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画一的な見方から脱却してみよう。そこに新たな歴史の視点が開けるかもしれない。

Essays on Japanese history trying to get a unique point of view.

おら
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2016/01/19

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  • 文字使用の始まり

    日本に文字文化が生まれたのはいつごろのことだろうか。日本書紀では、応神天皇の15年(285年)に百済から王仁が『論語』と『千字文』をもたらしたのが公式な漢字の伝来となっている。『古事記』的に120年ずらせば405年だが、青銅鏡や剣に文字が現れていることから、実際はもっと早いと言うのが大方の見方だ。 だが、僕はもっと遅いと見ている。『千字文』の成立は518年頃であり、日本書紀の記事はそもそもがおかしい。『千字文』と言うことであれば、518年以降になる。文字は存在を知ればすぐに使えるものではない。習得のためには練習がいる。だから日本書紀執筆当時、文字使用に千字文のようなテキストが必然だとういう認識があったのだ。テキストの輸入は518年以後、文字の使用は600年近くだったに違いない。 文字文化の普及に筆と紙は不可欠だ。平安時代になってからでさえ木簡が使われたくらい紙は貴重だった。木簡..

  • 道鏡事件の真相と和気清麻呂の処遇

    道鏡事件は、悪僧道鏡が称徳天皇をたぶらかして、皇位の簒奪を狙った事件だとされて来た。道鏡一派が宇佐八幡宮の神託を偽造したのだが、和気清麻呂が八幡神の正しいお告げをもたらして撃退したという続日本紀の物語だ。道鏡と称徳天皇の男女関係がセンセーショナルに扱われることも多い。 しかし、続日本紀の記述は不可解なところがあり、記事をそのまま鵜呑みにするわけには行かない。そもそも八幡神のお告げの真偽などと言う話の全体が神話めいて真実ではあり得ないのだ。 続日本紀は編年体で、位階の昇進とか、飢饉があったとかの短い記事が淡々と続く。時折天皇の声明である宣命が現れ、この部分は少し長い。漢文ではなく助詞を入れ込んだ宣命体と言われる書き方で、天皇の言葉を書記が記録したものだ。 道鏡事件の推移を記事からたどることは難しい。769年9月25日にいきなり宣命があり、これに長い解説文が付き、6日後にもう..

  • 景初二年問題・・卑弥呼の使いは何時のことか

    邪馬台国の卑弥呼の事を日本で初めて書いた歴史書は日本書紀である。神功記に「魏志に云はく。明帝の景初三年の六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して.....」という引用を入れている。ところが三国志魏志倭人伝に実際書いてあることは、景初三年ではなく景初二年に倭の使いが来て帯方郡太守劉夏が卑弥呼の遣いを都に送り届けたと言う事である。日本書紀は引用時に年号を間違ったことになる。 しかし、そのような単純なミスが校正されなかったのはどう考えてもおかしい。この書き換えは意図的なものと考えるべきだろう。万世一系、神国日本という書紀記述はどうしても外国文献との齟齬が生じる。この矛盾を解決するためのごまかしが必要になる。 神功皇后を設定して卑弥呼との関連をにおわしてはいるが卑弥呼だとは言わない。言ってしまうとまた別の矛盾が出てくるからだ。日本のことは諸外国にも知られて文献もあるがそれは十分正確ではなく、..

  • 降伏しなかった日本兵

    8月15日に日本が降伏して第二次世界大戦は終わったとされているが、兵士たちにとって実際に15日で終わったわけではなかった。軍隊組織は温存されており、上官の命令に従わされる状態は続いた。だから中国では多くの日本兵が終戦後も八路軍と戦わされた。南方でもアメリカ軍の捕虜とならず戦い続けさせられた兵士はたくさんいた。15日以後に出撃した特攻隊もあった。兵士にとって終戦は単純なものではなかったのである。 南方戦線のように組織が壊滅したような所でも、投降するのは簡単ではない。いきり立ったゲリラ兵が米軍の制止も聞かず投降者を撃ち殺す事例はいくつもあった。日本軍は手を上げて出てきた敵兵を平気で射殺していた。『生きて虜囚の辱を受けず』という先陣訓は捕虜の扱いの常識となっていた。敵前逃亡として日本軍から撃たれることもある。投降するには相当な決心が要ったのである。 1960年になって、終戦を知らずに..

  • 明智光秀の黒幕

    本能寺の変・明智光秀謀反の理由についてはいくつもの説がある。古くからあるのは遺恨説で、長曾我部問題での精神圧迫も理由に挙げられることが多い。しかしこれで光秀が自暴自棄になってしまったとするのには無理がある。一万五千の軍勢はノイローゼ状態で動かせるものではない。事実、天王山でも光秀軍は統率よく戦っている。明智は確信に基づいた戦闘を繰り広げているのだ。 明智光秀も優れた武将であったが、織田の家臣全てを敵に回して勝てるほど自分が強力だと思ってはいなかっただろう。どこかにより所があったはずだ。明智光秀には黒幕がいたことになる。黒幕についても諸説あり、毛利に保護されていた足利将軍という説もあるが、毛利との連携が全く出来ていないところからも、これは違うし、もともと光秀には将軍義昭を見限って信長についたという経緯がある。最終的な利を得た豊臣秀吉や徳川家康を挙げる人もいる。しかし、こういった人たちに..

  • 坂本龍馬異論

    昨今の評価では、明治維新と言えばすなわち坂本龍馬の活躍となる。坂本龍馬は完全に英雄視され、いかに偉大な人物であったかの逸話には事欠かない。しかし、実はこれは70年代80年代からの現象でしかない。それ以前には坂本龍馬の名前はここまで有名なものではなかった。 実際、坂本龍馬が明治維新で何をやったかというと定かではない。薩長連合を作ったのは龍馬だと言うが、薩摩長州を代表して決断したのはあくまでも木戸孝允であり、小松帯刀だったし、薩摩の藩論をまとめたのは西郷・大久保だった。長・薩・幕の3すくみになれば薩長の連合はいわば自然の成り行きでもあるし、奇想天外な発想ではない。薩長の連合を説いた人は龍馬に限らず大勢いた。 海援隊と言う組織を立ち上げたことも龍馬の事跡だが、海援隊は高々30名のもので、明治維新に果たした役割は大きくない。日本海軍へも伝統は何等引き継がれていない。幕府の海軍練習所の残..

  • 「うつろ舟」漂着の謎

    江戸時代にUFO型の謎の船が漂着したという話がある。1803年、小笠原越中守の所領、常陸国「はらやどり」と言う浜で、空飛ぶ円盤のような丸い形の奇妙な船を見つけた。船底は鉄で補強されていて、窓にガラスがはめられ中に女が一人乗っているのが見えた。箱を抱えていたがよほど大事と見えて手放そうとしない。船には怪奇な文字が書かれていた。色白で髪は赤く、服装は細身の筒袖で言葉は通じず、漁民たちは面倒を恐れてこの船を沖合に戻してしまったという。 この出どころは曲亭馬琴の「虚(うつろ)舟の蛮女」と題する書き物にあり「兎園小説」の中に出てくる。船と細身の衣服を身に着けた美女の図が付属している。 これはが全くの創作と言うこともあり得る。馬琴は言わずと知れた創作の達人である。芥川龍之介に「きりしとほろ上人伝」という作品があるが、その書きぶりから当然資料を丹念に調べて書いたものに思えたのだが、本人が随筆..

  • 731部隊とHIV感染

    日本でのHIV感染・エイズは血液製剤から始まった。血友病患者に投与した血液製剤にHIVウイルスが含まれていたからだ。危険を知りながら売り続けたミドリ十字という会社の悪質性が問われ、さらにこの会社に731部隊関係者が多かったことが知られている。人体実験をいとわない残虐性から、さもありなんと思われるのだが、どういった経緯で731部隊がHIV感染を引き起こす血液製剤に結び付いたかは、あまり語られていない。ミドリ十字に731部隊関係者が多かったのは偶然ではない。 戦争での兵力の損傷は敵の弾に当たるだけではない。日清戦争の統計が明らかにされているが、戦死1417名に対して戦病死が11894名もある。体力を消耗した状態で伝染病に罹患することが多かったからだ。伝染病は敵の弾より怖かった。だから清涼な飲料水を確保して防疫に勤めることは作戦上きわめて重要なことであった。そのために軍隊には軍医部とは別に..

  • 人間魚雷 回天の悲劇

    第二次世界大戦中、大日本帝国は人間魚雷回天を使った攻撃を行った。イスラム国同様の自爆兵器である。搭乗員は志願して出撃したのだから、死ぬこと自体は必ずしも本人の意に反することではなかったかもしれない。しかし、全く無駄な死に方をしなければならなかったのは悲劇である。 魚雷は多量の爆薬を積み、一発で巨艦を沈めることができる強力な武器だが命中率が低い。瞬時に敵艦に届くわけではなく、何分後かの敵位置を予測して発射するしかないし、接近を探知すれば急旋回をしたり砲撃をしたりして魚雷を避けることも出来るからだ。もし、人間が操縦しておれば、軌道修正して確実に命中することができる。敵空母の数隻も沈めれば形勢は一挙に逆転する。そういった軍の安易な発想を現実にしてしまったのが回天である。 実際には目論見どおりに行かなかった。148基の回天が出撃したが、99基が母艦とともに沈没したり、整備不良で発進でき..

  • 九州王朝のつまづき

    九州なのか大和なのかをめぐる邪馬台国の論争は古くから続いているが、近年は九州説が優勢なようだ。九州説が有力となったきっかけは古田武彦さんの「邪馬台国はなかった」に始まる新しい考察の登場だろう。三国志を読み解くこの新しい視点は多くの人々を魅了した。しかし、古田史学自体は『東日流外三郡誌』で大きく躓いて、一挙に信用を失なうことになった。なぜ古田さんは、このような偽書の罠に陥ってしまったのかを考えてみたい。 邪馬台国論争に参入した古田さんの主張によれば、従来の説に欠けていたのは資料批判である。松下見林以来、日本書紀に従い、日本の中心地は大和以外にあり得ないことを前提として中国文献もそれに合わせて読み取るということが行われてきた。まったく合理的とは言えない考え方が長らく史学を支配しており、誰もそこから踏み出せていなっかったという鋭い指摘であった。 魏志倭人伝には邪馬壱国と書いてあるのに..

  • 古事記と日本書紀のなり立ち

    記紀の成り立ちを考える前提として文字の使用がいつ始まったかが重要であるが、これに言及する人は少ない。文字を獲得した国家が最初にやることは自らの正当性を担保する歴史の編纂である。記紀以前にも何らかの書物があったかもしれないが、そう古いものではなかったはずだ。政権は長期にわたって勝手な歴史記述を許したりしない。 文字の使用が本格的になったのは600年頃だと考えられるが、断片的な記録としては雄略期にさかのぼることもあり得る。日本書紀が巻14の雄略記から書き始められていることは、近年の文体研究ではっきりしたと言える。それ以前の部分がβ群であり、雄略記はα群に属す。これまでも、雄略記は古い儀鳳暦を使い、その前の部分が逆に新しい儀鳳暦になっていることや、巻13に巻14の引用があったりすることから、日本書紀は雄略記から書きだされたとは言われてはいた。 日本書紀の執筆が雄略記から始められた理由..

  • 古代日本の政変と疫病

    医薬の知識が全くなかった時代には病気に対して「おまじない」しか打つ手はなかった。伝染病の被害はことさら大きなものであっただろう。しかし、伝染病はどこからか病原菌が伝わってこなければ蔓延しない。実は原始時代には伝染病は多くなかったのではないかとも思われるのである。 一番古い伝染病は結核で、弥生人の人骨からもカリエスが見いだされる。しかし、縄文人にはこれが見えない。結核は移住してきた弥生人が持ち込んだものだ。伝染病が流行するには条件があり、必ずしも病原体がありさえすれば広がるものではない。結核の発生が多くなったのは、産業革命で劣悪な環境の中での長時間労働に人口が集中したことによるものだ。青空のもと野外で農作業に従事する限り、結核が重大な伝染脅威になることはなかった。 咳逆つまりインフルエンザは渡り鳥が運ぶから、どこへでも飛んでいく。日本にも古くからあったに違いない。日本書紀にも疫病..

  • 謎の4世紀を考えるーー騎馬民族の侵攻

    歴史における日本の記録は、漢書東夷傳のAD57年にさかのぼることができる。九州北部に原初的な国が生まれ、それが発展して行ったことが魏志倭人伝で確認される。これらの国が海峡をまたいだ海峡国家であったことはすでに述べた。238年には邪馬台国の卑弥呼の記録がある。しかし、その後については手掛かりがなく、413年に倭王賛が東晋に朝貢するまで記録は飛んでいるのだ。空白となる4世紀に日本では極めて重大な変化があった。 すなわち、あれほど盛んに作られた銅鐸が突如としてなくなり、変わって巨大な古墳が出現する。それまであった周溝墓のように穴を掘って埋めるのではなく、高く盛り上げた山に横から入れるという異なる発想のものだ。古墳の副葬品は、それ以前には見られない馬具が増え、金冠など騎馬民族好みのものもあらわれる。宗教も文化もまったく違うことになったということだ。この大きな変化がどのようにして起こったかが4..

  • 任那日本府の謎

    学校で教わった日本史の教科書には任那日本府が562年に滅びたということが出てきた。不思議なことに、ではいつ出来たかと言うことについては何も書いてなかった。 日本書紀の仲哀記には神功皇后の三韓征伐という記事があるが、魚が船を運んで新羅中央に飛び込んだら戦わずに新羅は降参してしまい、ついでに百済や高句麗も服属するようになったといった荒唐無稽な内容だ。仲哀天皇や神功皇后の実在自体が極めて疑わしいものだ。どうも任那日本府はこの時にできたと想定されているらしいのだが、まさかこれを史実とするわけにも行かないから教科書には出てこなかったのだ。 日本書紀はこれ以降、朝鮮三国が日本に朝貢する記事が何度も出てくる。しかし、これは全くあてにならない。何しろ中国(呉)まで日本に朝貢したことになっているくらいだ。朝貢は貢物を持って行って、見返りとして称号や文化知識、多大な恩賞をもらうのが目的だから、これ..

  • アッツとキスカの占領と撤退

    アッツとキスカはいずれもアリューシャン列島にあるアメリカの島だった。しかし、2600人が全滅したアッツと6500人が生還したキスカでは、戦争に狩り出された人たちの明暗を大きく分けることになった。 奪還を目指すアメリカ軍がせまる中、アッツからの援軍要請には答えず、食料・弾薬も送らず、全員が戦死することを命じたのだ。一切の援軍を求めることなく自ら徹底抗戦の道を選んだと報道されたが、もちろんウソである。これが「玉砕」という言葉の始まりだった。大本営はアッツを戦略的価値がなく犠牲を払ってまで占領し続けるにあたらずとして見捨てたのである。 キスカのほうは、脱出作戦が行われた。6500人という人数からも、貴重な航空兵が含まれていたこともあって脱出作戦を取らないわけには行かなかった。当初、潜水艦による輸送が試みられたが輸送量が小さく、艦船による強行輸送が試みられた、これが運良く深い霧に助けら..

  • 海洋王国の虚構ーー中継貿易の実態

    web版はこちらです。15世紀から16世紀にかけて、日本で言えば室町時代であるが、この当時琉球は中継貿易で繁栄を極めた海洋王国であったと思われているようだ。多くの歴史本がこれを書いており、小説などもこういった前提のもとに書かれているものが多い。しかし、これは本当だろうか? 琉球は海に囲まれており、古くから海外への渡航があったことは確かだ。続日本紀にも南島から大和への来訪があったことが記されており、遣唐使船が阿児奈波に漂着して帰国したことも記されている。中国でもすでに随書に琉求が現れている。地理的には中国、日本、朝鮮の中間点にあり中継貿易の結節点となる条件はある。しかしこれだけでは貿易で繁栄する要件を満たしているとは言えない。造船技術や航海術の発達や貨幣経済のような社会システムの卓越した整備が必要である。 琉球はサンゴ礁からできた島であり火山島ではない。だから小さな島ではあるが平..

  • ヤマト王権の成立は七世紀

    考古学的検討と中国文献から、日本の古代は、海峡国家から北九州へと発展したことがわかる。そうすると、卑弥呼の邪馬台国が九州にあったことも確実ではあるが、ここからヤマト王権による統一国家への過程がまだ解明されていない。九州王朝説では「磐井の乱」がヤマトの制覇であるとしているし、「壬申の乱」が王朝交代だと言う説もある。 しかし、二王朝の対決といった構図を確認するにはには、あまりにも痕跡が少ない。これが邪馬台国九州説の弱点だと言える。武器の発達も十分ではないし、文字がなくては統制のとれた軍事組織も作れない。この時代の戦争は、小競り合いの連続のようなものにならざるを得ない。決着には長い年月がかかり、したがって大きな痕跡が残るはずだ。二大王朝の対決には無理がある。 日本の王権が王朝などと言える確固としたものになるのはもっと後代のことだと考えるべきだ。小国の分立が続いたが、これらの小国は時に..

  • 古代の日本は海峡国家

    web版はこちらです。もちろん歴史は原始の時代から続いているのだが、日本の歴史としての始まりは、やはり石器時代が終わり、独得の個性を発揮し始めた頃ということになるだろう。日本に青銅器や鉄器が現れたのは、弥生時代の後半、一世紀頃のことだ。 石器時代から青銅器・鉄器時代への変化を技術史的に見直して見るといろんなことが見えてくる。多くの古代文明は、長い青銅器の時代を経て鉄器に至るのだが。これは、銅と鉄の融点の違いによるものだ。鉄器の使用は炉技術の発達を待たねばならなかった。ところが、日本では、銅と鉄の使用が間髪を入れずに始まっている。 これは金属技術が徐々に発達したのではなく、技術流入があったことを示している。しかし、遺跡からは、1000度を超す高温を発生するような、「ふいご」を備えた炉跡は見つからない。800度程度で銅そのものは溶かせないが青銅なら溶かせる炉、あるいは鉄を赤熱して加..

  • 道鏡事件はなかった?

    中西康裕さんの講演を聞く機会があった。道鏡事件はなかったという大胆な学説だ。道鏡事件は、悪僧道鏡が称徳天皇をたぶらかして、皇位の簒奪を狙った事件だとされている。宇佐八幡宮の神託を偽造したのだが、和気清麻呂が八幡神の正しいお告げをもたらして撃退したという続日本紀の物語だ。道鏡と称徳天皇の男女関係がセンセーショナルに扱われることも多い。しかし、称徳没後も、清麻呂が表彰されたわけでもく、道鏡も失脚はしたが処罰されたわけではない。謎の多い事件である。 続日本紀の宇佐八幡宮神託事件部分は、2つの宣命と、その間に挿入された解説文からなっている。宣命は天皇の声明文であり、書記が記録したものだ。むろん解説文は、後日続日本紀が編簿されたときに誰かが執筆したたものである。 最初の宣命は、和気清麻呂に対する怒りと処罰が述べられている。しかし、後の宣命は、聖武、元明の事績を語り、自己の天皇としての正当..

  • 従軍慰安婦問題

    第二次世界大戦における日本の反省事項のひとつに従軍慰安婦の問題がある。性に関する裏の存在で有ったため、戦後も七〇年代まで取り上げられることがなかった。千田夏光「従軍慰安婦 “声なき女”八万人の告発 」(一九七三年)が問題提起となり、事実が認識されるようになった。しかし、公式な資料の発掘が難しく多くの論争を呼ぶことになった。もちろん従軍慰安婦というのは千田夏光の造語であり正式名称であったわけではない。従軍看護婦や従軍記者などの用語も同じように誰かが作った造語だ。警察の用語としては「陸軍慰安所従業婦」などと言うのが記録に残っている。 慰安所はどの部隊にもあったといわれるが、もちろん公式なものでないから表立った設置規則などはない。これを根拠にその存在すらも政府は否定していたものだ。勝手に業者が戦地で営業していたもので軍は関与していないというのが公式見解だった。しかし、部隊長名で値段を告示し..

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