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爺の世間ばなしさんの新着記事

1件〜100件

  • 買い物

    老夫婦の買い物先は、三日に一回ほどの食品スーパーだけである。コロナ禍で客同士や店員との会話は控えるよう店内放送もあって、物置から物を取り出してくるようで楽しさは無い。スーパーのレジでの精算方法も。従来からの現金支払いの他、スマホやカードを利用される方、客が自分で商品のバーコードを読み取る「セルフレジ」や、精算を客が行う「セミセルフレジ」など、多様化した。お目にかかったことは無いが、高齢者がゆっくりと会計できる「スローレジ」のある店舗もあるとか。お金の出し入れに時間がかかる人も焦らずに買い物ができるし、従業員が丁寧に対応するので好評だという。子供の頃に利用した小さな「なんか屋」を思い出しながら、時々100円ショップで無駄遣いをして買い物を楽しんでいる。たまにお買い得品もあったり、僅かなお金で気分転換ができる。買い物

  • 健康のもと

    昭和8年生まれは、すでに永眠された方、病院や介護施設や自宅で療養中の方を思うと、生活動作に大きな不自由もなく、夫婦揃って通院も買い物もできる幸せに感謝をしている。初めて出会う人から、年に見えないとか、何を飲んでいるかとか、何か運動をやってるかとか問われることがある。何もしていないが、家内一任の和食中心のバランス食であろう。国や自治体から、主食(ごはん、パン、麺類)、副菜(野菜、きのこ、いも、海藻料理)主菜(肉、魚、卵、大豆料理)牛乳・乳製品、果物をバランスよく食べるよう示されている。我が家は、息子達が小学生の頃だから50年以上前になる。新潟県が作成した「六つの基礎食品を組み合わせて健康づくりを」という古いポスターに沿った食事が今も続いている。健康のもと

  • 3人の女子大生

    愛犬ゆうちゃんが旅立って3年半になる。散歩中のある日のこと、歩道で大学生の男女が向かい合って言葉を交わしていた間へ飛び込み、ウンチをしてしまった。女子大生が「まあー可愛い」と。我が家の台所から見える学生アパートの入口付近に時々猫ちゃんがいた。餌を与えていた女子大生に声掛けしたら、「私が通る時は何時も待っているんです」と。10年以上の前のこと、年に一度のOB会に出席するため、駅まで歩いていたら革靴のかかとが取れそうになり、片足をかばいながら歩いた。電車に乗るとき、女子大生が席に座るまで寄り添ってくれた。あの時の優しい女子大生達を思い出した。きっと優しい奥さんになり、お母さんになっているだろう。コンビニなどで働く女子大生に出会うと一言励ましの言葉を掛けるようになった。3人の女子大生

  • 年賀状の添え書き

    去年卒寿を迎え年賀じまいしたM先輩を最後に、今年は60代から80代の後輩だけになってしまった。年賀状の添え書きを読み返しながら、当時の顔を思い浮かべ懐かしんでいる。一人だけになった同級生のN君の添え書きには「元気ですか、我々も卒寿を迎える年になりましたね」と、文字に全く乱れが無いので元気だなと直ぐ分かった。3月生まれの爺は来年になる。「今年は80歳になります」というT君とI君、二人が独身時代だった時の職場の後輩である。二人とも失恋体験者であり、何の因果か、泣きながらのボヤキの聞き役になって介護した男達である。50年前、上越市(高田)で独身寮に居たS君から、「高田時代にお世話になったことをよく思い出すようになった」と、我が家によく遊びに来たS君だったが、県庁退職後まさかの大学教授に、75歳の今も活躍中とか。年賀状の添え書き

  • 官公庁の事務室

    1月4日は官公庁の仕事始め、事務室で茶碗酒を飲みながらの歓談、ほろ酔い気分で三々九度退庁した慣習はなくなり、今は所属長の念頭挨拶があるだけで、平常勤務だと後輩から聞いている。たまに見る市役所や公民館の事務室では、みんな個々に無言でパソコンと向き合っている。お茶を飲んだり、煙草を吸ったり、同僚と会話をしながらひと休みしている姿は見られない。察するところ、次から次へとパソコンからの指示に従いながら余裕も与えられず駆け足で事務処理しているように見える。マイペースで事務処理していた昔の情景はない。昨今は公務員に対する監視の目は厳しい。外部からの指摘や苦情も少なく、のんびりした昔の執務環境を思い出しながら、良き時代に勤めさせてもらったと、つくづく思ったりする。官公庁の事務室

  • 元 旦

    何時も「爺の世間ばなし」を訪れてくださる皆さん明けましておめでとうございます。2007年5月に初投稿してから15年になりました。本年も是非お立ち寄りいただければ幸いです。一年の計は元旦にありと言うが、数え年90歳の初日を迎えた老夫婦に大きな計画や目標は無い。願いは一つ「転倒→骨折→寝たきり」にならないよ気を付けて過ごしましょう。子供の頃、両親や祖父母から元日はお金を使うと貧乏になるとか、掃除をすると訪れた福を追い出してしまうとか、洗濯すると福を洗い流してしてしまうとか、言われ子供心に信じていた。元日は、毎年近所の子供たちが、我が家だつたり友達の家だったり、7人~8人程だつたろうか、狭い鉄道官舎の一室で炬燵を囲んでトランプや花がるたや百人一首を楽しんでいた。元旦

  • 今年も僅か

    勿体ないとか、老い先短い年寄りが使い道もないのにとか言われながら、今年も大安吉日に年末ジャンボを買って神棚に保管、大みそかの抽選日まで、一人密かに楽しんでいる。大晦日の抽選発表後には、孫の言う通り勿体ないと思う。また行動範囲も限られている、一つの体に衣類も沢山要らない、老夫婦の食べる量も限られている等々、周りの声はごもっとだと思う。年賀状も、餅つきも、手抜きしながらの部屋のすす払いも終わり、神棚の掃除を済ませて、鎮守様で新しいお札を買って納めたし、一昨日は、孫たちに餅など送って、今年の仕事納め。スーパー店内のメロデーも「ジングルベル」から、「もういくつ寝るとお正月に」変わる。今年もコロナウィルスと共生しながらの一年だつた。一年最後の挨拶「良いお年を」になるよう願いたい。今年も僅か

  • お医者様との縁

    幼い頃から米寿の今日まで、内科、外科、耳鼻科、眼科、歯科の数えきれないほど大勢のお医者様のお陰で生き続けている。お医者様だけには、何を言われても逆らうことなく忠実に従ってきた。現在は3年前の心筋梗塞の術後、最寄りのかかりつけ医で月に一回の診察を受けている。一日一回、朝食後に血液サラサラほか数種類の薬を飲み忘れることもなく、真面目に服用している。爺が小学生時代を過ごした昭和10年代の小さな村には、産婦人科の医院が一軒あっただけだった。手術を要する外科と歯科以外の患者さんを診察していたので、何時も大勢の患者で混んでいた。小学生のとき中耳炎になった。専門医の治療を受けなかったので慢性中耳炎になってしまったと、後に耳鼻科のお医者様から聞いた。米寿を迎えた今も時々受診、長いご縁が続いている。お医者様との縁

  • 年の瀬

    年の瀬は大掃除を始め、お歳暮の手配、年賀状の作成など用事があって何かと忙しい。米寿を迎えた今も、大掃除は手抜きしているが健康である限り変わることなく続いている。今年も、老夫婦の元気な証としてのお歳暮を贈ることが出来た。お互いお歳暮が届くたびに、お礼の電話で話が弾み、長電話になることもあるが、元気を確かめ合う機会でもある。これから神棚の掃除をしたり、新しいお札を納めたり、宝くじを買ったり、餅をついたり、年賀状を書いたり、師走だけの用事が控えていると心ぜわしいのも、元気の証拠である。今日15日は今年最後の物書き仲間の定例会とあって終了後はランチ、平均年齢80歳の口達者な老々男女によるお喋り日である。食欲も旺盛で頼もしい仲間と元気を交換し合う。年の瀬

  • 小学生時代の道路

    爺が県北の田舎の小学校に入学したのは昭和14年である。当時の道路は、穴ぼこだらけの砂利道で、時々荷物を運ぶ馬車か牛車が往来する程度で、登下校時に自動車に会うことは無かった。たまに町で停車中の貨物自動車を見つけると、一目散に近寄り、発車するまで待って、後に残る排気ガスの匂いを嗅いでた覚えがある。まして交通安全と言う言葉とは無縁の時代だった。路上には馬糞や牛フンが所々に散在しており、乾燥するか風雨で自然になくなるまで取り除くことはない。交通事故の危険はないが、うっかり穴ぼこに足を取られたり、糞を踏むことはあった。今では遠い昔のことだが、道路全体が歩道であり、遊び場として利用しながらの通学である。荷馬車に出会えば、荷台に乗せてもらったり、無断で乗っても叱られることも無い、ゆったりした時代だった。小学生時代の道路

  • 雪  道

    道路除雪体制の無かった頃は、雪の深みにはまり、友達の肩を借りて片足づつ靴の中に入った雪を靴底を持って、たたき出していた。ふっくらした足の人は隙間が無いので羨ましかった。昭和34年~42年、職員アパート生活の時だった。大雪の朝は、3人づつ交替で幹線道路まで約50メートの間を「かんじき」で雪を踏みしめて、すれ違い出来る道幅を確保したもの。大雪の朝の早い時間帯は一列縦隊で歩くしかない。すれ違い時には「どうぞ」と道を譲り合う、譲られた大人は「すみません」、子供たちは「ありがとう」と言う、豪雪地でのマナーがあった。大勢の人が歩いた後の雪道は滑りやすいので、歩幅を小さくして、ペンギンのような歩き方になって、あちこちで滑って転んでいた。起き上がるのに誰となく手を貸している情景が懐かしく思いだされる。雪道

  • 人生の終盤

    今年の3月に米寿を迎えた爺、終着駅に向かって出発したと言ってもいい年齢である。現役時代の職場仲間の中には早めに特急で行かれた方もいるが、爺は妻と各駅停車で楽しみながら行く。この頃の爺は、相変わらずブログを書いたり、物書き仲間の集いで発表するエッセイらしきものを書いて楽しんでいる。時々ナンプレに挑戦しながら脳トレを、妻は爺の傍で編み物三昧の日々。加齢とコロナ禍で外出は、めっきり少なくなって、今は通院と食料品などの買い物と物書き仲間の集いだけである。幸い、縁あって70代のS夫妻が時々老夫婦を何かと元気づけに来てくれる。8月に米寿を迎えた老妻と朝茶を飲みながら「今日もかったるいところもなく起きられたね」と朝の挨拶から一日が始まる。今日一日を大切に、無事に終われば望むものは何も無い。人生の終盤

  • 昔の通勤仲間

    昭和49年だった、個々にマイカー通勤していたAさん、Iさんと小生の3人が交代で運転する通勤体制を組んだ。燃料節約、疲労軽減、事故防止、体調不良時の交代など、メリットは大きかった。当時Aさん50代、Iさん30代、小生40代と年齢差のある3人だったが、通勤途中の車内では、持ち寄りの話題で尽きることもなく、周囲が羨むほどに気の合うコンビであった。ある日、A氏の運転日に、けたたましくサイレンを鳴らした白バイのお兄ちゃんから停車を命じられた。「おはようございます、お急ぎでしたね」と優しい声を掛けられ、青色の反則切符をいただいた。両人とも、還暦を待たずに天国へ旅立ってしまったことを、後に風の便りで耳にした時は寂しかった。陽気な性格でお喋り好きのIさん、彼の地の待合室で小生の来る日を待ち焦がれているかも。昔の通勤仲間

  • 初の職員旅行

    社会人になって初の旅行は、昭和28年5月3日~4日、スキー場で有名な妙高市の赤倉温泉だった。信越線妙高高原駅から約30分程のバスの車窓から見た白樺林の美しさが今も強く印象に残っている。当時は、土曜日の午後から日曜日にかけ、汽車やバスを利用して温泉旅館での懇親会、翌日は観光しなから帰宅の途に就く程度の旅行である。行動範囲も県内か隣接の県境近くの温泉に限られていた。色々な親睦行事の中でも年に一度の職員旅行が最も楽しみな行事だった。旅行当日の服装は、男性は普段着だが、女性は、この日のために新調した洋服か、よそ行き用の洋服を着てきた。翌日の朝食後、唯一カメラを持っいたN氏に誘われ、小生の他にF子さん(25歳)とS子さん(20歳)の4人で高原を散策、女性と寄り添ったり、肩を組んでの写真撮影に20歳の爺、少々震えていた。初の職員旅行

  • 子育て時代

    子育て支援制度もなく、男女共同参画社会でもなかった時代に、二人の息子を社会に送り出すまで共働きしてきた。当時は共働き家庭に対する周囲の視線は暖かいものだけではなかった。共働きで安心して子育てできたのは、知人から紹介された誠実なお人柄の西沢様ご夫妻と出会った幸運である。息子たちが小学校卒業まで通算15年を4人の我が子と一緒に育ててくれた。共働きしながらの子育ては忙しかったが、辛いとか、疲れを感じたことはなく、仕事以外は全て子供と一緒に過ごすことを心掛け、家族の一体感があった一番楽しい時代だったと思う。細やかな夫婦喧嘩を繰り返しながら結婚63年になる。半世紀にわたる宮仕えを卒業、我が子を社会に、両親を彼の地へ送り届け、三つの大きな役割を果たした今は、遠くから孫たちの成長を見守っている。子育て時代

  • 年賀状の添え書き

    今年も年賀状の発売が始まった。昨今は、多くの人がメールやSNSで新年の挨拶を済ませている。孫からの年賀も「あけおめ」の文字を添えたスタンプが一個、嬉しいが物足りない感が残る。お正月に届く年賀状には、何故か暑中見舞いなどとは違った特別な思いがある。過去にご縁のあった知人や仲間の手書きの添え書きを読むのが一番の楽しみであり、改めて心が通じ合う。高齢化で足腰膝の痛みを訴える添え書きが多いのは分かるが、ある70代の後輩から「年末はゆっくり過ごしたいので年賀状の交換を辞退させていただきたい」とは、納得しがたい。手書きの添え書きが無い印刷された年賀状は生存証明書になってしまう。余裕だらけの爺、下手な人よりも下手な字でも一人一人を思い浮かべながら、読んで貰える一言をを考えよう。年賀状の添え書き

  • 床屋さん

    普通の床屋さんから安い床屋さんを利用するようになって2年になる。加齢とともに髪の毛も少なくなり、長時間椅子に座り続けるのも厳しくなって、20分ほどで終わるのが誠によろしい。床屋の入り口には、青赤白のサインポールがまわっている。由来は諸説あるが、昔の床屋さんは外科医を兼ねていたことから、赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表しているとも言われている。床屋さんの商売道具と言えば、ハサミ、クシ、バリカン、カミソリ、髭剃り用石鹸と洗髪用シャンプーと蒸しタオルを巧みに使う技術屋の商人であり、子供の頃から変わっていない。変わったところと言えば、電気バリカンになったこと、洗髪時に移動しなくてもよくなったこと、椅子の上げ下げが電動になったこと、若者の利用者が少なくなったことかな。床屋さん

  • 老夫婦の日々

    米寿同士の老夫婦の定例行事は通院と買い物だけ、病院でもスーパーでも爺と同年代と推察される方の姿は見ることが無い。薬と共存しながらも夫婦ともども健康に感謝している。この頃、スーパーで年老いた男性が一人で買い物している姿が目につく。奥様が先立たれたか、病院か施設で静養されているのであろう。もしも我が身になったらと、一瞬寂しくなる。電車とバスとご無沙汰してから5年になる。ドライブを楽しみながら県内の仲間達を訪れることもなくなった今は、品定めをしながらの買い物は老夫婦の細やかな楽しいひと時である。息子から運転免許証の返納を促されているが、心身健康で自立した生活をしている今は考えられない。遠距離、高速道路、夜間、悪天候時の運転は自粛、市内での食事や買い物を楽しんでいる。老夫婦の日々

  • コロナとマスク

    このところ、コロナ感染者が急激に下火になったとは言え、目に見えない不気味なウィルスと全国民がマスクをしながら戦っている。まるで国民一丸となって戦った大東亜戦争時代のようだ。マスクは人様に迷惑をかけていないとは言え、悪い伝染病でも発生したようで、不健康な姿を見ていると、気が滅入ってしまう。今やマスクは外出免許証、マスクなしでの外出は出来ない。我が家に足しげく訪れてくれる70代のS夫妻から元気を貰っている。気軽な茶飲み話やら、時には食事処での食事やら、マスクなしで語り合える唯一の仲間に救われている。百年前に流行したスペイン風邪は終息まで三年かかったとある。次から次と新しい武器で襲ってくるウイルスに勝って、マスク生活から解放される日はいつになるのか確かな見通しは無い。コロナとマスク

  • この頃の心得

    この頃は、鈍い動作の年寄りに出会っても、「どうぞ、ごゆっくり、」なんて、余裕の言葉をかけるようになった。若いころなら「むかつく」ところなのに、少し丸くなったようだ。人に不快な思いにさせてしまったり、迷惑行為をしてしまう老人を老害と言う耳障りの悪い言葉がある。聞きたくもないが、言われたくもないので、遠くから静かに若者世代を見守っている。米寿の老夫婦にとって家事は厳しくなったが、3度の食事と排泄以外は手抜きしながらも男女共同参画でこなしてる。高所作業や除排雪や草取りは無理することなく若い世代から支援。仲間からの情報も、ボケた,転んだ、膝痛、白内障等々、順番にやって来る老化現象による話題が多くなった。老夫婦の第一の心得は、転倒→骨折→寝たきり生活にならないこと。この頃の心得

  • 雑 感

    10月10日、義弟(僧侶)の三回忌法要が執り行われた。親族、檀家総代等30人ほどの参列する中で3人の僧侶による読経、全員マスク着用の礼服姿のため本人確認がままならず。この頃は、ガソリンスタンドもセルフ店が増え、フルサービス店を探すのに苦労している声も聞こえてくる。遠出をしなくなった爺、今さら自分で給油する気も、覚える気もない。5年前の6月に孫の結婚式で東京まで上越新幹線を利用してから電車とご無沙汰している。今や指定席予約もスマホから簡単に予約できる、駅員も、乗車券も現金も要らなくなった。クレジットカード、キャッシュカード、ポイントカード、ETCカード、プリぺードカード、診察券(内科、歯科、眼科、耳鼻科)財布の中身はカードだらけ、利用の度に探すのに一苦労。雑感

  • 鉄道の客車

    国鉄時代の客車は3等級あって、1等・2等・3等に区分され、客車の側面に3等車は赤、2等車は青の帯が表示されていた。白い帯の1等車は田舎では見た覚えがない。爺は、父が国鉄職員だったので、切符を買うことは無かったが、1等は「白切符」2等は「青切符」、3等は「赤切符」、運賃は2等は3等の2倍、1等は3等の3倍だったそうである。小学生の頃、母から「2等車は偉い人や、お金持ちの人が乗るところ」だと聞いたことがある。昭和30年ごろ、国鉄の記念日に発行された2等パスで利用したが、車内が静か過ぎて、つまらなかった。今は普通車とグリーン車になった。グリーン車は新幹線で普通車の指定席が満席の時には利用してきたが、グリーン車より子供の頃から乗り慣れた普通車の雰囲気の方が好きだ。鉄道の客車

  • 思い出す先輩

    2007年5月2日に初めて投稿したブログは,「頼もしいお年寄り」と題して、市内の小さな民芸館を経営していた新潟県衛生部の先輩で91歳の高沢さんと84歳の奥様との出会いだった。お二人はお見合い結婚で、高沢さん曰く、見合いの席で食欲旺盛な彼女を見て丈夫そうだったので嫁にしたと、奥さん曰く、眼鏡の嫌いな人だと聞いていたので外して行ったので相手の顔は分からなかったと。高沢さんは元海軍の衛生兵だったという、奥さんは県警事務員で競馬場のアナウンス嬢もやっていたとか、娘さん夫婦のもとで過ごしていた。お二人共に年齢を感じさせない若さと元気にびっくりした。2015年2月6日、行年101歳で彼の地へ旅だった。ご会葬礼状に、家族一同から父の好きな言葉「夢一生」が紹介されていたが、正に老いても夢を抱き続け、前向きな人生を歩んできた方だ...思い出す先輩

  • 卒寿のYさん

    知人の糸魚川市に住む卒寿のYさん、六畝ほどの畑を利用して元気で枝豆づくりに励んでいる。製品は親族や知人、友人に配り、喜んでもらうのが楽しみであり、生きがいにしている。今も、御仏壇に向かって先立たれた奥様と生前と変わらないお喋りしている愛妻家でもある。この頃は「寂しかったら迎えに来いや」と声をけているが、まだ迎えに来ないとか。過日、Yさんからの手紙に、今年の枝豆は天候不順によるものと思うが、一本に120位咲いた花が、30位しか咲かないので、少ししか送れないのが悔しくてと記されていた。我が家のイチジクも、天候不順のためだろうか、実が大きくならないうちに葉が枯れてしまう現象が起きている。毎年楽しみにしている皆さんに少ししかお裾分けできないのが残念で。卒寿のYさん

  • 気楽な時代

    人生88年を振り返って、気楽だった時代はと問われたら、昭和28年に新潟県職員として最初の勤務地である柏崎市で5年間の下宿生活である。採用辞令が今も保存されている。黒インクでペン書きの辞令には、「柏崎保健所勤務を命じる・4級1号(5400円)を給する」とある。諸手当を含め諸控除後の手取りは5000円少々だったと記憶している。下宿料(3食づき)3000円を払って残りの2000円で映画(30円)や麻雀中の夜食のラーメン(30円)、勝ち目のないパチンコ、友達とのお遊び等、給料日前には13円の銭湯代もなかった。念願だったカメラ(12000円)とポータブル蓄音機(7000円)の月賦払いは厳しかったが存分に楽しんだ。財布の中身は常に寂しかったが、懐かしいばかりで、悔いることは何もない。気楽な時代

  • 老後への対応

    人生100年時代、何時からが老後なのか決まりはないが、改まって老後の備えなどは全くしてこなかった。米寿を迎えたこの頃になって、そろそろ考える気になったところ。米寿同士の老夫婦であるが、要介護、要支援に至らず、自力生活中ながら、目に見えない老化が進んでる。息子からの勧めもあり、とりあえず緊急時におけるホームセキュリティー契約。布団の上げ下ろしが、段々と厳しくなってきたので、かねてから検討していたベットに切り替えてしまった。フレームはスタンダードだが、寝心地のいい少々高級のマットレスで安眠。運転免許証返納後の生活様式への切り替えは難しい課題である。現在のところ、遠距離、夜間雨天、高速道路の運転は控えているが、周囲からは年齢だけを基準に返納を勧められる。老後への対応

  • スポーツ観戦

    大好きだった高校野球とプロ野球への関心が薄くなった。生活動作に大きな支障はないが、やっぱり88歳半ばともなると、気力が低下したのかなと、痛切に感じるこの頃である。高校野球県代表決定戦は、暑い中を市内の野球場へ、巨人戦は欠かさずテレビ観戦を、年に一度は一人で巨人戦を観戦するため東京ドームへ出かけて行った気力は何処へ行ってしまったのか。今は高校野球もプロ野球も、翌日の紙上で結果を見るだけ、それでも巨人か勝った記事は丁寧に読む巨人ファン。東京オリンピックもパラリンピックも実況放送は見ることは無かった。9月場所が始まった。唯一郷土出身幕内力士の豊山関と好きな力士数人の取り組みは、一喜一憂しながら観戦している。日本人横綱が誕生して優勝する場所の来る日が待ち遠しい。スポーツ観戦

  • マスク姿だらけ

    家庭用マスクは、花粉症とインフルエンザ対策として限定的に用いられていたのが、まさか、ウイルス感染予防のために全ての人が着用する時代になるとは思いもしなかった。収束する見通しのない新型コロナウイルスに怯えながらの日が続き、いい時代とは言えない。世はファッション化したマスク姿だらけ、地味なもの、派手なもの、可愛いものまで、色々。生活様式として定着したマスクであるが、煩わしくて、顔が見えないので相手の表情が読み取りにくい、又マスクの習慣的着用で心身に多くの症状を及ぼすリスクがあることも実証されている。社会的距離が確保される時は、マスクを外すように言われているが、徹底されていないのか、強い日差しの中をマスクを着用して散歩している人を見かける。マスクなしの生活に戻る日が待ち遠しい。マスク姿だらけ

  • 昔の農家

    爺が少年時代から青年時代に見た農家特有の構えや間取り、涼しかった環境が懐かしい。小さな農家でも、屋敷内で数羽のニワトリが伸び伸びと遊んでおり来訪者を知らせる存在でもあった。家の中は床をはった部分と,土間と呼ぶ土のままの部分があり、土間には,食事の用意をするためのカマドやフロ,家族と一緒に農業をしてくれる牛馬が一角に同居していた。また、カマやクワなど農具の置き場として、雨の日や冬の間は,麦・稲・大豆・蕎麦などの脱穀、タワラや縄作りといったワラ仕事、蚕の世話など土間は農家の仕事場だった。便所は玄関の入り口にあり、土間に降りて下駄をはいて家の外へ出て用を足していたので、寒い冬や夜のトイレが嫌だったろう。地下に桶を置いて二枚の板を渡した簡易なものが多かった。昔の農家

  • 弓子姉さんへの思い

    偶然の出会いとは誰が導いてくれるのか不思議なご縁である。平成16年初秋、長岡市塚野山にある豪農長谷川邸の隣に建つ塀の無いお屋敷のベランダに咲く珍しい朝顔に見とれていた。「どうぞ」と屋敷に案内されたのが、長谷川邸ゆかりの弓子姉さんさんとの出会いだった。屋敷内には色々な野草、四季折々の花を無造作に咲かせて、種まき、芽吹き、開花、花の一生を楽しんでおられた。春は桜とコブシ、秋は萩の季節になると「いらっしゃいよ」と、嬉しいお誘いの電話が来る仲になった。今も庭の片隅に、頂いた朝顔が小ぶりに、控えめに咲いて、弓子姉さんを思い出させる。平成19年暮れ、終末医療施設で静かに帰らぬ人に、わずか3年のお付き合いだったが、も少し生きて欲しかった。先立たれたご主人への土産話が沢山あるのよと語っていたが、明るい方だった。弓子姉さんへの思い

  • 愛犬ゆうちゃん

    愛犬ゆうちゃん、間もなく彼の地に旅立ってから3年になる。今も元気な頃の男前の写真に向かって「おはよう、お休み、行ってくるよ」など、生前と同じ言葉を掛け続けている。家の建具や唐紙や壁の所々に、幼い頃のゆうちゃんによる引っ掻き傷やおしっこの跡が残っている。寂しがり屋だつたゆうちゃん、何時も爺婆と一緒、人間の子と同じに生きた18年だった。19日、ゆうちゃんが眠る家内のふる里(寺院)にある動物供養塔に向かって名前を呼び続けてきた。先輩や後輩のワンちゃん達と楽しく遊んでいるのであろう、この頃は夢にも現れない。散歩仲間でもあった爺、運動不足になってしまった。かかりつけ医から散歩するようにと言われ、ゆうちゃんとの散歩道を一人で歩いた時期もあったが、寄る年波か、その気になれない。愛犬ゆうちゃん

  • 今年の8月は

    我が家にとっての8月は、16日は家内も無事88歳に達して爺と同い年に、23日は爺が心筋梗塞術後3年目、30日は愛犬のゆうちゃんが旅立って3年目、忘れられない日が3日。18日、家内の誕生祝に親しいS夫妻から花束をいただき、爺が贈った花束とともに、家中がバラ、カーネーション、カサブランカ、リンドウ、オンシジュウム、カスミソウーなど、花の香リでいっぱい。19日、家内のふる里(日蓮宗寺院)へ、本堂に供えたご先祖、両親のお位牌と愛犬の写真を前に、現住職(家内の甥)による読経、次いで夫婦揃って米寿にあたっての厄払いで、身も心も軽くなった。日本中が、収束する見通しのない新型コロナウイルスに怯えながらの日が続いている。更に、地球温暖化による異常気象での豪雨災害、猛暑による熱中症患者の続出、厳しい8月である。今年の8月は

  • 8月15日

    昭和20年8月15日、爺は中学1年生だった。お向かいの中林さんから、「戦争に負けたね」の一言で、まさか負けるとは、一瞬体中から全ての力が抜けてしまったのを覚えている。昭和17年の入選標語「欲しがりません勝つまでは」に踊らされての耐乏生活を国民こぞって、その気になったが、「外出を控えようコロナ収束までは」と言われても、こぞってその気には・・。年に一度3泊4日の里帰り中のご先祖様と3年前に別れた愛犬のゆうちゃんも、明日は彼の地へ帰る。何れは我が身となるが、今は「お迎えは何時でも良いが今日は嫌」の心境である。現世は、新型コロナウイルス感染者が増え続け、線状降水帯」という非常に強い雨が各地に降り続いている最中である。さぞや、ご先祖様も驚いて彼の地に戻ってゆっくり眠りたいかも。8月15日

  • 暑くて 暑くて

    8月に入り、コロナ感染者と熱中症患者が増え続けている。新型コロナによるストレス、長時間のマスク着用によって、気づかないうちに隠れ酸欠になっている人が急増しているとか。8月2日、朝から暑くて暑くて、親しいS夫妻と馴染みの食事処で暑気払い。客足が少くてと女将のボヤキ、ワクチン接種済みという複数の女性グループがお喋りを楽しんでいた。8月4日、今日も暑い、年に一度の心筋梗塞術後の定期検診、命拾いして3年になる。採血、レントゲン、心電図、エコー、一通りの検査。昨年と大きく変わていないとの診断に、やれやれ。数年ほど前までは、日中は涼しい海風に浸りながら、エアコンなしでの生活だったのに、地球温暖化による記録更新の暑さが続いている。寒がり屋の爺も余りの暑さに冬の寒さが恋しい。暑くて暑くて

  • 運転免許

    今年の3月に米寿を迎えた爺、運転歴50年以上の経験豊かなドライバーであるが、今は専ら市内の買い物と通院だけに限って運転、夜間や雨天の日、遠距離運転は控えている。高齢ドライバーによる事故が相次いでいることから自分の親には加害者になってほしくないとの思いで、長男から運転免許の返納するよう厳しく持ちかけられたが、悩ましい問題である。体の動きは70代だと周りから言われ、認知機能検査成績も高得点だったし、事故を越すこともなかったし、まだ大丈夫だと運転には自信をもっていた爺、老人だという自覚を促されて寂しい。免許返納の問題は、「いよいよ介護や老いについて考えることが必要だよ」という予告であるとも言われている。長男の切なる思いを無視することも出来ず、難しい判断を求められている。運転免許

  • 7月の4連休

    2021年限定の7月22日からの4連休を利用して帰省した長男夫婦から米寿の祝いとして、全ての家事、雑事からの解放され、2泊3日を市内のホテルと近郊の温泉に案内されて、のんびり。新型コロナウイルスの感染拡大を防止する観点から、不要不急の帰省や旅行など都道府県間の移動は、極力控えるように言われているが、帰省客と思われるマスク姿の老若男女で賑やかだった。チェックイン時の検温と書面による体調の申告、食事場所には紙製のマスク仮置きファイルが用意され、バイキング形式の朝食時にはビニールの薄手袋を着用するなど初の体験をした。館内にある休憩室や食事場所は間隔をあけて、エレベーターは利用人員の制限等々きめ細かい感染予防対策、爺夫婦も長男夫婦もワクチン接種済みであることから、不安感も無く過ごした。7月の4連休

  • 肝試し

    二人の息子が小学生の頃、町内の子供会行事として、夏の夜に怖い場所へ行かせて、恐怖に耐える力を試す肝試しを行なっていた。子供たちにとっては唯一の夜遊びの場として人気があった。子供たちは、2-4人程度のグループを作り、順番に決められたコースを巡る。脅かし役は白い布を被ったり、人形などを使ってお化けや妖怪などに仮装し、近づいてきた参加者を驚かせる。音響機器で不気味な音楽を流したり、竿の先にぶら下げたコンニャクで参加者を撫でたり、中学生や役員たちが様々な工夫を凝らしていた。中には泣き続けていた女の子も何組か。ゴールまで辿り着いたことを確かめるため、折り返し地点にカードなどを置いて参加者が一つずつ持ってくる。昨今は田舎でも暗い夜道は無いが、懐かしい肝試しの話は聞こえてこない。肝試し

  • 昔のことは覚えている

    年を取ると昔のことは覚えているが、昨日のことが思い出せないと、多くの先輩の話を聞流してきたが、爺も八十路を下り始めた頃から若い世代との会話で、同じ言い訳をしている。平均年齢79歳の物書き仲間8人で、月に二回、形にこだわらない作文を発表し合っているが、昔の話題になると、みんな覚えがあるので、懐かしくなって盛り上がり、新しい元気が湧いてくる。子供や孫が幼かった頃の写真を見たり、青春時代の流行歌を聞いたり、古いものに触れることで、昔の感情が蘇ってくる。確かに回想することで気持が若返るのが分かって来た。自力で思い出すようにすると、脳に新しい神経ができて、切れていた記憶の回路がつながるので記憶の筋トレになるという。帽子をかぶるだけの頭にはなりたくないので、懸命に思い出している。昔のことは覚えている

  • 我が家の庭

    スーパーの野菜売り場にはキャベツの外葉を捨てる籠が置いてあるが、キャベツの外葉には、ビタミンCをはじめ、色々なビタミン類が豊富に含まれていることをネット上で知った。美容や健康を気遣う人は、野菜スープの食材として利用していると言われている。我が家は、猫の額ほどの庭で生活しているダンゴムシ、ナメクジ、アリたちに栄養食品として与えている。今年も、シジュウカラが昨秋に掃除した巣箱で新しい巣作り、抱卵、子育て、例年の通り一言の挨拶もなく巣立って行った。今年は雀とシジュウカラが巣箱をめぐって争っていたようだつた。丹精込めてシジュウカラが作った巣をスズメが乗っ取り子育て、我が物顔で自由に出入りしている。秋には来年に備えて巣箱の清掃。巣作りするのは、シジュウカラだろうか、雀だろうか。我が家の庭

  • いつまでマスク❔

    街では、ほぼ全員がマスクをつけ、日頃利用する病院、銀行、郵便局の窓口、スーパー、コンビニ、ホームセンターのレジには飛沫防止のための仕切りがあるのが当たり前になった。完全にマスクなしの生活になるまでには、あと1~2年はかかるとも言われている。マスク越しの会話は、相手の表情が読み取りづらく、感情が伝わりにくく、全てを通じ合うのは難しい。マスクを長時間着用することによる隠れ酸欠が増えているとか。疲れやすい、目がかすむ、頭痛がする、朝起きるのがつらい、動悸がするなど、体の酸素不足が原因かもしれないと。親しくしている70代のSさん夫妻とは、お互い行動範囲が限られた生活習慣であること、体調に異常がないこと、ワクチン接種が終了していることもあって、素顔で世間話を楽しんでいる。いつまでマスク❔

  • 夫婦とは

    配偶者の死は想像したくないが、必ずその日が来る。日ごろは、一緒にいることが当たり前、空気のような存在である配偶者に先立たれた先輩や知人の悲しむ姿を見たり聞いたりしてきた。人生で起きる出来事の中で配偶者に先立たれることは最も辛いことであり、夫婦の歴史が長い夫婦であっても、短い夫婦であっても衝撃は大きく、仲が良かったほど辛さが増すと言う。配偶者の死について心の準備ができている人はいない。予期していなかった死であるだけに、「こうしてあげれば」「ああしてあげれば」良かったと後悔の念が吹き出してくるものだとか。死別の辛さを忘れるため、趣味に専念したり、仏様と生前と変わらない会話をしながら、自分を支えていると聞いている。家内は、爺が先だったら死んだふりして一緒に付いて行くと言っているが。夫婦とは

  • この頃の雑感

    6月には、北限の茶処である県北村上市の新茶を手土産にドライブ方々知人や仲間のところへ遊びに行ってたのに、加齢とコロナ禍で遠出は控えてからは目新しい話題は少なくなつた。偶数月の15日、ATM前に並ぶ年金会員や病院の自動支払機で精算する高齢者の中には、時々眼鏡越しに液晶画面をゆっくりと確認しながら力いっぱい押している不慣れな高齢者を見受ける。最近コンビニでの精算は自動支払機になって来た。高齢者が多い病院や銀行などと違って若者が多いので、液晶画面に表示される案内に向かってタッチする姿は、速やかで、軽やか。コロナのせいで、お互い素顔でお喋りする機会はなくなってしまった昨今、縁があって、折に触れ訪れてくれる70代のS夫妻と素顔でのお茶飲み話が、80代の老夫婦を元気づけてくれる。この頃の雑感

  • 88歳の日々

    3月に米寿を迎えてから、年寄りになった実感が更に大きくなった。日頃の外出先である病院やスーパー内で、もしか同年代ではないかと声をかけることがあるが、年下の人ばかりである。お金を貰って、遊んでいられるなんて羨ましく思う方もおられるだろう。病気さえしなければこんなに幸せなことは無いが、リタイヤして21年も続くと、遊んでいるのも飽きる。順番にやって来る老化現象による話題が多いのは自然の摂理とは言え、風の便りで聞こえてくる情報は、ボケた,転んだ、膝痛、白内障等々。若い頃の姿に思いを馳せながら寂しい気分に。年を重ねるごとに日常生活での諸動作が鈍くなるのを実感しながら何とも歯がゆい気持ちになる。今は、若い世代に「助けてもらってありがとう、迷惑を掛けて込めんね」と素直に言える。88歳の日々

  • ワクチンの副反応

    新型コロナウイルスの高齢者に対するワクチン接種率が他の自治体と比べて最も出遅れている新潟市に対して市民からの厳しい反応もあって、見るに見かねた県が大規模接種を開始した。接種率9割の先進自治体にいる仲間たちから、接種後の副反応についての親切な情報が入る。2回目は副反応は大きいので解熱剤の用意とか、後から入ってくる情報になるほど尾ひれがついてくる。我が老夫婦は幸い、かかりつけ医で難なく予約、5月27日に1回目を、6月17日に2回目の接種を済ませた。それぞれ、接種日の翌朝、接種部位に少々の痛みも午後には消えてしまった。歯医者を受診した一昨日、今回のワクチンは若い世代ほど接種後の副反応が起きやすい傾向があるそうで、若い受付嬢と女性歯科衛生士がお休みとあって、医師自ら受付したり治療したり。ワクチンの副反応

  • 感染予防

    新型コロナウイルスにうつらないように、うつさないようにしようと、マスクの着用と、病院の受付やスーパーのレジでは一定の距離を置く習慣は、すっかり浸透している。「目は口ほどに物を言う」の諺通り、目を見れば相手の感情が分かる。ある日のこと、スーパーで買い物に気を取られ、うっかり中年女性に近づいたら、マスク越しに爺を見る目は厳しかった。感染リスクを恐れての自然な反応であるが、感染者が近づいてきたかのような反応は如何なものかと思う。性格もあるだろうし、長期化したことによる精神的な疲れもあるだろうが。新型コロナウィルスに感染しないために、手洗い・消毒・咳エチケット、3密を避けるとともに、バランスの良い食事で免疫力をアップしてコロナに負けない体づくりをとは、管理栄養士からのアドバイス。感染予防

  • 持ち帰り

    コロナの感染予防策として、多くの飲食店の入り口では、持ち帰りできますとの貼り紙を見る。スーパーや病院のトイレでは、トイレットペーパーを持ち帰らないで下さいとの貼り紙を見る。ある公衆トイレを利用した時だった、「トイレットペーパーを持ち帰らないで下さい」との貼り紙が、いたずらされて「ペーパー」の文字が黒塗りされていた。苦笑したり、あきれたり。全国20〜60代の男女1352名を対象に行ったある調査によると、トイレットペーパーを持ち帰ったことがあると答えた人は8.7%、年収別では高収入の人が、職業別では先生が多いとは驚いた。トイレットペーパーを持ち帰る人とは、どんな方だろうかと、想像もできなかったが、60歳の警察署長が僅か170円のトイレットペーパーを持ち帰り、逮捕とは、あきれ果てて言葉もない。持ち帰り

  • 虫干し

    昔はクリーニングなどない時代だったので、夏の土用の時期に梅雨の間についた湿気を取る「土用干し」、10月1日の衣替えの頃には夏の間についた虫払いが行われていた。物にあふれた現代と違って、物を大切にする時代では、家庭で衣類を長持ちさせる方法として年中行事で行われていたと思う。丁寧に扱い長い間使用していたということである。爺の子供の頃、理由は分からなかったが、毎年、梅雨明けの天気のいい日に家中の窓や戸を開けっぱなしにして、部屋に縄を張ってタンス内の衣類を干していたのを覚えている。現代は物を大切にする気持ちを無くなったのか、忘れたのか、壊れたり、破れたり、気に入ら無くなれば捨てる。昔のように修理しながら形ある間は利用する時代は終わった。虫干し

  • 久しぶりの注射

    中高生だった昭和20年代には、結核の感染の有無を調べるため、ツベルクリン検査とBCG接種を繰り返していた。風邪などでお医者様にかかると、必ず注射されていたものだが。5月6日、かかりつけ医の定期検診日に、診察の受付と合わせて、報道されているような予約をめぐる各地での混乱もなく、家内と二人の予約を済ませた。受付の対応も親切で手際が良かった。5月27日、一回目のワクチン接種を終わった。翌朝に少々痛みを感じたが、午後には消えてしまった。接種当日から痛みが出る人、翌朝に痛みで目を覚ました人など個人差があるようだ。一日の予約数は6人だった。かかりつけ医なので問診も要しないので、一般診療の流れの中で11時半から医師による接種が行われ、接種後は15分の待機時間を経て無事終了したところ。久しぶりの注射

  • 職場旅行

    職場の職員旅行は楽しかった。社会人になって最初の旅行は昭和28年5月3日~4日、スキー場で有名な妙高市の赤倉温泉だった。初めて見る残雪のある白樺林の美しさが強く印象に残っている。土曜の午後から日曜に汽車やバスを利用して温泉旅館での懇親会、翌朝の朝食後には、途中の観光地を巡りながら帰宅なので行動範囲も限られている。県内の他,隣接する県境近くの温泉だつた。名幹事だつたT氏を思い出す。酒豪には、車中で持ち込み酒をたっぷりと飲ませて宴会費を節減、飲酒後に何時も言動が怪しくなるご仁には介護士を、いびき族は特別室へ隔離していた。部屋を探してさ迷っているもの、飲み代不足でつけ馬に付き添われて帰ってくるもの、朝起きたら他人の下着だったり、ランニングをパンツ代わりに穿いてくるもの等々、話題の多い行事でもあった。職場旅行

  • 年寄りと若者

    昔々、「今時の若者は・・・」と言われても、逆らうこともなく聞き流してきた爺も米寿を迎えた。このごろは、「今時の年寄りは・・・」と、たった一言の失言でも、老害と言われてしまう。誰にでも気さくに話し掛けたり、お喋り好きの爺、失言で反省することもある。今や、老いては、子に従い、若者に従い、妻に従って老害と呼ばれないように、静かに目立たず過ごしている。何時の世も、時代の変化をキャッチできない年寄りの話に惑わされることなく、時代の変化に対応しながら世の中を進化させているのは若者たちであると、老いた今も信じてる。年を取ると未来のことは考えず、昔は良かったことだけ思い出してしまうもの、年を取れば納得する。年寄りは若者に従い、若者は年寄りを敬いながら仲良く共存するしかない。年寄りと若者

  • 働き方改革

    この頃は、食事、着替え、洗面、掃除、入浴など、毎日の平凡な生活動作が自分で出来るだけで幸せを感じている。見た目で「元気だね」と言われるが、寄る年波には勝つことは出来ない。少子高齢化による労働力不足で企業は働き方改革を行っている。爺も加齢による体力・気力の低下で、生活動作の働き方改革をした。別名「手抜き」又は新潟の方言で「のめしこき」である。一階の部屋は散らかり具合を見ながら、物置同然の二階は気が向いた時に、四角い部屋を丸く履く。時折りトイレや台所で見かける蜘蛛の巣、蜘蛛を家族の元へ帰してやる。髭剃りは、欠かしたことは無いが、外出日は念入りに、入浴時間は二十分ほどでカラスよりは長い、下半身は丁寧に、上半身はさらりと。屋敷周りの草取りは、成長した草だけボチボチ。働き方改革

  • ワクチン接種予約

    5月6日、新潟市もワクチン接種予約が始まった。定期検診日だったので、家内と二人の予約を済ませた。初日とあって病院の窓口は予約する人と予約電話の対応に追われていた。平成の大合併で、全国の各自治体の行政経費は軽減された反面、住民サービスは予想したとおりである。国の方針とは言え、ワクチン対応は病院と個人に丸投げ、予約競争になってしまった。コロナ禍災害が発生したようなもの、行政も懸命に検討された結果だとは思うが、老い先の短い高齢者が予約競争している姿は哀れに見える。予約の手法に一工夫あって欲しかった。全国には、家族、親族総がかりで電話とネットで予約を試みた人たち、両親の予約を取るために、携帯電話3台とパソコン一台を使って1時間も粘った人も居られたとか、愚痴もこぼしたくなる。ワクチン接種予約

  • 自粛疲れ

    外出は病院とスーパーだけの生活習慣に慣れているのに、楽しみにしている関東に居る孫たちの来る日を待ち続けるのもエネルギーを使うのか、少々自粛疲れを感じる。首都圏の1都3県の知事たちが、「1都3県に遊びに来ないでくれ、都民・県民は1都3県から遊びに出ないでくれ」と訴えていた。収束の見通しのない現状では、会える日がまた先になった。今年の大型連休も今日が最終日となった。政府や自治体から「外出しないでくれ、人と接しないでくれ」と言われて、例年の遊び疲れではなく、自粛疲れになったのでは。爺は物書き、家内は手芸で、コロナを忘れて集中できる趣味で一日の大半を過ごしている。コロナが収束するまでの我慢続きによる自粛疲れを癒している。自粛疲れ

  • 伝統行事

    一向に収束の見通しがない新型コロナ、全国的に外出、移動の自粛が求められているため、地域の伝統行事やイベントが中止や延期。みんな物足りなさや寂しさを感じていると思う。少年時代を過ごしたふる里でも、現役時代に過ごした県内各地の勤務地でも、地域の誇りでもある伝統行事が今年も中止を余儀なくされている。残念だが、人の命が大事である。伝統行事は地域の重要な観光資源でもあり、地域経済に貢献している。地方都市の中心街は伝統行事の日以外は人影もまばら、活性化に向けて官民挙げての知恵も効果が見えてこない。今も、8月25日になると、少年時代を過ごした県北の小さな保内村坂町(現村上市荒川区)の鎮守様の祭礼に、3人の少年が演じる伝統芸能「荒川三匹獅子踊り」に思いを馳せている。伝統行事

  • 身近になったコロナ

    365連休の老夫婦、電車やバスを利用をしなくなって数年、外出は、スーパーと病院だけの生活。市役所からワクチン接種の具体的な案内が届く日を静かに待っているこの頃である。あるブロガーが言ってた。コロナが身近に感じられ、昔は「人を見たら泥棒と思え」、今は「人を見たらコロナと思え」に。買い物も、通院も、立ち話も、マスクの着用なくしてできなくなった。政府、自治体、専門家から感染予防を呼びかけられている。ウイルスに対する抵抗力を身に着けるために、バランスの良い食事、適度の運動、質の良い睡眠をとって免疫力を保つようにと。加えて、ウイルスは湿度に弱く、乾燥していると元気になるので、加湿器で湿度を50~60%に保ち、ウイルスが霧状に浮遊し感染を起こす事があるので、1~2時間ごとに換気を行うようにと。身近になったコロナ

  • お米

    母に連れられて、夜遅くに、米を求めて近くの農家を訪れ、衣類と交換してもらうため、行きは衣類を持ち、帰りは米を持つてきた御時世も昔々のこと、知る人も少なくなったろう。やっと手に入れた米は、芋に、ご飯粒が付いているような芋ごはんだった。サツマ芋、ジャガ芋、カボチャ、トウモロコシを加工した代用食とともに、爺にとっての、懐かしいおふくろの味である。今では、お米は米屋さんのほか、百貨店、スーパー、ドラッグストア、コンビニ等の店頭にも置いてあり、インターネットでも購入できる。芋ごはんを食べるとあの頃を思い出してしまう。毎年、収穫の季節になると、ありがたいことに新米が知人や友人からいただく。今は独立して生活している3人孫たちも、幼い時から食べ慣れた新潟コシヒカリを楽しみに待っている。お米

  • 食事が美味しい

    健康長寿の高齢者に秘訣を尋ねると、殆どの方が食べ物の話をする。肉の好きな人、魚の好きな人、野菜の好きな人など色々であるが、共通しているのは、食べることを楽しんでいる。爺夫婦も結婚63年、二人の息子を社会に送り出すまで共働き、両親を彼の地に送り届け、卒婚・熟年離婚の気配もなく、今は3度の食事を美味しく食べながら穏やかな余生を過ごしている。子供の頃から馴染んだ調味料、砂糖、塩、酢、醤油、味噌で味付けされた家内が作る和食が我が家の定番、見た目の派手さはないが、バランス食が老夫婦の健康の源になっている。毎食後、「おいしかった」「腹いっぱいになった」という満足感があるので、体が元気になるし、気持ちも明るくなる。時には親しい仲間とお喋りしながらの食事で、更に満足感を増す。食事が美味しい

  • 国民学校時代

    尋常小学校3年生だった昭和16年に国民学校に変わったことよって、爺も心身を鍛えてお国のため、天皇のため身をささげる立派な軍人になるための教育を受けた一人である。爺が通った国民学校の当時の校長先生は、軍部に忠実な真面目人間だったのだろう、近隣の学校では見られない徹底した軍事教育の推進者だったなと、大人になってから分かった。高学年になると、男子は剣道、柔道、女子は長刀た教育を、遠足という名前は行軍に、日の丸弁当の日が設定され、梅干しだけの弁当での昼食会、、朝礼後は上半身を裸で乾布摩擦など。学校行事では落穂ひろい、イナゴ取り、炭焼き,縄づくり等の奉仕活動、行軍、水泳、スキー等の体力づくり教育に徹していた。中学に入学当初は、他校出身者との学力差を痛感した。国民学校時代

  • 開業医

    東日本大震災で大被害を受けた岩手県宮古市で半世紀以上にわたり、校医、産業医、お年寄りの往診と地域医療を支えている92歳の開業医が新聞で紹介されていたが、近くだったら受診したい。爺の子供の頃に過ごした県北の小さな村には、開業医が一軒あるだけだつた。風邪、腹痛、目、耳、皮膚、怪我等々、手術を要するものや歯科以外は全てに通じており診察してくれた。今は、受診する医者を症状によって自分で選択しなければならない。看板には専門科目に一般内科を併記してあるが、主治医の専門外は、専門医を紹介されて、丁重に断られたりする。CT、MRI、エコー、血液検査などが進歩、コンピューターを使って診断するので、聴診器を当てることもなく、体に触れることもない。検査結果を説明する医師が事務員のように見える。開業医

  • 食べ物を大切に

    食べたいものを食べたいときに、腹いっぱい食べられる豊かな食生活を楽しめる夢のような時代である。副作用として、過食による栄養過多や、偏食で栄養不足の人など、健康リスクも表れている。幼い頃から、食べ物を粗末にすると、バチが当たると教えられ、食べ盛りの中学生時代は戦後の食糧難を体験した昭和一桁あ生まれの爺、今も食べ物は大切に捨てることはない。ご飯を粗末にすると「眼が潰れて見えなくなる」とも言われたのを覚えている。米櫃の掃除の時に、周りにこぼれている僅かな米も庭に撒いて、人目を避けて来る食べ盛りのスズメに与える。テレビで途上国に見る栄養失調の子供たちが可愛そうでならない。食べ物を粗末にする番組は不愉快でならない。食べ物を大切に、あの痩せ衰えた子供たちに腹いっぱい食べさせたい。食べ物を大切に

  • 加齢とともに

    加齢による足.腰.膝の痛みで悩んでおられる方は多いのだろう。新聞を開けば、足.腰.膝の特効薬の広告が目立つ。爺も体のアチコチの老化が確実に進んでいるのを実感している。日頃の生活動作の中で、思いがけない痛みに出あうようになった。スマホを使い始めたら、手首と親指の付け根が腱鞘炎に、歩きは過ぎてアキレス腱の炎症、無理な寝返りで筋肉痛など原因は全て加齢。この頃は生活が洋風化して、専用の寝室にベッドの生活が増えたいる。我が家は今も和室で布団の上げ下ろしをする生活で、昭和的風景だと言う人も居られるほど珍しくなってきた。まだベッド生活には至っていないが、そろそろ立ち座りが遅くなり、布団の上げ下ろしも厳しくなって来たので、便利で合理的なベッド生活を検討し始めたところである。加齢とともに

  • 我が家の周り

    現在の地に転居した33年前の家の周りは、各種の野菜やスイカ畑に囲まれ、複数のキジが悠々と歩き回り、ハトが集団で毎日やって来たり、所どころでスズメが砂浴びしていた。学生マンションと駐車場と化して、のどかな情景は見る影もなくなってからは、地方出身の大学生たちが、駐車場やマンションの空地で談笑する賑やかな情景に変わった。コロナ禍によって、オンライン授業が主体になった今では、通学する学生たちの姿は少なくなり、外国からの留学生の姿も全く見られなくなって、静か過ぎて寂しい環境になった。我が家の手狭な庭は、白い頬っぺたとネクタイのような胸の模様のシジュウカラの巣立ち、春を知らせるスイセンや福寿草、可愛らしいカナヘビ、カタツムリの定住など環境は変わらない。我が家の周り

  • ひ孫が生まれた

    3月10日夕方、孫のYちゃんに女の子が生まれたとの嬉しい知らせが、初のひ孫誕生である。まだ幼稚園児の時だった、四国から一人で飛行機を乗り継いで新潟へ来たあの子がお母さんに。新型コロナウイルスの感染防止のため、家族による出産の立ち会いができない中で、陣痛が始まって入院から出産まで、初めての出産に、Yちゃんも不安で心細い思いだったろう。入院後は母親とスマホで連絡し合い、様子が家内の元へも伝えられ、無事に生まれることだけを祈り続けていた。翌朝には手足を動かしながら元気な声で泣いている赤ちゃんの動画かラインで届いた。手前味噌になるが、生まれて間もないのに整った顔なので美人になるだろう。気早い事だけど、長いこと二階の部屋に眠っていた孫の誕生を機に揃えた雛人形の出番がようやく来た。ひ孫が生まれた

  • 88歳を通過

    3年ほど前に発症した心筋梗塞の術後経過に変化もなく、一昨日の3月8日に88歳(米寿)を無事に通過した。元気を与えてくれてる数少なくなった仲間たちにも、改めて感謝をしたい。平成12年、67歳で半世紀近い勤め人の生活から解放された。18歳で消極的に勉強した学校から解放され、20歳で社会人として親から解放され、今は3度目の解放感に浸っている。.4月から定年70歳時代が到来するというご時世になり、80代で活躍している頼もしい方たちも大勢居られる。半面で、老害という言葉は耳障りが悪く、聞きたくもなし、言われたくもない。世間で目立つことなく、平凡な一市民として20年の爺には無縁であるが、同年代の80代で活躍されている方たちが、一方的に老害呼ばわれされているのが、気の毒でならない。88歳を通過

  • 病院の待合室で

    体調が悪くないのに受診、待合室でお喋りに花を咲かせる高齢者に批判の声が沢山あった頃の情景は見られなくなった。あの頃に声掛けされた話好きらしい3人の爺ちゃん、今も達者だろうか。頭が悪くて神経内科に定期的に受診中の昭和8年生まれの爺ちゃん、医師から唯一の楽しみである酒を断てとは死ねと言われたと同じだと繰り返し嘆きの弁。酒も飲みたいし、長生きもしたいと。(2010年1月)切り取った胃袋の肉(ポリープ)の検査結果を聞きに来た88歳の爺ちゃん、青年学校時代に志願兵を薦められ、落第するために8+5=85と答えたが、厳しく叱られて合格、毎日尻を叩かれた痛みは忘れないと。(2014年5月)敬礼をしながら俺は日本海軍の生き残りだという90歳の爺ちゃん、B29を撃ち落したとか、入隊日には泣きながら送ってくれた俺に惚れた5人の女性に...病院の待合室で

  • 3月への思い

    爺の誕生月でもある3月になると、決まって68年前の20歳の春を思い出してしまう。社会人として親元を離れて5年間の下宿生活になり、生活環境が大きく変わった月である。掃除は箒で、洗濯はタライで、暖房は炬燵だけ、冷房は無し、家電製品は一切なし。自転車もなく何処へ出かけるにも歩く生活だったが、思いは懐かしいばかりで、何の悔いもない。下宿したMさんの家族は、お婆ちゃんとご主人と奥様と3人の幼児の6人家族だった。食事は何時も一緒に同じものをいただいて、食後も家族と一緒に歓談しながら過ごこともあった。親代わりに忠告してくれたお婆ちゃん、温厚で兄貴のような存在のご主人、食事の世話をしてくれた奥様、今も3月になると青春時代を支えてくれた今は無き御3方に思いを馳せる。3月への思い

  • 官から民へ

    58歳で公務員生活を卒業、第二周目の人生として、社団法人の事務局で9年間の勤めを終えてから20年になる。何をしても、何をしなくてもいい気楽な生活にも慣れてしまった。公務員時代は住民への気配り、終盤の管理職時代の職員管理から解放されて最初の実感は、「楽になったな~」。社団法人では、環境の格差に戸惑ったが、専ら定型事務にあたってきた。社団法人では、全国事務局長会議が年度初めに東京で開催された。出席者は公務員出身者で占められていたため、雰囲気は公務員時代に戻って、気楽に歓談が出来た場でもあった。半世紀にわたり、官民を通して14か所の勤務地で出会った方たちも彼の地へ永住されたか、施設等で療養中の方が多い中で、まだ夫婦そろって通院も買い物も出来る日々である。官から民へ

  • 頭を使ってる

    老化により使っていない脳細胞は減少していくが、使っている脳細胞は無くなることはなく、使えば使うほど、頭の回転がよくなると云う。脳の活性化のため、ナンプレ(数独)に挑戦中。80歳を超えると5人に1人、85歳を超えると2人に1人は認知症の診断を受けていると言われている。3月に88歳の米寿を迎える爺も「物忘れ」「置き忘れ」「ど忘れ」が多くなった。若い時の頭の回転は、きれいな円を描いて、スムーズに回っているが、歳を重ねると、蛇行しながら、時々休みながらジグザグ回転しているので、覚えは遅くなり、忘れるのが早くなるそうだが。休みながらも、回っている間は良しとして、長期休暇とならないためにも、ブログを書いたり、孫たちとラインを楽しんだり等々、帽子をかぶるだけの頭には、ならないよう努めている。頭を使ってる

  • 道路への雪捨て

    一年で最も寒い大寒の時期に、除雪車で路肩に寄せられた雪を、道路に出している人を時折り見かける。南風が吹く時期まで待てば良いのにと、豪雪地で生活をしてきた爺には理解できない。高齢の歩行者の転倒、新聞配達、郵便配達の人たちが利用している二輪車の横滑りが予想される危険で迷惑な行為である。もしも転倒事故になれば、損害賠償責任も問われる。県の規則でも、みだりに道路に泥土、泥水、ごみ、雪等をまき、又は捨てることは、禁じられている。僅かな晴れ間を見て雪を溶かしたい気持ちも分かるが、太陽様にお任せしたいもの。道路管理業務を担当した昭和50年代、市内一斉の除排雪作業の際は、歩行者と自動車の誘導など、安全第一、事故防止に努めた体験もあって身勝手な行為が、今も気にかかる。道路への雪捨て

  • 小さな村役場

    昭和26年、社会人の第一歩は、村長以下職員二十数名の小さな村役場で事務補助に携わりながら県庁に入るまで2年を過ごした。職員の殆どは地元農家の出身者で占められていた。職員及び部落の区長さんに役場からの書類等を届けている二人の小使いさんを通して、寝たきり老人、病人、妊産婦、障害者など家庭環境が正確に把握されていたようである。職員同士の人間関係は家族的で和気あいあいの雰囲気であったが、職員と地域住民との距離が身近だったがゆえに、、職員は常に監視、期待、把握されて密接な関係にあったと思う。平成の大合併で新潟県も112市町村から30市町村になって、財政的には節約されて大きなメリットの反面、デメリットとして住民との繋がりは遠く薄くなった感は否めない。小さな村役場

  • 餅つき機

    40年以上前から我が家に住みついている骨とう品とも言える高齢の東芝餅つき機、不安な気持ちを抱きながら、今年も先月下旬に豆もちをつき始めたが、寄る年波には勝てず力尽きた。早速に電気店に走り、コンパクトになった象印餅つき機を買ってきた。蒸してからつくまで40分の全自動式である。多機能になっているが操作が簡単で高齢者にとっては誠に使いやすい。市販の切餅やお供え餅のように、きれいな姿形に出来ないが、お味は子供の頃から食べている純米の味である。家電製品の中では丈夫な機器で家族から要請があれば忠実に働いてくれる。年の暮れと1月下旬(豆餅)の餅つきは我が家の定例行事である。孫たちも幼い頃から食べなれた新潟の餅を楽しみにしている。健康の証として今年も送ることが出来てホッとしている。餅つき機

  • 豪雪地の雪道

    大雪の朝、早い時間帯は一列縦隊で歩くしかない。すれ違い時に「どうぞ」道を譲ると、譲られた大人は「すみません」、子供たちは「ありがとう」と言う、豪雪地でのマナーである。昭和33年~42年、職員アパート生活の時だった。大雪の朝は、3人づつ交替で幹線道路まで約50メートの間を「かんじき」で雪を踏みしめて、すれ違い出来る道幅を確保したもの。雪道での車の運転は、予期しないトラブルに遭遇する。圧雪状態が緩んだ道路では、深みにはまって必死に脱出を試みるが一人では無理、助っ人を頼んで救出される情景があちこちに。昭和52年~55年、豪雪の僻地勤務の時のこと、マイカー通勤は3人一組になって交替で、同乗する2人は、緊急時の対応やチィーン着脱に当たった。携帯もなく連絡手段に乏しかったので心強かった。豪雪地の雪道

  • 終活年賀状

    年賀状仲間も高齢化したので「寄る年波には勝てず本年をもちまして年頭のご挨拶を・・・」と言う定型の終活年賀状が、今年は35年~45年も会う機会がなかった3人から届いた。年賀状を黙って辞めてしまうことを「年賀状スルー」という言葉を初めて知った。毎年のように職場の後輩の中からボチボチ去って行くが、絶縁状のようにも思えて、少々寂しい思いをする。最近はスマホの普及により、メールやSNSを通して年賀の挨拶に切り替える終活世代ではない40代~50代の中年層にも年賀状じまいの習慣が広がりつつあると言われている。終活年賀状が届いた3人のうち、高校1年の時から続いてきたN君に電話して見た。奥様の介護に追われているとか、電話での会話で親しさが再燃、お互い元気の証として、続けることになったが。終活年賀状

  • 雪との戦い

    「この下に高田あり」という逸話もある新潟県西部に位置する上越市(旧高田市)は豪雪都市としても、スキー発祥の地でとしも名高い。昭和33年から27年間を雪と親しんだり戦ったりしてきた。個人の家庭の除排雪作業は、今も昔も全て自己責任であり、作業が出来なくなった高齢者の冬は厳しい。ひと冬に4回の雪下ろしとトラックによる2回の排雪が雪との最大の激戦だった。スコップを持って歩道を行き交う若者達に手を合わせながら雪下ろしを哀願している多分1人暮らしのお婆ちゃんの姿を今も忘れられない。お年寄りの事故を耳にするたび思い出す。毎年くり返す雪との戦いも、若さで勝ち続けてきたが、寄る年波で、雪と戦えなくなった爺は、安全と安心を求めて平成元年3月に新潟市へ避難してから間もなく32年になる。雪との戦い

  • 今年は大雪

    雪の季節になると、昭和33年から27年間を過ごし上越市(高田)の雪の様子が気にかかる。苦闘した一冬2回~4回の雪下ろし、毎日の雪かきなど、雪との戦いも若かった昔々のこと。息子達にとっては故郷、爺にとっても第2の故郷でもある地で、辛抱強く生活を続けたものの、老夫婦だけで一軒家の雪対策は厳しいと判断、雪の少ない新潟市に避難してから32年になる。新潟地方気象台によると、高田では9日午前1時までの24時間降雪量が観測史上最高の103センチ、午後8時には積雪が200センチを超えた。老夫婦たちの心情は察するに余りある。長い豪雪地での生活で雪の扱いに慣れているとは言え、8日から9日にかけて積もった50センチほどの雪と除雪車が配給した雪塊の処理は、87歳の爺には無理、近くに住む後輩の親子に処理してもらった。今年は大雪

  • 可愛い子には旅を

    子供は、将来のために、旅に出して世間の風にあてた方がよいと言う誰もが一度は耳にしたことのある諺である。交通手段が馬か徒歩だった昔の旅の苦しさや辛さを例えた諺でもある。今では、若者たちの多くは、進学や就職のために自由に親元を離れて旅立って行く。爺も20歳の年には下宿生活、親からの解放感もあって失敗もしたが、多くの貴重な体験をした。爺には、まだ独身の二人の孫がいるが、社会人になると同時にアパート生活をして自立している。コロナ禍で会えないが、幼い頃から食べなれた新潟米が無くなると、ラインか電話が。身内でも知人でも、親離れしない子、子離れしない親子の姿を見てきたが、温室の中で生活していては、社会で生きるための免疫力がつかないと思う。孫たちの自立に、ほっとした気持ちで成長を見守っている。可愛い子には旅を

  • 若者言葉

    この頃の爺、孫たちとラインで連絡し合っている。孫娘からの年賀の挨拶はスタンプで「あけおめ」、その弟の陸君に荷物の配達希望時刻を尋ねたら、「夜でよろしく」と、一瞬考えた。若い世代との会話で「食べられる・見られる」を「食べれる・見れる」と言う「ら抜き言葉」には違和感がなくなったが、常用化してしまっている「とか言葉」は気になって馴染めない。文化庁が行った世論調査によると「ら抜き言葉」を使う人が初めて多数派になったと言う。今ではアナウンサーも原稿を離れたトークなどの場面や、中高年の方の会話からも聞こえてくる。スマホの普及で、幅広い年齢の人達が若者言葉を使っている。若者同士での短縮語、KY式語、ギャル語、ネット語など、暇つぶしに言葉遊びをすると、「なるほど!」と頷くものも多い。若者言葉

  • 年の初め

    今日は、爺も家内も数え年89歳の初日である。平常通り早々に起床、ことわざに朝茶は福が増すという。健康で新年を迎えることが出来た幸運に感謝しながら朝茶をいただく。老夫婦の今年の願いと言えば、3月8日には爺が、8月16日には家内が、それぞれ満88歳の米寿を迎える節目の日を迎える。健康で通過することが出来て、卒寿への出発日にしたい。当県では、コロナ禍の他にクマに襲われ死亡事故も発生、クマ出没特別警報が発令中である。今年は餌になる木の実が不作なことに加え、人を怖がらない「新世代クマ」が増えているらしい。ブログ「爺の世間ばなし」の投稿数も今日が896回になる。目標としている1000回の投稿日に達する日が見えてきた。予定している記念誌の発刊に、仲間からのアドバイスも届いている。年の初め

  • 令和2年も僅か

    コロナに振り回された令和2年も僅かになった。安全で有効だと言い切れるワクチンが開発されていない現状では収束する見通しもないまま、コロナとともに年越しするのは確実である。今年のお出かけは、9月に長男夫婦の案内でGO・TOトラブルを利用して新潟市内の温泉旅館で過ごしただけ。検温、マスクの着用、家族単位でアクリル板で仕切られた食事会場、初めて見る温泉旅館の情景だった。爺は一か月毎、家内は2か月毎に貰う薬と共存しながらも、老夫婦の師走の定例行事である元気の証としてのお歳暮を贈ることが出来た。神棚の掃除を済ませて新しいお札を納めたところ。87歳の家内が今年もきんとん、黒豆などのおせちを作った。お歳暮でいただいた塩引き鮭、リンゴ、洋ナシ等と一緒に、長男と次男と嫁いだ孫娘の家族に送る準備も整ってやれやれ。令和2年も僅か

  • 雪国の運転心得

    今季最強の寒気による大雪と道路管理者の不手際もあって、関越道で最大2100台の車が立往生した。豪雪地の厳しさを体験された大勢の皆さん、無事に救出されて本当に良かった。昭和52年~55年、豪雪地での勤務時代、地元での運転歴が長い先輩達から折に触れ教わったことを思い出した。今も、全て初歩的なことだが、大切な心得だと思う。〇ガソリンは常に満タン、タイヤチェーン、スコップ、雨合羽(作業用)、食糧(パン、菓子)を車内に常備しておくこと。〇圧雪道路での揺れを防ぐために、砂袋など重いものをトランクに積み置き、同乗者は後部座席に座らせること。〇)砂は、凍結個所の滑り止めに、同乗者はチェーン着装時、緊急時の連絡要員として心強い存在となる。〇降雪や特に吹雪の時は、バイパスなどは避けて、緊急避難し易い部落や町並がある一般生活道路を利...雪国の運転心得

  • 給湯器のリモコン

    給湯器のリモコンの電源ボタンが点滅、エラーコード「888」が表示された。ネット検索して調べたら、異常や故障を知らせるものではなく、耐用年数に達したと言うお知らせだと分かった。エラーコードの888・88の表示は、各給湯器メーカー共通であり、メーカーによる点検をしなさいということだった。早速メーカーに連絡、一部の部品交換と点検を終了したところ。取り合えず法に基づく点検は終了したが、寿命が来ているのは確かだ。メーカーによると当地は塩害による故障が多い所であり、我が家の給湯器もそろそろ交換する時期に来ているようだ。法律で、ガス給湯器の設計上の標準使用期間(耐用年数)は10年と定められているという。現在の家に住んで32年、現在の給湯器も3機めであり、寿命だったのかと納得した。給湯器のリモコン

  • 祖父からのしつけ

    小学校低学年の頃だった、多分しつけのためだったのだろう、春休みと夏休みには、一週間ほどだったろうか、一人で母の実家(呉服店)で過ごした。折に触れ、祖父からの生活指導を覚えている。爺の母親代わりだった「大きいお婆ちゃん」と呼んでいた祖父の姉が、店で針仕事をしながら商いをしていた。日中の爺は傍でお喋りしたり、針の糸通しをしたり、店番をしたり、夜もお婆ちゃんの部屋で寝ていた。親からのしつけらしいことは記憶にないが、祖父から教えられたことが、今も続いている習慣が幾つもある。食事時の席は祖父の隣だったので、食べる時の作法について細かく言われた。今も覚えているのは、箸の正しい持ち方、食事中は喋らないこと、ご飯をお変わりする時はひと口残すこと、最初に味噌汁を飲んでからご飯を食べること、ご飯とおかずを一緒に食べないこと。祖父からのしつけ

  • 年末ジャンボ

    年末ジャンボを買い始めてから20年以上になる。結果は切手シートか、たまに3000円が当たる程度であり、当選番号発表日までのわくわく気分を味会うだけで終わっている。孫からは「勿体ない」と言われ、宝くじに無関心な年寄りからは、老夫婦が使い切れない大金の必要性を指摘される。ごもっともであるが、今年も何時どこで買おうかと思案している。ある70代のブロガーが言っていたが、大金を手にしても生活は変わらないだろう。3回の食事を6回にできないし、身体は一つだから洋服もそんなに要らない。仰るとおりである。もしも当たったら、3月に出産を控えている孫娘のお祝いにしよう、そろそろ結婚適齢期になった二人の未婚の孫の結婚準備金ために貯金しておこう、楽しみな夢を見ながら買って来よう。年末ジャンボ

  • ライン始めた

    9月下旬にガラケイからスマホに乗り換えてから、10月下旬にはラインを始めたところである。家族や数人のライン友達とメッセージのやり取りは、すっかり慣れてしまった。スマホに乗り換えた爺ちゃん、婆ちゃんたちの中には、使いこなすことが出来ずに解約する人も耳にする。爺はガイドブックで理解できずに、au取扱店スタッフのお世話になることも多い。爺が利用しているau取扱店内の相談窓口では数人のスタッフが対応しているが、予約の人と、フリーの人で何時も満員である。平日は失礼ながら理解力、記憶力の衰え始めた高齢者が多い。このところ、87歳の爺も、久しぶりに子供心に帰って孫たちと可愛らしいスタンプや写真を交換し合いながら楽しんでいる。余生も少なくなったが、ライン機能を学んで使いこなしたい。ライン始めた

  • 年賀状

    今月1日に年賀状の発売が始まってから、年賀欠礼挨拶状がボチボチ届く。販売ノルマが廃止されたことで配達員による注文も来ないので、想定される枚数を窓口で買ってきたところ。年賀状住所録に残っている職場仲間も、先輩は一人だけ、同期の仲間は皆無となり、後輩だけになってしまった。今年は70代の後輩の奥様から、主人が永眠しましたと悲しい挨拶状が複数。親戚でもなし、長いこと会っていないし会う予定もない人たちは、自然消滅してしまい、形式だけの年賀状は無くなった。今は親族を除くと最高時の半数程になってしまった。まだまだ加齢による年賀じまいをする気は全くない。懐かしく思い出す後輩には、近況を知らせたり、尋ねたり、退職後に縁あって元気をいただいている仲間達には感謝の意を伝えたい。年賀状

  • 土曜半ドン

    平成生まれの若者は知らない人が多いと思うが、爺の現役時代は、土曜日は学校や役所・企業などの多くが現在のような週休二日制ではなく、午後からお休みで、土曜半ドンと言っていた。半ドンとは、オランダ語で日曜日をzondagという言葉が訛ってドンタクになり、休日を意味するようになり、官庁が土曜半休となった折に、半分のドンタクなので「半ドン」と呼ばれたとある。昭和46年から2年間の単身赴任だった頃は、半ドンの土曜日が待ち遠しかった。金曜日になると、明日は半ドン、小学生だった二人の息子たちに会えると思うと、気分も浮き浮き、仕事の能率も上がった。加齢とともに、今はすっかり気弱になってしまった。医療機関が半ドンや休日になると、風邪を引かないように、転ばないように等々気配りしながら月曜日や大型連休が明けた日は、ほっとする。土曜半ドン

  • お会式(おえしき)

    お寺(日蓮宗)の娘だった家内との縁で、お寺の定例の行事や法要に出席することが多かったので、お寺を支えてくれる檀家総代や世話人の方たちとの親しい関係が長いこと続いている。日蓮宗では、宗祖日蓮聖人が亡くなった日である10月13日を中心に、お会式と言う行事が行われている。新潟県内の日蓮宗の寺では、一か月遅れの休日を中心に行われている。11月8日、住職が兼務する柏崎市にある正平寺のお会式に出席してきた。今年はコロナ禍で、マスク着用、手洗いの徹底、お斎もなく、万全のコロナ対策のもと、約一時間の読経だけで終了した。終了後、爺は総代さん達と歓談、家内は何時も行事の度にお手伝いしてくれる裏方の奥様達に、お礼として手作りの編み物をプレゼントして、感謝の気持ちを伝えながら過ごした。お会式(おえしき)

  • 旗日と国旗

    祝日には日の丸の国旗を掲げて祝うことから旗日と言っていた。今では死語になって殆どの若者は知らない。昭和一桁生まれの爺は、今も普段から国民の祝日のことを旗日と言っている。結婚した昭和33年から27年間を城下町である旧高田市(現上越市)で過ごした。旗日には商店街や多くの家庭で国旗を玄関先に掲げる習慣があり、我が家も昭和42年新築を機に掲げていた。日の丸の国旗=右翼や戦争という間違った連想で抵抗があるとも言われている。文化の日の11月3日、訪れた県北の城下町である旧村上市内で、何軒かの一般家庭の玄関から国旗が見えた。新潟市民になって32年になる。最近は一部の公的機関や市内を走るバスやタクシーの前面に掲げている程度で一般家庭から国旗は見られない。旗日を祝う気持ちは薄れてしまったようだ。旗日と国旗

  • 県北の方言

    昭和20年4月、田舎の小学校から県北の古い城下町にある旧制村上中学校に入学した当時、向かえには士族が通った村上本町(もとまち)小学校が、その裏側に町民が通った村上町小学校があった。村上弁も、もとまち言葉と、まち言葉があった。戦後に学校が合併されてからは、まち言葉に飲み込まれてしまったらしい。元々もとまちの人たちは言葉に対する誇りがあったと聞いている。村上弁の方言は沢山あるが、最も代表的なのは、「あたりまえだよ~」とか「もちろん」というのを「だぁまた~」または「だぁまたせ」と言い、アクセントやイントネーションに特徴がある。今はテレビやラジオの影響で言葉が平均化されて、村上弁も若者たちからは聞こえてこない。高齢者でなければ使えなくなったお国言葉が消えてしまった淋しさを感じている人も多い。県北の方言

  • 家事の分担

    子育て世代の家事の分担について新潟日報社によるアンケート調査よると、相変わらず女性偏重が謙虚で、男性が女性より上回っている家事はゴミ出しだけとは、分担は進んでいないようだ。30年共働きをしてきた。共に公務員という勤務条件に恵まれた環境だったので単純比較はできないが、掃除、洗濯、子供の迎え、子供の風呂入れ、勉強を見るなどは概ね爺がやっていた。昔は何処の家庭でも、弟や妹の子守、玄関の掃除、小さな買い物など親のお手伝いをしながら家事にかかわってきた。今の子育て世代は結婚後に初めて体験するためか、家事に慣れていないのかも。仕事と家事と育児を一人では所詮無理である。男女共同参画時代では家事は女性だけの仕事ではなくなり夫婦の仕事になった。お互い出来ることを、一緒にする気持ちと思いやる気持ちが無ければ長続きはしない。家事の分担

  • パソコンの入院

    パソコンは、頭は良いが体が弱い機器で、専門医のお世話になることが多い。具合か悪くなるたびに主治医に電話で質問したり、受診したり、時には往診してもらっている。2007年5月、ハードデスクの移植手術のため、東京都内の総合病院に緊急入院したことがあった。術後の経過は良く全治はしたが、保険がないので入院治療費は多額だった。ワードとメールの起動時に、エラー表示が続いたが再起動することで回復していた。10月17日、「オペレーティングシステムは現在このアプリケーションを実行するように構成されていません」と表示された。同21日、主治医の診断結果は、重症のため修正による回復は無理のようだと入院させた。翌日22日、原因はわからないが、再インストロールしたら全快したと主治医から連絡、元気で退院できた。パソコンの入院

  • せっかちで不器用

    お恥ずかしい話だが、忙しくもないのに急ぐ性格は老いても治らない。ネットでのせっかち診断結果は重症ではないが、気づいたことは直ちにしないと落ち着かない性格である。若い頃から常習だった靴下の裏返しや組違いを知り尽くしている先輩のK氏が爺の足元を見る意地悪気な目線を思い出す。最近は目の老化も手伝って頻繁になったが履き直すこともない。小学生の頃から「工作」が苦手、成績評価は「優・良・可」で、何時も「可」だった。周りから器用そうな手をしていると言われるが、今も日曜大工の出来栄えは小学生並みである。魚の食べ方も皆から下手だと言われてきた。長男で初孫だったことから、幼い頃から骨を取ってらって食べていためもあるが、所詮は生来の手先の不器用さにあると思う。せっかちで不器用

  • 寄る年波

    87歳の後半に入った爺、体調に大きな変化はないが、細かい生活動作にあたり無理できなくなってきたことを実感するこの頃である。特に長時間の家事は腰に疲れを覚え、休憩しながら。今月初め、左手の手首と親指の付け根に痛みを覚えた。先月ガラケイからスマホに切り替えたのが原因かと、湿布をして様子を見たが変わらず、仲間から紹介されたT外科医院で受診。爺と同年代と思われる老医師だが、健康的な体形だった。後で聞いたところによれば、80歳までゴルフを続けられた方だとか、待合室の戸棚には数十個のカップ等が保管されていた。両手のレントゲン写真を比較しながら、患部の様子を素人にも分かり易い説明をいただき、外科医というより、優しいお爺ちゃんという感じだった。診断は加齢と使い過ぎによる腱鞘炎だとか。寄る年波

  • 食べる

    この頃のテレビは、製作費が安いということで食べる番組が目立つ。どのチャンネルも有名芸能人やタレントが「ウマイ!」とか「おいしい」とか言っているグルメ旅行番組は若者には人気のようだ。スタジオでも、ホテルや料理店のスタッフや料理研究家、管理栄養士などが、豊かな食材と調味料をたっぷりと使って見た目の美しい料理を作って紹介されるが、老夫婦の口に合いそうもない。加齢とともに、自宅で食べなれた食事をすることが多く外食はめったにしない。近くに開店した宅配する「たこ焼き」店がらのチラシを見て、食べる機会もなかったので試食したいと思っていた。過日、S夫妻と一緒に食べてみた。学生相手の店だけに、随分と前に発祥地の大阪で食べた品と大きさが違う。お味は悪くないが、一口では無理なたこ焼きか8個、年寄りには食べきれなかった。食べる

  • ガラケイからスマホに

    余生も短くなった爺、初めてガラケイに出会ったのは67歳の時だつた。9月28日、検討してきた結果、20年間、慣れ親しんだたガラケイとお別れして、スマホに切り替えた。ガラケイとタブレットを併用していたので、スマホの必要性は感じないでいた。詳細は分からないが、3G回線電波を使用しているガラケーは、auの場合は、2022年春頃には使えなくなるようだし。電話とメールの送受信、各種の検索には戸惑うこともなく利用しているが、今は多種多様なアプリの中から、好みのアプリを取得したり、気に入らずに消去したり、所詮は慣れるしかない。爺の就寝に合わせて、テーブルの上では、パソコン、タブレット、スマホの3電子機器が仲良く並んで充電しなからお休みする。毎朝、それぞれを起動して閲覧確認するのに忙しくなった。ガラケイからスマホに

  • 割引キャンペーン

    新型コロナを恐れて、外出を避け、趣味の会や食事会などの交流の場を失い、通院も控えている高齢者が、食欲不振や認知症などで、健康に大きな影響を及ぼしている方が増えたと言う。新潟市民限定の割引キャンペンンを利用して、長男夫婦に案内されて、市内のホテルと温泉旅館でシルバーウイークを過ごした。ホテル側も宿泊客も決められた感染予防対策が守られ安心して気分転換できた。新潟市民限定のキャンペンとあって、本人確認のため保険証持参での利用は初めて体験する。大浴場で客同士の会話で耳にしたが、新潟市民の保険証を借用してきた方も居られたようだ。ホテルや温泉旅館で、定着しているバイキング形式の朝食も、加齢とともに面倒くさくなったところ、爺と婆の朝食を知り尽くしている長男が、二人の朝食をバランスよく揃えて運んでくれて助かった。割引キャンペーン

  • 三種の神器

    皇位の印として歴代天皇が継承してきた三種の宝物(鏡、剣、曲玉)をまねて、その時代の人々の憧れの的だった代表的な家電製品を昔から三種の神器という名称で呼んできた。爺が結婚した昭和33年当時の三種の神器は「白黒テレビ」、「洗濯機」、「冷蔵庫」だった。共働きしながら昭和34年には洗濯機と冷蔵庫を、翌35年には白黒テレビを揃えることが出来た。昭和40年代には「カラーテレビ」、「クーラー」、「自動車」になった。昭和42年に念願のマイホームの建築に合わせて「カラーテレビ」と「クーラー」が、同45年に運転免許を取得してマイカーを購入。平成の御代では、「デジタルカメラ」、「DVDレコーダー」、「薄型テレビ」、令和の御代になると、「ロボット掃除機」、「全自動洗濯乾燥機」、「食器洗い機」説と「4K/8Kテレビ」、「冷蔵庫」、「ロボ...三種の神器

  • 魚の食べ方

    魚の食べ方で性格が分かるらしい。爺は、若い頃から家内や仲間から魚の食べ方が下手だと言われている。幼い頃から周りの人が骨を取ってくれて、身の部分だけを食べていたためかも。魚の食べ方の下手な人は、無謀なことも、乱暴なこともしない温厚な性格の反面、相当の面倒くさがり屋ということも考えられると言う。爺も魚の食べ方に限ってはそうかも知れない。食べ方の上手な人は、アブラがのった縁側の美味しいところを、口の中で舌を使って小骨と身をより分けて味わっている。食べ終わった皿の中央には背骨が置かれ、小骨が寄り添っている。食べ方は下手だが魚なら何でも好きな爺、特にニシンが大好物だが、取り立ての生にしんには暫くお目にかかっていない。魚のお頭のほうは家内に任せ、爺は食べやすい尻尾のほうをいただく。魚の食べ方

  • 紅白歌合戦

    今年は無観客で行われることが決まった。第一回紅白歌合戦は、昭和26年ラジオで聞いた高校3年生の時だった。時代とともに大きく変化しながら、国民的番組として続いている。多くの中高年の皆さんから昔の紅白歌合戦は良かったとの声を聞く。殆どが見慣れない歌手ばかり、舞台演出が過剰で、歌合戦というよりバラエティーショーで、見ていて疲れると。演歌や歌謡曲を中心に、司会が曲を紹介し、歌手が歌うだけのシンプルなものがいい。年寄りから子供まで家族揃って茶の間でテレビを囲んで見ていた頃を懐かしく思い出す。大晦日の楽しみ方が多様化して、スマホやインターネットネットの普及で若者世代のテレビ離れが進んでいる。視聴率も最近は40%前後を低迷しており、存亡の危機説も噂されているとか。紅白歌合戦

  • 日本語が変わった

    カタカナ語を使う人が多くなった。爺もパソコンと出会った68歳の頃は、インストール、ダウンロード、バージョンアップなど簡単に覚えた頭も、87歳の頭には新カタカナ語は入りにくい。河野大臣が、新型コロナウイルスに関する政府の説明にカタカナ語が多いので、ご年配の方も分かり易い日本語で説明するよう厚労省など関係省庁に求めたとか、同感である。気分転換に馴染みの和洋レストランを訪れたら、入り口に「テイクアウト」を始めましたとの張り紙があった。「お持ち帰り」と書けば誰でも分かるのに、店内は以前の賑わいはなかった。諺「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということか、アメリカと戦争中は軍による外国語追放がエスカレート、ニュースを報道と読み替えたNHK、今は教育テレビを分かりにくいEテレに。日本語が変わった

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