仁兵衛と改名団平は叔父安次郎方へ養子に入っていましたが、加古川の生家はいずれも他家へ養子に行ったものや、若くして亡くなる者が続出しました。母は、嘉永二年(1849)、姉は嘉永四年に亡くなり、父も作州(岡山県)に帰ってしまいました。加古家の血統も絶えてしまうようになりました。そのため、自らは大阪に住みながら、養家を辞して加古家を立てることとし、加古家の代々が仁右衛門を襲名したことから、その一字をとって仁兵衛と改名しました。もっとも、同音であるため仁平とも書かれたこともあったようです。芸界では、もっぱら仁兵衛でした。(no4624)*写真:自宅のタカサゴ・ユリ(1/31撮影)◇きのう(1/30)の散歩(12.848歩)豊沢団平さんのこと(7)仁兵衛と改名
千賀女との再婚千賀女(ちか)は、西陣の染物業沢田安兵衛の二女で備中松山の城主板倉周防守につかえ、一人の男子をもうけたが、周囲の妬みがきびしいので、暇を乞うて京都に帰り、茶屋家業を初めていたといわれています。しかし、千賀女の素性については異説もありはっきりしません。しっかりした真の強い人であったことは間違いなさそうです。当時、大坂義太夫弾の名人といわれる団平が妻を失い子供をかかえて困っている話を知って、団平の性行を承知の上で、自分の仰くべき人はこの人の他にはいないと自ら進んで団平の後妻に押しかけています。千賀女が家に入ってからは、二児の教育は元より、家事一切を引受けて世話をしました。そのため、団平は、安心して心のままに芸道に専念することができました。千賀女には、創作の才がありました。壷坂の台本は千賀女の手になるも...豊沢団平さんのこと(6)千賀女との再婚
団平、妻・八重を亡くすそして、「ちか」と再婚若年ながら太夫の三味線弾きなったことで、女性からいろいろもてはやされました。しかし、なんとしても三味線いっさいの技能を極め、誰にもまけぬ境地に達したいと決心していたので女性のことで気をつかうようなことはあまりなかったようです。安政四年(1857)31才の時、高砂清水町に住んでいた佐藤市次郎の二女八重を娶りました。団平には、八重との間に平三郎と国吉の二人があったことに明かになっています。愛情は細やかで、常徳寺におさめられている位牌によれば、6人の子供をなしています。六人目に生れた女児の出産のために八重は31才で落命して母子ともなくなりました。八重がなくなった時、平三郎は5才、国吉は3才でした。団平は、芝居の出勤にも、弟子達の指導にも困って、その年は不明であるが贔屓の旦那...豊沢団平さんのこと(5)団平、妻・八重を亡くす
豊沢団平さんのこと(4) 18才で文楽座に出演、 そして豊沢団平を襲名
弘化元年(1844)18才で文楽座に出演そして、豊沢団平を襲名団平は、平蔵の末っ子として文政10年3月21日、寺家町の醤油屋に生まれました。幼名は、丑之助とも力松といわれました。芸界に入った初めの名が力松で、常徳寺の記録は全部、丑之助です。竹本千賀太夫の養子となりましたが、千賀太夫のすすめで三代目豊沢広助に入門して三弦を始めました。そして、天保9年12才の春に力松を名のりました。一度三弦を習い始めると、人に倍して熱心であったので上達もいちじるしく、天保11年の春に天満の芝居に出、初めて三段目を弾く身になりました。弘化元年18才で文楽座に出て、豊沢団平を襲名し、長門太夫の合三味綜であった清七の代役をつとめています。清七が、遂に病に倒れたので長門太夫の所望とあって、多くの先輩をこえて名人長門太夫の合三味線となったの...豊沢団平さんのこと(4)18才で文楽座に出演、そして豊沢団平を襲名
団平の兄弟関係団平の父平蔵は、当時の記録によると放埒で大酒を呑みでした。そして、遊興にふけって京の島原、大阪の新町あたりで名が知られた人物でした。その上に、義太夫浄瑠瑠を好み、多くの芸人を愛して、これがために家産は遂に散逸してしまったといいます。ですから、晩年尾崎村(岡山県)に帰って暮らしたのは、妻に先立たれ、我が身ひとりになったためばかりではなさそうです。団平の死亡当時の朝日新聞に書かれているのですが、団平の手記によると兄弟は二女であったと思へます。上の二人は女で、男は為次(為冶郎)と団平でした。為次郎は長男ではあったのですが、淡路の正井家に養子として行き、団平は叔父安次郎の養子となっています。嘉永四年四十八才で亡くなった二女の和佐のみが平蔵のもとにとどまっていたようです。(no4620)*今日は適当な挿絵・...豊沢団平さんのこと(3)団平の兄弟関係
団平は、寺家町で生まれる団平は家寺町に生まれました。家は代代醤油屋であったといわれています。今の寺家町330番地を含む一角です。昭和39年当時、玉岡昌二氏によると四代前の健蔵氏の代に寺家町に出て来て、初めはその家の一部を借りて住居を初めたのですが、間もなくその家を買取ったとのことです。この家の裏に近年(昭和39年)まで醤油蔵であったかと思われる建物が残っていたのですが、腐朽のため倒壊して、今それをしのぶものは残っていません。父平蔵は作州(岡山県)尾崎村の竹内氏の次男として生まれ、加古家に入り養子となって仁右衛門を襲名しました。平蔵は、晩年尾崎村に帰っています。父、平蔵が作州へ帰った理由は、次号で考えましょう。団平の養父、加古安次郎の代になって、隣なる加古川町(寺家町)へ移転しました。その家は立派な大きな家でした...豊沢団平さんのこと(2)団平は、寺家町で生まれる
*「三宅周太郎さんのこと(27)~(32)」の続きとしてお読みください。豊沢団平さんのこと(1)前回の「三宅周太郎さんのこと(32)・団平の死」で、このシリーズを終えました。そして、きのう(1/24)、次のブログの話題を計画していました。そんな作業中でした。「どこかで、豊沢団平さんのことを書いておられた方がおられた・・・・」と、ぼんやりと思い出しました。その時は、それ以上に記憶は戻ってくれませんでした。「75才のお爺さんじゃ仕方がない・・・」とあきらめていたのですが、昼すぎでした。突然、「ア!」「もしやして、永江幾久二さん(故人)の著書ではなかったか・・・」とひらめいたのです。というのは、永江さんは、生前、三宅周太郎さんと親交のあった方で、長らく加古川郷土文化協会を主宰されていた方でした。さっそく、永江さんの本...豊沢団平さんのこと(1)三宅周太郎さんのことの続きです
カバンや小物お土産に人気 :復刻版「松右衛門帆」の工場直売所
今日(1/24)の神戸新聞東播版に「復刻版松右衛門帆、の工場直売場」の記事が掲載されています。工楽松右衛門の資料として掲載させていただきました。カバンや小物お土産に人気復刻版「松右衛門帆」の工場直売所江戸時代の古民家「工楽松右衛門旧宅」(兵庫県高砂市高砂町今津町)の一般公開を機に、松右衛門の帆布生地を再現したブランド「松右衛門帆」のかばんや小物の人気が高まっている。製造・販売会社「御影屋」は旧宅近くにあり、観光客の土産物として選ばれているという。「歴史のロマンを手元で感じて」とPRしている。(本田純一)松右衛門は発明家としても名を残し、北前船に使う丈夫な帆布を作り日本の海運発展に寄与した。太い糸を2本合わせて生地を織り、大きな織り目が柄にもなって立体感が出るのが特長という。「松右衛門帆」のかばんには、織り目を生...カバンや小物お土産に人気:復刻版「松右衛門帆」の工場直売所
団平の死明治31年4月1日。場所は大阪の稲荷座。その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、聞き入る人々を魅了していました。九分どおり済んだと思われた時である、団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。71歳でした。三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としていました。粟津の常徳寺が加古家の菩提寺であり、団平はこの境内に眠っています。友達の理髪店に行きました。理髪店の裏が常徳寺です。(no4616)*写真:常徳寺の団平...三宅周太郎さんのこと(32)団平の死
団平さんのこと:余話二題この辺で「三宅周太郎さんのこと」を追えますが、最後に余話を二つばかり付け加えておきます。その1:「豊沢団平生誕之地」の碑は残っていたたしかに団平さんの碑があったことを覚えています。場所も覚えています。だれかが、「むかし団平さんという人いて、その人はここで生まれたんや・・・」と教えてくれたからです。いつ・だれに聞いたかすっかり忘れました。その碑は小さな碑でした。文楽の研究家の「三宅周太郎さんのこと」を連載しながら、気になっていました。21日(月)の午後、その場所に出かけることにしました。場所は、加古川中央公民館の玄関から寺家町商店街への道があますが、商店街の道の10㍍ぐらい手前の左(西側)です。「もう50年以上前に見た小さな石碑ですから、もうないだろう・・・」とダメ元で出かけたのです。が、...三宅周太郎さんのこと(31)豊沢団平さんのこと:余話二題
今日の神戸新聞東播版に「工楽松右衛門旧宅」の記事が掲載されています。工楽松右衛門の資料として掲載させていただきました。入館好調、観光拠点に工楽松右衛門旧宅昨年6月から一般公開されている兵庫県高砂市の工楽松右衛門旧宅が人気を集めている。入館者数は当初見込みの約4倍で、すでに3万人を突破。市外から訪れる客が多く、高砂観光の拠点になりつつあるという。関係者は「旧宅を核に、町をPRしたい」と意気込む。(本田純一)旧宅は江戸時代後期に建てられ、町の中心地だった南堀川の船着き場に面している。吹き抜けの土間や五つのかまどなどが残る。また外壁に古い舟板を再利用した「舟板塀」が見られるなど、海運で栄えた往時の高砂をしのばせる。昨年、旧宅や高砂神社常夜灯など4件が日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に追加認定され、古民家が多く残る旧...入館好調、観光拠点に工楽松右衛門旧宅
三宅周太郎さんのこと(30) 豊沢団平(3)・団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人
豊沢団平(3)団平は、文楽義太夫節三味線。日本一の名人周太郎の「団平」調査は続きました。団平を預けられた千賀太夫は、幼少の力松を旅芸人の三味線弾きにする程度の考えで、当時の三味線の名人三代目豊沢広助の門に入れました。つまり、親は資産をなくし、なまじ浄瑠璃の為に一生を犠牲にした結果、子を三味線弾きにしたものの、その至難さを身に汲みて知る故にせめて「旅稼ぎ」でも出来ればと思う程度でした。この消極的に、三代目広助の門へ入れられた力松が、親が全く期待もしないのに、後年の名人団平に成長したのです。しかも、広助の眼は高いものがありました。幼少の力松をただ者でないと見て取り、「旅稼ぎ」などは、もっての外とばかりに、直ちに力松を本場の文楽へ入れて修業せしめたのです。力松12・13の頃と思われます。18才にして才能を現し、早くも...三宅周太郎さんのこと(30)豊沢団平(3)・団平は、文楽義太夫節三味線、日本一の名人
豊沢団平(2)団平のルーツ*以下、周太郎の文章は、文体を変えています。周太郎は、あるところで次のように語っています。「・・・浪花女(なにわおんな)の団平は、近世では、芸を命とした第一人者であったことは論を待ちません。それは、人形浄瑠璃の方では既定の事実です。しかし、これを知っている人は、インテリと文楽ファンのみといえる程少数でしょう。その現在に、何十万何百万の一般人に見せる映画として、近世における「芸を命」の代表者・豊沢団平をあいまいながらも映画として紹介したことは、我々人形浄瑠璃に関心を持つ者には大きな嬉です。・・・・(また、ルーツについては)「団平の本名は加古仁兵衛、文政11年(1828)3月団平の先祖は武士でした。それが、後に織田の配下の秀吉の中国征代に蚕食せられ、三木城の別所小三郎の部下として寵城するこ...三宅周太郎さんのこと(29)豊沢団平(2)・団平のルーツ
三宅周太郎さんのこと(28) 豊沢団平(1)・映画「浪花女」
今回の主人公、豊沢団平・三宅周太郎はともに加古川寺家町生まれであることを念頭にお読みください。豊沢団平(1)映画「浪花女」昭和15年9月10日の午後でした。その日、朝遅くから伊豆半島を横切った豆台風は、東京の街にも豪雨を伴って走り去ろうとしていました。(三宅)周太郎は市電を乗りすて、パラソルの柄を両手でしっかり握りしめて、市の中心部のある文化ホールへ急いでいました。そこでは、松竹映画「浪花女」の封切上映に先立って製作関係者、芸能雑誌記者、映画・劇評家等数十名を招待した試写会が催される事になっていたからです。周太郎はこの「浪花女」に、期待と幻滅とを相半ばした予想を立てて会場へ着きました。試写が始まりました。これは映画界の中でも芸術性を追求して「凝り屋」との異名のある溝口健二の監督によるもので、主演は当時売出しの阪...三宅周太郎さんのこと(28)豊沢団平(1)・映画「浪花女」
文楽の復活三宅周太郎の功績は、演劇評論家として、歌舞伎の興隆、文楽の再興に貢献したことでした。中でも、この文楽の研究こそ、前人未踏に近い処女地で、三宅周太郎は最初の人でした。「中央公論」に発表された「文楽物語」は関係方面に静かなるブームを呼びました。間もなく「時事新報」の学芸欄で、作家の広津和郎がこれを激賞する文を書います。続いて文芸評論家の正宗白鳥が、そして文芸評論家の谷川徴三・佐藤春夫も高く評価しました。周太郎は、将来への目標も希望も見失って、混迷の道にさ迷い、絶望と苦悩の中から脱出すべく、全力を尽して賭けた仕事が多くの人達から温い厚意をもって評価されたことは、今後の仕事の自信を深めることができたのでした。「中央公論社」は、続連載を懇請してきました。周太郎は、引き続きその研究を深め、文楽ものを書き続けました...三宅周太郎さんのこと(27)文楽の復活
文楽を滅ぼすな「文楽」とは、歌舞伎の姉妹芸術といわれた人形浄瑠璃の事です。何時か時間的な余裕が出来たら、これをさらに深めてみたいと考えていた矢先の事でした。それは全く偶然で、「演劇新潮」最終号の校正の為、校正をしているときでした。その隣室には顔見知りの中央公論社の編集長である島中雄作が、部下とともに、来ていました。周太郎は島中が義太夫に趣味がある事は、かねがね聞いていたので、廊下でばったり顔を合わせた時、いつもなら気おくれする周太郎でしたが、いきなり島中に「・・・実は大阪の文楽ものを少しほり下げて書きたいと考えているのですが、お宅の雑誌は如何でしょうか・・・」といってしまった。これは実に失職を目前にして、背水の陣ともいえる周太郎の積極的な、自らの原稿売込みの挨拶でした。すると島中は直ちに、興味と好意の表情をみせ...三宅周太郎さんのこと(26)文楽を滅ぼすな
文芸春秋社を退社第二次「演劇新潮」は、努力の甲斐もなく挫折してしまいました。その頃の(菊池)寛は、東京朝日と大阪朝日の朝刊に初めて「第二の接吻」を連載し、大正15年1月からは、講談社の新刊娯楽雑誌「キング」に長編小説「赤い白鳥」を書き出し、流行作家として人気の頂点でした。また、文土の社会的、経済的地位の向上をめざして、文芸家協会を設立し、初代の会長におさまり、自らも最高価の原稿料を各社に要求したといわれ、文春社の社長も兼ねて莫大な収入がありました。そして、取巻きに近いような若い作家達の面倒をよく見て、気前よく金を散じる豪著な生活に明け暮れていました。社長がこのような生活態度であったから、社と深い関係にある川端康成、横光利一、佐々木茂策、斉藤龍太郎、西村晋一といった新進作家連も派手な遊びで、これらの人達と談笑する...三宅周太郎さんのこと(25)文楽の研究に光を見つける
周太郎「文芸春秋社」に移る大正13年7月下旬のある日、「東日」へ転勤になって東京の土を踏んだ周太郎にとっては、10ケ月ぶりでした。急ピッチの復興ぶりには、周太郎は思わず眼をみはりました。「東京日日」の学芸部に周太郎は配属される事になりました。「東京朝日」ではこの学芸欄には意欲的でしたが、周太郎は文壇の受持ちに配属されました。文壇は、原稿料を払わずに四段を埋めるのだから、周太郎は文壇の旧知の人達、例えば芥川、山本有三、久米とか三田の小島政二郎らを訪間して、記事にするというやり方は、初めは周太郎の顔を立てて何とか適当にしゃべってくれましたが、二度三度となると顔をしかめるようになりました。菊池寛は、そんな周太郎を少なからず心配をしていました。その頃、名優の一人である市川猿之助が、菊池寛の出世作の一つである「父帰る」を...三宅周太郎さんのこと(24)周太郎「文芸春秋社」に移る
人気絶頂の雁治郎を批判する大正十二年の関東大震災は、まさに未曽有な世紀の大事件でした。三宅周太郎は、東京を脱出しまいた。大阪は、東京の大災害などは何の影響もなく、最も般賑を極めていました。その頃の姉は、南区掘江の格調高い通りに面した門構えの立派な二階建家に、中年の女中と二人でひっそり暮していました。姉は、東京から身一つで頼ってきた周太郎を、何時もと変らぬ母親のような愛情をもって温く迎えてくれました。先年、夫仙之助とは死別したとはいえ、生前大阪の実業界の一角で活躍していた夫の莫大な遺産は、加古川町近郷の素封家三宅本家もその足元にも及ばなかったといいます。さらに掘江通りは道頓堀・千日前とは最至近距離です。その道頓堀は、東京の大劇場が全焼した事もあって、東京の名優達が大挙して関西へ移動し、大阪の演劇界は時ならぬ活況を...三宅周太郎さんのこと(23)人気絶頂の雁治郎を批判する
より厳しい評論家に大正11年6月上旬三宅周太郎著「演劇往来」の出版祝賀会が催されました。出席者は、山本有三、久米正雄、俄然文壇の中枢に新鋭作家として頭角を現した芥川龍之介、高名な有島武郎、生島兄弟の実弟である劇作家の里見弾という顔ぶれでした。周太郎は、自分の為にその将来に向って励ましの為に、心おきない師、先輩、友人達が参集しての祝賀会を、心から感激し感謝せずにはいられなかった。やがて料理が運ばれ、グラスにウイスキーがそそがれ、テーブルスピーチが始まりました。里見惇が立ち上がりました。「三宅君おめでとう。君の処女出版『演劇往来』の評判は悪くない。しかし僕は今夜君に苦言を呈した。・・・いうなれば君は若いのに珍しい劇界に精通した玄人だ。しかし、芝居の実務家で君は終る人であってはならない。僕は今夜ここで君に要請する。今...三宅周太郎さんのこと(22)より厳しい評論家に
「時事新報」をクビになり、市内各劇場での観劇の自由と劇評の筆を絶たれ、さらによき理解者であり経済的にもいろいろ援助を受け、親代りとも頼っていた姉ムコ、橋本仙之助の葬儀を終えて下宿へ帰ってきました。周太郎は、将来への希望も夢も一切絶ち消え、東京の街で、失意と孤独に日々を過しました。しかし、ビックリするような事が起こりました。中村吉右衛門との絆中村吉右衛門と三宅周太郎とは共に近代まれな至芸の道を歩んでいました。周太郎は、吉右衛門の心の奥を心憎いばかりに見透したような評論かきました。吉右衛門は周太郎の舞台を見つめるひたむきな審美眼と、鋭い洞察力を見抜いて、ひそかに周太郎を畏敬していたようです。松竹顧問であった遠藤弥一が主宰で、一座の局外から吉右衛門の舞台演技全般について、相談に応じる顧間機関というべき「皐月会」の結成...三宅周太郎さんのこと(21)中村吉右衛門との絆
三宅周太郎さんのこと(20) 余話、三宅周太郎の遺稿、姫路文学館に
2018年7月11日の神戸新聞に「演劇評論家・三宅周太郎の遺稿、加古川の男性寄贈、姫路文学館に」のタイトルで大きく報じられました。今日の「ひろかずのブログ」は余話として神戸新聞の記事を転載させていただきました。余話として三宅周太郎の遺稿、姫路文学館に歌舞伎や文楽を鋭い視点で批評した兵庫県加古川市出身の演劇評論家、三宅周太郎(1892-1967年)の遺稿を、所有者の黒田泰雄さん(83)=加古川市:写真上=が近く、姫路文学館(姫路市山野井町)に寄贈する。直筆原稿11点や、故郷への思いを記した色紙など4点。「播磨が生んだ文化人の足跡を、後世に伝えたい」と話している。(本田純一)三宅は加古川町寺家町に生まれた。子どもの頃から古典演劇に親しみ、慶応大在学中から批評を発表。その後、新聞や雑誌などで執筆を続けた。1958年に...三宅周太郎さんのこと(20)余話、三宅周太郎の遺稿、姫路文学館に
周太郎『時事新報』を追われる『時事(新報)』における千葉亀雄とその系統の柴田文芸主任の存在が、自分にとって如何に大きな生殺与奪の鍵を握っていたかを思い知らされました。周太郎への批判の大波をくい止めてくれていたのです。「帝劇」の経営陣の重役クラスと、俳優の某が周太郎の劇評を迷惑として、時事の幹部や社主に働きかけて「くび」にしたいきさつが、おぼろげながらに読めてきました。時事新報社を追われる慶応義塾は幕末から明治にかけて、啓蒙的洋学者とも高く評価される福沢論吉が、将来の日本を背負う人材の養成を目的とした私学校であり、『時事新報』も世論を啓発するために諭吉が創刊したものでした。当然福沢家の資力によって運営された会社であったし、政界財界の主脳を設立準備委員に網羅して、福沢家がその筆頭株主として君臨していました。慶応で永...三宅周太郎さんのこと(19)周太郎『時事新報』を追われる
帝国劇場と対立大正時代はこの国で演劇が最も隆盛をきわめた時代でした。東京・大阪・京都の街はもとより、田舎町に至るまで、続々と劇場が新設され連日輿行が盛況をきわめた時代でした。加古川流域の播州路にも、町から村へ、村から村へと旅廻りの劇団が、大小の舞台道具を荷馬車に積んでかたことと移動したが、農閑期の田んぼの中で、ビユールハゥスのような型をした粗末な仮設劇場での、無名の旅役者の熱演に、これまたささやかなその日の作業を終えた村々の老若男女が押し寄せ、力一杯の声援を送りました。文壇でも新進作家達は小説より戯曲を続々と書き、新しい演劇運動に何らかの関りを持つようになりました。小山内薫、武者小路実篤、久保田万太郎、谷時潤一郎、久米正雄、菊池寛、山本有三らがその代表的な人達でした。周太郎もまた大正七年、八年と東京市内の劇場を...三宅周太郎さんのこと(18)帝国劇場と対立
「ひろかずのブログ」今日、4600号妥協しない演劇批評家周太郎の時事の劇評はその年の五月の歌舞伎座から始まりました。充分な紙面が与えられたため、周太郎には張りのある仕事でした。劇場側とも前もって連絡をとり、幹事の組んだスケジュールによって行動をするようになりました。芝居を観るのは大抵午后八時頃までにして、早々と劇場を切り上げては、帰りはまだ早いといって全員揃って二次会へ直行するのが常習になりました。もう少し正確に書くと、あらかじめ興行主か劇場が用意した花街の料亭へ行き、子定の懇親会がやがて検番のキレイドコロのサービスによってバカ騒ぎになってオヒラキになったのでした。その結果は情が移って、劇評のペン先に手加げんが加えられるか、鈍くなるのは当然です。劇場側としても人気商売のこととて、劇評家の先生方を抱き込んで骨抜き...三宅周太郎さんのこと(17)妥協しない演劇批評家
時事新報で演劇批評を担当大正7年3月、三宅周太郎は慶応大学文科を卒業しました。プロの物書きとして東京で生きようとする自負と責任を深く感じ、生真面目で純粋な性格だけに、一つの目標やテーマを定めるとそれについては綿密な下調べと研究を重ねた揚句でなければ、書き始めることは出来ませんでした。それは楽しいものであり、そうしていると、舞台での芝居の筋書きや俳優の所作の流れの良し悪しがくっきりと眼に映るのでした。周太郎は卒業と同時に、当時帝都の一流紙であった「時事新報」から声がかかりました。先に、「時事はお前に内定したらしいよ。それも小山内(薫)先生が都合あって時事をやめられるので、その後釜にお前を推挙されたのだ・・・」とある筋から聞いていました。周太郎の一連の劇評を高く評価した時事の社会部長が、直接下宿を訪れての依頼でした...三宅周太郎さんのこと(16)時事新報で演劇批評を担当
周太郎の快調な船出周太郎の処女作とでもいうべき「三田文学」五月号掲載の評論は好評というよりも劇界の内外に大きな波紋をおこしました。この時代の長い間、情実としか思えぬ御用劇評家が多かったのです。この時代は、世相は享楽第一のデカタンだったせいか、新聞劇評家の大部分の人達の不勉強怠慢は、眼に余るものがありました。周太郎には不満でした。一種の御用評論家で、チョゥチン記事で白を黒、黒を白とでも平気でいえる位の論評しか書けない程堕落し切っていました。これらに反駁して、皮をむいたように誰にはばかることなく三十数枚のマスを埋めたのだから、退廃的な劇評界に大きな一石を投じたのは当然でした。「これを発表した後、世間に出て、世の中がいくらか分り劇評家たちと知り合いになると、私はいつも潜越なことをしたと心苦しかった」と回想しています。...三宅周太郎さんのこと(15)周太郎の快調な船出
「三田文学」に評論を発表大正4年の半ばを過ぎた頃でした。その頃周太郎の身辺は俄かにあわただしくなってきました。それは慶応塾の文科(現文学部)の三年生という最高学年になったため、その機関紙「三田文学」の再建という重責が身にかかってきたためでした。その頃、東京帝大の「帝国文学」、早稲田の「早稲田文学」が盛んに活動をしていました。慶応の「三田文学」は、慶応出身の文士達の文筆活動の基盤でしたが、それまでに相当の期間休刊になっていたのを、建て直しが関係者らによって企画されました。周太郎をはじめ、三年生の面々は、どうしても何か書かねばならない立場になりました。この頃の「三田文学」には水上瀧太郎がいました。瀧太郎は、明治20年の生れだから周太郎より5つ年上で、この人は、日曜作家の第一号ともいわれる程の特異な存在でした。瀧太郎...三宅周太郎さんのこと(14)「三田文学」に評論を発表
〇12月28日のブログ「三宅周太郎のこと」の続きです。演劇の批評の仕事をしたい周太郎は6才で母に、13で父に死別したとはいえ、経済的には充分に恵まれた境遇であったとみるべきでしょう。周太郎は、学校の勉強もそこそこに、毎日のように出かける芝居見物のみが、唯一の張りのある生甲斐ともなっていました。「周太郎には、大阪の姉なる同情者があった・・・」とあるように春・夏・冬の各期末の休みになると、大阪に嫁している姉「まさ」の橋本家へすっとぶようにして行き、我が家へ帰ったような気易さで休み期間いっぱい逗留して、毎日のように芝居見物をしました。この観劇はやがて周太郎が劇評家として世に立っていく上に、はかり知れない程の効果をもたらしました。その頃の大阪は、この国の資本主義経済が定着し、やがて燗熟期に入って行く前夜に近いような活気...三宅周太郎さんのこと(13)演劇の批評の仕事をしたい
明けましておめでとうございます本年もよろしくお願い申し上げます2019・1・1いかがお過ごしでしょうか。素晴らしい新年をお迎えむかえのことと拝察いたします。今年もブログをよろしくお願いします。今年は、3月ごろに『好きゃねんかこがわ・(各町々の歴史探訪)』(仮題)の上・下二冊を同時出版する予定です。いま、原稿ができあがり、校正中です。お爺ちゃん、がんばっていますよ・・・・(no4595)明けましておめでとうございます
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