スーパーマーケット・中村屋の北側に五仙堂橋があり、西に向かって細い道の田圃と田圃の間を進むと左側に「五仙堂」と下部に彫られた石柱がある。上部には「皇威赫八絋皇徳昭六合五仙堂」。皇威=天皇の威光。八紘=全世界、八方、八極。赫=かがやくさま、名誉をたたえ顕彰するのに云う。右側面には「和十六年」とある。明治45(1912)年発行の国土地理院地図を見ると「土橋」の北側に「五仙堂」と記載されている。「㏍GOSENDO」と社名のあるお住まいの方にお声がけすると「当時5,6軒位の村「五仙堂村」だったところで、(株)五仙堂は明治の頃大阪四ツ橋で、衣類や日用品を商う店だった。今は店を閉じて、㈱五仙堂も今年(平成29年)末をもって看板も降ろすと…」とのお話し。石柱を左へ坂を登ると井戸がある。近くの方の話によると、...富雄川流域探索「五仙堂村」
すっぽんを入れた魚籠は桜の枝につるした。桜の幹にも柳の枝にも同じ高さで、藁くずやごみがひっかかっていた。これは水が出た時、水がここまで来た跡だ。…帰途(かえり)、酒屋に立ち寄り婆さんにすっぽんを見せた。亀はいるが、すっぽんはこの川でも珍しいと、大変喜んでくれた。二、三人見に出てきた男の一人が笑いながら、『かみに、養殖している人がありま。そこから逃げた奴だっしゃろ』といった。野生のつもりでいたので、これは少し興ざめした。…」とある。富雄駅の鉄橋から富雄川を南へ向かって歩く様子を語っている。「酒屋」とあるが昭和30年ごろ、現・富雄中学校の隣に酒蔵があったが今、「ボトルワールドOK富雄店」になっている。富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』4」
一軒離れて、間口の広い造り酒屋がある。その前の立木の中を分水した方の水が流れている。丁度前かきの幅だけなので、それを入れて子供達に下流から叉手(さで)で追はしたが、何度やつても一尾も入らなかつた。…十二、三軒人家のかたまった所を通りぬけると、真直ぐな一本道に出た。左は田圃、右は川で、遠く、大な榎が四辻においかぶさっている砂茶屋という所まで、それが続いている。此辺の川には綺麗な洲があり、葭(よし)が生え、何となく親しみ易い景色だった。路から一間ほど下り、草原の木陰で持って来た物をひらいた。すっぽんを入れた魚籠は桜の枝につるした。桜の幹にも柳の枝にも同じ高さで、藁くずやごみがひっかかっていた。これは水が出た時、水がここまで来た跡だ。…帰途(かえり)、酒屋に立ち寄り婆さんにすっぽんを見せた。亀はいるが、すっぽんはこの...富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』3」
「…次の日曜(六月四日、晴れ)それを持って、うち中で富雄川へ出かけた。大概の生きものは好きだが、捕ることは甚(ひど)く不得手で、魚捕りも好きではないが、此日は前かきで多少の興味を持ちながら行った。電車を降り、線路について片側人家のだらだら坂を下りきると、直角に、それが富雄川だ。幅、四、五間の川床で、水は砂地を残し、もっと狭い幅で流れている。岸から、一寸した草原があり、其所に枝のよく広がった桜が一列にならんでいる。赤いのや、もう黒く熟した小な桜ン坊が沢山ついていた。桜並木と往来との間に上流で分水した小さな流れが下の川よりもなみなみと勢いよく流れている…」。富雄川流域探索「志賀直哉著『日曜日』2」
「小説の神様」と言われる志賀直哉が1925(大正14)年から1938(昭和13)年まで奈良・高畑に住んでいた。1934(昭和9)年1月に発表された「日曜日」に、富雄駅から砂茶屋ま、富雄川沿いに歩いた話が登場する。富雄川流域探索「富雄川と志賀直哉1」
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