政治経済から芸能スポーツまで、物書き小谷隆が独自の視点で10年以上も綴ってきた250字コラム。
圧倒的与党支持で愛国主義者。巨悪と非常識は許さない。人間が人間らしく生きるための知恵と勇気、そしてほっこりするようなウィットを描くコラム。2000年11月から1日も休まず連載。
マイナーのエイトビート。グループサウンズの時代を彷彿させる。これを自分が歌う姿をまったくイメージできなかった。 それでも何か言葉をのせてみようとはしたけれど、どんなフレーズも陳腐に聞こえる。それ以前に、曲そのものがとても陳腐なものに感じられてしかたなか
何週間か経って、歌のレッスンのあとで講師からカセットテープと手書きの楽譜を渡された。先生の曲だ。「作詞してみろって」と若い講師は言って僕の肩を叩いた。「すごいね。先生の曲に詞をつけるんだろ? 羨ましいな」 アパートに戻ってからそのテープを聴いてみた。
「君の声はねぇ、何と言うかな」先生は天井を見上げて葉巻の煙の行方を追った。「女を惑わすようなセクシーな響きがあってね。まあ、うちのスタッフの子たちもメロメロなわけだぁ」 はいと言いかけて僕は言葉を飲み込んだ。「売れると思ったよ。あちこちレコード会社に声
レコード会社に行く前に、ボーカルスクールの「先生」と呼ばれる大御所に呼び出された。 先生は有名な作曲家で、過去には数々のヒット曲を残していた。自ら歌った曲もカラオケの定番になるほど売れた。いわばこの世界の大御所だった。 スクールの応接室のソファで先生
デモテープに収録したのは3曲のオリジナル作品だった。それがその当時の僕のすべてでもあった。ボーカルスクールのスタジオを借りて、ギター一本ですべてワンテイク、30分もかけずに録音した。リバーブもエコーもかかっていない、まったく素のままの音だった。「いいね
その電話が鳴ったとき、僕はアパートの部屋でうたた寝していた。夢の中で受話器を取った。けれど相手は何も言わないし、ベルは鳴り止まない。 ようやく目が覚めて電話に出ると、どこかで聞いたような会社の名を名乗った。まだはっきりしない意識の中で、それが新進のレコ
秋になった。その年はいつもより季節の移ろいに敏感になっていた。9月になってまだ暑い日が続いても、見上げた空をゆく雲や、時おり吹く風に夏がじわじわと溶けていくのがわかった。 僕は大いに詩を書いた。曲の歌詞とはほど遠い散文詩で1冊のノートをほぼ埋めた。2冊
僕はすぐに返信を書いた。一度はとても長いものを書いたけれど、読み直してからまるめて捨てた。それから改めて、短い手紙を書いた。お便りありがとうございます、僕も頑張ります、と。何を頑張るのかわからないけれど、それしか書けなかった。 その手紙が、何日かして郵
手紙には赤ちゃんの写真が添えられていた。どことなく僕が生まれた頃の顔に似ている気もしたけれど、生まれたての赤ちゃんなんてみんな同じような顔をしているものだ。 裏には「真実」と書いてある。「まなみ」とかなが振ってあった。どんな子に育つのだろう。 すぐに
ミチコさんからの残暑見舞いが届いたのは盆の帰省から戻った頃だった。それははがきではなく、無愛想な白い封書だった。 ミチコさんは8月の始めに元気な女の子を出産していた。お父さんに似て聡明そうな顔をしています、と書いていた。でも会いに来ないでください。私た
長野から帰ったあと、僕はひたすら作曲に勤しみ、歌のレッスンにも励んだ。おかげで大学は留年すれすれだったけれど、なんとか3年次に進んだ。 ハルは出す曲がすべてヒットチャートの上位にランクインして、テレビの画面に登場しない日はなかった。好事魔多しで、若い男
お母さんが倒れて入院したのと時を同じくして、ミチコさんの妊娠が判明した。ミチコさんは会社を古株の従業員に託すと、逃げ出すように東京をあとにした。お母さんの介護をするという名目だったけれど、本当はひとりで子供を産んで育てるつもりで長野の家に帰った。「結婚
まだ3ヶ月ほどの子に僕の声が聞こえるはずもないとは思いながら、僕は何度もミチコさんのお腹の子に呼びかけた。 ふと、こめかみに冷たいものを感じた。ミチコさんの涙が滴り落ちていた。嗚咽の震えが伝わってきた。そのうちに、ミチコさんは声をあげて泣いていた。「
「おかしなこと言うわね」なおも笑いながらミチコさんは言った。「私、あなたの倍以上の歳なのよ?」「でも、お腹の赤ちゃんは僕の子なんですよね?」「そんなこと一言も言ってないわ。この子は私の子。それだけよ」 ミチコさんの顔が俄かに曇った。「生まれてくるかど
ミチコさんはこたつに入ってしばらく身を縮めて俯いていた。「まさかね」ミチコさんは口を開いた。「44で授かるとは思ってなかったわ」「僕の子ですか?」 ミチコさんは黙ってこたつのテーブルに置いたみかんの山を眺めていた。「僕の子なんですね?」「いいのよ、
1985年の大晦日と正月を僕は信州の片田舎でミチコさんと過ごした。お母さんもさることながら、ミチコさんも体調が芳しくないらしく、かなり窶れて見えた。ほとんど寝たり起きたりの生活で、食べるものもあまり口にしなかった。どこか悪いのか訊いても曖昧な答しか返っ
「どうしたの?」とミチコさんは言った。「こんな田舎まで」 みるみるうちにミチコさんの目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。「ひどいじゃないですか」僕はこみあげるものを堪えながら言った。「黙っていなくなるなんて」「あら、お邪魔しちゃ悪いわ」 我々のや
旅館の主人が運転する軽トラックで、薄暗くなった細い道をミチコさんの実家まで連れていってもらった。それは小ぢんまりとしたトタン屋根の家で、小さな窓から灯りが漏れていた。「みっちゃん!」 主人は軽快に車を降りると、勝手知ったる様子で玄関先に立って、まるで
思いがけないつてが待っていた。「ご存知なんですか?」「ちっちゃい頃、よく一緒におままごとしたのよ。私がこんなんでしょ? よくいじめられたんだけど、みっちゃんはいつも庇ってくれたの」「この近くなんですか?」「そうねぇ、ここから歩いたら20分ぐらいのと
その日は駅の周辺を歩き回っただけで諦めて、駅近くの旅館に泊まった。古びてはいるけれど、由緒ありそうな宿だった。 幸い部屋はたっぷり空いていて、東京から来た若い珍客を歓迎してくれた。「寒かったでしょ? 早くお風呂入るといいわ」 部屋に案内してくれた40
車どころか、駅員に切符を渡してからというもの人影ひとつ見当たらない。 もう午後4時に近かった。近くに旅館があるのは駅の看板で見て知っていたけれど、ここで夜を明かせる自信はなかった。 けれどそんな不安より、とにかくミチコさんに会わなければという思いが先
北陸新幹線がまだ開通していなかった頃、長野県は今よりはるかに遠かった。途中で買った地図を頼りに、上野から特急あさまで軽井沢まで出て、そこから鈍行に乗り換え、車窓に浅間山を望みながらいくつもの駅を通り過ぎた。乗り継ぎも含めて半日の行程でたどり着いたのは、
ミチコさんがひっそりと姿を消したのは12月のことだった。アパートはきれいに引き払っていて、経営していた町工場もいつの間にか他人の手に渡っていた。 僕は自分の住所を伝えていなかったのに、ある日けっこうな金額の書き込まれた小切手が郵便書留で届いた。差出人の
ミチコさんは結婚してすぐ子供を授かった。けれど早くに流産して、それから間もなく夫も亡くした。そんな話も寝物語に話すようになった。「あの子が生きてたら」とミチコさんは暗い天井を眺めながら言った。「ちょうどあなたと同い年よ」 その言葉に、僕は母親のような
それからというもの、毎週土曜日の夜はミチコさんと食事して、少しだけお酒を飲んで、お勤めに励むという流れが定番になった。支援もしてもらっているし、まるで情夫のようではあった。けれどミチコさんのことは人間としても好きだったし、そのふくよかで柔らかな肉体も魅
翌朝はミチコさんと同じベッドで朝を迎えた。僕が目覚めたとき、隣の彼女は裸のままむこう向きに静かな寝息を立てていた。サッシの窓に雨が打ちつけるおとがした。 うちでお茶でも、と誘われたのだけれど、あんな話を聞いたあとでお茶だけで済むはずがない。それは僕も承
その日のミチコさんはふくよかな身体を黒のタイトなワンピースに包み、豊かそうな胸元を大胆に曝け出していた。もしかしてミチコさんは僕ともそういう関係になりたいと言い出すのかと思ってひやひやしていたけれど、そういうそぶりはまったく見せなかった。食事のあと、二
「別に」と僕は言った。「どうでもいいというか、おとな同士のことですし」「そうね。私もマスターも独り者だし、別にいけないことじゃないわ」 まるで僕がドアの前で声を聴いていたことを知っているかのような物言いだった。けれど僕はそのことを黙っていようと思った。
一緒にご飯を食べようということになって、夕方、ミチコさんと新宿のステーキハウスに出かけた。「もしかして」とミチコさんは熱々の肉にナイフを入れながら切り出した。「こないだうちでマスターと一緒にいたこと、何か誤解してない?」「いえ、そんなんじゃないです」
そんなことがあってから、深夜喫茶とは少し疎遠になった。マスターとミチコさんのただならぬ関係を知ってしまうと、どうもあの二人と顔を合わせたくなかった。もちろんあの人たちは僕が玄関先で色っぽい声まで聴いたとは思わないだろうけど、向こうにしてみても二人でアパ
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