「書くことは考えることである」とは〜(ヘーゲルの)絶対精神の自己運動として全てを書く=考えること〜
昨日の終戦記念日に思うこと。戦争・終戦という社会の激変レベルの変化があったから、その時代を生きた先輩、先生方は無いのかと。これはヘーゲルにおいてもそうであるし、そもそもの古代ギリシャという弁証法の誕生の時代もそうであったのだと(個体発生は系統発生を繰り返す)。より構造的にいえば、社会の激変ということの羽根井としてのアタマの中の激変=運動という像があってこその、納得、実感レベルでの弁証法の学び、修得が可能となっていったのではと思える。ここは別言すれば、形式、知識としての弁証法をいくら熱心に学んだところで、そもそものアタマの中の像が弁証法的・運動的でなければ、運動する像を生み出すような脳(頭脳?)の働きがなければ、弁証法を実感レベルでわかりようが無いのだということである。そういう意味で、コロナ禍で激変レベルで社会が...「書くことは考えることである」とは〜(ヘーゲルの)絶対精神の自己運動として全てを書く=考えること〜
2020/08/16 11:46