MJHA(日本を再び健康な国に)を志として、食・運動(姿勢)・睡眠等の問題を論理的に説いていきます。
「書くことは考えることである」とは〜(ヘーゲルの)絶対精神の自己運動として全てを書く=考えること〜
昨日の終戦記念日に思うこと。戦争・終戦という社会の激変レベルの変化があったから、その時代を生きた先輩、先生方は無いのかと。これはヘーゲルにおいてもそうであるし、そもそもの古代ギリシャという弁証法の誕生の時代もそうであったのだと(個体発生は系統発生を繰り返す)。より構造的にいえば、社会の激変ということの羽根井としてのアタマの中の激変=運動という像があってこその、納得、実感レベルでの弁証法の学び、修得が可能となっていったのではと思える。ここは別言すれば、形式、知識としての弁証法をいくら熱心に学んだところで、そもそものアタマの中の像が弁証法的・運動的でなければ、運動する像を生み出すような脳(頭脳?)の働きがなければ、弁証法を実感レベルでわかりようが無いのだということである。そういう意味で、コロナ禍で激変レベルで社会が...「書くことは考えることである」とは〜(ヘーゲルの)絶対精神の自己運動として全てを書く=考えること〜
吉村知事のイソジン発言。言ってることの是非は別にして......これも大学の教養課程廃止のゆえか。吉村知事のイソジン発言、医師会会長の立法要請......近頃、この方達は内包と外延ということをご存知無いのかと疑ってしまう。と、自身の専門を省みれば、やはり同じく、東洋医学と西洋医学が混在し、観念論と唯物(タダモノ)論が混在している。吉村イソジン発言〜内包と外延〜
五蔵=肝、心、脾、肺、腎は、代謝器官の機能、実体では無い。気もまた人体の機能。これら機能を次々と実体としていって、東洋医学の生理学は成立しているのか?これを唯物論的に、とは?五蔵〜実体と機能〜
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