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  • 12月の散歩 今年もよく頑張りました

    12月の散歩1日(土)10.622歩別府公民館界隈・自宅周辺2日(日)10.887〃自宅~長田公園・石の宝殿界隈3日(月)10.250〃新幹線下遊歩道・西神吉辻~峠へ4日(火)10.647〃日岡山周辺・自宅~長田公園5日(水)11.284〃自宅周辺・ナフコ周辺6日(木)10.313〃京都嵯峨野を歩く・自宅周辺7日(金)11.566〃自宅~加古川駅・自宅周辺8日(土)11.213〃別府公民館界隈・自宅周辺9日(日)12.619〃自宅~福田寺・自宅~喫茶「白馬」10日(月)11.785〃自宅~長田公園・自宅~喫茶「ピッケル」11日(火)11.231〃自宅~大崎・自宅~加古川東岸(新幹線下)12日(水)12.569〃自宅~福田寺・自宅市役所13日(木)11.014〃自宅~ジョ-シン電気・自宅周辺14日(金)11.76...12月の散歩今年もよく頑張りました

  • 三宅周太郎さんのこと(12) 芝居は周太郎の人生にとって宗教のようなもの

    芝居は周太郎の人生にとって宗教のようなもの周太郎が再度学校へ帰った頃の慶応文科では「三田文学」の編集主幹であった永井荷風を中心とした、享楽主義の文学が勃興していました。さらに当時の日本文壇全体にも、煩廃的な風潮が押し寄せていて、一種の遊蕩文学の流行のきざしがありました。それは、日本が経済成長のおくれを取り返すために、国の施策としての資本主義が軌道にのり、設備投資によって生産活動が活発になっていったのを反映していたのでしょう。また、国の命運を賭しての日露戦争が終結してから丸10年、人々は無事平穏な生活を心ひそかに誼歌し、つかの間の自由と憩いと悦楽を求めた大正デモクラシーの幕明けとでもいうものでした。その一方では、革命前の帝政ロシヤの暗い社会の断面を描いたロシヤ文学からの虚無的な思潮の流れが、当時多くの学生や若い層...三宅周太郎さんのこと(12)芝居は周太郎の人生にとって宗教のようなもの

  • 三宅周太郎さんのこと(11) 加古川へ帰って来たものの

    加古川へ帰って来たものの大正の初期、賑いの町の中心部のひときわ大きい広大な「三宅家本家」の二階の一室で、周太郎は閉じこもったようにひたすらに病後の療養に専念しました。体力を消耗し切った熱病の後だけに、帰郷と同時に再び寝込んでしまっていました。帰省以来、失意と苦汁に満ちた日々でした。周太郎は京都時代から芝居を芝居としながらも、学業の方は決しておろそかにしたことはありませんでした。殊に語学の勉強は同志社では「英語の天才」といわれるほど、殆んど満点を五年間連続で確保し、級中でも絶対に人に劣ったことがなかったし、英文の原書や英字新聞は楽に読める位になっていました。モーパッサンあたりの英訳の短編小説もよく読破していました。ところが、この病気の果ての休学によって英語を捨てたことは、周太郎にとっては実に致命傷というべき打撃で...三宅周太郎さんのこと(11)加古川へ帰って来たものの

  • 三宅周太郎さんのこと(10) 帰 郷

    帰郷周太郎のチブスは、入院後も高熱はずっと続きました。それでも朝、熱も下ったと時に考えることは、芝居のことばかりでした。午後になると、きまったように高熱が襲ってきました。その頃のチブスの死亡率はかなり高いとされており、できることは絶食に近い水のようなサラサラの重湯を朝夕二回食べるだけで、じっと熱の下るのを待つという療法でした。周太郎の病院生活は、すっかり長びいてしまいました。その時に、明治天皇の崩御となり、一切の公演は中止となってしまいました。。加古川の家からは姉「しやう」の代理として店の番頭格の人が見舞に来たが、伝染病ということで「三宅本家」から託されたものを置くと、そそくさと帰っていきました。姉の「しやう」はすでに二男二女の母であり、酒造業一切をきり廻している多忙な主婦でした。大阪の「まさ」も前後して病院へ...三宅周太郎さんのこと(10) 帰郷

  • 三宅周太郎さんのこと(9) 周太郎「チブス」に罹る

    周太郎「チブス」に罹る明治45年四月から東京の学生生活に入った周太郎は、学校の授業もそこそこに毎日よろこび勇んで芝居見物に明け暮れました。東京木挽町の歌舞伎座を皮切りに、明治座、市村座、新富座、本郷座、帝劇、神田の東京座、浅草の宮戸座、蓬莱座、本所深川の寿座、深川座、等々市内の一流、二流、三流までの芝居と名のつく小屋は片っぱしから観て廻りました。これだけの数多くの芝居小屋の木戸銭を払うとなると、いくら加古川近在の素封家「三宅本家」のぼんぼんでも、姉からの送金は毎月40円と定められていて、これに演劇研究手当というものがプラスされていないので、周太郎はたちまち生活に窮しました。さすがは首都東京での数多くの毎月各座の観劇には、大阪、京都では二、三等席で観ていた周太郎も、上京以来最低料金の最下等席で観劇することを余儀な...三宅周太郎さんのこと(9)周太郎「チブス」に罹る

  • 三宅周太郎のこと(8) 同志社中学の教育

    同志社中学(現在の高校)の教育周太郎は、この頃「藤村」の小説に傾倒していました。この頃とは明治43年当時指しているのでしょう。(周太郎:明治44年3月、同志社を卒業。同年4月慶應義塾大学文科予科に入学)同志社中学を卒業し、京都の町から「さよなら」する日がきました。周太郎は、次のように記しています。「このわがままな自分の勉強法が、同志社の自由主義に容れられて、幾何や三角法が何物か、光りや熱や物理が何物かをほとんど知らずにきた私に、同志社が卒業証書をくれたのは有難かった。これが公立中学だと私は落第に出合ったし、一方文学書を読む時間さえなかったであろう。それに、同志社は私をして20才前後、既に自由な好きな道を歩かせてくれた点はいい学校だったと思う。私が文芸や芝居の見学を大抵の人よりも多く実践しているのは、青年時代に、...三宅周太郎のこと(8)同志社中学の教育

  • 加古川の味、かつめし(48) 私のカツメシは好評

    私のカツメシは好評ちょうど1か月前です。私がカツメシを作りました。美味しかたですね。水曜日、孫は水泳教室にいっています。夜は時々外食をするのですが、今週の水曜日、水泳教室に行く前に「夜はカツメシを食べたい」と、11月22日の私の作ったカツメシを急に思い出したみたいです。味が付いたカツを買ってきて、デミグラスソースをかけただけですので、簡単です。料理の腕なんて関係はありません。でも、カツメシは、けっこう好評でした。こんな時のために、「かつめしのたれ」(写真右)はストックをしています。写真のたれは結構いい味ですよ。ぜひお宅でもお試しください。一袋で4人前は可能ですそれに、水泳教室で「背泳ぎ」がうまくできて、気分がよかったのか、「もっと食べたい」と言ってくれたんです。「今度は、ハヤシライスをつくって」と頼まれました。...加古川の味、かつめし(48)私のカツメシは好評

  • 三宅周太郎のこと(7) 歌舞伎界、新陳代謝の時代

    歌舞伎界、新陳代謝の時代同志社は、中学校として何かと厳格過ぎる嫌いはあったが、その半面、自由主義をとって、各自生徒の才分を伸ばすことに目標をおいて、公立中学校(今の高校)のように画一教育を避けていました。京都は、伝統を大切にして芝居キチの多い街でした。それは、周太郎をプロとして演劇の社会へ導いていった必然的な要素でもありました。しかし、その歌舞伎も新しい時代を迎えようとしていました。◇五代目菊五郎の死(明治三十六年三月十八日。享年六十才)◇九代目団十郎の死(明治三十六年九月十三日。享年六十六才)◇初代左団次の死(明治三十七年八月七日。享年六十三才)歌舞伎界は、伎界の三名優の相ついだ死によって、日本演劇界全体が新しい転換期に入ろうとしていました。つまり、俳優の新陳代謝によって歌舞伎の舞台にも新しい時代の幕明けが始...三宅周太郎のこと(7)歌舞伎界、新陳代謝の時代

  • 三宅周太郎さんのこと(6) 京都にて

    京都にて京都の街から始まる勉学へのコースは、一口にいって、つつましいものでした。当時、中学生の標準学資は月10円(現在に換算すると7、8万円)で、加古川の家からは、姉「しやう」が毎月きっちり定められた日に送金してくれました。周太郎は、それで、寄宿費と学資を払い、その範囲内でつつましく勉学に励みました。加古川の生家での父の在りし日のきびしいしつけが、いつの間にか習性となって身についていたようです。周太郎の京都での三年間はまたたく間に過ぎました。その間に友達と春秋の叡山に登り、清水に詣うで、嵯峨野を歩き、嵐山に遊び、酷暑の時は御所の緑の木かげで昼寝をむさぼりました。京都の地理に詳しくなったのと正比例して、好きな芝居への執念がますます頭をもたげてきたのです。京都の南座、大阪道頓堀の中座をはじめ浪速座・弁天座・角座・歌...三宅周太郎さんのこと(6)京都にて

  • 三宅周太郎さんのこと(5) 尾上松之助との出会い

    尾上松之助との出会い利平は、義弟の周太郎に対しては、無干渉主義でした。そして、周太郎自身も、三宅家において自分の楽しみを持つようになっていました。あるところで「・・・幼にして両親や家庭のなかった私は、芝居は子守唄であり、温い家庭同然でした・・・」と書いています。加古川近郷きっての資産家・三宅家の一人息子に生れながら、乳母もつけられずに母とは6才で死別、そして今度は父を失い、異母次姉の「しやう」が親代りとはいえ、血肉を与えた我が子を眺める母の代役はできませんでした。「この家は私の居る家ではない・・・」少年周太郎の心のうちに、そんな意識が芽生えていきました。周太郎はいよいよ誰はばかることなく、芝居小屋へ日参しました。そこで、「目玉の松チャン」こと尾上松之助との出会いがありました。「半世紀」に、・・・当時、私の生家の...三宅周太郎さんのこと(5)尾上松之助との出会い

  • 三宅周太郎さんののこと(4) 寿座と周太郎

    寿座と周太郎前号の「周太郎の将来を決定づけるある事件」とは、加古川の街に「芝居小屋・寿座」ができたことです。明治19年頃に山陽鉄道株式会社(JR山陽線の前身)が計画され、明治20年12月23日、現在の加古川駅が開業しました。そして、寿座が現在の駅前(現:ヤマトヤしキ)に建設されました。この寿座のことは周太郎の『半世紀』には次のように記しています。「・・・私が母に別れた6才の頃から、土地の繁栄策として、株主として町へ私の家が主になって芝居小屋を建てました。・・・私の父は堅い一方の人で、そんなことは大嫌いでしたが、やむなく出資して建てさせられました。加古川は藩政時代からの宿場町の名残りをとどめたこの町で、顔役や遊び人が相当住んでいたのでしょう。それらの人達の願望によって町の有力者が動いたとも推測出来ます。利平は困惑...三宅周太郎さんののこと(4)寿座と周太郎

  • 三宅周太郎さんのこと(3) 周太郎、6才で母を亡くす

    三宅家は、寺家町の資産家に・・・時代は明治に移ります。農民の税金は下がりません。苦しい生活が続きました。その上に、開国により安い綿が輸入されるようになり、ほとんどの農民の生活はガタガタになりました。土地の売買が自由になりました。加古川近郷においても田畑の売買が、盛んに行われました。この時期に三宅利平は、田畑の買いの手に廻ったにちがいありません。祖父・利兵衛の代から酒造業としてこつこつ蓄えた財力がそれを可能にしたのでしょう。三宅家所有の田地毎年増加は急増しました。寺家町周辺の宅地には、酒倉が次々と新築されていきました。明治20年頃には新興の資産家として三宅家は加古川近在に不動の地位を築きあげたのでした。周太郎、6才の時母を亡くす多くの使用人を置いた資産家に生れた周太郎は、お坊ちゃんとして育てられだと想像されますが...三宅周太郎さんのこと(3)周太郎、6才で母を亡くす

  • 三宅周太郎さんのこと(2) 激動の時代に生きた祖父・利兵衛、父・利平

    激動の時代に生きた祖父・利兵衛、父・利平周太郎は、明治25年寺家町の資産家三宅利平の末子として生れました。三宅家は酒造業を営んでおり、周太郎が生れた前後20間が、町の資産家としては全盛期のようでした。その所有田地は、溝ノロ・河原・中津・大野・野口村の坂元と印南郡古新村まで及び、20余町歩に達したといいます。これらの田地からあがってくる年貢米は、三つの酒倉に運び込まれては銘酒となって樽詰めにして売り出されました。このような資産家は、決して短期間にこつぜんと出現するものではありません。三宅家は寺家町の古い素封家か旧家かと思われがちですが、以外にも利平の父利兵衛の代に加西郡から転入しています。利兵衛が亡くなったのは慶応3年10月29年日、行年69才ですから、加古川ア転入は、それよりも30余年以前の年号では天保初年頃と...三宅周太郎さんのこと(2)激動の時代に生きた祖父・利兵衛、父・利平

  • 三宅周太郎さんのこと(1) 「三宅周太郎さんのこと」をはじめます

    何の説明もなく「宮崎奕保さんのこと」に続き、「三宅周太郎さんのこと」をはじめます。この「三宅周太朗さんのこと」は、森井信夫氏の著書『三宅周太郎』をお断わりもせずに、また文章を大きく変えて書いていることをお断りします。それでは「三宅周太郎さんのこと」をはじめましょう。三宅周太郎さんのこと昭和39年3月、加古川市の定例市議会では、4月1日加古川名誉市民条例を満場一致で可決しました。その要旨は、「加古川市にゆかりの深い者で、公共の福祉・文化の向上に功績があり、市民の尊敬を受けた人に対して条例を定めて、議会の同意を得て名誉市民の称号をおくる」としました。そして、市長の諮問機関として加古川市名誉市民選考委員会委員11名を選任し、同年11月3日の文化の日に加古川市名誉市民第一号として、市内加古川町寺家町出身で京都市在住の演...三宅周太郎さんのこと(1)「三宅周太郎さんのこと」をはじめます

  • 宮崎奕保さんのこと(23) 奕保氏からのメッセージ

    奕保氏からのメッセージ作家・立松和平氏は宮崎奕保氏に自然について質問されています。《立松和平》こうやって鳥が鳴いていて、永平寺はいつも自然に包まれていて一般的にもいいところだと思うんですが、禅師様は大自然のことをどのようにお考えでしょうか」《奕保禅師》自然は立派やねわたしは日記をつけておるけれども何月何日に花が咲いた何月何日に虫が鳴いたほとんど違わない規則正しいそういうのが法だ法にかなったのが大自然だ法にかなっておるだから、自然の法則をまねて人間が暮らす人間の欲望に従っては迷いの世界だ真理を黙って実行するというのが大自然だ誰に褒められるということも思わんし、これだけのことをしたらこれだけの報酬がもらえるということもない時が来たならばちゃんと花が咲き、そして黙って、褒められても褒められんでもすべきことをして黙って...宮崎奕保さんのこと(23)奕保氏からのメッセージ

  • 宮崎奕保さんのこと(22) さようなら、ありがとう

    さようなら、ありがとう只管打坐によって宗門を導いていくと宣言した宮崎禅師は、それを実際に行動によって示しました。未明の僧堂には、誰よりも早く坐禅を行う老住職の姿がいつもありました。永平寺の住職(貫主)になった当初、自分にどれだけその大役を務めることができるか、分かりませんでした。「せいぜいもって、一年か二年だろう」かつて大病を患ったこともあり、不安を抱えながら、永平寺の住職としての務めでした。しかし、宮崎禅師は、90歳を過ぎた老体にもかかわらず、しばしば地方の寺に出かけました。宮崎禅師のスケジュールの管理をしていた老師は、「まるで、若いビジネスマンのスケジュールようであった」と。この頃、宮崎禅師のもとで侍局長されていたのは北野泰成(たいじょう)氏でした。余話になりますが、北野氏は後に、私の卒業した高校の同窓会長...宮崎奕保さんのこと(22)さようなら、ありがとう

  • 宮崎奕保さんのこと(21) 奕保氏、永平寺の住職(曹洞宗貫主)に

    再び永平寺へ札幌にある大寺院、中央寺の住職になって5年の歳月が流れました。この間奕保禅師は雲水の育成に全力を注ぎました。昭和56年の夏、宮崎禅師(せんじ)の人生にまた大きな転機が訪れました。永平寺で監院(かんいん)を務めていた禅師が亡くなり、宮崎禅師は、その後任を引き受けてほしいと頼まれたのです。監院というのは、禅寺において会計や人事、あるいは地方の寺院との連絡や外部との交渉、さらには広報的な事柄にいたるまで、寺の維持運営に関わるすべての責任を負う役柄です。奕保氏、永平寺の住職(曹洞宗貫主)に続いて、宮崎禅師は副住職に推挙されました。宮崎禅師は、副住職になった時、85歳でした。一方・永平寺の住職(貫主)である丹羽禅師は・宮崎禅師よりも年下で、81歳でした。副住職になって8年半の歳月が流れた平成5年9月7日、丹羽...宮崎奕保さんのこと(21)奕保氏、永平寺の住職(曹洞宗貫主)に

  • 宮崎奕保さんのこと(20) 北の大地にわたる

    北の大地にわたる昭和47年4月、長い人院生活が終わり、老僧は、ようやく寺に戻ることができました。72歳でした。老僧は、体力がかなり衰えていました。病院での生活が長かった上に、結核の後遣症で片方の肺の機能を失っていたからです。食事もあまり進みませんでした。老僧は、身を引くことを真剣に考えていました。そんなある日、弟子の側にやって来て、禅師はこう言ったのです。「今、札幌から電話があったんや。中央寺の住職として来いと言うんや」中央寺というのは、札幌市にある永平寺直属の末寺です。弟子たちは、師匠が迷っているのがよく分かりました。当時、中央寺の住職は、宮崎禅師が若い頃に目を掛けてもらった永平寺六十八世貫首、秦慧昭(えしよう)禅師の弟了である秦慧玉(えぎよく)禅師が務めていました。ところが、その慧玉禅師が永平寺七十六世貫首...宮崎奕保さんのこと(20)北の大地にわたる

  • 宮崎奕保さんのこと(19) 「平気で生きる」こと

    「平気で生きる」ことの大切さ宮崎禅師は、もう死ぬかもしれないという瀕死の状態を経験しました。・・・・命も危ないというほどの大病をして、「もう変わったというより、生まれ変わってきたようなもんや。いっぺん死んだんだから、生きておるということが不思議になってきた。だから、それからは、第二の人生や」と、よく言っておられました。また、次のように述べておられます。「正岡子規の『病牀六尺(びようしようろくしやく)』で、『人間は、いつ死んでもいいと思っておったのが悟りだと思っておった。ところが、それは間違っておった。平気で生きておることが悟りやったと書いてある。いつ死んでもいいと思っておったのが悟りやったと。ところが、いつ死んでもいいどころではない。平気で生きておることが悟りや』と。奕保禅師の入院生活は、結局、三年四ヵ月もの長...宮崎奕保さんのこと(19)「平気で生きる」こと

  • 宮崎奕保さんのこと(18) 死の淵での坐禅

    死の淵での坐禅音崎禅師は、その後も身を粉(こ)にしながら、務めを果たしました。しかし、一週問の法要の後、さすがに自らの進退を考えました。体の具合が、あまりにもひどくなっていたからです。ところが、宮崎禅師は、新たに住職になった佐藤泰舜(たいしゆん)禅師から「自分のもとでもう一期、永平寺の運営、雲水の指導を引き受けてほしい」と言われたのです。この事態に周囲の人々はあわてました。このまま永平寺の運営の仕事を続けたら宮崎禅師は命を落としかねません。皆、宮崎禅師の体を心配して、これ以上無理をするなと口々に言いました。佐藤貫主も引き留めることをあきらめ、禅師は加古川の福田寺に帰りました。体はぼろぼろになっていました。昭和44年の正月、69歳になった禅師はついに体が全く動かなくなりました。そして、炬燵で休もうとした時でした。...宮崎奕保さんのこと(18)死の淵での坐禅

  • 宮崎奕保さんのこと(18) 奕保禅師倒れる

    奕保禅師倒れる熊沢泰禅(たいぜん)禅師は、永平寺73世貫主です。奕保氏は熊沢禅師のもとに仕えていました。昭和43年、永平寺の後堂(雲水の指導)として、二年を過ごした宮崎禅師は、生涯忘れることができない、ある出来事に遭遇しました。その日、後堂は夜中に目を覚まし、トイレに起き、部屋に戻り床に就こうとした時でした。突然、電話が、鳴り響きました。時刻は、午前零時。すると、受話器の向こうから切迫した声が聞こえてきました。「禅師様(熊沢禅師)のご様子がおかしいんや」奕保氏は部屋を飛び出しました。一目散に階段を駆け上った。60代も半ばを過ぎた老体。しかも、出し抜けに駆けだしたために息が切れました。階段は百段近くあります。息が苦しくなってきました。脇の廊下から誰かが突然出てきました。雲水でした。その雲水に向かって叫びました。「...宮崎奕保さんのこと(18)奕保禅師倒れる

  • 宮崎奕保さんのこと(17) 永平寺の僧堂を任される

    永平寺の僧堂を任される昭和40年10月、65歳になった宮崎禅師は、大役を任されることになりました。時の永平寺住職七十三世貫首(かんしゆ)から本山の後堂(ごどう)に就任してほしいと頼まれたのです。後堂は特別な存在です。永平寺をまとめ、雲水たちの修行に対して責任を負う立場です。永平寺の雲水たちは、修行を終えたら各地の寺に戻っていき、そこで檀信徒たちに道元禅師の教えを伝えます。永平寺の僧堂で間違った作法を教えたのでは、後々、宗風が廃れることになってしまうのです。奕保禅師は僧堂中心の生活を続けてきた人物であり、まさに僧堂たたき上げの禅僧であると他の僧に知られていました。宮崎禅師の心に雲水の育成に対する情熱が満ちあふれていて、それを抑えることができなかったのです。加古川の福田寺(ふくでんし)では、そうした機会があまりあり...宮崎奕保さんのこと(17)永平寺の僧堂を任される

  • 宮崎奕保さんのこと(16) 本当の自由を求めて

    本当の自由を求めて宮崎禅師と和朗老師が二人で修行を行った頃の日本は、世の中がどんどん変化していった時代でした。加古川の街も、徐々にその姿を変えました。化学、繊維、食品加工などの工場が次々と建設されていきました。また、港湾の整備や埋め立て、あるいは工業用水用のダムも建設されました。そして、昭和40年代に入ると、神戸製鋼所の加古川製鉄所が操業を始め、加古川の河口付近の広大な埋め立て地に造られました。人々の暮らしも大きく変わっていきました。昭和30年代から40年代にかけて「三種の神器」が、一般の家庭に急速に普及しました。当時、師匠がこの変化を次のように語っておられます。「今に当たり前の事が嘘事(うそごと)になり、嘘事が当たり前になる」そして、「今、わしの言っておることが嘘事になって、世間で言っておることがホンマのこと...宮崎奕保さんのこと(16)本当の自由を求めて

  • 宮崎奕保さんのこと(15) 宮崎和朗(わろう)禅師

    宮崎和朗(わろう)禅師(現在の福田寺ご住職)戦後、宮崎禅師は、福田寺で人々に禅の教えを説く一方で、僧侶の育成にも尽力しました。昭和21年46歳になった宮崎禅師は、永平寺から単頭(雲水の指導)を務めてほしいとの要請を受けました。宮崎禅師はこの時、初めて永平寺の仕事を務めたのです。しかし、宗門の中でその力量を認められる存在となっていったものの、この頃の宮崎禅師にはある悩みがありました。実は、宮崎禅師には、自分の跡を継いでくれる弟子がいなかったのです。宮崎禅師は、50歳を越える年齢になってしまいました。昭和30年、奕保氏は、その日、東海道線の下り列車の中にいました。横浜にある総持寺から自坊に戻る途中でした。「こ老師、お久しぶりでございます」老僧は、車内で声をかけられました。声の主は、岐阜県の関ヶ原にある妙応寺という古...宮崎奕保さんのこと(15)宮崎和朗(わろう)禅師

  • 宮崎奕保さんのこと(14) 奕保氏と戦争

    奕保氏と戦争宮崎禅師の軍隊生活は、それほど長く続きませんでした。37歳という年齢もあって、その年の12月に帰国させられました。しかし、日本に戻った後も、戦争と無縁ではありません。昭和16年12月8日、日本は真珠湾を攻撃し、アメリカとの間でも戦争を始めました。日本全体が、戦争一色に染まりました。もちろん、宮崎禅師が住む加古川の街も例外ではありません。加古川に建設された飛行場は、関西防空の要(かなめ)とされたため、連日、戦闘機の訓練が繰り返されました。戦闘機が寺の上空を頻繁に飛びました。また、戦争末期になると、飛行場は特攻隊の訓練にも使用された。若い特攻隊員たちは、飛行場の近くにあった旅館(中村旅館)で内地最後の夜を過ごし、戦地へと旅立っていきました。この戦争には、宗教界も協力をしました。そして、宮崎禅師も大日本帝...宮崎奕保さんのこと(14)奕保氏と戦争

  • 宮崎奕保さんのこと(13) 戦地でお経を唱える

    戦地でお経を唱える宮崎禅師が福田寺の住職になったころの日本は、国全体が戦争に向かっていました。昭和6年に満州事変がおきると軍部が台頭。ナショナリズムが一気に高揚しました。加古川の街も、徐々に戦時色が濃くなりました。昭和10年、加古川に陸軍の飛行場が建設されることが決まると、様々な軍事施設が造られ、街は小軍都と化していきました。宮崎禅師も戦争に巻き込まれていきました。昭和12年の夏、赤紙が届きました。7月7日に中国で盧溝橋事件が勃発すると、それをきっかけに、日本と中国は戦争状態に突入しました。当時、37歳だった僧侶は、呉(くれ)の港から船に乗り込みました。船が到着したのは、上海でした。上海では当時、日中両軍による戦闘が本格化しはじめ、街には重苦しい空気が立ちこめていました。僧侶が配属されたのは、機関銃の部隊でした...宮崎奕保さんのこと(13)戦地でお経を唱える

  • 宮崎奕保さんのこと(12) 印 加

    印可禅の世界では、僧侶の修行の程度がどれくらいに達しているかは、先達の僧侶によって評価され、認められなければなりません。そして、それが悟りに値するものであると認められると、先達はそのことを書にしたためるなどして証明します。それが、印可です。しかし、印可は、修行を重ねていけば誰でも得られるというものではありません。むしろ、いくら修行を重ねても、印可を得られないことが多いのです。般若林福昌寺の秦慧昭(はたえしょう)禅師のもとでは多くの僧侶が学び、優秀な人物が数多く輩出しましたが、秦禅師から印可を授けられたのは、後にも先にも宮崎禅師ただ一人でした。なお、宮崎禅師が秦禅師から印可を授けられたことには、実は非常に大きな因縁を感じます。宮崎禅師に印可を授けた神戸・福昌寺の秦禅師は、永平寺六十四世貫首の森田悟由(ごゆう)禅師...宮崎奕保さんのこと(12)印加

  • 宮崎奕保さんのこと(11) 若き住職の誕生

    若き住職の誕生宮崎禅師(ぜんし)の師匠、小塩闇童(こしおぎんどう)老師は遺言状を残していた。福田寺(ふくでんし)の住職を宮崎禅師に譲る旨が記されていました。遺言状を見て、宮崎禅師は驚きました。そして、師匠が自分を後継者に指名してくれたことに感謝しました。宮崎禅師は、師匠の死の5ヵ月後に、29歳の若さで福田寺の住職に就任したのです。禅の世界では、住職に就任することを晋山(しんざん)と言い、新住職は晋山式という法要を営みます。そして、道元禅師以来続く法灯を、その寺において守っていくことを誓います。写真は、その晋山式の時に撮影された宮崎禅師の写真です。住職になった宮崎禅師は、師匠の亡骸を前に誓った通り、小塩老師をまね、しかも、その真似は、行動のすべてにおよびました。宮崎禅師は生涯にわたって不犯(ふぼん)を貫きました。...宮崎奕保さんのこと(11)若き住職の誕生

  • 11月の散歩

    11月の散歩11月も一日10.000歩を歩くことができました。最近は、足が軽く感じるようになっています。嬉しいです。ただし、2回(午前・午後)に分けて歩いています。1回で10.000歩は少し無理ですので・・・・1(木)11.444歩自宅~長田公園~鶴林寺・加古川東岸まで2(金)13.210〃自宅~長田公園・自宅~ブックオフ3(土)11.639〃神戸布引の滝・ハーブ園周辺4(日)10.490〃自宅~長田公園・平荘湖遊歩道5(月)12.286〃自宅~稲屋福田寺・加古川東岸~自宅6(火)10.303〃自宅~長田公園・鶴林寺周辺7(水)10.615〃別府鉄道野口線跡・自宅~加古川東岸~大崎8(木)10.951〃自宅~長田公園・平荘湖遊歩道9(金)10.999〃日岡山散策・自宅~若宮小学校10(土)10.552〃自宅~長...11月の散歩

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