くろんど池から川沿いに南へ下ると、高山集落があり標高217mの山城である高山城跡がある。生駒デジタルミュージアムによると「室町時代に奈良興福寺一乗院方衆徒高山(鷹山)氏によって築かれたと云われている。この城の歴史はあまり詳しく伝わっていないが、城主高山氏は、応仁の乱から戦国時代には越智・古市氏に属している」とあり、また、「室町後期、天文13(1544)年、筒井氏の柳生城攻めには、筒井氏に従って参陣しているが、後の筒井城主筒井順慶と信貴山城主松永久秀の抗争では、松永氏に従っている」と、お城の旅日記にある。頂には鳥居、十三重塔、九龍神(雨と水をつかさどる神)が祀られている。今日の暦:明治33(1900)年、軍艦マーチが神戸沖の観艦式で初演奏。富雄川流域探索「高山城跡」
生駒市、奈良市、大和郡山市、生駒郡斑鳩町を経由して、安堵町で大和川に合流するが、その距離約23㎞で、くろんど池からの標高差は約185mある。そこに掛かる「橋」は約93橋(平成29年現)ある。西ノ京丘陵と矢田丘陵に挟まれて流れてきた川も、大和郡山市に入ると東側に平坦部が広がり、そこには3個十個井堰がある。その他「七箇井堰」は灌漑面積237町歩を潤している。また、3㎞程の距離に転倒式可動堰や空気ゴム堰等の「堰」が6ヶ所ある区域もある。今日の暦:寛永3(1626)年、幕府が人身売買を禁止する。富雄川流域探索「田畑を潤す井堰の多い川」
奈良県生駒市高山町にある、くろんど池(黒添池)の由来については、江戸時代末期雨不足により飢饉がよく起こったことから、灌漑用の溜池として当時の代官・有山精治が造営したとされている。名前の由来としては、平安時代、嵯峨天皇(809~823)の頃、この地に蔵人(くろうど)職と呼ばれる貴族たちの別荘庭園があったとされていて、蔵人が訛って「くろんど」となったと云われている。この「くろんど池」の堰堤の標高約225mから流れ出る水が富雄川の源流となり、標高差約185mの奈良県斑鳩町と安堵町の境辺りで大和川と合流する。源流が1適の湧き水からではなく、溜池からオーバーフローして、流れ出た水だったことに少々気落ちをしたが源流は源流である。今日の暦:(1949)年、GHQが1ドル360円の単一為替レートを指令する。富雄川流域探索「くろんど池(源流)」
奈良市内には奈良盆地周辺の山地より南流する一級河川は3河川ある。一番東側には若草山東麓を走る柳生街道の石切峠付近を発し、奈良盆地へ出、奈良市街北部を潤す「佐保川」。近鉄・学園前駅北側にある大渕池を起点とし、大和郡山市で佐保川と合流する「秋篠川」。そして、一番西側を西ノ京丘陵と矢田丘陵に挟まれた谷底を流れる「富雄川」がある。この「富雄川」は飛鳥時代には「富の小川」として詩に詠まれたり、日本書紀には「神武天皇東征」に登場する「長髄彦」の伝承があったりする。そんな、余りに知られていない富雄川流域を水源から大和川に合流する地点まで20㎞余りを探索をしてみた。今日の暦:天正11(1583)年、柴田勝家と豊臣秀吉が賤ヶ岳で戦う。富雄川流域探索
例年桜の開花は九州から関西、関東へと移ってゆく。しかし、今年は東京での開花が一番で、仙台も開花宣言がなされた。しかし、一昨日で鹿児島ではまだ開花していないと言う。いったいこれは…。新型コロナで、桜も…。今日の暦:天正18(1590)年、豊臣秀吉が小田原城を囲む。何かがおかしい昨今
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