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  • 夏休みの宿題提出 思い出の絵日記から

    居座った台風のなか、夏が終わろうとしています。夏休みの宿題提出ですが、今年の夏のいちばんの思い出は10日間にわたるヨーロッパ(ベルリン・ライプチヒ・ワルシャワ)への旅です。その折撮った何百枚かの写真の中から、自薦の何枚かを掲載してこの夏の絵日記といたします。これのみ説明を入れます。自転車が差し掛かったのはかつて東西ベルリンを隔てていた壁の跡です。三十数年前なら、銃撃されていたかもしれません。夏休みの宿題提出思い出の絵日記から

  • やったぜ!逆転大勝利!

    大谷のことではない。私のことだ。朝目覚め、空を見る。どんよりした曇り空。ネットでこの地方の一時間天気をチェック。午前はずーっと雨マーク。午後に少しだけ曇り。洗濯物を乾すには絶望的な情報ばかり。しかし、私には予感があった。いける、いってみせる。なんのことはない、重い洗濯物をぶら下げて近くのコインランドリーの乾燥機にぶち込みにゆくのが嫌なだけだ。予報に逆らい、いつものように自宅で乾す。しばらくしたら小雨が。う~ん、やはり逆張りの敗北か?しかし、これぐらいの雨なんてと負け惜しみでそのままに。やがて雨は上がって曇り空に。なんとそればかりか午後には夏の日差しが!いつもより時間は要したが、何もかも、パリッとするぐらい乾いた。老いの一徹、強気の逆転大勝利だ!わお~!ヴィヴァ!わが人生!(ってはしゃぎすぎだよね)やったぜ!逆転大勝利!

  • ここのところ、書いてこなかった言い訳のようなもの

    ヨーロッパ一人旅の旅日記のようなものをダラダラと書いてきたが、それ以降一週間ほどなにも書いてこなかった。単調な生活に戻って書くべきことがあまりないこと、参加している同人誌の締切が迫っていてそれに没頭していることなどなどが重なったせいもあるが、いちばん大きな理由は、最近、あまり写真を撮っていないことにあるように思う。どういうことかというと、私のブログ記事はほとんど絵日記のように写真が先行し、それに説明をつけるように書かれてきたものが多いからだ。写真を撮っていないのは、冒頭に述べた理由と、続いた酷暑のせいでもある。ヨーロッパの涼しさに一〇日間ほど馴染んだ体には、この間の四〇度近い日々には恐怖すらおぼえた。かつては(私の「かつて」はずいぶん前だが)、夏の甲子園が終わると急に秋めいたものだ。しかも、今のように暑さ...ここのところ、書いてこなかった言い訳のようなもの

  • 最後のアクシデントはこう収拾した 八五歳ヨーロッパ一人旅

    ヘルシンキ在住の親切な女性に案内されてフィンエアー(フィンランド航空)の事務所に着くことができた。そこにいた女性二人はどうやら私を待っていたようだが、それにしてもその連携は悪く、私に新たなチケットを渡したスタッフもただ渡したのみでそれを言わなかった。付き合ってくれたあの親切なヘルシンキの女性がいなかったら、ここへはたどり着けなかったはずだ。彼女たちの説明は概略こうだ。1)あなたの荷物は明日の成田行の便の方にもう回っているから今夜はない。2)あなたのホテルは空港内で確保されていてもちろん無償。3)夕食がまだならそれも無償で提供するが、ただしホテルの食堂はもう閉まっているので、残り物からの選択になる。4)お詫びとして、17ユーロの金券を出すのでこれを出発までに空港内のキオスクで使ってほしい。5)明日の成田行き...最後のアクシデントはこう収拾した八五歳ヨーロッパ一人旅

  • 危機は突然最後にやってくる! 八五歳ヨーロッパ一人旅

    10日間、私のヨーロッパ一人旅は、事前のリサーチの不十分や語学力のなさ、年齢ゆえの行動力不足などで、決して効率の良いものとはいえなかったが、なんとか当初観るべき対象と設定したものにはたどり着くことができた。これには、ライプチヒ在住のK氏の事前の、そして旅行中のLINEを通じての懇切な指示が欠かせないものであったのだが。だから、ワルシャワの最終日の夕刻、駅近くのテラスでいつものようにOnebeeronlyでくつろぎながら、マアマアだったなと自分の旅に合格点を与えることができた。翌日、ホテルをあとにし、中央駅から20ほどのフレデリック・ショパン空港へと余裕をもって向かう。出発ゲートも確認し、駅ピアノの近くに席を確保し、くつろぎながら帰路の確認。近くのピアノから「エリーゼのために」が・・・・。どうしてここでベー...危機は突然最後にやってくる!八五歳ヨーロッパ一人旅

  • 【報告】旅の食事について 八五歳ヨーロッパ一人旅

    一〇日余の旅、さぞかしその土地々々のうまいものをレストランでとお思いかも知れないが、日頃必要に迫られて自炊はしているものの、いわゆる旅の味を満喫するグルマンではない。あちこち歩き回る旅にとっては、栄養源の確保は不可欠である。その意味で、ホテルのバイキング方式の朝食はありがたい。家にいればろくすっぽ取らないような朝食を、ホテルではしっかり食べた。ヨーロッパはチーズやハム・ソーセージが豊富である。パンは比較的小ぶりなものにして、野菜を多く摂り、海産物が少ないので、サーモンのあるところではそれを狙った。卵はスクランブルエッグ。それらを日頃、ほとんど飲まない牛乳とともに摂る。牛乳も3,4種類置いてあるが、あんまりネットリしたものではなくサラッとしたものにする。各地のホテルの朝食から昼はあまり食べない。目的地をいろ...【報告】旅の食事について八五歳ヨーロッパ一人旅

  • ユダヤ人がもっとも住みやすかった国での悲劇 八五歳ヨーロッパ一人旅

    1940年代初頭、世界でのユダヤ人人口は1,000万人弱であり、そのうちの三分の一、約350万人がポーランドに住んでいたといわれる。ワルシャワのみでも約50万人を数えたという。これは中世以来、ユダヤ人への風当たりが少なく、暮らしやすかったからだといわれる。しかし現在、ポーランドはヨーロッパにおいてもっともユダヤ人が少ない国のひとつになっている。ワルシャワには約3,500人ぐらいと聞いたこともある。この大変な落差はドイツ占領下のホロコーストによるものであることは容易に想像がつくが、しかし、その過程にもさまざまな問題があって、一筋縄では行かないようだ。まずはナチスの方だが、ポーランド占領後、ワルシャワにはもともとユダヤ人の密度が高かった地域を中心に、38万人を収容したワルシャワ・ゲットーが設けれれ、ユダヤ人は...ユダヤ人がもっとも住みやすかった国での悲劇八五歳ヨーロッパ一人旅

  • 来なかったソ連軍=ワルシャワ蜂起の悲劇 八五歳ヨーロッパ一人旅

    ワルシャワ蜂起の痕跡を見ること・・・・これが今回のワルシャワ訪問のひとつの目的であった。この事件は、国際的にはともかく、ワルシャワ市民にとっては忘れ難いもので、今も八月一日の同時刻にはサイレンや鐘が鳴り、市民は黙祷に伏すという。ワルシャワ蜂起記念碑会館右側の大きな塑像は残念ながら修理中1944年7月31日、敗走するドイツ軍を追ってきたソ連軍は、ワルシャワ中心地区のすぐ東を流れるヴィスワ東岸に到達してた。そして、そのソ連軍とワルシャワ市内のレジスタンスの間で、翌8月1日を期してソ連軍はワルシャワ市内に進行し、それに合わせて、ワルシャワのレジスタンスがドイツ軍に対しいっせいに蜂起するという約定が交わされた。左側の塑像にて残念ながら写っている女性は私とは関係のない人手前兵士は地下へ潜るようなポーズアンジェ・ワイ...来なかったソ連軍=ワルシャワ蜂起の悲劇八五歳ヨーロッパ一人旅

  • 「旧市街」ではないワルシャワ「旧市街」 八五歳のヨーロッパ一人旅

    厳密にいえばワルシャワに旧市街はない。なぜならここのかつての街は第二次世界大戦の激戦によって徹底的に破壊されつくされて、そんなものが残る余地がなかったからである。最初に掲げた写真は、2002年公開の映画、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』のラストに近いスチール写真である。これだけ破壊し尽くされた街のどこに旧市街が残る余地があったろう。にもかかわらず、旧市街は存在する。それはワルシャワの市民たちが、瓦一枚欠けることなくかつての街を復旧させようとしたからである。そうして出来上がったのが現在の旧市街である。だから、いうなれば「新市街」なのだが、ワルシャワ市民はその地域に下手な近代化が侵入するのを拒んできたので、その意味ではどこの旧市街よりも旧市街的なのである。そうしてたワルシャワ市民の意を汲んで、1...「旧市街」ではないワルシャワ「旧市街」八五歳のヨーロッパ一人旅

  • 70歳以上交通費無料のワルシャワでショパンに逢う 八五歳ヨーロッパ一人旅

    ワルシャワはもちろん初めての地、しかもいままでのようにK氏の案内は期待できない。しかし、いい点もある。ポーランド国内は、インターシティなどの鉄道を除き、近郊鉄道、地下鉄、トラム、市内バスなどが70歳以上は無料なのだ。外国人も含めてだ。よく利用した。地下へ潜るとわかりにくいので、トラムとバスをふんだんに利用した。けっこう検札に来るのだが、顔を見ただけで切符などの提示は求めなかった。東洋人でも歳は歳だと識別できるようだ。無料はありがたい。間違えたら引き返せばいい。見えている近くでも疲れていたら乗ればいい。最初に会いに行ったのはショパン。ショパン博物館である。彼はポーランドの英雄である。紙幣にもなっているし、私が帰途利用したワルシャワ空港はフレデリック・ショパン空港と名付けられれている。もちろんこれは彼がポーラ...70歳以上交通費無料のワルシャワでショパンに逢う八五歳ヨーロッパ一人旅

  • ワルシャワへ着く 駅周辺の衝撃 八五歳ヨーロッパ一人旅

    今回の旅の主要目的は旧友にして畏友、K氏を訪れることだったから、あとはせっかくヨーロッパまで来たのだからというおまけのような旅だ。しかし、そのおまけにワルシャを選んだというのには積極的な理由がないわけではない。そのひとつはドイツの侵攻に始まりソ連の反撃に終わるあの第二次世界大戦で、徹底的に破壊されながら、それから見事復旧を果たし、今や世界遺産にまでなった旧市街を見ておきたかったこと、世界的音楽家として知られるショパンと出会うこと、ヨーロッパでもっとも密度が高いといわれたユダヤ人が暮らしたこの国、そしてこの都市でのその変遷の歴史を探ること、そして今一つは、アンジェ・ワイダ監督の映画「灰とダイアモンド」や「地下水道」の痕跡、特に後者の背景、1944年のワルシャワ蜂起の痕跡を探ることなどであった。ワルシャワ中央...ワルシャワへ着く駅周辺の衝撃八五歳ヨーロッパ一人旅

  • 別れの感激・そのときもらったもの 八五歳ヨーロッパ一人旅

    ライプチヒからベルリン中央駅経由でワルシャワ行き列車でポーランドへ移動する。七時間の列車の旅。ライプチヒ駅までK氏が見送りに来てくれる。ここまでのドイツの旅は、ほとんどがおんぶにだっこのK氏の庇護によるものだった。ここからがほんとうの一人旅だ。しかし、K氏の私へのケアーはこれで終わったのではなかった。彼は私にひとつの包みを渡していったのだ。「昼食時は列車の中、そのための弁当を作ってきた」と。何という心配り、これからは一人という私の心細さを和らげてくれるにじゅうぶんだった。やがて発車のベルが鳴ろうかというときだった。もうひとつのハプニングが起こった。昨夕の食事をともにしたZさんが駆けつけてくれて、花を一輪と、旅の幸運を招くというタグをバッグにつけてくれたことである。昨夕の宴は、一期一会のこととして終わったと...別れの感激・そのときもらったもの八五歳ヨーロッパ一人旅

  • ライプチヒ・楽しかった最後の晩餐 八五歳ヨーロッパ一人旅

    いよいよ明朝、K氏の本拠地で私のこの旅の最大の目的地であったライプチヒを離れることとなった。最後の晩餐(パリ五輪の開会式でのそのパロディと目されるものが問題となり、恐喝騒ぎになっているそうだが、私のそれはそんな物騒なものではない)であるが、それについては予め私の方からK氏に頼んでおいたことがあった。それは、ライプチヒへ来た以上、K氏に会うのは当然として、それ以外の彼の人脈のある人々とも逢いたいということだった。彼の方では誰にしようかと困っていたようだが、たまたま彼がここぞと思い予約をしていたレストランの近くに、彼がライプチヒ大学勤務時代の同僚で、今なお勤務を続けている東アジア研究所中国学科の講師Zさん(女性)が住んでいること、しかもその娘さんHさんが、念願の芸術大学へ入学が実現し、その祝いをしたいとのこと...ライプチヒ・楽しかった最後の晩餐八五歳ヨーロッパ一人旅

  • バッハ記念博物館とオルガン演奏会 八五歳ヨーロッパ一人旅

    ライプチヒ最終日、午後三時からのバッハゆかりの聖トーマス教会でのオルガンコンサートでK氏と出会うことを約してそれまでは自由行動。ざっと何があるかを確認したのみで通り過ぎてしまったところなどを今一度詳しく見直したりしたあと、とりわけ聖トオマス教会前の「バッハ記念博物館」はこの街へ来た以上必須の場所だと考え入場する。やはり日本人もよく来ると見えて、日本語のヘッドホンも用意されていたのでそれを身に付ける。確かにバッハ関連の様々な資料が保管されている。あの複雑な家系図等はう~んと眺めているものの特に覚えようとはしない。その他バッハの時代の楽器や演奏の組み合わせ、楽譜などなどが展示されている。それら残されたもののうちでこれはと思ったのは当時のオルガンの基体である。聖トーマス教会のオルガンそのものはもはや当時のもので...バッハ記念博物館とオルガン演奏会八五歳ヨーロッパ一人旅

  • 薄ら鉄ちゃんの記録「ライプチヒ駅とトラムたち」 八五歳ヨーロッパ一人旅

    ライプチヒ駅はベルリン中央駅の立体式とは違い、頭端式(私にいわせるとほうき状)駅である。ベルリン中央駅とよく似た鉄鋼ドームの下、十数の線路が広がっている。インターシティや近郊線など路線も車両もいろいろだ。どれがどれだかわからないまま、駅の構内でそれらを撮してきた。なお、駅のエントランスは伝統的な趣に溢れている。あとはトラムである。色とりどりのそれらが走っている。ただし、それらに乗る機会は一度しかなかった。なぜなら、市の中央部のリング内にはそれらは走っておらず、また、それにに乗ることなく伝統的な建造物などを見ることができるからだ。とはいえ、駅前のトラムのホームでのその発着は途切れることはない。リングの周り、そしてその近郊の街々とを結ぶそれらは途切れることなく頻繁に行き交っている。最後のおまけに付けたのは、た...薄ら鉄ちゃんの記録「ライプチヒ駅とトラムたち」八五歳ヨーロッパ一人旅

  • 音楽の街・ライプチヒ 八五歳のヨーロッパ一人旅

    前回、バッハの存在がライプチヒの大きな歴史遺産となってることを書いたが、それが実現するために今ひとつエポックが必要であったことを示唆しておいた。そう、バッハを中心としてこのライプチヒを音楽の街たらしめたもう一人の音楽家の存在こそが重要なのである。それはユダヤ人の音楽家、フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47)の存在である。彼はライプチヒの出身ではないが、38年と言うその短い生涯の後半12年間をライプツィヒで過ごし多くの業績を上げている。彼がやってきたのはライプツィヒゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命されたからであるが、まず最初に彼がした事は、当時ヨーロッパでもあまり知られていなかったこの管弦楽団を、現在我々が知るようにヨーロッパでも指折りの楽団の1つに育成したことである。ライプチヒゲヴァントハ...音楽の街・ライプチヒ八五歳のヨーロッパ一人旅

  • 歴史を動かしたライプチヒの二つの聖堂 八五歳ヨーロッパ一人旅

    ライプチヒは住みやすそうな街である。直径数百メートル位かと思われるいわゆるリング内にほとんどのものが揃っている。K氏が勤務していたライプチヒ大学もそうである。彼が退職後もここにその居を定めたのはよくわかるような気がする。ところでこのリング内には著名な2つの寺院がある。その一つは聖トーマス教会である。ルーター派のこの教会は音楽史上の巨人、かのバッハの活躍の根城として知られている。1685年生まれのバッハは、それまであちこちで音楽修行をしその腕を上げてきたが、いずれの地でも短期間の滞在で終始してきた。1723年このトオマス教会の音楽監督(カントル)に就任にも一悶着あったようだが、なんとか決定を見るや、1750年にその生涯を終えるまでここの地に定住し、この教会のみかこの街のカントールにも就任した。音楽監督に就任...歴史を動かしたライプチヒの二つの聖堂八五歳ヨーロッパ一人旅

  • 歴史を動かしたライプチヒの二つの聖堂 八五歳ヨーロッパ一人旅

    ライプチヒは住みやすそうな街である。直径数百メートル位かと思われるいわゆるリング内にほとんどのものが揃っている。K氏が勤務していたライプチヒ大学もそうである。彼が退職後もここにその居を定めたのはよくわかるような気がする。ところでこのリング内には著名な2つの寺院がある。その一つは聖トーマス教会である。ルーター派のこの教会は音楽史上の巨人、かのバッハの活躍の根城として知られている。1685年生まれのバッハは、それまであちこちで音楽修行をしその腕を上げてきたが、いずれの地でも短期間の滞在で終始してきた。1723年このトオマス教会の音楽監督(カントル)に就任にも一悶着あったようだが、なんとか決定を見るや、1750年にその生涯を終えるまでここの地に定住し、この教会のみかこの街のカントールにも就任した。音楽監督に就任...歴史を動かしたライプチヒの二つの聖堂八五歳ヨーロッパ一人旅

  • ライプチヒでK氏と素麺をすする 八五歳ヨーロッパ一人旅

    ベルリン最後の朝、午前中にライプチヒへ向かうとあって特に行くべきところもない。荷物を整理したあと、チェックアウトをし、連日行き来をした近郊線の駅へ向かう。たった3日間だったが、見慣れた風景が心に残る引かれるものがある。ベルリン中央駅からほぼ1時間20分、途中の車窓風景を楽しみにしていたが、線路の両側は防風林のような木立が立ち並び、時折その切れ目から牧場や畑が垣間見える程度。やや欲求不満。ライプチヒ駅はベルリン中央駅と違ってほうき状(正式には頭端式というらしい)のそれで、出口もわかりやすい。あらかじめの指示通りに進むとK氏が出迎えてくれた。駅を出ると頻繁に行き交うトラムの駅と路線があり、それを横切ると緩衝地帯のような小公園があり、それを過ぎて一本目の路地の角がもう彼の住まいであり、しかもエレベーターで登った...ライプチヒでK氏と素麺をすする八五歳ヨーロッパ一人旅

  • すべての国境には壁がある 八五歳ヨーロッパ一人旅

    20世紀ベルリンのもうひとつの特筆すべき点は、この都市が第二次世界大戦後の冷戦下で、東西に分断されていたということである。とりわけ、61年に東西を隔てる壁が築かれ、89年にそれが撤去されるまで、この都市はまさに東西冷戦をもっとも具体的な形で表現する箇所であった。と同時に、89年のその壁の崩壊は、東西冷戦の歴史そのものを終焉させる先鞭をつけるものであった。こうして今や、ベルリンの、そしてドイツの東西の分断は解消され、その差異もなくなったといわれている。しかしである、現実には今もその差異はあるという。東西においての労働の質的評価が異なるのだ。具体的にいうと、同じ労働についても東のそれは西の85%にしか評価されないというのだ。この差異は大きい。年金にまでついてまわるからだ。むろん、それは問題として意識され、近年...すべての国境には壁がある八五歳ヨーロッパ一人旅

  • ホロコーストと東西分断の痕跡を訪ねて(上) 八五歳ヨーロッパ一人旅

    さて、ベルリンへ来た以上、この街が20世紀の世界史の中で果たした事どもの痕跡を訪れないわけにはいかないだろう。最終日はそれに当てることとした。まず最初に訪れたのは、ブランデンブルク門すぐ南の「ホロコーストで殺されたユダヤ人犠牲者のための記念碑」である。記念碑といってもそれらしい広場に、碑が建っているわけではなく、約2万㎡の広場に、0.95m×2.38mで高さは0m~4.5mさまざまな石碑、2,711基がさながら迷路のように広がる壮大なエリアである。その地下には、ホロコーストの各種資料を展示した博物館があるとのことだったが、入り口付近の行列の長さに入場は諦め、立ち並ぶ石の間を歩いた。この巨大な迷路のような石の広がりは、どんな立派な記念碑にも増して、ホロコーストの不可解さを象徴しているだろう。周りの樹木や、遠...ホロコーストと東西分断の痕跡を訪ねて(上)八五歳ヨーロッパ一人旅

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