甲斐国の甲府盆地から日本武尊一行は雁坂みちを通り秩父へと向かった。この秩父往還は時々車で通るが、ひたすら山間を抜けて行く寂しい道で村落は少ない。30年程前に長さ6.6Kmの雁坂トンネルが開通し往来がし易くなったが、それ以前は標高2,082 mの雁坂峠を通らなければなら
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甲斐国の甲府盆地から日本武尊一行は雁坂みちを通り秩父へと向かった。この秩父往還は時々車で通るが、ひたすら山間を抜けて行く寂しい道で村落は少ない。30年程前に長さ6.6Kmの雁坂トンネルが開通し往来がし易くなったが、それ以前は標高2,082 mの雁坂峠を通らなければなら
甲斐国内での日本武尊の足跡は既に辿った。今度は、甲斐から雁坂みちで秩父に向かった日本武尊のその後の足跡を追い掛けてみようと思う。日本書紀では甲斐 - 武蔵 - 上野 - 碓日坂 - 信濃 - 美濃 - 尾張と日本武尊は移動したと記され、古事記ではもっと簡略に甲斐 - 科野 -
今日も雨降りだ。仕方ないので、部屋に籠って古代の世界に遊んでいる。今度は弟橘姫命の物語だ。西征・東征ととても忙しかった日本武尊だが、やる事はやっていた。(言い方が下品で申し訳ない。)日本武尊には少なくとも七人の妃(みめ、きさき)がいた。最初に娶ったのは、
日本書紀に記された日本武尊の東征ルートは、倭 - 伊勢 - 駿河 - 相模走水 - 上総 - 陸奥 - 日高見 - 常陸新冶 - 筑波 - 甲斐 - 武蔵 - 上野 - 碓日坂 - 信濃 - 美濃 - 尾張 - 近江伊吹山 - 伊勢能煩野となっているが、どのような道筋で筑波から甲斐へ入り、どうような道筋で
記紀が記すには日本武尊は第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたり、第13代成務天皇は異母弟となる。海の神や山の神の祝福を日本武尊は得られなかったから、天皇になれなかったと記紀は伝えるが、景行天皇は子沢山で80人もの皇子がいて倍率は高かった。日本武尊
河川は通常支流群を集めながら山間を下り、更に平野部でも別の河川の合流を受け入れながら、やがて海へと注ぐ。下流域で枝分かれする時もあるがかなり例外的だ。一方で人の血脈は世代を重ねる度に確実に分流して行く。この一ヵ月、甲斐源氏の血脈を追い掛けて来た。やはり注
加賀美遠光の三男の南部光行は、1180年の石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(南部郷、山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。この時から南部氏を称した。ここまでの甲斐源氏の動きを振り返る。新羅三郎義光 - 源義業 - 武田冠者 義清 -
甲斐武田氏の祖 武田信義の弟である安田義定、嫡男である一条忠頼は源頼朝によって殺された。二人とも鎌倉幕府の御家人にはなりえない大器量の持ち主であった。だから殺された。安田義定が見ていた風景、一条忠頼が見ていた風景を想像していた。彼らが元々は同族の河内源氏の
新羅三郎義光(源義光)、武田冠者義清(源義清)、逸見清光(源清光)までの流れは過去に書いて来た。狭義には逸見清光が、甲斐源氏の祖だ。清光は十数人の男子に恵まれ、それぞれが甲斐各地に散らばり扶植して行った。長男の逸見光長(1128 - ?年)は逸見荘を継承・発展さ
武田氏総領として鎌倉幕府に気を遣い続けた武田信光は、1239年出家して鎌倉の名越に館を構え家督を長子の信政に譲った。先立つ1199年にはあれほど恐れていた源頼朝は亡くなった。そして1203年には鎌倉幕府の実権を握った北条時政が、比企一族を滅ぼし、千幡(源実朝)を第三
話を少しあさっての方向から始める。マイケル・ベイ監督の「ザ・ロック」の面白さは、単なるアクションシーンの連続のみでなく、ニコラス・ケイジ扮する主人公スタンリー・グッドスピードと、ショーン・コネリー扮する年老いた元イギリス陸軍 特殊部隊大尉のジョン・パトリッ
平安後期に甲斐源氏は甲府盆地の内外に進出して土着した。逸見荘に本拠地を置いた甲斐源氏三代当主 逸見清光は十数人の男子に恵まれ、男子達は武将としても統領としても優秀だった。それぞれが各地に散らばり扶植して行った。特に次男 信義は優れており、武田荘に進出し後に
武田氏の祖 武田信義の菩提寺である願成寺には、武田総領家の歴代の当主を祀った御霊殿がある。武田信義の祖先である源義光、 武田義清、逸見清光の三代も合祀されている。武田氏としては信義が初代であり、十八代の武田信勝までが祀られている。すべて嫡流武田氏の惣領だが
新羅三郎源義光の三男であった源義清(武田義清)と子の清光が、1130年に常陸国那賀郡武田郷に在った所領を追われ、甲斐国の市河荘に配流になった話は過去に何度も書いた。市河荘とは、元々は甲斐国巨麻郡を中心に一部山梨郡・八代郡に及んだ、山城国 法勝院所領の荘園であっ
新羅三郎源義光が土地の肥沃な常陸国に着眼し、三男 義清を那賀郡武田郷に土着させたのに、義清は下手を打った。義清とその子清光は、武田郷周辺の豪族との間で勢力争いをしていたが、行き過ぎた行為を朝廷に訴えられ、義清父子は常陸を追放され、甲斐国巨摩郡市河荘(現在の
正確には姓と氏は別だ。このブログのタイトルは”武田氏の由来”と書くのが正しいのだが、 ”武田氏の由来”と書いてしまうと武田氏族のルーツ自体のことを書きたいと誤解されそうなので、敢えて”武田姓の由来”とした。書きたかったのは甲斐源氏の一流である武田氏が、なぜ
79年前の4月29日に戦勝国側によって日本の指導者28名が、戦争責任を問われ起訴された。日本が侵略戦争を起こす共同謀議を行い 、 ”平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損”したとして、 ”平和に対する罪(A級犯罪)”、 ”通常の戦争犯罪(B級犯罪)”及び”
甲斐源氏の歴史を追う中で、甲斐一条氏の流れである武川衆に興味が出た。甲斐一条氏は、甲斐源氏4代目の武田信義の嫡男である一条忠頼に始まった。忠頼は一時甲斐源氏の惣領となったが、甲斐一条氏は源頼朝の弾圧を受けて一条忠頼は謀殺された。その後、甲斐源氏5代目の武田
武田軍が強かったのは、武田信玄自身が優れていただけではなく、それを支える家臣団、武士団が優れ、しっかりとしていたからだ。そして甲斐の人々の民度も高かった。これが信玄に「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と言わしめた。武田氏は、清和源氏の一
隧道はずいどうと読めばトンネルのことだ。僕はこの隧道と言う言葉があまり好きではない。すいどうと読めば、墓に棺を埋めるために斜めに掘り下げた通路を意味する。国道414号線から脇の旧道に入ると、天城山隧道(通称 旧天城トンネル)に辿り着ける。天城山隧道は生活道と
苗字、名字、姓、氏は昔は厳格に使い分けられていたようだが、今はほぼ同じ意味を表している。部屋から釣場まで電チャリで坂を下る時には、魚釣りのことしか考えていないし速度も出しているので脇見はしない。でも、釣行後に坂を上る時には腿がきついなと思いながらゆっくり