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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

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  • 四弘誓願文2

    一、衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)人間(にんげん)は動植物の命を殺生(せっしょう)して生活させてもらっています。ただ、普通の生活ではそんなことも考えずに食べているので、感謝の念も怒らないと思います。動植物は人間の為にあるように思いがちですが「動植物も一切衆生の中に入る」わけです。私たち衆生は、誓って一切衆生を救おうという誓願の下に動植物の命を殺生し自分の身を支えて修行させてもらっているのです。四弘誓願文2

  • 四弘誓願文1

    仏教徒の誓いである「四弘誓願文(しぐせいがんもん)」は天台宗の天台大師がおつくりになったと言われております。この四弘誓願文の「誓」というのは、口に出して唱えることです。それから「願」というのは、自分の心に念じることです。ですから、一切衆生を救おうという願いで、私たち仏教徒はこのお経を口に出して拝読することになっているのです。四弘誓願文1

  • 菩提心5

    「菩提心」が無ければたとえ悟っても、皆うそに成ります。有名な白隠禅師は、二十四歳の時に痛快に悟ったのですが、「菩提心」が無かったから「魔の悟り」になってしまいました。実に四十二歳の時まで、そのことに気が付かなかったのです。後に「我れ魔道に陥れり」と懺悔(さんげ)しておられます。白隠禅師四十二歳迄を「因行格(いんぎょうかく)」と、四十二歳から八十四歳を「果行格(かぎょうかく)」とはっきり記しておられます。菩提心5

  • 菩提心4

    「菩提心の要訣」は人々をして、菩提心を起こさせることに務めることです。これを「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」といいます。救われる人より救うべき人になるのです。つまり、誰にもこの心を起こさせるのです。先ず自ら菩提心を起こして、人にも起こさせるのです。起こしなさいと標本を示すのです。そうするととにかく救いを以って自任する人と成るのです。菩提心4

  • 菩提心3

    おシャカ様の目から見れば「菩提心」は私たち衆生が目の前で実行していると見えるのです。このことを信じられないということは「我」というものがあるからです。元来「我」というものは無いものです。何故ならば「天地は一つの物」だからです。切っても切れない仲なのです。皆我です。大きな我です。「菩提心」とは世界の人々と「道」を楽しむということです。菩提心3

  • 菩提心2

    修行するには先ず「菩提心」を起こさなければなりません。今の多くの人には「菩提心」の名前すら知らない人があります。「菩提心」はこの私たち衆生の体に本来充ちているのです。「菩提心」は生まれつきのもので無くそうと思っても無くすることの出来ないものです。天性持って生まれたものです。「菩提心」とは無上道を得て宇宙を救い尽くすということです。本来救われるように成っているのです。そのことをおシャカ様は「天地と我と同根、万物(ばんもつ)と我と一体」と言っておられます。これは「不変の真理」です。また「有情(うじょう)非情同時成道」とも言っておられます。成道とは成仏ということです。「成仏」とは救いということです。これは救いつつあるということなのです。菩提心2

  • 菩提心1

    今は人道主義といいますが、人間(にんげん)が世の中の中心になってきました。その人間の求めているものは、六道輪廻の極楽の世界すなわち天上界です。この天上界というものは、果報が尽きると必ず真っ逆さまに「三悪道(地獄・餓鬼・畜生)、人間、修羅の世界に落ちることがあります。ですから天上界に居られる方は、そういうところに何時までも留まっているということは出来ません。もうひとつ「上求菩提(じょうぐぼだい)」という菩提心を起こされて声聞(しょうもん)縁覚を飛び越えて「菩薩、仏」という位に自分自身の修行力・境涯を高めていただかないといけないということです。歴代の覚者はそうしてご苦労をなさったのです。おシャカ様をはじめとして「生まれながらにして仏様」というお方は一人もありません。皆、血の滲むような努力の末に法を得られた方々...菩提心1

  • 不思議3

    仏教というのは、私たち衆生が既にきちんとした、迷えないような基本体であることを知ってもらう教えです。他に尋ねることはないのです。こんなに確かなことが他に何処にあるのでしょうか。仏教とは、今ここに有(在)る物を、有(在)る物に因って、自分自身で「実証(立証)」出来る道です。一番手付かずで全部道具が揃っているのです。迷う道具も揃っていますが、悟る道具もみな揃っているのです。それですから、「この道具立て(六根)」のままに行ずれば「自然(じねん)」に自分で「自覚」出来るようになっているのです。不思議3

  • 不思議2

    私たち衆生は、自分が自分自身であることに間違いないのに、私が一番不思議に思うことは多くの人が自分自身の事が自分自身で信じられないということです。こんなに確かな「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意”心”)が自分にあって自分で使いつつあるほど確かな自分であるのに、これをどうして自分で信じて生活出来ないのでしょうか。活かして生きていけないのでしょうか。それですから、「本当の自分とは」と、何処かへ尋ねて行こうとするのです。如何したら「本当の自分が見つかるんだろう」と思ってとんでもない方向に進んで行こうとするのです。それはそれをはっきり指示する教え及び指導者がいないからです。不思議2

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