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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さんのプロフィール

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ブログタイトル
唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/seikannamo
ブログ紹介文
私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思ってい
更新頻度(1年)

18回 / 365日(平均0.3回/週)

ブログ村参加:2014/11/27

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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さん
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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さんの新着記事

1件〜30件

  • 唯識入門(12)

    今日はもう一題投稿します。この種子―薫習-現行は同時に起こってきます(三法転展同時因果といいます。)現行されたものが種子となり薫習され、薫習されたものが縁にふれ現行されてくることから、三法は同時に起こっているのです。私たちは本当に一期一会の時間を与えられていることがよくわかりますね。末那識とは、manasuマナスの音写なんです。定義としては、「思量するをもって性とも、相ともなす。」といわれています。何を思量するのかといえば、我を思いつづける、我の思いどうりにしたいと寝てもさめても思い続けるということを本質としているということなんです。この思量されたものが、阿頼耶識に蓄えられて、意識に上り現実の行動となって現れてくるのです。人間にとって一番大切なことはこの末那識の転換ですね。転換とは、知ることなんですね。自我意識...唯識入門(12)

  • 唯識入門(11)

    おはようございます。気持ちの良い朝ですね。来週は雨の日が続く予報がでていますが、暖かいみたいです。「ただ識のみあり」と断定しますと、何もないのかという疑問が出てくると思います。外界にはいろんなものが存在するではないか、それを「無」というのには合点がいかない。僕もそう思っていました。言葉を足しますと、外界は確かに存在する。しかし実体的、固定的に存在するのではなく、私が認識しているような外界は存在しないと教えているんだろうと思います。意識はどのような動きをしているのかといいますと、表層の前五識に影響を与え、深層意識に経験値として蓄積する働きを持っています。つまり、外界が問題ではなく、意識の本質と動きが私という存在を生み出しているといっていいんではないかと思います。難しい言葉でいいますと、「了境為性相」(りょうきょう...唯識入門(11)

  • 唯識入門(10)

    唯識入門も10回目の投稿となります。安田先生は、「分からなくなったらはじめにかえる」、と教えてくださいました。少し戻って唯識の全体像を見ていきたいと思います。唯識は、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。唯識とは、「ただ識のみあり」、私たちが認識を起こし感情を持つのは、認識作用である自分の心だけであるということを教えています。対象に触れる作用です。触れるとそこに心が揺り動かされ、自分という認識のフィルターを通して、自分の心にインプットしていきます。この作用が自分という一個の人間の人格を形成していくのです。「ただ心のみがある」とはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。...唯識入門(10)

  • 唯識入門

    おはようございます。昨日は、僕の一言で大切な人の心を傷つけてしまいました。後悔先に立たずですが、思考と意思決定は、過去に自分が何を考え、どのような行動をとってきたかに由るわけです。現在の行動は、自分はこのようなことを考えていたんだなと、教えられるのですね。こうのように書いている瞬間もうすでに過去の出来事なんです。何回も同じことを言いますが、現在は過去の集大成であり、未来は現在の集大成であるわけです。同じことの繰り返し、同じことの過ちを犯してしまうのは、何を基準として日暮をしているのかに関わってきます。金子大栄師は「人生をはやり直しはできないが、見つめ直すことはできる。」と教えてくださいました。これは、自分の依り所、自分の立ち位置を確認しなさいということなのですね。ここで云えることは、人生には師が必要であるという...唯識入門

  • 日曜雑感

    おはようございます。お正月休みもほとんどの方が今日までですね。土日が重なったこともあり、長い連休になりました。お疲れ様です。さあ、一年の始まりです。ある人のブログを拝見させていただきまして、感じさせられたことは、お仕事に取り組まれる姿勢が素晴らしいんです。考え方や、人と接するときの気遣い等、お若いとは思えないほどしっかりされています。これからも頑張ってほしいです。私たちが日常、良いこと、悪いことの判断として、他人に迷惑をかけることが悪、他人に良い影響を与えることが悪と、大雑把にいえばこういうことになるんだ労を思います。ところが、仏教では善・悪は他に対してではないのですね。簡単違説明しますと、『善は私たちにとって大切な行為ですが、本来、自身が涅槃に向かう道なんです。それと共に他を利する道でもあるんですね。涅槃はニ...日曜雑感

  • 唯識入門

    今晩は、箱根駅伝興奮しましたね。東海大の二連覇ならず、青学が制しました。前評判はあまり高くなかったけれども、チャレンジャーの気持ちが前面に出ていましたね。創価大も初シードおめでとう。熾烈な戦いでしたが、選手も、スタッフも、応援団も、地域のボランティアの方々も、人と人とのつながりの大切さを学びました。この学びが、人生を生きぬく上で大きな役割を果たしてくるのですね。このような活動の積み重ねが大輪の花を咲かせます。『大乗阿毘達磨経』にですね、「無始時来界」(始めなき時よりこの方界たり)と説かれています。界は「因の義、種子なり」と説明がありますが、今、私は何を成しているのかが、それが将来の結果を引き起こしてくると教えているのですね。仏教では、善の方向、悪の方向に分かれて説かれます。善は、心の平安が保たれ、空しく過ぎるこ...唯識入門

  • 唯識入門

    皆さんこんにちは、今日はお正月の風物詩、箱根駅伝が始まっています。さて往路優勝はどこの大学が制するのでしょうか。興味津々です。唯識(ゆいしき)というと、何か雲を掴むような話ですが、皆さん、いろは歌をご存知ですね。「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」。漢字を添えますと、色は匂えど散りぬるを(諸行無常)わが世誰ぞ常ならむ(是生滅法)有為の奥山今日越えて(生滅滅已)浅き夢見じ酔いもせず(寂滅為楽)となります。すべてのものは、縁によって生じ、縁によって去っていく。すべてのものは移りお変わっていき、ひとつとして実体的に存在するものは無い。自分という存在を考えてみよう。自分という存在が一人で存在することは不可能である。関係的存在として、関わり合いの中で助けたり、...唯識入門

  • 唯識入門

    新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。私たちは、生まれてからこの方、私と、私を取り巻く環境と、私のものという存在が有ると信じて疑いません。論者は問いを提起します。「もし、私(我)と、私を取り巻く環境と、私のもの(法)という認識と存在が、ただ、心の働きだというのであれば、どうして世間や経・論・釈の聖教に我・法が存在すると説かれているのか」と。慈恩大師は「唯(ただ・ゆい)は境(対象・相分・ノエマ)の有(実体的存在)を遮す(否定する)。有に執(執着)するものはその真(本当の在り方)を喪う(そこなう。失う)。」と解釈されています。世親菩薩は「仮の存在・仮の認識に基づいて。我・法があると説く」と答えられます。仮の存在、仮の認識という、「仮」が大事な意味をもってきます。すべての存在は一瞬たり...唯識入門

  • 唯識入門

    今年もあとわずかの時間になりました。ブログも長い間綴っておりませんでしたが、ここにきて、また書こうかなという気持ちが生まれてまいりました。それは僕の気持ちを揺り動かせてくれた人との出会いが大きいと思います。私は、私の力で、私の意識で何事も推進できると思い込んでいますが.,私の力ってほんの微々たるものです。それは人との触れ合いの中で教えてもらいました。触れることの大切さを再認識させられた今年の後半期でした。人との触れ合いの中で、喜んだり、悲しんだりという感情が生まれてきます。喜怒哀楽という感情ですね。この喜怒哀楽は自分の内面から生じてくるわけですが、内面を見せてくれるのが触れることに由るわけですね。唯識は、触れることに於いて感情が生まれ、言語活動を通して意識が働くと教えます。つまり、何に触れるかが人格形成に大きな...唯識入門

  • 唯識入門

    おはようございます。昨日は認識はどのような構造で成り立っているのかを簡単に説明しました。つまり、眼が対象に向かって、対象を捉えた時に認識は意識の上に登ってくるのですね。ここに、捉えるべき眼と、捉えられる物と、知覚する意識が一つとなって、私たちの認識は起こってくるのだと、このようなことを述べました。ここに、私たちはどのような間違いを起こしているのかを護法菩薩にお聞きしますと、対象は眼の外に存在しますから、外境と言い表しています。この外境は、意識の働きと同じように、固定的・実体的に存在し、その外境が意識に働きかけてきて、私の心が波打つんだと執しているところから誤りは起こってくるといいます。それは自分が勝手に作り上げた世界だと。しかし、これが私の実体なんですね。ですから、ここから逃げるのではなく、ここを立脚地として、...唯識入門

  • 唯識入門(3)

    おはようございます。一週間あっという間ですね。そして年末も押し迫ってまいりました。慌ただしくお過ごしのことと思います。本年最後のブログになりますが、来年度も引き続きよろしくお願いいたします。「唯識入門」といえ、かなり難解な熟語が出てまいります。出来るだけ現在の言葉に置き換えてご理解していただけるように努力を重ねてまいりますので、よろしくお願いいたします。仏教といえば、すぐに「悟り」を連想されると思いますが、唯識は、初めから悟りを目指すのではなく、悩み、苦しんでいる(苦悩の群萌)に対して、正しい仏教理解をしていただけるように、心の構造を開いて、先ず、理解を深めていただきたいと願っているのです。私が、苦しんだり、悩んでいるとき、何に苦しみ、何に病んでいるのか?あまり深く考えたことはないようです。それは「私という存在...唯識入門(3)

  • 第一回目 『唯識入門』講義全文掲載

    唯識入門今回は2012年にお話させていただきましたところから、抜粋して投稿します。『成唯識論』講義第一回この『成唯識論』、唯識を学ぶという入門講座について前々回の往生礼讃の会の後にこちらの住職からお話をいただきました。自分にこのような大役が務まるのかどうか全く未知の世界で、まだ人前で長い時間お話をしたことがないことがありまして、随分考えさせていただいたのです。私は、自分自身が問いをもって自分自身が答えていく、そして自分自身を明らかにする、そういう歩みをしたい、とずっと前から思っておりました。そしていつかは自宅を開放してでも一度『成唯識論』というものを読んでみたいとも思っておりましたので、ご住職が仰ってくださったことにたいして、甘えさせていただこうと思った次第です。また、私から話を聞いていただくということで非常に...第一回目『唯識入門』講義全文掲載

  • 唯識(ゆいしき)認識の構造

    おはようございます。一週間あっという間ですね。今日は師走も半ば、何となく気持ちが焦っています。前回の記事に対しまして、漢字が読めない、意味が分からないという指摘を受けました。ありがとうございます。前回につきましてはコメントで対応させていただきました。今回より、出来る限りフリガナを付けるようにします。タイトルの唯識(ゆいしき)についてですが、唯(ゆい)は、ただ、二つ並ぶことの無い、唯一無二(ゆいいつむに)を表します。識(しき)は認識を起こす働きです。認識はどのように成り立っているのか、簡単に説明しますと、認識が成立するためには、認識する側(能動体)認識される側(受動体)がマッチしなければなりません。そして認識を起こす根拠として、普通は六識が考えられています。このことが、私の精神構造のすべてであると教えているのです...唯識(ゆいしき)認識の構造

  • ブログをはじめるにあたって。

    今日は。ブログは2009年より綴って最近に至っていますが、初めの投稿から少し自分を見つめ直したいという思いから、Twitterと連携して週一のペースで更新できればと思います。先ず初めに、「生きること」のプロローグを書いてみます。「私が本当に大切にしているもの。人それぞれ違うでしょうが、月並みに「幸せ」でありたいと思っているのではないでしょうか。私も「幸せ」でありたいと思っています。しかし現実は自分の思いとは裏腹に一向に幸せ感が達成できません。せれどころか、いちばん嫌だと思っているいざこざが絶えないのが日常の在り方です。何故なんでしょう?ではなぜ思いと違った方向に行くのでしようか。心の闇と一言で片づけるには、大きな問題が横たわっています。闇の問題は、自分を大切にという思いから、他を大切にしていない事実が浮かび上が...ブログをはじめるにあたって。

  • 10月度テキスト(2)

    「此の後の境に随って六識の名を立てたるは五色根が未自在なるに依りて説けり。若し自在を得つるときには、諸根互用(しょこんごゆう)するを以て一根いい識を発して一切の境を縁じぬ、但根に随う可し、相濫ずる失無しを以て。」(『論』第五)(この後の境(認識対象)に随って、六識の名を立てたのは。五色根が未自在位という位によって説いたのである。もし自在を得たときには、諸根互用するので、一根が識を発して一切の境を縁じることになる。随境得名はただ未自在位のみに限る。無漏の五識現在前する自在位にあっては五根が互有するから五識が自根に依って遍く五境を認識する、例えば眼識が眼根によって色境を縁ずるのみならず、余の四境をも縁ずることになり、自在位あって随境得名するならば、一識を色識乃至身識と名づけ五種の区別がなくなってしまうのである。そう...10月度テキスト(2)

  • 10月度テキスト

    「唯識性」について『述記』には「唯識性というは、略して二種あり。一つには虚妄、即ち偏計所執なり。二つには真実、即ち円成実なり。・・・・・又二種あり。一つには世俗、即ち依他起なり。二つには勝義、即ち円成実なり。・・・・・又言わく、唯識に於いて相と性と不同なり。相とは即ち依他なり。唯是れ有為なり。有・無漏に通ず。唯識即相なるを以って唯識相と名づく。・・・・・性とは即ち是れ識が円成の自体なり。唯是れ真如なり。無為無漏なり。唯識が性なるを以って唯識性と名づく。・・・・・」と記述されています。ここには真実・勝義というものは虚妄・世俗と離れてはありえないことをあらわしています。私たちは何故迷っているのか、ただたんに無意味に迷っているのでしょうか。そうではないはずです。迷っていること自体、真実に触れているのです。真実に触れて...10月度テキスト

  • 五月度テキスト

    唯識の学びも回を重ねてきました。かれこれもう七年になりますかね。聞成坊ご住職の尽力でまがりなりにもお話をさせていただいています。一番学ばせていただいているのは僕でしょうね。真宗の教学と重ねながらを憶念しながと思っていても、唯識の言語の難しさもあり、皆さん方には、よくついてきていただいていると感謝しております。今回で一応第二能変末那識の説明は終わらせていただきます。もし興味のおありの方は、29日午後三時より八尾別院で開講しております。会費は1000円です。第八段第十門起滅分位門、その(2)分位行相門第七識の分位の行相を明らかにする。上来、『三十頌』の第十門に依って、末那識を伏し断ずる位を分別してきた。それはあくまでも未転依有漏の位に約して明らかにしている。この一段は、末那識の分位の差別(種類・区別のこと)を明らか...五月度テキスト

  • 三月度テキスト

    「末那と心所は何の地にか繋せらるる耶。」(『論』第五)先ず末那識と、その心所は三界九地の内、どの階層に繋ぎとめられるのであろうか、という問が出されます。「彼の所生に随って、彼の地に繋せらる。」(『論』第五)「彼(阿頼耶識)が生まれたところ(所生=界)に随って、その生まれたところ(阿頼耶識の生じたところ)に繋ぎとめられるのである。「謂く、欲界に生じぬるとき、現行の末那と相応の心所とは、即ち欲界繋なり、乃し有頂に至るまで応に知るべし亦然なり。」(『論』第五)つまり、阿頼耶識が欲界に生じた時は、現行している末那識と、末那識相応の心所とは、欲界繋のものとなる。このことは欲界から無色界の有頂に至るまで同様であることを知るべきである。「任運に恒に自地の蔵識を縁じて、執じて内我と為す、他地には非ざるが故に。」(『論』第五)末...三月度テキスト

  • 11月度テキスト

    「彼れに十種有り、此れには何ぞ唯四のみある。」(『論』第四)(彼(根本煩悩)には十種ある。此れ(第七末那識)にはどうしてただ四つの煩悩のみがあるのか?)「我見有るが故に余の見生ぜず、一心の中には二の慧有ること無きが故に。」(『論』第四)(我見があるために、他の見は生じないのである。一心の中、即ち一つの識の中に二つの慧が生起することはないからである。)「如何ぞ此の識に要ず我見しも有る。」(『論』第四)(どうしてこの識にはかならず我見が存在するのか。)「二取と邪見とは但分別生なり、唯見所断なり。此れと倶なる煩悩は唯是れ倶生なり、修所断なるが故に。」(『論』第四)(二取(見取見・戒禁取見)と邪見とはただ分別生、分別起の煩悩であり、ただ見所断の煩悩である。しかし第七末那識と倶である煩悩はただ倶生起のものである。何故なら...11月度テキスト

  • 第二能変 六月度テキスト・開導依についての解説

    「伽陀に説けるが如し、阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、心と及び意とに依止して、余の転識生ずることを得という。」(『論』第四・二十一右)(伽陀(『入楞伽経』第九巻・大正16・571c20「依止阿梨耶能轉生意識依止依心意能生於轉識」の取意)に説かれている通りである。「阿頼耶識を依とすることに於いて、末那識は活動する。心と意とに依止して、他の転識は生じる。)『入楞伽経』第九巻・総品の中の頌に「阿梨耶に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して能く転識を生ずと。」と語られているのですが、『論』はこの『頌』の要を述べています。そしてこの文が第七識の倶有依は第八識であることの証拠であると示しているのです。「述して曰く、即ち『楞伽経』第九巻の総品の中の頌なり。旧偈には阿梨耶に依止して能く転じて意識を...第二能変六月度テキスト・開導依についての解説

  • 第二能変 六月度テキスト・開導依について

    等無間縁依(開導依)について、『論』第四(テキストp86)に護法の正義が記されています。「開導依(かいどうえ)というは、謂く有縁の法たり、主と為り能く等無間縁(とうむけんえん)と作(な)る。此れ後に生ずる心・心所法に於て開避(かいひ)し引導(いんどう)するを以て開導依と名づく。此れは但心のみに属す。心所等には非ず。」説明一刹那前に滅した心を開導依という。前念の一刹那を開避し、後念の心・心所を引導して障りなく生起させる前滅の心・意根をいう。即ち諸の心・心所は、この開導依なくしては生起することが不可能であり、すべての心・心所は開導依(等無間縁依)に託して生起する。しかし、この開導依に難陀・安慧・護法の異説があり、初に難陀等の説が述べられ、つぎに安慧等の説が述べられ、そして最後に護法の正義が示されます。護法の正義のみ...第二能変六月度テキスト・開導依について

  • 五月度テキスト

    随分暖かくなりました。日中は汗ばむくらいですね。唯識の学びも遅々として進みませんが、末那識の所依について煩雑な論考もなされています。このところはスルーして今回は護法菩薩の所論を学ばせていただきたいと思っています。原文と和訳をてきすととして用います。5月24日八尾別院で午後三時開講です。「有義は、前の説くこと皆理に応ぜず、未だ所依と依との別(ことなる)ことを了せざるが故に。」(『論』第四・十九左。『選註p83))(護法は、前に説かれていることはすべて理にかなわないという。何故ならば、前に説かれている諸説は、未だ所依と依とが別であることを理解していないからである、と。)「依とは、謂く、一切の生滅を有せる法が、因に杖し縁に託して、而も生じ住することを得。」(『論』第四・十九左)(依というのは、一切の有生滅の法が、因に...五月度テキスト

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(23)第五・経言無属難(9)雑感

    連休最終日、皆さんはどのようにお過ごしのことでしょうか。滅尽定は、仮定のこととしてしか話せませんが、滅尽定において初めて散乱粗動し間断がある前六識が波立たないことになるのでしょう。六識が無くなるわけではなく、五識が転じて成所作智・第六識が転じて妙観察智という智慧となって働いてくるのでしょう。真宗では信心の智慧と表されていると思うのですが、この信心の智慧は何を依り所として生起してくるのか、この問題に答えているのが、細意識ではなく、散乱粗動し間断の無い、無覆無記である第八識なのでしょう。第八識が増上縁依となって我執が破れてくるわけでしょう。そして第八識は無漏であるけれども、有為の世界に身をいただいた時、有漏の根拠として前六識に影響を与えてくる。この身をもって私たちは日々の生活をしているわけでしょう。ですから生活全般...阿頼耶識の存在論証滅尽証(23)第五・経言無属難(9)雑感

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(22)第五・経言無属難(8)

    『述記』の釈から、「此の定(滅尽定)をも無心定と名くが故に」と、経量部の末宗の転計(末計)を破斥しましたが、ここで経量部からの反論がでます。それは、第八識の問題です。護法さんが立てられるは八識別体の論法から云えば、滅尽定でも第八識が存在するというのは有心定ではないのかということです。『述記』の釈を読んでみます。「述して曰く、初に心有りというを破する中文分かって三とす。初に名に違するを難じ、次に理に違するを難じ、後に意趣を結す。此れは即ち初なり。」本科段は初の「名に違する」ことを批判してきます。つまり、「此れは計を牒して此れは理に応ぜずと非す。此の定を亦無心定と名づくるが故に。故に知りぬ、第六識有ることを得ず。此れは並びに二家の『摂論』と及び『成業論』とを對勘するに、義更に違うこと無し。而も彼救して言く、無心定と...阿頼耶識の存在論証滅尽証(22)第五・経言無属難(8)

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(21)第五・経言無属難(7)

    総結の文が閉じられまして、第四に経量部が「心が有る」という主張を論破する科段になります。名に違する難。理に違する難を以て論破し、後に意趣を結びます。滅尽定にあって、種子を保持する識が存在しないと言うのであれば、滅尽定から出た後に識はどうして生ずることができるのかと論破された経量部が再度反論してくるのです。それは、滅尽定にあっても、六識は滅しているが、種子を宿している第六識が存在するので、識が身に離れず、滅尽定から出た後には識が生ずるのであると主張します。この主張に対して護法は再度論破してくるのです。「若し謂く、此の位には第六識有るをもって、身に離れずと名くといわば、亦理に応ぜず、此の定をも亦無心定と名くるがゆえに。』(『論』第四・五左)(もし言うのであれば、この滅尽定においては第六識(種子を保持する識)が存在す...阿頼耶識の存在論証滅尽証(21)第五・経言無属難(7)

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(20)第五・経言無属難(6)

    第四は、以量成有識難(イリョウジョウウシキナン)を説明します。以量は推論です。成有識は第八識が存在することを明らかにしています。つまり、第八識が存在するという推論を以て経量部の主張を論破する科段になります。「然も滅定等の無心の位には、有心の位の如く、定んで実に識有るべし、根と寿と煖とを具して、有情に摂めらるるが故に。」(『論』第四・五右)(しかも滅尽定等の無心位の中においては、無心位の中にいる有情は、有心位のように必ず実に識があるであろう。有情は五根と命根と体温とを備えいるからである。)滅尽定の位にあっても、もっというならば、有余涅槃の位に在っても生きている。有為の世界に生きている有情なんですね。生きている限り、たとえ六識が滅したとして、そこに存在する有情は識も寿や煖等のように実に身を離れないものである、とい...阿頼耶識の存在論証滅尽証(20)第五・経言無属難(6)

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