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古典ギリシア語の学習は、初級だけでも年単位での時間がかかる、ということが分かってきたわけであるが、しかし人生の時間は有限である。何れにしても時間がかかるものであるのならば、その間ギリシア語だけ学ぶのも惜しいように思われたため、この度ヘブライ語も同時に学習
聖書を原語で読むべく、古典ギリシャ語の学習を始めてから2ヶ月ほど経つ。学習を始めてから、なかなかに難解であり、骨が折れるものであることが分かってきた。全くの独学で、かつ語学が趣味のようなタイプではない身としては、アリのごとく進むしかないという実感である。そ
最近のニュースを見ていると世界の政治経済には重い暗雲が立ち込めているように見える。とりわけ日本では物価は上がり続けるが給料は上がらない、いわゆるスタグフレーションを実感する日々であり、為替もどこまで円安が進むか分からない状況である。社会は出口の見えない閉
主のご復活おめでとうございます。2022年も無事、復活徹夜祭に与ることができました。教会には新受洗者の方もおられ洗礼の瞬間に立ち会えたことは大きな喜びでした。洗礼の恵みがその方の生涯を守り、育み、導かれることを願ってやみません。また受洗者には、洗礼の約束の更
第一部 イスラエル、ユダとエルサレムについての託宣(2-12章)第2章[1]アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて啓示されたこと。国々の平和[2]来たるべき時に、ヤーウェの神殿の山は山々の頂きとして堅く立てられ、どの峰(みね)よりも高く上げられる。すべての国
イザヤ書 第1章 29-31節清められるエルサレム[29]「まことに、慕っていた樫の木のためにおまえたちは自らを恥じ、自分で選んだ園のためにおまえたちは恥じ入る。[30]まことに、おまえたちは葉のしおれた樫の木のようになり、水のない園のようになる。[31]強い者は麻のくずに
イザヤ書 第1章 21-28節エルサレムに対する神の裁き[21]忠実だった町が、どうして遊女になりさがってしまったか。そこには公正が満ち、正義が宿っていたのに、今は人殺しばかりだ。[22]あなたの銀はかなくずとなり、あなたのぶどう酒は水で薄められている。[23]あなたたちの
イザヤ書 第1章 18-20節回心せよ[18]「さあ、論じ合おう」とヤーウェは言われる。「たとえ、おまえたちの罪が緋のようであっても、雪のように白くなるだろう。たとえ紅のように赤くても、羊毛のようになるだろう。[19]もし、おまえたちが喜んで聞き従うなら、地の実りを食べ
イザヤ書 第1章 10-17節神に栄光を帰す礼拝[10]ヤーウェのことばを聞け、ソドムの支配者たちよ。わたしたちの神の教えに耳を傾けよ、ゴモラの民よ。[11]「おまえたちのささげる多くのいけにえはわたしにとって何になるだろう」とヤーウェは言われる。「わたしは、雄羊の焼き
イザヤ書 第1章 4-9節ユダの破滅ああ、災いだ。罪を犯す国、咎の重い民、悪を行う者の子孫、堕落した者の子どもは。彼らは、ヤーウェを捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、離れ去った。なぜ、あなたたちはなおも打たれようとするのか、反抗に反抗を重ねて。頭はどこも痛み、
イザヤ書 第1章 2-3節ユダについての審判天よ聞け、地を耳を傾けよ、ヤーウェが語られる。「わたしは子どもを養い育てた。ところが、彼らはわたしに背いた。牛はその飼い主を知り、ろばはその主人の飼い葉桶を知る。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は悟らない。」<本
第一編 第一イザヤ(1-39章)表題と導入(1章)表題アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世にユダとエルサレムについて受けた啓示。-----------------------------------------------イザヤの名前の意味は、「ヤーウェは救い」「ヤーウェは救い
当ブログは久しぶりの投稿となる。現在、世界情勢はロシアによるウクライナ侵攻が始まり、予断を許さない状況になっている。また同時に東アジア情勢も含めて、火種はまだ世界中に残されている。世界平和とは何か。本当の世界平和はどこから来るのか。私達には何ができるのか
イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。前回の宗教改革から時代は飛び、現代へ。カトリック教会によるカトリック教会自身の大改革であった第二ヴァチカン公会議(1962年〜1965年)の聖霊論に耳を傾けてみる。(以下、本書第一巻P.237-246「第十章 第二ヴァチカ
イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。次は宗教改革時代、特にルターとカルヴァンについて取り上げていきたい。(以下、本書第一巻P.199-214「第八章 プロテスタンティズムの歴史における聖霊論」より適宜転載)ーーーーーーーーーーーー・まず、ルターとカル
イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。今回は第一巻第二部「キリスト教の歴史において」の中世教会の部から、トマス・アクィナスに関する記述を中心に紹介したい。(以下、本書P.127-138「第三章 御父と御子の相互の愛である聖霊」およびP.175-180「第六章
イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。今回は第一巻第二部「キリスト教の歴史において」から断片的ではあるが、著名な人物に関連した箇所を取り上げてゆきたい。(以下、本書P.101-126より適宜転載)ーーーーーーーーーーーー・「使徒たちが、至るところで、天
イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』を読む。次は第二章 新約聖書を読んでいきたい。そしてまた思ったことがあれば記していきたい。(以下、本書P.37-98より適宜転載)ーーーーーーーーーーーー・われわれは本質的に四つの福音書によってイエス・キリストを知るので
イヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』第一章 旧約聖書より、印象に残った記述をここにメモしておきたい。そしてそれらを読みながら、心に浮かんだことがあれば、それを綴ろうと思う。以下、本書(P.19-36)より適宜転載。ーーーーーーーーーーーー・ヘブライ語の「ル
まずはイヴ・コンガール著『わたしは聖霊を信じる』第一巻の序より、著者自身の思いが表された箇所を抜粋し紹介したい。その後で私自身の気づきのようなものがあれば、少し記しておきたい。以下、本書序(P.1-8)より適宜転載。ーーーーーーーーーーーー・本書は聖霊に関する考
キリスト者は、ただ唯一なる神を信じるのではなく、父と子と聖霊という、三位一体の神を信じるものである。父なる神、子なるイエス・キリスト。この二者は、聖書に描かれる主体的かつ人格的な姿から、物語的意味で比較的イメージをつかみやすい存在である。旧約聖書では父な
今年の聖霊降臨の主日は5月31日。今からはまだ先のことであるが、心の、霊の準備として聖霊に祈祷を捧げたい。「聖霊来てください」(聖霊の続唱)聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。やさしい心の友
最近、教皇フランシスコのサンタ・マルタ館での朝ミサが、ネットでライブ配信されるようになった。以下は3/20の模様。(イタリア時間朝7時、日本時間では午後3時)「教皇フランシスコは、3月20日、バチカンのサンタ・マルタ館で朝のミサを捧げられた。」https://www.vaticannew
久しぶりのブログ投稿となる。この間、特に何かがあったというわけではなかったが、自然なリズムにより、しばし遠ざかっていた。世は新型コロナ肺炎一色。自分自身もミサには行けていないが、心の祈りだけは欠かさないようにしたい。さてタイトルの人間の大小についてである
ようやく映画「沈黙 サイレンス」を見ることができた。遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の映画である。製作は2016とある。当時から気にはなっていたが結局見る機会はなかった。ところが先日のローマ教皇来日で、長崎そしてキリシタンへの関心が湧き、ふと見てみよう
社会的に置かれた立場も様々。老若男女、価値観も多様。人々は孤立化しコミュニケーションは難しくなり相互不信も進み誰もが保身に汲々(きゅうきゅう)とする。このような社会でどのように生きがいを持って日々を過ごすことができるだろうか。今は何よりも「勇気」が必要とさ
聖杯キリスト教の文脈では、最後の晩餐でイエスが使用したとされる血の盃(さかづき)あるいは十字架上でイエスが脇腹を槍(やり)で貫かれた際に流れた、水と血を受けとめたとされる杯失われた聖杯を探し求める旅というモチーフは、多くの人々のイマジネーションを刺激してきた
復活、復活復活は天国への門。復活を信じることが、門の鍵。信じることで扉は開く。少し信じれば少しだけ扉が開く。少し信じれば少しだけ光が射し込む。復活の光。復活、復活。
短い人生を駆け抜ける歩く、というよりは駆け抜ける見える肉では一人でありながら見えない同伴者と共に、駆け抜ける
心の余白。いつどこで聞いたか読んだか、もはや記憶も定かではないが、神の言葉は、元は真っ白な光そのものであって、ただ人間が理解できるように黒の文字の衣をまとっているのである、という話を聞いたことがある。宗教には一方で、一心集中、心を占め思いを占め夢中にさせ
今日は聖霊降臨の主日であった。梅雨の影響もあろうか、体調は幾分優れなかったが、教会でミサに与れたことは有り難かった。聖体拝領時、頭上に光の微かな煌めきを感じたのは、想像の産物ではあろうが、祝福であった。
2019年4月21日。復活祭(イースター)。今年も所属教会の式に無事参加することができ、誠にありがたかった。十字架は、普通の意味合いでは、ローマ時代の残酷な刑罰であり、罪であり苦しみであり、敗北の象徴でもある。それは人の世の苦しみの極致であり、また苦しみの全てであ
十字架。十字架には、たしかに悲しみがあり、悲しみと共に生きることがあり、また悲しみの終わりもそこにあるのではなかろうか。聖マリアの悲しみを黙想しつつ。
『神よ、わたしを力づけ、』『急いで助けに来てください。』この言葉をはじめて耳にした時、微(かす)かな衝撃と共に、これは一体何事か、と思ったのが率直な感想であった。先日、都内の、とある修道院の黙想会に参加する機会があり、そこで初めの祈りのことばとして出てき
キリスト教世界には天使(エンジェル)が存在する。ミカエル、ガブリエル、ラファエルという大天使の名前は、キリスト教徒でなくとも耳にしたことはあるのではなかろうか。他にも様々な天使がおり、それぞれの天使がそれぞれの役割、仕事、使命を持っているとされる。その中で
今日次のニュース記事が飛び込んできた。「ローマ法王38年ぶり来日へ…外相バチカン訪問」(11月25日読売オンライン https://www.yomiuri.co.jp/world/20181125-OYT1T50016.html)38年ぶりということであるから、これが実現すれば、日本のカトリック教会も大いに活気づく
「貧しい人々のことを忘れないでください」ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が、2013年3月、当時76歳で新教皇に選出された時、同僚の枢機卿から言われ、深く心に刻まれたという言葉。そして「フランシスコ」という名前の契機ともなった言葉である。ーーーーーーー186自ら
ケリュグマ、すなわち福音の最初の告知は、それを伝え受け取る、個人の次元のみではなく、社会的次元もまた、十分考慮される必要がある。教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』から、ケリュグマの共同体的・社会的影響について学んでゆきたい。ーーーーーーー177ケ
福音の最初の告知はケリュグマと呼ばれている。教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』から、この福音の最初の告知、ケリュグマについて学びたい。ーーーーーーー164・・・信仰教育を行う者の口には、いつでも福音の最初の告知が響きます。「イエス・キリストはあな
教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』には、使徒的勧告の名の通り、現代世界で福音を告知するにあたっての様々な勧告や助言が含まれている。第三章「福音の告知」より、響いた箇所を紹介したい。(P.108 - 110)ーーーーーーー119洗礼を受けたすべての人には例外な
沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「ご聖体の祝日」。この文をもって一連の紹介のおわりとしたい。ーーーーーーーヨハネ聖福音書を静かに読むこととしましょう。ヨハネ第6章はご聖体の秘跡についてのところです。イエズスさまはまず、 「永遠の生命へと至らせる食べ物
沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「聖三位一体の秘儀」。ーーーーーーーきょうも、静かに聖書を読みましょう。第一福音書(マタイ)の第28章(18−20)です。ご復活ののち、最後のご出現の時のこと。キリストはでしたちにこうおっしゃいました。 「天においても
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