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  • 湖畔ホテル ウェーバーファールト

    休暇を北イタリアで過ごした帰路、ミュンヘンの南のテゲルン湖畔にあるホテルに一泊しました。ホテルの玄関に車で乗りつけると、男性スタッフが車を地下ガレージに駐車してくれた後でスーツケースなどの荷物を部屋まで届けてくれます。ロビーではピアノの生演奏をしています。ホテルのロビー・廊下とソファー廊下は広くその突き当りにはソファーを置いてあり、湖を望むことが出来ます。立派な家具が備え付けられた私たちの部屋はたいへんに豪華で、湖が見えるバルコニーがあります。そして歓迎の意味でしょうか、テーブルには菓子と果物とミネラルウオーターを置いてあります。バルコニーから湖を望む・菓子と果物我々が旅装を解いて汗を流した後、夕食に行っている間に部屋係のスタッフが一度使ったタオルを全部取り替え、すぐ寝られるように寝具を整え、部屋を片付け...湖畔ホテルウェーバーファールト

  • マラーノ ・ ラグナーレ

    マラーノ・ラグナーレは人口約1.800人の、漁港がある小さな町です。紀元前1世紀頃にローマ軍の町として出来たようです。そして16世紀の中頃にはヴェネチアに支配されました。ところでこの町では、フリウリ語(ロマンス語系の言語)を話すウーディネ県に属するにもかかわらず、今日なおヴェネチアの言語を話しているそうです。町の中心に大きな広場があり、1.000年以上もの歴史を持つ塔が建っています。塔港に来るとちょうど船が出るところです。向かいの半島の先端にある結構大きい町リニャーノに行く船のようです。片道40分というのを確かめて飛び乗りました。が、リニャーノの町には興味がないので乗ってきた船ですぐにマラーノ・ラグナーレに帰って来ました。リニャーノの滞在時間15分。リニャーノの海岸・ラグーン1ラグーン2・マラーノ・ラグナ...マラーノ・ラグナーレ

  • パルマノヴァ

    16世紀の末に計画都市として造られたパルマノヴァは人口約5.500人の町で、その星形の外観は今日まで大変良く保たれています。1600年頃のパルマノヴァ(ウィキペディアより)こんにちのパルマノヴァ(ウィキペディアより)この町は本来城塞都市としてトルコのオスマン帝国からヴェネチア共和国を防衛するために、そしてその後ハプスブルク帝国から守るために造られたのです。この任務はナポレオンに征服されるまで200年以上にわたって果たされました。18世紀末からオーストリアが委託統治するようになったりイタリアに属するようになったりしましたが、19世紀の中頃を過ぎた頃最終的にイタリアの手に落ちました。第一次世界大戦の時パルマノヴァはイタリアの重要な軍事基地になり、それに応じて野戦病院や軍の訓練場などが設置されました。それゆえ砲...パルマノヴァ

  • アドリア海沿岸 の グラード

    トリエステからアドリア海沿岸を北西に1時間ほど走ると人口8000人ほどの町グラードに着きます。グラードは、そこより少し内陸の都市であるアクイレイアの港湾都市として、おそらく紀元前2世紀頃出現し発展していったと思われています。ここはヴェネチア湾の最東端にあたります。数百年にわたってグラードは海賊や近隣の町の悪党団から襲われ略奪されたにもかかわらず、旧市街には歴史的に重要な教会や建物が残っています。教会・遠浅の海グラードをヴェネチア共和国が支配した時代は中世の末期から18世紀の終わりまでです。そして19世紀の初め頃からハプスブルク帝国に属するようになりました。この時代にグラードは海水浴場および漁港として発展したのですが、第一次世界大戦の勃発により「オーストリアの避暑地」の時代は終わりました。そして1919年か...アドリア海沿岸のグラード

  • アドリア海沿岸 の イゾラ

    イタリア国トリエステから国境を越えてスロベニア国に入ったところにある小さな港町イゾラ。この町のあたりには西暦1世紀から人が住んでいたそうです。13世紀からヴェネチア共和国に属するようになり、18世紀の末頃からオーストリアはハプスブルク家の王政が敷かれました。19世紀前半には温泉が発見されて観光資源になり、漁業も盛んになって19世紀の終わり頃イゾラは繁栄を謳歌する町になりました。20世紀初めには5326人のイタリア人、20人のスロベニア人、そして17人のドイツ人が住んでいたそうです。1918年にこのイゾラを含むアドリア海の沿岸地方はイタリアの領土になり、1954年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国のうちのひとつであったスロベニアの一地方になりました。ユーゴスラビアの崩壊後、1991年からこの地域はユーゴスラ...アドリア海沿岸のイゾラ

  • トリエステ

    トリエステはイタリアの北東部、アドリア海とスロベニア国の間の細長いイタリア国土にある港湾都市です。古い歴史がある町なので、興味がある人はGoogleってみるといいでしょう。トリエステ1&2トリエステ3&4トリエステ5私たちはここで8日間過ごします。我々のアパートメントからの景色(昼と夜)劇場など、ローマ帝国時代の遺跡の他、大変に栄えた過去の名残の立派な目を見張るような建物がたくさんあります。ローマの遺跡1&2トリエステ6&7トリエステ8・トリエステのイカ釣り漁船さらに見事な広場もいくつかあるのです。そしてその間には中世の雰囲気を醸し出している小道が複雑に入り組んでいます。レストラン、バー、カフェ、アイスクリーム屋が軒を連ねる通りを外国人を含む大勢の観光客がそぞろ歩きをしています。男性も女性もほぼみんな半ズ...トリエステ

  • サン ・ ジュスト城塞

    サン・ジュスト城塞は、15世紀から17世紀にかけてイタリアの北東部にあるトリエストの市街地を望む丘陵に建造されました。この丘陵は青銅器時代から紀元前1000年頃の鉄器時代に、ある種の砦として使われていたと考えられているそうです。そして紀元前2世紀には軍事拠点が設けられました。さらに1世紀前半には寺院が建てられ、2世紀にはバシリカ(古代ローマの建築様式のひとつ)が建造されました。時は過ぎ、14世紀後半にトリエステはオーストリアに併合されました。そしてトリエステの街の自衛のために、この丘陵の上にサン・ジュスト城塞が建設されたのです。その後次々に増築が進み、17世紀の中頃完成しました。完成後18世紀中頃までオーストリア軍の指揮官の居城として使われていましたが、その後牢獄などとして使われることもあったとのことです...サン・ジュスト城塞

  • ドロミーティのアッレゲ

    ドロミテとも表記されるドロミーティはイタリア北東部にある山地で、東アルプス山脈の一部です。その真ん中あたりにアッレゲ湖という小さなせき止め湖があり、湖畔にある人口約1300人の町がアッレゲです。我々の夏休みの第一週目をアッレゲの南隣にあるマザレという、やはり湖畔の集落で過ごしました。アッレゲ・マザレアパートメントからの景色アッレゲはひっそりした田舎町だと思っていましたが、トレッキングや登山をして休暇を過ごす人で賑わっています。イタリア人はもとより他のヨーロッパ人、アメリカ人、東アジア人もたくさんいます。中でも意外だったのは、個人とグループ合わせて10人以上の日本人に会ったことです。なんでも、日本では最近それほど有名でない地方で山歩きをするツアーがあるそうですね。アッレゲからケーブルカーを乗り継いで山頂に行...ドロミーティのアッレゲ

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