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性能とデザイン いい家大研究 https://blog.goo.ne.jp/replankeigo

こちら 住まいの雑誌・Replan編集長三木奎吾です  いい家ってなんだろう、を考え続けます

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2015/10/15

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  • 【江戸城から開拓使本庁へ 建築技術者のDNA移植】

    さて「北海道住宅始原の旅」シリーズであります。前回は、写真下の「開拓使本庁」をご紹介しましたが、わたしのはるかな「導師」故・遠藤明久先生の論文を研究しています。「開拓使営繕事業の研究」という労作の論文。明治初年における開拓使の建築工事を丹念に考証されている。開拓使の工事は明治2-3年の島義勇判官の着任早々での罷免の影響から明治3年中は既存仕掛かりを除いて全体として緩慢な動きになった。一方で実質的な開拓使の主導者・黒田清隆が明治4年に洋行し、そこでケプロンなどの御雇外国人を招致し、開拓使の建築をアメリカの基本建築技術に沿った「洋造」に決定した。基本方針・国家意志が定まったことで明治4年末から大きく動き出す。事実、島義勇には官舎の建設について思想らしきものは垣間見えないのに、明治5年に着工し明治6年に竣工する「開拓...【江戸城から開拓使本庁へ建築技術者のDNA移植】

  • 【その土地の地形推移と住宅が考える存続期間】

    最近、宮城県などで住宅の動向を取材していて「雰囲気」として、1000年前の貞観地震・大津波から東日本大震災までの期間の長さをみて、「もう1000年くらいはああいう大災害は来ない」みたいな考え方を持つ人もいる、とささやかれている。住宅というものはそもそもそんな長期間の存続まで考えるものではない。現代では家族関係自体が核家族化の進行などで永続する「家系」の拠点建築という伝統的意味合いが薄れたか消失している。子どもが「代々の」居住資産として受け継ぐような意識はないのだし・・・。という意識が抜けがたくホンネではないか、という次第。これはある意味、ホンネそのものだろうなと思います。ただ、貞観地震から東日本大震災のスパンが1000年だったことが、その考え方の根拠だとすれば、それは「定理」ではない。どうも「活動期」に入ってい...【その土地の地形推移と住宅が考える存続期間】

  • 【輪廻転生 気候変動 天体衝突】

    ちょっと前に1160万年前の「最新の生命絶滅痕跡」発見、というニュースが流れていましたね。写真はそのニュース当時、NASA提供の写真として流布されていたもので、その下は産経WEBで見られた図表です。地球の年齢は45億年前後と言われていますから、この図表にあるのは、生命が宿った以降での「大量死」であってそれ以前にもたくさんの隕石や小惑星天体の衝突とか、あるいは地球の一部が月になって分離していった、みたいな人知を越える大変動が、こんなふうに幾度となく起こっている、そのことがかなり明瞭に見えてきたということなのでしょう。現代世界がたとえ滅びたとしてもそれが最後ではなく、その先にも輪廻転生の世界は続いていくのだともいえる。みなさんはこのニュースをどのように受け止められたでしょうか?ここまでの巨大科学事実までは想像力は及...【輪廻転生気候変動天体衝突】

  • 【年末繁忙期 社長食堂も随時営業(笑)】

    ことしももうすぐ師走という時期に差し掛かってきました。年末進行でたくさんの案件が同時進行。ということで、疲れが溜まってくるタイミングを見て社長食堂の出番であります。これまで参加人数について各部署ごとで4−5人程度などメニューと相談しながら、いろいろな試行錯誤を繰り返してきましたがやはりできれば、全員いっしょに食べられる方がいい。少人数の方が作る方の量的負担はやや減るのですが、一堂に会してワイワイガヤガヤしている方が楽しい。ということで、メニューにはやや限定がかかりますが、最近は大人数いっぺんにやっております。作る方はまさに戦争のようなもので、15-6人くらいのメンバーの胃袋を一杯にするのはなかなかの難事業ではあります。わたしはよく知りませんが、大人数の食事を作る組織の台所について、興味が募ってきております。どう...【年末繁忙期社長食堂も随時営業(笑)】

  • 【自分の住んでいる地域の歴史を知る】

    いま日本全体が気候変動期に突入してきている。明治以降、いや戦後70数年間比較的に気候安定期だったことからそれを「常態」と考える「平和ボケ」みたいな意識が日本人にある。だからよく「想定外」というコトバが交わされる。堤防などの「備え」についても安定期の常識に基づいて基準想定している。しかし、もう少しビッグスパンで見れば、まったく違う見え方があるのだということに気付かされる。ここのところ、明治初年前後の歴史の掘り起こしをしている。その前史としての地形変動なども下地として調査している。大きな「気候変動」が波動として地域景観を大きく規定していることがわかる。図とジオラマは札幌中央図書館にある「埋蔵文化財センター」展示。基底的な標高図と、地形の成り立ちが色分けされて、それにあわせて人文的な「遺跡」がマッピングされている。先...【自分の住んでいる地域の歴史を知る】

  • 【中央省庁機関「開拓使」住宅施策の民族的継承】

    北海道住宅始原の旅シリーズです。現在存在する地方自治体としての「北海道」は、全国でたいへん珍しく「住宅政策」を自前で考え実践している存在。直近の事例では「北方型住宅2020」という住宅施策を開始する。ふつうに考えれば住宅施策を一地方政府が考えるのは国土交通省の管掌領域を侵すことになるのではないか、そういった官僚機構的「忖度」があるだろうことは自明。地方自治体は「外交」を独自に他国と条約として結ぶことはできないし、税を勝手に専断していいワケはない。であるのに、北海道の側にも国交省の側にも、こと住宅については表面では相互の間にある了解があると感じられる。寒冷住宅政策については北海道はかなり自由にハンドリングしている。それは、北海道という地域が日本の他の地域とかなり違う風土条件を持っていることからの例外的必然だと思う...【中央省庁機関「開拓使」住宅施策の民族的継承】

  • 【明治5年4月建築「ガラス邸」和風公務員官舎】

    北海道住宅始原の旅であります。古記録に見える明治5年「御用火事」記述の中で「ガラス邸あたりから」といった記述があって、その建物について調べていました。それがきのう触れた遠藤明久先生の古調査で「夕張通壱号官邸」であると特定されていました。先生の書かれた「開拓使営繕事業の研究」や「さっぽろ文庫23札幌の建物」にこのガラス邸についての調査記録が遺されている。「この建物は現札幌市中央区北4条西1丁目に前年の明治4年10月に着工したものであるが明治5年4月に完成した。記録によると和風住宅で板ガラスは、縁側に面した室内の紙障子の一部に用いている。「札幌昔話」によるとガラス障子を初めて使用した建物であるという。」ガラス邸、という名称から無意識のうちに「洋風建築」と思っていたのですが、どうも和風建築として建てられたようなのです...【明治5年4月建築「ガラス邸」和風公務員官舎】

  • 【先人碩学・遠藤明久先生「天国からの手紙」】

    人間、継続してなにかに興味を持ち続けるといろいろな助力を得られるものだと思います。わたしは北海道に生まれて住宅の雑誌を発行し続けてきた人間です。必然的に「高断熱高気密住宅」という地域住宅文化のハブを意図してきた。いまでは東北や関西といった地域でも発行してそういう家づくりを志向する運動のハブ機能も果たしたいと活動してきた。そういう流れの中で、北海道が体験し希求して、突き詰めてきた「高断熱高気密住宅」技術伝承のコアを探究したいとも考えます。たまたまブログを書き続けているので、その1シリーズとして「北海道住宅始原への旅」を探究してきています。大学は文系でメディアとかコミュニケーションの世界で生きてきた。住宅建築は、雑誌を作ってくる中で意図的に出会った領域。そういうことなので学究のみなさんとは知り合いではあるけれど自分...【先人碩学・遠藤明久先生「天国からの手紙」】

  • 【明治5年・開拓使「勅奏邸」でガラス窓】

    北海道住宅の最初期、というか明治政府による「開拓使」設置からの北海道開拓殖民において決定的な要素領域であった、「住環境」についての始原を探ってみようという企画を進めています。もちろん、前史はかなり遡れるのですが、今日のライフスタイルに直接つながる「住文化」を遺されている多くの資料を目的的に活用して、活写しておきたい。とくに高断熱高気密という日本の住宅を革命しつつあることがらがどのようにスタートしてきたのか、明治初年から整理整頓してみようと考えている次第です。開拓使は北海道開拓の本府として札幌を選択して、そこに日本民族による寒冷気候を克服した「五州第一の」都を造営しようと企てた。(判官・島義勇)一部のアイヌのコタンを除けば人跡がほとんど見られなかった札幌に旺盛に都市を建設し、住居を建て続けてきた。明治初年であり、...【明治5年・開拓使「勅奏邸」でガラス窓】

  • 【開拓使・勅奏邸が「ガラス邸」か?迷宮入りか】

    本日はしばらく書けなかった「北海道住宅始原の旅」シリーズです。書けなかったのにはいろいろ忙しかったということもあるのですが、特徴的な「住宅」ということで屯田兵屋とかを書き続けてきて開拓使の長官邸、名前だけは記録に残っている「ガラス邸」についてさまざまに調査活動をしているのですが、なかなか進まないのであります。岩村通俊や、その後の長官・黒田清隆などが札幌にいるときはこの建物を使ったに違いなく、また例の「御用火事」についての記録文でも「ガラス邸前あたりから・・・」という一般固有名詞としていわば「みんなが知っているあの建物」みたいに書かれている。ところが、この建物がどういう建物だったか、記録が見えない。北海道住宅始原の旅プロジェクトとしては、まことに画竜点睛を欠く。「我流がいいところで、そんな画竜なんて」とヤジが飛ん...【開拓使・勅奏邸が「ガラス邸」か?迷宮入りか】

  • 【昭和初期・中卒の叔父の書】

    ことし96歳になる叔父が健在です。大正12年・1923年生まれ。学校には16歳まで通ったことになる。教育を受けたのは約10年間。しかし、家族や学校からは厳しい教育を受けて育ったのだという。教員免許を持って数年間は教壇にも立っていた長兄の叔父から厳しく教育を受けたそうで、書をきちんと書けなければ、鉄拳制裁を受けていたと語っている。いまの偏差値教育とはまったく違う教育体系だったのだと思う。「名は体を表し、書は人格を表す」というように教育を受けた時代。書に向かう心構えにおいて、いまの人間とは根本が違う。その叔父の書のもつ力に触れた兄が、その書を持って訪ねてきた。書を写し撮って印刷し板に張って、さらにその板を彫刻して掲額としたいのだという。そういう趣味作品が知友に好まれるそうだ。デジタルデータにスキャンして、多用途に使...【昭和初期・中卒の叔父の書】

  • 【皇居という特異な日本の「文化資産」】

    写真は大嘗祭の皇居・竹橋から見たお濠。江戸という街は人工的に作られた都市。マザーになった集落というのは、太田道灌という武家がその前身を形作ったと言われているけれど、徳川家康が入地して関東全域の支配を固めるために都市経営をはじめた。小田原という関東でもいちばん東海地域に近い軍事上の要害地では全関東の中心地としては西に偏りすぎているし、その後の「経済発展」のためには水運の豊かさが必須だった。といった秀吉政権からのアドバイスがあったとされる。俗に言う、小田原戦陣での秀吉と家康の逸話が有名ですね。こういった中核都市建設については最新の事例は札幌。日本史は奈良の都市造りから京都や大阪、江戸を経てはるかに新開地北海道・札幌の創造へと至っているのだと思います。いちばん新しい大都市開発で札幌には情報痕跡が多い。日本社会はどう都...【皇居という特異な日本の「文化資産」】

  • 【「名所旧跡」に見る日本人的感受性】

    写真は竹橋の東京国立近代美術館展示の「河瀬巴水・東海道風景集」から、三保の松原と厳島神社の版画です。どうもわたしは日本の近現代の美術には関心が薄い。油絵やモダンアート然とした作品群にはどうも拒否反応する。っていうことをきのうも書いたのですが、展示にはそういうのが多くてやや困惑していたところに、この画集展示があった。この作品群は「東海道53次」的な下敷きで昭和7年に出版された作品。いったいなにが描かれているか、素人的にはすぐ了解しにくい難解なモダンアート作品群のなかにわかりやすい構図・絵柄が展開。受け止め側では非常にわかりやすく感情移入しやすかった。・・・で、ふと日本人はなぜ「三保の松原とか厳島神社」に代表される「名所」という感覚を共有し続けてきたのかに思いが至った。いうまでもなくこれらは「観光地」となっていまも...【「名所旧跡」に見る日本人的感受性】

  • 【日本画・宮廻正明「水花火」】

    東京に来ると時間を見て山種美術館は必ず鑑賞する。今回展示は「東山魁夷の青・奥田元宋の赤ー色で読み解く日本画ー」いつのころからか、西洋絵画よりも日本画に強く惹かれるようになって日本画の最大コレクション、山種美術館に吸引されている。どうもこういった「伝統系」の方にどんどん惹かれていくのか、建築でも伝統工法の技術伝承などにも親近感を持つようになる。結局、日本という国は島国であり、海洋国家なのでしょう。大陸国家というのはとにかく原理性に帰依してそれに非妥協的に固執する。海洋国家はそういったものを柔軟に受け止めるけれど、やがては咀嚼して独特に「国風化」させてしまう。近現代で言えば、明治維新以降旺盛に西洋文明を受容してきて世界がひとつの価値感に統合されてきたことのひとつのきっかけも作ったのだと思われる。最近の歴史家のみなさ...【日本画・宮廻正明「水花火」】

  • 【 伝統工法「込み栓・貫」と高断熱高気密】

    写真は先日下取材してきた北海道足寄町の木組みの家。木組みの家は先日の「エコハウスコンテスト」by建築知識ビルダーズさんで「漢方の本陣」というユニークなネーミングの家がリフォーム部門で「大賞」を受賞されていました。設計者の松井郁夫さんや断熱の管理の夏見さんなどが活躍された。北海道の高断熱高気密派はこういった伝統工法の「対極」というように見られる方がいるようですが、むしろ工業化住宅、画一化住宅との関係で対極という意味合いで共通する部分の方が大きいと思っています。また、どちらも細部での施工が命という部分があって親和性がむしろあるのではとないだろうかと。伝統工法は写真のような「貫」とか「込み栓」のようなディテールから非常にきめ細かな手順と段取りが要求される。高断熱高気密でも、気密層の連続や断熱部位の処理方法など、こちら...【伝統工法「込み栓・貫」と高断熱高気密】

  • 【気候変動本格化 省エネ基準 「地域区分」見直し】

    きのうは北海道庁の「北方型住宅」検討会議に出席。この「諮問会議」座長はいま道総研理事の鈴木大隆さん。会議ではこれまでの論議に踏まえて北海道としての地域ブランド住宅として「北方型住宅2020」の創設が決まりました。これはこれまでの「北方型住宅」「北方型eco」「北海道R住宅」などの制度設計の流れを引き継ぐもので、住宅政策で日本全国をリードしてきた北海道地域として、官民挙げて新時代の住宅施策を示すもの。このあと、年度中に再度整理整頓の会議が開かれて、新年度から施策実施されていくカタチになります。このブログでは「北海道住宅始原期への旅」をテーマ展開していますが、地域としての北海道が歴史的に150年間、取り組んできたよき「住宅」のあり方について未来に向かってその方向性を現代のいまふたたび明確にして指し示すものといえるで...【気候変動本格化省エネ基準「地域区分」見直し】

  • 【阿部比羅夫に加勢依頼の北海道側の動機】

    本日から住宅ネタに復帰としましたが、書き進めていて気付いていたことがあるので、書き留めておきたい。というのは、昨日まで数回にわたって書いた「阿部比羅夫」の北方遠征に関連してのことです。この遠征ではヤマト王権側の狙いは安定的な北方交易の確保だっただろうと思います。日本書紀にわざわざ「生きたクマ2匹と毛皮70枚」とその「交易品」が記されているのは、こうした交易品が王権社会で珍重され「威信材」として各地のヤマト政権への服従を誓う豪族に対して「下賜」されるその対象だったのではないかと推測されるのです。この時代以降、奈良期の黄金発掘などもあって北方への関心が非常に強くなるのは、こうした交易の魅力が深く浸透した証しだと思える。一方で、阿部比羅夫は北海道現地の2つの勢力のうち、続縄文の社会側と同盟関係になったことが見て取れる...【阿部比羅夫に加勢依頼の北海道側の動機】

  • 【北海道&朝鮮 670年前後阿倍比羅夫の出撃】

    北海道住宅始原の旅シリーズですが、本日はややスピンアウト。一昨日は北海道江別古墳群の造営者たちとヤマト朝廷側との対粛慎(異文化性の強いオホーツク文化人)の同盟関係推定に触れました。6000年前の「古石狩湾」地形から気候変動、大地変動を経て安定的地盤地域「江別半島」にこの時期「続縄文」の社会が存在した。高校後輩の考古の碩学・瀬川拓郎さんの「アイヌの世界」での「阿倍比羅夫は誰と戦ったか」条を下敷きにしてみた次第。かれは、石狩低地帯以西の続縄文社会とヤマト政権が共通の敵対勢力として粛慎を特定し「戦った」事跡を掘り起こしている。阿倍比羅夫は対外軍事作戦として北海道に「遠征」した。瀬川さんの記述では奥尻島で阿倍比羅夫は大いに粛慎を撃破した。そして北海道・続縄文のひとびととの連携・同盟関係を作り安定的な「交易」基盤を作るた...【北海道&朝鮮670年前後阿倍比羅夫の出撃】

  • 【最北の「木組みの家」見学往復500km】

    北海道は広い・・・。「ちょっと行ってみるか」の「ちょっと」がハンパない。でもやはり士族の移住が多かったせいか、建築の世界でも、ちょっとオモシロいことをやってみたい、という人が多いとも思う。わたしなどよりもはるかに若い世代の方から「こんなオモシロい家を建てました」みたいな案内が来ることがある。木組みの家という住宅運動があって、伝統木造の家づくりを全国で盛り上げようと頑張っている。主導者の松井郁夫さんとはやや驚愕の初対面でのやり取りがあって「伝統派の人って断熱も気密もなんもやらないんでしょ」と挑発した(と受け取られた)。そこまで強い言い方ではなかったのですが、いまでは、松井さんは「北海道の三木からこう言われた」と枕詞だそう(笑)。わたしなんかのメディア人間ではなく実践者である松井さんはしかし、そこから高断熱高気密に...【最北の「木組みの家」見学往復500km】

  • 【658年阿倍比羅夫遠征で江別古墳勢力と接触?】

    さて北海道住宅始原の旅シリーズ・古代史続篇です。いろいろなみなさんから情報のご支援などもいただけますので、やる気倍増で、たいへんウレシク思っております。やはり北海道住宅は、明治の開拓初期開始された本格的な移住促進、そのプロセスで建てられた住宅が中心軸になります。そうなのですが、しかしそれ以前の「前史」もまた、6000年前の古地形の時代まで含め、奥行きと深さがあると思います。そして7−9世紀にかけて造営された現地民の痕跡が江別地域に遺っている。「江別古墳群」であります。この時代、日本書紀に「阿倍比羅夫の遠征記録」がある(658-660年)。阿倍比羅夫はその2年後663年には国際戦争・白村江の戦いにも参陣する。この当時のヤマト政権中枢の国家意志を体現した存在であることは間違いない。660年の条では「比羅夫は大河(石...【658年阿倍比羅夫遠征で江別古墳勢力と接触?】

  • 【出張時のFacebookトラブル遭遇】

    今週は東北に出張してきておりました。本日は故あって函館で1泊してクルマごと本日帰還予定。「三木さん、若いですね(笑)」と冷やかされながらであります。そういうときに限って、WEB環境でトラブルが発生する。ということで「北海道住宅始原の旅」シリーズは明日以降に順延。きのう朝いつものように年寄りの「日課」、ブログを書き上げてアップさせた。わたしはWordpressというブログを書くソフトで書いておりましてそれがfacebookに「連携」する設定にしてあるのです。年寄りながら、情報関連でやってきたのでなんとか、今の時代の環境にも対応したいと考えている次第です。でもまぁそこは詳細な知識とか、スタッフに保守して支えてもらっている。で、書き上げてアップしたけれど、Facebook上に反映されない。もう一度試してもダメ。・・・...【出張時のFacebookトラブル遭遇】

  • 【石狩平野・古地形と開拓使の開発戦略】

    北海道住宅始原の旅シリーズ、いろいろなご意見・反響が。とくにわたし的にビッグスパンとしての古地形が心に強くあったので、6000年前は広大な運河的な海が石狩平野を覆っていた事実について絶対に抑える必要があると考え、掘り起こして触れてみた次第です。図示したのは江戸期に描かれた「蝦夷地山川地理取調図江別付近」。明治の開拓使の活動に先行して、江戸幕府もさまざまな活動をこの地では先駆けて行ってきていたし、測量など基礎的な調査は行われている。とくに「場所請負制」も最後期になると、閉鎖的独占に凝り固まった支配形態の弊害が大きくなってきていて、その弊害を打破するために「イシカリ改革」というような施政転換もあった。その結果、多くの新規参入がこの地域を中心に図られて祝津などでの底引き網漁などで大成功を収める青山家などがあらわれる。...【石狩平野・古地形と開拓使の開発戦略】

  • 【窓・建具を彩る明治の職人の手業】

    きのう紹介した野幌屯田兵中隊本部の「ガラス窓」です。明治17年の建築に装置された窓は、当然のように木製です。木製窓って、その窓の先の外だけを見ているのか、あるいは額縁の木枠と一体化した「窓のある風景」としてみているのか、心象的に微妙なあわいところに立ち至っていると思います・・・。ある画家から、額縁の存在感に負けないように頑張ると聞いたことがある。今日とは違って、こうした窓は「建具仕事」として現場で造作された。しかも、見よう見まねの「洋風建築」の窓であります。たしかにこの頃には北米などから専門技術を持った「お雇い外国人」が多数、北海道・札幌に滞在し、働いてくれていた。そうしたかれらのための住宅として洋風住宅の需要があって、それがまた反射して日本人のインテリ層を中心に住宅デザインに反映した。そもそもこの当時建設され...【窓・建具を彩る明治の職人の手業】

  • 【明治モダニズム=ガラス窓 野幌屯田兵中隊本部】

    北海道住宅始原期への旅です。きのう触れた江別市の地質的な高台地形、舌状台地に立地する建物。古地形的に見ても、北海道の石狩低地帯のなかの「要衝地」。石狩川は上川地方の淵源地から扇状地を作りながら南下してこの周辺になってくると、平地になって蛇行が大きくなる。古来、氾濫を繰り返してきたことが明らかに見て取れるそうですが、明治の開拓期の地形測量でもそのように判断してやや高台になっているこの「野幌丘陵」地域を屯田兵村地域と定めた。舌状台地の突端が石狩川に対面するような位置関係に相当する。兵村の展開は波状的に数回にわたって行われ、旧軍隊組織の「中隊」規模にまで多数の屯田兵屋が配置された。札幌の琴似、山鼻に続いて3番目に入地が進んだ地域です。農地という選定基準もさりながら、交通も当然、北海道内内陸地の戦略地形的な要衝地という...【明治モダニズム=ガラス窓野幌屯田兵中隊本部】

  • 【6000年前「古石狩湾」地域の交流痕跡】

    北海道住宅始原期への探究です。明治の新政府による移住政策の推進、民の動向が探究のメインですが、やはりより古い時代からの「流れ」というものも存在する。直接の日本国家による「投資」的進出、住宅建築とは別に先史からのこの地域の動向というものも押さえておきたいと思います。図示しているのはきのうの「6000年前の石狩湾」の平面図表現。いまの道央地域、石狩低地帯の6000年前の姿。この状況から現代見ている石狩平野状況まで推移してきた。普段の生活認識では、石狩平野地域での「高低差」というのはなかなか感覚しにくいのですが、しかし先人たちにとってこういう高低差というのは決定的だっただろうと思います。まずは海からの高さがあることで、安定的な陸上生活が可能になる。その基本ポイントで見る習慣が現代人から失われているのかも。しかし、最近...【6000年前「古石狩湾」地域の交流痕跡】

  • 【6000年前は海だった北海道石狩平野】

    写真は北海道の石狩湾の上空から南東・ニッポン方向を見下ろした様子。上の図が今から6000年前で、下が現在の様子。わたしのブログでは数回、こうした「過去地形」を考えてきています。最近の「気候変動」の原因についてそれをCO2の問題と教条的に決めつけるのには単純には同意できません。むしろそれ以上に、過去から繰り返されてきた地球気候全体としての温暖化、寒冷化のサイクルということが大きいだろうと思っています。そのことを明確に証明しているのがこのような「大地の変容」。以前にも、関東や関西の大地の姿が歴史年代でも変化していると書きました。直近では大阪平野が実は、河内湖、さらにそれ以前は瀬戸内海とつながった内海であって「浪速」という地名自体がその事実を痕跡として伝えている事実などに注目していました。大阪の場合、このことが「神話...【6000年前は海だった北海道石狩平野】

  • 【許認可電波メディアでの五輪マラソン札幌ディスり】

    いまの時代は転換点なのだとつくづく思わされる。これまで情報の庶民的「ホンネ」領域をほぼ独占的に担っていたテレビがインターネット上の「炎上」にさらされることが常態化してきた。11月1日放送された「ミヤネ屋」という昼間の情報バラエティで、東京オリンピックマラソンの東京から札幌への会場変更が話題として取り上げられ、そのなかで司会者の宮根某という人物がどういう心理からなのか、いかにも上から目線で、勝手に予測した札幌のマラソンコースをディスりまくったそうです。娘から送られてきたリンクで動画を確認させてもらった。「放送するアナウンサーは、青い空、白い雲くらいしか言えない」「最寄り駅から40分もかかる、ありえない。年寄りや子どもも応援したいだろうに」「東京だったら、東京タワーですとかランドマークを連呼できるけど、こんなところ...【許認可電波メディアでの五輪マラソン札幌ディスり】

  • 【ラグビーWC大団円 五輪マラソン札幌開催へ】

    さて長かったラグビーワールドカップもきょうが決勝戦とのこと。日本中に誇らしげな「にわか」ファンの渦を巻き起こしての大団円です。なにが何だかよくわからないけど、相撲の立ち会いのぶつかり合いの迫力と独特のチーム一丸球技のオモシロさ、さらに国別対抗というわかりやすさ、その上、終わったあとの「ノーサイド」の清々しさと、まさに「にわか」的盛り上がりには事欠きませんでしたね。ちょうど、韓国との外交あつれきが盛んな時期に重なったことで、そういった国際意識のモヤモヤした部分がストレス発散されていた。国同士がいがみ合うのはある部分仕方のない「サガ」ではあるけれど、同時にお互いをリスペクトすることの大切さを再度確認させてくれたイベントだったと思います。決勝戦は日本に勝ち上がった南アフリカと、イングランド戦。にわか、としては日本戦の...【ラグビーWC大団円五輪マラソン札幌開催へ】

  • 【ラグビーWC大団円 五輪マラソン札幌開催へ】

    さて長かったラグビーワールドカップもきょうが決勝戦とのこと。日本中に誇らしげな「にわか」ファンの渦を巻き起こしての大団円です。なにが何だかよくわからないけど、相撲の立ち会いのぶつかり合いの迫力と独特のチーム一丸球技のオモシロさ、さらに国別対抗というわかりやすさ、その上、終わったあとの「ノーサイド」の清々しさと、まさに「にわか」的盛り上がりには事欠きませんでしたね。ちょうど、韓国との外交あつれきが盛んな時期に重なったことで、そういった国際意識のモヤモヤした部分がストレス発散されていた。国同士がいがみ合うのはある部分仕方のない「サガ」ではあるけれど、同時にお互いをリスペクトすることの大切さを再度確認させてくれたイベントだったと思います。決勝戦は日本に勝ち上がった南アフリカと、イングランド戦。にわか、としては日本戦の...【ラグビーWC大団円五輪マラソン札幌開催へ】

  • 【城郭と支える城下町 「首里城」再建を期待】

    首里城が焼失した。家族が移住していた経緯があって沖縄へ何度も往復していた。首里城も数回は見学していたけれど、とくに写真には収めていなかった。名にし負う観光地であり、回を重ねるごとにそうした気持ちが消えたのかも。北海道のひとが道庁赤煉瓦建築をあまり写真には収めないみたいなものか。テレビを見る習慣がほとんどなくなったので、今回のニュースはWEBで知った。沖縄と建築という類推から建築家の伊礼智さんのFBページでの反応なども知った次第。建築にはさまざまな要素があるのだろうけれど、この琉球王朝時代の象徴建築はひとびとのこころに触れていることが明瞭。ある意味、沖縄そのもののアイデンティティという受け止め方。わたしも一瞬、沖縄が失われたという思いを抱いた。伊礼さんの言葉では「建て直すしかない」という意志的なフレーズがとくに印...【城郭と支える城下町「首里城」再建を期待】

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