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  • 乗り合いバス

    初めてバスに乗ったのは、小学校低学年の頃(昭和14年から16年)だと思う。羽越線坂町駅から汽車に乗り、二つ目の村上駅から母の実家近くのバス停まで何回か乗ったのを覚えている。昭和16年から昭和27年まではバスが走っていない田舎で戦中戦後の混乱期を過ごした爺、昭和28年信越線柏崎市の勤務地へ社会人として赴任するまでバスに乗った記憶はない。昭和28年と言えば爺が二十歳の年である。公務でバスを利用した当時は車内で乗車券を販売していたバスガール、職員旅行で案内してくれたバスガイドの姿が懐かしい。新潟でも昭和38年からは市内の路線バスがワンマン化になってから久しい、車内の様子は様変わり、乗車時と下車時に読み取り機にカードをタッチするだけ、寂しい情景になってしまった。乗り合いバス

  • 長生きしてる

    今日まで内科、外科、歯科、眼科、耳鼻科、皮膚科のお世話になりながら91歳まで生き延びてきた。とりわけ内科の医師からは、生活指導やら食事指導やら細かく言われてきた。85歳の夏に心筋梗塞に見舞われるまでは、年に2回程度風邪をひく程度で常時薬を飲む習慣は無かったが、朝食後に数種類の薬を飲み続ける習慣も身についてしまった。爺は92歳まで生きた母親の体質を引き継いだようだが、3歳年下の妹は74歳でなくなった父親の体質を引き継いだのか、父親と同じ年齢で亡くなっている。カリュームの数値が高めで、漬物、生野菜、果物は控えるようにと指示されている身だが、今日まで健康を維持してきた食習慣を変えることなく、3度の食事を楽しんでいる。長生きしてる

  • 顔と名前

    現役時代は転勤するたびに新任地の職員の名前と顔は短期間に覚えたものだが、加齢とともにテレビでよく見るアナウンサー、スポーツ選手、力士、タレント等々名前が出てこないことが増えた。二十歳の春、社会人として最初の職場の職員数は36人ほどだったが、今も当時の写真を見ながら全員の名前をはっきりと言える。58歳で退職した120人ほどの職場の場合は2割程度だろう。巨人ファンの爺、以前は巨人のレギュラー選手の顔と名前は知り尽くしていたものだが、一軍に定着しない選手の名前は覚えられないでいる。今年から背中の名前が無くなり、覚えにくくなった。子供の頃から見ている大相撲の力士のしこ名も様変わりしてしまった。特に何と呼ぶのか分からない読めない漢字が増えで覚えにくい。山、川、海、里の字のはいったしこ名が力士らしい。顔と名前

  • シラミ

    昭和20年代の家には、ネズミ、蚊、ハエ、ノミ、シラミが我が物顔で同居していた時代だった。とりわけシラミは大半が知らない世代であり、姿かたちから観音様とも言っていた。シラミには、アタマジラミ・ケジラミ・コロモジラミの3種類があって、皮膚から吸血してかゆみや湿疹を起こす昆虫でシラミにまつわる話題も数々ある。中でも清潔にしていても衣服に寄生するコロモジラミには大勢の人が悩まされたのではないだろうか。ノミと違って動きが鈍いので手で簡単に捕らえられた。昭和20年2月に3歳で亡くなった弟が、父が肌着を脱ぐと必ず爪でシラミをつぶすために使っていた小さな板切れを持ってきたとか、父が生前に話していた一粒話を思い出す。シラミ

  • 2人の息子

    6月は息子たちの誕生月、長男は65歳に、次男は60歳になる。共働きの子は不良になると言われた時代の中での子育てだったが、2人とも普通の社会人に成長してくれた。長男は素直な子に育つようにと直(すなお)と名付けたが、名前通りの性格に成長してくれた。60歳からの第2の人生を終えて第3の人生となる年金生活になるがご苦労様でした。次男は昭和39年6月16日の新潟地震の前日に予定より早めに帝王切開で標準よりやや小さく生まれたので、早く力をつけるようにと力(つとむ)と名付け、名前通り力強く成長、現役で頑張ってる。長男には3歳の女の子と3か月になる男の子の孫がいる、次男には、1年4か月になる女の子の孫いる、ラインで送られてくる3人のひ孫の動画や写真から爺と婆は元気を貰ってる。2人の息子

  • 映 画

    小学生の頃は清叔父さんに連れられ当時は活動写真と言っていたチャンバラ映画を、中学生の時は従兄の仁さんと、高校生の時は友達と、西部劇や探偵映画をよく見ていた。社会人になって昭和28年からの下宿生活だった独身時代の娯楽と言えば、映画、パチンコ、麻雀くらいである、交互に毎日を楽しんでいたと言っても過言ではないほど映画をよく見た。職場の先輩で映画館の娘婿の植木氏から時々招待券を貰ったり、給料日前の懐が寂しくなると、先輩の自宅へ遊びに行く。部屋に入ることは無く自宅続きの映画館に案内してくれた。昭和33年に結婚した翌年34年にテレビが入ってからは子供と一緒に漫画を見たり、映画やドラマを見る生活になり映画館へ出かけることはなくなり、今ではテレビもあまり見なくなった。映画

  • 大相撲 雑感

    我が郷土新潟県出身力士の中で唯一の横綱である第36代横綱羽黒山は戦前・戦後の優勝額を併せ持つただ一人の力士という、歴史に名を残す名横綱で郷土の誇りでもある。子供の頃から地方巡業の大相撲を見たり、ラジオ放送を父と一緒に聞いていたのを覚えている。羽黒山の他、双葉山、照国、男女川、名寄岩、大内山,吉葉山の名前が浮かんでくる。今場所は横綱照ノ富士、大関貴景勝、元大関朝の山と高安、先場所110年ぶりに新入幕で優勝した尊富士と休業する力士の多い中で、横綱候補と言われている大の里が場所を盛り上げている。相撲部屋での暴力沙汰が絶えない、有望視されている力士が協会を去って行くとのは寂しい、広く国民から愛されている日本の国技である大相撲から暴力を絶滅して欲しい。大相撲雑感

  • 集合住宅

    学生を対象にしたアパートやマンションが新築されているが、全室入居しているのだろうか、3月に我が家の東側に3階建て15室のアパートには新しい自転車が10台並んでる。アパート名は「アルチェ新大」、調べたらアルチェはイタリア語で「山頂、頂上、砦」のことだとか、最近の集合住宅の呼び名は、英語やフランス語やイタリア語が多いそうで、覚えにくい。「アルチェ新大」の向かい側には、爺がこの地に住み着いた平成元年には存在した二階建てのアパートが二棟があるが、改築する様子もなく今は入居者はいない廃屋状態である。当時は学生たちが、アパートの空き地に集まり、何やら楽しそうに語り合う情景が毎日ように見られ賑やかだった。声を掛け合って親しくなった学生もいた頃が懐かしく思い出される。集合住宅

  • ひ孫との対面

    5月4日、越後線新潟大学前駅に孫夫婦と1歳2か月になったひ孫の莉音ちゃん(女の子)を乗せた電車は11時22分定刻どおり到着、名前を呼んだら「にっこり」顔の可愛かったこと。家で待っていた家内との初対面でも同じにっこり顔、人慣れしているのか、泣くだろうかと思った心配が消えてホッとした。早速に莉緒ちゃんは持参したのお弁当を、食べっぷりの良いこと。我が家で4時間ほどの滞在中、家では見られない親子電話の受話器、うちわ等を手当たり次第に手に取りながら部屋中を歩き回りっていた一連の動作を両親がカメラに収めていた。さっそく受信した写真を見たら、写真は正直に映る。日頃は周りから年齢に見えないと言われているが1歳2か月のひ孫と一緒に写った91歳の爺の顔はやっぱり年老いた年齢通りの顔。ひ孫との対面

  • 公衆トイレ

    トイレの言い方には、いろいろあるが、昔の公衆トイレは全て便所と書かれていた。現代は男性は青色で、女性は赤色でのイラストがほとんどて、たまにお手洗い、化粧室などを見かける。爺が子供の頃の昭和10年代のお年寄りたちは厠(かわや)と言っていた。昔の日本の軍隊では公式の用語だったそうだが、ちなみに小生の爺ちゃん婆ちゃんはお手水(おちょうず)と言っていた。公共施設のトイレには、「トイレットペーパーを持ち帰らないでください」と書いた貼り紙が目立つ。あるところで、貼り紙の「ペーパー」の部分をマジックで黒塗りしてあり苦笑いしたことも。「トイレを綺麗に使っていただいてありがとうございます」という以前とはニュアンスが違った掲示が増えた。その効果が出たのか、掃除が徹底したのか、公衆トイレが綺麗で快適になった。公衆トイレ

  • 母の実家

    昭和10年代の田舎の小学校は、春、夏、冬休みの他に春と秋には農繁期休みがあった。爺は休みになると、しつけのためか、呉服店だった母の実家で過ごしていた時のことを断片的に覚えている。店は殆ど大婆ちゃん(祖父の姉)が針仕事をしながら接客、近郷近在からの馴染み客で賑やかだった。時には爺が店番を頼まれ、お客が来ると大婆ちゃんを呼んだり、針の溝通しを手伝ったりしていた。実家では5歳年上の叔父さん(故人)とは言え、お兄さん的な存在で夏は魚釣りに、冬はスキーに、爺の子守役をしてくれていたと思う。囲碁、将棋、麻雀に才長けた人だった。年の暮れの夜だつた、売掛金の集金のため祖父は大福帳を持ち手首に集金袋をかけ、爺は提灯を持ってついて行ったことがある。現金を受け取ると大福帳の記録を筆で消すことで受領書になる。母の実家

  • 末は博士か大臣か

    将来は博士や大臣のような“立派な人”になって欲しいという子供の将来を期待しての言葉であるが、いつ頃、誰が言ったものか不明らしい。現代ではあまり聞かなくなった。明治維新で徳川幕府が消滅し、若者たちの新政権下での夢は、1番が政治家になること、2番が学者だつたことからではないかとも言われているが、現代っ子は望んではいない。小学生男子は、1位YouTuber、2位スポーツ選手、女子は、1位パティシエ、2位看護師、中学高校になると男子は、1位会社員、2位公務員、女子は1位会社員2位看護師と現実的な職業になる。学問や政治を志す若者にとって目指す到達点であることは変わりがない。学者は博士を目指して励み、政治家は大臣に憧れ、順番を待ち続け、たまに適材適所でない方も見受ける。末は博士か大臣か

  • ヤミ米

    昭和16年12月に大東亜戦争が始まった翌年の2月、食糧管理法が制定されお米は政府の管理になった。米穀通帳と言うものが各家庭に配られ、販売店も指定され配給量も決められてしまった。配給量では足りないので農家等から買った米をヤミ米と言っていた。昭和20年の終戦後は満州、朝鮮、台湾からの引揚者により人口が急増したことで食糧不足が深刻であった。警察当局によるヤミ米の摘発が盛んにおこなわれていた、汽車通学の中学生だった爺、列車内で怒号が飛び交う中で没収されるヤミ米、泣き崩れて警察官に泣きすがる女性の姿が忘れられない。我が家でも、母が近くの農家から衣類と交換して米を求めてきた。配給米は玄米、農家から買った米は白米で一目でわかる。爺の白米の弁当を見て、農家の子たちにヤミ米だと騒がれたことも。ヤミ米

  • 春が来た

    昨年の夏の記録的な猛暑に続き冬は暖冬小雪と異常気象の中で、我が家の庭には福寿草が予定通り3月には咲いてくれたし、今は水仙の花盛り、偉大な自然の力が心を和ませくれる。我が家の東側には昨年10月に3階建て15世帯のアパートの新築工事が始まり3月下旬に竣工、早速に大型車両が家財道具を運んでくる、自転車小屋には真新しい自転車が並んでいる。お米をとぐ前のお釜のご飯粒や米櫃周りに零れた僅かな米は庭に捨てることで、スズメが一粒残さず食べてくれる、また庭に捨てたキャベツの外側の葉、今年も虫が食べ始めたようである。新潟は桜の花盛り、新入生、新入社員は、そろそろ環境の変化に慣れたろうか、関東に居る3月に3歳になったひこ孫も幼稚園入園、母親に手を引かれた制服姿の写真の可愛いこと。春が来た

  • 雑 感

    新しくなった新潟駅を見たいと思っていたが、生粋の新潟っ子の知人の話では、3回も尋ねながら目的地にたどり着いたと聞いて、誰かに案内してもらって行くことにしたい。生来のせっかちな性格もあるが、スーパーの買い物でマイバックを忘れたり、郵便局専用の振込用紙で銀行窓口で断られたり、時計を見間違えて早く起きてしまったり、みんな一度だけだが。運転免許証を返納して1年半、タクシーは運転経歴証明書を提示することで1割引きになる。利用する度に番号を控える人、証明書を確認するだけの人、統一できないものかと。高校同級生の新野君とは年賀はがきが初めて発売された高校2年生の1949年12月から75年続いた年賀の友である。今年の年賀状には、「元気で頑張っていますか」と、最後の年賀状になるとは。雑感

  • プロ野球開幕

    3月29日、今年のプロ野球ペナントレースが開幕した。昨年の日本一阪神と今年こそ優勝を義務付けられた阿部新家督率いる巨人との一戦、巨人ファンにとって久しぶりの喜びだった。去年の巨人の開幕戦は最下位だった中日に3対6で敗れ、阪神とは6勝18敗1引き分けだった嫌なイメージを払拭させた一勝であり、に投打ともに安定した巨人戦、最後までテレビ観戦を。初の開幕投手になった戸郷、セーブの大勢のピッチング、試合の流れを変えたベテラン梶谷ファインプレー、続いてホームランはお見事、阿部新監督の思惑通りの試合になった。阪神とは2勝1敗と勝ち越したものの、中日には2連敗中とは、喜んだり不安になったり、阿部新監督の采配に期待して今年の巨人戦を楽しみながら今年こそ日本一になることを祈る。プロ野球開幕

  • 大相撲

    日本人横綱はいない、郷土出身力士がいない、日本人大関の高安、正代、御嶽海には、前頭に陥落したままで横綱への期待は無くなり、新大関琴の若の活躍に期待した春場所が終わった。琴の若を中心の場所になるかと思ったら、新入幕の尊富士が優勝、110年ぶりの快挙だそうで、更に初場所に入幕して敢闘賞の大の里大が最後まで優勝争いで、尊富士と二人で盛り上げた場所だった。想像だが、琴の若には気楽だったろう、祖父のしこ名横綱琴桜になる来場所に期待したいし、尊富士は前頭上位に躍進、大野山は新三役だろうか、上位陣との対戦が楽しみな場所になる。期待できる郷土力士はいないのが少々つ寂しいが、5月の夏場所では琴の若、尊富士、大野里の若きホープの活躍を楽しみにしとてい。研究されて今場所より苦戦するだろうが応援したい。大相撲

  • 公衆トイレ

    トイレの言い方は、便所、厠(かわや)、雪隠(せっちん)、はばかり、ご不浄お手水(おちょうず)など色々あるが、現在では「トイレ」が普通であり、日本語として認知されている。「厠(かわや)」は、現在では使われていないが、昔の日本の軍隊では公式の用語であったそうであり、確か爺が子供の頃の昭和10年代のお年寄りたちが使っていたのを覚えている。和式から洋式へとトイレの中も変わったことで、座りながらスマホに触ってしまうという人が多くなり、落書をするのではなくスマホからメッセージのやり取りをしているとか。「トイレットペーパーを持ち帰らないでください」と書いた貼り紙が目立ってきた、あるところで、貼り紙の「ペーパー」の部分をマジックで黒塗りしてあったのを見て思わず苦笑い。公衆トイレ

  • 好きな食べ物

    食糧難時代を体験したためか、食べ物に好き嫌いが無い爺、91歳まで生きた要因のひとつかも、「好きな食べものは」と問われると、迷わず「赤飯、桜餅、甘納豆」と答えてきた。生前の義弟(家内の弟)が、我が家に来るときは何時も赤飯を持ってきたもの、また、爺の誕生日には知人のS氏から赤飯が届く、家内は赤飯が苦手とあって殆ど爺が一人で食べる。今年もご近所のAさんから自家製の桜餅をいただいた、ご先祖様と愛犬が眠る供養塔の写真前にお供えして、仏様が食べ終わるまで待ち遠しかったが、市販の桜餅とは風味が全く違う。下宿生活だつた独身時代のこと、職場のM先輩が酒を飲んで朝帰りした時は、爺と一緒に過ごしたことにしてアリバイ作り、手土産は何時も甘納豆、奥様からのお礼も甘納豆だった。好きな食べ物

  • 愉快な飲んべたち

    酒は百薬の長と言って適量の酒はどんな良薬よりも効果があるが、飲み方次第で毒にもなる代物。色々な酒癖の人と出会ったが、ちょっと愉快な3人の飲んべを紹介する。昭和34年頃、同じ職員アパーの2階に住む田村氏、酒を飲んで帰宅の際は、決まって3階の我が家のドアをノックする、施錠していない時は、玄関に入り込んできたことも。昭和46年の職場の友の山口氏、帰宅前に居酒屋で晩酌する飲んべ、話し相手に何回か誘われた。爺が何を飲もうが、食べようが無頓着、無理強いもしない、面白くもない話をしながら喜びに浸る。2度、職場を共にした婿養子のK氏、外で飲んだ時は奥様がマイカーで迎えに来る、「こんなに遅い時間に女性の方から送っていただきありがとうございます」と丁重にお礼の挨拶をする。愉快な飲んべたち

  • 91歳になった

    先輩はもとより、同期の仲間の殆どが石のシャッポを被って彼の地でお休みなさっている中で、この世に取り残された吾輩は3月8日には無事に91歳の誕生日を迎えた。見た目で姿勢がいいとか、声に張りがあるとか、元気だねとか、色々言われるが、爺には内緒で心身ともに老化が進んでおり、日頃の言動から年を取ったことを痛感するこの頃である。掃除も厳しくなって、手抜きしながらも一部屋ごとに一休み、思い物を持っては手首を痛め、寝違えてあちこちの痛みで、何時も体のどこからか湿布の匂いかする無理できない体になった。厚労省の調査資料によると、91歳の平均余命は3年とあるが、いくつまで生き延びられるのかは運命に従うしかない。時々年上の元気で明るく話好きな高齢者と語り合いたい気持ちになる。91歳になった

  • 好きだった上司

    58歳まで半世紀の公務員生活から第二の人生は造園業界の事務局へ、異質な環境の中で戸惑う爺に全面的な信頼を寄せてくれた責任者の片岡氏(故人)を懐かしく、時々思い出している。陸軍士官学校出身で身長180センチ近い大男、終戦時の位は佐官クラス、戦時下であれば近寄りがたい存在、戦後は会社を設立、市議商工関係の役職など地域の名士として活躍された御仁である。過去の市議、商工関係、軍人時代の話題は自らは殆どしなかったが、南京虐殺事件と沖縄戦に関して一部を反論しながら自身の認識を語ってくれたことが印象深く、納得できる内容だった。造園業の社団法人代表として、当時80代半ばだったが、元気はつらつ、若い会員にも何時も同じ目線で話しかけ耳を傾けてくれる姿は好々爺といったところ。心が温まる存在だった。好きだった上司

  • 老夫婦の朝

    90歳の老夫婦ともなると、全ての動作が鈍くなったが、三日か四日に一度スーパーへ買い物に出かける。昔ながらの食材を買い求め、3度の食事は全て子供の頃から食べ慣れた和食である。朝の2時半前後には目を覚まし、朝茶を飲みながら家内は読書や編み物、今はアームウォーマーを編み続けている、爺はブログづくりや現在46人のブログ仲間の作品を読んだりしてる。5時には夫婦共同で朝食の準備、前日の夕食後12時間、起床後3時間後の朝食は待ち遠しく、空腹感で3度の食事で一番美味しく食べている、今の時期まだ周りの家々の明かりはない。食事が終わると、ご先祖様にローソクと線香を灯して手を合わせる。洗顔、手抜きしながらの掃除、洗濯などすませば、寝るまで自由時間になる、こんな生活が何時まで続くやら。老夫婦の朝

  • 通勤仲間

    昭和49年から2年間、50歳代の阿部氏、30歳代の岩佐氏、40歳代の爺の3人が交代でマイカー通勤していた時のことをふと思い出した。周りから羨ましがられるほど気の合った仲間だった。阿部氏は、温厚で真面目一筋、笑う時は声を出すことはなく両肩が上下に動くだけ、岩佐氏は、対照的に賑やかな性格で、面白い話題を一人喋り、40分ほどの車内で退屈することは無かった。ある日、阿部氏の運転日だった、楽しい話題に夢中になってスピードを出し過ぎたのか、サイレンを鳴らした白バイのお兄ちゃんから停車を命じられ、反則切符をもらったことがあった。阿部氏は58歳で退職後は建設業界へ転出後間もなく病で還暦前に亡くなり、岩佐氏は若い頃からの酒の飲み過ぎで体調を壊し、定年前に亡くなる。相変わらず良く喋る岩佐氏の夢を見た。通勤仲間

  • 月極駐車場

    我が家に隣接する東側は15台が駐車できる月極駐車場である。現在の利用台数は13台、県内車は3台で他は県外車で占められている。利用者は近くのアパートなどに住む人たちであろう。爺が現在の地に転居した33年前は、スイカと大根畑だったが、耕作者の高齢化で駐車場になってから20年以上になる。舗装されていないので月3500円だと聞いている。当初は県外出身の学生が殆どで、4月の年度替わりには利用者が入れ替わる。我が家の窓越しに学生たちに声をかけると、挨拶は出会いの始まりと言うが、翌日からは挨拶が返って来た。中には、親しくなって我が家でお茶飲みしたり、たまには食事をしたりした学生もいて、結婚式に案内されたこともあった。今時の学生たちは気質が変ったのか、声をかけても繋がらない。月極駐車場

  • 近頃の思い

    薪を背負って歩きながら熱心に本を読んでいた二宮金次郎、鞄を担いで歩きながら熱心にスマホと向き合っている若者、熱心さに変わりないが、横断歩道では左右の確認して命を大切に。相変わらず編み物好きな老妻、今の時期はアームウーマーを楽しみながら編み続ける日々、成果品は、全て知人やスーパーで親しくなった女性店員に、喜んでもらって楽しんでいる。某寺院の住職が「今日を大切に」と題した講話、80歳まで生きたとして、27年は睡眠時間、10年は食事の時間、5年はトイレの時間を除くと、仕事や趣味などに使える時間は38年しかないと。共働きの時から調理時間が短く、皿数が少なく、栄養バランスが取りやすく、果物が合うなど合理的でメリットの多い朝のパン食をご飯にしてから半年ほどになるが、パン食より美味しい。近頃の思い

  • 3人のひ孫

    1番目のひ孫の女の子紗奈ちゃん、3月には3歳になり4月から保育園に入園する。保育園からの入園許可証を両手で掲げた写真がきたが、本人は何も分かっていないかも。誕生から今日までの成長する様子はラインを通して見ているがコロナ騒ぎで会っていない。知恵付きは早いが、まだおむつが取れないようで、目下訓練中だとか。2番目のひ孫の女の子莉音ちゃん、今月22日には一歳になる。スマホで莉音ちゃんのアルバムを見るのが朝一番の楽しみ、数歩ほど歩き始めたところ、会える日が待ち遠しい。3番目のひ孫、紗奈ちゃんの弟が2月3日早朝に無事誕生の知らせがあり、逞しい顔の男の子の写真が夕方には早速に送信されてきた。これで楽しみが3倍になった。3人のひ孫

  • 老いを痛感

    男性の平均寿命81歳を超えてから10年、人生の終電車に乗って終着駅に向かっていると言ってもいい年齢である。二人の息子が支援要請手続きをするのも無理からぬことだと思う。90歳の壁を越えてからの1年を振り返ると、爺には内緒で目に見えないところで老化現象が起きている。ひざ痛、首痛、胃もたれで受診したが、全て加齢による老化と診断された。ゆっくり歩いて10分ほどで行ける100円ショップと本屋まで途中で一度腰を伸ばして一休み、通学する大学生たちは、みんな爺を追い越していく姿を見ながら老いを痛感する。掃除機での掃除も厳しくなって、手抜きしながらも一部屋ごとに一休み、思い物持っては手首の痛め、寝違えてあちこちの痛みで、何時も体のどこかに湿布が、無理のできない体になってしまった。老いを痛感

  • 時代劇

    子供の頃に見た時代劇で記憶にあるのは、チャンバラ場面を震えながら見ていた嵐寛寿郎が演ずる「鞍馬天狗」、好きな時代劇を問われたら、市川歌右衛門が演ずる痛快時代劇「旗本退屈男」か。時代劇に登場する代表的なものに庶民長屋がある、長屋の管理人の大家さん、家賃の取り立て以外に、今でいう行政書士や民生委員の役目を勤めながら長屋の住民から親のように慕われた存在だ。悪代官、悪徳商人、大店のどら息子、怠け者の大工や植木職人、傘張り浪人など日銭を稼ぎながらの貧乏人達が登場するが、令和の御代でも名称は違っても似たようなのは存在する。居間、食堂、寝室を兼ねた一部屋の庶民長屋、今で言うワンルームマンションだが、長屋全体が大家さんを中心に堅い絆で結ばれている情景は、福祉の原点を見ているようで、ほのぼの気分に。時代劇

  • 年賀状じまい

    年賀状じまい等で年々少なくなって今年は80枚程になった。当選番号が発表され、毎年2,3枚が当たる利用することもない切手シートでも、初めて当選ゼロとは少々寂しい。高校2年生だった昭和24年12月1日に初めて発売された年賀状も、メールやSNSで、年賀状を書く手間、節約のため、高齢者層の終活などで、年々減少の一途、何れ無くなるような気がする。年賀状について本音の意見を聞いたら、47.4%が「そのうちやめたい」、22.7%は「すぐにでもやめたい」、「まだ続けても良い」は24.0%で、7割がやめたいと思っているそうである。爺は今のところ、自ら年賀じまいのご挨拶をするほど気力は落ちていないので、現役時代から添え書きのある知人、友人、後輩からの年賀状だけは、楽しみながら書き続けていきたい。年賀状じまい

  • 要支援認定申請

    今年の誕生日が来れば91歳になる老夫婦、日常の簡単な家事は共同でやりながら、介護のお世話にならずに何とか自立した日々を過ごしているが、大きな家事は無理になった。壁掛け時計の電池交換、蛍光灯の取り換え、高所の作業などは便利屋さんに、庭木の剪定を庭師さんに頼んでいるが、寝具類の洗濯や入れ替え、大掃除、室内のバリアフリー化を思料している。実態を見た、関東にいる長男(64歳)と次男(59)歳の判断ですすめた要支援認定申請に基づいて、去る1月15日に2人の息子の立ち合いの中で調査員による調査を受けたところ。調査項目が75項目ですと言われ、日常生活の実態、認知機能、歩き方、寝返り、手足の動き等々で約一時間ほどを要した。要支援対象の是非についての認定まで約一か月ほどかかるらしい。要支援認定申請

  • 救急車

    アメリカやドイツなど救急車の出動が有料の国では、1回の出動ごとにおよそ数万円から10万円程度の費用を請求されるそうで、日本は無料で病院へ運んでくれるのでありがたく感謝あるのみである。誰も乗りたくもない救急車に4回もお世話になったが、乗用車と違って乗り心地は極めて悪い。タイヤが路面からの衝撃を和らげるためのサスペンションと言う部品が固いためだと知る。救急車は患者さんを乗せて、急いで搬送するので一般的な車に比べて激しい運転をすることが多くなり、乗り心地の良いふんわりとしたサスペンションでは車体が不安定になってしまい、危険になってしまう。また、救急車は中で救急隊員が作業をするので車自体が高く重心が高いので、コーナーを曲がった時にひっくり返らないように、固い足回りにしているといった理由だとか。救急車

  • 御 用

    一般的には、新年が明けて仕事を行う1月4日を仕事始めと言うが、それに対して役所などの官公庁では、今では耳にしないが、新年が明けて初めて公務をする日を御用始めと呼んでいた。民間企業でも、1960年代ごろまでは御用始めという言葉が使われ、テレビやラジオのニュースなどでも使われていたらしいが、固い印象があるため、現在はあまり使われていない。時代劇などでよく見る「御用だ!御用だ」と役人が叫ぶシーンは罪人を捕まえる公務(御用)を行っているという意味で、罪人に対して「おとなしくしなさいという意味だとか。幕末に活躍した新撰組の有名なセリフで「御用改めである」という言葉を現代の言葉に置き換えると「我々の公務である取り調べを行います」という意味になるんだそうで。御用

  • 大きな揺れ

    元日に発生した能登半島地震に正月気分も吹っ飛んでしまい、こんなに大きな揺れは90年の人生の中で初めて体験した。横揺れで倒れそうになった食器棚を夢中で抑え事なきを得た。昭和39年6月16日に発生した新潟地震を思い出した。爺は前日の15日に帝王切開で次男を出産した家内のベットの傍にいた時だった、身動き出来ない中で揺れの止むのを待った。地震の直後からファンヒーターもガスコンロも使えなくなった。近所の奥さんがメーター機の安全装置が作動したのだとの助言で、ガス会社ホームページの動画のとおり操作して復帰させた。翌2日午前は、子供、孫、親せき、知人からのお見舞いの電話対応に追われた。年始の決まった挨拶は程々に、地震の話題に終始する長電話になってしまった。大きな揺れ

  • 新年になった

    「爺の世間ばなし」を訪れてくれる読者の皆さん,明けましておめでとうございます。お陰様で初投稿してから17年になりました。今年も是非お立ち寄りくださいますようお願いします。「1年の計は元旦にあり」、老夫婦にとっての計は、今年も転倒→骨折→寝たきりにならないことだけ、入浴時や外出時には必ず「転ばないように」と夫婦の間で声を掛け合っている。楽しかったお正月と言えば、幼い頃の孫たちと一緒に過ごした時と、小学生の頃に近所の子供たちと、炬燵を囲んでトランプ、花がるた、百人一首で遊んだことが懐かしく思い出す。幼稚園の頃から一人で我が家に来ていた孫娘のUちゃんが二人目の子を身ごもっており2月の出産を待っている。今度は男の子だとか、爺にとっては3人目のひこ孫の誕生、安産を祈っている。新年になった

  • 今年も僅か

    夫婦ともに卒寿を迎えた今年もあと僅か、ひ孫の誕生で喜んだり、救急車の世話になったり、建設的でない口争いをしながらも大きな災いもなく新年を迎えられるようである。今年最後の「爺の世間ばなし」も、2007年5月2日に初めて投稿してから今日で1111回になった。つたないブログだが愛読してくれる読者の存在が励みになって続いている。高齢で年賀じまいをする仲間が多い中で、爺は今年も20日には投函、元旦の配達に間に合わせた。職場の後輩21人に昔の顔を懐かしく思い出しながら添え書くのが一番楽しい。神棚と仏様の埃を落とし鎮守様の新しいお札を納めたところ、仏様は毎朝お線香とローソクをともして手を合わせるが、神様には31日一年のお礼を申し上げ、翌1日には一年の健康を願う。今年も僅か

  • 我が家の環境

    平成元年4月に現在の地に転居して35年目になる。周りは野菜やスイカ畑に囲まれ、キジが悠々と歩き回り、ハトが集団で飛び回り、スズメが砂浴びしている喉かな情景だつた。今ではほとんどの畑が学生マンションや駐車場と化してしまった。残った我が家の前の畑も持ち主の高齢化で昨年二軒の住宅に変わり、裏手の畑には三階建てのアパートが建設中である。我が家の東側に隣接する15区画の駐車場も、近隣にマンションが新築されてから満車近くになった。以前は地方出身の大学生たちが、駐車場で談笑する賑やかな場だったが今はない。毎年、春になると見慣れない学生と出会い、声を掛け合う楽しい雰囲気があった。一度声をかけると、翌日には挨拶が返ってきたものだが、現代っ子は声掛けしても何の反応もない。我が家の環境

  • 年の暮れ

    我が家の年の暮れの定例行事は、お歳暮、年賀状、餅つき、元気な証拠として続けているお歳暮を今年も贈ることが出来てホッとしているところ、掃除は神棚、寝間、台所、居間だけ。明るい話題は2月22日、ひこ孫の莉音ちゃんが生まれたこと、写真や動画を毎日スマホで見るのが何よりの楽しみ、今は髪も増えて女の子らしく、伝え歩きするようになり、順調に成長している。暗い話題は、借金もしていないのに、3日の朝のこと、首に違和感があり9時頃には痛みに我慢できなく、5年前の心筋梗塞時以来4度目の乗り心地の悪い救急車のお世話になった。3月に爺が、8月に家内が、90歳の壁を越え、諸動作が鈍くなり、無理できないので、家事は全て共同作業。残り少なくなった一生を大切に新年を迎えたい。年の暮れ

  • 首が痛くて

    12月3日(日)朝のこと、首から肩にかけて寝違いたような痛みを感じたが、時々あることで気にもしなかったが、9時頃になったら強い痛みが首全体に広がり我慢できなくなった。緊急ボタンを押して警備保障会社に通報、混んでいたらしく救急車が来るまで時間か掛かった。救命士からの質問に症状を一通り説明後、病院が決まるまでに車内での待機時間は長く感じた。近くの病院はダメで、遠い新潟脳外科病院に運ばれた。脳と頚部のMRI、心電図、を終わってからは痛みに耐えながら待機、午後1時半ごろ主治医から「急性項部強直」と診断され、内科的には異常無く帰宅。4日は痛み止めの座薬で痛みは少し和らいだが、5日市内の整形外科で頚部のX線撮影、ブロック注射、電機治療を、痛みが止まるまで一週間ほどかかると言われたとおり、9日には湿布不要になる。首が痛くて

  • 歩いたもんだ

    ある調査によると現代の子供たちは昔の子供たちに比べると一日の歩数が激減して、30年前の子供たちは一日の歩数が27000歩だったが現代は13000歩になっとある。戦時下だつた国民学校初等科時代は体力向上のため行軍と言う名の下で遠足が頻繁に行われていた。4年生の時だった隣村まで1時間近く歩いてからの登山は虚弱体質だった爺には堪えた。田舎育ちの爺、小学生で低学年の頃のこと、疲れも知らずによく歩いたもんだと思い出すのが、夏休みに上級生に連れられて荒川の河口でのハゼ釣りに、片道一時間以上は歩いたと思う。また同じころ、両親と新潟市へ遊びに行った時も、新潟駅から万代橋を渡り、大和デパート、小林百貨店、白山公園、昭和橋経由で新潟駅まで歩いたとは驚き、新潟を知る人なら分かるかと。歩いたもんだ

  • 大相撲雑感

    新潟市出身の時津風部屋の豊山が3役の壁に向かって足踏みしながら引退、佐渡市出身の元十両朝乃若も幕下で足踏み状態、郷土の関取二人とも姿を消してから、テレビ観戦は少なくなった。元大関の高安、御嶽海、正代3力士たち再挑戦する意欲を感じないのが気になるし寂しい、不祥事で幕下から再起した元大関朝乃山も幕内優勝して賜杯を手にした頃の強さは見られない。期待している将来が楽しみな力士として、二所ノ関部屋の22歳の大の里である。192cm177kgと恵まれた体格の大の里は全日本選手権連覇を果たすなど、将来の横綱候補と呼び声も高い。幕内最年少の21歳186センチ182キロの熱海富士がさえている。元大関魁皇の審判長は「力を付けた」と,また元横綱白鵬も「細かい相撲が取れるようになった」と、楽しみな力士である。大相撲雑感

  • ナンプレ

    脳に適度な刺激が加われば、脳内の血流が良くなり脳が活性化されることで認知機能の低下を防ぐことができるので、結果的に認知症の予防効果が期待できると言われているが。精神科医の和田秀樹氏によると、ナンプレは同じような問題を解いても脳が慣れてしまい、問題を解く能力は上がるが、特定の脳の部位は鍛えられ、認知機能までは上がらないと言ってる。イギリスで最も権威がある新聞の一つであるデイリーメイル紙には、ナンプレには主に三つの効果があることが分かったと、脳の健康を保つこと、イヤマームを治すこと、記憶力を改善すると。効果のほどは色々と言われてるが、暇つぶしにナンプレを楽しんでから1年近くになる。現在の正解率は初級が100%、初中級が52%、中級が50%、今の実力は初級と中級の中間位か。ナンプレ

  • 読売巨人

    プロ野球の公式戦日程が終了した、セリーグは阪神、パリーグはオリックスと関西勢同士の日本シリーズは老いても巨人ファンの爺には関心が薄く、翌朝にパソコンで結果を見ただけ。昔から巨人には常勝という使命があり、常に優れた成績を維持することが求められ、2位も6位も一緒なのである。監督コーチ陣は、采配が疑問だ、休養だ、交代だと騒がれるのも宿命である。選手の獲得競争中、現代っ子は職場環境を重視するようになり、原監督の好き嫌い人事や使い捨て起用、阿部新監督のパワハラ気質が懸念され、球児の憧れだった巨人では無くなったようだ。オリックスから近藤大亮投手が巨人に移籍が決まった。背番号は江川卓氏が背負った「30」、小さい頃から巨人ファンで阿部監督の下敷きを使っていたとか、期待したい。読売巨人

  • 身近の技術者

    フルセルフレジ、セミセルフレジのスーパーが増えてきたが、爺はフルサービスのレジを利用している。マイバックに瞬時に手際よく商品を詰めてくれるレジ係の腕前は技術者である。4日は、何時もの庭師さんと助手の二人が来てくれた。イチジク,梅、松、月桂樹,ネズミモチの剪定を2時間ほどで終わった。終わった後の樹形の美しいこと、その道のプロだと実感する。11日は床屋さんへ、ベテランの中年女性A子さんにお任せ、四方山話をしながら終了まで80分、手探りで髭を探す柔らかい手は心地よい眠りの世界に連れて行ってくれる。パソコンに出会って22年になる、今はパソコン相談所の会員になってトラブルや疑問があると電話や往診して指導してくれるKさんに尋ねると知らないことは無い心強い技術者がいる。身近の技術者

  • 加齢による症状

    爺に内緒で老化が着々と進んでいるようで生活動作が鈍くなってきた。筋力が低下し柔軟性がなくなり、神経の伝達速度が遅くなったことから、素早く動けなくなったのだとか。朝晩の着替えで、特にズボンを履く時に、立ったまま最初に左足はスムーズに履けるが、次に右足を履く時は柱や壁に寄りかかり、ふらつきながらも転ばないよう慎重に履いている。スーパでの精算はクレジットカードだが、病院、コンビニ、書店、ホームセンター、タクシー、バスなどで精算する際の財布から現金の出し入れが手間取り歯がゆい思いをしている。もの忘れ、就寝時にトイレの回数が増えた、耳が聞こえづらくなった、夕方に目が見えにくくなった、階段を上りに息切れする等、誰にでも起こる加齢による症状が揃ってしまった。加齢による症状

  • 年賀状

    今年も年賀はがきの発売が始まり発売初年度の昭和24年12月1日から75年になる。年賀はがきのアイデアは、京都在住のアマチュア画家で林正治さんと言う方が考案したものだと知った。爺の年賀状住所録には69人、家内は24人の氏名が記載されてる。彼の地に行かれた先輩の皆さんや年賀終いされた皆さんなどで、現役時代の半数近くになってしまった。発売初年度時は高校2年生だった。初年度から年賀状の交換しているのは、唯一同級生のN君だけである。彼とは学生時代、社会人を通して親しい間柄でなかったのに不思議な友である。退職してから32年も経っているのに、まだ現役時代の職場の21人の後輩からコメント付きの年賀状がくる。懐かしく、楽しみで、元気づけられている。みんな爺ちゃん婆ちゃんに。年賀状

  • 短気だった父

    地震雷火事親父の諺どおり、爺が子供の頃の父は短気な人で怖い存在だったが、国鉄を定年で退職してから74歳で一生が終わるまでの父は別人のように優しい人に変わった。爺が兄のように慕っていた5歳年上の従兄の仁さんが言っていた、「お前の両親は夫婦喧嘩が絶えなかった」と、爺も小学生の頃は父が大嫌いで、父が夜勤の日は嬉しかったもの。察するに爺が3歳前後の頃か、爺は母親に手を引かれて玄関の土間に立っている、何やら叫んでいる父、父をたしなめているお婆ちゃん(父の母)の情景を覚えている。今に思えばSLの機関助手、機関士として、狭い運転室の中で、夏は高温、冬は厳寒、激しい振動の中での長い乗務時間は重労働であり、特に夜勤明けは疲れていたのだろう。短気だった父

  • 年を取った

    90歳の壁を越えてから8か月、一生が間もなく終わる年なんだと思うようになった。こんなに長生きするとは思ってもみなかったが、楽しいことも嫌な思いいもしながら生きてしまった。90歳3か月になる老妻とともに、2時半前後には起床、5時半朝食、11時昼食、4時半夕食、入浴をすませば、6時には寝床でテレビを見ながら睡眠の日々は、世間様とずれている。定期の外出は3日に一度のスーパでの食料補給と月に一回かかりつけ医から薬の補給だけ、3度の食事だけは欠かすことなく、美味しく食べ続けていることが、長生きの要因になっているのかも。夫婦ともに風邪一つ引かず、健康状態は良しとするが、寄る年波には勝てず、生活動作が鈍くなり、掃除、洗濯、炊事などすべての家事は共同作業で何とかこなしながら自立している。年を取った

  • クライマックスシリーズ

    毎年のようにクライマックスシリーズが始まるとネット上でファンから不要論が飛び交うが、ある調査によると半数近くのファンは継続してほしいと考えている人が多いとか。C・Sは、レギュラーシーズンの優勝チームが早々に決まっても、2位、3位争いへの興味・関心が維持され消化試合が激減し、またチケット、グッズ等の売り上げにもつながっていると言う。2010年のペナントで3位だった千葉ロッテがC・Sで勝ち上がって、日本シリーズで中日を破り「史上最大の下剋上」と呼ばれ、日本一に輝いたことから不要論が起きたようだ。巨人OBの江川氏が1年間必死で戦ったペナントを簡単にひっくり返されないようにするため、1位チームには2勝、2位チームには1勝のアドバンテージを与えるべきと提案している。クライマックスシリーズ

  • 寝床で転ぶ

    10月8日~9日、長男夫婦と上越市の鵜の浜温泉へ軽自動車で久しぶりの旅で疲れたのか、夜半に小用のため寝床から起き上がる際によろけて、傍にあった座椅子に当たり左耳を負傷した。座椅子に当たった左のみみたぼの一センチほどのキリ傷から出血で、長男夫婦から応急措置をしてもらったが、血液サラサラ服用をしているので、血が止まるまで時間がかかった。翌朝には傷の痛みも和らぎ、出血は収まったものの、頭を動かしたり、車中で段差のある道路を通過する時に軽い頭痛があったが、疲れのためだろうと気にもせずに過ごした。11日夕方になっても頭痛は収まらず、左の首から背中にかけての痛みも出たので、翌12日病院で脳のCT検査、頭痛は出血によるもの、首と背中の痛みは筋肉痛と診断された。寝床で転ぶ

  • バスの車内で

    我が家から日頃利用しているバス停まで徒歩2分、新潟大学への通学道路であることから、土曜日曜以外はバスの運行本数も他の路線に比べると多いので便利に利用している。通学時間帯以外は何時も客は数人程度であるが、通学時間帯では大学生で満員になり、吊革につかまって乗車することがある。座っている学生たちはスマホに夢中、席を譲る気配はなかった。膝に違和感があり杖をついて乗った時は席を譲ってくれたのに、多分、軽快な服装と息子からもらった若者向きの帽子、マスクを付けて、動きも普通なので爺を若く見積もったのかも。爺が利用するバスは、大学生と買い物、通院のための高齢者が殆ど、乗り降りははカードをタッチするだけ、爺のように現金で支払う客は少なく、昔のバスとは随分と変ってしまった。バスの車内で

  • 笑いも色々

    免疫学の権威で新潟大学の安保教授(故人)が、笑いは体の免疫力を高め、血液の流れを活発にするので、笑わない人にはコチョコチョしてでも笑わせなさいと言うほど笑いを勧めていた。動物の中で笑うのは人間だけだが、笑い方は人それぞれで、エネルギーが消耗するほど大声で大笑いする人もいるし、小笑いと言うか頬をゆるませるだけの人もおられる。安保先生は人の顔には笑顔を作るための表情筋が36本あるが、年をとるにつれて表情が乏しくなるので、日ごろから唇の端を意識して上げて、口元をニッコリとする練習を薦めていた。カラスの鳴かない日があっても、テレビで手をたたきながら笑ってる番組を見ない日はない、出演者の性格にもよるが、大げさに笑って見せることで番組の雰囲気を盛り上げているのであろう。笑いも色々

  • タクシー業界

    全国のタクシー運転手の平均年齢が令和3年の調査によると60,3歳と高齢化していると言う。確かに日頃スーパーと通院でタクシーを利用しているが若い運転手に出会ったことは無い。運転免許返納してから1年以上になるので、タクシー運転手とも顔馴染みになり、話好き運転手に出会うと短時間の乗車だが、会話が飛び交い、タクシー業界の現状を知ることもある。祝日の9月23日、何時ものように買い物のためタクシーを頼んだが、行きは30分待ち、帰りは1時間待ちとなった。お彼岸でお墓参りで混んでいるのだろうと思っていたが。運転手に尋ねたら、タクシー利用者の殆どは高齢者の通院に利用するのが実態なので、病院の休診日である日曜祝日は、会社は経営上から運転手を半分にするそうで、以後は日曜祝日は買い物は控えてる。タクシー業界

  • 今年の夏は

    暑中見舞い、残暑見舞い、極暑見舞いをメールし合った今年の夏も、「暑さ寒さも彼岸まで」の慣用句のとおり、凌ぎ易くなって、昨夜から夜間のエアコンも途中で停止うするようになった。「辛いこともいずれ時期が来れば去っていく」という意味の諺としても用いられている、低体温のためか、寒さに弱いが、暑さに弱音を吐くことのない爺も、今年は辛かった。確かに年を取ってからは、普段は朝茶と食後の白湯を飲む以外の水分を取ることは殆ど無いが、今年だけは当局からの指示通りエアコン、扇風機の使用、こまめに水分補給を続けた。植えてから20年ほどになる我が家のイチジクも今年は夏バテしてしまった。毎年老夫婦だけでは食べきれないほど収穫で、ご近所の親しい方々にお裾分けしていたのも、今年はお詫びを。今年の夏は

  • バスの乗り違い

    今月17日のこと、新潟は熱中症アラートが発令された暑い暑い一日だつた。家内に頼まれ買い忘れた品を買いにスーパーまで乗り慣れたバスに乗ったが、方向違いのバスに乗ってしまった。乗ってから直ぐに気がつき、間違ったので止めてくださいと運転手に頼んだが断られ、次のバス停で下車、料金はよろしいと言われ、乗車したバス停まで10分ほど、ゆっくりと歩いた。買い物する元気もなくなり帰宅、シャワーで汗を流し着衣を全て洗濯、翌日の敬老の日に改めて買い物を、慎重に行先を確認してから乗車、治らないせっかちな性格にあきれるばかり。90歳半ばになった爺が、暑い中を、ゆっくりとは言え厳しかった、熱中症にもならず家にたどり着いた時は、正直のところホッとしたが、二度と繰り返したくない。バスの乗り違い

  • 個人差

    加齢は平等だが老化には個人差があり、生来の体質、生活習慣や環境によって老化に大きな差が出ると言われている通り、同年代でも若々しい人と老けてる人はいる。90歳の爺、周囲からは若く見られるが、生活動作は鈍くなり、もの忘れ、就寝時トイレの回数増、難聴、目がかすみ、ひざ痛等々、外観では見えない自然老化が進んでる。72年前卒業の高校から今も年度初めに「同窓会だより」が送られてくる。卒業年次順に登載された同窓会費納入者名に同級生が8人、高校時代には、頑健なタイプではなかったのに。小学生時代は3月生まれとあって小さくて虚弱体質の爺が生きながらえ、相撲の選手であり、健康優良児だったK君が70歳代で亡くなるとは、寿命の個人差は極端だ。個人差

  • 運転経歴証明書

    運転経歴証明書の交付年月日に枝番があるので調べたら、枝番号の1は「優良運転者」、2は「一般運転者」、3は「違反運転者」を意味していると知ったところ、ちなみに爺は1番。運転経歴証明書により自治体ごとに恩典があり、新潟市の場合は市内のハイヤータクシー料金が一割引きになる。日頃の買い物、通院などで有効に利用させてもらっている。乗車時に運転経歴証明書を運転手に提示することで、降車時に一割引きの料金が請求される。運転手は信号待ちの間や降車時に運転経歴証明書の交付番号と氏名を記録している。運転手の性格なのだろう、爺の顔も名前も家も知っているのに、乗車の度に運転経歴証明書を確認して記録する人も居るし、「分かります」と言って提示を求めない人も居られる。運転経歴証明書

  • 昔の事務室

    昭和26年から半世紀にわたる事務職員生活から解放され、年金生活も23年になる。現在の事務室の情景は様変わり、冷暖房完備の部屋で無言でパソコンと向き合っている。昭和60年頃に、冷房施設が完備されるまでは、半そでの肌シャツ姿、頭に濡れタオルを乗せたり、ウチワとタオルを交互に使いながら自分なりに工夫したクールビズだった。事務用品と言えは、針金で作ったクリップ、和紙で作ったコヨリ、スタンプ台、指サック、スポンジ、ナンバリング、鉄筆、カーボン紙など、懐かしい品々も今は目にすることは無い。机の片隅には、灰皿と茶飲み茶碗が置かれ、仕事の区切り毎に煙草を吸ったり、お茶を飲んだり、同僚と軽い会話をしたり、気持ちを切り替えながらマイペースでの事務処理だった。昔の事務室

  • この頃

    新聞の広告欄には、毎日のように中高年が悩んでいる腰痛、ひざ痛の薬や単行本の紹介記事を目にする。作家の五木寛之さんが「こども庁」よりも「ひざ・こし庁」を設置したらとは、同感である。70代の元々文才に長けた知人の女性からの残暑見舞いに、「信じられない暑さ続きは、地球が病気で熱があるんでしょうか」とは、気に入ったので、さっそく仲間への極暑見舞い文に拝借。子供の頃から食事の前や外から帰ってからの手洗いの習慣は無く、雑菌と共存しながら生きてきたが、コロナが蔓延してから初めて丁寧な手洗いとうがいの習慣が身についた。゛運転免許返納してから1年を過ぎた、バスの利用にも慣れ、タクシー会社に電話をしても毎度どうもの一つ返事、運転手も馴染みになって自宅までの道案内はしないでもよくなった。この頃

  • 高校野球 雑感

    何時も高校野球全国大会が終わると夏休みの終わりを感じる。今年は慶応高校の107年ぶりでの優勝で幕を閉じたが、開催時期、会場、応援の大きすぎなどで問題提起された年に。高校野球ファンの中には、あまりの声援の大きさが相手に過度なプレッシャーを与え、仙台育英は完全に“アウェー”の状態となってしまったとネット上などで賛否両論が。甲子園出場校ともなれば、野球部員は100人以上いるという、ベンチ入りの20人以外は試合に出る事もなく、ユニホームを着てスタンドで応援するだけで卒業する部員たちに大声援を。春夏ともに甲子園で優勝したことがない県は12県だとが、何時の日か、夏の甲子園での「深紅」の優勝旗か、春の甲子園での「紫紺」の優勝旗を越後に持ち帰る日を気長に待っている。高校野球雑感

  • 超高齢者に

    日本老年学会と日本老年医学会は、高齢者の定義を現在の65歳以上から75歳以上とし、65歳-74歳は「准高齢者」、75-89歳を「高齢者」、90歳以上を「超高齢者」とすべきと提言している。爺は3月に90歳になり、続いて今月16日には家内も90回目の誕生日を迎え、共々介護のお世話にならずに超高齢者の仲間入りしたところ、当日も二人でスーパーで買い物を楽しむ同世代の上皇后様が上皇様にタッチしながら歩くお姿をテレビで拝見する。我が老夫婦も自立しているとは言え、動作が鈍くなり外出時には家内は爺の衣服につかまりながら歩く。超高齢者は、食料の買い出しと通院以外は不要不急のことばかり、今はラインで送られてくるひ孫で2歳半になる紗奈ちゃん、6か月になる莉音ちゃんの写真、動画を見るのが一番の楽しみ。超高齢者に

  • バス停でのこと

    バスで郵便局、銀行、電気店、本屋、100円ショップなどで用を足しているが、利用客の殆どは学生と高齢者で、バス停でバスを待つひと時、声を掛けたり、かけられたりする。暑い日差しの中で傘をさしていた高齢の男性に、珍しかったのて「その傘は日傘ですか」と尋ねたら、雨傘と兼用の日傘で、市内の傘専門店で3000円ほどで買ったもので便利ですよ」と。暑い日だった、男女2人ずれの大学生から「おじさんはどうして長袖を着ているんですか、暑くないでか」と、「低体温でエアコンに弱い体質なんだよ」と、不思議そうに首をかしげていた。リックを背負い、杖を使っていた70代と思われる女性に買い物ですかと尋ねたら、「通院の帰りで今日はゲキコミ」だったと、一瞬理解できなかったが大変混んでいたということかと。バス停でのこと

  • 小さな楽しみ

    キャベツの外側の葉はビタミンCが多く含まれているそうだが、硬くて汚れているので捨てられるため、何処のスーパーでもキャベツ売り場の傍には捨てる容器が用意されている。キャベツは虫たちの大好物であると知り、我が家では捨てることなく持ち帰り、庭の梅の木の周りに置くと、いろんな虫たちが集まり、あっという間に芯だけになっしまう。ご飯を残すと目がつぶれると言われたり、戦後の食糧難時代を体験した世代のためか、米櫃から零れ落ちた米も、台所流し台の排水フィルターにたまった米やご飯粒も全て我が家を訪れる雀に与える。新潟日報紙に86歳のお婆ちゃんが、寄る年波でパンの耳が苦手になったので、小さくちぎって玄関のたたきに撒いておくと、スズメが喧嘩しながら食べている様子を楽しんでいるとか。小さな楽しみ

  • スマホ

    スマホを操作する高齢者も年々増加、60歳代で90%、70歳代で80%になるという。高齢者の歩きスマホは見かけないが、病院の待合室での座りスマホ姿が増えてきた。スマホ操作のスタイルは10代~20代の若者はスマホを右手持ち・右手親指を器用に使って軽やかに操作しているが、年配層は左手に持って右手人差し指で、ぎこちない操作。固定電話が、左側に受話器とコードがあり、受話器を左手で取って左耳に当て、右手で番号をプッシュ、メモを取る習慣が染みついた年配者は、スマホを左手で持つ習慣になったようだとか。現代社会においてスマホは必要不可欠なアイテムではあるが、スマホ依存による脳の過労が原因で、若年性認知症に繋がるリスクがあると注意を喚起されているが。スマホ

  • この頃の爺

    低体温の爺も毎日が暑くて冬が恋しい。当局からの指示どおり、外出を控え、エアコン、扇風機,うちわをフル活用、時々冷水を口にしながら、、ブログ、エッセイ,読書、ナンプレで楽しんでる。この時期に午後から夕方にかけて雷を伴って突然降り出すどしゃぶりの雨、短時間で止んだ後の涼しさは近年は無く、お日様の光に合わせて鳴き始める蝉の声も聞こえてこない。5年前の心筋梗塞術後一年毎の検診結果は、心臓に変化はないが、血液検査でカリュームの数値が基準値を0.1超、生野菜と果物は控えるよう指示されたが、スイカの季節、気にせずに毎日食べている。ゆうパックで知人に送ったスイカを一週間後に、破損したので弁償するからと損害賠償申立書類一式が送られてきたが返送、責任者が来訪して経過説明とお詫びがあって落着したところ。この頃の爺

  • 懐かしの情景

    近頃では見られなくなったが、暑い日の午後から夕方にかけて雷を伴って突然降り出すどしゃぶりの雨が、短時間で止んだ後の涼しさ、お日様の光に合わせて鳴き始める蝉の声。子供の頃、夜は暑くて早々に寝床に入ることはできないので、大人は玄関先で長椅子に座り夕涼み、ご近所同士で世間話が弾んだり、子供たちは蛍をとったり線香花火で遊んだり。子供のころ、夏は、いつも一つの蚊帳の中で両親と一緒、蚊を入れないために蚊帳の出入りは、できる限り体を小さく、かがんで入ることを親から、きつく言われているもの。蚊帳の中に紛れ込んだ一匹か2匹の蚊を越中褌姿の親父が,ロウソクの炎で退治する姿を見て育った爺、見よう見まねで覚えた技、蚊帳を焼かないように対峙するコツがあった。懐かしの情景

  • 一番古い記憶

    90年の人生の中で一番古い記憶をたどって見たら昭和12年4歳の時である。県北の城下町である村上市の旧制女学校の隣り合わせた借家に住んでいた時のことである。学校敷地内にあった学生寮とは目と鼻の先にあり,寮から窓越しに、女学生たから声をかけられ遊んでくれたのを鮮明に覚えている。後に当時の女学生だったという80歳のご婦人と偶然の出会いがあった。隣りの家はお巡りさん、何か悪さをする度に「隣のお巡りさんに言いつける」と親からの決まり文句、子供心に、サーベルを携えたお巡りさんの姿を恐る恐る遠くから見ていたもの。昭和13年5歳の時、父の勤務地の保内村(現村上市)へ転居する。新築の2軒長屋が3棟あり、右隣が、爺に初めての魚釣りを教えてくれた齋藤さん、左隣の松木さん、同い年のK君がいた。一番古い記憶

  • リュックサック

    若者から高齢者まで利用されているリュックサック、爺も近くの店まで買い物に出かける時は、リュックサックを背負う習慣が身についたところ、中高校生の殆どは腰に、大学生は背中に背負ってる。女子高校生達の背負い方は、みんなお尻近くにぶら下げている。孫娘も高校生の頃に、リュックサックをお尻にぶら下げてやってきたので、訳を聞いたら「ファッションの追及」だと言う。、当初は違和感もあったが、最近は見慣れたせいか、歩きながらリュックサックが踊っている後ろ姿が可愛らしく見える。ファッション雑誌で進められたスタイルで女子高校生ならではのおしゃれ感覚である。ズボンの腰履き(腰パン)などの流行に伴い広まったという。背負う位置で個性を演出できるのが、リュックの魅力でもあり、重さ2キロ以内で1時間程度なら、体に大きな負担はないらしい。リュックサック

  • 高校野球が始まった

    高校野球の地方予選が始まった。甲子園を夢見ていた球児たちによる熱戦が繰り広げられる大会で、選手もスタンドも地元も一体になって一喜一憂、勝って嬉し泣き、負けて悔し泣きのドラマである。開会式での高校球児たちのさわやかな入場行進は、干し柿のように焼けた顔で力強く整然と歩く姿が何とも頼もしく、日頃、巷で見る高校生とは別人のように見える。こぶしを握り,甲を前に向け、肩まで腕を振り上げ、足を高く上げて歩くのが軍隊調だと言う人も居られるし、高校野球の人気の一つだと言う人も居られるが、個々の感じ方次第であろう。新潟県代表校の殆どは、甲子園で校歌を歌うことが少なく、砂を持ち帰るだけで、野球不毛の地と呼ばれている。残念ながら、春夏ともに甲子園で優勝したことがない十二県に名を連ねている。高校野球が始まった

  • 卒寿の日常

    この頃、高齢者同士の最初の挨拶は、「お元気ですか」と聞いたり、聞かれたりして始まり、日常生活動作に大きな支障がない限り「元気です」とか、「何とか」と受け答えしている。今のところ卒寿の老夫婦、室内での起居動作・移動・食事・更衣・排泄・入浴・整容は手間取りながら不自由はないが、掃除・料理・洗濯・高所の作業などは程々に手抜きをしている。爺は、ゆっくりと歩いて10分ほどの本屋と100円ショップを利用しているが、家内は目が不自由になり転倒防止のため、外出時は爺につかまりながら、一人での外出は控えている。夫婦そろっての唯一の外出であるスーパーの買い物が出来て、3度の食事を美味しく食べられ、お互い趣味を楽しみながら、大きな病気もしないで、過ごせるだけで満足している。卒寿の日常

  • おにぎりの思いで

    小学校低学年だった昭和10年代半ば,家庭にオヤツが常備されていなかった。学校から帰ると必ず「母ちゃん何かない?」と言うと、味噌か塩をつけた小さなおにぎりだった。。遠足に持っていくおにぎりの具は梅干し、全体を海苔で巻いたものがお決まりだが、農家の子供たちが味噌を塗って、こんがりと焼いた大きなおにぎりが、美味しそうで食べたかった。戦争末期の昭和20年の6月に農家への勤労奉仕で、除草機での田の草取りをした。小昼(こびり)と称して10時に出される塩むすびの味が今も忘れないでいる、コシヒカリよりも美味かった。昭和46年の単身赴任時に下宿のお婆ちゃんから、おにぎりを用意してもらったことがあった。ご飯茶碗二膳分のおにぎり2個、当時38歳の爺に「若いもんは、これくらいは食べなさい」と。おにぎりの思いで

  • クニスケ先輩

    2007年春のこと、74歳だった爺は家内と市内の小さな民芸館を訪れた。経営者は県衛生部の先輩で新潟県衛生研究所臨床検査技師のクニスケさんだと知り、趣味で集めた民芸品を公開していた。小生も家内も衛生部の後輩だったことから、初対面なのに現役時代の共通話題に花が咲いてしまった。クニスケさんは91才、84才の奥さんと共に年齢を感じさせない若さと元気にびっくりした。その後も折に触れ訪れて食事やお喋りしながら親しい間柄になってしまった。何時も帰りには家内の手を両手で握り締めながら「また来いや」と、すっかり家内が気に入られてしまった。2015年2月、綺麗な仏様になって行年100歳で旅立たれた。前年の秋にお会いしたのが最後、今に思えば別れの挨拶だったのか、よく来てくれたと初めて涙を流して喜んだ姿が忘れられない。クニスケ先輩

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