいつ出来たかと言うことについては何も書いてなかった。 日本書紀の仲哀記には神功皇后の三韓征伐という記事があるが、魚が船を運んで新羅中央に飛び込んだら戦わずに新羅は降参してしまい、ついでに百済や高句麗も服属するようになったといった荒唐無稽な内容だ。仲哀天皇や神功皇后の実在自体が極めて疑わしいものだ。どうも任那日本府はこの時にできたと想定されているらしいのだが、まさかこれを史実とするわけにも行かないから教科書には出てこなかったのだ。 日本書紀はこれ以降、朝鮮三国が日本に朝貢する記事が何度も出てくる。しかし、これは全くあてにならない。何しろ中国(呉)まで日本に朝貢したことになっているくらいだ。朝貢は貢物を持って行って、見返りとして称号や文化知識、多大な恩賞をもらうのが目的だから、これ..
アッツとキスカはいずれもアリューシャン列島にあるアメリカの島だった。しかし、2600人が全滅したアッツと6500人が生還したキスカでは、戦争に狩り出された人たちの明暗を大きく分けることになった。 奪還を目指すアメリカ軍がせまる中、アッツからの援軍要請には答えず、食料・弾薬も送らず、全員が戦死することを命じたのだ。一切の援軍を求めることなく自ら徹底抗戦の道を選んだと報道されたが、もちろんウソである。これが「玉砕」という言葉の始まりだった。大本営はアッツを戦略的価値がなく犠牲を払ってまで占領し続けるにあたらずとして見捨てたのである。 キスカのほうは、脱出作戦が行われた。6500人という人数からも、貴重な航空兵が含まれていたこともあって脱出作戦を取らないわけには行かなかった。当初、潜水艦による輸送が試みられたが輸送量が小さく、艦船による強行輸送が試みられた、これが運良く深い霧に助けら..
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