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男澤惠一・家系と先祖のBLOG https://blog.goo.ne.jp/keiichiozawa

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

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2015/05/09

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  • 大塚城 鹿沼市下粕尾

    母方の鹿沼市下粕尾の大塚家を調査中です。同地にある大塚城跡との関連を調べています。大塚氏はこの地に集住しており、古い家系は母方と同じ違鷹羽紋を使用しています。大塚城は天亀、天正のころ、大塚信濃守綱利が佐野の支城として築いたと伝えられる。綱利は初め左衛門尉といった。後裔は大塚貞之助氏。のち粟野地区は皆川氏の勢力下にあり、綱利は佐野氏から離脱、大塚氏の城付近でひそかに余生を送り慶長十七年(1612年)二月死去。菩提寺は慈眼寺。自然石の墓石が残る。大塚城は栃木県鹿沼市下粕尾にあり、粕尾小学校(栃木県鹿沼市下粕尾1444−1)の西側、今は廃業したが美容室ミチ(栃木県鹿沼市下粕尾1520−1)反対側の小高い山、地上から約80メートルにある。大きな堀切等が残っている。大塚城鹿沼市下粕尾

  • 江戸時代の大飢饉

    江戸時代には大小、飢饉が35回あったと云われますが、1732(享保17)年、1783~87(天明3~7)年、1836~37(天保7~8)年の飢饉が特に大きかったので三大飢饉と云われています。これに寛政(1642~43)の飢饉を入れると四大飢饉となります。他、大地震も何度もありました。人類の危機は周期的にやってきていました。これらに対して改革を行ってきました。特に松平定信の寛政の改革、德川吉宗の享保の改革、水野忠邦が主導した天保の改革が知られています。今日、日本が新型コロナ感染拡大防止とその後の改革の主導主になれるのか?未曽有の国難に備えよ!挿絵は大老水野忠邦。江戸時代の大飢饉

  • コロナ禍後の経済再興は?

    COVID-19の感染拡大被害は底知れぬものがありますが、90年前、1930年の世界恐慌以来の深刻な状況のようです。さらに90年をさかのぼると、アメリカで1837年恐慌があり1840年まで続きました。どうも経済危機は90年サイクルで来ているようです。問題は何年で経済復興するのか?世界恐慌の時は10年かかったそうです。今日、COVID-19被害は、日本の場合は他国ほど感染者数も少なく、ワクチンができればに2~3年で復興してほしいという思いはありますが、他国の感染状況などをみると楽観視できない状況にあり、専門家筋の情報によれば、やはり10年かかるとみているようです。貿易などを通して他国に頼りすぎている状況は日本だけに限ったことではないからです。10年後、何歳になっているのか?人によっては人生が終わっている人もいるで...コロナ禍後の経済再興は?

  • 信じる

    流れを変えたいと思ったとき、「100日実践」というのを行っています。実践は部屋の掃除、食器洗い、挨拶を率先してやる、トイレ掃除等々何でもいいのです。行動が変われば、習慣が変わる、習慣が変われば、流れや運気も変わるということです。100日もやれば習慣化することは可能です。ちなみにほぼ全身の細胞が入れ替わるのは100日だそうです。良い習慣が身につけば流れが変わるはずです。これによって奇跡的な成功体験、勝利体験を持っている人が多いのです。しかし、信じることができず、やる前から疑ってかかったら効果はありません。途中で信じることができなくなる人はどんな人でしょう?やったりやらなかったり、忘れてしまったりしていては、結果を信じきれるまでいかないのです。途中で漏れてしまっているのです。いい加減にやっているから駄目だろうな~と...信じる

  • 松本市奈川黒川渡の古幡氏調査

    古幡氏は長野県下では安曇野市穂高牧と穂高に最も集住している(家紋は橘紋)が、今回は松本市内の古幡さんからの依頼。松本市内は松本市奈川黒川渡に最も集住していました。行ってみたら山に囲まれた辺ぴな地域に古幡氏が何軒もありました。ここの古幡氏は家紋が剣片喰と笹竜胆の二種類でした。笹竜胆は源氏ゆかりの家紋と言われますので、見た瞬間、予想外な感じがしました。奈川村誌の中に、嘉永二年(1849年)の文書によれば、江戸後期の奈川村庄屋の古幡彦一郎は、もとは永嶋姓で家紋も永の文字紋だった。文久元年の文書では古幡姓になっていて、家紋も笹竜胆に替えたという。依頼者の古幡さんは丸に剣片喰紋。奈川の半分くらいはこの家紋と同じでした。木曽福島町で庄屋を務めた古畑氏も丸に片喰紋。古畑(古幡)伯耆守家重(ふるはたほうきのかみいえしげ)は通称...松本市奈川黒川渡の古幡氏調査

  • 長野県フルハタ氏調査

    写真は降旗神社。場所は古幡郷と呼ばれていた松本市梓川上野。滋野氏の一族西牧氏のもとで古幡氏は管理(古幡牧)を任されていた。フルハタさんは、古幡のほか、古畑、古畠、古旗、古籏、振旗、降旗、降籏といろいろ。ルーツは同じかと思ったら単純ではありませんでした。平重衡の処刑後に遺児の重度が鎌倉幕府から逃れ、信濃国に勢力をもっていた仁科氏を頼って現在の安曇野市明科東川手名九鬼に落ち延び、そこで名を降旗氏に改め隠れ住んでいたという。同じ降旗氏でも清和源氏木曽氏族流もあった。岡谷市の降旗氏、木曽地方の古畑氏は鷹の羽紋も多い。木曽福島町で庄屋を務めた古畑氏は丸に片喰紋。古畑(古幡)伯耆守家重は通称孫兵衞または孫助といい、木曽家村の三子黒川三郎家景の後裔と伝える。安曇野市穂高牧及び穂高の古幡氏は橘紋。松本市奈川の古幡氏は丸に剣片喰...長野県フルハタ氏調査

  • 石川県岡田家ルーツ

    石川県能登町の岡田氏調査、家紋は蔦でした。清和源氏義光流源義光の子・親義(ちかよし)は、保元元年(1156)に平野神社領(のちに岩清水八幡宮領)であった信濃国筑摩郡岡田郷(長野県松本市岡田町)の浅間神社領の荘官として下向し、岡田冠者を称した。また「武田系図」には佐竹正義の子・親義が、信濃国筑摩郡岡田郷を領して岡田氏を名乗ったとある。寿永2年(1183)の越中国志保山合戦で、木曽義仲に従っていた親義は平知度(たいらのとものり)を打ち取り、同族の岡田久義(義の次男)は平為盛(たいらのためもり)と組打ちをしている。「武田系図」「尊卑分脈」諸説あり〇源義光-義業-佐竹昌義-岡田親義(冠者)-重義〇源義光-岡田冠者親義-重義・久義清和源氏満政流山田重親の次男・泰親が、尾張国知多郡岡田(愛知県知多市岡田町)を領して岡田氏を...石川県岡田家ルーツ

  • びっくり地名 小便谷

    富山県黒部市にある地名です。ちょっと下ネタ系ですかね。谷底に向かって放尿したような、男子のみわかる快感・・・じゃないか!笑笑びっくり地名小便谷

  • 毛沢東の大飢饉 ご存じですか?

    「毛沢東の大飢饉」という話をご存じでしょうか?中国の人々にとっては最大タブーであり、トラウマとなっている中国共産党史上最悪の出来事です。それは1958年から62年まで続き総死者数4500万人と言われています。毛沢東の「大躍進政策」の一環として害虫駆除を始めました。害虫とは「ハエ、蚊、ネズミとスズメ」の4種類ですが、スズメまで入れた理由は稲を食べてしまうから。スズメを絶やすことで稲作が増えると思い、これを徹底的に駆除しました。その結果どうなったでしょうか?翌年から農業の生産性が極端に落ち、かなり食べるものに困り果て、ひどいときは死んだ獣や人間の死体まで食べたといいます。(中国の人は食べ物に対してそうとうな執着を示すのは何故か?と思っていました。四つ足のものは机以外何でも食べるとか、こうもりを食べるとか・・・理由は...毛沢東の大飢饉ご存じですか?

  • 家系譜新聞 スピリチュアルなお盆のおはなし

    特集:スピリチュアルなお盆のおはなしお盆(おぼん)は、太陰太陽暦である和暦(天保暦など旧暦という)の7月15日を中心に日本で行なわれる祖先の霊を祀る一連の行事です。一般に仏教の行事と認識されていますが、仏教の教義で説明できない部分も多く、古神道における先祖崇拝の儀式や神事に仏教行事の「盂蘭盆」(うらぼん)が習合して現在の形が出来たと考えられています。仏教用語の「盂蘭盆」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれます。盆とは文字通り、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を備え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もあります。現在でも精霊をボンサマと呼ぶ地域があります。盆の明確な起源は分かっていませんが、1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する...家系譜新聞スピリチュアルなお盆のおはなし

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