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  • 後悔先に立たず

    91歳の男が運転する車が女性をはねて、過失運転傷害の疑いで現行犯逮捕された。被害者に申し訳ない、免許証を早く返しておけばよかった」などと供述し、容疑を認めているという。加齢に伴う高齢運転者の事故のリスクが次のように指摘されている〇動体視力の低下で、信号機・道路標識・歩行者など、瞬時に複数の情報に適切な判断・対応ができなくなる。〇体力や筋力の低下で、正確なハンドリングやアクセル、ブレーキの操作が難しくなる。〇判断力の低下で、不測の事態への対応が遅れ、瞬時に判断し、安全な行動が出来なくなる。自家用車は無いより有った方が便利なのは当たり前のこと、後悔先に立たず、人身事故を起こして苦しみ続けるよりもタクシーをフルに活用して余生を優雅に過ごそう。後悔先に立たず

  • 小学生時代

    小学生時代(昭和14年~20年)、クラスの殆どが農家と自営業の生徒で占められ、僅かな鉄道官舎住まいの生徒は、「官舎もん」と呼ばれて、よそ者扱いされていたので、学校での楽しかった記憶は何もない。3年生だった昭和16年12月8日には大東亜戦争がはじまり、日本軍の勝ち戦だけを知らされながら、神の国である日本は絶対に負けないと教え込まれ子供心に信じ続けてきた。立派な軍人にするための教育だったのだろう、一般教科よりも体育や行軍と称した遠足、水泳、スキーなどの体力づくり、学校行事も、薬草の採取、イナゴ取り、落穂ひろいなどの奉仕活動が多かった卒業写真もない珍しい学校で、21年4月には旧制中学に進学したので、クラスメートの名前も顔も一部の生徒しか分からないままである、進学当初は他校出身の生徒との学力差を痛感した。小学生時代

  • 高齢男性の買い物

    老夫婦の定例行事は食品スーパーの買い物だけであり、店内の商品が出揃う9時半から10時ころをめどに出かける。馴染みになった売り場やレジの店員と会話を楽しむひと時でもある。この頃はスーパーで高齢男性が一人で買い物しているのが目立つ。料理する男性が増えたのか、奥様から頼まれたのか、一人暮らしか、実態は奥様のお使いが一番多いらしい。奥様のお使いである男性は、片手に奥様が書かれたと思われるメモを持ちながら、店員に商品の場所を聞いたり・探している商品の有無や種類を問い合わせしたりすることが多いと言う。ある日のこと、一人暮らしだろうか高齢男性の買い物籠に、おにぎりが2個、かき揚げが一個、カップ(みそ汁)が一個、精算してから店内の飲食コーナーで食べている姿を見て寂しくなる。高齢男性の買い物

  • 大雪が降ると

    昨年12月には大雪のため新潟県長岡市や柏崎市の幹線国道で多くの車が立往生したり、雪の影響による停電が長期化したことで大勢の方が豪雪による厳しさを体験されたと思う。雪の少ない新潟市内も一晩で40センチほどの積雪で除雪車が出動するも降り続く雪で、幹線道路の除雪優先のため生活道路は圧雪状態となり、利用しているネットスーパーも閉店になる。昭和52年から3年間の豪雪地で勤務時代の時、冬季のマイカー通勤は安全のため3人による交代制にした。同乗者はチェーン着装時、緊急時の連絡要員として心強い存在となったのである。降雪時は、高速道路やバイパスなどは避けて、出来れば緊急避難し易い部落や町並がある一般生活道路を利用することを、豪雪地で運転歴が長い先輩から教ったのを思い出した。大雪が降ると

  • タクシー運転手

    運転免許を返納して、52年前の生活に戻ってから半年になる。徒歩、タクシー、バス利用の生活に少しは慣れてきたとはいえ、マイカーが無いよりは有った方が便利であることには変わりはない。最寄りの小さなタクシー会社なので、タクシー依頼の電話も町名と名前を言えば、「ハイ分かりました」と一つ返事、顔も名前も覚えられないが、殆どの運転手と出会っており、初対面の運転手はいなくなったようだ。全国のタクシー運転手の平均年齢は59歳と高く人手不足の職種で、65歳定年制になっいるが、75歳まで勤めるめることが出来るそうである。一度耳の遠い人に出会ったが、自宅までの案内に苦労した。運転手の間でも、お客様に迷惑をかけている辞めて欲しい人も居るし、辞めたい人も居るという話を親しくなった運転者から聞いたが、後任がいないのでやむを得ない事情...タクシー運転手

  • 今日から新年

    明けましておめでとうございます。昨晩は、神様とご先祖様にお礼を申し上げ、老夫婦が互いに感謝の言葉を交わしながらお神酒で乾杯、爽やかな新年を迎えた。今年は3月に爺が、8月に家内が、卒寿を迎える節目の年である。老夫婦にとっては今年も願いは一つ、「転倒→骨折→寝たきり」にならないこと、朝茶を飲みながら誓い合ったところ。大きな願いは戦争の終息である。ロシア、ウクライナ双方には爺が知らない戦争に至るまでの複雑な背景があるのだろう、国連の無力さを感じながら平和が訪れる年になることを祈りたい。日頃は神様に手を合わせることのない高校受験を控えた中学生たち、センター試験を控えた高校生たちも絵馬を奉納して合格祈願で神様も大忙し、願いは公平に叶えてくれるだろう。今日から新年

  • 年賀状じまい

    終活年賀状とか縁切り状とも言われている年賀状じまいの習慣が、スマホの普及で40代~50代の中年層にも広がっているか゛爺は21日に例年通り年賀状を投函したところ。今年いただいた長いこと会っていない年賀仲間一人一人の年賀状を読み返して昔の顔を懐かしく思い浮かべながら、年賀状の余白に近況を知らせたり、尋ねたり、一言の添え書きを。毎年のように年賀状を書くのが大きな負担になった高齢者の終活年賀状が来るし、年賀状スルーと言う賀状を黙って辞めてしまう方もおられるが、まだ爺は年賀状終了宣言はしない。爺もいよいよ来年3月には卒寿を迎える。元気をいただいている現役時代の親しかった後輩たちやリタイア後にご縁のあった仲間達からの年賀状に感謝の意を伝え続けていきたい。年賀状じまい

  • 雪との戦い

    個人の家の除排雪は、今も昔も全て自己責任であり、豪雪地で作業が出来なくなった高齢者には冬の生活は厳しく、豪雪地の上越市(旧高田市)から雪の少ない新潟市(西区)に転居してから32年になる。屋根の雪下ろしをすることは無く、玄関先と車の雪を払うだけだが、加齢とともにスコップの雪も年々重く感じつつ老骨に鞭打ちながら、運動不足解消を兼ねて無理せず直営で行ってきた。警報級の大雪予報のとおり、19日早朝には20センチほど積もったろうか、今冬初めて除雪車が出動、日中も降り続いた。マイカーが無くなったので、除雪車が各家庭に配給した雪の始末は通路だけで済ませた。長いこと豪雪地での生活で雪の扱いに慣れているとは言え、3か月後には卒寿を迎える爺、昨年までは何とか行っていたスノーダンプで玄関先の雪を排雪する体力も気力もなくなった。雪との戦い

  • 総合診療医

    新潟県津南町では高齢化が進み複数の病気を持つ患者が多く特定の専門医だけでは対応し切れないケースが増えたので、総合診療医の確保対策に取り組んでいるとか、大賛成である。確かに内科の案内看板を見ると、消化器、循環器、内分泌・代謝、腎臓、呼吸器、神経、アレルギー・膠原病、感染症など多くの領域があるので、複数の症状がある時は不都合である。爺もS病院で心筋梗塞術後は一年に一度の診察、入院中に服用した薬は最寄りの内科(内分泌)から貰っているが、便秘薬をお願いしたら丁重に消化器科を紹介され診察は断られている。今は血液サラサラ、便秘薬なと数種の薬を服用するだけで、元気で体調も良く、生活動作に不自由もないので支障はないが、近くに総合診療医の開業医が居られたらいいなと思う。総合診療医

  • 一歳児

    昨年3月10日に生まれたひ孫の紗奈ちゃん、今日で1歳9か月になる。専業主婦である孫のYちゃんから、順調に成長している紗奈ちゃんの様子が頻繁にラインで送られてくる。送った新潟スイカを美味しそうに食べている紗奈ちゃん、スマホを持ってプッシュしたり、マイカーのハンドルを動かしたり、動物にエサを与えたり、知恵付きが早くて頼もしい。静岡県の保育園で保育士が一歳児に虐待行為を繰り返した3人の女性保育士が逮捕される事件があった。子どもに3人の先生の写真を見せたら、「嫌だ嫌だ」ってすごくいやな顔をしたと言う。日頃はお母さんとマンツーマンで、休日はお父さんも一緒に伸び伸びと過ごしている紗奈ちゃんの動画を見る度に、保育園で虐待されている子ども達のことを思うと可愛そうでならない。一歳児

  • 思いがけない事

    今年も早や師走、無事にお歳暮の手配を済ませホッとしているが、特に明るい話題は無かった。運転免許証の返納によって日常生活が大きく変わり、身内では思いがけないことが続いた。6月早々、昭和3年生まれの叔父さんが老衰で亡くなり、27年一人暮らしだった爺より年下で昭和9年生まれの叔母さんが自宅で転倒して家事不能となり老人施設での生活になった。、。8月初め新潟県村上市が水害で、市内の各地で避難命令が出たので、76才なる従弟に電話したら、奥さんから本人は歩行困難で入院中、退院後の本人から車いすの生活になってしまったと。10月下旬、埼玉検県在住のMさんと言う見知らぬ方から封書が届いた。内容は、故郷である村上市内に爺の母方の祖父母名義で7坪ほどの土地に爺も相続権があり手続きに関するものだった。思いがけない事

  • 89歳の思い

    薬と仲良くしながらも長生きして、まだ介護保険の世話にもならずに自立した生活ができるだけで幸せを感じているし、国の介護保険財政に貢献しているという自負もある。ひと月に一回かかりつけ医を受診して治療することは無く薬をいただいてくるだけだが、自立している89歳の老人に、年6回の血液検査に疑問を感じているが医師に質問する気もない。免許を返納してタクシーでの買い物してから4か月、一回千円前後のタクシー代を財布からの出し入れ、お釣りのやり取りは煩わしく思う。チャージ型プリべーどカードがあればと願っている。10月の知事選挙は最初から勝負が決まっている情勢だったこともあり、タクシーを利用してまで投票する気持ちになれず、初めて棄権した。車のない人たちのために自治会として一考願いたい。89歳の思い

  • 高齢者の交通事故

    福島市内で97歳の高齢者が歩道に突っ込み5人の死傷者が出る大きな交通事故を起こした。ブレーキ痕がなかったと言うから、またもやブレーキとアクセルの踏み間違いだろうか。高齢ドライバーの殆どは、自動車なしの生活は不便であり、運動能力の低下は感じているが免許返納するほど衰えていないので、まだ大丈夫だと思い込んでいる気持ちはよく分かる。高齢者の事故の半数は、認知機能での問題はないが、アクセルとブレーキの踏み間違い、高速道路の逆走など、大きな事故に結びつきやすいという傾向だとある。爺は8月に免許返納前の一年は、駐車場内でバックしながら壁にこすったり、停車中の車に当たったり、運転技能の低下と注意力が散漫になったことを自認して返納を決断した。高齢者の交通事故

  • タクシーでの買い物

    タクシーを利用してスーパーで買い物をするようになって3か月になる。月7回から8回ペースで利用するので、顔なじみになって親しく会話できる運転手もおられる。現在の新潟市のタクシー料金は、基本料金が570円から始まり80円づつ加算される。馴染みのスーパーまでの料金は、車の流れが良い時は730円、渋滞や信号次第で810円になる。タクシー業界はコロナ禍で人の動きが少ないので暇らしいが、朝は時間帯によって通院のための高齢者の利用、特にお天気の良い日は整形外科へ通院する高齢者の利用で混んでいるとか。運転手の客扱いも様々である、買い物をトランク保管してくれる人、帰りを予測してスーパー近くで待機してくれている人、降り易いように右のドアも明けてくれる人、たまに無愛想な人も。タクシーでの買い物

  • 障害者には親切に

    森喜朗元首相が、「杖をついていると身体障害者に見えて、みんなが大事にしてくれる」との発言にSNSで物議を呼んだ。本人は何が悪いのか分からないと言っておられたが、爺にも分からない。爺もひざ痛で、杖を利用するようになってから、ゴミ捨ての途中で散歩中のご婦人から「捨ててあげましょうか」と声を掛けられたが、お礼だけ申し上げ丁重にお断りをしたことがある。10年以上の前のこと、年に一度のOB会に出席するため、駅まで歩いていたら革靴のかかとが取れそうになり、片足をかばいながら歩いた。女子大生が席に座るまで寄り添ってくれた。身体の不自由な方に対する小さな親切は時々見かける自然な行為である。爺も数少ないが、体の不自由な方と出会えば、自然に横断歩道を寄り添って歩いたり、手荷物を持ってあげたりした。障害者には親切に

  • 新老人

    105歳の天寿を全うされた日野原先生が政府は75歳以上のお年寄りを後期高齢者と呼んでいるが、新老人と呼びたいと言っていた。確かに高齢者より元気で活動している老人に聞こえる。90歳になったとき新しいことをはじめたいと思い、老人が慰め合うだけの会ではなく、生き生きと活躍する社会を作るために「新老人の会」を立ち上げ、全国的に展開されていると言う。来年3月には90才になる爺、目がかすみ、耳が遠くなり、歯が無くなり、ひざ痛に悩まされながら、ブログの投稿と物書き仲間8人の新老人達と月に2回の集いを楽しんでいる。新しい事に挑戦する意欲も体力もないが、最後の予定としてブログ「爺の世間ばなし」の投稿数が1000回を超えたのを機に卒寿を記念して2回目のブログ百選を発刊しようと思っている。新老人

  • 鮒釣りとカジカ取り

    初めて魚釣りをしたのは小学校低学年の時である。お隣りの父と同じ鉄道員の斎藤さんから、釣り竿、糸、釣り針、浮き、重り一式を揃えてもらい、近くの農業用水池で鮒釣りを教えてもらった。餌は何処の家でもあった生ごみの捨て場からとった小さなミミズである。元気に動き回るミミズを小さな針に付けることから教わったが難しくて繰り返しながらコツを覚えた。去る8月に大水害に襲われた新潟県村上市を流れる荒川は、上級生に連れられて、水浴びをしたりカジカ取りをして楽しんだ懐かしい川である。河原で焼いた串刺しのカジカは美味しかった。木枠にガラスの窓が付いた四角形の箱メガネのガラス部分を水面に押し当てて水中をのぞきながら、カジカは前進するだけなので、カジカの前方に小さなタモ置いて捕獲する。鮒釣りとカジカ取り

  • 小学生時代

    昔々のことである、昭和14年から20年まで県北の小さな田舎の小学生時代はと爺に問われたら、良く遊び、遊び過ぎてよく眠り、良く学ばなかった6年間だったと答えるだろう。3年生だった昭和16年12月8日には大東亜戦争がはじまり、日本軍の勝ち戦だけを知らされながら、日本は神の国であるから絶対に負けないと教えられて、子供心に信じ続けていた。学校では、一般教科よりも軍人になるための体力づくりとして体育や行軍と称した遠足、水泳、スキー教育が、学校行事も薬草の採取、イナゴ取り、落穂ひろいなど奉仕活動が行われていた。国防婦人会と書いたタスキをかけた勇ましいお母さんたちの防空訓練があつたが、アメリカの爆撃機B29が飛来することもなかったので、戦災にも会わず穏やかな6年間だったと思う。小学生時代

  • マイカーの無い生活

    運転免許を返納して52年前の生活に戻ってから2か月になるが、徒歩、タクシー、バス利用の生活も徐々に慣れてきたところ。大きな不便さは感じられなくなった。主な外出である4日に一度のスーパーはタクシーを利用しているが、野菜、果物、魚、肉類などの生もの以外の洗剤やティッシュなどの生活雑貨はネットスーパーを有効こ利用している。最寄りのバス停まで歩いて3分、たまに利用する銀行、郵便局はバスで、よく利用している本屋、宅配便の集配依頼などはネットをフル活用、改めてパソコンのありがたさを痛感している。免許返納を決断するまで1年ほどかかった。高齢者による交通事故のニュースに触れるたびに、人身事故の加害者にならなかっただけでも、肩の荷が降りたようなほっとした気持ちである。マイカーの無い生活

  • 加齢とひざ痛 (2)

    一週間の様子見だった右足のひざ痛で15日に2回目の受診、お医者様に単刀直入に「治りますか」と尋ねた。答えは「治りません、注射と湿布と薬で痛みを和らげる治療になる」と。一日一回の湿布と薬を続けているがお医者さまの言う通り痛みは変わらない。つい右足をかばって歩くので、左足の筋肉が痛くなる。治らない痛みと共存しながらの日が続いている。軽やかに歩いている人たちを見ると羨ましく、旅立った愛犬と散歩しながら走り回っていた頃を思い出す。今は、終着駅まで湿布をしたまま静かに終電車に乗り続けているしかない。60歳から爺と同じ体験をした80歳の知人T子さんの苦労を思えば、少々の痛みを我慢しながらの生活でも、89歳まで何の不自由もなく歩き回っていた幸せ者だと思いたいが悔しい。加齢とひざ痛(2)

  • 加齢とひざ痛

    今月初め頃から、ベットから降りる時、椅子から立ち上がる時、歩く時に、右足膝の痛みが続いたので8日に念のため整形外科を受診したが、診察まで待合室での2時間は少々疲れた。60代半ば、ひざ痛と腰痛が続いたことがあった。原因は58歳で卒煙してから体重が10キロ増えたためと診断され、標準体重に戻したら治癒した体験から今回も同じかと思っていた。転倒も打撲もないので骨に異常はなかったが、加齢による軟骨の減少したことでの痛みだと分かった。当日は注射を打たれ一週間の様子見となり、湿布と痛み止めを貰って帰って来た。新聞広告で膝の痛みに即効性の飲み物が頻繁に紹介されているところを見ると、悩んでいる中高年の方は多いのだろう。爺も今のところ一日一回の湿布の張替と薬で痛みは和らいでいるが。加齢とひざ痛

  • 寄る年波

    80歳代最後の年を歩む老夫婦、日常の生活動作も動きが鈍くなり、手抜きしながらも大きな不自由はないが、70歳、80歳の壁は難なく超えられたのに、90歳の壁は厳しく感じられる。運転免許の返納後、マイカーを利用していたコンビニ、本屋、100円ショップは安全のため杖を使って歩いているが、途中で腰に違和感を覚えるようになり脚力の低下を痛感している。難聴は認知症の原因の一つだと言う。聴覚からの情報が入らなくなると脳の記憶する部分が萎縮して劣化が始まり認知知機能低下するそうだが、すでに補聴器は生活必需品になった。今までは軽々できた動作だつた部屋の蛍光灯の交換、夏場の日よけ用の簾の交換、イチジクと梅の木の選定など、高所の作業は安全のために業者に依頼しているが、悔しい気持ちになる。寄る年波

  • プロ野球

    物心ついた頃には、我が家の新聞は読売新聞だったので、何となく巨人ファンになってしまったようだ。今年の巨人は10月1日で4位が決まり、クライマックスシリーズ進出が消滅した。身内でプロ野球ファンがいなかったので、巨人戦の観戦に一人で後楽園や東京ドームへ出かけて行った頃の元気は無くなったが、卒寿を迎える年になった今も、巨人が負けた日の気分は良くない。人気のセリーグ、実力のパリーグて言われている。爺もパリーグの試合は全く見ないし新聞記事も読まないし、テレビも見ないので有名選手は知らない。日本シリーズで初めて選手の顔を見る。今年も日本シリーズで戦う巨人の姿を見られないのが残念、セリーグのチームが勝ってほしい。今年はクライマックスシリーズはどうなるだろうか、セリーグの進出チームが日本一なって欲しい。プロ野球

  • 小学生時代の一コマ

    爺の子供の頃は、小川での水浴び、セミ、トンボ、カブトムシ、ホタルなど、自然や昆虫との触れ合いが多かった。少子化とは言え、今は子供たちが外で集団で遊んでいる姿は見られない。狭い借家や鉄道官舎住まいの小学生時代(昭和14年~20年)は、夜勤明けの父親は朝食を済ませると寝るので、父の安眠のため、何処の家庭でも子供たちは外へ追い出され集団化する。集団化した子供たちは、交通手段もなく、遊び道具も少ないので、手作りのボールとバットで野球したり、水鉄砲、竹馬、竹とんぼづくりなど、知恵を出し合っての遊び、現代と大きく違うところである。雨の日は官舎内にあった共同風呂内の一角で、男女別に持ち寄りの漫画本を読んだり、トランプをしたり、女の子はママゴトをしたり、折り紙やあやとりをしたり、昔々の爺の子供の頃の一コマである。小学生時代の一コマ

  • 歓迎しない

    年度初めに、住民税、固定資産税、自動車税、医療保険、介護保険など、区役所から届く封書に嬉しいお知らせは無い。今年は更に10月から医療費の窓口負担が2倍になった保険証が届いた。パソコンを起動する度に受信する迷惑メールの削除から始まる。最近、国税庁から40,000円を滞納しているので期日まで納付が無い時は差し押さえ処分するというメールが数日続いた。固定電話で、0120で始まる電話は無視するが、最近は、050,080で始まる、リサイクル、冠婚葬祭、外壁の塗装など、早口で喋りまくる迷惑電話が繰り返しかかってくるが、聞く耳を持たない。今のところ、我が家には市役所職員、警察官、銀行員などを名乗る詐欺師からの電話はない。まだカードを渡したり、暗証番号を教えたりするほどボケてはいないが、認知症予防に努めている。歓迎しない

  • 転ばぬ先の杖(2)

    老夫婦が毎日の生活の中で最も気配りしているのは、転ばないことであり、転んだら骨折して寝たきりの生活が待っている。作家の五木寛之さんが言うとおり冥土の予約をしたことになる。8月18日に免許返納してからは、車で利用していた近くの本屋、コンビニ、百円ショップへ杖を利用して歩いて行ってる。足腰への負担が少なくなり、安心感もあってよろしいようで。2年前に転んで膝を打撲、医師から杖を勧められた家内はその気になれず利用していないが、外出時は爺の服につかまって杖替わりにしている。抵抗なく杖を利用する日を待ちたい。老いたら不測の事態を想定して早めに決断するのが最も賢い判断だとは思うが、転ばぬ先の杖を利用する時期は性格的なものがあって、本人がその気にならない限り無理のようだ。転ばぬ先の杖(2)

  • お手伝い

    県北の田舎で過ごした爺が小学生の頃の農家では、男の子は田や畑で親のお手伝いを、女の子は弟や妹の子守など、家族の重要な一戦力であり、猫の手も借りたいほど手が足りなかった。家電製品が無かった時代のお母さんたちは、掃除・洗濯・炊事の他、雑用に追われていた。爺は玄関の掃除、簡単な買い物、風呂の水くみなどを、妹は洗濯物をたたんだりしていた。殆どの子供たちは、必然的に家事や育児にかかわり、親のお手伝いを通して様々な経験を積んでいる。今は、結婚して初めて体験するためだろうか、家事や育児疲れの訴えが多い。子供にとってお手伝いは、誰かの役に立つことのできる貴重な機会であり、また子供の自己肯定感を育める大切な体験になるので、子供の出番を作って欲しいと識者から世の親たちに訴えている。お手伝い

  • この頃の動き

    高齢者がブレーキとアクセルを踏み間違えて人身事故をおこしているニュースを見ると、免許を返納して良かったと思うが、タクシーは、運転手の人柄次第で不愉快な思いをする時もある。。3日か4日に一度、タクシーての買い物も慣れてきたところ、思っていたより不便さは感じない。タクシー運転手も高齢化して、免許返納したいと言っていた75歳の運転手に出会った。タクシーで、空いているお昼休み時間を利用していた「理容カットA」に開店時間に合わせて行ったら爺は4番だった。3人とも髪の毛が少ない方だったので、控えた時間は15分で済んだ。去る5日、30年以上も利用しなかった路線バスで銀行まで、乗車時の客は爺一人、降車時に数人いたが高齢者ばかり、帰りのバス停で免許返納した高齢の女性と会話しながら乗車、客は数人だった。この頃の動き

  • 愛車との別れ (2)

    免許を返納した高齢者の車を引き取りに行く自動車会社の方から聞いた話だが、長いこと親しんだ最後の愛車を涙を浮かべながら見送る老夫婦の泣き顔を見るのは辛いと言っていた。90歳の壁の向かっている爺は、幼い頃から「男子たるもの人の前で涙を見せるものではない」と育てられたせいか、涙を流すこともなく、家内と車が見えなくなるまで手を振って見送った。マイカーが無くなってから3週間近くなる。一年前から、病院と市内での買い物だけだったので、マイカー利用時とタクシーとの便利さの差は思っていたより少なく徐々に慣れるだろう。時々マイカーで行っていた近くのコンビニ、百円ショップ、本屋も今は歩いて行っている。身近で転んで骨折した高齢者を見ているので義弟が生前に使っていた転ばぬ先の杖を使い始めた。愛車との別れ(2)

  • 会葬礼状

    親族・友人・知人・ご近所さん、現役時代は職員の家族のご葬儀に参列してきたが、これまで頂いた会葬礼状で、何回も読み返したお二人の会葬礼状が今も心に残っている。平成19年12月23日、83歳で終末医療施設で静かに帰らぬ人となったユミコ姉さんの会葬礼状には、晩年に読んだ短歌「雪を心の友と呼び、雪解けを待って咲くカタクリに身近な幸せを感じ毎年増える蛍を楽しむ」が紹介され、先立たれた御主人と過ごした豪雪の地をこよなく愛された方だった。平成27年2月6日、100歳で綺麗な仏様だったクニスケ先輩の会葬礼状には人生のお手本を示してくれた最愛の父へ感謝を込めてと題して3人の娘さん一同から父の好きな言葉「夢一生」を紹介されていたが、日記を書き続け、老いても夢を抱き続け、前向きな人生を歩んできた方だった。彼の地で、クニスケ先輩...会葬礼状

  • 身近の年寄りたち

    8月16日、家内も無事に89歳の誕生日を迎え、3月に89歳になった爺と肩を並べて90歳の壁に向かって歩き始めた。外出時は転ばないように爺の服を掴んで寄り添って歩いている。爺の身内で、5歳年上の叔父さんが無くなり、1歳年下で一人暮らしの叔母さんが転んで肩を脱臼して介護施設へ、75歳の母方の従弟は原因不明の歩行困難で入院、不幸なことが続いてる。物書き仲間で84歳の愛飲家のK氏、現在は奥さんと娘さんから禁酒を言い渡されている身である。4回目のワクチン接種後の大酒を飲んだのが原因で激しい副反応で10日間も入院した。近くに住む83歳のH氏、朝夕には定期的に散歩している御仁である。散歩中に転倒して腰の骨折で救急車で運ばれてから1か月以上になるが、経過も分からないし、姿も見られない。身近の年寄りたち

  • 廃車と免許返納

    一昨日はマイカーの車検期間満了日、午前10時頃に馴染みの自動車会社の社長さんと社員の二人で車を受け取りに来てくれた。廃車する最後の車を複雑な気持ちで見送った。続いて所轄の警察署へ出向き免許証返納手続きと、免許証に変わる運転経歴証明書申請手続きを済ませた。当証明書により市内のタクシー料金は一割引きになるが、発行は約2週間後だという。月に一回の通院、3日に一回程度のスーパーはもとより、たまに利用する馴染みの和食店、そば店、時々利用する家電店、ホームセンター等々は全てタクシー利用、今まで通りの生活を続けたい。50年以上も家族を楽しませてくれたマイカー生活から、新しい生活が始まった。かねがね経験者から聞いていた寂しさは感じないし、直ぐに慣れるだろう。息子達も安心してくれ、すっきりした気分である。廃車と免許返納

  • お盆の中日

    今日はご先祖様が年に一度3泊4日の里帰り中である。また、爺が中学1年生の夏休み中だった8月15日は、子供心にまさか負けるとは思わなかったアメリカとの戦に負けた日でもある。高齢による免許返納を間地に控え、マイカーでの遠出を控えてから故郷のお墓参りはしていないが、毎朝ローソクと線香を灯して両親とご先祖様のお位牌と過去帳に静かに手を合わせている。今日あたりは、世の爺ちゃん、婆ちゃんたちは、3年ぶりに帰省したお孫さんを迎えて忙しく動き回っている事だろう。我が家は、孫たちが来て嬉し,帰って嬉しの時期は終わって久しい。しつこいコロナ禍、頻繁に発生する線状降水帯による災害は神の祟りかと思われる現象だ。世のお孫さんたちには、お盆を爺とちゃん婆ちゃんと楽しく過ごして、無事に帰宅されることを願う。お盆の中日

  • 打診

    スイカの美味しい季節、昔は八百屋さんが見た目と音を叩きながら選んでくれた。食べ頃のスイカはボンボンと響く音、未熟のスイカはポンポンと高い音、熟し過ぎたスイカはドンドンと鈍い音だとか。子供の頃、SLの機関士だった父に聞いたことがあるが、機関車の周りを歩きながら金槌で叩いているのは、音で異常の有無を確認しているのだとか、大工だった叔父さんも釘打つ前に金槌でトントンと叩いていた。最近は聴診器を使ったり打診するお医者様と出会わないが、昔のお医者さまは、患者の身体の表面や背中を叩いて振動を与えて、それにより生じた音を聴き取り内部の状態を調べていた。人間の頭も、専門医に叩いてもらえは゛脳みそが満タンの頭と空洞のある頭では音の響きも違うのか分かんだろうか、家内の頭を叩いても、爺の頭を叩いても何の響きもない。打診

  • 一年検診

    7月28日、年に一度の心筋梗塞術後の検診のためS病院へ、血液検査、エックス線撮影、心電図、心臓エコー検査と一通りの検査後に主治医の診察、終了するまで3時間を要した。心臓に変化はなかったが、血液検査でカリウムの数値が高過ぎるので、カリウムの多い果物と生野菜は暫く控えるように、特にバナナとスイカは食べないことなど医師からの指導があった。朝食で定番のバナナ、トマトキュウリを食べ、採決30分前にスイカを食べていたので高めの数値になったのだろうか、翌29日受診したかかりつけ医は、今後の検査経過を見ることにすると。何の自覚症状もない今、89歳まで健康を維持してきた我が家の食習慣を直ちに変えるつもりはなく、次の結果が出るまで、数値にこだわることなく季節の果物も食べ続けている。一年検診

  • 宝くじ売り場で

    夏のジャンボ宝くじの販売中、何時もささやかな縁起を担いで大安吉日に買っている。今年は7月27日、最近よく利用している小さな宝くじ売り場で買い、帰宅後に暦を見たら仏滅だつたとは、年のせいか。売り場には客がいなかったので、スタッフの中年女性に、「当たりそうなジャンボを30枚を見繕ってください」と真面目顔で言ったら、「ハイ分かりました」とニコニコしながら渡された。スタッフから、「お元気そうですが当たったらどうなされますか」と問われ、即座に老後のために貯金しますと、テレビ出演料を貰った時の金さん、銀さん姉妹の答えを真似たら爺の顔を見て大笑いしていた。宝くじを楽しむようになったのはリタイアしてからで30年以上になるが、殆どが10枚に一枚あたる300円だけなので、当選番号が発表になったら900円を貰いに来るよと言って...宝くじ売り場で

  • 90歳の壁

    70才の壁を越え、80才の壁を越え、あっという間に来年3月8日の90才の壁が見えるところまでに来てしまった。階段の昇り降りがきつくなるわ、夜中に何度もとトイレに起きるわ。親から受け継いだ過去帳に4才、3才、0才で亡くなった3人の弟たちの名前が記されている。現代医学だったら助かったであろうに、爺は短命だった3人の弟の分を生きているのかも。人には、それぞれに持って生まれた運命がある。小学生時代は虚弱体質、食べ盛りの思春期は戦後の食糧難時代だったが、結婚64年を通して変わらない食習慣が長生きの要因だと信じている。ネットで、生年月日、性別、血液型での寿命診断をしたら、爺の死亡日は6年後の8月20日と出たが、時期が来れば神様が決めてくれること、今は90才の壁に向かって、脳と体を動かしている。90歳の壁

  • 愛車との別れ

    一昨年に息子から免許証の返納について忠告されて以来、高速道路、自動車専用道路、遠距離、夜間、降雨、降雪時の運転は控え、市内の生活道路を利用しての通院と買い物だけにしてきた。ドライブを楽しみながら訪れた仲間達も少なくなり、来年3月には90歳になる爺、視力、聴力、注意力の低下は否めず熟慮の結果、今年8月の車検を機に廃車と併せて免許返納することにした。最初に出会った中古の三菱コルト1000は、今も忘れることは無く、懐かしく思い出す。あれから今日まで50年間に楽しませてくれた数々の愛車に感謝しながらお別れしたい。高齢者専門の精神科医和田秀樹さんが、元気で不自由のなかった70代の高齢者が、運転免許の返納がきっかけで衰えてい行く人を多く見てきたというが、衰える前に石の帽子をかぶっているだろう。愛車との別れ

  • 注射

    昔は風邪で熱がでると近くの医者にかかるたびに注射されていたが、最近は各種の検査数値を基に投薬するだけで、注射はコロナやインフルエンザなどの予防注射だけになった。戦後の中高校生の頃だったろうか、結核菌感染の有無を知るためツベルクリン反応検査を行ない、陰性者にはBCGを接種、爺は3回目のツベルクリン反応検査で陽性になった記憶がある。爺はインフルエンザに4回かかっており、最初は17歳、2回目が24歳、3回目は49歳、4回目が58歳の時である。免疫力がついたのか以来感染したことは無いので、予防注射をしたことが無い。一昨日の13日は第4回目のコロナワクチンを注射した。副作用で辛い思いをしている方も耳にするが、爺は4回とも、翌日に接種個所が少し痛痒い程度で済んだ。注射

  • 今日は参議院選挙投票日

    今日は参議院選挙投票日、指定された投票所の小学校は遠くて、駐車場も校内の通学道路に縦列駐車のため、投票会場までかなり歩くことなるので、何時も近くの期日前投票所で済ませてる。今回はロシアのウクライナ侵攻で国の防衛力の見直しが大きな焦点の一つになっている。一部の政党を除いて各政党が防衛力の強化と防衛費の増額を掲げているが、それぞれ主張は微妙に違う。各家庭でも、空き巣などの不法侵入者に備えて玄関や窓には、カギをかけて戸締りをしている。我が家では万一の時に直ちに駆けつけてくれる警備保障会社に見守りサポートを依頼している。自民党の麻生さんが街頭での応援演説で、「弱い子はいじめられる、国も同じ、強そうな国には仕掛けてこない」と相変わらず麻生さんらしい演説の記事があったが、選挙結果はどうなるか。今日は参議院選挙投票日

  • 爺のこの頃

    来年3月には90の壁を超える爺、食欲以外の欲はいつの間になくなって、否応なく老いを認め、1日一回の朝食後に飲む数種類の薬と共存しながら何となく生きながらえている。ベッドに横たわりながら夜6時からの巨人戦を観戦するも試合途中に熟睡、翌朝3時前には目を覚ます。朝茶を飲みながらパソコンとスマホを起動して1日が始まり、5時半の朝食が待ち遠しい。コロナ禍と極暑と加齢で外出は通院、スーパー、物書き仲間との集い以外は控えている。家ではブログやエッセイの原稿づくり、読書、気が向けば掃除、片づけ物など、常に頭と体を動かしいる。曜日ごとにあった楽しみな番組を見ていた年代は終わった。時々見る番組は、「ニュース、自然百景、小さな旅、ダーウィンが来た」くらい、パソコンとスマホで充分楽しんでいる。爺のこの頃

  • 6月のできごと

    6月になると、昭和39年6月16日の新潟地震を思い出す。地震発生時は、前日15日の夜に次男が生まれ休暇を取っていた爺は病院のベッドの傍で家内と揺れの収まるのを待った。玄関で作業中の時である、日頃は無言の郵便配達員がニコニコしながら、「要らないと思いますが置いて行きます」と2通の封書を手渡された。見たら老夫婦の市民税納税通知書だった。今年も我が家の小さな庭に30年近く咲き続けている長生きのラベンダーを収穫できた。乾燥後のラベンダーを小袋に詰めて、何時も喜んでくれる知人友人への配布を済ませた。新潟スイカのシーズン、今年も馴染みの生産農家で収穫したばかりの大玉スイカを子供たちに送ることが出来た。今年から高齢者には扱いやすく食べやすい7月に収穫される小玉スイカを送ることに。6月のできごと

  • 爺の職業選択

    大東亜戦争末期の昭和20年4月、田舎の国民学校から旧制中学に進学した。事前の進学指導で、将来の希望は「軍人になりたい」と答えるよう教えられ、子供心にその気になっていた。戦後の混乱期だつた中学、高校時代、就職について真剣に考えたことは無かった。父が国鉄職員だったので、何となく鉄道員になるんだろうと思い続けていたし、両親も同じ考えだったようだ。高校を卒業した昭和26年当時は就職難時代だつた。国家公務員初級職募集のポスターを見て何となく受験したが大勢の受験者に驚いた。合格通知も、不合格通知も来なかった。縁故で国鉄に採用内定したが職種が気に入らず辞退、役場の臨時職員をしていたが、村長に勧められて県庁職員採用試験を受験、試験問題と折り合いが良く合格、県民の奉仕者として38年。爺の職業選択

  • 手洗い

    昭和一桁生まれの爺、子供の頃には手を洗う習慣はあまり無かったが、コロナ禍によって、外出後は必ず「うがいと手洗い」をする新しい生活習慣がすっかり身に付いてしまった。トイレ入り口近くの軒下に、ペットボトルをひっくり返したようなブリキの手洗い器がぶら下がっており、下部を手で押すと水が出る簡単な仕掛けだったが、殆ど利用することは無かった。無菌の環境で育った現代子と違い、おしっこの後も、外から帰った時も、食前にも手を洗うことは無く、雑菌とともに暮らしながら免疫力がついたのか、何事もなく大人になってしまった。O157の集団発時、手洗いの習慣のある子の方が多く発症したとか、手の汚れも、鼻水も衣服で拭いているような昔の子供の方が、免疫力があって中毒になりにくいような気もする。手洗い

  • セクハラ騒ぎ

    セクハラという言葉は、1989年に性的な嫌がらせを理由に初の民事裁判が起こされ、「この年の新語・流行語大賞」新語部門で金賞を受賞したことがら、世間に広まったとある。昨今は世の中のセクハラに対する風当たりは誠に厳しい。男性のセクハラ言葉にあたる発言集を見ると、多分ほとんどの男性に一つや二つは、口走った言葉に思い当たるのではないだろうか。現役時代、周りでは世に騒がれているセクハラ行動は聞いたことは無かったが、仲間同士の飲み会の場所で、面白おかしく、周囲を笑わせながら軽い冗談でのセクハラ的発言は飛び交っていた。本県でも若い代議士による、セクハラとパワハラでセパ両リーグ制覇などとネットや紙上を賑わせたことがあったし、最近は高齢の国会議員によるセクハラ疑惑が報道されるなど、絶えることがない。セクハラ騒ぎ

  • 投稿1000回

    2007年5月2日に初投稿してから、今日が1000回目になる節目の投稿になる。初投稿の話題は先輩で元気な当時91歳の高沢さんと84才の奥さんがお見合いをした時の話である。高沢さん曰く、見合いの席で食欲旺盛な彼女を見て丈夫そうだったので嫁にしたとか、奥さん曰く、眼鏡の嫌いな人だと聞いていたので外して行ったので相手の顔はわからないでしまったとか。身近で応援してくれる読者、全国各地の顔の見えない読者の皆さんからの応援、またブログ村内で爺のブログに対する注目度も上位にあることが励みになって書き続けることが出来た。80代最後の年を卒寿に向かってゆっくりと歩いている爺、加齢とコロナ禍のよる外出自粛で新しい世間話は少なくなったが、89年の人生を振り返れば、話のタネは尽きることは無い。投稿1000回

  • 自転車の思いで(2)

    結婚した昭和三十三年に初めて自家用の自転車を買い求めた。値段は覚えていないが、当時の給料で新車を買うのは厳しく、中古の自転車だったが通勤や買い物に活躍してくれた。子供がが生まれてからは、公園やプールへ連れて行ったり、親子を楽しませてくれた。長男が小学生になった頃には、子供たちの殆どは子供用の自転車を持つようになった。当時の生活道路にはタクシーなど営業用の車しか来ないので、交通事故が発生するような危険はなく、何処の子供たちも伸び伸びと道路で自転車で楽しんでいたものである。小学校でも自転車を利用する生徒が増えたので免許制となり合格しないと自転車に乗られなくなった。自信たっぷりで乗り回していた低学年だった長男がまさかの不合格、暫くは家で寂しそうだった。自転車の思いで(2)

  • 自転車の思いで

    爺が小学生だった昭和10年代は、一般家庭で自転車を所有する家は少なかった。呉服店だった母の実家には2台あって小学校3年生の頃だったと思う、叔父さんから自転車の乗り方を習った。大人の自転車なのでサドルに腰かけることが出来ず、フレームの三角形の中に右足を入れて、ペダルを半回転させながら前に進めるのである。不安定な乗り方なので何回か転びながら覚えた。戦後の爺が高校生になった頃から裕福な家庭では自転車を所有するようになった。我が家で自転車を買ったのは昭和28年、父が自転車と並んで撮った写真の表情が嬉しそうなこと。昭和26年村役場の税務課で日給150円の臨時職員をしていた時のこと、当時の自転車税が確か200円だった。自転車の所有者も増えたが自転車税を滞納する家庭も多かった。自転車の思いで

  • お勉強

    昭和14年に入学した田舎の小学生時代は真剣に教科の勉強をした覚えがないが、イナゴ取り、落穂ひろい、ドクダミ、ゲンノショウコの採取、テントウムシ、ずい虫の捕獲などの行事ばかり覚えている。昭和20年旧制中学一年生の教科は、国語、漢文、歴史、地理、体操、幾何、代数、教練、英語、生物だつたが、幾何と代数は、先生の説明を理解するのに一苦労、小学校の学力差を痛感した。。学制改革で高校に自動的に編入された3年間の教科内容は、旧制中学3年間に学んだ内容と変わらなかったので、勉強は60点を目標として控えめに、部活のテニスを存分に楽しんだ。小学生だった頃の孫たちには「お爺ちゃんはね、小学生の時はお勉強が大好きで、お遊びが大嫌いだったんだよ」と、まじめ顔で話したが、「お勉強の好きな人はいないと思うよ」本気にしてくれなかった。お勉強

  • 各種検診

    健康診断は受けてはならないとか、高齢者は毎年受ける必要が無いとか、お医者様同士での色々なご見解を書物等で読んでいるが、区役所からは今年も所定の各種検診案内が届いている。89歳にもなると、今さら新しい病気を発見してもらって、心配事を増やしたくないのが本音である。3年前の心筋梗塞後、かかりつけ医で定期的に受診していることだし、各種検診は受けていない。定期検診で血液検査結果を基にお医者さまから漬物は食べないこと、卵は一日置きにすること等々ご指示をいただいているが、残り少なくなった余生、好きな食べ物は普通に食べ続けている。毎回十数項目の血液検査の数値が全て基準値内とは限らない。毎日が元気で体調がよく、ご飯が美味しくて、生活動作に大きな不自由もないので、数値を気にすることは無くなった。各種検診

  • 単身赴任

    新潟県は、海岸線が330キロと細長い地形の越後と離島の佐渡島を有しているため、新潟県職員は人事異動時の宿命として、単身赴任を余儀なくされたり、無理な自宅通勤者も居られる。爺も、昭和46年4月から2年4か月の単身赴任をした。前年に運転免許を取得したばかりのマイカーを利用して、半ドンの土曜日の午後に自宅へ帰り、月曜日の早朝に勤務地へ出発する。爺が38歳の時であり、長男が小学5年生、次男が1年生で、家族が最も一体感のある時代だった。金曜日の夜になると明日が楽しみで、日曜の夜になると寂しい気分になったもの。現在は土曜日も休日の週休2日制となり、祝日も増え、振替休日もあって、自宅へ帰る日数も増えたことで、金曜日には帰宅できるし、家族の元で過ごす日が多くなって恵まれている。単身赴任

  • 買い物の今昔

    小学生の頃、休みになると呉服店だつた母の実家で過ごすことが多かった。絶え間ない馴染みの客で繁盛していた。世間話をしながら時間をかけて買い物を楽しんでいたのを覚えている。同じ町内には、記憶にあるだけでも、薬屋、お菓子屋、八百屋、魚屋、醤油屋、お茶屋、床屋があって人通りは多かった。入店すると、「いらっしゃい、毎度どうも、おおきに」、と挨拶を受ける。客は、オマケと言うサービスを受け、現在のポイントカードである。大型店での買い物になってからは、物置から必要なもの探して持ってくるようなもので、入店から退店まで無言で終わる。更に、コロナ禍によって店内の場内放送で、マスクの着用、客同士の会話、従業員との会話の禁止、買い物時間の短縮を呼びかけられている。昔のような買い物の楽しみ方は無くなった。買い物の今昔

  • 70代に戻りたい

    高齢者専門の精神科医である和田秀樹さんの著書「70代で死ぬ人、80代でも元気な人」の中に、70代の過ごし方次第で、気が付けば90歳と言う理想の老い方になるという。80代最後の年を歩む爺も、体力の衰えで多少の不自由はあるが、70代では全く老いを意識することなく、国内各地への団体旅行やドライブ方々県内各地の知人友人を訪ねたり存分に遊んだ。また70代の時は、国のIT活用推進中とあって、新潟西郵便局で高齢者を対象としたパソコン講習を受講、「教えることは学ぶこと」とあって、後輩の高齢者に対するサポートもしていた。今も元気な90代の人に聞いてみると、70代の時は好き勝手に生きてきたよと言う答えが殆どそうだ。今の爺に、何歳に戻りたいかと問われたら、迷わず70代に戻りたいと答える。70代に戻りたい

  • この頃の雑感

    卒寿に向かって、楽しい事は少なくなったが80代最後の年を夫婦そろって大過なく自立の生活が続いている。朝日を浴びながらの朝食は格別に爽やかで幸せ気分にしてくれる。生来の身軽な体型と敏速な動きをする爺も、今や耳には補聴器を、読書にはルーペの助けを借りながら老いを受け入れている。働き方改革だと言い訳して手抜きする家事も多くなった。爺の住む自治会6組25世帯には、70歳以上の高齢者が22人おられる。コロナ禍もあって、皆さんの動きも、立ち話する情景も、外部からの往来も少なくひっそりしている。この頃昔の農村風景が懐かしい。新潟県旧越路町に国の文化財「長谷川邸」に隣接する塀のないお屋敷からの眺めは昔の農村が残っている。屋敷内の桜とコブシが咲く季節になると思い出す。この頃の雑感

  • 80歳からの人生

    高齢者専門の精神科医である和田秀樹さんの著書「80歳の壁」は納得することが多い。80歳を超えた高齢者に対しては明るくて希望の持てる呼び方にすべきだと、幸齢者と呼んでいる。80歳からの人生は70代とは違って、昨日までできたことが今日は出来なくなったり、体の不調も多くなる。また命にかかわる病気の発症、認知症、身近の人の死など、大きな壁が押し寄せると言う。爺も70代では、年に2・3回風邪を引く程度で健康を自負していたのに、84歳の7月に痛風、85歳の8月には心筋梗塞で命拾いするという大きな壁に出会ったのも納得である。老いを嘆いて、あれが出来なくなった、これしか残ったていなとか,「ないない」を数えて生きるよりも、老いを受け入れ、まだこれが出来る、あれも残っていると「あるある」を大切に生きることが幸せなんだと。80歳からの人生

  • あるじ待つワンちゃん

    新潟日報夕刊記事に、ウクライナのキーウ州マカリウで殺害された飼い主を一か月以上玄関であるじの帰りを待つ秋田犬の写真を見た。地元メディアから忠犬ハチ公と呼ばれているという。犬の名前はリニちゃん、ボランティアが保護しようとしたが嫌がられ、犬の飼育経験の豊かなナディアさんが、リニちゃんを探し当て涙を流したら、ナディアさんのん顔をなめ、数日間通ったらようやく抱かれたとか。今頃はナディアさんが飼っている秋田犬のチップちゃんと仲良く遊んでいる姿を想像しながら久しぶりのほのぼの気分になり、3年前に他界した我が家の愛犬ゆうちゃんを思い出した。ゆうちゃんは寂しがり屋だった。外出して帰ってくると、部屋中を猛スピードで走り回って嬉しさを表していた。今もゆうちゃんが眠る供養塔とゆうちゃんの写真に向かって声を掛け続けている。あるじ待つワンちゃん

  • ラーメン

    総務省が全国の県庁所在地と政令指定都市を対象に行った去年1年間の家計調査によると、ラーメンにかけた外食費用は新潟市が9年連続日本一を目指した山形市を抑えて日本一になった。日本で初めてラーメンを食べた人は徳川光圀だそうだが、爺が初めて食べたのは昭和26年村役場の臨時職員をしていた時である。残業時の夕食は出前のラーメンだつたが美味かった。昭和28年、県職員となって柏崎勤務の時、宿直時の夜食に食べたラーメン専門店のS軒とM軒の出前ラーメンの味が忘れられない。今日まで同じ味のラーメンと出会うことは無い。70代の頃だったと思うが、ドライブ方々S軒とM軒を訪れ食べたことがあった。口が贅沢になったのか、味が現代化したのか、昔食べた味とは微妙に違っており、少々がっかり。ラーメン

  • 小学校1年生の記憶

    今の教科書はB5からA4サイズに変わり、教材も増えで昔のランドセルよりも大きくなったこともあって、体の幅より大きなランドセルを背負っている新一年生の姿は可愛らしい。爺が小学校に入学したのは昭和14年である。ランドセルにどんな教科書が入っていたかは覚えがないが、国語の教科書の最初のページは、「さいた・さいた・さくらがさいた」だった。小さな田舎の小学校だが一学年が、松・竹・梅の3学級あり各組50人以上の生徒がいた。殆どは農家の子供たちだったので、肩掛けカバンの生徒が多く、ランドセルの生徒は僅かだった。3月生まれの爺は、クラスで一番小さかったのか、教室では一番前の席だったのを覚えており、担任は姫路先生と言って髭のある年寄りの先生だった。弁当持参だったが中身は全く記憶が無い。小学校1年生の記憶

  • 辞令交付

    辞令に法的拘束力はないが、口頭で伝えられるよりは、書面化した辞令は職員の勤労意欲を高めるために効果があると言われており、今も官民ともに続いている。爺も昭和28年3月1日付の新規採用辞令、平成3年3月31日付の退職辞令、在任中の昇任辞令及び転勤辞令の一部が今も大封筒に入ったまま保存されている。新規採用辞令と昇任辞令は嬉しく、めでたいことであるが、転勤辞令は、栄転の場合と意に沿わない場合がある。爺も僻地勤務への転勤辞令に暗い思いをした。今の新潟県庁では採用辞令と退職辞令は書面で行っているが、転勤辞令や昇任辞令は所属長からの口頭のみだと聞いている。新職務に励む意欲が薄らぐのでは。辞令交付

  • 老夫婦のこの頃

    4月1日、結婚64年目の初日を迎えた。共に昭和8年生まれの老夫婦、年寄り特有の薬を飲み、補聴器をつけて、迫力のない口争いをしながらも、介護認定を受けることなく何時も一緒にいる。生活リズムが全く変わってしまった。概ね朝は3時起床、5時30分朝食、11時昼食、午後4時夕食、5時入浴、6時には就寝の生活が定着、世間様と歩調を合わせられなくなった。人生の最後に残る欲は食欲と言われている。家内任せで昔ながらの地味な和食だが、この頃は3度の食事が待ち遠しくて、美味しくて、旺盛なのが、元気のもとになっている。外出は通院と食品や日用品の買い物だけ、お奉行所からお達しの不要不急の外出自粛に何の支障もないが、「爺の世間ばなし」新しい話題が少なくなって物足りない感はある。老夫婦のこの頃

  • マスク生活

    長引くコロナ禍で、マスクは外出時の必需品となってしまった。一歩外に出たら、素顔の人を見ることができなくなり、時には挨拶が遅れて失礼したり、人違いして謝ったり。爺も、外出は通院と食糧品などの買い物だけだが、歯科の治療中以外はマスクを付けたままである。時々我が家を訪れて素顔で語り合う70代のお茶飲み仲間3人から元気を貰っている。ネットで「顔パンツ」と言う言葉を知った。マスクを習慣的に着用するようになったことで、マスクを外したくない若者が増え、マスクを外して顔を人前にさらすのは、人前でパンツを脱ぐのと同じになったと。マスクを習慣的に着用するようになったことで、3人に1人が体の不調を感じているという調査結果もある。人の密集していない場所では、こまめにマスクを外して鼻呼吸をと。マスク生活

  • 笑い

    作家の五木寛之さん、講演中に聴衆の笑いを取るために話を脱線させるという。仕事柄、笑いに慣れていないのか、お坊さんと学校の先生とお医者さんのグルーブは笑ってくれないが、一度笑わせたいと。ある学者が人の顔には笑顔を作るための表情筋が36本あって、放っておくと口元がへの字になり機嫌の悪い顔になると言う。唇の端を意識して上げることで、ニッコリ顔になるよと。年をとるにつれて自然に表情が乏しくなるが、世間には若い時から表情筋が健全に機能していないのか笑いの表情が少ない人がいる。面白くないのかと尋ねると、そうでもない。この頃の世の中、終息の見通しのないコロナ禍、ロシアによるウクライナへの侵攻、中国による海洋進出、北朝鮮によるミサイル発射、心の底から笑っていられないご時世である。笑い

  • クラスメート

    爺が良く遊び、良く学ばなかった県北の田舎の小学校は、クラスの殆どが農家と地元の自営業の子供で占められ、爺と同じ鉄道員の子供は二人だけで、官舎もんと呼ばれよそ者扱いされていた。戦時下だったこともあって、小学校での楽しい思い出話は浮かんでこない。学校長の方針なのであろう、クラスメートの写真も、卒業アルバムもない学校だったので、全員の顔や名前は思い出せない。旧制中学を受験するのは、鉄道員の子と地元自営業の家庭の子だけで、農家の子供は一人もいない。中学へ進学後の爺はクラスメートとの交友関係がないまま、生死も消息も不明である。この頃になって、今も記憶にある数人のクラスメートと偶然の出会いが無いだろうか、語り合ったら、積もる話で尽きないだろう、どんなに楽しいだろうかと想像することがある。クラスメート

  • 80代最後の年に

    一昨日の3月8日、元気で89歳の誕生日を迎え、いよいよ80代最後の年になった。小学生時代はクラスで小さくて痩せの爺が、健康優良児だった同級生よりも長生きしてしまった。人生の終盤に入ったのは確かである。若い頃は、せいぜい80の声を聞くまでは元気でいたいものだと思ったこともあったが、もう死んでもいいとは思わないし、ひたすら幸運に感謝している。元気で長生きしている作家、曽野綾子氏が言うに、90歳になったら死後の世界が、「あらお久しぶり、今お着きになりましたか」と言う感じで、無人の川岸ではなく、賑やかな風景に変わったと。爺も終着駅まで幾つ停車駅があるのか分からないが、誰が迎えに来てくれるだろうか、彼の地には会いたい人が沢山いるので、誰から会おうかと、楽しく考えるようになった。80代最後の年に

  • JR羽越線の坂町駅

    昭和13年~28年まで過ごしたJR羽越線坂町駅界わいは、鉄道の町、鉄道の要所として栄えた地、山形県米沢と坂町を結ぶ米坂線乗り換え駅とあって、朝夕のラッシュ時は人の波だった。爺も中学と高校時代の6年間を通学で利用した懐かしい駅である。列車が到着する度に、「小国、米沢、赤湯方面乗り換え」と繰り返す駅の案内放送を聞きながら見知らぬ地に憧れていた。50年後になって米坂線に沿った国道113号線をドライブして、小国の道の駅「白い森おぐに」、家内の趣味である米沢の刺し子工房創匠庵、南陽市の赤湯温泉が、憧れていた最初の訪問先となった。鉄道官舎で育った爺、休日には一日中、駅の案内放送を聴きながら、時には寝言にまで口走った小国、米沢、赤湯の地は青春時代から爺の脳裏に保存されたまま、今も削除されていない。JR羽越線の坂町駅

  • 幼い頃の写真

    昨年3月10日誕生したひ孫のS子ちゃん、間もなく1歳の誕生日を迎える。ラインで送られてくる胎児の時から順調に成長している可愛らしい写真や動画を見ながら喜んだり楽しんだり。みんな、こんな可愛い時があったんだ。爺も写真が無いので想像もできないが、従妹達から「小さい時は可愛らしかったよ」と、従妹同士が競って爺をおんぶした話は聞いている。爺が子供の頃の写真は、小学校2年生の時に3歳年下の妹と玄関前での写真、4年生の時に近所の子供たち10人ほどでの写真、中学1年生の時に同級生と3人での写真だけである。爺が幼い頃のことは、両親が話してくれたこともなく、両親に聞いたことも無かった。何故か、しわ、しみ、白髪の年頃になった今になって、可愛らしかった頃の写真があったらと思うこの頃。幼い頃の写真

  • 我が家の2月

    コロナまん延防止措置の延長で公民館の閉館により、月2回の物書き仲間の集いも中止になって少々気抜けした感じ。今月の行事は、平常通りの歯医者と内科の検診だけとなった。今年は例年より早めの春一番が吹いて、もうすぐ3月、大雪の心配が無いと安堵していたのに、17日の朝10センチほど積もった車の屋根と周りの除雪作業、豪雪地から雪見舞いまで。2月の第2日曜日はバレンタインデー、今年も間もなく89歳になる爺に、31年前に仲人したY君の奥様からチョコレートが届く。嬉しいやら、照れくさいやら、仲間から羨ましがられるやら。2008年製品の我が家のテレビ、昨秋から時々再起動しないと映らなくなり寿命かと思っていたが、2月15日画面は映らず音声だけになりダウン、翌16日には鮮明なテレビが届く。我が家の2月

  • 雪との縁

    今はテレビでしか見ることのない豪雪地の雪下ろし作業を見ると、昭和33年から27年間「この下に高田あり」という逸話もある新潟県西部に位置する上越市(旧高田市)を思い出してしまう。スキー発祥の地でとして名高い金谷山で息子たちとのスキー、かまくら、雪だるまづくりなど、雪と親しんだが、一方で毎年2回から4回の屋根の雪下ろしで、雪との苦戦も体験した。毎年くり返す雪との戦いも、加齢とともに老夫婦で一軒家の雪対策は厳しくなり、寄る年波には勝てず、安全と安心を求めて雪の少ない新潟市へ転居してから間もなく33年になる。危険な屋根の雪下ろし作業から解放され、板戸で囲った一階の窓の外は雪で覆われた生活を思えば、窓からは家々が見渡せるし、行き交う人の姿が見えるのが何よりの安心感を与えてくれる。雪との縁

  • ほのぼの

    蔓延防止措置が延長された中でのスーパーの店内放送は、マスクの着用、客同士や従業員との会話の禁止、買い物時間の短縮を呼び続ける雰囲気の店内で、ほのぼのした情景もある。ショッピングカートに乗っている女の子、カートと並んで歩いている女の子、カートを押しているおめでたのお母さん、余計な御世話だが、次は三女か長男か、少子化担当大臣の出番はない、何が気に入らないのか泣き止まない2歳くらいの女の子がいた。周りを気にしていた若いお母さんに、めったに聞けないから泣かしておきなさいと爺が声をかけたら、近くにいた老夫婦も大笑い。一人で買い物している70代と思われるお爺ちゃん、顎紐のついた帽子を深くかぶり、ナップサックを背負っていた。買い物を終えた後姿を見たら、ナップサックからネギの頭が顔を出していた。ほのぼの

  • ホッとしている

    蔓延防止措置により公民館が閉館したので、平均年齢80歳の物書き仲間(9人)の集いも中止状態であるが、誰からとなく電話やラインやメールで元気を確かめ合ってホッとしている。爺は2月1日、家内は翌2日、かかりつけ医で3回目のワクチン接種を済ませた。周りでは寝込んだとか、沈痛剤を飲んだとか、聞いている中で、二人とも何の副反応もなくホッとしている。我が家の定例行事の黒豆入りの豆餅をついた。お味は純米の味であり、幼い頃から食べなれた新潟の餅を楽しみにしている3人の孫たちに今年も送ることが出来てホッとしている。昨年は新潟市内では珍しい50センチほど積もった雪と除雪車が配給した雪塊の処理に近くに住む後輩の親子に処理してもらったが、今年は今のところ少々降っては消える小雪てホッとしている。ホッとしている

  • 大相撲

    少年時代に大相撲の好きだった親父に連れられ、何回か地方巡業を見に行った。当時の横綱双葉山、羽黒山、照国などの上位力士は田舎の地方巡業では見られなかった。大鵬、柏戸時代に、日頃から本場所を見たいと言い続けていた親父を国技館へ連れて行った時の満足顔を思い出す。爺が長男から朝青龍時代に国技館に案内されるとは、大相撲との縁は3代にわたる。新潟出身の時津風部屋に所属する大関候補の呼び声も高かった豊山は、今のところ、前頭で勝ち越したり負け越したり、三役へ足踏み状態である。期待通りの躍進を願うのみ。関脇が活躍する場所は盛り上がると言われるとおり初場所で優勝し大関に昇進した関脇御嶽海は見事だった。また、昨年の九州場所で十両昇進して10勝し初場所で9勝した佐渡市出身の朝乃若が楽しみだ。大相撲

  • 学生服

    福岡県の中学2年の男子生徒が、友達が制服を着る自由は尊重したいが、みんな同じ制服を押し付けられたくないと、学校と市教委に私服登校を申し入れたという新聞記事を見て昔々を思い出した。昭和14年に小学校入学から、同26年に高校卒業までは戦中戦後の混乱期だった。衣類は兄弟姉妹、親族の間でお下がり(おさがり)が当たり前、修繕しながら最後まで大切に着ていた。70年前になる高校卒業アルバムを見たら、学生服を着ている生徒は、お下がりを着ている一部の生徒だけ、みんなバラバラ、爺は叔父さんのお下がりや親父の鉄道員服を加工して着ていた。「欲しがりません勝つまでは」時代、服装に不満を言ったことはないが、詰襟の学生服のかっこ良さに憧れたものだが着ることは無かった。卒業式には親父の和服を加工したジャンパーだった。学生服

  • 買い物

    老夫婦の買い物先は、三日に一回ほどの食品スーパーだけである。コロナ禍で客同士や店員との会話は控えるよう店内放送もあって、物置から物を取り出してくるようで楽しさは無い。スーパーのレジでの精算方法も。従来からの現金支払いの他、スマホやカードを利用される方、客が自分で商品のバーコードを読み取る「セルフレジ」や、精算を客が行う「セミセルフレジ」など、多様化した。お目にかかったことは無いが、高齢者がゆっくりと会計できる「スローレジ」のある店舗もあるとか。お金の出し入れに時間がかかる人も焦らずに買い物ができるし、従業員が丁寧に対応するので好評だという。子供の頃に利用した小さな「なんか屋」を思い出しながら、時々100円ショップで無駄遣いをして買い物を楽しんでいる。たまにお買い得品もあったり、僅かなお金で気分転換ができる。買い物

  • 健康のもと

    昭和8年生まれは、すでに永眠された方、病院や介護施設や自宅で療養中の方を思うと、生活動作に大きな不自由もなく、夫婦揃って通院も買い物もできる幸せに感謝をしている。初めて出会う人から、年に見えないとか、何を飲んでいるかとか、何か運動をやってるかとか問われることがある。何もしていないが、家内一任の和食中心のバランス食であろう。国や自治体から、主食(ごはん、パン、麺類)、副菜(野菜、きのこ、いも、海藻料理)主菜(肉、魚、卵、大豆料理)牛乳・乳製品、果物をバランスよく食べるよう示されている。我が家は、息子達が小学生の頃だから50年以上前になる。新潟県が作成した「六つの基礎食品を組み合わせて健康づくりを」という古いポスターに沿った食事が今も続いている。健康のもと

  • 3人の女子大生

    愛犬ゆうちゃんが旅立って3年半になる。散歩中のある日のこと、歩道で大学生の男女が向かい合って言葉を交わしていた間へ飛び込み、ウンチをしてしまった。女子大生が「まあー可愛い」と。我が家の台所から見える学生アパートの入口付近に時々猫ちゃんがいた。餌を与えていた女子大生に声掛けしたら、「私が通る時は何時も待っているんです」と。10年以上の前のこと、年に一度のOB会に出席するため、駅まで歩いていたら革靴のかかとが取れそうになり、片足をかばいながら歩いた。電車に乗るとき、女子大生が席に座るまで寄り添ってくれた。あの時の優しい女子大生達を思い出した。きっと優しい奥さんになり、お母さんになっているだろう。コンビニなどで働く女子大生に出会うと一言励ましの言葉を掛けるようになった。3人の女子大生

  • 年賀状の添え書き

    去年卒寿を迎え年賀じまいしたM先輩を最後に、今年は60代から80代の後輩だけになってしまった。年賀状の添え書きを読み返しながら、当時の顔を思い浮かべ懐かしんでいる。一人だけになった同級生のN君の添え書きには「元気ですか、我々も卒寿を迎える年になりましたね」と、文字に全く乱れが無いので元気だなと直ぐ分かった。3月生まれの爺は来年になる。「今年は80歳になります」というT君とI君、二人が独身時代だった時の職場の後輩である。二人とも失恋体験者であり、何の因果か、泣きながらのボヤキの聞き役になって介護した男達である。50年前、上越市(高田)で独身寮に居たS君から、「高田時代にお世話になったことをよく思い出すようになった」と、我が家によく遊びに来たS君だったが、県庁退職後まさかの大学教授に、75歳の今も活躍中とか。年賀状の添え書き

  • 官公庁の事務室

    1月4日は官公庁の仕事始め、事務室で茶碗酒を飲みながらの歓談、ほろ酔い気分で三々九度退庁した慣習はなくなり、今は所属長の念頭挨拶があるだけで、平常勤務だと後輩から聞いている。たまに見る市役所や公民館の事務室では、みんな個々に無言でパソコンと向き合っている。お茶を飲んだり、煙草を吸ったり、同僚と会話をしながらひと休みしている姿は見られない。察するところ、次から次へとパソコンからの指示に従いながら余裕も与えられず駆け足で事務処理しているように見える。マイペースで事務処理していた昔の情景はない。昨今は公務員に対する監視の目は厳しい。外部からの指摘や苦情も少なく、のんびりした昔の執務環境を思い出しながら、良き時代に勤めさせてもらったと、つくづく思ったりする。官公庁の事務室

  • 元 旦

    何時も「爺の世間ばなし」を訪れてくださる皆さん明けましておめでとうございます。2007年5月に初投稿してから15年になりました。本年も是非お立ち寄りいただければ幸いです。一年の計は元旦にありと言うが、数え年90歳の初日を迎えた老夫婦に大きな計画や目標は無い。願いは一つ「転倒→骨折→寝たきり」にならないよ気を付けて過ごしましょう。子供の頃、両親や祖父母から元日はお金を使うと貧乏になるとか、掃除をすると訪れた福を追い出してしまうとか、洗濯すると福を洗い流してしてしまうとか、言われ子供心に信じていた。元日は、毎年近所の子供たちが、我が家だつたり友達の家だったり、7人~8人程だつたろうか、狭い鉄道官舎の一室で炬燵を囲んでトランプや花がるたや百人一首を楽しんでいた。元旦

  • 今年も僅か

    勿体ないとか、老い先短い年寄りが使い道もないのにとか言われながら、今年も大安吉日に年末ジャンボを買って神棚に保管、大みそかの抽選日まで、一人密かに楽しんでいる。大晦日の抽選発表後には、孫の言う通り勿体ないと思う。また行動範囲も限られている、一つの体に衣類も沢山要らない、老夫婦の食べる量も限られている等々、周りの声はごもっとだと思う。年賀状も、餅つきも、手抜きしながらの部屋のすす払いも終わり、神棚の掃除を済ませて、鎮守様で新しいお札を買って納めたし、一昨日は、孫たちに餅など送って、今年の仕事納め。スーパー店内のメロデーも「ジングルベル」から、「もういくつ寝るとお正月に」変わる。今年もコロナウィルスと共生しながらの一年だつた。一年最後の挨拶「良いお年を」になるよう願いたい。今年も僅か

  • お医者様との縁

    幼い頃から米寿の今日まで、内科、外科、耳鼻科、眼科、歯科の数えきれないほど大勢のお医者様のお陰で生き続けている。お医者様だけには、何を言われても逆らうことなく忠実に従ってきた。現在は3年前の心筋梗塞の術後、最寄りのかかりつけ医で月に一回の診察を受けている。一日一回、朝食後に血液サラサラほか数種類の薬を飲み忘れることもなく、真面目に服用している。爺が小学生時代を過ごした昭和10年代の小さな村には、産婦人科の医院が一軒あっただけだった。手術を要する外科と歯科以外の患者さんを診察していたので、何時も大勢の患者で混んでいた。小学生のとき中耳炎になった。専門医の治療を受けなかったので慢性中耳炎になってしまったと、後に耳鼻科のお医者様から聞いた。米寿を迎えた今も時々受診、長いご縁が続いている。お医者様との縁

  • 年の瀬

    年の瀬は大掃除を始め、お歳暮の手配、年賀状の作成など用事があって何かと忙しい。米寿を迎えた今も、大掃除は手抜きしているが健康である限り変わることなく続いている。今年も、老夫婦の元気な証としてのお歳暮を贈ることが出来た。お互いお歳暮が届くたびに、お礼の電話で話が弾み、長電話になることもあるが、元気を確かめ合う機会でもある。これから神棚の掃除をしたり、新しいお札を納めたり、宝くじを買ったり、餅をついたり、年賀状を書いたり、師走だけの用事が控えていると心ぜわしいのも、元気の証拠である。今日15日は今年最後の物書き仲間の定例会とあって終了後はランチ、平均年齢80歳の口達者な老々男女によるお喋り日である。食欲も旺盛で頼もしい仲間と元気を交換し合う。年の瀬

  • 小学生時代の道路

    爺が県北の田舎の小学校に入学したのは昭和14年である。当時の道路は、穴ぼこだらけの砂利道で、時々荷物を運ぶ馬車か牛車が往来する程度で、登下校時に自動車に会うことは無かった。たまに町で停車中の貨物自動車を見つけると、一目散に近寄り、発車するまで待って、後に残る排気ガスの匂いを嗅いでた覚えがある。まして交通安全と言う言葉とは無縁の時代だった。路上には馬糞や牛フンが所々に散在しており、乾燥するか風雨で自然になくなるまで取り除くことはない。交通事故の危険はないが、うっかり穴ぼこに足を取られたり、糞を踏むことはあった。今では遠い昔のことだが、道路全体が歩道であり、遊び場として利用しながらの通学である。荷馬車に出会えば、荷台に乗せてもらったり、無断で乗っても叱られることも無い、ゆったりした時代だった。小学生時代の道路

  • 雪 道

    道路除雪体制の無かった頃は、雪の深みにはまり、友達の肩を借りて片足づつ靴の中に入った雪を靴底を持って、たたき出していた。ふっくらした足の人は隙間が無いので羨ましかった。昭和34年~42年、職員アパート生活の時だった。大雪の朝は、3人づつ交替で幹線道路まで約50メートの間を「かんじき」で雪を踏みしめて、すれ違い出来る道幅を確保したもの。大雪の朝の早い時間帯は一列縦隊で歩くしかない。すれ違い時には「どうぞ」と道を譲り合う、譲られた大人は「すみません」、子供たちは「ありがとう」と言う、豪雪地でのマナーがあった。大勢の人が歩いた後の雪道は滑りやすいので、歩幅を小さくして、ペンギンのような歩き方になって、あちこちで滑って転んでいた。起き上がるのに誰となく手を貸している情景が懐かしく思いだされる。雪道

  • 人生の終盤

    今年の3月に米寿を迎えた爺、終着駅に向かって出発したと言ってもいい年齢である。現役時代の職場仲間の中には早めに特急で行かれた方もいるが、爺は妻と各駅停車で楽しみながら行く。この頃の爺は、相変わらずブログを書いたり、物書き仲間の集いで発表するエッセイらしきものを書いて楽しんでいる。時々ナンプレに挑戦しながら脳トレを、妻は爺の傍で編み物三昧の日々。加齢とコロナ禍で外出は、めっきり少なくなって、今は通院と食料品などの買い物と物書き仲間の集いだけである。幸い、縁あって70代のS夫妻が時々老夫婦を何かと元気づけに来てくれる。8月に米寿を迎えた老妻と朝茶を飲みながら「今日もかったるいところもなく起きられたね」と朝の挨拶から一日が始まる。今日一日を大切に、無事に終われば望むものは何も無い。人生の終盤

  • 昔の通勤仲間

    昭和49年だった、個々にマイカー通勤していたAさん、Iさんと小生の3人が交代で運転する通勤体制を組んだ。燃料節約、疲労軽減、事故防止、体調不良時の交代など、メリットは大きかった。当時Aさん50代、Iさん30代、小生40代と年齢差のある3人だったが、通勤途中の車内では、持ち寄りの話題で尽きることもなく、周囲が羨むほどに気の合うコンビであった。ある日、A氏の運転日に、けたたましくサイレンを鳴らした白バイのお兄ちゃんから停車を命じられた。「おはようございます、お急ぎでしたね」と優しい声を掛けられ、青色の反則切符をいただいた。両人とも、還暦を待たずに天国へ旅立ってしまったことを、後に風の便りで耳にした時は寂しかった。陽気な性格でお喋り好きのIさん、彼の地の待合室で小生の来る日を待ち焦がれているかも。昔の通勤仲間

  • 初の職員旅行

    社会人になって初の旅行は、昭和28年5月3日~4日、スキー場で有名な妙高市の赤倉温泉だった。信越線妙高高原駅から約30分程のバスの車窓から見た白樺林の美しさが今も強く印象に残っている。当時は、土曜日の午後から日曜日にかけ、汽車やバスを利用して温泉旅館での懇親会、翌日は観光しなから帰宅の途に就く程度の旅行である。行動範囲も県内か隣接の県境近くの温泉に限られていた。色々な親睦行事の中でも年に一度の職員旅行が最も楽しみな行事だった。旅行当日の服装は、男性は普段着だが、女性は、この日のために新調した洋服か、よそ行き用の洋服を着てきた。翌日の朝食後、唯一カメラを持っいたN氏に誘われ、小生の他にF子さん(25歳)とS子さん(20歳)の4人で高原を散策、女性と寄り添ったり、肩を組んでの写真撮影に20歳の爺、少々震えていた。初の職員旅行

  • 子育て時代

    子育て支援制度もなく、男女共同参画社会でもなかった時代に、二人の息子を社会に送り出すまで共働きしてきた。当時は共働き家庭に対する周囲の視線は暖かいものだけではなかった。共働きで安心して子育てできたのは、知人から紹介された誠実なお人柄の西沢様ご夫妻と出会った幸運である。息子たちが小学校卒業まで通算15年を4人の我が子と一緒に育ててくれた。共働きしながらの子育ては忙しかったが、辛いとか、疲れを感じたことはなく、仕事以外は全て子供と一緒に過ごすことを心掛け、家族の一体感があった一番楽しい時代だったと思う。細やかな夫婦喧嘩を繰り返しながら結婚63年になる。半世紀にわたる宮仕えを卒業、我が子を社会に、両親を彼の地へ送り届け、三つの大きな役割を果たした今は、遠くから孫たちの成長を見守っている。子育て時代

  • 年賀状の添え書き

    今年も年賀状の発売が始まった。昨今は、多くの人がメールやSNSで新年の挨拶を済ませている。孫からの年賀も「あけおめ」の文字を添えたスタンプが一個、嬉しいが物足りない感が残る。お正月に届く年賀状には、何故か暑中見舞いなどとは違った特別な思いがある。過去にご縁のあった知人や仲間の手書きの添え書きを読むのが一番の楽しみであり、改めて心が通じ合う。高齢化で足腰膝の痛みを訴える添え書きが多いのは分かるが、ある70代の後輩から「年末はゆっくり過ごしたいので年賀状の交換を辞退させていただきたい」とは、納得しがたい。手書きの添え書きが無い印刷された年賀状は生存証明書になってしまう。余裕だらけの爺、下手な人よりも下手な字でも一人一人を思い浮かべながら、読んで貰える一言をを考えよう。年賀状の添え書き

  • 床屋さん

    普通の床屋さんから安い床屋さんを利用するようになって2年になる。加齢とともに髪の毛も少なくなり、長時間椅子に座り続けるのも厳しくなって、20分ほどで終わるのが誠によろしい。床屋の入り口には、青赤白のサインポールがまわっている。由来は諸説あるが、昔の床屋さんは外科医を兼ねていたことから、赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表しているとも言われている。床屋さんの商売道具と言えば、ハサミ、クシ、バリカン、カミソリ、髭剃り用石鹸と洗髪用シャンプーと蒸しタオルを巧みに使う技術屋の商人であり、子供の頃から変わっていない。変わったところと言えば、電気バリカンになったこと、洗髪時に移動しなくてもよくなったこと、椅子の上げ下げが電動になったこと、若者の利用者が少なくなったことかな。床屋さん

  • 老夫婦の日々

    米寿同士の老夫婦の定例行事は通院と買い物だけ、病院でもスーパーでも爺と同年代と推察される方の姿は見ることが無い。薬と共存しながらも夫婦ともども健康に感謝している。この頃、スーパーで年老いた男性が一人で買い物している姿が目につく。奥様が先立たれたか、病院か施設で静養されているのであろう。もしも我が身になったらと、一瞬寂しくなる。電車とバスとご無沙汰してから5年になる。ドライブを楽しみながら県内の仲間達を訪れることもなくなった今は、品定めをしながらの買い物は老夫婦の細やかな楽しいひと時である。息子から運転免許証の返納を促されているが、心身健康で自立した生活をしている今は考えられない。遠距離、高速道路、夜間、悪天候時の運転は自粛、市内での食事や買い物を楽しんでいる。老夫婦の日々

  • コロナとマスク

    このところ、コロナ感染者が急激に下火になったとは言え、目に見えない不気味なウィルスと全国民がマスクをしながら戦っている。まるで国民一丸となって戦った大東亜戦争時代のようだ。マスクは人様に迷惑をかけていないとは言え、悪い伝染病でも発生したようで、不健康な姿を見ていると、気が滅入ってしまう。今やマスクは外出免許証、マスクなしでの外出は出来ない。我が家に足しげく訪れてくれる70代のS夫妻から元気を貰っている。気軽な茶飲み話やら、時には食事処での食事やら、マスクなしで語り合える唯一の仲間に救われている。百年前に流行したスペイン風邪は終息まで三年かかったとある。次から次と新しい武器で襲ってくるウイルスに勝って、マスク生活から解放される日はいつになるのか確かな見通しは無い。コロナとマスク

  • この頃の心得

    この頃は、鈍い動作の年寄りに出会っても、「どうぞ、ごゆっくり、」なんて、余裕の言葉をかけるようになった。若いころなら「むかつく」ところなのに、少し丸くなったようだ。人に不快な思いにさせてしまったり、迷惑行為をしてしまう老人を老害と言う耳障りの悪い言葉がある。聞きたくもないが、言われたくもないので、遠くから静かに若者世代を見守っている。米寿の老夫婦にとって家事は厳しくなったが、3度の食事と排泄以外は手抜きしながらも男女共同参画でこなしてる。高所作業や除排雪や草取りは無理することなく若い世代から支援。仲間からの情報も、ボケた,転んだ、膝痛、白内障等々、順番にやって来る老化現象による話題が多くなった。老夫婦の第一の心得は、転倒→骨折→寝たきり生活にならないこと。この頃の心得

  • 雑 感

    10月10日、義弟(僧侶)の三回忌法要が執り行われた。親族、檀家総代等30人ほどの参列する中で3人の僧侶による読経、全員マスク着用の礼服姿のため本人確認がままならず。この頃は、ガソリンスタンドもセルフ店が増え、フルサービス店を探すのに苦労している声も聞こえてくる。遠出をしなくなった爺、今さら自分で給油する気も、覚える気もない。5年前の6月に孫の結婚式で東京まで上越新幹線を利用してから電車とご無沙汰している。今や指定席予約もスマホから簡単に予約できる、駅員も、乗車券も現金も要らなくなった。クレジットカード、キャッシュカード、ポイントカード、ETCカード、プリぺードカード、診察券(内科、歯科、眼科、耳鼻科)財布の中身はカードだらけ、利用の度に探すのに一苦労。雑感

  • 鉄道の客車

    国鉄時代の客車は3等級あって、1等・2等・3等に区分され、客車の側面に3等車は赤、2等車は青の帯が表示されていた。白い帯の1等車は田舎では見た覚えがない。爺は、父が国鉄職員だったので、切符を買うことは無かったが、1等は「白切符」2等は「青切符」、3等は「赤切符」、運賃は2等は3等の2倍、1等は3等の3倍だったそうである。小学生の頃、母から「2等車は偉い人や、お金持ちの人が乗るところ」だと聞いたことがある。昭和30年ごろ、国鉄の記念日に発行された2等パスで利用したが、車内が静か過ぎて、つまらなかった。今は普通車とグリーン車になった。グリーン車は新幹線で普通車の指定席が満席の時には利用してきたが、グリーン車より子供の頃から乗り慣れた普通車の雰囲気の方が好きだ。鉄道の客車

  • 思い出す先輩

    2007年5月2日に初めて投稿したブログは,「頼もしいお年寄り」と題して、市内の小さな民芸館を経営していた新潟県衛生部の先輩で91歳の高沢さんと84歳の奥様との出会いだった。お二人はお見合い結婚で、高沢さん曰く、見合いの席で食欲旺盛な彼女を見て丈夫そうだったので嫁にしたと、奥さん曰く、眼鏡の嫌いな人だと聞いていたので外して行ったので相手の顔は分からなかったと。高沢さんは元海軍の衛生兵だったという、奥さんは県警事務員で競馬場のアナウンス嬢もやっていたとか、娘さん夫婦のもとで過ごしていた。お二人共に年齢を感じさせない若さと元気にびっくりした。2015年2月6日、行年101歳で彼の地へ旅だった。ご会葬礼状に、家族一同から父の好きな言葉「夢一生」が紹介されていたが、正に老いても夢を抱き続け、前向きな人生を歩んできた方だ...思い出す先輩

  • 卒寿のYさん

    知人の糸魚川市に住む卒寿のYさん、六畝ほどの畑を利用して元気で枝豆づくりに励んでいる。製品は親族や知人、友人に配り、喜んでもらうのが楽しみであり、生きがいにしている。今も、御仏壇に向かって先立たれた奥様と生前と変わらないお喋りしている愛妻家でもある。この頃は「寂しかったら迎えに来いや」と声をけているが、まだ迎えに来ないとか。過日、Yさんからの手紙に、今年の枝豆は天候不順によるものと思うが、一本に120位咲いた花が、30位しか咲かないので、少ししか送れないのが悔しくてと記されていた。我が家のイチジクも、天候不順のためだろうか、実が大きくならないうちに葉が枯れてしまう現象が起きている。毎年楽しみにしている皆さんに少ししかお裾分けできないのが残念で。卒寿のYさん

  • 気楽な時代

    人生88年を振り返って、気楽だった時代はと問われたら、昭和28年に新潟県職員として最初の勤務地である柏崎市で5年間の下宿生活である。採用辞令が今も保存されている。黒インクでペン書きの辞令には、「柏崎保健所勤務を命じる・4級1号(5400円)を給する」とある。諸手当を含め諸控除後の手取りは5000円少々だったと記憶している。下宿料(3食づき)3000円を払って残りの2000円で映画(30円)や麻雀中の夜食のラーメン(30円)、勝ち目のないパチンコ、友達とのお遊び等、給料日前には13円の銭湯代もなかった。念願だったカメラ(12000円)とポータブル蓄音機(7000円)の月賦払いは厳しかったが存分に楽しんだ。財布の中身は常に寂しかったが、懐かしいばかりで、悔いることは何もない。気楽な時代

  • 老後への対応

    人生100年時代、何時からが老後なのか決まりはないが、改まって老後の備えなどは全くしてこなかった。米寿を迎えたこの頃になって、そろそろ考える気になったところ。米寿同士の老夫婦であるが、要介護、要支援に至らず、自力生活中ながら、目に見えない老化が進んでる。息子からの勧めもあり、とりあえず緊急時におけるホームセキュリティー契約。布団の上げ下ろしが、段々と厳しくなってきたので、かねてから検討していたベットに切り替えてしまった。フレームはスタンダードだが、寝心地のいい少々高級のマットレスで安眠。運転免許証返納後の生活様式への切り替えは難しい課題である。現在のところ、遠距離、夜間雨天、高速道路の運転は控えているが、周囲からは年齢だけを基準に返納を勧められる。老後への対応

  • スポーツ観戦

    大好きだった高校野球とプロ野球への関心が薄くなった。生活動作に大きな支障はないが、やっぱり88歳半ばともなると、気力が低下したのかなと、痛切に感じるこの頃である。高校野球県代表決定戦は、暑い中を市内の野球場へ、巨人戦は欠かさずテレビ観戦を、年に一度は一人で巨人戦を観戦するため東京ドームへ出かけて行った気力は何処へ行ってしまったのか。今は高校野球もプロ野球も、翌日の紙上で結果を見るだけ、それでも巨人か勝った記事は丁寧に読む巨人ファン。東京オリンピックもパラリンピックも実況放送は見ることは無かった。9月場所が始まった。唯一郷土出身幕内力士の豊山関と好きな力士数人の取り組みは、一喜一憂しながら観戦している。日本人横綱が誕生して優勝する場所の来る日が待ち遠しい。スポーツ観戦

  • マスク姿だらけ

    家庭用マスクは、花粉症とインフルエンザ対策として限定的に用いられていたのが、まさか、ウイルス感染予防のために全ての人が着用する時代になるとは思いもしなかった。収束する見通しのない新型コロナウイルスに怯えながらの日が続き、いい時代とは言えない。世はファッション化したマスク姿だらけ、地味なもの、派手なもの、可愛いものまで、色々。生活様式として定着したマスクであるが、煩わしくて、顔が見えないので相手の表情が読み取りにくい、又マスクの習慣的着用で心身に多くの症状を及ぼすリスクがあることも実証されている。社会的距離が確保される時は、マスクを外すように言われているが、徹底されていないのか、強い日差しの中をマスクを着用して散歩している人を見かける。マスクなしの生活に戻る日が待ち遠しい。マスク姿だらけ

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