北近江の賤ヶ岳から望む余呉湖天正11年(1583)4月、信長と光秀亡き後、この山域で柴田勝家と羽柴秀吉が激突。賤ヶ岳の戦いと云うと「賤ヶ岳の七本槍」の活躍が有名だが、秀吉の勝因は戦う前の圧倒的な起動力にあった。大垣から木之本へ5時間で52キロを疾走するという離れ業は、柴田軍にとって予想だにしない出来事だった。秀吉は本能寺で主君信長の死を知ったとき「中国大返し」やってのけているが、大部隊の迅速な大移動は2例目になる。この戦いは勝家軍内の身勝手な作戦や与力の戦線離脱で、徐々に追い込められ、勝家は満身創痍となって居城の越前北ノ庄城へと逃げ帰った。そして城を包囲された彼は最期を覚悟したのか、少なくなった家臣団と最後の酒宴を開き、天守を大量の火薬で爆破させ自刃する。享年62歳だった。そんな北近江の賤ヶ岳と越前の北ノ庄城跡...近江・越前散歩~賤ヶ岳の戦い他(20201115)
「ブログリーダー」を活用して、なかちゃんの断腸亭日常さんをフォローしませんか?