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  • 日本武尊の足跡 - 三峯神社

    甲斐国の甲府盆地から日本武尊一行は雁坂みちを通り秩父へと向かった。この秩父往還は時々車で通るが、ひたすら山間を抜けて行く寂しい道で村落は少ない。30年程前に長さ6.6Kmの雁坂トンネルが開通し往来がし易くなったが、それ以前は標高2,082 mの雁坂峠を通らなければなら

  • 日本武尊のそれから

    甲斐国内での日本武尊の足跡は既に辿った。今度は、甲斐から雁坂みちで秩父に向かった日本武尊のその後の足跡を追い掛けてみようと思う。日本書紀では甲斐 - 武蔵 - 上野 - 碓日坂 - 信濃 - 美濃 - 尾張と日本武尊は移動したと記され、古事記ではもっと簡略に甲斐 - 科野 -

  • 弟橘姫命

    今日も雨降りだ。仕方ないので、部屋に籠って古代の世界に遊んでいる。今度は弟橘姫命の物語だ。西征・東征ととても忙しかった日本武尊だが、やる事はやっていた。(言い方が下品で申し訳ない。)日本武尊には少なくとも七人の妃(みめ、きさき)がいた。最初に娶ったのは、

  • 日本武尊の足跡 ②

    日本書紀に記された日本武尊の東征ルートは、倭 - 伊勢 - 駿河 - 相模走水 - 上総 - 陸奥 - 日高見 - 常陸新冶 - 筑波 - 甲斐 - 武蔵 - 上野 - 碓日坂 - 信濃 - 美濃 - 尾張 - 近江伊吹山 - 伊勢能煩野となっているが、どのような道筋で筑波から甲斐へ入り、どうような道筋で

  • 日本武尊の足跡

    記紀が記すには日本武尊は第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたり、第13代成務天皇は異母弟となる。海の神や山の神の祝福を日本武尊は得られなかったから、天皇になれなかったと記紀は伝えるが、景行天皇は子沢山で80人もの皇子がいて倍率は高かった。日本武尊

  • 甲斐源氏の支族

    河川は通常支流群を集めながら山間を下り、更に平野部でも別の河川の合流を受け入れながら、やがて海へと注ぐ。下流域で枝分かれする時もあるがかなり例外的だ。一方で人の血脈は世代を重ねる度に確実に分流して行く。この一ヵ月、甲斐源氏の血脈を追い掛けて来た。やはり注

  • 奥州南部氏の故郷

    加賀美遠光の三男の南部光行は、1180年の石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(南部郷、山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。この時から南部氏を称した。ここまでの甲斐源氏の動きを振り返る。新羅三郎義光 - 源義業 - 武田冠者 義清 -

  • 一条忠頼が見た風景

    甲斐武田氏の祖 武田信義の弟である安田義定、嫡男である一条忠頼は源頼朝によって殺された。二人とも鎌倉幕府の御家人にはなりえない大器量の持ち主であった。だから殺された。安田義定が見ていた風景、一条忠頼が見ていた風景を想像していた。彼らが元々は同族の河内源氏の

  • 加賀美遠光 - もう一つの甲斐源氏の流れ

    新羅三郎義光(源義光)、武田冠者義清(源義清)、逸見清光(源清光)までの流れは過去に書いて来た。狭義には逸見清光が、甲斐源氏の祖だ。清光は十数人の男子に恵まれ、それぞれが甲斐各地に散らばり扶植して行った。長男の逸見光長(1128 - ?年)は逸見荘を継承・発展さ

  • 甲斐源氏歴代の菩提所 - 2

    武田氏総領として鎌倉幕府に気を遣い続けた武田信光は、1239年出家して鎌倉の名越に館を構え家督を長子の信政に譲った。先立つ1199年にはあれほど恐れていた源頼朝は亡くなった。そして1203年には鎌倉幕府の実権を握った北条時政が、比企一族を滅ぼし、千幡(源実朝)を第三

  • 甲斐源氏歴代の菩提所

    話を少しあさっての方向から始める。マイケル・ベイ監督の「ザ・ロック」の面白さは、単なるアクションシーンの連続のみでなく、ニコラス・ケイジ扮する主人公スタンリー・グッドスピードと、ショーン・コネリー扮する年老いた元イギリス陸軍 特殊部隊大尉のジョン・パトリッ

  • 安田義定 - 見果てぬ夢

    平安後期に甲斐源氏は甲府盆地の内外に進出して土着した。逸見荘に本拠地を置いた甲斐源氏三代当主 逸見清光は十数人の男子に恵まれ、男子達は武将としても統領としても優秀だった。それぞれが各地に散らばり扶植して行った。特に次男 信義は優れており、武田荘に進出し後に

  • 石和流武田氏と安芸武田惣領家

    武田氏の祖 武田信義の菩提寺である願成寺には、武田総領家の歴代の当主を祀った御霊殿がある。武田信義の祖先である源義光、 武田義清、逸見清光の三代も合祀されている。武田氏としては信義が初代であり、十八代の武田信勝までが祀られている。すべて嫡流武田氏の惣領だが

  • 市河荘と甲斐源氏

    新羅三郎源義光の三男であった源義清(武田義清)と子の清光が、1130年に常陸国那賀郡武田郷に在った所領を追われ、甲斐国の市河荘に配流になった話は過去に何度も書いた。市河荘とは、元々は甲斐国巨麻郡を中心に一部山梨郡・八代郡に及んだ、山城国 法勝院所領の荘園であっ

  • 逸見荘は甲斐源氏のゆりかご

    新羅三郎源義光が土地の肥沃な常陸国に着眼し、三男 義清を那賀郡武田郷に土着させたのに、義清は下手を打った。義清とその子清光は、武田郷周辺の豪族との間で勢力争いをしていたが、行き過ぎた行為を朝廷に訴えられ、義清父子は常陸を追放され、甲斐国巨摩郡市河荘(現在の

  • 武田姓の由来

    正確には姓と氏は別だ。このブログのタイトルは”武田氏の由来”と書くのが正しいのだが、 ”武田氏の由来”と書いてしまうと武田氏族のルーツ自体のことを書きたいと誤解されそうなので、敢えて”武田姓の由来”とした。書きたかったのは甲斐源氏の一流である武田氏が、なぜ

  • 極東国際軍事裁判

    79年前の4月29日に戦勝国側によって日本の指導者28名が、戦争責任を問われ起訴された。日本が侵略戦争を起こす共同謀議を行い 、 ”平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損”したとして、 ”平和に対する罪(A級犯罪)”、 ”通常の戦争犯罪(B級犯罪)”及び”

  • 地名として残った本貫

    甲斐源氏の歴史を追う中で、甲斐一条氏の流れである武川衆に興味が出た。甲斐一条氏は、甲斐源氏4代目の武田信義の嫡男である一条忠頼に始まった。忠頼は一時甲斐源氏の惣領となったが、甲斐一条氏は源頼朝の弾圧を受けて一条忠頼は謀殺された。その後、甲斐源氏5代目の武田

  • 甲斐源氏の末裔

    武田軍が強かったのは、武田信玄自身が優れていただけではなく、それを支える家臣団、武士団が優れ、しっかりとしていたからだ。そして甲斐の人々の民度も高かった。これが信玄に「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と言わしめた。武田氏は、清和源氏の一

  • 旧三津坂隧道

    隧道はずいどうと読めばトンネルのことだ。僕はこの隧道と言う言葉があまり好きではない。すいどうと読めば、墓に棺を埋めるために斜めに掘り下げた通路を意味する。国道414号線から脇の旧道に入ると、天城山隧道(通称 旧天城トンネル)に辿り着ける。天城山隧道は生活道と

  • 🛣 信玄棒道(しんげんぼうみち)を歩いてみた

    至る場所でコスモスが咲いているが、千日紅も咲いている。千日紅の名前は、開花期が長く花の色が変わらないことに由来する。百日紅(サルスベリ)よりも更に長く咲き続けるらしい。天気が良かったので信玄棒道を歩いてみた。以前から気になっていたのだが、先延ばし先延ばし

  • 真鶴町の古い苗字

    苗字、名字、姓、氏は昔は厳格に使い分けられていたようだが、今はほぼ同じ意味を表している。部屋から釣場まで電チャリで坂を下る時には、魚釣りのことしか考えていないし速度も出しているので脇見はしない。でも、釣行後に坂を上る時には腿がきついなと思いながらゆっくり

  • 🏯 なにやらゆかし

    以前は相模湖東ICで中央自動車道を下りて、国道412号線経由国道413号線に入り、その後国道413号線を延々と走って道志川のお気に入りの釣場に通っていた。ナビの指示する通りに走っていただけなのだけれど、帰路は相模湖ICから中央自動車道に戻るように指示が出る。相模湖東IC

  • ⛩ 石橋山古戦場

    石橋山の戦いで大敗した源頼朝は箱根山中に敗走し、その後真鶴の岩海岸から船で安房に落ち延びた。挙兵計画は事前に漏れていたので、頼朝は準備不足の中で挙兵をせざるを得なかった。佐々木勢は洪水により遅参し、当初の朝駈けによる山本館の襲撃計画も狂い手間取った。治承4

  • 🧱 ロックフェラーがくれた建造物

    白金台の東大医科学研究所の隣に、とても旧い煉瓦造りの建造物がある。現在は郷土歴史館となり、敷地全体は”ゆかしの杜”と呼ばれている。左右に大きく棟が拡がっているので、通常の写真には納まり切れない。パノラマモードで何とか納めた。この建造物はかつては国立公衆衛

  • 🏙 目黒不動尊界隈は25年間だけ花街だった

    落語「目黒のさんま」の話に背中を押されて目黒不動尊を訪れたことがある。東京の坂巡りの序でだったので、坂にばかり注意が行って目黒不動尊に参拝するのがやっとで、不動尊の回りの街並をあまり見ていなかった。せっかく不動尊の近くまで来たので、界隈をポタリングして見

  • 🏯 石垣山城と早雲禅寺

    どうにもこうにも狂暴で貪欲なアーリア系人種と違って、大和民族は戦いを好まないし皆殺しや略奪を基本的にはしない。戦国時代は例外的に大和民族が荒ぶり、戦いに明け暮れた時期だった。それでも略奪や皆殺しは少なかった。織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたのは、僧侶

  • 卍 古刹 - 定栄山 遠照寺

    僕は仏教徒ではない。困った時に南無阿弥陀仏とも南無妙法蓮華経とも唱えない。ただ文化として仏教や仏教建造物に興味があり、時々寺院を訪れる。だから特定の宗派の寺院について書くことに下心はない。曹洞宗の寺院である龍岸寺の話を書いた時に、北杜市にある寺院98寺全体

  • ⛩ 新府城址 - 藤武神社

    白州から韮崎方面へ出掛ける際に、甲州街道の代替路として七里岩台地上を貫く県道17号線(七里岩ライン)を時々使う。そして春の桃の花が咲く頃には必ず県道17号線を使う。僕は勝手に甲州街道に対して県道17号線を山ノ道と名付けていたのだけれど、元々、この辺で甲州街道は

  • 卍 龍岸寺 - 六文銭の寺紋

    全国の神社数は81,067社で人口10万人あたり63.87社となる。神社密度が最も高いのは高知県で人口10万人あたり300.97社と全国平均の4.7倍となる。2位は福井県で218.80社、3位は富山県 214.61社、4位は新潟県206.78社、5位は大分県183.02社の順だ。山梨県の神社密度は10万人あた

  • 六文銭を追いかけて ⑤

    ”真田の赤備え”は弟 信繁(幸村)が大坂の陣で用いて有名になったが、「いつものことくあか武者たるへく、指物はあかね」と信之の武者揃えも赤備えだった。信之の血脈は松代の地で続いて行く。信之は晩年は病気がちであり、しばしば隠居願を幕府に出していたが、その都度酒

  • 六文銭を追いかけて ④

    1622年10月になった。真田信之は上田から松代へと出発する。信之は既に57歳になっていた。松代への道中、秋空を見上げながら信之は何を想ったか。上田合戦、関ヶ原の戦い、大坂夏の陣は遠い昔の出来事のようでもあり、つい昨日の出来事のような気もする。真田家の上田・沼田

  • 六文銭を追いかけて ③

    上田城の駐車場に車を停めた。六文銭を追いかける旅の中で、何か新しい発見を期待したわけではない。真田幸綱(幸隆)から昌幸、信之・幸村兄弟へと続く血脈を考える上で、やはり訪問して置かなければならないと思っただけだ。1583年の築城から1874年の廃城までの290余年の内

  • 六文銭を追いかけて ②

    真田家の始祖、真田幸綱(幸隆)は、海野平合戦で一度所領を失うが、信濃に侵攻した武田晴信(信玄)に仕えて旧領である真田本城(松尾城)近辺にしっかりと根を下ろす。現在の長野県小県郡真田町の辺りだ。以後、真田の庄が本貫となる。真田幸綱(幸隆) --- 真田信綱

  • 六文銭を追いかけて ①

    ずっと同じ兜と鎧ではなかったと思うが、ある時の三人の鎧と兜。真田昌幸真田信之(信幸)真田信繁(幸村)

  • 松代 白鳥神社

    真田信之(信幸)が松代に入部してちょうど400年が経つ。1622年(元和8年)江戸幕府により、真田信之は真田の本拠地である真田・上田・沼田から松代へ加増移封された。天下分け目の戦いの際に、父親の真田昌幸と弟の真田信繁(幸村)は豊臣方に附いたが、真田信之(信幸)は

  • 大本営象山地下壕

    やっている時は必死でも、後からとんでもない無駄だったと気が付くことってある。終戦間近の9ヵ月間に突貫工事で大本営象山地下壕が造られたが、使われることはなかった。追記相当な距離を歩いたつもりだったが、僕が歩いたのは全体のほんの一部だったようだ。地下壕の総延長

  • 「坂の上の雲」

    松山城からホテルに戻る途中、秋山兄弟の生誕地に立ち寄った。日本騎兵の父 秋山好古「質問の本質も聞かずに弁じたてるというのは、政治家か学者のくせだ。」日本海軍の名参謀 秋山真之「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗な

  • 伊予松山城再訪

    7年前の家族旅行の際に伊予松山城を訪れたことがあったのだけれど、遅い時間となりリフトで城郭前までは上がったはいいものの城の中には入れなかった。高知城では皆がはしゃぐ姿を見ていたが、松山城では僕がはしゃいでいた。7年前に来た時にも感じたが、大きな城だ。高いと

  • 大磯町 旧吉田茂邸

    ”国葬”が話題になっている中、戦後最初に国葬で見送られた人ということで吉田茂を思い出した。吉田茂は戦後の日本の舵取りに大きな役割を果たした人だ。政治の世界は複雑なので、彼の功罪についてはさまざまな議論があると思う。吉田茂という化物について語るには、僕には

  • 甲府城跡

    甲府市内の舞鶴城公園に立ち寄った。甲府城の跡だ。江戸時代、非常事態には将軍は近習衆に守られながら半蔵門から江戸城を脱出する。甲州街道を少し進み内藤新宿を過ぎれば、百人町に控える鉄砲隊が合流し警固を固める。八王子では千人同心が合流し、更に将軍の警固を固め、

  • 赤塚城址

    赤塚氷川神社は台地の上の一際高い丘の上に鎮座している。一の鳥居から本殿までの間に長い、500m程はあるだろう銀杏並木の参道があるが、とても平たく真っ直ぐだ。だが参道の左右は下り坂になっている。丁度参道を含めて境内全体が馬の背状の地形の上にあるのが判る。千葉自

  • 赤塚氷川神社

    最後は後北条氏に纏められた関東の地だが(その後秀吉の小田原征伐がある)、室町時代から戦国時代にかけての関東の主役達は以下となる。●関東公方○鎌倉公方(鎌倉御所) 1349年 - 1455年室町幕府が関東十ヶ国を統治するために設置した鎌倉府の長官。十ヶ国とは相模・武蔵

  • ダイダラボッチの窪地

    僕が通った坂下の小学校の正門前には文房具店があったが、その裏手にはたぬき山と呼ばれる小さな丘があった。この丘の左右の根方に坂道があり、日に寄って帰宅の際に左側の坂を上ったり、右側の坂を上ったりした。今ではたぬき山は崩されすっかり住宅地になっている。坂は未

  • 高山陣屋

    元来は飛騨高山藩主であった金森氏の下屋敷だったが、元禄5年(1692年)に幕府が飛騨を直轄領とした後、伊奈忠篤らによって整備され、代官所として用いられるようになった。安永6年(1777年)以降は郡代役所となった。

  • 奥蓼科 「渋・辰野館」への道

    奥蓼科という地名には蓼科山の懐深くに抱かれた場所という響きがあるが、実際には蓼科より蓼科山から遥かに遠い南にある。八ヶ岳連峰の山塊は北八ヶ岳と南八ヶ岳に分かれるが、更に北八ヶ岳は北部の八子ヶ峰 (1,833m)、蓼科山 (2,530m)、茶臼山 (2,384m) などの山塊と、南部

  • 猿田彦庚申堂と高岩寺

    関西出身の人にはあまり馴染みがないかも知れないが、関東で生まれ育った人達の間では、庚申塚や庚申塔は旧道や古道の辻で見かける当たり前の存在だ。庚申塔の建立が広く行われるようになったのは、江戸時代初期頃からであり、その後近世を通して多数の庚申塔が建てられた。

  • 豊橋 岩屋観音

    いつも新幹線の窓から見えていて、気になっていた。 今日来てみた。

  • ユネスコ世界遺産だらけの街

    家族揃ってカジノが目当てで澳門に来たのだが、一応人並みの観光もした。それぞれに本当に世界遺産としての価値があるかどうかの議論は別にして、30もの世界遺産がとても小さなエリアに集中しているので、その内の幾つかは見て置こうと思った。世界遺産 聖ポール天主堂跡。19

  • 平家と平氏

    かみさんとこの間出掛けた湯西川温泉のことを思い出している。雪が少し降っていたので朝は宿の図書室で本を読んでいたのだけれど、やがて止んだ。宿の前から湯西川温泉行きや鬼怒川温泉行きのバスが出ていたが、前の晩に夕食を少し食べ過ぎたこともあり、温泉郷の終わるまで

  • 龍門石窟

    北京往きのフライトまで時間があったので、龍門石窟に立ち寄った。龍門石窟は山の中ではなく、黄河の支流である渭水の畔にある。渭水流域の盆地は関中と呼ばれ、古来多くの王朝が都を置いた。龍門石窟は渭水の東岸と西岸に拡がる。現在は両岸を幾つもの立派な橋が繋いでいる

  • そして大谷資料館

    大谷寺から大谷資料館もとても近い。道の途中にも大谷石の岩壁がそそり立っていた。目的地の大谷資料館に到着した。こちらは完全な観光地だ。駐車場から資料館の入口に向かう途中に、石の搬出用に使われた昔のトラックが置いてあったりする。良い建材となる大谷石を採掘する

  • 佐渡金山

    佐渡に渡った以上は、行かなければならない場所がある。お約束の観光地である佐渡金山跡を訪れた。実際には佐渡金山の範囲はとても広く、金山遺跡の内、相川鉱山関係遺跡が佐渡金山遺跡として国の史跡に指定され見ることが出来るらしい。1989年に閉山(操業停止)されるまで

  • 辿り着くとそこには川が流れていた

    越前朝倉氏の本拠地のあった一乗谷を訪れた。越前朝倉氏は南北朝時代には斯波氏に仕え、斯波氏が越前守護となるとともに越前に来た。室町時代になると、越前朝倉氏は織田氏とともに守護代に任じられるようになった。室町時代後期には守護代 甲斐氏とともに主家である斯波義

  • 丸岡城

    江戸時代末期までは全国に数え切れない程の城と、その天守閣があったが、明治維新以降に多くが取り壊され、その後戦争で焼けたものも有り、現存する天守閣は僅か十二を数えるのみとなった。十二天守以外は復興天守閣や模擬天守閣と呼ばれるものだ。現存と言っているが、造ら

  • 中山道 坂本宿

    めがね橋から横川駅に戻る時には、途中から遊歩道ではなく中山道を歩いた。道の両側にはまだ古い建物が並んでいた。坂本宿は中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口に在った為、比較的大きな宿場だったそうだ。天保14年(1843年)の「中山道宿村大概帳」によれば、坂本宿

  • 碓氷第三橋梁 めがね橋

    横川から軽井沢に抜ける方法は2通りある。上信越自動車道を通るという方法も入れれば3通りなんだろうが、碓氷軽井沢ICは軽井沢から離れ過ぎているし、横川から松井田妙義ICまで戻るのも面倒だ。だから、通常は国道18号線の旧道で碓氷峠を越えるか、碓氷バイパスを通る。碓氷

  • 九份の街

    丘の斜面に拡がる九份の街へは、台鐡 宜蘭線の瑞芳駅から公車(バス)か、計程車(タクシー、台湾ではタクシーを的士とは言わない。)で行く。瑞芳駅前下から上がって行っても良かったのだが、運転手さんが年寄りに気を遣ってくれて、街の上で降ろしてくれた。ゆっくりと道の

  • 西山本門寺、北山本門寺、大石寺

    仏教のことは良く分からない。日本の代表的な13宗派位は挙げられるが、各宗派の正確な違いが分からない。13宗派は以下の通りだ。奈良仏教系の法相宗、律宗、華厳宗密教系の真言宗密教と法華が合わさった天台宗法華系の日蓮宗浄土系の浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗禅系

  • 名こそ惜しけれ

    ツーリング中に二つの城址を訪問した。二本松市の霞ケ城址(二本松城址)と、白石市の益岡城址(白石城址)だ。霞ケ城址には往時の広い縄張りの跡が残っているが、天守閣は復元を含めて存在しない。こじんまりとした縄張りの益岡城址には復元天守閣が建っている。晴れたり雨が

  • 流人の地

    流罪とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑のことだ。流刑、配流とも言う。流刑地が島の場合には島流しとも呼ばれる。流罪は、少なくとも先進国と呼ばれる国々では、罪刑法定主義(罪とされる行為の内容及びそれに対して科される刑罰を予め明確に規定しておかなけれ

  • 八王子城址と武蔵野陵

    八王子城址武蔵野陵

  • 赤坂氷川神社

    赤坂2丁目や3丁目、5丁目は賑やかな繁華街だが、同じ赤坂でも6丁目あたりは静かな住宅街だ。住宅街と言っても戸建の家は殆ど無く、集合住宅ばかりではある。そんな集合住宅に取り囲まれた丘の上に、赤坂氷川神社はある。午後から永田町で会議があるのだが、ランチタイム前に

  • 高倉観音

    木更津市矢那にある高倉観音の正式名称は「平野山 高蔵寺」、坂東三十番霊場だ。仲間と遅い昼食を食べた後、思うところがあってこの寺を訪問した。先に帰る仲間とは国道297号線で別れた。二人は市原鶴舞ICから圏央道に入るだろう。日暮れ前に高倉観音に到着したい。長生郡

  • 湯河原 五所神社

    湯河原から椿ラインで大観山まで駆け上がる時に、椿ラインの入り口まで行くルートは二つある。一つは県道75号線をまっすぐ進むルートだ。県道75号線は温泉街の中を抜けて行くのでスピードは出せない。その代わりにすぐ脇の千歳川の流れを楽しめるし、温泉街の風情も楽しめる

  • 歴史の散歩道

    先にも少し触れたが、明治神宮の敷地はかつては、徳川譜代大名である彦根藩主 井伊家の江戸における下屋敷だった。井伊と言えば、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政と並んで、井伊直政が徳川四天王の1人として数えられている。或いは、本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人はその功

  • 明治神宮御苑

    都内で御苑と言えば、最初に思い浮かべるのは新宿御苑だ。新宿御苑は、元々は江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった場所だ。明治12年に新宿植物御苑が開設され宮内省の管理したが、戦後に一般に公開された。もう一つの御苑は、明治神宮の中にある。元々は加藤家、井伊

  • 石見銀山

    9月にスペイン・ポルトガル旅行に出掛けた。ポルトガルではポルトガル人のガイドに加えて、向こうに定住している日本人のガイドが付いた。彼女はポルトガル人と結婚し、ポルトガルでの暮らしも相当永いらしい。でも時々日本に帰る(来る?)と言っていた。それだけでかなり優

  • 高麗神社再訪

    日高巾着田に彼岸花(曼珠沙華)を見に行った帰りに、高麗(こま)神社に立ち寄った。この神社を訪れたのは5年振りのような気もするし、その間に一度来たような気もする。高麗(こま)神社自体への参拝の気持もあったが、それ以上にこの神社近辺の風景に惹かれるところがあっ

  • 雨は止んだ

    中山道の宿場跡のことやら、諏訪大社のことばかり書いて、ツーリング中に出合った景色のことをまったく書いていなかった。まあ、こちらはくどくど説明の要る話ではないので、走った順番に写真を紙芝居にした。中部自動車道 佐久南IC - 国道142号線 西進 - 芦田宿 - 主要道40

  • 中山道四宿

    国道142号線 西進 - 芦田宿 - 主要道40号線 南下 - 蓼科牧場 - 女神湖 - 主要道40号線 - 白樺湖 - 国道152号線 北上 - 長久保宿 - 国道142号線 南下 - 和田宿国道142号線から主要道40号線に入ったら、いよいよ走行モードだと言いたいところだが、白樺高原に向かって走り出す

  • 二つのお堂

    福島ツーリングの最後の記事だ。泉駅前のホテルを出た僕らは、まずは塩屋崎に向かった。主要道15号線を東に向かえば、やがて15号線は海岸沿いの道となる。塩屋崎まで快走するつもりだったのだが、ここにも震災の影響が残っていた。15号線は分断され、迂回路の繰り返しで漸く

  • 伊予松山城

    天守閣の現存する城は、全国に十二しかない。犬山城、彦根城、姫路城、松江城、九岡城、松本城、松山城、丸亀城、備中松山城、高知城、宇和島城、弘前城だ。この内のなんと四つが四国にある。伊予の松山城、宇和島城、讃岐の丸亀城、土佐の高知城だ。残念ながら讃岐の高松城

  • 四国の屋根付き橋

    今回の四国の旅は、淡路大橋、大鳴門橋を通って、祖谷渓と蔓橋、大歩危を訪れた後、丸亀市に宿泊し、金毘羅宮に参拝した後は、松山市に移動して松山城を見学、その後道後温泉本館で入浴して市内に宿泊した。翌朝は早くも、しまなみ海道で尾道に抜けた。祖谷渓と大歩危の訪問

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