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  • 巨人ファンの爺

    昔から巨人は優勝が義務付けられ、2位も6位も一緒、ペナントレースが始まったばかりでも、負け続けると、采配が疑問だ、休養だ、交代だと騒がれるのは巨人の監督の宿命である。現在のところ、セリーグはヤクルト、阪神、DeNA、広島が日替わり首位、中日、巨人が日替わり最下位で推移しているが、老いても巨人ファンの爺にとっては、精神的に良くない。3か月だけ義理で購読しているスポニチが気に入らない。巨人の負け試合は、対戦相手の殊勲選手を写真入りで大きく取り上げ、巨人の勝ち試合は、片隅に短い記事が載るだけである。巨人は35歳以上のベテラン選手が12球団の中で一番多く、2軍、3軍から1軍登録への壁は厳しいチームだと言われているが、若い選手たちで優勝する日を楽しみに待ちたい。巨人ファンの爺

  • 加齢による

    21年9月、テレビの音量を上げても変わらないので、耳鼻科医院で聴力検査をしたら加齢による難聴が始まっていると診断された、テレビの老化ではなく耳が老化していた。22年10月、右足のひざ痛で整形外科を受診、お医者様に単刀直入、「治りますか」と尋ねた。答えは「加齢によるもので治りません、注射と湿布と薬で痛みを和らげる治療になる」と。4月下旬、胃もたれが続いたので消化器クリニックを受診、加齢による消化機能の老化と診断される、目に見えない内臓にも老化が進んでいたのかと、食べ過ぎを反省したところ。聴力の低下、ひざ痛、消化機能全て加齢によると専門医から言われてきた。この先で加齢による症状はどこに現れるのか、神のみが知るところであるが、体の内外を問わず老化は確実に進んでいる。加齢による

  • 努力義務

    自転車運転時のヘルメットの着用、コロナワクチンの接種、70歳以上の高齢者が運転時に高齢者標識の表示など、法律用語である努力義務が、身近に聞こえてくるようになった。今年4月1日から道路交通法が改正され、全ての人が自転車を運転する時はヘルメットを被ることが義務付けられた。努力義務のため罰則はないので、着用している姿は見当たらない。70歳以上の人が自動車を運転する時の高齢者標識の表示も努力義務で罰則がないので、高齢化した我が町内も該当者が多いが、昨年免許返納前に表示しているのは爺だけだつた。コロりナワクチン接種も第6回目の接種予定の通知が来ているが、いろんな理由を付けて接種しない人も大勢いるように、全て個人の意思に委ねる条文では、徹底されないのが現実である。努力義務

  • 脳トレ

    ボケ防止にとナンプレを始めてから1年ほどになる。今の実力は初級と中級の中間くらいか、認知症予防に役立つ説と意味がない説とあるが楽しみながら続けている。長年老人医学に携わってきた和田秀樹の著書「90歳の幸福論」の中で、脳を活性化させるには、脳トレよりもアウトプットの習慣を心掛けて欲しいと言ってる。本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見たりなど、インプットしたら、思ったことを文章にしたり、人に話をしたりして、アウトプットすることで脳が活性化されると。爺が行っている、見聞した事や体験を基にブログの作成と発信、物書きの会て、形式も内容も自由な作文を発表しあっていることが、まさに脳の活性化につながっているとは。脳トレ

  • 山梨学院頑張った

    今年の選抜高校野球は、我が郷土新潟からの一般枠でも特別枠でも選考されなかったので関心も薄れてていたが、山梨学院対報徳学園の決勝戦は見応えのある好試合だった。甲斐の国に生まれた戦国の武将武田信玄が果たせなかった天下統一を、現代の若者たちが成し遂げたと、あるスポーツ新聞が伝えていたが、初の紫紺の優勝旗を山梨へ持ち帰った。吉田監督が、2点を追う5回、「まさに神風が吹いた、優勝しろよ、甲子園の神様が言っているみたいだ」と、前夜は睡眠時間を削って相手の捕手の配給の癖を研究した成果も大きかったと。甲斐(山梨)の武田信玄と越後(新潟)の上杉謙信は川中島で12年間戦った宿敵同士であったご先祖様がご縁で、何となく親しみがあって、山梨学園を応援しながらテレビ観戦していた。山梨学院頑張った

  • 近 況

    今年の3月は卒寿の祝いとして、日頃からは親しいS氏夫妻から自家製のケーキと赤飯を、例年春秋のお彼岸にいただく近所の奥様からのボタモチを美味しくいただいたところ。顔なじみになったタクシー運転手が短い乗車時間の中で業界の実態について、最近は運転手不足で定年で辞めさせてくれないので、運転手もお客もシルバーになったと語っていた。大相撲の唯一郷土出身関取豊山が引退、何場所か十両だつた朝の若は幕下に落ちたまま、日本人横綱誕生への期待も失せた大阪場所は、関心も薄れテレビ観戦することもなく終わった。市議選県議選が始まった、90歳にもなると若返った候補者の顔も名前も覚えられない。昨年8月免許返納後に行われた知事選は初めて棄権したが、今回も投票所へ行く予定はない。近況

  • 足腰の老化

    寝床を冬型から春型に切り替えのため、掛布団、布団カバー、毛布、敷布の交換する作業を済ませた。力は要しないが中腰での作業は、腰に違和感が生じて、休んだり、もたついたり。テレビ、エアコン、扇風機は、手元にあるリモコン操作で,電子レンジ、風呂、洗濯機は案内があるまで、立ったり座ったりする動作が節約され、足腰の老化を加速させているかも。髭剃り、洗髪,風呂での体洗いは、昔と変わらない手動式で、手足の退化予防だと思って丁寧にしているが、髭剃りだけは外出予定のない日はお休みとしたり手抜きをしている。手足の長期休暇は、介護士と仲良くする日が早くなると言われているし、急を要する時以外は、多少なりとも足腰の老化防止のために、2階のトイレを利用するよう努めているが。足腰の老化

  • 新婚旅行

    特権階級でない一般の人たちが新婚旅行に行けるようになったのは、第二次世界大戦が終わって、復興の兆しが見えてきた1950(昭和25年)年以降のようである。1960年代には、南国ムードが漂う宮崎の海辺でこれからの人生を誓い合い、神話の物語に胸をときめかせたカップルたちで、宮崎は空前の新婚旅行ブームに湧いた新婚旅行のメッカだった。1970年代に入ると海外旅行へ行く人も珍しくなくなって来た。旅行会社による「新婚旅行はハワイでバカンスを」と言ったキャンペーンも大々的に行われていた。1958年(昭和33年)に結婚した爺、安月給の代表とも言われた公務員が海外への新婚旅行は耳にしたことはない。富山県の温泉へ2泊の旅行をしてから65年になる。新婚旅行

  • 他人様が頼り

    5年前に愛犬が亡くなり、朝夕の散歩をしなくなってから、脚力がめっきり落ち、歩いて10分ほどのスーパーも、今では途中で腰を伸ばして一休み、バスでひと区間をバスに乗ったり。百数十メートルほど歩いてのゴミ出しも歩幅が小さくなり、躓いたり転ばないように注意深くゆっくりと歩く。今年の冬はご近所の奥さんのご厚意に甘えて、持って行っていただく。回覧板も相変わらず高齢者には用のないものが殆どなのが実態であるし、お隣さんのご厚意で、必要なことだけを教えていただくことにして、我が家はパスさせてもらうことに。ご近所の皆さんに迷惑を掛けたくないと心掛けてきたが、寄る年波には勝てず気力も体力にも自信がなくなり、荷が重い4月から順番の班長役も辞退させていだいたところ。他人様が頼り

  • 90歳になった

    一昨日90歳になった、精神科医である和田秀樹さんの著書「90歳の幸福論」に、数十年前は90歳まで生きる人は奇跡的に健康な人だけだったが、今は50人に一人が90歳以上だと。脳を刺激しながらブログの投稿と、今も続いている平均年齢80歳の物書き仲間(男性4女性4)との月に二回の例会で会員から紹介される作文を通して新しい知識と元気をいただいてくる。コロナ禍で会っていないが、長男には今日で2歳になる孫娘が、次男には孫娘が先月22日誕生、2人の息子もお爺ちゃんになった。ひこ孫たちに爺と婆を何と呼ばせるだろうか。数々の幸運に恵まれ、元気でひこ孫と対面できるほど長生きするとは思いもしなかった。長男の孫娘紗奈ちゃん、次男の孫娘莉音ちゃんと対面する日は何時になるのか、待ち遠しい。90歳になった

  • ほのぼの気分に

    スーパーで買い物が終わってからタクシーが来るまで5分~20分ほど入り口近くで待つ。自家用車で来てた頃は気にも留めていなかったが、時には珍しい情景に出会い気持ちが和らぐ。ショッピングカートに乗っている女の子、カートと並んで歩いている女の子、カートを押しているおめでたのお母さん、次は三女だろうか、長男だろうか、他人のことながら楽しみ。ネンネコに包まれて背中におんぶされた赤ちゃん、前抱っこ、ベビーカーの多い中での若いお母さん、また自動販売機を押しては、かがんで下の出口を覗いている、おむつ着用の男の子。スニーカーを履き、ねぎの頭が顔を出しているリックサックを背負い、顎紐のついた帽子をかぶった買い物を終えた70代と思われるおじいちゃん、一人暮らしだろうか、今日の料理は。ほのぼの気分に

  • 今日から3月

    今年の3月は爺が卒寿を迎える誕生月である。昭和28年3月20歳の春、大人になった社会人として親元を離れ下宿生活になり生活環境が大きく変わった。忘れることのないあの日から70年になる。寄る年波で、気力も衰え、目がかすみ、耳が遠くなり、体の動きも鈍くなってしまったが、我が国が憲法九条で平和が維持されているが、我が身は朝食後に飲む薬九錠で生命が維持されている。3月は我が家にとってご縁のある月でもある。社会人の孫娘が3月6日生まれ、初のひこ孫(女の子)が3月10日で2歳に、3月出産予定だった2番目のひこ孫(女の子)が2月22日に誕生した。人生末期に近づいた爺、停車駅の数は誰も知らない各駅停車の終電車に乗っていることに変わりがない。人生の始発駅を出発したひこ孫たちの健やかな成長を遠くから見守っている。今日から3月

  • 老夫婦のこの頃

    運転免許を返納、生活の足となっていた自家用車を廃車して半年になる。当然のことながら、外出する頻度は低下して、爺はパソコン三昧、家内は読書三昧と、家で過ごす時間が長くなつた。食品スーパーは4日に一回タクシーで、買い忘れた品は爺がリュックをを背負ってゆっくり歩いて10分程の所にある食品スーパーで、併せてスーパー内の本屋を便利に利用している。気分転換のため、郊外にある食品スーパーでの買い物や馴染みになった好みのラーメン店、洋食店、和食処で食を楽しんだり、軽いドライブが出来なくなった寂しさが少しはある。長生きしてしまった今では、乗り物を利用して遠くへ出かけたい気持ちは全くなくなった。時々我が家を訪ねてくれる80歳と75歳の知人ご夫婦とのランチやお茶飲みが元気の元になっている。老夫婦のこの頃

  • 父の実家

    汽車通学していた中学、高校生時代の冬季は汽車が雪で運休することがあり、父の実家に泊まっていた。叔父さん夫婦、お婆ちゃん,従兄、従姉の5人から大事にされながら、伸び伸びと過ごした。爺より5歳年上で昭和3年生まれの税務署勤めだつた従兄の仁さん、映画に連れて行ってもらったり、表2階で一緒に寝起きしていた。身内で一番好きな人だったのに、68歳の若さで旅立った。仁さんより2、3歳年上の従姉のトミさん、嫁入り前の家事に専念していた。トミさんから赤ん坊の頃の爺をおんぶしていたと聞かされていたが、母親並みの細かい面倒を見てくれた。13歳でお嫁に来たというお婆ちゃんのキンさん、囲炉裏の前でキセルで煙草を吸いながら座っていた姿が印象深い。何時も爺の濡れた靴下を囲炉裏で乾かしてくれた優しいお婆ちゃんだった。父の実家

  • 汽車通学

    大東亜戦争末期の昭和20年4月、旧制中学(5年制)に進学、12歳である。羽越線坂町駅から学校のある村上駅まで20分ほど乗車する汽車通学が始まり、生徒間では汽車通と言われてた。頭に一本の白線が縫い込まれた戦闘帽を被り、足にはゲートルを巻き、ズック靴である。坂町駅から学校までは団体行動で、中学生は先頭の汽車に、女学生は最後尾の汽車に男女別に乗る。村上駅に着いて学校まで約20分ほど2列縦隊で上級生に引率され整然と歩く。4年生と5年生は学徒動員で不在とあって、3年生が先輩ずらして後輩に厳しく対応していた。帰りは仲間同士で汽車時間に合わせて行動するが、通学コースは指定され、女学校の前を通る近道もあったが御法度だった。団体行動と男女別の通学も8月の終戦をもって終わった。汽車通学

  • 長寿食

    平均寿命40歳時代に75歳まで長生きできた徳川家康が愛した食事は、麦飯、焼き味噌、味噌汁、焼き鳥、ゴボウ、昆布、いわし、にんにく、クルミ、茶の湯が定番メニューだったとある。家康の食事のキーワードは粗食だったこと、弱小大名の生まれだったので、自分だけが贅沢をしていたら、家臣に示しがつかないと質素な暮らしをしていたと言われている。戦国時代は庶民の素朴な食べものであり、戦場での兵糧としても用いられた「いわし」を家康が頻繁に食べたのは、為政者として倹約の大切さを家臣や農民に示すためだったそうで。我が家も昔ながらの食材と和食の調味料である砂糖、塩,酢、醤油、味噌味での地味なバランスで、夫婦ともに89歳の今も自立した生活が続いている。長寿食

  • 嫌な運転体験

    マイカーを運転すること52年、大きな加害事故もなく家族で十二分に楽しませてもらったが、スピード違反で罰金刑に処せられたり、追突されてむち打ち症になったり、嫌な体験もした。忘れもしない昭和45年8月13日の早朝のこと、取り締まり中の新潟市内で40キロ制限のところを30キロオーバーだと言われた。家内と小学生の息子二人を乗せて墓参の途中だつた。50キロ前後で走っていたと思う。家族を載せて、免許を取得して4か月の爺に市内を70キロで走行する自信はなかった。今も当時のスピード測定方法に疑問を持っている。昭和47年公用車で国道を運転中のこと、後方車から追突されて道路わきに転落したが外傷は全く無かったが、むち打ち症で1年ほど通院、その後も天候次第で頚部の痛みが続いた。嫌な運転体験

  • 貰い風呂

    爺が小学校低学年のころは、夏休みになると一人で母の実家(呉服や)で過ごす事が多かった。実家では毎日入浴する習慣がなかったので、近くの本家(建設業)で「貰い風呂」をしていた。本家の風呂桶は一般家庭の風呂よりも大きめだったので、従弟と風呂桶の中で騒いで叱られたり、夕食を御馳走になったり、入浴後はトランプやお喋りしながら楽しいひと時だった。知人で80歳の女性からメールが入った。近くに住む娘さんの家の給湯器が故障して入浴ができず、我が家が夕食付きの風呂屋さんになったと、ほのぼのとした情景を伝えてきた。人間関係が疎遠になった現代では、よその家の風呂に入れてもらう「貰い風呂」など、昔は珍しくなかったが今は耳にすることは無い。知人はボヤきだったのか嬉しかったのか、昔を懐かしく思い出した。貰い風呂

  • 後悔先に立たず

    91歳の男が運転する車が女性をはねて、過失運転傷害の疑いで現行犯逮捕された。被害者に申し訳ない、免許証を早く返しておけばよかった」などと供述し、容疑を認めているという。加齢に伴う高齢運転者の事故のリスクが次のように指摘されている〇動体視力の低下で、信号機・道路標識・歩行者など、瞬時に複数の情報に適切な判断・対応ができなくなる。〇体力や筋力の低下で、正確なハンドリングやアクセル、ブレーキの操作が難しくなる。〇判断力の低下で、不測の事態への対応が遅れ、瞬時に判断し、安全な行動が出来なくなる。自家用車は無いより有った方が便利なのは当たり前のこと、後悔先に立たず、人身事故を起こして苦しみ続けるよりもタクシーをフルに活用して余生を優雅に過ごそう。後悔先に立たず

  • 小学生時代

    小学生時代(昭和14年~20年)、クラスの殆どが農家と自営業の生徒で占められ、僅かな鉄道官舎住まいの生徒は、「官舎もん」と呼ばれて、よそ者扱いされていたので、学校での楽しかった記憶は何もない。3年生だった昭和16年12月8日には大東亜戦争がはじまり、日本軍の勝ち戦だけを知らされながら、神の国である日本は絶対に負けないと教え込まれ子供心に信じ続けてきた。立派な軍人にするための教育だったのだろう、一般教科よりも体育や行軍と称した遠足、水泳、スキーなどの体力づくり、学校行事も、薬草の採取、イナゴ取り、落穂ひろいなどの奉仕活動が多かった卒業写真もない珍しい学校で、21年4月には旧制中学に進学したので、クラスメートの名前も顔も一部の生徒しか分からないままである、進学当初は他校出身の生徒との学力差を痛感した。小学生時代

  • 高齢男性の買い物

    老夫婦の定例行事は食品スーパーの買い物だけであり、店内の商品が出揃う9時半から10時ころをめどに出かける。馴染みになった売り場やレジの店員と会話を楽しむひと時でもある。この頃はスーパーで高齢男性が一人で買い物しているのが目立つ。料理する男性が増えたのか、奥様から頼まれたのか、一人暮らしか、実態は奥様のお使いが一番多いらしい。奥様のお使いである男性は、片手に奥様が書かれたと思われるメモを持ちながら、店員に商品の場所を聞いたり・探している商品の有無や種類を問い合わせしたりすることが多いと言う。ある日のこと、一人暮らしだろうか高齢男性の買い物籠に、おにぎりが2個、かき揚げが一個、カップ(みそ汁)が一個、精算してから店内の飲食コーナーで食べている姿を見て寂しくなる。高齢男性の買い物

  • 大雪が降ると

    昨年12月には大雪のため新潟県長岡市や柏崎市の幹線国道で多くの車が立往生したり、雪の影響による停電が長期化したことで大勢の方が豪雪による厳しさを体験されたと思う。雪の少ない新潟市内も一晩で40センチほどの積雪で除雪車が出動するも降り続く雪で、幹線道路の除雪優先のため生活道路は圧雪状態となり、利用しているネットスーパーも閉店になる。昭和52年から3年間の豪雪地で勤務時代の時、冬季のマイカー通勤は安全のため3人による交代制にした。同乗者はチェーン着装時、緊急時の連絡要員として心強い存在となったのである。降雪時は、高速道路やバイパスなどは避けて、出来れば緊急避難し易い部落や町並がある一般生活道路を利用することを、豪雪地で運転歴が長い先輩から教ったのを思い出した。大雪が降ると

  • タクシー運転手

    運転免許を返納して、52年前の生活に戻ってから半年になる。徒歩、タクシー、バス利用の生活に少しは慣れてきたとはいえ、マイカーが無いよりは有った方が便利であることには変わりはない。最寄りの小さなタクシー会社なので、タクシー依頼の電話も町名と名前を言えば、「ハイ分かりました」と一つ返事、顔も名前も覚えられないが、殆どの運転手と出会っており、初対面の運転手はいなくなったようだ。全国のタクシー運転手の平均年齢は59歳と高く人手不足の職種で、65歳定年制になっいるが、75歳まで勤めるめることが出来るそうである。一度耳の遠い人に出会ったが、自宅までの案内に苦労した。運転手の間でも、お客様に迷惑をかけている辞めて欲しい人も居るし、辞めたい人も居るという話を親しくなった運転者から聞いたが、後任がいないのでやむを得ない事情...タクシー運転手

  • 今日から新年

    明けましておめでとうございます。昨晩は、神様とご先祖様にお礼を申し上げ、老夫婦が互いに感謝の言葉を交わしながらお神酒で乾杯、爽やかな新年を迎えた。今年は3月に爺が、8月に家内が、卒寿を迎える節目の年である。老夫婦にとっては今年も願いは一つ、「転倒→骨折→寝たきり」にならないこと、朝茶を飲みながら誓い合ったところ。大きな願いは戦争の終息である。ロシア、ウクライナ双方には爺が知らない戦争に至るまでの複雑な背景があるのだろう、国連の無力さを感じながら平和が訪れる年になることを祈りたい。日頃は神様に手を合わせることのない高校受験を控えた中学生たち、センター試験を控えた高校生たちも絵馬を奉納して合格祈願で神様も大忙し、願いは公平に叶えてくれるだろう。今日から新年

  • 年賀状じまい

    終活年賀状とか縁切り状とも言われている年賀状じまいの習慣が、スマホの普及で40代~50代の中年層にも広がっているか゛爺は21日に例年通り年賀状を投函したところ。今年いただいた長いこと会っていない年賀仲間一人一人の年賀状を読み返して昔の顔を懐かしく思い浮かべながら、年賀状の余白に近況を知らせたり、尋ねたり、一言の添え書きを。毎年のように年賀状を書くのが大きな負担になった高齢者の終活年賀状が来るし、年賀状スルーと言う賀状を黙って辞めてしまう方もおられるが、まだ爺は年賀状終了宣言はしない。爺もいよいよ来年3月には卒寿を迎える。元気をいただいている現役時代の親しかった後輩たちやリタイア後にご縁のあった仲間達からの年賀状に感謝の意を伝え続けていきたい。年賀状じまい

  • 雪との戦い

    個人の家の除排雪は、今も昔も全て自己責任であり、豪雪地で作業が出来なくなった高齢者には冬の生活は厳しく、豪雪地の上越市(旧高田市)から雪の少ない新潟市(西区)に転居してから32年になる。屋根の雪下ろしをすることは無く、玄関先と車の雪を払うだけだが、加齢とともにスコップの雪も年々重く感じつつ老骨に鞭打ちながら、運動不足解消を兼ねて無理せず直営で行ってきた。警報級の大雪予報のとおり、19日早朝には20センチほど積もったろうか、今冬初めて除雪車が出動、日中も降り続いた。マイカーが無くなったので、除雪車が各家庭に配給した雪の始末は通路だけで済ませた。長いこと豪雪地での生活で雪の扱いに慣れているとは言え、3か月後には卒寿を迎える爺、昨年までは何とか行っていたスノーダンプで玄関先の雪を排雪する体力も気力もなくなった。雪との戦い

  • 総合診療医

    新潟県津南町では高齢化が進み複数の病気を持つ患者が多く特定の専門医だけでは対応し切れないケースが増えたので、総合診療医の確保対策に取り組んでいるとか、大賛成である。確かに内科の案内看板を見ると、消化器、循環器、内分泌・代謝、腎臓、呼吸器、神経、アレルギー・膠原病、感染症など多くの領域があるので、複数の症状がある時は不都合である。爺もS病院で心筋梗塞術後は一年に一度の診察、入院中に服用した薬は最寄りの内科(内分泌)から貰っているが、便秘薬をお願いしたら丁重に消化器科を紹介され診察は断られている。今は血液サラサラ、便秘薬なと数種の薬を服用するだけで、元気で体調も良く、生活動作に不自由もないので支障はないが、近くに総合診療医の開業医が居られたらいいなと思う。総合診療医

  • 一歳児

    昨年3月10日に生まれたひ孫の紗奈ちゃん、今日で1歳9か月になる。専業主婦である孫のYちゃんから、順調に成長している紗奈ちゃんの様子が頻繁にラインで送られてくる。送った新潟スイカを美味しそうに食べている紗奈ちゃん、スマホを持ってプッシュしたり、マイカーのハンドルを動かしたり、動物にエサを与えたり、知恵付きが早くて頼もしい。静岡県の保育園で保育士が一歳児に虐待行為を繰り返した3人の女性保育士が逮捕される事件があった。子どもに3人の先生の写真を見せたら、「嫌だ嫌だ」ってすごくいやな顔をしたと言う。日頃はお母さんとマンツーマンで、休日はお父さんも一緒に伸び伸びと過ごしている紗奈ちゃんの動画を見る度に、保育園で虐待されている子ども達のことを思うと可愛そうでならない。一歳児

  • 思いがけない事

    今年も早や師走、無事にお歳暮の手配を済ませホッとしているが、特に明るい話題は無かった。運転免許証の返納によって日常生活が大きく変わり、身内では思いがけないことが続いた。6月早々、昭和3年生まれの叔父さんが老衰で亡くなり、27年一人暮らしだった爺より年下で昭和9年生まれの叔母さんが自宅で転倒して家事不能となり老人施設での生活になった。、。8月初め新潟県村上市が水害で、市内の各地で避難命令が出たので、76才なる従弟に電話したら、奥さんから本人は歩行困難で入院中、退院後の本人から車いすの生活になってしまったと。10月下旬、埼玉検県在住のMさんと言う見知らぬ方から封書が届いた。内容は、故郷である村上市内に爺の母方の祖父母名義で7坪ほどの土地に爺も相続権があり手続きに関するものだった。思いがけない事

  • 89歳の思い

    薬と仲良くしながらも長生きして、まだ介護保険の世話にもならずに自立した生活ができるだけで幸せを感じているし、国の介護保険財政に貢献しているという自負もある。ひと月に一回かかりつけ医を受診して治療することは無く薬をいただいてくるだけだが、自立している89歳の老人に、年6回の血液検査に疑問を感じているが医師に質問する気もない。免許を返納してタクシーでの買い物してから4か月、一回千円前後のタクシー代を財布からの出し入れ、お釣りのやり取りは煩わしく思う。チャージ型プリべーどカードがあればと願っている。10月の知事選挙は最初から勝負が決まっている情勢だったこともあり、タクシーを利用してまで投票する気持ちになれず、初めて棄権した。車のない人たちのために自治会として一考願いたい。89歳の思い

  • 高齢者の交通事故

    福島市内で97歳の高齢者が歩道に突っ込み5人の死傷者が出る大きな交通事故を起こした。ブレーキ痕がなかったと言うから、またもやブレーキとアクセルの踏み間違いだろうか。高齢ドライバーの殆どは、自動車なしの生活は不便であり、運動能力の低下は感じているが免許返納するほど衰えていないので、まだ大丈夫だと思い込んでいる気持ちはよく分かる。高齢者の事故の半数は、認知機能での問題はないが、アクセルとブレーキの踏み間違い、高速道路の逆走など、大きな事故に結びつきやすいという傾向だとある。爺は8月に免許返納前の一年は、駐車場内でバックしながら壁にこすったり、停車中の車に当たったり、運転技能の低下と注意力が散漫になったことを自認して返納を決断した。高齢者の交通事故

  • タクシーでの買い物

    タクシーを利用してスーパーで買い物をするようになって3か月になる。月7回から8回ペースで利用するので、顔なじみになって親しく会話できる運転手もおられる。現在の新潟市のタクシー料金は、基本料金が570円から始まり80円づつ加算される。馴染みのスーパーまでの料金は、車の流れが良い時は730円、渋滞や信号次第で810円になる。タクシー業界はコロナ禍で人の動きが少ないので暇らしいが、朝は時間帯によって通院のための高齢者の利用、特にお天気の良い日は整形外科へ通院する高齢者の利用で混んでいるとか。運転手の客扱いも様々である、買い物をトランク保管してくれる人、帰りを予測してスーパー近くで待機してくれている人、降り易いように右のドアも明けてくれる人、たまに無愛想な人も。タクシーでの買い物

  • 障害者には親切に

    森喜朗元首相が、「杖をついていると身体障害者に見えて、みんなが大事にしてくれる」との発言にSNSで物議を呼んだ。本人は何が悪いのか分からないと言っておられたが、爺にも分からない。爺もひざ痛で、杖を利用するようになってから、ゴミ捨ての途中で散歩中のご婦人から「捨ててあげましょうか」と声を掛けられたが、お礼だけ申し上げ丁重にお断りをしたことがある。10年以上の前のこと、年に一度のOB会に出席するため、駅まで歩いていたら革靴のかかとが取れそうになり、片足をかばいながら歩いた。女子大生が席に座るまで寄り添ってくれた。身体の不自由な方に対する小さな親切は時々見かける自然な行為である。爺も数少ないが、体の不自由な方と出会えば、自然に横断歩道を寄り添って歩いたり、手荷物を持ってあげたりした。障害者には親切に

  • 新老人

    105歳の天寿を全うされた日野原先生が政府は75歳以上のお年寄りを後期高齢者と呼んでいるが、新老人と呼びたいと言っていた。確かに高齢者より元気で活動している老人に聞こえる。90歳になったとき新しいことをはじめたいと思い、老人が慰め合うだけの会ではなく、生き生きと活躍する社会を作るために「新老人の会」を立ち上げ、全国的に展開されていると言う。来年3月には90才になる爺、目がかすみ、耳が遠くなり、歯が無くなり、ひざ痛に悩まされながら、ブログの投稿と物書き仲間8人の新老人達と月に2回の集いを楽しんでいる。新しい事に挑戦する意欲も体力もないが、最後の予定としてブログ「爺の世間ばなし」の投稿数が1000回を超えたのを機に卒寿を記念して2回目のブログ百選を発刊しようと思っている。新老人

  • 鮒釣りとカジカ取り

    初めて魚釣りをしたのは小学校低学年の時である。お隣りの父と同じ鉄道員の斎藤さんから、釣り竿、糸、釣り針、浮き、重り一式を揃えてもらい、近くの農業用水池で鮒釣りを教えてもらった。餌は何処の家でもあった生ごみの捨て場からとった小さなミミズである。元気に動き回るミミズを小さな針に付けることから教わったが難しくて繰り返しながらコツを覚えた。去る8月に大水害に襲われた新潟県村上市を流れる荒川は、上級生に連れられて、水浴びをしたりカジカ取りをして楽しんだ懐かしい川である。河原で焼いた串刺しのカジカは美味しかった。木枠にガラスの窓が付いた四角形の箱メガネのガラス部分を水面に押し当てて水中をのぞきながら、カジカは前進するだけなので、カジカの前方に小さなタモ置いて捕獲する。鮒釣りとカジカ取り

  • 小学生時代

    昔々のことである、昭和14年から20年まで県北の小さな田舎の小学生時代はと爺に問われたら、良く遊び、遊び過ぎてよく眠り、良く学ばなかった6年間だったと答えるだろう。3年生だった昭和16年12月8日には大東亜戦争がはじまり、日本軍の勝ち戦だけを知らされながら、日本は神の国であるから絶対に負けないと教えられて、子供心に信じ続けていた。学校では、一般教科よりも軍人になるための体力づくりとして体育や行軍と称した遠足、水泳、スキー教育が、学校行事も薬草の採取、イナゴ取り、落穂ひろいなど奉仕活動が行われていた。国防婦人会と書いたタスキをかけた勇ましいお母さんたちの防空訓練があつたが、アメリカの爆撃機B29が飛来することもなかったので、戦災にも会わず穏やかな6年間だったと思う。小学生時代

  • マイカーの無い生活

    運転免許を返納して52年前の生活に戻ってから2か月になるが、徒歩、タクシー、バス利用の生活も徐々に慣れてきたところ。大きな不便さは感じられなくなった。主な外出である4日に一度のスーパーはタクシーを利用しているが、野菜、果物、魚、肉類などの生もの以外の洗剤やティッシュなどの生活雑貨はネットスーパーを有効こ利用している。最寄りのバス停まで歩いて3分、たまに利用する銀行、郵便局はバスで、よく利用している本屋、宅配便の集配依頼などはネットをフル活用、改めてパソコンのありがたさを痛感している。免許返納を決断するまで1年ほどかかった。高齢者による交通事故のニュースに触れるたびに、人身事故の加害者にならなかっただけでも、肩の荷が降りたようなほっとした気持ちである。マイカーの無い生活

  • 加齢とひざ痛 (2)

    一週間の様子見だった右足のひざ痛で15日に2回目の受診、お医者様に単刀直入に「治りますか」と尋ねた。答えは「治りません、注射と湿布と薬で痛みを和らげる治療になる」と。一日一回の湿布と薬を続けているがお医者さまの言う通り痛みは変わらない。つい右足をかばって歩くので、左足の筋肉が痛くなる。治らない痛みと共存しながらの日が続いている。軽やかに歩いている人たちを見ると羨ましく、旅立った愛犬と散歩しながら走り回っていた頃を思い出す。今は、終着駅まで湿布をしたまま静かに終電車に乗り続けているしかない。60歳から爺と同じ体験をした80歳の知人T子さんの苦労を思えば、少々の痛みを我慢しながらの生活でも、89歳まで何の不自由もなく歩き回っていた幸せ者だと思いたいが悔しい。加齢とひざ痛(2)

  • 加齢とひざ痛

    今月初め頃から、ベットから降りる時、椅子から立ち上がる時、歩く時に、右足膝の痛みが続いたので8日に念のため整形外科を受診したが、診察まで待合室での2時間は少々疲れた。60代半ば、ひざ痛と腰痛が続いたことがあった。原因は58歳で卒煙してから体重が10キロ増えたためと診断され、標準体重に戻したら治癒した体験から今回も同じかと思っていた。転倒も打撲もないので骨に異常はなかったが、加齢による軟骨の減少したことでの痛みだと分かった。当日は注射を打たれ一週間の様子見となり、湿布と痛み止めを貰って帰って来た。新聞広告で膝の痛みに即効性の飲み物が頻繁に紹介されているところを見ると、悩んでいる中高年の方は多いのだろう。爺も今のところ一日一回の湿布の張替と薬で痛みは和らいでいるが。加齢とひざ痛

  • 寄る年波

    80歳代最後の年を歩む老夫婦、日常の生活動作も動きが鈍くなり、手抜きしながらも大きな不自由はないが、70歳、80歳の壁は難なく超えられたのに、90歳の壁は厳しく感じられる。運転免許の返納後、マイカーを利用していたコンビニ、本屋、100円ショップは安全のため杖を使って歩いているが、途中で腰に違和感を覚えるようになり脚力の低下を痛感している。難聴は認知症の原因の一つだと言う。聴覚からの情報が入らなくなると脳の記憶する部分が萎縮して劣化が始まり認知知機能低下するそうだが、すでに補聴器は生活必需品になった。今までは軽々できた動作だつた部屋の蛍光灯の交換、夏場の日よけ用の簾の交換、イチジクと梅の木の選定など、高所の作業は安全のために業者に依頼しているが、悔しい気持ちになる。寄る年波

  • プロ野球

    物心ついた頃には、我が家の新聞は読売新聞だったので、何となく巨人ファンになってしまったようだ。今年の巨人は10月1日で4位が決まり、クライマックスシリーズ進出が消滅した。身内でプロ野球ファンがいなかったので、巨人戦の観戦に一人で後楽園や東京ドームへ出かけて行った頃の元気は無くなったが、卒寿を迎える年になった今も、巨人が負けた日の気分は良くない。人気のセリーグ、実力のパリーグて言われている。爺もパリーグの試合は全く見ないし新聞記事も読まないし、テレビも見ないので有名選手は知らない。日本シリーズで初めて選手の顔を見る。今年も日本シリーズで戦う巨人の姿を見られないのが残念、セリーグのチームが勝ってほしい。今年はクライマックスシリーズはどうなるだろうか、セリーグの進出チームが日本一なって欲しい。プロ野球

  • 小学生時代の一コマ

    爺の子供の頃は、小川での水浴び、セミ、トンボ、カブトムシ、ホタルなど、自然や昆虫との触れ合いが多かった。少子化とは言え、今は子供たちが外で集団で遊んでいる姿は見られない。狭い借家や鉄道官舎住まいの小学生時代(昭和14年~20年)は、夜勤明けの父親は朝食を済ませると寝るので、父の安眠のため、何処の家庭でも子供たちは外へ追い出され集団化する。集団化した子供たちは、交通手段もなく、遊び道具も少ないので、手作りのボールとバットで野球したり、水鉄砲、竹馬、竹とんぼづくりなど、知恵を出し合っての遊び、現代と大きく違うところである。雨の日は官舎内にあった共同風呂内の一角で、男女別に持ち寄りの漫画本を読んだり、トランプをしたり、女の子はママゴトをしたり、折り紙やあやとりをしたり、昔々の爺の子供の頃の一コマである。小学生時代の一コマ

  • 歓迎しない

    年度初めに、住民税、固定資産税、自動車税、医療保険、介護保険など、区役所から届く封書に嬉しいお知らせは無い。今年は更に10月から医療費の窓口負担が2倍になった保険証が届いた。パソコンを起動する度に受信する迷惑メールの削除から始まる。最近、国税庁から40,000円を滞納しているので期日まで納付が無い時は差し押さえ処分するというメールが数日続いた。固定電話で、0120で始まる電話は無視するが、最近は、050,080で始まる、リサイクル、冠婚葬祭、外壁の塗装など、早口で喋りまくる迷惑電話が繰り返しかかってくるが、聞く耳を持たない。今のところ、我が家には市役所職員、警察官、銀行員などを名乗る詐欺師からの電話はない。まだカードを渡したり、暗証番号を教えたりするほどボケてはいないが、認知症予防に努めている。歓迎しない

  • 転ばぬ先の杖(2)

    老夫婦が毎日の生活の中で最も気配りしているのは、転ばないことであり、転んだら骨折して寝たきりの生活が待っている。作家の五木寛之さんが言うとおり冥土の予約をしたことになる。8月18日に免許返納してからは、車で利用していた近くの本屋、コンビニ、百円ショップへ杖を利用して歩いて行ってる。足腰への負担が少なくなり、安心感もあってよろしいようで。2年前に転んで膝を打撲、医師から杖を勧められた家内はその気になれず利用していないが、外出時は爺の服につかまって杖替わりにしている。抵抗なく杖を利用する日を待ちたい。老いたら不測の事態を想定して早めに決断するのが最も賢い判断だとは思うが、転ばぬ先の杖を利用する時期は性格的なものがあって、本人がその気にならない限り無理のようだ。転ばぬ先の杖(2)

  • お手伝い

    県北の田舎で過ごした爺が小学生の頃の農家では、男の子は田や畑で親のお手伝いを、女の子は弟や妹の子守など、家族の重要な一戦力であり、猫の手も借りたいほど手が足りなかった。家電製品が無かった時代のお母さんたちは、掃除・洗濯・炊事の他、雑用に追われていた。爺は玄関の掃除、簡単な買い物、風呂の水くみなどを、妹は洗濯物をたたんだりしていた。殆どの子供たちは、必然的に家事や育児にかかわり、親のお手伝いを通して様々な経験を積んでいる。今は、結婚して初めて体験するためだろうか、家事や育児疲れの訴えが多い。子供にとってお手伝いは、誰かの役に立つことのできる貴重な機会であり、また子供の自己肯定感を育める大切な体験になるので、子供の出番を作って欲しいと識者から世の親たちに訴えている。お手伝い

  • この頃の動き

    高齢者がブレーキとアクセルを踏み間違えて人身事故をおこしているニュースを見ると、免許を返納して良かったと思うが、タクシーは、運転手の人柄次第で不愉快な思いをする時もある。。3日か4日に一度、タクシーての買い物も慣れてきたところ、思っていたより不便さは感じない。タクシー運転手も高齢化して、免許返納したいと言っていた75歳の運転手に出会った。タクシーで、空いているお昼休み時間を利用していた「理容カットA」に開店時間に合わせて行ったら爺は4番だった。3人とも髪の毛が少ない方だったので、控えた時間は15分で済んだ。去る5日、30年以上も利用しなかった路線バスで銀行まで、乗車時の客は爺一人、降車時に数人いたが高齢者ばかり、帰りのバス停で免許返納した高齢の女性と会話しながら乗車、客は数人だった。この頃の動き

  • 愛車との別れ (2)

    免許を返納した高齢者の車を引き取りに行く自動車会社の方から聞いた話だが、長いこと親しんだ最後の愛車を涙を浮かべながら見送る老夫婦の泣き顔を見るのは辛いと言っていた。90歳の壁の向かっている爺は、幼い頃から「男子たるもの人の前で涙を見せるものではない」と育てられたせいか、涙を流すこともなく、家内と車が見えなくなるまで手を振って見送った。マイカーが無くなってから3週間近くなる。一年前から、病院と市内での買い物だけだったので、マイカー利用時とタクシーとの便利さの差は思っていたより少なく徐々に慣れるだろう。時々マイカーで行っていた近くのコンビニ、百円ショップ、本屋も今は歩いて行っている。身近で転んで骨折した高齢者を見ているので義弟が生前に使っていた転ばぬ先の杖を使い始めた。愛車との別れ(2)

  • 会葬礼状

    親族・友人・知人・ご近所さん、現役時代は職員の家族のご葬儀に参列してきたが、これまで頂いた会葬礼状で、何回も読み返したお二人の会葬礼状が今も心に残っている。平成19年12月23日、83歳で終末医療施設で静かに帰らぬ人となったユミコ姉さんの会葬礼状には、晩年に読んだ短歌「雪を心の友と呼び、雪解けを待って咲くカタクリに身近な幸せを感じ毎年増える蛍を楽しむ」が紹介され、先立たれた御主人と過ごした豪雪の地をこよなく愛された方だった。平成27年2月6日、100歳で綺麗な仏様だったクニスケ先輩の会葬礼状には人生のお手本を示してくれた最愛の父へ感謝を込めてと題して3人の娘さん一同から父の好きな言葉「夢一生」を紹介されていたが、日記を書き続け、老いても夢を抱き続け、前向きな人生を歩んできた方だった。彼の地で、クニスケ先輩...会葬礼状

  • 身近の年寄りたち

    8月16日、家内も無事に89歳の誕生日を迎え、3月に89歳になった爺と肩を並べて90歳の壁に向かって歩き始めた。外出時は転ばないように爺の服を掴んで寄り添って歩いている。爺の身内で、5歳年上の叔父さんが無くなり、1歳年下で一人暮らしの叔母さんが転んで肩を脱臼して介護施設へ、75歳の母方の従弟は原因不明の歩行困難で入院、不幸なことが続いてる。物書き仲間で84歳の愛飲家のK氏、現在は奥さんと娘さんから禁酒を言い渡されている身である。4回目のワクチン接種後の大酒を飲んだのが原因で激しい副反応で10日間も入院した。近くに住む83歳のH氏、朝夕には定期的に散歩している御仁である。散歩中に転倒して腰の骨折で救急車で運ばれてから1か月以上になるが、経過も分からないし、姿も見られない。身近の年寄りたち

  • 廃車と免許返納

    一昨日はマイカーの車検期間満了日、午前10時頃に馴染みの自動車会社の社長さんと社員の二人で車を受け取りに来てくれた。廃車する最後の車を複雑な気持ちで見送った。続いて所轄の警察署へ出向き免許証返納手続きと、免許証に変わる運転経歴証明書申請手続きを済ませた。当証明書により市内のタクシー料金は一割引きになるが、発行は約2週間後だという。月に一回の通院、3日に一回程度のスーパーはもとより、たまに利用する馴染みの和食店、そば店、時々利用する家電店、ホームセンター等々は全てタクシー利用、今まで通りの生活を続けたい。50年以上も家族を楽しませてくれたマイカー生活から、新しい生活が始まった。かねがね経験者から聞いていた寂しさは感じないし、直ぐに慣れるだろう。息子達も安心してくれ、すっきりした気分である。廃車と免許返納

  • お盆の中日

    今日はご先祖様が年に一度3泊4日の里帰り中である。また、爺が中学1年生の夏休み中だった8月15日は、子供心にまさか負けるとは思わなかったアメリカとの戦に負けた日でもある。高齢による免許返納を間地に控え、マイカーでの遠出を控えてから故郷のお墓参りはしていないが、毎朝ローソクと線香を灯して両親とご先祖様のお位牌と過去帳に静かに手を合わせている。今日あたりは、世の爺ちゃん、婆ちゃんたちは、3年ぶりに帰省したお孫さんを迎えて忙しく動き回っている事だろう。我が家は、孫たちが来て嬉し,帰って嬉しの時期は終わって久しい。しつこいコロナ禍、頻繁に発生する線状降水帯による災害は神の祟りかと思われる現象だ。世のお孫さんたちには、お盆を爺とちゃん婆ちゃんと楽しく過ごして、無事に帰宅されることを願う。お盆の中日

  • 打診

    スイカの美味しい季節、昔は八百屋さんが見た目と音を叩きながら選んでくれた。食べ頃のスイカはボンボンと響く音、未熟のスイカはポンポンと高い音、熟し過ぎたスイカはドンドンと鈍い音だとか。子供の頃、SLの機関士だった父に聞いたことがあるが、機関車の周りを歩きながら金槌で叩いているのは、音で異常の有無を確認しているのだとか、大工だった叔父さんも釘打つ前に金槌でトントンと叩いていた。最近は聴診器を使ったり打診するお医者様と出会わないが、昔のお医者さまは、患者の身体の表面や背中を叩いて振動を与えて、それにより生じた音を聴き取り内部の状態を調べていた。人間の頭も、専門医に叩いてもらえは゛脳みそが満タンの頭と空洞のある頭では音の響きも違うのか分かんだろうか、家内の頭を叩いても、爺の頭を叩いても何の響きもない。打診

  • 一年検診

    7月28日、年に一度の心筋梗塞術後の検診のためS病院へ、血液検査、エックス線撮影、心電図、心臓エコー検査と一通りの検査後に主治医の診察、終了するまで3時間を要した。心臓に変化はなかったが、血液検査でカリウムの数値が高過ぎるので、カリウムの多い果物と生野菜は暫く控えるように、特にバナナとスイカは食べないことなど医師からの指導があった。朝食で定番のバナナ、トマトキュウリを食べ、採決30分前にスイカを食べていたので高めの数値になったのだろうか、翌29日受診したかかりつけ医は、今後の検査経過を見ることにすると。何の自覚症状もない今、89歳まで健康を維持してきた我が家の食習慣を直ちに変えるつもりはなく、次の結果が出るまで、数値にこだわることなく季節の果物も食べ続けている。一年検診

  • 宝くじ売り場で

    夏のジャンボ宝くじの販売中、何時もささやかな縁起を担いで大安吉日に買っている。今年は7月27日、最近よく利用している小さな宝くじ売り場で買い、帰宅後に暦を見たら仏滅だつたとは、年のせいか。売り場には客がいなかったので、スタッフの中年女性に、「当たりそうなジャンボを30枚を見繕ってください」と真面目顔で言ったら、「ハイ分かりました」とニコニコしながら渡された。スタッフから、「お元気そうですが当たったらどうなされますか」と問われ、即座に老後のために貯金しますと、テレビ出演料を貰った時の金さん、銀さん姉妹の答えを真似たら爺の顔を見て大笑いしていた。宝くじを楽しむようになったのはリタイアしてからで30年以上になるが、殆どが10枚に一枚あたる300円だけなので、当選番号が発表になったら900円を貰いに来るよと言って...宝くじ売り場で

  • 90歳の壁

    70才の壁を越え、80才の壁を越え、あっという間に来年3月8日の90才の壁が見えるところまでに来てしまった。階段の昇り降りがきつくなるわ、夜中に何度もとトイレに起きるわ。親から受け継いだ過去帳に4才、3才、0才で亡くなった3人の弟たちの名前が記されている。現代医学だったら助かったであろうに、爺は短命だった3人の弟の分を生きているのかも。人には、それぞれに持って生まれた運命がある。小学生時代は虚弱体質、食べ盛りの思春期は戦後の食糧難時代だったが、結婚64年を通して変わらない食習慣が長生きの要因だと信じている。ネットで、生年月日、性別、血液型での寿命診断をしたら、爺の死亡日は6年後の8月20日と出たが、時期が来れば神様が決めてくれること、今は90才の壁に向かって、脳と体を動かしている。90歳の壁

  • 愛車との別れ

    一昨年に息子から免許証の返納について忠告されて以来、高速道路、自動車専用道路、遠距離、夜間、降雨、降雪時の運転は控え、市内の生活道路を利用しての通院と買い物だけにしてきた。ドライブを楽しみながら訪れた仲間達も少なくなり、来年3月には90歳になる爺、視力、聴力、注意力の低下は否めず熟慮の結果、今年8月の車検を機に廃車と併せて免許返納することにした。最初に出会った中古の三菱コルト1000は、今も忘れることは無く、懐かしく思い出す。あれから今日まで50年間に楽しませてくれた数々の愛車に感謝しながらお別れしたい。高齢者専門の精神科医和田秀樹さんが、元気で不自由のなかった70代の高齢者が、運転免許の返納がきっかけで衰えてい行く人を多く見てきたというが、衰える前に石の帽子をかぶっているだろう。愛車との別れ

  • 注射

    昔は風邪で熱がでると近くの医者にかかるたびに注射されていたが、最近は各種の検査数値を基に投薬するだけで、注射はコロナやインフルエンザなどの予防注射だけになった。戦後の中高校生の頃だったろうか、結核菌感染の有無を知るためツベルクリン反応検査を行ない、陰性者にはBCGを接種、爺は3回目のツベルクリン反応検査で陽性になった記憶がある。爺はインフルエンザに4回かかっており、最初は17歳、2回目が24歳、3回目は49歳、4回目が58歳の時である。免疫力がついたのか以来感染したことは無いので、予防注射をしたことが無い。一昨日の13日は第4回目のコロナワクチンを注射した。副作用で辛い思いをしている方も耳にするが、爺は4回とも、翌日に接種個所が少し痛痒い程度で済んだ。注射

  • 今日は参議院選挙投票日

    今日は参議院選挙投票日、指定された投票所の小学校は遠くて、駐車場も校内の通学道路に縦列駐車のため、投票会場までかなり歩くことなるので、何時も近くの期日前投票所で済ませてる。今回はロシアのウクライナ侵攻で国の防衛力の見直しが大きな焦点の一つになっている。一部の政党を除いて各政党が防衛力の強化と防衛費の増額を掲げているが、それぞれ主張は微妙に違う。各家庭でも、空き巣などの不法侵入者に備えて玄関や窓には、カギをかけて戸締りをしている。我が家では万一の時に直ちに駆けつけてくれる警備保障会社に見守りサポートを依頼している。自民党の麻生さんが街頭での応援演説で、「弱い子はいじめられる、国も同じ、強そうな国には仕掛けてこない」と相変わらず麻生さんらしい演説の記事があったが、選挙結果はどうなるか。今日は参議院選挙投票日

  • 爺のこの頃

    来年3月には90の壁を超える爺、食欲以外の欲はいつの間になくなって、否応なく老いを認め、1日一回の朝食後に飲む数種類の薬と共存しながら何となく生きながらえている。ベッドに横たわりながら夜6時からの巨人戦を観戦するも試合途中に熟睡、翌朝3時前には目を覚ます。朝茶を飲みながらパソコンとスマホを起動して1日が始まり、5時半の朝食が待ち遠しい。コロナ禍と極暑と加齢で外出は通院、スーパー、物書き仲間との集い以外は控えている。家ではブログやエッセイの原稿づくり、読書、気が向けば掃除、片づけ物など、常に頭と体を動かしいる。曜日ごとにあった楽しみな番組を見ていた年代は終わった。時々見る番組は、「ニュース、自然百景、小さな旅、ダーウィンが来た」くらい、パソコンとスマホで充分楽しんでいる。爺のこの頃

  • 6月のできごと

    6月になると、昭和39年6月16日の新潟地震を思い出す。地震発生時は、前日15日の夜に次男が生まれ休暇を取っていた爺は病院のベッドの傍で家内と揺れの収まるのを待った。玄関で作業中の時である、日頃は無言の郵便配達員がニコニコしながら、「要らないと思いますが置いて行きます」と2通の封書を手渡された。見たら老夫婦の市民税納税通知書だった。今年も我が家の小さな庭に30年近く咲き続けている長生きのラベンダーを収穫できた。乾燥後のラベンダーを小袋に詰めて、何時も喜んでくれる知人友人への配布を済ませた。新潟スイカのシーズン、今年も馴染みの生産農家で収穫したばかりの大玉スイカを子供たちに送ることが出来た。今年から高齢者には扱いやすく食べやすい7月に収穫される小玉スイカを送ることに。6月のできごと

  • 爺の職業選択

    大東亜戦争末期の昭和20年4月、田舎の国民学校から旧制中学に進学した。事前の進学指導で、将来の希望は「軍人になりたい」と答えるよう教えられ、子供心にその気になっていた。戦後の混乱期だつた中学、高校時代、就職について真剣に考えたことは無かった。父が国鉄職員だったので、何となく鉄道員になるんだろうと思い続けていたし、両親も同じ考えだったようだ。高校を卒業した昭和26年当時は就職難時代だつた。国家公務員初級職募集のポスターを見て何となく受験したが大勢の受験者に驚いた。合格通知も、不合格通知も来なかった。縁故で国鉄に採用内定したが職種が気に入らず辞退、役場の臨時職員をしていたが、村長に勧められて県庁職員採用試験を受験、試験問題と折り合いが良く合格、県民の奉仕者として38年。爺の職業選択

  • 手洗い

    昭和一桁生まれの爺、子供の頃には手を洗う習慣はあまり無かったが、コロナ禍によって、外出後は必ず「うがいと手洗い」をする新しい生活習慣がすっかり身に付いてしまった。トイレ入り口近くの軒下に、ペットボトルをひっくり返したようなブリキの手洗い器がぶら下がっており、下部を手で押すと水が出る簡単な仕掛けだったが、殆ど利用することは無かった。無菌の環境で育った現代子と違い、おしっこの後も、外から帰った時も、食前にも手を洗うことは無く、雑菌とともに暮らしながら免疫力がついたのか、何事もなく大人になってしまった。O157の集団発時、手洗いの習慣のある子の方が多く発症したとか、手の汚れも、鼻水も衣服で拭いているような昔の子供の方が、免疫力があって中毒になりにくいような気もする。手洗い

  • セクハラ騒ぎ

    セクハラという言葉は、1989年に性的な嫌がらせを理由に初の民事裁判が起こされ、「この年の新語・流行語大賞」新語部門で金賞を受賞したことがら、世間に広まったとある。昨今は世の中のセクハラに対する風当たりは誠に厳しい。男性のセクハラ言葉にあたる発言集を見ると、多分ほとんどの男性に一つや二つは、口走った言葉に思い当たるのではないだろうか。現役時代、周りでは世に騒がれているセクハラ行動は聞いたことは無かったが、仲間同士の飲み会の場所で、面白おかしく、周囲を笑わせながら軽い冗談でのセクハラ的発言は飛び交っていた。本県でも若い代議士による、セクハラとパワハラでセパ両リーグ制覇などとネットや紙上を賑わせたことがあったし、最近は高齢の国会議員によるセクハラ疑惑が報道されるなど、絶えることがない。セクハラ騒ぎ

  • 投稿1000回

    2007年5月2日に初投稿してから、今日が1000回目になる節目の投稿になる。初投稿の話題は先輩で元気な当時91歳の高沢さんと84才の奥さんがお見合いをした時の話である。高沢さん曰く、見合いの席で食欲旺盛な彼女を見て丈夫そうだったので嫁にしたとか、奥さん曰く、眼鏡の嫌いな人だと聞いていたので外して行ったので相手の顔はわからないでしまったとか。身近で応援してくれる読者、全国各地の顔の見えない読者の皆さんからの応援、またブログ村内で爺のブログに対する注目度も上位にあることが励みになって書き続けることが出来た。80代最後の年を卒寿に向かってゆっくりと歩いている爺、加齢とコロナ禍のよる外出自粛で新しい世間話は少なくなったが、89年の人生を振り返れば、話のタネは尽きることは無い。投稿1000回

  • 自転車の思いで(2)

    結婚した昭和三十三年に初めて自家用の自転車を買い求めた。値段は覚えていないが、当時の給料で新車を買うのは厳しく、中古の自転車だったが通勤や買い物に活躍してくれた。子供がが生まれてからは、公園やプールへ連れて行ったり、親子を楽しませてくれた。長男が小学生になった頃には、子供たちの殆どは子供用の自転車を持つようになった。当時の生活道路にはタクシーなど営業用の車しか来ないので、交通事故が発生するような危険はなく、何処の子供たちも伸び伸びと道路で自転車で楽しんでいたものである。小学校でも自転車を利用する生徒が増えたので免許制となり合格しないと自転車に乗られなくなった。自信たっぷりで乗り回していた低学年だった長男がまさかの不合格、暫くは家で寂しそうだった。自転車の思いで(2)

  • 自転車の思いで

    爺が小学生だった昭和10年代は、一般家庭で自転車を所有する家は少なかった。呉服店だった母の実家には2台あって小学校3年生の頃だったと思う、叔父さんから自転車の乗り方を習った。大人の自転車なのでサドルに腰かけることが出来ず、フレームの三角形の中に右足を入れて、ペダルを半回転させながら前に進めるのである。不安定な乗り方なので何回か転びながら覚えた。戦後の爺が高校生になった頃から裕福な家庭では自転車を所有するようになった。我が家で自転車を買ったのは昭和28年、父が自転車と並んで撮った写真の表情が嬉しそうなこと。昭和26年村役場の税務課で日給150円の臨時職員をしていた時のこと、当時の自転車税が確か200円だった。自転車の所有者も増えたが自転車税を滞納する家庭も多かった。自転車の思いで

  • お勉強

    昭和14年に入学した田舎の小学生時代は真剣に教科の勉強をした覚えがないが、イナゴ取り、落穂ひろい、ドクダミ、ゲンノショウコの採取、テントウムシ、ずい虫の捕獲などの行事ばかり覚えている。昭和20年旧制中学一年生の教科は、国語、漢文、歴史、地理、体操、幾何、代数、教練、英語、生物だつたが、幾何と代数は、先生の説明を理解するのに一苦労、小学校の学力差を痛感した。。学制改革で高校に自動的に編入された3年間の教科内容は、旧制中学3年間に学んだ内容と変わらなかったので、勉強は60点を目標として控えめに、部活のテニスを存分に楽しんだ。小学生だった頃の孫たちには「お爺ちゃんはね、小学生の時はお勉強が大好きで、お遊びが大嫌いだったんだよ」と、まじめ顔で話したが、「お勉強の好きな人はいないと思うよ」本気にしてくれなかった。お勉強

  • 各種検診

    健康診断は受けてはならないとか、高齢者は毎年受ける必要が無いとか、お医者様同士での色々なご見解を書物等で読んでいるが、区役所からは今年も所定の各種検診案内が届いている。89歳にもなると、今さら新しい病気を発見してもらって、心配事を増やしたくないのが本音である。3年前の心筋梗塞後、かかりつけ医で定期的に受診していることだし、各種検診は受けていない。定期検診で血液検査結果を基にお医者さまから漬物は食べないこと、卵は一日置きにすること等々ご指示をいただいているが、残り少なくなった余生、好きな食べ物は普通に食べ続けている。毎回十数項目の血液検査の数値が全て基準値内とは限らない。毎日が元気で体調がよく、ご飯が美味しくて、生活動作に大きな不自由もないので、数値を気にすることは無くなった。各種検診

  • 単身赴任

    新潟県は、海岸線が330キロと細長い地形の越後と離島の佐渡島を有しているため、新潟県職員は人事異動時の宿命として、単身赴任を余儀なくされたり、無理な自宅通勤者も居られる。爺も、昭和46年4月から2年4か月の単身赴任をした。前年に運転免許を取得したばかりのマイカーを利用して、半ドンの土曜日の午後に自宅へ帰り、月曜日の早朝に勤務地へ出発する。爺が38歳の時であり、長男が小学5年生、次男が1年生で、家族が最も一体感のある時代だった。金曜日の夜になると明日が楽しみで、日曜の夜になると寂しい気分になったもの。現在は土曜日も休日の週休2日制となり、祝日も増え、振替休日もあって、自宅へ帰る日数も増えたことで、金曜日には帰宅できるし、家族の元で過ごす日が多くなって恵まれている。単身赴任

  • 買い物の今昔

    小学生の頃、休みになると呉服店だつた母の実家で過ごすことが多かった。絶え間ない馴染みの客で繁盛していた。世間話をしながら時間をかけて買い物を楽しんでいたのを覚えている。同じ町内には、記憶にあるだけでも、薬屋、お菓子屋、八百屋、魚屋、醤油屋、お茶屋、床屋があって人通りは多かった。入店すると、「いらっしゃい、毎度どうも、おおきに」、と挨拶を受ける。客は、オマケと言うサービスを受け、現在のポイントカードである。大型店での買い物になってからは、物置から必要なもの探して持ってくるようなもので、入店から退店まで無言で終わる。更に、コロナ禍によって店内の場内放送で、マスクの着用、客同士の会話、従業員との会話の禁止、買い物時間の短縮を呼びかけられている。昔のような買い物の楽しみ方は無くなった。買い物の今昔

  • 70代に戻りたい

    高齢者専門の精神科医である和田秀樹さんの著書「70代で死ぬ人、80代でも元気な人」の中に、70代の過ごし方次第で、気が付けば90歳と言う理想の老い方になるという。80代最後の年を歩む爺も、体力の衰えで多少の不自由はあるが、70代では全く老いを意識することなく、国内各地への団体旅行やドライブ方々県内各地の知人友人を訪ねたり存分に遊んだ。また70代の時は、国のIT活用推進中とあって、新潟西郵便局で高齢者を対象としたパソコン講習を受講、「教えることは学ぶこと」とあって、後輩の高齢者に対するサポートもしていた。今も元気な90代の人に聞いてみると、70代の時は好き勝手に生きてきたよと言う答えが殆どそうだ。今の爺に、何歳に戻りたいかと問われたら、迷わず70代に戻りたいと答える。70代に戻りたい

  • この頃の雑感

    卒寿に向かって、楽しい事は少なくなったが80代最後の年を夫婦そろって大過なく自立の生活が続いている。朝日を浴びながらの朝食は格別に爽やかで幸せ気分にしてくれる。生来の身軽な体型と敏速な動きをする爺も、今や耳には補聴器を、読書にはルーペの助けを借りながら老いを受け入れている。働き方改革だと言い訳して手抜きする家事も多くなった。爺の住む自治会6組25世帯には、70歳以上の高齢者が22人おられる。コロナ禍もあって、皆さんの動きも、立ち話する情景も、外部からの往来も少なくひっそりしている。この頃昔の農村風景が懐かしい。新潟県旧越路町に国の文化財「長谷川邸」に隣接する塀のないお屋敷からの眺めは昔の農村が残っている。屋敷内の桜とコブシが咲く季節になると思い出す。この頃の雑感

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