MJHA(日本を再び健康な国に)を志として、食・運動(姿勢)・睡眠等の問題を論理的に説いていきます。
古代中国のおいて、病を「本と標」として捉えられたことの意義は、何よりも、病には眼に見える姿(一重の)だけでは無しに、二重性があるという、目に見えない世界の構造を史上初に捉えられた、ということなのだ、と思える。これは、そのことでそれまでは治らなかったり、治ったと思っても直ぐに再発したりであった病をしっかりと治せるようになっていった、ということのみならず、病の持つ他の二重性が分かっていく道を拓いたのだ、と思う。これは例えば、史上初の鍼や灸の治療にも匹敵する、すべて鍼灸治療は、最初に、鍼を打ったり灸を据えたりという治療を発明した人があったからという意味での大発見であったのだ、と思える。そしてそれが、目に見える世界の鍼や灸の施術と違って、目に見えない世界の出来事であるだけに、それを史上初めてということは、大変なこと、凄...「本と標」(2)〜史上初ということ〜
『黄帝内経』で説かれる「本と標」について、自身は、余りに低く見過ぎていた。別言すれば、古代中国という時代・社会ということを無視しての捉え方であった、と思える。「本と標」について、鍼灸の教科書等では、「本治法と標治法」の様に非常にレベルの高いものとして説かれる。例えば、「証と症(つまり本と標)は、原因と結果ではなしに本質と現象である。」(竹山晋一郎)と説かれる。これについては、古代中国という人類として幼い時代の、認識の直接性である言語表現を、現代の大人になってしまっている人類のレベルから、見てしまっている誤謬であると自身では捉えていた。本質(と現象)という様な抽象的な認識が古代中国という時代の人類に可能であった筈がない。別言すれば、古代中国という物質的なもの等が幼い時代に、認識だけが現代と同じレベルであった、高度...「本と標」〜その意義〜
病には二重性=多重性がある、あると視るべきである。治ると不治の二重性のみならず、治らないとされる病にも二重性がある。本来なら治る余地があるのに治らないとされるものと本当に治らないものとの二重性。と考えると、治るにも二重性がある。通常は治るものと通常は治らないあるいは難治とされているが治るものと。障害の二重性として説かれる(解かれる)二重性、あるいは一般的な治療と特殊的な治療として捉えられる病の二重性、東洋医学で言う標と本......。通常、単純に一重性として捉えられる病には本当は=論理的にはいくつもの二重性があるから、そこを二重性として診ての施術でなければならない。そうでなければ、本来なら治るものを治らないとしてしまったり、治らないものを治るとしてしまったり、である。しかしながら、本当の不治の病というものは、生...病のいくつもの二重性=多重性〜覚え書〜
『形而上学』(アリストテレス)〜根源を問うこと、あるいは概念規定〜
『形而上学』(アリストテレス)を読み返している(正確に言えば、眺めているか?)。若さのある時に、しっかりと学びたかった、との思いがする。例えば、『形而上学』のΔ巻で「始まり(αρχη)」について、説かれている。様々な角度から、様々な意見を取り上げて、その共通性に着目して......。本当にすごい人。それも二千年以上前の人なのだから......。何がすごいのか、と言えば、人類史上初の、まだ正確の無い問題に、そこまでの人類の英知を思弁して、そこにさらに自身の思弁を重ねて......。せめて、自身は自身の専門分野で、と思う。『形而上学』(アリストテレス)〜根源を問うこと、あるいは概念規定〜
実家の片付けに取り組んでいる。そこにも対象への関わり方の二重性がある、と思える。一年近くも、片付けねばならないと思うながらも、手を付けかねていた実家の片付け。コロナウイルス感染症による職場の一時閉鎖という一ヶ月近くの休みのおかげで漸くにして、手をつけることが出来、部分的にはほぼ片付けが終えられるとことまで来た。しかしながら、全体とすれば、1/10、甘く考えても1/5〜6は残っている状態。それらは、考えずにやたらめったらやっても出来るところから手を付けただけに、どうやって片付けていくのか?としっかりと方法、段取りを考えてやっていかねば、どうしようもないと思える。具体的には、不要と思えるものをまず捨てるのか、必要と思えるものを整理して箱詰め等していってまとめるのか、全体として手を付けるのか、一つの部屋を片付けてしま...実家の片付け〜全ては一〜
自身の他に優れる点は、理論的な高みでは無く、施術の高みでも無く、(自身の)施術の中身=それに関わるアタマの働きを書くこと、書こうとしていっていることにあると思う。カッコよくいえば、理論的実践家を志向しての、であると思う。そこを自覚して、空理空論にならぬ様、心がけていきたい。さて、施術をするということは、一般的には、その患者なりの治った状態をイメージして、それには現在の病んだ状態をイメージせねばならないが、その病んだ状態を治った状態=正常へと変えてやることであるが、その施術における施術者のアタマの中を視て、書いていきたいと思う。いきなりの高度なかつ複雑な施術、例えば「経絡治療」を取り上げると難しい、これは自身にとっても読んでいただく皆さんにとってもである、ので、まずは、施術初心者が単純な「肩こり」に対して施術する...肩こりをほぐす(1)〜の施術者のアタマの中を視る〜
代謝器官の運動としてのランニング〜人間体の二重構造を踏まえての運動〜
人間体を運動と代謝の二重構造として捉え返して、運動を支える代謝器官の運動としてランニングを行う。昨日のランニングの事実から、運動には全体と部分の二重性があり、それゆえ部分の運動が目的であってもそれは全体の運動=全身運動とともに、あるいは全身運動として行われるべきである、と運動を捉え返した。本日は、その全身運動として運動は行われるべきであるということの中身を、運動の二重性=運動器官の運動とそれを支える代謝器官の運動との二重性として運動を捉え返して、代謝器官の運動としてのランニングを行なった。具体的には、軽く息が切れる=呼吸器官が日常レベル以上にしっかりと働いている、働かせられていると捉えて、その状態を保ちながらのランニングを行なった。結果として、時間としては昨日より短い30分(雨が降ってきたので)であったのだが、...代謝器官の運動としてのランニング〜人間体の二重構造を踏まえての運動〜
久しぶりにランニングを行なった。全身レベルの運動の大事性、実感する。昨日、久しぶりに約1時間のランニングを行なった。軽く息が切れ汗ばむというレベルの、であったが、ランニング後、今朝に至るまで足がポカポカと温かく、である。この二週間というもの、空手の準備運動として、ほぼ毎日、雪駄や下駄で約2時間歩いて、夜には足がつるという状態であったのに、その運動による足の温かさは、せいぜい運動中と運動後、数時間であるのに、何が違うのだろうか?雪駄で歩くでは何が足りないのだろうか?逆ならわかるのだが......。(自身では、この数年、夏の時期以外は、しっかりと運動してやらないと足の冷えを感じるようになって来ていて、年齢ゆえと半ば諦めてもいた。)これは、自身の運動の捉えかたが、部分のみに着目して、全体を見ないから、ではないのか?と...ランニングの効用〜弁証法、あるいは<生命の鎖>の論理〜
庭の片付けを行った。実践的であることの大事性、実践なくしては理論的な深まりはないのだと実感された。本日、漸くにして一年半近くも片付けねばならない、と思うばかりでほぼ手付かずで放置していた庭の片付けが、もう少しで終われる目処が立つところまで進んだ。庭のある生活をされている方には常識であると思うが、庭というものは、手入れ(草抜き等)をしてやらないと、あっという間に草ボウボウの荒地?になっていってしまうものであり、半年も放置すると大変なことになるものである。我が家の庭は、そんな状態になってそこからさらに一年近くも、あれこれ忙しいと言訳して放置していた(もう気軽には手がつけられない状態になっていた)のだが、今回、コロナウイルス感染症により職場の約一ヶ月間の閉鎖によって、漸くに片付けに手をつけて、である。その庭の片付けを...庭の片付けに思うこと〜理論と実践の統一について〜
昨日は、看護の日〜フローレンス・ナイチンゲールに視る、信仰とは〜
昨日は、物事の理解は像としてということを、「信仰とは」の自身の理解とともに、『恩讐の彼方に』を取り上げて説いたのであるが、奇しくも昨日は、看護の日=フローレンス・ナイチンゲール生誕二百年であった、と知り、「信仰とは」の実例としては、フローレンス・ナイチンゲールをこそ取り上げるべきであったとのとの思いとなった。ほとんどの方には、看護関係の方をも含めて、フローレンス・ナイチンゲールについては、「クリミアの天使」と呼ばれたとか、せいぜいが『看護覚え書』を書いた昔々の人、くらいの認識しかないのでは、と思う。しかしながら、本当のフローレンス・ナイチンゲールは、人類の歴史上、何人もいないくらいの凄い人、と自身では思っている。例えば信仰ということに関わっていえば、フローレンス・ナイチンゲールは、看護・健康の法則=自然の法則=...昨日は、看護の日〜フローレンス・ナイチンゲールに視る、信仰とは〜
『恩讐の彼方に』(菊池寛)を、本来の信仰とはのリアルなイメージを描かせてくれる書である、と感動とともに読んだ。像として理解することの大事性、実感する。「信仰と学的観念の違いは何かを説けば、観念というのは、客観的世界を頭脳活動としてアタマの中に宿すことです。そして信仰というのは、逆に自分の信仰としての思いを客観の世界、つまり外界に創っていくことです。確かに信仰は何かを信じることであり、信じて敬う対象を外界に求めていくのですが、学問は信じて敬うものでは全くないのです。つまり、自分から外へと思いを致して、それに自分の心を向かわせるのではなく、森羅万象である外界が、まともに自らの五感器官へと反映できるように実践することから始まり、そしてそれを意図的に頭脳の中で現象化から表象化、そして抽象(論理)化していくことにあるので...『恩讐の彼方に』を読む〜信仰とは何か〜
昨日は、午前中に近くの公園で50段程度の階段の昇降を約20分、その後、川の土手を約2時間歩き、午後は、庭の片付け(以前に伐った木をゴミ袋に入るように切る作業)おこなった。階段昇降は、久々の空手の練習へと直接的に繋がるものとの思いでの、であったが、案の定、わずかに50段程度の階段の昇降で息切れ、夜には、足が攣ることも。それゆえ、まだまだ、それ以前の人間体の鍛錬をしっかりやってでなければ、との思いとなった。客観的には、なんとも生温い練習であり、我がことながら、大丈夫かな?との思いを持たないでは無い。しかしながら、自身の特殊性(年齢、久しくまともな運動を行なっていないこと、かつ過去の運動での古傷がある)から止むなし、であると。なぜならば、端的には、いきなりやり過ぎるならば、簡単に壊れて、数ヶ月、場合によっては数年単位...久し振りの階段昇降鍛錬〜過程性ということの大事性〜
"DasechteLeidgibteinemdiegeistigeHaltungwieder."(眞の苦難は吾人に氣魄を取り戻させる。)コロナ感染症の影響で(自身も含めて)多くの人が諸々に追い詰められていき、の現在である。しかしながら、それだけに、何があっても悔いを残さないように、可能な限りの努力を!と(何よりも自身の問題として)思う。また、鍼灸・東洋医学もまた同様に、その存亡の危機に立たされているのでは、とも(自身には)思えるのだが......。それだけに、かつて西洋医学の前に滅亡しようとした時に「経絡治療」が誕生させられたが如くに、コロナ後に、とも思えるのだが......いかなる事になっていくのだろうか?さて、書くことの大事性について、その二重の意義について、これまで説いてこなかった、もう一つの意義について...何を為すべきか〜書くことの二重の意義〜
「古典に還る」とは本当には=認識論的には如何なることなのか?世界のあらゆる物事は必ず原点(としての構造)があってのそこからの生成発展の結果としての現在である。(二律背反)それだけに、原点に返ってそこからの辿り返しということは、現在、そして未来を識るには必須の作業である。しかしながら、その事をしっかりと成し遂げることは至難の技である。それゆえに、あらゆる専門分野でそれはほとんど成されていない。何故かならば、認識論(と弁証法)が無いからである。より具体的には、古典に還っているつもりで、現在の自身の実力から恣意的に古典を見るからである。認識論的にいえば、相手(=古典)に二重化出来ないからである。本当は自己の他人(=古典)化をしなければならないのに、自己の自己化をして他人化をしたつもりになってしまっているからである。こ...本当の?「古典に還る」とは〜観念的二重化の二重構造〜
雪駄や下駄で歩くことのすすめ。それは現代人に欠けた運動である。コロナ外出自粛のゆえか、歩いたり走ったりする姿が目立つ。しかしながら、その姿を見るたびにせっかくの運動なのに、と残念な思いになる。なぜなら、その足元はほぼ100%靴であるから、である。現代人に欠けたる運動の最たるものの一つが足の運動であるのに、どうしてせめて雪駄や下駄で歩かないのか、と。どういうことかと言えば、人間の身体というものは、生命の誕生から36億年かけて、地球環境と相互浸透的量質転化的に、観念論的に?言えば、機能が実体化したものであるから、実体としてあるものは、その実体に見合った機能=運動を必要とするものであるから、ということである。つまり、足にも指がしっかりとあるということは、その指を使う必要があるということであり、逆から言えば、足の本来の...雪駄や下駄で歩く、のすすめ〜人間の運動を二重性で視る〜
コロナウイルス感染症の影響で外出自粛しているので、料理作る頻度が上がっている。今夜は筑前煮。根菜をたっぷり食べて、免疫力アップを!筑前煮〜たっぷり根菜が食べれる料理〜
社会レベルのコロナウイルス感染症の終息についてのマスコミの報道を見ていると、その時々でいろいろと解説されて、これではコロナウイルス感染症の終息のイメージが描きづらいとの思いで、社会的レベルのコロナウイルス感染症の収束・終息について、自身のイメージをブログ記事として書いた。しかしながら、人によっては切実な問題(自身にとってもだが)であるだけに、ブログ記事を曲解レベルで読まれる方も無いではないとの思いから、記事の公開には躊躇いがある。とはいえ、社会レベルのコロナウイルス感染症の今後をイメージ出来ずに困惑しておられる方が多くおられるであろうことに鑑み、公開することとした。ブログ記事の稚拙な説き方では無く、説こうとする中身を汲みとって、役立てていただければ、と思う。社会レベルでのコロナウイルス感染症の収束・終息の見通し...社会レベルでのコロナ感染症の今後〜その二重性〜
コロナウイルスパニックに思うこと〜日本固有の精神・文化について〜
「若い衆や、死ぬが嫌なら今死にやれ。一度死ねばもう死なぬぞや。生きた中は憂きも辛きも楽しみよ。侍じゃとて死んでよかろか。」(白隠禅師)現在の日本は、コロナウイルスに関わっての不安が不安心へとまでなっていって、である。それだけに、日本固有の精神・文化である「悟り」や刀術の「極意」というものが、求められる、求められて然るべきである、と思う。昨日、一昨日とゴールデンウィーク連休前ということもあってか、クリニックのリハビリ室へ多くの患者さんが来られた。中には、「コロナが怖い!」として何ヶ月もリハビリ(正確には指圧整体の施術)を受けることなく、腰痛を悪化させてしまってまともに歩くことすらままならない状態になってしまっている患者さんもおられた。また、「コロナが怖くてずっと家に篭りっきり」と言われる方も一人や二人では無かった...コロナウイルスパニックに思うこと〜日本固有の精神・文化について〜
『コズミックフロント☆ヒーリング』を観た。美しい星空にココロ癒され、何を観るかの大事性痛感された。先日、夜中に目覚め、コロナのニュースがやっていないか?とテレビをつけると画面いっぱいの星空で、しばし見入ってしまった。番組は、『コズミックフロント☆ヒーリング』(NHK)で、1時間にわたり美しい星空を見せてくれる、というものであった。それ以来、コロナのニュースと空々しいお笑い番組(コロナのニュースに比べると全てのお笑い番組が自身にはそう思える)に嫌気がさすと、『コズミックフロント☆ヒーリング』の録画を観る。すると、コロナウイルス騒ぎで鬱鬱としている自身の気持ちが晴れる、と思える。これは、「人間の認識の原点は反映である」ということに思いを致せば、当たり前のことなのだが、不安を煽る?コロナ関連のニュースを見続けるならば...ニュースを止めよう〜認識の原点は反映にある〜
コロナウイルス感染症騒ぎの功罪〜物事には必ず長所と短所がある〜
ほぼ一ヶ月間のリハビリ室閉鎖となった。千載一遇のチャンスと捉えて、空手の白帯からの一からの学び直しに全力を尽くしたい。明日から五月いっぱい、ほぼ1ヶ月間の休みが取れた。より正確には、コロナウイルス感染症の影響でリハビリ室が閉鎖となった。当初はコロナの影響での失業の憂き目との思いで、あれこれとジタバタしたのだが、「何処も同じ秋の夕暮れ」で求人自体が少なく、自身の年齢もあってなかなかに難しいものがあった。それならいっそ、逆転の発想で、社会人になったらなかなかに取れない長期休みが取れた!と開き直って、との思いへとなっていって思い浮かんだのが、冒頭の、白帯からの空手の一からの学び直し、である。一ヶ月では、入門程度とは思うけれども、「αρχηημισυπαντος」(始まりは全ての半分)との古代ギリシャの諺にもあるように...コロナウイルス感染症騒ぎの功罪〜物事には必ず長所と短所がある〜
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