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  • イタドリは「痛み取り」【仙人の森へ<1>】

    *本文は作業中。イタドリは「痛み取り」【仙人の森へ<1>】

  • 雨の森で「版画」を見ている[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森へ<VOL:23>]

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  • 版画の粋を極める/黒木良典版画集「関係考・RELATION`S」[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森へ<VOL:22>]

    およそ20年前の出版である。だが、古びてはいない。たとえば、九州北部に分布する装飾古墳の意匠とか、「国画会」の先人・宇治山哲平画伯の薫陶などを連想させるが、それらの影響をまともに受けたり、模倣したりしているという印象はなく、画面に漂う音楽性や、複雑で繊細な色彩などに普遍性と時代を先取りしたような繊細で上品な美的センスと深い味わいが刻画されていることを共感と「観ることの愉悦」を交えて享受するのである。良典さんとは、一度だけ、第一期の由布院空想の森美術館でお会いしたことがある。来館して下さり、かなり長く話し込み、個展の約束をしたように思うが、その後、同館は閉館し、私は現在地(宮崎県西都市)に移転したので、実現しなかった。そして、良典さんは同県延岡市在住の方なので、会おうと思えばいつでも会える距離の所に二人はい...版画の粋を極める/黒木良典版画集「関係考・RELATION`S」[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森へ<VOL:22>]

  • 高山辰雄画伯の郷愁[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森へ<VOL:21>]

    遠くシルクロードへの旅を連想させる作品。道端に集い、楽しいひと時を過ごす人々。行きずりに出会った光景かもしれないが、作者はそこに唐詩の世界や、東西を結んだ交易と文化の道を見た。高山辰雄画伯は、1912(明治45年)生まれ2007(平成19年)没。大分県大分市出身。小学生のころから画才を発揮し、当時すでに画家になることを目指していたという。中学校卒業と同時に上京し1931年に東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科へ入学。在学中は松岡映丘の門下生として日々研鑽、1936年に東京美術学校を首席で卒業するなど、画家として順調なスタートを切ったが、以後は多くの美術展に落選するなどの試練があった。太平洋戦争の渦中を過ごし戦後は日展を中心に活躍。人間の本質をとらえた深い精神性と抒情性に満ちた作品を発表し続けた。洋画の...高山辰雄画伯の郷愁[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森へ<VOL:21>]

  • 南の国の食卓/前衛、バリ島へ・伊山忠幸[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森へ<VOL:20>]

    *本文は作業中。南の国の食卓/前衛、バリ島へ・伊山忠幸[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森へ<VOL:20>]

  • 森の神話/「前衛」の位置・瑛九の仕事[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森へ<VOL:19>]

    「新版画」というジャンルがあることを昨日、知った。現在、東京国立博物館で《特集新版画−世界を魅了する木版》という企画展が開催されており、そこに大正から昭和初期の木版画作品が出品されているらしい。これは木版画技術を後世に残すため、渡邉版画店の渡邉庄三郎氏がこの新版画というジャンルを開拓し、推進したものという。下絵から版木など、その一部も展示され、42摺目で完成という制作過程、彫り師、摺師等の緻密な技もを知ることが出来る大変貴重な企画となっているという。私は、昨日までにとして[空想の森アートコレクティブ展]に展示した大正期の復刻版と思われる浮世絵版画に関する記事をアップしたが、その感覚は、復刻版といえども立派にその伝統を継承するものであり、美術作品としての完成度は高いものであるという認識に基づくものであった。...森の神話/「前衛」の位置・瑛九の仕事[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森へ<VOL:19>]

  • 「版画」という美の領域[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森の夕べ<VOL:18>]

    「版画」といえば、消しゴムやサツマイモ、簡単な板などに文様や絵柄を彫り込んで刷った年賀状を思い出す。私は、その原画と反対向きに刷り上がる感触がつかめず、なんとなく苦手としてきた経緯を持つが、貝殻を半乾きの土器に押し付けて連続紋様を造形した縄文土器のデザインを「版」の範疇に加えるならば、その奥行きは無限大に深いものとなる。古代史書の文字の印刷、着物の意匠としての更紗なども驚嘆すべき技術力の高さをみることができる。そして江戸期の浮世絵に至り、庶民にまで普及して、19世紀ヨーロッパのアーティストを驚嘆させる美術史的絵画芸術となったのである。今回、大正期の復刻版の浮世絵版画を展示して、それらのことを考える機会を得た。そして、その版画芸術の系譜は現代版画にまで引き継がれていることを再認識する機会ともなったのである。...「版画」という美の領域[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森の夕べ<VOL:18>]

  • [第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森の夕べ<VOL:18>]

    梅雨入り前の、温い熱気を孕んだ夕闇が古い教会を改装したギャラリーを包み森のホタル「ヒメボタル」が大発生し幻想的な風景を描き出した。旅から帰り、ギャラリーの展示替えをした。掲示の写真は浮世絵版画。歌麿などが混じっているが、明治~大正頃の復刻版なので、市場価値は高くない。だが、その版画の技術は驚嘆すべきものがある。描き・掘り・刷りの分業による仕事だが、江戸期の技術はそのまま引き継がれているとみることが出来る。髪の毛一本一本、雪のひとひら、その雪が傘に降りかかり溶けて滲んでゆく風情までが見事に定着されているのである。インターネットで売り飛ばすのが惜しくて、展示品に加えるとヒメボタルの飛び交う夕べにふさわしい一場となった。こちらは、宮崎県延岡市在住の版画家・黒木良典氏の作品。静かで精密な画面は、装飾古墳の図形を思...[第三期:空想の森アートコレクティブ展/静かな森の夕べ<VOL:18>]

  • ヒメボタルが飛ぶ森へ【森へ行く道<164>】

    二泊三日の小さな旅から帰ってくる。古い教会を改装した「友愛の森空想ギャラリー」を囲む森に森のホタル「ヒメボタル」が飛び交っている。幻想的な夕景は、南国特有のものだ。青年期までを過ごした故郷日田にも、「アートの町」と呼ばれた湯布院での活動期にもこのような景色に出会うことはなかった。そして、この地へ越してきて来年で25年になる。扉を開けてギャラリーに入り、静謐な空間に身を置く。ホタルの飛び交う森で、画家たちが精魂を込めて描いた作品たちに囲まれ過ぎ去った時間を回想する贅沢なひととき。アートが生活の中心にあるということの幸を思う。ヒメボタルが飛ぶ森へ【森へ行く道<164>】

  • 海風の町【空想の森から<201>】

    大分から宮崎へ向かう豊後水道沿いの町の海産物をメインに扱うスーパーや道の駅などで春先から初夏にかけて黒い棍棒に似たものを売っていることがある。迷わずに買う。クロメ(黒昆布)である。この海藻は、瀬戸内海から豊後水道へかけての一部地域でしか採れない珍味。ざくざくと輪切りにして、途中の無人販売所で買って来た新じゃが芋、新玉ねぎ、ラディッシュなどを具材とした味噌汁の一椀に放り込むととろりとした深い味わいとなる。ご飯に乗せるのも良い。潮風の町の磯の香りが食卓に漂う。この日は、古い城下町を散策し、町はずれの集落に残る芸能者村の痕跡を訪ねて「白と黒の翁面」に出会ったのだった。芸能史の深部とリンクするこの事例は今秋に予定されている古い商店街とその周辺の森や空き地、無人の社寺や空家などを舞台として開催される芸術祭に参加のテ...海風の町【空想の森から<201>】

  • 野草と薬草入りのカレーを一杯/空想の森のおひるごはん【空想の森から<200>】

    久しぶりに由布院空想の森美術館でゆっくりと過ごす一日。山野草と薬草入りのカレーを作って食べる。高千穂の町外れに咲いていた朴の花、阿蘇外輪山の村の高い樹上咲き誇っていた藤の花、山道の脇にひっそりと花をつけている花筏〈ハナイカダ〉などを刻み込んで入れる。ヨモギ、クロモジの葉、スギナなども刻み込む。そして珈琲を一杯。これが相性がいいのだ。20年ほど前に、中国雲南省の山岳都市の宿で出た激辛のカレーと雲南珈琲の味わいを思い出した。カレーも珈琲も、その土地で育ち、採れた素材を使ってしあげたものが最もおいしい。由布院の観光客などは一人も来ない静かに美術館で仲間たちと食べるカレーもまた格別。野草と薬草入りのカレーを一杯/空想の森のおひるごはん【空想の森から<200>】

  • 昭和の珈琲店【空想の森から<199>】

    敬愛する画人・武石憲太郎さんの作品が展示された空間で、朝一杯の珈琲をいただく。至福の時。昨日は、宮崎を出発し、高千穂の町外れで朴の花を採取。車中に濃密な香りが漂った。成人して間もないころ、先輩画家に連れて行ってもらったバーの、綺麗なお姉さんたちに囲まれて、体を固くしていた時の香りを思い出した。藤の花も採る。この二花は焼酎に漬け込み「花酒」としよう。藤の花酒は、薄紫の清純な酒となる。どのような薬効があるかはいまだにわからない。故郷の町の市役所で、叔母(97歳の老母の妹)の消息を尋ねるが、不明。5年ほど前まで住んでいた市営住宅に今はいないという。行く先もわからないという。別の調べ方を考えよう。気を取り直し、古い珈琲店に立ち寄る。この店の前の道は、20代前半を過ごした団地へ続いている。絵を描き、仕事場としていた...昭和の珈琲店【空想の森から<199>】

  • 万緑の山なみを越えて行く【空想の森から<198>】

    本日、高千穂・阿蘇を経て日田→由布院へ。草原を走り抜け、峠を越えて行く。通いなれた道の脇に朴の花が咲いているだろう。野草や薬草を採集しながら山なみを走り抜ける。故郷の町で旧友に会い、施設暮らしの老母(97歳)のたった一人の妹の消息を確かめる。不幸な昭和の時代を生き、没落した母方の一族の最後のふたりなのだ。無事でいてくれればいいが。久しぶりに、古風な町の頑固一徹の珈琲店にも立ち寄ろう。故郷の風、懐旧の香。万緑の山なみを越えて行く【空想の森から<198>】

  • 表層と深層/静けさが戻った森で【現代イベント・考<4>】

    *本文は作業中。表層と深層/静けさが戻った森で【現代イベント・考<4>】

  • 荒神の語り/土地の先住神が物申す【現代イベント・考<3>】

    【荒神の語り】荒神とは荒ぶる地主神まつろわぬ神として封じ込まれ異神とされてきた歴史を持つが九州脊梁山地の神楽では主祭神と同格の神格を有し神楽の場に降臨して神主との長い問答により宇宙星宿・神羅万象の理<ことわり>、神楽の由縁などを解き明かす。いにしえの昔よりその土地に座し集落ごとに祀られてきた古層の神である。荒神の語り/土地の先住神が物申す【現代イベント・考<3>】

  • 「ゆふいん音楽祭」50年に思うこと/地域の絆を結ぶ「祭り」とは【現代イベント・考<2>】

    昨日の私の記事「まつりのあと/「虹の家族まつり」が終わった」を見た読者の皆さん(少数限定)から――高見さん、あなたもとうとうスピリチュアの親玉になったのですか?――30年も昔に、東京・西荻や奈良・天河などで流行った「精神世界」の延長みたいなことが今、宮崎に転移しているとは笑わせる・・・――神楽を40年近く見てきた人が、あんな神がかりの真似事みたいな踊りやネイティブをはき違えたような演奏などに共感し、感動するとは思えない。――このイベントが、友愛社「福祉と芸術の出会う理想郷作り」の大構想とどのようにリンクしているのか明確でない。――施設や森の所有者である石井記念友愛社やこの地を拓き、生活してきた近隣の方々の理解と参加が得られているのかどうか。という手厳しい指摘やコメントをいただいている。そのどれもがもっとも...「ゆふいん音楽祭」50年に思うこと/地域の絆を結ぶ「祭り」とは【現代イベント・考<2>】

  • まつりのあと/「虹の家族祭り」が終わった【森へ行く道<164>】

     *本文は作業中。まつりのあと/「虹の家族祭り」が終わった【森へ行く道<164>】

  • 故郷の山から【森へ行く道<163>】

    庭先の木立の下で黄金色の光が見えた。遅咲きのエビネ蘭の花びらを西日が照射し、そこだけが輝いて見えたのである。このエビネ蘭は、24年前に由布院からこの地へ移住してきた時、老母が鉢植えの山椒や野菊などと一緒に持ってきて、植えておいたものである。20年以上、そこで冬を越し、春を迎え、花を咲かせ続けてきたものだが、咲く時期ごとに気づくということはないままに過ごしてきた日々だった。同じ日に、郷里の村の住人が、下記の写真をフェィスブックにアップしていた。亡くなった父君が山から採集して来て大切に育てたもので、多くは山に返したが、その一部が古い石垣の隅で生き残り、ひっそりと花を咲かせていたものらしい。――同じ山のエビネだ。一瞬でそれとわかる同種の個体であった。同時に、故郷の山の記憶がよみがえり、流れた。その山は、三代前ま...故郷の山から【森へ行く道<163>】

  • 藤花流れる谿で【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<25ー9>】

    良い香りが、山道に漂っている。藤の花が盛りを過ぎ、急な下り坂にも、その道を降りきって着いた渓谷にも落下を散らしているのだ。谷を渡る小橋がある。今にも崩れ落ちそうな橋の向こうに、廃屋が見える。近年、相次いだ台風被害や洪水の影響で訪れる機会を逸していた数年の間に、崩壊は進んで家は藪の中に埋まりかけている。かつてこの橋を渡って村の小学校へ通ったという子供たちとその家族も、もうここに帰ってくることはないのだろう。一緒に来たカワトモ君と橋の下流と上流に分かれる。私は谷沿いに少し下って釣り上り、カワトモは良いポイントが続く上流へ向かう。この谷に通い始めた頃は、夢かと思うほどに釣れた。その後、釣り師に知られ、災害の復旧工事によって渓相が変わるほど変化したが、ここ数年は再生の傾向が見え始めている。大岩があり、崖があり、深...藤花流れる谿で【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<25ー9>】

  • 望郷の詩/「思ひ出」北原白秋【かさこそ森の読書時間<23>】

    朝食を終えて、薪ストーブの前で珈琲カップを丸太を切ったテーブルに置き、新聞を広げる。けれども、記事はすでに知っている事柄ばかりで、新しく聞き、知る情報は少ない。かといって、深く掘り下げたり、なるほどと頷くような解説が載っていたりすることは稀である。昔の新聞記者は、二ヶ月で靴三足を履きつぶしたという伝説が残るほど、歩いて記事を書いたものだ。その人と、由布院の宿で一夜飲み明かしたこともある。いまも、被災地を訪ね、そこに立つ記者氏がいることも私は知っている。が、その人の記事はよほど気を付けていないと見つけることができない。多くのことを提供してくれるはずのインターネット情報は、スキャンダルや政治の腐敗や人の悪口などで点数を稼ごうとする記事が優先的にアップされており、どれを信じていいかわからない。うわべを飾り立て、...望郷の詩/「思ひ出」北原白秋【かさこそ森の読書時間<23>】

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