円空は、飛騨において、川に沿う街道を網羅するように、寺社や民家に像を残している。6月7日は、そのうち千光寺から東へ向かう小八賀川(こはちががわ)沿いの円空の足取りを調査。板殿の薬師堂と、旗鉾の慈雲寺のお像を拝観。御神体も多く、ほかは現地のみ
「円空仏」で知られる山岳修行僧円空は、冒険家・登山家としてもヒーローだった! 山馬鹿岐阜県民ぼっちがその足跡を5年計画で追跡する記録
茨城県円空踏査(3)では、⑴⑵を踏まえ、円空の常陸国での足取りを追いかけてみたい。〇常陸国までの足取り・延宝7(1679)年6月15日、円空は、白山の神より託宣を受けたことを、郡上市美並町の杉原熊野神社十一面観音像と
茨城県円空踏査その2は、同県に3体確認されている円空像のうち2体がある古河市へ。古河市が、「ふるかわし」ではなく「こがし」であることも、当地が江戸時代常陸国ではなく下総国であることも、今回の踏査まで知らなかった、無知な岐阜県民ぼっちでありま
茨城県には、現在3体の円空像が確認されている。2体は県西部日光街道(奥州街道重複区間)沿いの古河市にあり、あと1体は県央部結城街道沿いの笠間市の月崇寺に伝わる。月崇寺の像は、観音菩薩とされ、その背銘に「萬山護法諸天神 御木地土作大明神 観世
栃木県に伝わる円空像で最も大作なのが、鹿沼市廣濟寺に伝わる千手観音立像(像高155.8�)。しかも、この像には重要な背銘もあるので、円空の足取り調査のためにはぜひとも拝観したかった。毎月第3土曜日の13:30〜16:00に拝観できるというこ
愛知県には、円空像が、3200体近くと全国で最も多く伝わる。これは、荒子観音寺の千面菩薩、龍泉寺の570体余りの木端仏、津島神社門前の千体地蔵が残されていることにもよるのだけれども、それを除いても、600体あまりの像がある。円空像の伝わる主
10月30日、上野国(群馬県)を中心とした円空踏査の最後に、円空の不動明王坐像が伝わる埼玉県春日部市の香林寺にお伺い。こちらには、、今年6月、第3回の埼玉遠征の折に伺いたかったけれど、あいにく法要中で断念。Y師匠がこちらのご住職と懇意とのこ
群馬県の温泉というと、草津温泉とともに名前のあがるのが、榛名山の山ふところに抱かれた渋川市の伊香保温泉。有名な石段の温泉街がの原型が形成されたのは戦国時代で、当時西上野を支配していた武田勝頼が、大敗した長篠の戦いで負傷した兵士に湯治させたと
吠瑠璃山正法院延養寺は、高崎市のあら町(新町)にある真言宗の寺院。同寺は、室町時代の至徳年間(1384〜1387年)に、法印慶覚によって開山された。慶覚は、足利尊氏から、弘法大師空海が刻んだと伝わる薬師如来像を賜り、これを道場に祀ったと伝え
妙義山は、標高1,104mと、上野国(群馬県)においてそれほど高い山ではない。しかし、その姿を目の当たりにすると、標高でははかり知れない峩々たる岩峰群に畏敬の念が湧きおこる。この山が山岳信仰の対象とされてきたのも、修験の山であったことも一目
円空の十一面千手観音像のある黒川不動堂は、貫前神社から約1.5�北の丘陵地帯の裾に位置する。群馬県立博物館長だった池田秀夫氏は、『円空研究』の論文「円空と上野国一ノ宮貫前神社」の中で、「おそらく円空が貫前神社滞在中に周辺の村々に巡礼、布教に
上野国一之宮・貫前神社(ぬきさきじんじゃ:富岡市)にあった明徳4(1393)年11月5日に写経された大般若経の残欠の末尾には、円空自筆で次のように記されている。十八年中動法輪 諸天晝夜 守奉身 刹那轉讀心般若 上野ノ一ノ宮 今古新いくたひも
吉井町弘福寺から、次は甘楽町(かんらまち)へ。甘楽郡甘楽町は、群馬県南西部に位置し、東を高崎市、西を富岡市に挟まれた人口1万2千人ほどの町で、その中心がかつて小幡藩の城下町だった小幡。小幡にある甘楽町歴史民俗資料館に、小幡八幡宮所有の円空像
埼玉県華蔵寺を後に、いよいよ想定ルート�の群馬県側踏査に入ります。想定ルート�:幸手不動院方向から中山道で深谷宿を経由し中山道の脇街道である下仁田道で貫前神社に至る。そこを拠点に、妙義山、榛名山、赤城山に巡錫 想定ルート�周辺の地
上野国の円空踏査と言いつつ、⑵の栃木県(下野国)足利市の永宝寺に続いて、⑷は埼玉県(武蔵国)深谷市の華蔵寺であります。それは、以下の想定ルート�の最初の調査地点となるため。想定ルート�:幸手不動院方向から中山道で深谷
足利市永宝寺の次は、渡良瀬川右岸沿いにみどり市大間々町(旧勢多郡大間々町)をめざす。現在は、国道50号線から日光に向かう国道122号線が通じている。図1:「上野国(上州)の街道と円空像の分布図」には、足利と大間々を直接結ぶ街道は記されていな
上野国(群馬県)の円空踏査、最初は、観音菩薩立像の伝わる栃木県足利市永宝寺から。なぜ上野国の踏査なのに、栃木県足利市から始まるのかは、まず図1をご覧ください。栃木県の円空像は、移入像をのぞいて16体確認されており、そのほとんどが日光に集中し
10月27日(日)〜30日(水)は、江戸時代上野国(こうずけのくに)だった群馬県を中心に円空の足取り踏査を実施。その踏査報告をシリーズでご報告。その(1)は、踏査の概要から。<円空が上野国を訪れた時期>上野国一之宮・貫前神社(ぬきさきじんじ
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円空は、飛騨において、川に沿う街道を網羅するように、寺社や民家に像を残している。6月7日は、そのうち千光寺から東へ向かう小八賀川(こはちががわ)沿いの円空の足取りを調査。板殿の薬師堂と、旗鉾の慈雲寺のお像を拝観。御神体も多く、ほかは現地のみ
円空は、飛騨において、川に沿う街道を網羅するように、寺社や民家に像を残している。6月3日は、そのうち宮川沿いの円空の足取りを、清峯寺のある高山市国府町から、飛騨市古川町・宮川町、越中国の関所のある富山市猪谷まで調査。画像は、宮川の古川大橋か
6月3日、高山市国府町鶴巣の清峯寺を訪問。宮川の支流、荒城川と安峰山(1,058m)から続く山並みの接点にある鶴巣集落の背後に続く石段を登っていく。真正面に白山神社の鳥居があり、その脇に円空像3体の納められた円空堂、その奥に清峯寺の本堂があ
5月25日に、高山市丹生川町下保の千光寺を訪問(ブログ掲載順は、清峯寺の記述を続けたいため、あえて変えています)。<千光寺と円空>真言宗袈裟山千光寺の開山は、仁徳天皇65年(伝377年)、両面宿儺(りょうめんすくな)との伝えられる。この両面
目下飛騨の円空を追跡しているけれど、飛騨に接する美濃の加茂郡白川町にも円空像が17体残されている。同町は、西端の飛騨川沿いが尾張藩領、それに接する和泉(旧和泉村)周辺が天領、その他の大半は苗木藩領だった。苗木藩領は、明治初年の廃仏毀釈が特に
ぼっちが把握しているだけでも、550体以上,260カ所以上と密度濃く円空像が残る飛騨の地。地図にプロットしてみると、主要な寺社だけでなく、民家にも120数か所と数多く残されているのが他地域と異なる点。その中でも、最も集中しているのは、高山市
下呂市は、2004年に益田郡の4町1村(金山町、下呂町、馬瀬村、萩原町、小坂町)が合併してできた。下呂市には、円空が飛騨で活動したその終わりの時期、元禄4(1691)年頃を中心とした180体以上の円空像が確認されている。そのうち30体以上が
信州の円空探訪(4)は、現在松本市波田公民館にあるという円空の像。同像の情報はきわめて少なく、長野市立博物館の特別展『信州ゆかりの作仏聖ー弾誓派から円空・木喰へ』にも出されなかった謎多き像。おそらく損傷が激しいのだろう、「鬼子母神像」とされ
信州の円空調査その(3)は、円空が関東の旅から(おそらく往路ではなく)帰還する時にたどったであろうルートの調査。円空は、上野国(群馬県)から、峠越しで信濃国に入ったと考えられる。信濃国に入ってからの足取りの手掛かりとなるのは、浅間山の和歌、
円空当時は信濃国だった長野県には、円空の像が21体確認されている。近年荒子観音寺から移入された像を除くと、19体。円空は、何のために信濃を訪れ、どのようなルートで行脚したのだろう。これを調べる信州の円空調査、第1回目は、4月12日、御嶽のお
4月30日は、とある事情があって、円空最後の山籠修行の地、高賀山に行くことに(「とある事情」は、いずれご報告)。高賀の森公園の登山口から登山開始。長良川の支流板取川、さらにその支流高賀川の源流部に沿って登高していく。水音が心地いい。高賀山は
4月13日〜15日、2泊3日で円空を追って栃木県日光へ。日光は、昨年9月の日光秋峰修行の折の調査以来2度目、栃木県としては11月に鹿沼市廣濟寺に行って以来3度目の調査となる。13日、円空がたどっただろう上野国(群馬県)大間々から日光に至る足
4月15日の日光清瀧寺の年1度の円空作不動三尊御開帳に合わせ、日光円空調査行に12日(土)〜15日(火)に出かけることに。12日は長野飯綱高原の小屋に前夜泊するだけなので、道中、信州の円空調査(1)として、木曽谷の円空の足取りを調査。中津川
〇はじめに仏像を乗せる台座は、儀軌に応じて定められている。最も一般的なのは、如来や菩薩などが乗る蓮の花弁が開いた姿を模した蓮華座で、蓮台ともいう。そのうち、右足と左足をそれぞれ別の蓮華に乗せる台座を踏割蓮台といい、五大明王像や来迎像に用いら
円空の絵は、延宝2(1674)年志摩(三重県)の片田三蔵寺と立神薬師堂で大般若経の補修にあわせ描いた見返し絵を除くと極めて少ない。その数少ない絵画のひとつに、高山市個人蔵の富士山の墨絵がある。この絵はいつ・どの場所で描かれたものだろう?円空
「円空の冒険」追跡を始めた最初の頃は、山岳修験僧円空の、山岳修行部分だけを追いかけ、それ以外の行跡については、先行研究を参考にさせていただけばいいと思っていた。例えば、円空研究の第一人者で、高賀神社の『大般若経』の表裏の見返しに円空自詠の和
2月28日、三井記念美術館で「魂を込めた円空仏」を観た午後は埼玉県見沼区の某寺へ。まだ拝んだことのない円空像を拝観させていただけないかと、2週間前資料も同封してお便りを書き、「ご都合悪いようならお教えください」と書き添えておいた。お寺に伺い
5カ年計画で進めている「円空の冒険」追跡、4年目の今年は飛彈を中心とする計画。ところが、2月1日から3月30日までの2か月間、三井記念美術館の特別展「魂を込めた円空仏ー飛騨千光寺を中心にして」のため、飛騨の円空像が140体あまり、東京に大移
昨年11月に、愛西市の教育委員会生涯学習スポーツ課に仲介していただき常瑞寺の円空作の観音菩薩立像を拝観させていただいた。愛西市にはもう一体森川区有の観音菩薩立像があるとうかがっていたので、改めてお願いしたところ2月17日、拝観させていただく
正覚寺は、愛知県尾張地方北部、丹羽郡扶桑町斎藤にある臨済宗妙心寺派の寺院で、地元では「斎藤の薬師堂」と呼ばれてきた。ここに、寛文9年頃、おそらく様式から鉈薬師の諸像のすぐ後に制作されたと考えられる円空作の十二神将像が伝わる。やや時代は下るが
今まで行ってきた以下の踏査を踏まえ、円空の山岳修行の中で最も重要な意味を持つ、寛文後期から延宝3(1675)年におよぶ大峯山周辺での修行について総括させてもらいます。<踏査記録>2023年11月 大峯・小篠ノ宿・笙ノ窟・鷲ノ窟踏査行2024
戸隠山(1,904m)は長野市戸隠(旧戸隠村)に位置し、岩の戸を立てかけたような峻険な山容で知られる。中腹に戸隠神社(奥社)があり、摂社に地主神の九頭龍社が祀られている。伝承によれば嘉祥2(849)年に学門行者によって開山されたとされ、平安
5月30日、早朝宿を抜け出し、ご来光を仰ぎに伊勢市の二見浦(ふたみがうら)へ。伊勢湾に注ぐ五十鈴川の河口に形成された三角州状の地帯で、神宮参拝の禊場でもあった。夫婦岩でも知られる。高賀神社に伝わる円空が詠んだ和歌は、大般若経の見返しの裏紙の
円空は大峯山での厳しい修行を経て、延宝2(1674)年に志摩国を訪れていたことが分かっている。同年3月、志摩国片田村(三重県志摩市志摩町片田)の三蔵寺の『大般若経』六百巻を巻子装から折帖装に改め修復、その扉に添絵58枚を描き、観音菩薩像を残
北海道の洞爺湖観音島観音堂にあった円空作の観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺安置)の背中に「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」の銘がある。当時円空35歳。この銘文によって
5月11日 山上ヶ岳(1,719m)の山上にある大峯山寺に向け、早朝4:40清浄大橋の登山口から入山。橋を渡ったところが女人結界で、ここまで連れ合いが見送ってくれた。それでは行ってきます。修験者の装束の先達さんに追い越された。ところどころの
円空大峯修行の全容踏査第1日目の5月10日のメインは、13時にお約束した栃尾観音堂の訪問。連れ合いと愛車OUTBACKの奥地君で天川へ向かい、少し時間があったので、まず、大峰山寺を支える5ヶ寺の護持院のうち、唯一洞川にある龍泉寺を訪問(他の
ご開帳の時期から埼玉追跡を先行させ、時期は延宝後期(1680年頃)に飛んでおりましたが、このへんで時系列に円空大峯修行まで戻します。 1 大峯修行前後の円空の足取り寛文11(1671)年3月28日 廿屋(岐阜県美濃加茂市)観音洞の
埼玉遠征調査(2−1)で計画した調査概要に対し、その結果をまとめてご報告。 〇調査概要<調査のポイント>「日本で3番目に円空像が多い埼玉県。その中でも、なぜ県の南東部の低湿地帯で、円空は集中的に造像したのか?」という疑問。これを、
あちこち回り過ぎて、肝心の薬王寺に伺うのがだいぶん遅くなってしまった。薬王寺の縁起については、恐縮ながら門前の案内板の画像をご覧いただくとして、お堂に急ぐとしましょう。薬王寺の公式ブログにお伺いする旨コメントしていたので、待っていてくださっ
5月8日 埼玉遠征3日目の最終日。今日は早くから活動する代わりに、昨日も車中連泊した、道の駅あぐりパークゆめすぎとの公園テーブルにパソコンを置いて、埼玉県立歴史と民族の博物館に寄託されている円空像の「熟覧」申請に必要な、所有者の許可書の原紙
今回の埼玉県の円空追跡は、6日の春日部市小渕の観音院と、8日のさいたま市見沼区の薬王院の開帳に合わせて計画。その間の7日は、円空像こそ拝観できなかったけれど、以下のとおり、非常に充実した調査の一日でありました。 杉戸町の道の駅で車
春日部市小渕の小淵山観音院は、本山修験宗の寺院で、聖観音菩薩立像(194.0�)、不動明王立像(132.0�)、毘沙門天立像(134.0�)の大作をはじめ、7体の円空像を伝える、円空巡礼の聖地。かつて日光道中(日光街道)の宿場町だった粕壁は
埼玉県の円空像の集中する南東部の像は、おおよそ岩槻城を中心に円周状に分布している。そんなことで、遠征踏査第1日目の6日昼間は、➀円空は、誰かに呼ばれて当地に来たのか(例えば不動院や岩槻藩など)について、旧岩槻藩領:今の行政区で
江戸時代の武蔵国北部にあたる埼玉県は、意外にも円空像が約170体と大変多く確認されている地域で、これは愛知県、岐阜県に次ぐ、第3位となる。ただし、同県の円空像については数が多いわりに、同じ関東地方でも、栃木県日光周辺の諸像や茨城県笠間市月宗
前に載せた記事「円空裳懸坐の像に関する考察」「中観音堂創建にまつわる試論」にまとめたように、長良川の周辺に裳懸坐の像が特異に集中する。そのうち、10�前後の定型的な小像が、尾張藩領だった岐阜市・関市や、西神頭家ゆかりの郡上市南部の、寺や個人
本ブログ「『円空の冒険』追跡ノート」は、2022年から2026年までの5カ年をかけ、円空の足取りを<原則時系列順で>追跡するのが、基本方針。しかし、展覧会で、この機会を逃すと、2026年までに拝観不可能という場合も結構あるので、そこは筋を曲
4月9日、美濃加茂市民ミュージアムで、撮影させていただいたもう一組の円空像は、蜂屋町北薬師堂の薬師三尊像。一体ずつ箱から出していただき、拝観しながら撮影をさせていただいた。まずは、主尊の薬師如来立像。像高84.5�、薬壺を持ち手は裳に隠して
美濃加茂市は、中山道太田宿のあった太田町をはじめ、古井町・山之上村・蜂屋村・加茂野村・伊深村・下米田村、および三和村・和知村の一部が合併してできた市で、その名の由来は美濃国加茂郡にちなむ。木曽川と飛騨川の合流地点に近く、太田宿と今戸宿の間は
4月8日花祭りの午後は、雨が降り出した。多治見普賢寺を後に、犬山市の妙感寺へ伺う時間調整のため、国宝犬山城天主閣を遠望する城下町を歩いてみる。犬山城主だった成瀬家は、徳川家康の命で尾張藩に付属された、家老より格上の「付家老」で、犬山城主とし