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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 https://blog.goo.ne.jp/seikannamo

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思ってい

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2014/11/27

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  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(22)第五・経言無属難(8)

    『述記』の釈から、「此の定(滅尽定)をも無心定と名くが故に」と、経量部の末宗の転計(末計)を破斥しましたが、ここで経量部からの反論がでます。それは、第八識の問題です。護法さんが立てられるは八識別体の論法から云えば、滅尽定でも第八識が存在するというのは有心定ではないのかということです。『述記』の釈を読んでみます。「述して曰く、初に心有りというを破する中文分かって三とす。初に名に違するを難じ、次に理に違するを難じ、後に意趣を結す。此れは即ち初なり。」本科段は初の「名に違する」ことを批判してきます。つまり、「此れは計を牒して此れは理に応ぜずと非す。此の定を亦無心定と名づくるが故に。故に知りぬ、第六識有ることを得ず。此れは並びに二家の『摂論』と及び『成業論』とを對勘するに、義更に違うこと無し。而も彼救して言く、無心定と...阿頼耶識の存在論証滅尽証(22)第五・経言無属難(8)

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(21)第五・経言無属難(7)

    総結の文が閉じられまして、第四に経量部が「心が有る」という主張を論破する科段になります。名に違する難。理に違する難を以て論破し、後に意趣を結びます。滅尽定にあって、種子を保持する識が存在しないと言うのであれば、滅尽定から出た後に識はどうして生ずることができるのかと論破された経量部が再度反論してくるのです。それは、滅尽定にあっても、六識は滅しているが、種子を宿している第六識が存在するので、識が身に離れず、滅尽定から出た後には識が生ずるのであると主張します。この主張に対して護法は再度論破してくるのです。「若し謂く、此の位には第六識有るをもって、身に離れずと名くといわば、亦理に応ぜず、此の定をも亦無心定と名くるがゆえに。』(『論』第四・五左)(もし言うのであれば、この滅尽定においては第六識(種子を保持する識)が存在す...阿頼耶識の存在論証滅尽証(21)第五・経言無属難(7)

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(20)第五・経言無属難(6)

    第四は、以量成有識難(イリョウジョウウシキナン)を説明します。以量は推論です。成有識は第八識が存在することを明らかにしています。つまり、第八識が存在するという推論を以て経量部の主張を論破する科段になります。「然も滅定等の無心の位には、有心の位の如く、定んで実に識有るべし、根と寿と煖とを具して、有情に摂めらるるが故に。」(『論』第四・五右)(しかも滅尽定等の無心位の中においては、無心位の中にいる有情は、有心位のように必ず実に識があるであろう。有情は五根と命根と体温とを備えいるからである。)滅尽定の位にあっても、もっというならば、有余涅槃の位に在っても生きている。有為の世界に生きている有情なんですね。生きている限り、たとえ六識が滅したとして、そこに存在する有情は識も寿や煖等のように実に身を離れないものである、とい...阿頼耶識の存在論証滅尽証(20)第五・経言無属難(6)

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