*本文は作業中。「展示」という変異空間【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-31>】熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展⑦
雪舞<ゆきまい>・神棲む森へ/南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の展示から④【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<26>】
雪舞南国九州の山の村も数年に一度大雪に見舞われ吹雪に閉ざされてしまうことがある山も森も神楽の舞台も白一色に荘厳される時――なに、昔の神楽はこんなものであったよ。と、古老がつぶやき淡々と舞い続ける舞人たち・・・中世の絵巻の世界が現出するのはそんな時だ。神棲む森の一夜神楽が舞い続けられている村の背後に深い森がある夜が更ける・・・神楽笛が響いてゆく森へと向かう男と女がいる――今宵ひと夜はお許しなされ一年に一度、許されぬ恋がみのる夜だ。雪舞<ゆきまい>・神棲む森へ/南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の展示から④【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<26>】
風の峠を越えてゆく/南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の展示から③【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<25>】
山へ向かう分かれ道などに草の束や木の花の一枝が供えられた小さな塚がある草木塔という鳥や虫、蛇、獣などが潜み山の神のいます処風の峠を越えてゆく/南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の展示から③【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<25>】
星宿神降臨/南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の展示から②【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<24>】
星宿神降臨「宿神<しゅくじん>」とは内雄星宿・神羅万象を支配する自然神神楽の主祭神として米良の山々に伝わる「星宿信仰」について、前回までの記述を一部再録。「星宿」とは、古代中国の天文学による分類で、天球上の太陽の通り道である「黄道」に沿った二十八の星座をまとめた二十八宿をいう。古代の人々は、生命の根源である霊魂は星から来ると信じ、そこから様々な「星宿(星座)信仰」が生まれたのである。星を観測し、星の動きで吉凶を占い、祀って災禍を鎮め、福を招く呪術を展開した。その起源は、遠く夏・殷の時代までたどることができる。伝説の夏王「禹王」は、黄河の治水を行ない、王朝を開いた英雄だが、各地を巡幸する行列を熊皮を着て金色の四つ目の仮面をつけた方相氏に先導させ、4神を従えて進んだという伝承を持つ。ここにはすでに五行思想の原...星宿神降臨/南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の展示から②【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<24>】
火の祭り/南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の展示から①【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<23>】
夜の山嶽に一瞬、きらめく白光がある闇に潜む神々を招き出す舞が始まったのだ☆仕上がった作品を金地の古屏風に張り付けてみたら、阿蘇の火祭り「火振り神事」のような画面となった。「猿田彦」と「天鈿女命」を配置するとその印象はさらに増幅し、南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の壁面を飾るにふさわしい一点となった。それで、キャプションとしては長い一文を付けてみた。縦180センチ横14センチ。絵の具は墨・染料・インク・漆喰・柿渋・水性塗料などを配合。火の祭り/南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の展示から①【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<23>】
南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の企画展が始まりました【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<22>】
標高1500メートルの九重・牧ノ戸峠を越えてゆく時、はるか下方に雷雲の塊が見え、光る稲妻が見えた。雲の上を旅するような光景であった。阿蘇外輪山を下り、北阿蘇谷からまた一つ峠を越えて高森の村に着くとぽつり、と大粒の雨が降って来た。そのあとは、巨大な滝の中へ突入したような豪雨となり、稲妻が縦にいくつも光った。阿蘇外輪山に囲まれた南阿蘇谷特有の気候かと思ったが、地元の人たちも、初めてみる凄さだったと驚いていた。 展示が終わるころにはその雨も上がり、夏空が戻った。長野良市写真ギャラリー「聚遠館」は、7年半の閉館期を終えて、再開・再起動の日を迎えたのだ。長野さんと私は、「由布院空想の森美術館」(1986-2001)の開館時からの付き合いが続く同志のような間柄だ。南阿蘇に住み、地元の風物・人情・阿蘇の四季の移り変わり...南阿蘇のギャラリー「聚遠館」の企画展が始まりました【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<22>】
口笛を吹きながら【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<21>】
少年が吹く草笛のようなあるいは青年の口笛のようなかすかな音が聞こえている。遠い山脈を越えてくる神楽笛のような響きも混じっている高千穂雨がふっているもうすぐ夜が明ける車にはぎっしりと荷が積み込んである出かけよう高千穂の村々、阿蘇の草原、九重の山脈細雨にけぶり霧が湧き雲が流れる山越えの道を口笛を吹きながら通りすぎてゆこう。故郷の町で、表装・額装を終えた作品を積み込み旧友と会い、夕食を共にし、それから深夜の一般国道をひた走りに走って二十年の歳月をかけて再開した由布院空想の森美術館に行き、一泊して出来上がっ佐多ばかりのパンフレットを荷に加え南阿蘇へと向かう。聚遠館――じゅえんかん素敵な名のギャラリーは地元在住の写真家・長野良市の拠点だ。七年前、同地を襲った巨大地震に自宅は傾いたまま記録と支援に駆け回り三年前、球磨...口笛を吹きながら【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<21>】
芸能神「宿神」を伝えた「踊り村」のこと【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<20>】
「宿神」については、金春禅竹「明宿集」に『翁猿楽における「翁」自体が芸能神・宿神である、とし、さまざまな神仏もまた「翁」と一体である』と記し、「能楽の祖神である」と明記されている。すなわち、「能楽」の完成以前に「翁猿楽」という芸能が分布し、それが観阿弥・世阿弥という天才の出現によって「能楽」という完ぺきな芸術として完成され、伝わったのである。「明宿集」の宿神論については多くの研究者が様々な角度から論じているので、ここでは詳述しないが、中沢新一「精霊の王」(講談社・2003)は現代の視点からこの明宿集と宿神を照射した快著であった。宿神こそ、万物に宿る精霊の王であり、遠く縄文時代の祖霊信仰にまでその祖型を求めることができる日本列島根本の神観念であるとしたのである。以後は、眼にとまるほどの研究も掘り下げた視点も...芸能神「宿神」を伝えた「踊り村」のこと【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<20>】
米良山系の星宿神「宿神」の分布【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<19>】
「宿神」について書き出したので、米良山系の神楽に分布する宿神について復習しておこう。*以下の記述はすべて地元の伝承による。米良山系の神楽は、南北朝時代末期に北朝と足利幕府連合軍との決戦に敗れた南朝の武者と南朝方を指示した菊池氏の一党が入山し、随従した芸能者の一行が伝えたとされている。その入山の地点が西米良村「村所」である。最初に懐良(かねなが)親王の一行がこの地に至った地点を「大王出(だいおうずる)」という。高台に土地を観想した所を「相見(そうみ)」という。これらの地名は現存する。地名というものは根拠なく発生するものではなく、何らかの事実が根底にあり、それが説話・伝承とともに伝えられたものである。「相見」などという地名は空想や想像によって創出されたものではなかろう。この西米良村村所に伝わる村所神楽の「大王...米良山系の星宿神「宿神」の分布【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<19>】
米良山系に降臨した星宿神「宿神」とは【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<18>】
*本文は作業中。米良山系に降臨した星宿神「宿神」とは【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<18>】
遠くへ行かない/誕生日という一日【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<17>】
朝、起き出して新聞を読む。新聞と言っても、インタネット時代の現代の紙面に書かれているのはほとんどが既知のことばかりであり、「ニュース」ではありえない。それでも新聞を開くのは、信頼できる情報や、記録(昔は新聞の切り抜きが我々の知識・良識の基礎であった)に値する記事があるかどうか、そして、新刊の書籍がどの程度出ており、購入の衝動を起こさせるものがあるかどうか、などを確認するためである。だが、残念ながら、それらの答えはいずれもノー?に近い。新聞の価値は何だったのだろう。新聞はどこへ行くのだろう。そんなことを考えながら紙面を開いたが眼鏡がない。探しまわっていたら、それはなんと、自分の額の上に掛かっていたのだった。――ああ、ついに俺も年寄りになったんだな。と自覚する75歳の誕生日の朝であった。例年、私は誕生日には旅...遠くへ行かない/誕生日という一日【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<17>】
さあ、外へ出よう/大樹の下のアトリエで【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<16>】
3日ほど、台風に降りこめられて家に籠り、旧作の整理や加筆をしていたら、なんとなく、「鬱」とはこんな心と身体の状態をいうのかもしれない、というような心境になっていた。自作の欠点や未熟が目について、次第に不機嫌になっていったのである。禅僧・良寛も、20年に及ぶ厳しい諸国行脚の後に故郷越後に帰り、国上山という修験の山の中腹にある小舎に落ち着いたのであるが、そこは、冬になれば豪雪に見舞われ。夏は暴風雨にも見舞われる過酷な環境の地であった。それでも良寛は晴れた日には乞食に出、子供たちと遊び、文人たちを訪ねる。そして悪天候の日には、一人、草庵で過ごし、古典を読み、詩を作り書をかく。その試作の紙は真っ黒になるほど重ね塗りが繰り返されていた。そして詩は、世俗を憂い、腐敗した宗教界を糾弾し、たび重なる地震や干ばつ・冷害など...さあ、外へ出よう/大樹の下のアトリエで【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<16>】
過去との決別/絵を燃やす時【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<15>】
台風6号が去って、青空が戻った。風に吹き飛ばされて落ちた枝や葉っぱや板切れなどを集めて焚き火をする。夏の焚き火は暑苦しいと思われがちだが、楠の葉を燃やしていると空間全体に対する防虫効果化があり、蚊やブヨなどが寄って来ない環境が作りだせるのだ。台風に閉じ込められていた三日間、古い作品の整理をした。ここ10年ほど、山深い村々に通い続けて描いた神楽の絵である。描き始めたころは一晩に100枚を仕上げることを自らに課した。力量不足により一時中断していた神楽のスケッチを再開し、修練による技術の習得が必須である、と思い定めたことがその主たる理由だったが、当時、プロ野球大リーグのイチロー選手が3000本の安打を達成し、その折のインタビューに答えた――3000本のヒットを打つためには7000本の凡打があるのです。という答え...過去との決別/絵を燃やす時【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<15>】
気まぐれ台風の置き土産【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<14>】
台風6号が、大隅半島西方海上をゆっくりと北上している。沖縄北方から大陸へ向かうかと思われたものが、Uターンして逆走し、東へ進路を変えたものの、突然、直角に曲がって北へと進行方向を変え、九州を直撃するコースをたどり始めた。それで大慌てで、由布院から取って返し、屋根の補修や板戸の打ち付けなどの対策を取ったのだが、この気まぐれ台風は、さらに進路を変えて西へ向かい、そこから台風のコースとしては通常といえる九州西岸を北上するコースに落ち着いた。この間、二日間の停滞期があり、現在(9日午前9時)、大隅半島西方にいるのである。幸い、暴風域からは外れ、雨も断続的にふる程度で、我が家(九州民俗仮面美術館)への影響は少なくて済んだ。やれ、やれ。南国宮崎で暮らすには、毎年襲来する台風との付き合い方になれる必要があるが、近年、続...気まぐれ台風の置き土産【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<14>】
気まぐれ台風の行方【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<14>】
台風6号が、大隅半島西方海上をゆっくりと北上している。沖縄北方から大陸へ向かうかと思われたものが、Uターンして逆走し、東へ進路を変えたものの、突然、直角に曲がって北へと進行方向を変え、九州を直撃するコースをたどり始めた。それで大慌てで、由布院から取って返し、屋根の補修や板戸の打ち付けなどの対策を取ったのだが、この気まぐれ台風は、さらに進路を変えて西へ向かい、そこから台風のコースとしては通常といえる九州西岸を北上するコースに落ち着いた。この間、二日間の停滞期があり、現在(9日午前9時)、大隅半島西方にいるのである。幸い、暴風域からは外れ、雨も断続的にふる程度で、我が家(九州民俗仮面美術館)への影響は少なくて済んだ。やれ、やれ。南国宮崎で暮らすには、毎年襲来する台風との付き合い方になれる必要があるが、近年、続...気まぐれ台風の行方【神楽を伝える村へ/高見乾司:MIYAZAKI神楽画帖展<14>】
一昨日、台風6号が、沖縄の北方海上から東へ進路をとったのを確認して、由布院へ行った。9月下旬に迫った【AFA:アートフェア・アジア・フクオカ2023】の出展作の準備、同展の協賛会場となる五会場の企画内容と場所の説明などを記すパンフレット制作の打ち合わせなどを兼ねた小さな旅である。途中、阿蘇の草原と久住高原で、草の花を摘みながら行く。宮崎では梅雨入り直後に咲いてすでに散ってしまっているネムの花が、この地域では満開である。3週間ほどの季節のずれがある。クサギの花も咲き始めている。この花は宮崎と大きな花期の違いがない。草藪の中に咲くコオニユリとクサフジも採集。風に震える草原でユウスゲも得られた。これらの花を、大量に作って余ったものを冷凍して持って行ったカレーに混ぜ込んで、夏の野草と薬草の花煮込みカレーとしたので...贅沢な旅・風の旅【空想の森から<165>】
カワトモ君ファミリーと渓谷へ行った日、夕暮れ時まで釣ってやっと1匹を得た。夏のヤマメはそれほどに釣れにくい。カワトモ君はゼロ匹。最後に、私の竿を渡し、絶好のポイントを指示して、後方から見ていると、上流の落ち込みから流心へと流したハリを追ってくる黒い稲妻のような光が目に入った。―来たっ!!合わせろっ!!声をかけると同時に、カワトモの竿が撓ったが、水底でギラリと銀色の光がきらめいて、獲物は反転していた。それから釣り進み、ここが最後、と決めたポイントで竿を振る彼を見ながら、私は小石と川砂が適度に混じり寝転ぶのにちょうど良い平地を見つけて仰向けに寝た。水音が心地よく聞こえ、木立の向こうに夕日を浴びた山脈が見えた。足首から先は冷たい水に浸っていた。その左足首は、2年半前にアキレス腱断裂の大怪我を負ったのだが、そして...1ミリの棘【森へ行く道<117>】
命綱を伝い、屋根に上る。この命綱は、10年ほど前に、この森に通ってきていた黒木アンジン君と一緒に取り付けたものだ。彼は当時、中学生だったが、現在は長崎大学に通う学生となって、神楽と地域再生・地域経済との関連などについて学んでいるという。この森での体験が一本の道筋になって連関しているようで、ちょっと嬉しく、頼もしい。十年という年月は、彼を逞しい若者に育てつつあるが、私はすでに老境と呼ばれる年齢に達し、当時備え付けた命綱も劣化して切れやすくなっている。用心しながら屋根のてっぺんに上がり、綱を補強する。古い木綿の綱に新しいナイロン製のロープを巻き付け、撚りをかけて強度を持たせるのである。屋根の高さはおよそ15メートル。その上部を推定樹齢300年の大楠の枝が覆っている。楠の樹高は30メートルほどもあるだろう。戦後...屋根の上の翁【森へ行く道<116>】
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*本文は作業中。「展示」という変異空間【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-31>】熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展⑦
静かな画家である。寡黙というのではない。語り始めると、一晩中でも話題が尽きることはない。それは、いまから40年も前に、第一期の由布院空想の森美術館に彼が200枚とか400枚というデッサンを持ち込み、二人で語り合った体験があるから、私にはわかっている。けれども、誰かと話す時でも彼はメモ帳か小さなスケッチブックを持ち、絶えずペンを走らせ続けているから、初めて対面した人などは、この人は気難しい人に違いない、とか、沈黙の画家である、“描きまくり三世”、などと形容するのである。上掲は画集「WORKSOFKUNIHIROTASIRO」(森と目黒者/2020)の一ページ目の写真。これをみれば、画家・田代国浩は孤独な人ではなく、街へ出たり、子供たちと一緒に描いたり、アトリエを開放した絵画教室で仲間たちと描く日常があったり...手練の技【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-30>】熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展⑥
田代国浩展の展示作品には題名が付いていない。それについては、作者の明確な意図がある。画集「WORKSOFKUNIHIROTASIRO」(森と目黒者/2020)から転載しよう。☆普段作品にタイトルはつけない。名付けると「遠くへ行く」ような気がするから。どうしても付ける必要がある場合は曖昧にしておく。作品1とかUntirledAとかIntrospection2020とか。ただ、名付けることで「近くへ来る」こともあるのかなとも思うようになった。これらはその試み。その数点を抽出してみよう。☆作品とタイトルが一致して、「詩」が生まれている。作品とタイトルを切り離してみると、一行詩のようである。別の作品と組み合わせることもできる。・その赤がこの絵を台無しにしている・銅の元は声、銀の元はささやき、金の元は無音・姉は空に...題名のない絵とは【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-29>】熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展⑤
田代国浩展の展示を終え、久住・阿蘇・高千穂の草原を走り抜けて帰って来た。緑一色の草っぱらが風になびき、時折、霧が湧いた。霧は、峠を越える時には雨となった。無色の風景のただ中に、無数の線が走り、色と色、色と線とが交錯して奏でる音楽が交響した。田代国浩作品の残像が、広大な自然の中で躍動しているのであった。本人の「ことば」を画集の中から転載しておこう。☆テーマを決めてから描き始めることはまずない。エスエスキースをつくることもまれである。たいていはそういったことなしにキャンバスに向かう。もちろん私の脳が指令を出しているわけだから、何かしら考えてはいるのだろう。だが画面構成等、ああしようこうしようと思わないことの方が多い。置いてみたい絵の具を筆につけた瞬間に始まり、手の勝手な動きに身を任せて描いているうちに、絵は「...線が走り色彩が歌う【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-28>】熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展④
【“描きまくり三世”の熱量】田代君がそれらの偉大な先人たちの作風や人生観に影響されたり、追いかけたりしているわけではない。それは彼の一貫した作風と地域の子ども達や仲間と楽しく遊び、描く生活を続けてきたことでもわかる。彼は、人と会う時でもいつも手帳とペンを持ち、何かを描き続けているという。それが“描きまくり三世”という呼称を冠せられる由縁であろう。では描きまくり一世と二世は誰とだれであるか、という問いは棚上げするとして、今春、開催された福岡アジア美術館での個展では、なんと、大作・デッサン・オブジェや書など、1万点あまりの作品が展示されていた。ここにも“描きまくり三世”の面目躍如たる世界が開陳され、その膨大な作品群からは、「筑豊」の熱い地下水脈に熱せられた強烈なエネルギーが奔っていたのである。由布院空想の森美...熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展③【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-27>】:始まりました。
田代国浩展/展示進行中です。その様子は追ってお知らせします。描きまくり三世の仕事/<明日から>田代国浩展②【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-26>】
本日、由布院へ、出発。梅雨晴れの山野を駆けて行こう。今日(19日・夕方着)、明日(20日)、明後日(21日・午後4時頃まで)空想の森美術館にいます。明日まで武石憲太郎さんの展示があり、夕方・田代国浩氏の作品が届いて展示替えをします。お近くの方、お立ち寄りください。本日、由布院へ/由布院空想の森美術館の二日間【空想の森から<203>】
草木染めいろいろ。コロナ過以前、全力でやっていたころの仕事です。「草木染め」は、植物のことを知り、自然界から「色」をいただくこと。ここからアートへの展開、室内装飾への応用など、まだまだ多様な可能性があるのだが、ちょっと勢いを無くしている感があります。当方の老化と怪我続きなどの要因、各地で同様の趣旨のワークショップが増えてきたことなどがありますが、本格的な染色アーティストや職人が育つところまではきていない。もうひと踏ん張りしなくては。要望があれば各地へ出かけてのワークショップも可能です。お問い合わせ下さい。草木染めいろいろ【空想の森の草木染め<110>】
万緑の由布院。朝、珈琲を淹れていると、峨眉鳥が歌い、ウグイスの声も聞こえてきます。カッコウが鳴き、由布岳の山頂付近をミヤマキリシマが淡紅色に染めているのが見えます。朝食の残りを木立の下に捨てに行くと、正面の森の高い六本杉のてっぺんで見張っていたカラスがやってきます。巣作りから子育てへの彼らの繁忙期が始まっているのです。武石憲太郎さんの由布院空想の森美術館での個展も20日までとなり、その後は宮崎の「友愛の森ギャラリー響界」へと巡回します。自作が行方不明になるという不運なアクシデントに遭い、落ち込んでいた憲太郎さんに笑顔が戻りました。懐かしい由布院で、古い仲間たちと会い、錯綜していた紛失作品についての情報も少しずつ整理されてきて、元気を回復しつつあるのです。次は、宮崎へ来ていただきましょう。まだ、現役作家とし...湯布院での展示は20日まで/武石憲太郎展[第三期:空想の森アートコレクティブ展/春の森で見た夢は<VOL:18>]
由布院空想の森美術館6月22日~7月30日(金曜・土用・日曜開館)大分県由布市湯布院町川北1358*ご予約いただけば随時開館できます。 友愛の森ギャラリー響界8月22日~9月20日宮崎県西都市穂北5248 小鹿田焼ミュージアム溪聲館9月1日~11月10日大分県日田市源栄町4830-3「筑豊」を拠点に旺盛な創作活動を続ける画家・田代国浩氏の個展が40年余りの交流を続けてきた三施設で実現しました。“描きまくり三世”の異名を持つ田代氏は、地域の仲間や子供たちと、自由で楽しい絵画制作の場を共有してきました。筑豊は、修験道の霊峰として栄えた英彦山を控え、古代の銅と鉄を有した文化の道が交差し、近代では炭鉱で栄えました。その文化風土から、多くの作家が輩出したのです。いつも手にノートとペンを持ち、人と会う時でも描き続けて...<予告>田代国浩展/描きまくり三世の仕事[空想の森アートコレクティブ企画]
由布院から「クララ」を採集して帰ります。由布院・九重・阿蘇などの草原に自生する植物です。2018年に再開した「由布院空想の森美術館」の敷地に自生していたものが増え続けています。それを少しだけ頂き、さらに久住・阿蘇の草原で採集して宮崎へ。森の空想ミュージアムの前の広場にも群生があります。これらを森の空想ミュージアムの中庭のかまどで焚き火をして、染めます。クララは草原の植物で、その根を噛むとくらくらとめまいがするというほど苦いことから、その名が付いたといいます。高原地帯の日当たりの良い草原などに自生します。高さ50-150cm。草原の中では丈高く、目立つ草です。全草有毒であり、根の部分が特に毒性が強いが、疥癬の治療薬、解毒・殺虫などの薬効もあります。ルピナンアルカロイドのマトリンが薬効の元といいますが、...夏色の風/夏の草原に自生する「クララ」で黄色と鶯色を染めるワークショップ【空想の森の草木染め】
[甲斐の国のヤマメに会ったこと]*2015年の記事をそのまま再掲。 甲府市武田神社に奉納された「山梨岡神社代々神楽」が終わった後、甲斐の国のヤマメに会いに行った。甲府盆地には、扇の要に向かうように三つの大きな川が流れ下っている。甲斐駒ケ岳の西側を廻って、盆地の西北端を流れる釜無川。昇仙峡と呼ばれる奇岩累々たる峡谷から流れ出て、甲府市の西郊を貫く荒川(東京都内を流れる荒川とは別)、大菩薩嶺を源流とし、盆地の東側を流れる笛吹川。この三本の川が合流し、富士川となって駿河湾へと注ぐのである。笛吹川には、渓流釣りをこよなく愛した文士・井伏鱒二が訪れている。俳人・飯田龍太の故郷でもあり、龍太は終生、笛吹川の流域を句作と釣りの拠点とした。甲斐の国を訪ねるならば、この笛吹川の畔に立ち、ヤマメまたはイワナの魚影を追ってみ...眼で釣る【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<25ー13>】
「仙人の釣り」に関して私は12年前(2013)に一度書いている。まだそのころは60歳代で、仙人を云々するような年齢ではなく、いまよりも元気だったのだが、心意・釣りの心がけとしてはおよそこのようなものであったという事を確認するために、再掲しておこう。 [仙人の釣り方〕(2013年の記事を加筆・再編集)私は、他人に釣りを教えるほど上手な釣り師ではないと思う。しかしながら、教え方は上手なほうかもしれないと思う。私よりも釣果を上げる釣り手が、仲間のうちだけでも二人いる。だから、自分は名人づらをしないほうがいいとも思っているのだが、私が教えると、小学三年の女の子でもヤマメを釣り上げることがあるし、高齢のご夫婦が、ずぶの素人から3年ほどで立派な釣り手になった。リョウ(鈴木遼太朗君)は、小学五年から仕込んだから、高校生...仙人の釣り方【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<25ー12>】
耳川の源流部に入る。通常、入渓地点を明らかにすることはないが、耳川は九州最大級の大河で、支流は数え切れぬほどあり、その支流のまた枝川が分かれて深い山脈の源流部へとつづいているから、単に耳川と言っただけでは、よほど馴れた人でもどの谷かはわからないだろう。上掲がその支流のまた支流の一つだが、3日前の雨で増水しており、入渓は困難。さらに上流を目指す。古い橋がある。コンクリートの経年変化をみれば、すでに100年近い年月が経過していることがわかる。ここから先は、路肩崩壊地点で通行不能。岸辺に車を停めて、途中で買ってきた弁当を食べる。地元の食材を使ったシンプルで美味しい杣人弁当である。同行の超名人・渓声君は、谷へと降りてゆく。私は今日は釣らない。水辺にも立たない。リウマチ性の神経痛が治るまで、無理は禁物である。普段、...仙人の釣りとは【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<25ー11>】
釣行二日目。だが、私は、釣らない。前日、少しだけ沢を歩き、まだ回復が十分でないこと、時間をかければ治ることなどの見極めがついたから、今回は自重したのである。渓声君は、身支度を整え、渓谷へと下っていった。木立の向こうに清々と流れる渓流が見える。絶好の釣り日和である。釣果を期待しておこう。沢沿いの道を歩くと、朽ちた巨樹の根方に横倒しになった空洞の巨木があり、その周りにミツバチが群れ飛んでいた。標高500メートル以上の森にだけ棲むという日本蜜蜂である。里で見かけるミツバチよりやや小ぶりである。古い巣箱が倒れて放置されたままになっているが、ここで育った蜂たちが、その古巣を忘れずに周囲の朽木か岩場を棲み処にしているのだろう。崖の上段は深い森である。その崖を形成する岩の割れれ目から流れ落ちる水を汲み取り、車を停めてあ...山中のスピリチュアル空間で過ごすひととき【九州脊梁山地・薬草仙人の森へ<4>】
*本文は作業中。青葉ヤマメのアヒージョと洒落てみた【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<25ー10>】
薬草仙人の山旅/二泊三日の山旅から帰って来ました。詳細は明日報告。【「薬草仙人」の森へ<3>】
神道哲学者・鎌田東二さんがお亡くなりになりました。享年74歳。初期の著作「神界のフィールドワーク」や「翁童論」は時代の扉を開く独創的な仕事として知られています。「国学」から「近代霊学」への橋渡しをしたほぼ唯一の人、すなわち現世(うつつよ)と神界の境界にいて、両界を繋ぐ人だったと言えるでしょう。私は「猿田彦大神フォーラム」でご縁をいただき、第一期の「由布院空想の森美術館」が閉館の危機に直面した時には、「空想の森を湯布院に残そう」という呼びかけをしていただき、たちまち1000人の支援者が集まる、現代のクラウドファンディングの先触れのような企画をしてくださいました。その後同館は閉館になり、2018年に再開。2022年に阿蘇にお出でになった時に私は駆け付けて、当時のお礼や神楽の里に通い続けている日常などを報告し、...訃報/現世と神界を結ぶ人・鎌田東二さんさようなら【空想の森から<202>】
今朝は、選択しておいた毛布とシーツを、森の木から軒下へかけ渡していた物干しのロープに、――よいしょ、と投げ上げて、乾した。良い天気である。午後、脚立に上って、熟れ始めた枇杷の実を採ろう。1ヶ月ほどいていた肩・胸(大胸筋)・二の腕・太腿の付け根、膝の周りなどの痛みが軽減している。よちよちと爺様歩きになっていた足も復旧。回復期に入ったのだ。「リウマチ性多発筋痛症」という神経痛の発症を確認し、薬草と治療薬、テルミー(温灸の進化系)などの処置が適切だったということだろう。――これならば、釣りに行けるかもしれない。と、いつもの楽天的観測が生じ始めている。だが、油断してはいけない。慎重に、時間をかけて身体に休養を与え、治して行くことをこれからの課題としよう。☆毎日飲んでいる「野草茶」は、次の8種の薬草をブレンドしたも...痛み軽減、快方へ向かった朝/イタドリ(虎杖)は「痛み取り」②【「薬草仙人」の森へ<2>】
*本文は作業中。イタドリは「痛み取り」【仙人の森へ<1>】
6月23日、カワトモ君と二人で大分・日田を由布院へ行く旅に出た。宮崎市の自宅から電車で来たカワトモを高鍋駅で迎え、一路北へ。都農から広域農道尾鈴グリーンロードに入り、耳川を越える。雨は降っていなかったが、川は増水し、濁っていた。上流部の諸塚・椎葉の山脈に降雨があったのだろう。角川インターで東九州道に乗り、高千穂方面へ右折。高千穂の中心部から高森方面へ右折し、途中の無人販売所で野菜を買う。地元の人が自分の畑から採れた野菜を置いているなじみの寄り道。波野、産山を通り過ぎて九州横断道路に出る。ここを右折し由布院へと向かう。日田地方が豪雨のため、この日の予定を変更した。標高1330メートルの九州最高峰の牧ノ戸峠は深い霧雨の中。風も強く、九重連山は見えなかった。由布院空想の森美術館に到着。カワトモ君は見るものすべて...カワトモ君と由布院へ/作家・夢枕獏氏の取材を受けました【空想の森から<178>】
宮崎市生目神社の「神武」演目をカムヤマトイワレヒコの国造りの様子と読む解くことは可能と思われるが、では、その演目はいつから神楽の中に存在していたのか、神楽そのものの起源がいつの時代なのかは、不明である。しかしながら、同神社には、掲示の神面二点が伝わっており、下記のような墨書があることが確認されている。『1、寶治2年銘の面は、1248年(鎌倉時代)の作であり、縦51.2cm、横31.1cmの大きさで、裏側に「土持右衛門尉田部通綱寶治二年五月日」の墨書があり、現在確認されている有銘仮面の中では県内最古である。2、天文五年銘の面は、1536年(室町時代)の作であり、縦62.1㎝、横44㎝の大きさであり、「生目八幡宮奉寄進大台面・・・・」とあり、生目神社に寄進した面であることが窺える。』この二面は、南九州に多くみ...宮崎の神武伝承と神楽の「“神武”演目」を読み解く*補足資料【神楽を伝える村へ/宮崎神楽紀行2024-9】
宮崎平野部から日南海岸へかけて分布する神武伝承と神楽の「“神武”演目」【神楽を伝える村へ/宮崎神楽紀行2024-8】
昨日は一日、からりと晴れた好天だったが、今日は朝から強い雨がふっている。災害を引き起こすような豪雨では困るが、梅雨どきの山や森や渓谷、里の田畑を潤すような雨ならば、それも自然界の摂理と観念し、静かに一日を過ごす。森に降る雨を眺めながら、冬の間に描いた神楽の絵を仕上げる。雨の中に神楽の景色が滲む。文人画に「胸中山水」という境地がある。書を読み、旅を続けて賢人を訪ね、画技の修練を重ねて練達の域に至り、画室にいながら旅先の山や渓谷や村里の風景が胸に浮かび、絵筆が動くという究極の領域である。*続きは作業中。 胸中の神楽を旅する【神楽を伝える村へ/宮崎神楽紀行2024-7】
先日、開催中の「友愛の森空想ギャラリー」へ向かう途中の出来事。茶臼原の道路を走行中、目の前で鳥が翼をバタつかせて動かなくなった。「車にぶつかったのかな。後続の車に轢かれるから道の端に寄せておこうか」と運転していた高見乾司さん。しかし、次の言葉に私と同乗していたフルートのK先生は即答した。「立派な雄のキジ。今夜はキジ鍋にしようか。キジは美味いよ」「食べましょう。ちゃんと食べてあげよう」ところが、その時、道路の向こうに雄を探し回っている様子の雌のキジの姿。「つがいの雌がいたか。このまま雄を連れ去ったら雌はずっと探すな。残念だけどキジ鍋は無し」高見さんは雄のキジを畑の隅に置き私達は教会ギャラリーを目指しました。6月の梅雨の晴れ間の出来事でした。「焼野の雉(きぎす)」とは、雉(キジ)が自分の巣がある野が焼けだすと...【南国の赤/水元博子展<3>】
*本文は作業中。梟谷の六月【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<24ー9>】
ひさしぶりにからりと晴れた好天。「森の空想ミュージアム」の仲間・黒木彰子さんと「天の糸・森の色」の仲間たちの作品も出品されています。黒木彰子さんが三日間、会場につめています。お出かけ下さい。「つくりびとのカタチ」展宮崎県三股町武道体育館にて
画家は、若いころに情熱と才能のすべてを燃焼し尽くし、作品も、作家自身も消失する例と、晩年に至り、精進と修練の果てに幽玄の境地にまで達し、すぐれた作品を残す作家とに大別されるという。私は高校3年の夏に大分県日田市から福岡県久留米市までのおよそ50キロの道を自転車で4時間をかけて走りとおし、青木繁と坂本繁次郎の作品を見た経験がある。教科書にも載っている「海の幸」を実際に見た時の感動は今も忘れない。そして、坂本繁二郎の晩年の「月」もまた心に沁みる名作であった。この二例こそ、画家の素質と画業をあざやかに物語るものである。以後、私は旅も、勉強も努力も重ねてきたつもりだが、この二人の域に近づく作品を生み出し得ていない。天才と凡才というふうに単純に分けられるものではないと思うが、悩ましい命題である。別の角度でみてみよう...回帰する位置【南国の赤/水元博子展<2>】
梅雨入りの気象情報が出たけれど、降り続いていた雨が止んだ。自転車に乗って出かけよう。白いボディーの婦人用軽快車だ。ところどころ錆が出ているが、これは元の所有者の使用頻度が少なかったことによるもののようだ。毎年、山歩きや神楽取材に来ていた東京の人が、借りていたアパートを引き払ったため、家財道具一式と一緒に当方に寄付して下さった荷の中に、これがあった。自転車に乗るという行為は何十年ぶりかのことになるが、恐る恐るこぎ出してみると、案外、身体はそのコツを記憶していて、ママチャリとあまり的確とは思えない現代の呼称で呼ばれるその自転車は、颯爽と森の中へ走り出した。なかなかスポーティーでお洒落である。スピードも出る。昔の婦人用自転車は、ただ乗りやすいだけの簡略な構造で、デザインなどを考慮のうちに無かったような気がする。...風を切って緑の森を走り抜けること【森へ行く道<138>】
鎌を持って森へ行く。台所の生ごみを捨て、その上に刈草をかぶせ、さらに焚き火で出た灰をばら撒く。それがこの森の土を肥やし、野草や薬草や染料として利用できる植物、実の生る樹木などを育ててゆく。その生ごみに混じっていた切り屑や種子の中から芽を出すものがあり、なかには育って実を付ける野菜もあるのだ。それで、芽吹いた野菜の周りの草を払い、伸びすぎた木は間引きをして日当たりが良い環境を作ってやるのだ。自然農という農法には、私は抵抗感を持つ人間の一人だが、こうして自然界の中で育ってゆく作物を採集し、食べることができれば、縄文的採集農法と名付けてもいいかと思わぬでもない。上掲は4年前の写真だが、そうして育ったカボチャが、森の中へと蔓を伸ばし、大きな実をぶら下げていた。立派な黒皮カボチャであった。その風景は森になじみ、実は...森の菜園【森へ行く道<137>】
ケイタ君が帰って来た。旅の治療師・落合圭太君は、各地を旅しながら、理学療法士としての仕事をしたり、農家や林業家などで働いたりしながら、一年ほど前、当地へも立ち寄ってくれたのである。そして2ヶ月ほどの間に森のマドゥパンの手伝いをしたり、仲間たちの音楽イベントに参加したり、私と一緒にヤマメ釣りに行ったりした。そして実家のある神奈川県に帰り、そこで畑作りなどをして過ごしているという便りが届いていたのだったが、この春、家財道具など一切をまとめて、本格的にこの地へ移住してきたのである。ちょうど、一件、空家が出ていた時期だったから、そこに住み、我々の仲間として過ごすことになったのは好都合だった。他所の土地の人であり、旅人だったケイタ君が来た時、私たちはなんとなく、――帰って来てくれた。という感覚で迎えた。短期間での滞...ケイタ君の畑【森へ行く道<136>】
以下は、68歳の時(今から7年前)の記事。☆去年買った草刈機が故障。やむなく、大鎌を持ち出して、振り回してみた。すると思いがけないことに、鎌は何の無理もなく草を払い、錆だらけの刃を天空にきらめかせ、まるで腕の延長のごとく藪を刈り進むのである。数年前までは、その大きさと重さが負担となって、振り回すことも出来なかった大鎌である。柄が乾いて軽くなったことと、自分の体調がやや戻ってきたことの二つの要因が考えられる。もともと乾いた樫の枝を削って挿げた柄であるから、極端に軽くなることはあり得ない。後者を採ることにしよう。そのほうが気分がよろしいではないか。今年の夏で68才。年寄りの冷や水などとは言わせない。☆このあと、大胸筋断裂、肩鍵盤損壊、アキレス腱断裂、左足踵の剥離骨折と続けて大怪我をした。つまり、自分の年齢が年...鎌を研ぐ朝
麻てらす3〜タイに響く草の歌〜」上映会のお知らせ日本における麻の第一人者、吉岡敏郎監督がタイから帰国されて直ぐの、最新情報満載の上映会です。2022年、大麻解禁になったタイの人々の変化を半年間、現地に滞在して撮影し続けた吉岡監督、、タイのモン族の暮らしぶりに密着し、飲む・燻すなど薬草の一種として大麻(ヘンプ、マリファナ)を上手く生活に活かす現実を取材し、ドキュメンタリーにまとめた力作です!!=映画解説=昔々、日本人にとってそれは日常の一コマ、そしてなくてはならない大麻でした。戦後私達は生活の一部である麻を奪われてしまいました。麻は、近年になって、その医療効果、有用性や経済性が再認識され、アメリカやヨーロッパの国や州で使用が大幅に緩和されるようになってきました。ただアジアでは、日本を含め、厳格な法律のもと、...「麻てらす-3」古来、神事などに使われてきた「大麻」。現代生活の中に再び生かすことが出来る日がくることを願う人たちの活動です。/当地「コミュニティスペースCsa-Coso森」にて。
五月の山河に大雨を降らせた台風1号と線状降水帯の発生を予報させた雨雲は東へ去り、爽やかに晴れた空が戻った。それでも山や渓谷は嵐の余波を秘め、大川には泥の色に濁り、山道に沿った崖からは大量の雨水が流れ落ち、時折、ざわっ、と森の巨樹がざわめいた。「青嵐」と昔の風流人たちはこのような状況を表現したのだが、まったく、この日はそれに相応しい山と森と渓谷の状況であった。馴染みの支流に分け入ると、水流は多く、流れも急だったが、濁りは少なく、岸辺なら歩けそうに見えた。――行くか・・・?とカワトモに声をかけると――行きますっ!!と威勢の良い返事が返ってきた。私どもの森へ通ってきたわずか2年の間に体格も立派になり、逞しさを加えてきた彼だが、学校へ行けばまだ中学三年生であり、年齢は14歳の少年である。不登校という冠称をコンプレ...青嵐の谿/極上のヤマメ料理を一品【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<24ー8>】
台風と大雨を運んできた雨雲は東へ去り、爽やかな青空が広がっています。「糸好き」の仲間たちが集まって、今日は「山繭」から糸を紡ぎ出すワークショップ。明日は草木染め。見学・飛び入り参加(少人数に限ります)も可です。 山繭<天蚕>から糸を紡ぐ&森の草木染め(クララで黄色、大瑠璃草で灰青紫色を染める)ワークショップ東京を中心に「染・紡・織」をテーマに染色作家活動をしておられる西方京子さんが、5月28日、29日、30日の予定でお出でになります。「天の糸・森の色/横田康子と仲間たち」の仕事にふれる研修の旅です。これに合わせ下記のワークショップを企画しました。少人数による実技の会です。 ◇2日目(5月29日)「山繭(天蚕)」と呼ばれる天然の繭から糸を紡ぎ出し、糸づくりをします。40年ほど前に大分県九重山系の村に伝わっ...山繭<天蚕>から糸を紡ぐ&森の草木染め(クララで黄色、大瑠璃草で灰青紫色を染める)ワークショップ
釣友・渓声君を案内して、耳川の源流部を探訪することとなった。渓声君は、3ヶ月ほど前に骨折し、右足の脛から踵へかけてプレートが入り、ボルト6本で止めてあるという重傷だが、ゆっくりとなら歩けるほどに回復しているという。現代医学の進歩は想像をはるかに超えるレベルである。私は昨年の9月に屋根から落ちて左足の踵を剥離骨折し、一応病院へと行ったが、患部を固定する補助具をつけただけでほぼ自力で治した。長時間歩くと痛みが出ることもある、平地ではやや足を引きずり加減に歩くが、――谷を歩いている時は普通の状態に見えますよ。と同行の仲間が言うほどに回復している。行ってみようではないか。*続きは作業中。秘境の村の五月/骨折老人二人が行く【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<24ー7>】
*本文は作業中。壁・アート・補修【風と森のアート´24-3】
南国の赤/水元博子展会場友愛の森空想ギャラリー宮崎県西都市穂北茶臼原5248(石井記念友愛社敷地内)会期2024年5月10日―6月10日AM10:00-PM3:00宮崎の「新芸術集団フラクタス」に所属し、発表を続けた中堅作家・水元博子。この画家の「赤」を見るとき、南国の生命力に満ちた空と大地、「いのち」の輝きと鼓動を思う。「フラクタル」とは混沌の中にきらめく光の断片という物理用語で宮崎出身の前衛美術家・瑛九の系譜に連なるグループ(現在は休止中)。瑛九が結成した「デモクラート美術協会」は戦後日本の前衛美術運動の先駆的グループで、実力作家を輩出して解散したが、それから半世紀を経て「現代アート」の源流的位置づけとして再評価されている。時は廻り、南の大地に根を張り、描き続けている作家たちには、それぞれの課題や試練...始まりました。【南国の赤/水元博子展】
*本文は作業中。万緑の谿で青葉ヤマメに会う【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<24ー6>】
山繭<天蚕>から糸を紡ぐ&森の草木染め(クララで黄色、大瑠璃草で灰青紫色を染める)ワークショップ東京を中心に「染・紡・織」をテーマに染色作家活動をしておられる西方京子さんが、5月28日、29日、30日の予定でお出でになります。「天の糸・森の色/横田康子と仲間たち」の仕事にふれる研修の旅です。これに合わせ下記のワークショップを企画しました。少人数による実技の会です。◇1日目(28日)は石井記念友愛社と周辺施設の見学、森の散歩。参加費無料。◇2日目(5月9日)山繭(天蚕)と呼ばれる天然の繭から糸を紡ぎ出し、糸づくりをします。横田が、40年ほど前に大分県九重山系の村に伝わっていた「ズリ出し」と呼ばれる技法を受け継ぎ、伝えてきました。同地の玖珠神楽の神楽歌に天照大神が口に含んだ繭から糸を紡ぎ出す、というシーンがあ...インフォメーション/山繭<天蚕>から糸を紡ぐ&森の草木染め(クララで黄色、大瑠璃草で灰青紫色を染める)ワークショップ