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  • 愉快な飲んべたち

    酒は百薬の長と言って適量の酒はどんな良薬よりも効果があるが、飲み方次第で毒にもなる代物。色々な酒癖の人と出会ったが、ちょっと愉快な3人の飲んべを紹介する。昭和34年頃、同じ職員アパーの2階に住む田村氏、酒を飲んで帰宅の際は、決まって3階の我が家のドアをノックする、施錠していない時は、玄関に入り込んできたことも。昭和46年の職場の友の山口氏、帰宅前に居酒屋で晩酌する飲んべ、話し相手に何回か誘われた。爺が何を飲もうが、食べようが無頓着、無理強いもしない、面白くもない話をしながら喜びに浸る。2度、職場を共にした婿養子のK氏、外で飲んだ時は奥様がマイカーで迎えに来る、「こんなに遅い時間に女性の方から送っていただきありがとうございます」と丁重にお礼の挨拶をする。愉快な飲んべたち

  • 91歳になった

    先輩はもとより、同期の仲間の殆どが石のシャッポを被って彼の地でお休みなさっている中で、この世に取り残された吾輩は3月8日には無事に91歳の誕生日を迎えた。見た目で姿勢がいいとか、声に張りがあるとか、元気だねとか、色々言われるが、爺には内緒で心身ともに老化が進んでおり、日頃の言動から年を取ったことを痛感するこの頃である。掃除も厳しくなって、手抜きしながらも一部屋ごとに一休み、思い物を持っては手首を痛め、寝違えてあちこちの痛みで、何時も体のどこからか湿布の匂いかする無理できない体になった。厚労省の調査資料によると、91歳の平均余命は3年とあるが、いくつまで生き延びられるのかは運命に従うしかない。時々年上の元気で明るく話好きな高齢者と語り合いたい気持ちになる。91歳になった

  • 好きだった上司

    58歳まで半世紀の公務員生活から第二の人生は造園業界の事務局へ、異質な環境の中で戸惑う爺に全面的な信頼を寄せてくれた責任者の片岡氏(故人)を懐かしく、時々思い出している。陸軍士官学校出身で身長180センチ近い大男、終戦時の位は佐官クラス、戦時下であれば近寄りがたい存在、戦後は会社を設立、市議商工関係の役職など地域の名士として活躍された御仁である。過去の市議、商工関係、軍人時代の話題は自らは殆どしなかったが、南京虐殺事件と沖縄戦に関して一部を反論しながら自身の認識を語ってくれたことが印象深く、納得できる内容だった。造園業の社団法人代表として、当時80代半ばだったが、元気はつらつ、若い会員にも何時も同じ目線で話しかけ耳を傾けてくれる姿は好々爺といったところ。心が温まる存在だった。好きだった上司

  • 老夫婦の朝

    90歳の老夫婦ともなると、全ての動作が鈍くなったが、三日か四日に一度スーパーへ買い物に出かける。昔ながらの食材を買い求め、3度の食事は全て子供の頃から食べ慣れた和食である。朝の2時半前後には目を覚まし、朝茶を飲みながら家内は読書や編み物、今はアームウォーマーを編み続けている、爺はブログづくりや現在46人のブログ仲間の作品を読んだりしてる。5時には夫婦共同で朝食の準備、前日の夕食後12時間、起床後3時間後の朝食は待ち遠しく、空腹感で3度の食事で一番美味しく食べている、今の時期まだ周りの家々の明かりはない。食事が終わると、ご先祖様にローソクと線香を灯して手を合わせる。洗顔、手抜きしながらの掃除、洗濯などすませば、寝るまで自由時間になる、こんな生活が何時まで続くやら。老夫婦の朝

  • 通勤仲間

    昭和49年から2年間、50歳代の阿部氏、30歳代の岩佐氏、40歳代の爺の3人が交代でマイカー通勤していた時のことをふと思い出した。周りから羨ましがられるほど気の合った仲間だった。阿部氏は、温厚で真面目一筋、笑う時は声を出すことはなく両肩が上下に動くだけ、岩佐氏は、対照的に賑やかな性格で、面白い話題を一人喋り、40分ほどの車内で退屈することは無かった。ある日、阿部氏の運転日だった、楽しい話題に夢中になってスピードを出し過ぎたのか、サイレンを鳴らした白バイのお兄ちゃんから停車を命じられ、反則切符をもらったことがあった。阿部氏は58歳で退職後は建設業界へ転出後間もなく病で還暦前に亡くなり、岩佐氏は若い頃からの酒の飲み過ぎで体調を壊し、定年前に亡くなる。相変わらず良く喋る岩佐氏の夢を見た。通勤仲間

  • 月極駐車場

    我が家に隣接する東側は15台が駐車できる月極駐車場である。現在の利用台数は13台、県内車は3台で他は県外車で占められている。利用者は近くのアパートなどに住む人たちであろう。爺が現在の地に転居した33年前は、スイカと大根畑だったが、耕作者の高齢化で駐車場になってから20年以上になる。舗装されていないので月3500円だと聞いている。当初は県外出身の学生が殆どで、4月の年度替わりには利用者が入れ替わる。我が家の窓越しに学生たちに声をかけると、挨拶は出会いの始まりと言うが、翌日からは挨拶が返って来た。中には、親しくなって我が家でお茶飲みしたり、たまには食事をしたりした学生もいて、結婚式に案内されたこともあった。今時の学生たちは気質が変ったのか、声をかけても繋がらない。月極駐車場

  • 近頃の思い

    薪を背負って歩きながら熱心に本を読んでいた二宮金次郎、鞄を担いで歩きながら熱心にスマホと向き合っている若者、熱心さに変わりないが、横断歩道では左右の確認して命を大切に。相変わらず編み物好きな老妻、今の時期はアームウーマーを楽しみながら編み続ける日々、成果品は、全て知人やスーパーで親しくなった女性店員に、喜んでもらって楽しんでいる。某寺院の住職が「今日を大切に」と題した講話、80歳まで生きたとして、27年は睡眠時間、10年は食事の時間、5年はトイレの時間を除くと、仕事や趣味などに使える時間は38年しかないと。共働きの時から調理時間が短く、皿数が少なく、栄養バランスが取りやすく、果物が合うなど合理的でメリットの多い朝のパン食をご飯にしてから半年ほどになるが、パン食より美味しい。近頃の思い

  • 3人のひ孫

    1番目のひ孫の女の子紗奈ちゃん、3月には3歳になり4月から保育園に入園する。保育園からの入園許可証を両手で掲げた写真がきたが、本人は何も分かっていないかも。誕生から今日までの成長する様子はラインを通して見ているがコロナ騒ぎで会っていない。知恵付きは早いが、まだおむつが取れないようで、目下訓練中だとか。2番目のひ孫の女の子莉音ちゃん、今月22日には一歳になる。スマホで莉音ちゃんのアルバムを見るのが朝一番の楽しみ、数歩ほど歩き始めたところ、会える日が待ち遠しい。3番目のひ孫、紗奈ちゃんの弟が2月3日早朝に無事誕生の知らせがあり、逞しい顔の男の子の写真が夕方には早速に送信されてきた。これで楽しみが3倍になった。3人のひ孫

  • 老いを痛感

    男性の平均寿命81歳を超えてから10年、人生の終電車に乗って終着駅に向かっていると言ってもいい年齢である。二人の息子が支援要請手続きをするのも無理からぬことだと思う。90歳の壁を越えてからの1年を振り返ると、爺には内緒で目に見えないところで老化現象が起きている。ひざ痛、首痛、胃もたれで受診したが、全て加齢による老化と診断された。ゆっくり歩いて10分ほどで行ける100円ショップと本屋まで途中で一度腰を伸ばして一休み、通学する大学生たちは、みんな爺を追い越していく姿を見ながら老いを痛感する。掃除機での掃除も厳しくなって、手抜きしながらも一部屋ごとに一休み、思い物持っては手首の痛め、寝違えてあちこちの痛みで、何時も体のどこかに湿布が、無理のできない体になってしまった。老いを痛感

  • 時代劇

    子供の頃に見た時代劇で記憶にあるのは、チャンバラ場面を震えながら見ていた嵐寛寿郎が演ずる「鞍馬天狗」、好きな時代劇を問われたら、市川歌右衛門が演ずる痛快時代劇「旗本退屈男」か。時代劇に登場する代表的なものに庶民長屋がある、長屋の管理人の大家さん、家賃の取り立て以外に、今でいう行政書士や民生委員の役目を勤めながら長屋の住民から親のように慕われた存在だ。悪代官、悪徳商人、大店のどら息子、怠け者の大工や植木職人、傘張り浪人など日銭を稼ぎながらの貧乏人達が登場するが、令和の御代でも名称は違っても似たようなのは存在する。居間、食堂、寝室を兼ねた一部屋の庶民長屋、今で言うワンルームマンションだが、長屋全体が大家さんを中心に堅い絆で結ばれている情景は、福祉の原点を見ているようで、ほのぼの気分に。時代劇

  • 年賀状じまい

    年賀状じまい等で年々少なくなって今年は80枚程になった。当選番号が発表され、毎年2,3枚が当たる利用することもない切手シートでも、初めて当選ゼロとは少々寂しい。高校2年生だった昭和24年12月1日に初めて発売された年賀状も、メールやSNSで、年賀状を書く手間、節約のため、高齢者層の終活などで、年々減少の一途、何れ無くなるような気がする。年賀状について本音の意見を聞いたら、47.4%が「そのうちやめたい」、22.7%は「すぐにでもやめたい」、「まだ続けても良い」は24.0%で、7割がやめたいと思っているそうである。爺は今のところ、自ら年賀じまいのご挨拶をするほど気力は落ちていないので、現役時代から添え書きのある知人、友人、後輩からの年賀状だけは、楽しみながら書き続けていきたい。年賀状じまい

  • 要支援認定申請

    今年の誕生日が来れば91歳になる老夫婦、日常の簡単な家事は共同でやりながら、介護のお世話にならずに何とか自立した日々を過ごしているが、大きな家事は無理になった。壁掛け時計の電池交換、蛍光灯の取り換え、高所の作業などは便利屋さんに、庭木の剪定を庭師さんに頼んでいるが、寝具類の洗濯や入れ替え、大掃除、室内のバリアフリー化を思料している。実態を見た、関東にいる長男(64歳)と次男(59)歳の判断ですすめた要支援認定申請に基づいて、去る1月15日に2人の息子の立ち合いの中で調査員による調査を受けたところ。調査項目が75項目ですと言われ、日常生活の実態、認知機能、歩き方、寝返り、手足の動き等々で約一時間ほどを要した。要支援対象の是非についての認定まで約一か月ほどかかるらしい。要支援認定申請

  • 救急車

    アメリカやドイツなど救急車の出動が有料の国では、1回の出動ごとにおよそ数万円から10万円程度の費用を請求されるそうで、日本は無料で病院へ運んでくれるのでありがたく感謝あるのみである。誰も乗りたくもない救急車に4回もお世話になったが、乗用車と違って乗り心地は極めて悪い。タイヤが路面からの衝撃を和らげるためのサスペンションと言う部品が固いためだと知る。救急車は患者さんを乗せて、急いで搬送するので一般的な車に比べて激しい運転をすることが多くなり、乗り心地の良いふんわりとしたサスペンションでは車体が不安定になってしまい、危険になってしまう。また、救急車は中で救急隊員が作業をするので車自体が高く重心が高いので、コーナーを曲がった時にひっくり返らないように、固い足回りにしているといった理由だとか。救急車

  • 御 用

    一般的には、新年が明けて仕事を行う1月4日を仕事始めと言うが、それに対して役所などの官公庁では、今では耳にしないが、新年が明けて初めて公務をする日を御用始めと呼んでいた。民間企業でも、1960年代ごろまでは御用始めという言葉が使われ、テレビやラジオのニュースなどでも使われていたらしいが、固い印象があるため、現在はあまり使われていない。時代劇などでよく見る「御用だ!御用だ」と役人が叫ぶシーンは罪人を捕まえる公務(御用)を行っているという意味で、罪人に対して「おとなしくしなさいという意味だとか。幕末に活躍した新撰組の有名なセリフで「御用改めである」という言葉を現代の言葉に置き換えると「我々の公務である取り調べを行います」という意味になるんだそうで。御用

  • 大きな揺れ

    元日に発生した能登半島地震に正月気分も吹っ飛んでしまい、こんなに大きな揺れは90年の人生の中で初めて体験した。横揺れで倒れそうになった食器棚を夢中で抑え事なきを得た。昭和39年6月16日に発生した新潟地震を思い出した。爺は前日の15日に帝王切開で次男を出産した家内のベットの傍にいた時だった、身動き出来ない中で揺れの止むのを待った。地震の直後からファンヒーターもガスコンロも使えなくなった。近所の奥さんがメーター機の安全装置が作動したのだとの助言で、ガス会社ホームページの動画のとおり操作して復帰させた。翌2日午前は、子供、孫、親せき、知人からのお見舞いの電話対応に追われた。年始の決まった挨拶は程々に、地震の話題に終始する長電話になってしまった。大きな揺れ

  • 新年になった

    「爺の世間ばなし」を訪れてくれる読者の皆さん,明けましておめでとうございます。お陰様で初投稿してから17年になりました。今年も是非お立ち寄りくださいますようお願いします。「1年の計は元旦にあり」、老夫婦にとっての計は、今年も転倒→骨折→寝たきりにならないことだけ、入浴時や外出時には必ず「転ばないように」と夫婦の間で声を掛け合っている。楽しかったお正月と言えば、幼い頃の孫たちと一緒に過ごした時と、小学生の頃に近所の子供たちと、炬燵を囲んでトランプ、花がるた、百人一首で遊んだことが懐かしく思い出す。幼稚園の頃から一人で我が家に来ていた孫娘のUちゃんが二人目の子を身ごもっており2月の出産を待っている。今度は男の子だとか、爺にとっては3人目のひこ孫の誕生、安産を祈っている。新年になった

  • 今年も僅か

    夫婦ともに卒寿を迎えた今年もあと僅か、ひ孫の誕生で喜んだり、救急車の世話になったり、建設的でない口争いをしながらも大きな災いもなく新年を迎えられるようである。今年最後の「爺の世間ばなし」も、2007年5月2日に初めて投稿してから今日で1111回になった。つたないブログだが愛読してくれる読者の存在が励みになって続いている。高齢で年賀じまいをする仲間が多い中で、爺は今年も20日には投函、元旦の配達に間に合わせた。職場の後輩21人に昔の顔を懐かしく思い出しながら添え書くのが一番楽しい。神棚と仏様の埃を落とし鎮守様の新しいお札を納めたところ、仏様は毎朝お線香とローソクをともして手を合わせるが、神様には31日一年のお礼を申し上げ、翌1日には一年の健康を願う。今年も僅か

  • 我が家の環境

    平成元年4月に現在の地に転居して35年目になる。周りは野菜やスイカ畑に囲まれ、キジが悠々と歩き回り、ハトが集団で飛び回り、スズメが砂浴びしている喉かな情景だつた。今ではほとんどの畑が学生マンションや駐車場と化してしまった。残った我が家の前の畑も持ち主の高齢化で昨年二軒の住宅に変わり、裏手の畑には三階建てのアパートが建設中である。我が家の東側に隣接する15区画の駐車場も、近隣にマンションが新築されてから満車近くになった。以前は地方出身の大学生たちが、駐車場で談笑する賑やかな場だったが今はない。毎年、春になると見慣れない学生と出会い、声を掛け合う楽しい雰囲気があった。一度声をかけると、翌日には挨拶が返ってきたものだが、現代っ子は声掛けしても何の反応もない。我が家の環境

  • 年の暮れ

    我が家の年の暮れの定例行事は、お歳暮、年賀状、餅つき、元気な証拠として続けているお歳暮を今年も贈ることが出来てホッとしているところ、掃除は神棚、寝間、台所、居間だけ。明るい話題は2月22日、ひこ孫の莉音ちゃんが生まれたこと、写真や動画を毎日スマホで見るのが何よりの楽しみ、今は髪も増えて女の子らしく、伝え歩きするようになり、順調に成長している。暗い話題は、借金もしていないのに、3日の朝のこと、首に違和感があり9時頃には痛みに我慢できなく、5年前の心筋梗塞時以来4度目の乗り心地の悪い救急車のお世話になった。3月に爺が、8月に家内が、90歳の壁を越え、諸動作が鈍くなり、無理できないので、家事は全て共同作業。残り少なくなった一生を大切に新年を迎えたい。年の暮れ

  • 首が痛くて

    12月3日(日)朝のこと、首から肩にかけて寝違いたような痛みを感じたが、時々あることで気にもしなかったが、9時頃になったら強い痛みが首全体に広がり我慢できなくなった。緊急ボタンを押して警備保障会社に通報、混んでいたらしく救急車が来るまで時間か掛かった。救命士からの質問に症状を一通り説明後、病院が決まるまでに車内での待機時間は長く感じた。近くの病院はダメで、遠い新潟脳外科病院に運ばれた。脳と頚部のMRI、心電図、を終わってからは痛みに耐えながら待機、午後1時半ごろ主治医から「急性項部強直」と診断され、内科的には異常無く帰宅。4日は痛み止めの座薬で痛みは少し和らいだが、5日市内の整形外科で頚部のX線撮影、ブロック注射、電機治療を、痛みが止まるまで一週間ほどかかると言われたとおり、9日には湿布不要になる。首が痛くて

  • 歩いたもんだ

    ある調査によると現代の子供たちは昔の子供たちに比べると一日の歩数が激減して、30年前の子供たちは一日の歩数が27000歩だったが現代は13000歩になっとある。戦時下だつた国民学校初等科時代は体力向上のため行軍と言う名の下で遠足が頻繁に行われていた。4年生の時だった隣村まで1時間近く歩いてからの登山は虚弱体質だった爺には堪えた。田舎育ちの爺、小学生で低学年の頃のこと、疲れも知らずによく歩いたもんだと思い出すのが、夏休みに上級生に連れられて荒川の河口でのハゼ釣りに、片道一時間以上は歩いたと思う。また同じころ、両親と新潟市へ遊びに行った時も、新潟駅から万代橋を渡り、大和デパート、小林百貨店、白山公園、昭和橋経由で新潟駅まで歩いたとは驚き、新潟を知る人なら分かるかと。歩いたもんだ

  • 大相撲雑感

    新潟市出身の時津風部屋の豊山が3役の壁に向かって足踏みしながら引退、佐渡市出身の元十両朝乃若も幕下で足踏み状態、郷土の関取二人とも姿を消してから、テレビ観戦は少なくなった。元大関の高安、御嶽海、正代3力士たち再挑戦する意欲を感じないのが気になるし寂しい、不祥事で幕下から再起した元大関朝乃山も幕内優勝して賜杯を手にした頃の強さは見られない。期待している将来が楽しみな力士として、二所ノ関部屋の22歳の大の里である。192cm177kgと恵まれた体格の大の里は全日本選手権連覇を果たすなど、将来の横綱候補と呼び声も高い。幕内最年少の21歳186センチ182キロの熱海富士がさえている。元大関魁皇の審判長は「力を付けた」と,また元横綱白鵬も「細かい相撲が取れるようになった」と、楽しみな力士である。大相撲雑感

  • ナンプレ

    脳に適度な刺激が加われば、脳内の血流が良くなり脳が活性化されることで認知機能の低下を防ぐことができるので、結果的に認知症の予防効果が期待できると言われているが。精神科医の和田秀樹氏によると、ナンプレは同じような問題を解いても脳が慣れてしまい、問題を解く能力は上がるが、特定の脳の部位は鍛えられ、認知機能までは上がらないと言ってる。イギリスで最も権威がある新聞の一つであるデイリーメイル紙には、ナンプレには主に三つの効果があることが分かったと、脳の健康を保つこと、イヤマームを治すこと、記憶力を改善すると。効果のほどは色々と言われてるが、暇つぶしにナンプレを楽しんでから1年近くになる。現在の正解率は初級が100%、初中級が52%、中級が50%、今の実力は初級と中級の中間位か。ナンプレ

  • 読売巨人

    プロ野球の公式戦日程が終了した、セリーグは阪神、パリーグはオリックスと関西勢同士の日本シリーズは老いても巨人ファンの爺には関心が薄く、翌朝にパソコンで結果を見ただけ。昔から巨人には常勝という使命があり、常に優れた成績を維持することが求められ、2位も6位も一緒なのである。監督コーチ陣は、采配が疑問だ、休養だ、交代だと騒がれるのも宿命である。選手の獲得競争中、現代っ子は職場環境を重視するようになり、原監督の好き嫌い人事や使い捨て起用、阿部新監督のパワハラ気質が懸念され、球児の憧れだった巨人では無くなったようだ。オリックスから近藤大亮投手が巨人に移籍が決まった。背番号は江川卓氏が背負った「30」、小さい頃から巨人ファンで阿部監督の下敷きを使っていたとか、期待したい。読売巨人

  • 身近の技術者

    フルセルフレジ、セミセルフレジのスーパーが増えてきたが、爺はフルサービスのレジを利用している。マイバックに瞬時に手際よく商品を詰めてくれるレジ係の腕前は技術者である。4日は、何時もの庭師さんと助手の二人が来てくれた。イチジク,梅、松、月桂樹,ネズミモチの剪定を2時間ほどで終わった。終わった後の樹形の美しいこと、その道のプロだと実感する。11日は床屋さんへ、ベテランの中年女性A子さんにお任せ、四方山話をしながら終了まで80分、手探りで髭を探す柔らかい手は心地よい眠りの世界に連れて行ってくれる。パソコンに出会って22年になる、今はパソコン相談所の会員になってトラブルや疑問があると電話や往診して指導してくれるKさんに尋ねると知らないことは無い心強い技術者がいる。身近の技術者

  • 加齢による症状

    爺に内緒で老化が着々と進んでいるようで生活動作が鈍くなってきた。筋力が低下し柔軟性がなくなり、神経の伝達速度が遅くなったことから、素早く動けなくなったのだとか。朝晩の着替えで、特にズボンを履く時に、立ったまま最初に左足はスムーズに履けるが、次に右足を履く時は柱や壁に寄りかかり、ふらつきながらも転ばないよう慎重に履いている。スーパでの精算はクレジットカードだが、病院、コンビニ、書店、ホームセンター、タクシー、バスなどで精算する際の財布から現金の出し入れが手間取り歯がゆい思いをしている。もの忘れ、就寝時にトイレの回数が増えた、耳が聞こえづらくなった、夕方に目が見えにくくなった、階段を上りに息切れする等、誰にでも起こる加齢による症状が揃ってしまった。加齢による症状

  • 年賀状

    今年も年賀はがきの発売が始まり発売初年度の昭和24年12月1日から75年になる。年賀はがきのアイデアは、京都在住のアマチュア画家で林正治さんと言う方が考案したものだと知った。爺の年賀状住所録には69人、家内は24人の氏名が記載されてる。彼の地に行かれた先輩の皆さんや年賀終いされた皆さんなどで、現役時代の半数近くになってしまった。発売初年度時は高校2年生だった。初年度から年賀状の交換しているのは、唯一同級生のN君だけである。彼とは学生時代、社会人を通して親しい間柄でなかったのに不思議な友である。退職してから32年も経っているのに、まだ現役時代の職場の21人の後輩からコメント付きの年賀状がくる。懐かしく、楽しみで、元気づけられている。みんな爺ちゃん婆ちゃんに。年賀状

  • 短気だった父

    地震雷火事親父の諺どおり、爺が子供の頃の父は短気な人で怖い存在だったが、国鉄を定年で退職してから74歳で一生が終わるまでの父は別人のように優しい人に変わった。爺が兄のように慕っていた5歳年上の従兄の仁さんが言っていた、「お前の両親は夫婦喧嘩が絶えなかった」と、爺も小学生の頃は父が大嫌いで、父が夜勤の日は嬉しかったもの。察するに爺が3歳前後の頃か、爺は母親に手を引かれて玄関の土間に立っている、何やら叫んでいる父、父をたしなめているお婆ちゃん(父の母)の情景を覚えている。今に思えばSLの機関助手、機関士として、狭い運転室の中で、夏は高温、冬は厳寒、激しい振動の中での長い乗務時間は重労働であり、特に夜勤明けは疲れていたのだろう。短気だった父

  • 年を取った

    90歳の壁を越えてから8か月、一生が間もなく終わる年なんだと思うようになった。こんなに長生きするとは思ってもみなかったが、楽しいことも嫌な思いいもしながら生きてしまった。90歳3か月になる老妻とともに、2時半前後には起床、5時半朝食、11時昼食、4時半夕食、入浴をすませば、6時には寝床でテレビを見ながら睡眠の日々は、世間様とずれている。定期の外出は3日に一度のスーパでの食料補給と月に一回かかりつけ医から薬の補給だけ、3度の食事だけは欠かすことなく、美味しく食べ続けていることが、長生きの要因になっているのかも。夫婦ともに風邪一つ引かず、健康状態は良しとするが、寄る年波には勝てず、生活動作が鈍くなり、掃除、洗濯、炊事などすべての家事は共同作業で何とかこなしながら自立している。年を取った

  • クライマックスシリーズ

    毎年のようにクライマックスシリーズが始まるとネット上でファンから不要論が飛び交うが、ある調査によると半数近くのファンは継続してほしいと考えている人が多いとか。C・Sは、レギュラーシーズンの優勝チームが早々に決まっても、2位、3位争いへの興味・関心が維持され消化試合が激減し、またチケット、グッズ等の売り上げにもつながっていると言う。2010年のペナントで3位だった千葉ロッテがC・Sで勝ち上がって、日本シリーズで中日を破り「史上最大の下剋上」と呼ばれ、日本一に輝いたことから不要論が起きたようだ。巨人OBの江川氏が1年間必死で戦ったペナントを簡単にひっくり返されないようにするため、1位チームには2勝、2位チームには1勝のアドバンテージを与えるべきと提案している。クライマックスシリーズ

  • 寝床で転ぶ

    10月8日~9日、長男夫婦と上越市の鵜の浜温泉へ軽自動車で久しぶりの旅で疲れたのか、夜半に小用のため寝床から起き上がる際によろけて、傍にあった座椅子に当たり左耳を負傷した。座椅子に当たった左のみみたぼの一センチほどのキリ傷から出血で、長男夫婦から応急措置をしてもらったが、血液サラサラ服用をしているので、血が止まるまで時間がかかった。翌朝には傷の痛みも和らぎ、出血は収まったものの、頭を動かしたり、車中で段差のある道路を通過する時に軽い頭痛があったが、疲れのためだろうと気にもせずに過ごした。11日夕方になっても頭痛は収まらず、左の首から背中にかけての痛みも出たので、翌12日病院で脳のCT検査、頭痛は出血によるもの、首と背中の痛みは筋肉痛と診断された。寝床で転ぶ

  • バスの車内で

    我が家から日頃利用しているバス停まで徒歩2分、新潟大学への通学道路であることから、土曜日曜以外はバスの運行本数も他の路線に比べると多いので便利に利用している。通学時間帯以外は何時も客は数人程度であるが、通学時間帯では大学生で満員になり、吊革につかまって乗車することがある。座っている学生たちはスマホに夢中、席を譲る気配はなかった。膝に違和感があり杖をついて乗った時は席を譲ってくれたのに、多分、軽快な服装と息子からもらった若者向きの帽子、マスクを付けて、動きも普通なので爺を若く見積もったのかも。爺が利用するバスは、大学生と買い物、通院のための高齢者が殆ど、乗り降りははカードをタッチするだけ、爺のように現金で支払う客は少なく、昔のバスとは随分と変ってしまった。バスの車内で

  • 笑いも色々

    免疫学の権威で新潟大学の安保教授(故人)が、笑いは体の免疫力を高め、血液の流れを活発にするので、笑わない人にはコチョコチョしてでも笑わせなさいと言うほど笑いを勧めていた。動物の中で笑うのは人間だけだが、笑い方は人それぞれで、エネルギーが消耗するほど大声で大笑いする人もいるし、小笑いと言うか頬をゆるませるだけの人もおられる。安保先生は人の顔には笑顔を作るための表情筋が36本あるが、年をとるにつれて表情が乏しくなるので、日ごろから唇の端を意識して上げて、口元をニッコリとする練習を薦めていた。カラスの鳴かない日があっても、テレビで手をたたきながら笑ってる番組を見ない日はない、出演者の性格にもよるが、大げさに笑って見せることで番組の雰囲気を盛り上げているのであろう。笑いも色々

  • タクシー業界

    全国のタクシー運転手の平均年齢が令和3年の調査によると60,3歳と高齢化していると言う。確かに日頃スーパーと通院でタクシーを利用しているが若い運転手に出会ったことは無い。運転免許返納してから1年以上になるので、タクシー運転手とも顔馴染みになり、話好き運転手に出会うと短時間の乗車だが、会話が飛び交い、タクシー業界の現状を知ることもある。祝日の9月23日、何時ものように買い物のためタクシーを頼んだが、行きは30分待ち、帰りは1時間待ちとなった。お彼岸でお墓参りで混んでいるのだろうと思っていたが。運転手に尋ねたら、タクシー利用者の殆どは高齢者の通院に利用するのが実態なので、病院の休診日である日曜祝日は、会社は経営上から運転手を半分にするそうで、以後は日曜祝日は買い物は控えてる。タクシー業界

  • 今年の夏は

    暑中見舞い、残暑見舞い、極暑見舞いをメールし合った今年の夏も、「暑さ寒さも彼岸まで」の慣用句のとおり、凌ぎ易くなって、昨夜から夜間のエアコンも途中で停止うするようになった。「辛いこともいずれ時期が来れば去っていく」という意味の諺としても用いられている、低体温のためか、寒さに弱いが、暑さに弱音を吐くことのない爺も、今年は辛かった。確かに年を取ってからは、普段は朝茶と食後の白湯を飲む以外の水分を取ることは殆ど無いが、今年だけは当局からの指示通りエアコン、扇風機の使用、こまめに水分補給を続けた。植えてから20年ほどになる我が家のイチジクも今年は夏バテしてしまった。毎年老夫婦だけでは食べきれないほど収穫で、ご近所の親しい方々にお裾分けしていたのも、今年はお詫びを。今年の夏は

  • バスの乗り違い

    今月17日のこと、新潟は熱中症アラートが発令された暑い暑い一日だつた。家内に頼まれ買い忘れた品を買いにスーパーまで乗り慣れたバスに乗ったが、方向違いのバスに乗ってしまった。乗ってから直ぐに気がつき、間違ったので止めてくださいと運転手に頼んだが断られ、次のバス停で下車、料金はよろしいと言われ、乗車したバス停まで10分ほど、ゆっくりと歩いた。買い物する元気もなくなり帰宅、シャワーで汗を流し着衣を全て洗濯、翌日の敬老の日に改めて買い物を、慎重に行先を確認してから乗車、治らないせっかちな性格にあきれるばかり。90歳半ばになった爺が、暑い中を、ゆっくりとは言え厳しかった、熱中症にもならず家にたどり着いた時は、正直のところホッとしたが、二度と繰り返したくない。バスの乗り違い

  • 個人差

    加齢は平等だが老化には個人差があり、生来の体質、生活習慣や環境によって老化に大きな差が出ると言われている通り、同年代でも若々しい人と老けてる人はいる。90歳の爺、周囲からは若く見られるが、生活動作は鈍くなり、もの忘れ、就寝時トイレの回数増、難聴、目がかすみ、ひざ痛等々、外観では見えない自然老化が進んでる。72年前卒業の高校から今も年度初めに「同窓会だより」が送られてくる。卒業年次順に登載された同窓会費納入者名に同級生が8人、高校時代には、頑健なタイプではなかったのに。小学生時代は3月生まれとあって小さくて虚弱体質の爺が生きながらえ、相撲の選手であり、健康優良児だったK君が70歳代で亡くなるとは、寿命の個人差は極端だ。個人差

  • 運転経歴証明書

    運転経歴証明書の交付年月日に枝番があるので調べたら、枝番号の1は「優良運転者」、2は「一般運転者」、3は「違反運転者」を意味していると知ったところ、ちなみに爺は1番。運転経歴証明書により自治体ごとに恩典があり、新潟市の場合は市内のハイヤータクシー料金が一割引きになる。日頃の買い物、通院などで有効に利用させてもらっている。乗車時に運転経歴証明書を運転手に提示することで、降車時に一割引きの料金が請求される。運転手は信号待ちの間や降車時に運転経歴証明書の交付番号と氏名を記録している。運転手の性格なのだろう、爺の顔も名前も家も知っているのに、乗車の度に運転経歴証明書を確認して記録する人も居るし、「分かります」と言って提示を求めない人も居られる。運転経歴証明書

  • 昔の事務室

    昭和26年から半世紀にわたる事務職員生活から解放され、年金生活も23年になる。現在の事務室の情景は様変わり、冷暖房完備の部屋で無言でパソコンと向き合っている。昭和60年頃に、冷房施設が完備されるまでは、半そでの肌シャツ姿、頭に濡れタオルを乗せたり、ウチワとタオルを交互に使いながら自分なりに工夫したクールビズだった。事務用品と言えは、針金で作ったクリップ、和紙で作ったコヨリ、スタンプ台、指サック、スポンジ、ナンバリング、鉄筆、カーボン紙など、懐かしい品々も今は目にすることは無い。机の片隅には、灰皿と茶飲み茶碗が置かれ、仕事の区切り毎に煙草を吸ったり、お茶を飲んだり、同僚と軽い会話をしたり、気持ちを切り替えながらマイペースでの事務処理だった。昔の事務室

  • この頃

    新聞の広告欄には、毎日のように中高年が悩んでいる腰痛、ひざ痛の薬や単行本の紹介記事を目にする。作家の五木寛之さんが「こども庁」よりも「ひざ・こし庁」を設置したらとは、同感である。70代の元々文才に長けた知人の女性からの残暑見舞いに、「信じられない暑さ続きは、地球が病気で熱があるんでしょうか」とは、気に入ったので、さっそく仲間への極暑見舞い文に拝借。子供の頃から食事の前や外から帰ってからの手洗いの習慣は無く、雑菌と共存しながら生きてきたが、コロナが蔓延してから初めて丁寧な手洗いとうがいの習慣が身についた。゛運転免許返納してから1年を過ぎた、バスの利用にも慣れ、タクシー会社に電話をしても毎度どうもの一つ返事、運転手も馴染みになって自宅までの道案内はしないでもよくなった。この頃

  • 高校野球 雑感

    何時も高校野球全国大会が終わると夏休みの終わりを感じる。今年は慶応高校の107年ぶりでの優勝で幕を閉じたが、開催時期、会場、応援の大きすぎなどで問題提起された年に。高校野球ファンの中には、あまりの声援の大きさが相手に過度なプレッシャーを与え、仙台育英は完全に“アウェー”の状態となってしまったとネット上などで賛否両論が。甲子園出場校ともなれば、野球部員は100人以上いるという、ベンチ入りの20人以外は試合に出る事もなく、ユニホームを着てスタンドで応援するだけで卒業する部員たちに大声援を。春夏ともに甲子園で優勝したことがない県は12県だとが、何時の日か、夏の甲子園での「深紅」の優勝旗か、春の甲子園での「紫紺」の優勝旗を越後に持ち帰る日を気長に待っている。高校野球雑感

  • 超高齢者に

    日本老年学会と日本老年医学会は、高齢者の定義を現在の65歳以上から75歳以上とし、65歳-74歳は「准高齢者」、75-89歳を「高齢者」、90歳以上を「超高齢者」とすべきと提言している。爺は3月に90歳になり、続いて今月16日には家内も90回目の誕生日を迎え、共々介護のお世話にならずに超高齢者の仲間入りしたところ、当日も二人でスーパーで買い物を楽しむ同世代の上皇后様が上皇様にタッチしながら歩くお姿をテレビで拝見する。我が老夫婦も自立しているとは言え、動作が鈍くなり外出時には家内は爺の衣服につかまりながら歩く。超高齢者は、食料の買い出しと通院以外は不要不急のことばかり、今はラインで送られてくるひ孫で2歳半になる紗奈ちゃん、6か月になる莉音ちゃんの写真、動画を見るのが一番の楽しみ。超高齢者に

  • バス停でのこと

    バスで郵便局、銀行、電気店、本屋、100円ショップなどで用を足しているが、利用客の殆どは学生と高齢者で、バス停でバスを待つひと時、声を掛けたり、かけられたりする。暑い日差しの中で傘をさしていた高齢の男性に、珍しかったのて「その傘は日傘ですか」と尋ねたら、雨傘と兼用の日傘で、市内の傘専門店で3000円ほどで買ったもので便利ですよ」と。暑い日だった、男女2人ずれの大学生から「おじさんはどうして長袖を着ているんですか、暑くないでか」と、「低体温でエアコンに弱い体質なんだよ」と、不思議そうに首をかしげていた。リックを背負い、杖を使っていた70代と思われる女性に買い物ですかと尋ねたら、「通院の帰りで今日はゲキコミ」だったと、一瞬理解できなかったが大変混んでいたということかと。バス停でのこと

  • 小さな楽しみ

    キャベツの外側の葉はビタミンCが多く含まれているそうだが、硬くて汚れているので捨てられるため、何処のスーパーでもキャベツ売り場の傍には捨てる容器が用意されている。キャベツは虫たちの大好物であると知り、我が家では捨てることなく持ち帰り、庭の梅の木の周りに置くと、いろんな虫たちが集まり、あっという間に芯だけになっしまう。ご飯を残すと目がつぶれると言われたり、戦後の食糧難時代を体験した世代のためか、米櫃から零れ落ちた米も、台所流し台の排水フィルターにたまった米やご飯粒も全て我が家を訪れる雀に与える。新潟日報紙に86歳のお婆ちゃんが、寄る年波でパンの耳が苦手になったので、小さくちぎって玄関のたたきに撒いておくと、スズメが喧嘩しながら食べている様子を楽しんでいるとか。小さな楽しみ

  • スマホ

    スマホを操作する高齢者も年々増加、60歳代で90%、70歳代で80%になるという。高齢者の歩きスマホは見かけないが、病院の待合室での座りスマホ姿が増えてきた。スマホ操作のスタイルは10代~20代の若者はスマホを右手持ち・右手親指を器用に使って軽やかに操作しているが、年配層は左手に持って右手人差し指で、ぎこちない操作。固定電話が、左側に受話器とコードがあり、受話器を左手で取って左耳に当て、右手で番号をプッシュ、メモを取る習慣が染みついた年配者は、スマホを左手で持つ習慣になったようだとか。現代社会においてスマホは必要不可欠なアイテムではあるが、スマホ依存による脳の過労が原因で、若年性認知症に繋がるリスクがあると注意を喚起されているが。スマホ

  • この頃の爺

    低体温の爺も毎日が暑くて冬が恋しい。当局からの指示どおり、外出を控え、エアコン、扇風機,うちわをフル活用、時々冷水を口にしながら、、ブログ、エッセイ,読書、ナンプレで楽しんでる。この時期に午後から夕方にかけて雷を伴って突然降り出すどしゃぶりの雨、短時間で止んだ後の涼しさは近年は無く、お日様の光に合わせて鳴き始める蝉の声も聞こえてこない。5年前の心筋梗塞術後一年毎の検診結果は、心臓に変化はないが、血液検査でカリュームの数値が基準値を0.1超、生野菜と果物は控えるよう指示されたが、スイカの季節、気にせずに毎日食べている。ゆうパックで知人に送ったスイカを一週間後に、破損したので弁償するからと損害賠償申立書類一式が送られてきたが返送、責任者が来訪して経過説明とお詫びがあって落着したところ。この頃の爺

  • 懐かしの情景

    近頃では見られなくなったが、暑い日の午後から夕方にかけて雷を伴って突然降り出すどしゃぶりの雨が、短時間で止んだ後の涼しさ、お日様の光に合わせて鳴き始める蝉の声。子供の頃、夜は暑くて早々に寝床に入ることはできないので、大人は玄関先で長椅子に座り夕涼み、ご近所同士で世間話が弾んだり、子供たちは蛍をとったり線香花火で遊んだり。子供のころ、夏は、いつも一つの蚊帳の中で両親と一緒、蚊を入れないために蚊帳の出入りは、できる限り体を小さく、かがんで入ることを親から、きつく言われているもの。蚊帳の中に紛れ込んだ一匹か2匹の蚊を越中褌姿の親父が,ロウソクの炎で退治する姿を見て育った爺、見よう見まねで覚えた技、蚊帳を焼かないように対峙するコツがあった。懐かしの情景

  • 一番古い記憶

    90年の人生の中で一番古い記憶をたどって見たら昭和12年4歳の時である。県北の城下町である村上市の旧制女学校の隣り合わせた借家に住んでいた時のことである。学校敷地内にあった学生寮とは目と鼻の先にあり,寮から窓越しに、女学生たから声をかけられ遊んでくれたのを鮮明に覚えている。後に当時の女学生だったという80歳のご婦人と偶然の出会いがあった。隣りの家はお巡りさん、何か悪さをする度に「隣のお巡りさんに言いつける」と親からの決まり文句、子供心に、サーベルを携えたお巡りさんの姿を恐る恐る遠くから見ていたもの。昭和13年5歳の時、父の勤務地の保内村(現村上市)へ転居する。新築の2軒長屋が3棟あり、右隣が、爺に初めての魚釣りを教えてくれた齋藤さん、左隣の松木さん、同い年のK君がいた。一番古い記憶

  • リュックサック

    若者から高齢者まで利用されているリュックサック、爺も近くの店まで買い物に出かける時は、リュックサックを背負う習慣が身についたところ、中高校生の殆どは腰に、大学生は背中に背負ってる。女子高校生達の背負い方は、みんなお尻近くにぶら下げている。孫娘も高校生の頃に、リュックサックをお尻にぶら下げてやってきたので、訳を聞いたら「ファッションの追及」だと言う。、当初は違和感もあったが、最近は見慣れたせいか、歩きながらリュックサックが踊っている後ろ姿が可愛らしく見える。ファッション雑誌で進められたスタイルで女子高校生ならではのおしゃれ感覚である。ズボンの腰履き(腰パン)などの流行に伴い広まったという。背負う位置で個性を演出できるのが、リュックの魅力でもあり、重さ2キロ以内で1時間程度なら、体に大きな負担はないらしい。リュックサック

  • 高校野球が始まった

    高校野球の地方予選が始まった。甲子園を夢見ていた球児たちによる熱戦が繰り広げられる大会で、選手もスタンドも地元も一体になって一喜一憂、勝って嬉し泣き、負けて悔し泣きのドラマである。開会式での高校球児たちのさわやかな入場行進は、干し柿のように焼けた顔で力強く整然と歩く姿が何とも頼もしく、日頃、巷で見る高校生とは別人のように見える。こぶしを握り,甲を前に向け、肩まで腕を振り上げ、足を高く上げて歩くのが軍隊調だと言う人も居られるし、高校野球の人気の一つだと言う人も居られるが、個々の感じ方次第であろう。新潟県代表校の殆どは、甲子園で校歌を歌うことが少なく、砂を持ち帰るだけで、野球不毛の地と呼ばれている。残念ながら、春夏ともに甲子園で優勝したことがない十二県に名を連ねている。高校野球が始まった

  • 卒寿の日常

    この頃、高齢者同士の最初の挨拶は、「お元気ですか」と聞いたり、聞かれたりして始まり、日常生活動作に大きな支障がない限り「元気です」とか、「何とか」と受け答えしている。今のところ卒寿の老夫婦、室内での起居動作・移動・食事・更衣・排泄・入浴・整容は手間取りながら不自由はないが、掃除・料理・洗濯・高所の作業などは程々に手抜きをしている。爺は、ゆっくりと歩いて10分ほどの本屋と100円ショップを利用しているが、家内は目が不自由になり転倒防止のため、外出時は爺につかまりながら、一人での外出は控えている。夫婦そろっての唯一の外出であるスーパーの買い物が出来て、3度の食事を美味しく食べられ、お互い趣味を楽しみながら、大きな病気もしないで、過ごせるだけで満足している。卒寿の日常

  • おにぎりの思いで

    小学校低学年だった昭和10年代半ば,家庭にオヤツが常備されていなかった。学校から帰ると必ず「母ちゃん何かない?」と言うと、味噌か塩をつけた小さなおにぎりだった。。遠足に持っていくおにぎりの具は梅干し、全体を海苔で巻いたものがお決まりだが、農家の子供たちが味噌を塗って、こんがりと焼いた大きなおにぎりが、美味しそうで食べたかった。戦争末期の昭和20年の6月に農家への勤労奉仕で、除草機での田の草取りをした。小昼(こびり)と称して10時に出される塩むすびの味が今も忘れないでいる、コシヒカリよりも美味かった。昭和46年の単身赴任時に下宿のお婆ちゃんから、おにぎりを用意してもらったことがあった。ご飯茶碗二膳分のおにぎり2個、当時38歳の爺に「若いもんは、これくらいは食べなさい」と。おにぎりの思いで

  • クニスケ先輩

    2007年春のこと、74歳だった爺は家内と市内の小さな民芸館を訪れた。経営者は県衛生部の先輩で新潟県衛生研究所臨床検査技師のクニスケさんだと知り、趣味で集めた民芸品を公開していた。小生も家内も衛生部の後輩だったことから、初対面なのに現役時代の共通話題に花が咲いてしまった。クニスケさんは91才、84才の奥さんと共に年齢を感じさせない若さと元気にびっくりした。その後も折に触れ訪れて食事やお喋りしながら親しい間柄になってしまった。何時も帰りには家内の手を両手で握り締めながら「また来いや」と、すっかり家内が気に入られてしまった。2015年2月、綺麗な仏様になって行年100歳で旅立たれた。前年の秋にお会いしたのが最後、今に思えば別れの挨拶だったのか、よく来てくれたと初めて涙を流して喜んだ姿が忘れられない。クニスケ先輩

  • 忘れられないユミ子姉さん

    平成16年の初秋のこと、ドライブしながら誰が導いてくれたのか、演歌歌手三波春夫さんの出身地である長岡市塚野山にある豪農長谷川邸ゆかりのユミ子姉さんとの偶然の出会いがあった。爺とは野球談議、戦前の中等学校野球(現在の高校野球)で活躍した大投手の嶋清二、戦後の阪神タイガーズの強打者,別当薫など甲子園で活躍した名選手の話題は目を輝かせながら話してた。家内とは、花と編み物が共通の趣味であったことから、屋敷内に咲くの四季折々の色々な草花や編み物の話題になると意気投合してしまい、尽きることなく語り合っていた。誕生日は昭和天皇と同じ4月29日日生まれ、「大勢の皆さんがお祝いしてくれるのよ」と笑いながら冗談を言っていたが、平成天皇誕生日の12月23日に亡くなられるとは、因縁深いものを感じる。忘れられないユミ子姉さん

  • 生活習慣

    概ね午前2時半起床、5時朝食、11時昼食、16時夕食、17時入浴、18時就寝のリズムが定着した卒寿の老夫婦になったら、周囲の皆さんとの生活リズムが合わなくなってしまった。お互い生活動作が鈍くなって、家内専門だつた食事作りも、配膳、洗い物など単純作業は爺が積極的におこなっている。外食するよりも家内が作る味とバランス食の方がいい。同年代の職場仲間、知人の殆どは、すでに永眠されたり、病院や介護施設や自宅で療養中の方を思えば、卒寿の夫婦がそろって買い物ができるだけで、喜びと、ささやかな優越感はある。マイカーが無くなって、食料品の買い物以外は家での生活になった今は、家内は相変わずの編み物三昧、爺はブログやエッセイ書き、ラインで流れてくる二人のひ孫の動画や写真を楽しんでいる。生活習慣

  • 僻地勤務

    半世紀にわたるサラリーマン時代の中で昭和52年~55年3月まで3年間の僻地勤務を体験した。冬は平場でも3メートル程の積雪である豪雪地帯でもあり、空は何時も鉛色だった。除雪車が頻繁に走り回っているが、路面は常に圧雪状態の日が続くので、自動車は常にタイヤチェーンを着用している。地元の人たちは全輪駆動車が多いのも生活の知恵でもあり納得である。静かな農村地帯で山間地のために棚田が多く、代掻き後の水を張った田は美しかった。犯罪のない静かな環境で警察署も暇そう、時々田畑へ向かう耕運機やバイクの免許証を確認していた。若い頃は、ネオン輝く都会に憧れていたが、今の爺は人混みのない静かな農村に憧れている。嫌なこともなかったが、楽しかったこともなかった3年間勤務した僻地に思いを馳せている。僻地勤務

  • 爺の70歳代

    高齢者専門の精神科医である和田秀樹さんが、人生100年時代の70歳代は最後の活動期であり、思春期に対して思秋期と呼んでいたが、まさに爺夫婦は全国各地を遊びまわっていた爺が70歳代の時、国のIT活用推進中とあって、新潟西郵便局で高齢者を対象としたパソコン講習を受講、「教えることは学ぶこと」とあって、後輩の高齢者に対するサポートもしていた。マイカーで県内と近県のドライブ、長男の転勤先だつた、札幌、仙台、四国、大阪、福岡への旅旅行社企画の団体旅行で、バス、新幹線、飛行機、客船を利用して全国の主要観光地へ。84歳の7月に痛風で、85歳の8月に心筋梗塞で救急車で搬送されるまでは、年に2・3回風邪を引く程度で薬とは無縁だった爺も、90歳の今は毎朝飲む9錠の薬に保護されている。爺の70歳代

  • 自家用車のない生活

    自家用車のない生活になって10か月ほどになる。特に不自由は感じないが、行動範囲も限られたことで、気分転換する機会も少なくなり、新しい話題に出会うこともなくなって物足りない。近郊にある,お気に入りの和食、洋食、中華料理、日本そば、ラーメン、すし店など、気分転換を兼ねて思いつくまま気軽に出かけ、食事を楽しむ機会が少なくなくなったのも寂しい。今の時期は、ドライブを楽しみながら、北限のお茶として新潟県内では名のある村上産の新茶を手土産に、県内各地の知人や現役時代の職場仲間を訪れて四方山話山をしていたもの。それでも卒寿を迎えた老夫婦ながら、4日に一回程度、タクシーを利用してのスーパーでの買い物ができる喜びを味わっている。時々スーパーを変えての買い物で気分転換を図っている。自家用車のない生活

  • この頃の楽しみ

    2月22日誕生の孫の莉音ちゃん3か月になった。毎日のように成長過程がラインで送られてくる写真をプリント、アルバムに収めて繰り返し、繰り返し写真を見つめるのが楽しみ。郷土の関取がいなくなって相撲への関心は薄れているが、昔から関脇が活躍する場所は活気があると言われている通り、今場所は大関を目指す霧葉山はじめ4人の関脇の相撲が楽しみ。プロ野球の巨人が、漸く投打がかみ合ってきたのか、借金もなくなり、本来の巨人に戻り嬉しい。巨人初,セリーグ初の育成出身ルーキー松井投手のプロ初勝利か頼もしく、これからが楽しみ。朝茶を飲みながら、「爺の世間ばなし」を訪れてくれるフォロワーさん達のブログを読むのが朝一番の楽しみ、お人柄を想像しながら、お顔の見えない皆さんから元気を貰っている。この頃の楽しみ

  • 学校給食

    爺が小学校3年生だつた昭和16年12月に始まった大東亜戦争下で、栄養不足の児童を対象に副食の給食が行われたことがあった。食糧事情の悪化で長続きはしなかった。3月生まれだったこともあって、クラスで一番小さい上に痩せていた爺は、確か4年生の時だったかと思う、給食の対象生徒として、お昼は別室で食べたのを覚えている。正式な栄養調査によるものでなく、見た目が小さくて痩せた子供たちばかり20人~30人程度だったろうか、学校で用意されたおかずで会食し、食後には肝油を一個貰った。こんな爺も、高校生になった頃には、身長170センチ体重60キロの青年になり、今は薬と共存しながらも卒寿を迎えて、精神的にも肉体的にも自立した余生を歩いている。学校給食

  • 家族の名前

    爺の父親は5男で当時は長男の権限は強く名付けたのは父の兄である叔父さんが3月生まれの爺を春吉としたが、両親が気に入らなかったので和雄と名付けたと聞いてている。家内は日蓮宗の寺の娘で3姉妹の3女である。日蓮宗の法華經から、長女は(法子(のりこ)、次女が華子(はなこ)、3女の家内は經子(つねこ)と生まれる前から決まっていた。2人の息子は我が家の姓が3文字なので名前は一文字とすることとして、長男は素直な子になるようにとの願いを込めて、直(すなお)と名付けた。名前の通り素直に成長したと思う。次男は帝王切開で一か月近くも予定日より早く生まれ、標準値より小さく生まれたことから、早く力がつくようにと力(つとむ)と名付けた。名前通り生まれた時から食欲旺盛で力強く成長した。家族の名前

  • 昭和8年生まれの友

    70年前の昭和28年3月は、二十歳の爺が、県庁職員として初めて柏崎の勤務地に赴任した月である。当時は故郷の羽越線坂町から信越線柏崎までの所要時間は5時ほどの遠いところだった。勤務地での担当は総務課の会計係だった。向かいの席には、爺と同じ昭和8年生まれの洋子さんがおられ2年ほど一緒だった。1年後に、昭和8年生まれの家内が保健婦として赴任してきた。洋子さんとは、リタイアしてからドライブ方々2度ほど柏崎市内で食事を共にしたこともあった。数年前にご主人と嫁いだ娘さんに先立たれてからは、年賀だけのお付き合いだった。10年以上会っていない洋子さんから突然の電話で、去る1日に近くの和食処で爺と家内と洋子さん3人の昭和8年生まれが食事をしながらの四方山話、尽きることなく、再会を約束して終わった。昭和8年生まれの友

  • 連休中

    ゴールデンウイークになると、東京駅と羽田空港には故郷へ向かう親子連れが、成田空港には海外旅行する若者たちで混雑している情景をテレビで見るのも久しぶりだ。2016年に孫娘の結婚式以来、電車に乗る用もないまま7年になる。今年のゴールでウイークは3年ぶりに新幹線ホームには孫たちを送迎する爺ちゃん、婆ちゃんたちを見る。孫たちを新幹線ホームで迎えたり送ったりしたのは20年以上前になる。テレビを見ながら、電車から降りた孫たちが爺を見つけると元気で駆け足で飛んできたころを思い出す。お母さんになった孫には2歳の女の子、コロナ禍でのびのびになっていたが秋には会えるようだ。ひこ孫を抱っこする日が楽しみなこの頃、健康管理に気配りしながら待ち遠しい。連休中

  • この頃

    歩いて10分ほどの所にある本屋さんを時々利用している。転倒時などに備えて安全のためリックを背負い、両手を空けておく習慣も抵抗もなくなり、すっかり身についてしまった。最寄りのバス停まで歩いて2分、一区間をバスを利用することもある。歩いても、バスの車中でも、爺と同じスタイルの推定するに80歳前後の男女の姿を見ると、ホッとする。風邪で内科を受診したことのない家内も、八月に卒寿を迎える。寄る年波で三度の食事作りも、手間取るようになり、共働き時代にかえり、手助けしながら共同作業をしている。この頃は自宅の一室で、家内は読書、老生はパソコンと向き合って、お互い口だけは老化することなく、時々原稿のない、低次元の迫力のない口争いをしながらも何時も一緒にいる。この頃

  • 巨人ファンの爺

    昔から巨人は優勝が義務付けられ、2位も6位も一緒、ペナントレースが始まったばかりでも、負け続けると、采配が疑問だ、休養だ、交代だと騒がれるのは巨人の監督の宿命である。現在のところ、セリーグはヤクルト、阪神、DeNA、広島が日替わり首位、中日、巨人が日替わり最下位で推移しているが、老いても巨人ファンの爺にとっては、精神的に良くない。3か月だけ義理で購読しているスポニチが気に入らない。巨人の負け試合は、対戦相手の殊勲選手を写真入りで大きく取り上げ、巨人の勝ち試合は、片隅に短い記事が載るだけである。巨人は35歳以上のベテラン選手が12球団の中で一番多く、2軍、3軍から1軍登録への壁は厳しいチームだと言われているが、若い選手たちで優勝する日を楽しみに待ちたい。巨人ファンの爺

  • 加齢による

    21年9月、テレビの音量を上げても変わらないので、耳鼻科医院で聴力検査をしたら加齢による難聴が始まっていると診断された、テレビの老化ではなく耳が老化していた。22年10月、右足のひざ痛で整形外科を受診、お医者様に単刀直入、「治りますか」と尋ねた。答えは「加齢によるもので治りません、注射と湿布と薬で痛みを和らげる治療になる」と。4月下旬、胃もたれが続いたので消化器クリニックを受診、加齢による消化機能の老化と診断される、目に見えない内臓にも老化が進んでいたのかと、食べ過ぎを反省したところ。聴力の低下、ひざ痛、消化機能全て加齢によると専門医から言われてきた。この先で加齢による症状はどこに現れるのか、神のみが知るところであるが、体の内外を問わず老化は確実に進んでいる。加齢による

  • 努力義務

    自転車運転時のヘルメットの着用、コロナワクチンの接種、70歳以上の高齢者が運転時に高齢者標識の表示など、法律用語である努力義務が、身近に聞こえてくるようになった。今年4月1日から道路交通法が改正され、全ての人が自転車を運転する時はヘルメットを被ることが義務付けられた。努力義務のため罰則はないので、着用している姿は見当たらない。70歳以上の人が自動車を運転する時の高齢者標識の表示も努力義務で罰則がないので、高齢化した我が町内も該当者が多いが、昨年免許返納前に表示しているのは爺だけだつた。コロりナワクチン接種も第6回目の接種予定の通知が来ているが、いろんな理由を付けて接種しない人も大勢いるように、全て個人の意思に委ねる条文では、徹底されないのが現実である。努力義務

  • 脳トレ

    ボケ防止にとナンプレを始めてから1年ほどになる。今の実力は初級と中級の中間くらいか、認知症予防に役立つ説と意味がない説とあるが楽しみながら続けている。長年老人医学に携わってきた和田秀樹の著書「90歳の幸福論」の中で、脳を活性化させるには、脳トレよりもアウトプットの習慣を心掛けて欲しいと言ってる。本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見たりなど、インプットしたら、思ったことを文章にしたり、人に話をしたりして、アウトプットすることで脳が活性化されると。爺が行っている、見聞した事や体験を基にブログの作成と発信、物書きの会て、形式も内容も自由な作文を発表しあっていることが、まさに脳の活性化につながっているとは。脳トレ

  • 山梨学院頑張った

    今年の選抜高校野球は、我が郷土新潟からの一般枠でも特別枠でも選考されなかったので関心も薄れてていたが、山梨学院対報徳学園の決勝戦は見応えのある好試合だった。甲斐の国に生まれた戦国の武将武田信玄が果たせなかった天下統一を、現代の若者たちが成し遂げたと、あるスポーツ新聞が伝えていたが、初の紫紺の優勝旗を山梨へ持ち帰った。吉田監督が、2点を追う5回、「まさに神風が吹いた、優勝しろよ、甲子園の神様が言っているみたいだ」と、前夜は睡眠時間を削って相手の捕手の配給の癖を研究した成果も大きかったと。甲斐(山梨)の武田信玄と越後(新潟)の上杉謙信は川中島で12年間戦った宿敵同士であったご先祖様がご縁で、何となく親しみがあって、山梨学園を応援しながらテレビ観戦していた。山梨学院頑張った

  • 近 況

    今年の3月は卒寿の祝いとして、日頃からは親しいS氏夫妻から自家製のケーキと赤飯を、例年春秋のお彼岸にいただく近所の奥様からのボタモチを美味しくいただいたところ。顔なじみになったタクシー運転手が短い乗車時間の中で業界の実態について、最近は運転手不足で定年で辞めさせてくれないので、運転手もお客もシルバーになったと語っていた。大相撲の唯一郷土出身関取豊山が引退、何場所か十両だつた朝の若は幕下に落ちたまま、日本人横綱誕生への期待も失せた大阪場所は、関心も薄れテレビ観戦することもなく終わった。市議選県議選が始まった、90歳にもなると若返った候補者の顔も名前も覚えられない。昨年8月免許返納後に行われた知事選は初めて棄権したが、今回も投票所へ行く予定はない。近況

  • 足腰の老化

    寝床を冬型から春型に切り替えのため、掛布団、布団カバー、毛布、敷布の交換する作業を済ませた。力は要しないが中腰での作業は、腰に違和感が生じて、休んだり、もたついたり。テレビ、エアコン、扇風機は、手元にあるリモコン操作で,電子レンジ、風呂、洗濯機は案内があるまで、立ったり座ったりする動作が節約され、足腰の老化を加速させているかも。髭剃り、洗髪,風呂での体洗いは、昔と変わらない手動式で、手足の退化予防だと思って丁寧にしているが、髭剃りだけは外出予定のない日はお休みとしたり手抜きをしている。手足の長期休暇は、介護士と仲良くする日が早くなると言われているし、急を要する時以外は、多少なりとも足腰の老化防止のために、2階のトイレを利用するよう努めているが。足腰の老化

  • 新婚旅行

    特権階級でない一般の人たちが新婚旅行に行けるようになったのは、第二次世界大戦が終わって、復興の兆しが見えてきた1950(昭和25年)年以降のようである。1960年代には、南国ムードが漂う宮崎の海辺でこれからの人生を誓い合い、神話の物語に胸をときめかせたカップルたちで、宮崎は空前の新婚旅行ブームに湧いた新婚旅行のメッカだった。1970年代に入ると海外旅行へ行く人も珍しくなくなって来た。旅行会社による「新婚旅行はハワイでバカンスを」と言ったキャンペーンも大々的に行われていた。1958年(昭和33年)に結婚した爺、安月給の代表とも言われた公務員が海外への新婚旅行は耳にしたことはない。富山県の温泉へ2泊の旅行をしてから65年になる。新婚旅行

  • 他人様が頼り

    5年前に愛犬が亡くなり、朝夕の散歩をしなくなってから、脚力がめっきり落ち、歩いて10分ほどのスーパーも、今では途中で腰を伸ばして一休み、バスでひと区間をバスに乗ったり。百数十メートルほど歩いてのゴミ出しも歩幅が小さくなり、躓いたり転ばないように注意深くゆっくりと歩く。今年の冬はご近所の奥さんのご厚意に甘えて、持って行っていただく。回覧板も相変わらず高齢者には用のないものが殆どなのが実態であるし、お隣さんのご厚意で、必要なことだけを教えていただくことにして、我が家はパスさせてもらうことに。ご近所の皆さんに迷惑を掛けたくないと心掛けてきたが、寄る年波には勝てず気力も体力にも自信がなくなり、荷が重い4月から順番の班長役も辞退させていだいたところ。他人様が頼り

  • 90歳になった

    一昨日90歳になった、精神科医である和田秀樹さんの著書「90歳の幸福論」に、数十年前は90歳まで生きる人は奇跡的に健康な人だけだったが、今は50人に一人が90歳以上だと。脳を刺激しながらブログの投稿と、今も続いている平均年齢80歳の物書き仲間(男性4女性4)との月に二回の例会で会員から紹介される作文を通して新しい知識と元気をいただいてくる。コロナ禍で会っていないが、長男には今日で2歳になる孫娘が、次男には孫娘が先月22日誕生、2人の息子もお爺ちゃんになった。ひこ孫たちに爺と婆を何と呼ばせるだろうか。数々の幸運に恵まれ、元気でひこ孫と対面できるほど長生きするとは思いもしなかった。長男の孫娘紗奈ちゃん、次男の孫娘莉音ちゃんと対面する日は何時になるのか、待ち遠しい。90歳になった

  • ほのぼの気分に

    スーパーで買い物が終わってからタクシーが来るまで5分~20分ほど入り口近くで待つ。自家用車で来てた頃は気にも留めていなかったが、時には珍しい情景に出会い気持ちが和らぐ。ショッピングカートに乗っている女の子、カートと並んで歩いている女の子、カートを押しているおめでたのお母さん、次は三女だろうか、長男だろうか、他人のことながら楽しみ。ネンネコに包まれて背中におんぶされた赤ちゃん、前抱っこ、ベビーカーの多い中での若いお母さん、また自動販売機を押しては、かがんで下の出口を覗いている、おむつ着用の男の子。スニーカーを履き、ねぎの頭が顔を出しているリックサックを背負い、顎紐のついた帽子をかぶった買い物を終えた70代と思われるおじいちゃん、一人暮らしだろうか、今日の料理は。ほのぼの気分に

  • 今日から3月

    今年の3月は爺が卒寿を迎える誕生月である。昭和28年3月20歳の春、大人になった社会人として親元を離れ下宿生活になり生活環境が大きく変わった。忘れることのないあの日から70年になる。寄る年波で、気力も衰え、目がかすみ、耳が遠くなり、体の動きも鈍くなってしまったが、我が国が憲法九条で平和が維持されているが、我が身は朝食後に飲む薬九錠で生命が維持されている。3月は我が家にとってご縁のある月でもある。社会人の孫娘が3月6日生まれ、初のひこ孫(女の子)が3月10日で2歳に、3月出産予定だった2番目のひこ孫(女の子)が2月22日に誕生した。人生末期に近づいた爺、停車駅の数は誰も知らない各駅停車の終電車に乗っていることに変わりがない。人生の始発駅を出発したひこ孫たちの健やかな成長を遠くから見守っている。今日から3月

  • 老夫婦のこの頃

    運転免許を返納、生活の足となっていた自家用車を廃車して半年になる。当然のことながら、外出する頻度は低下して、爺はパソコン三昧、家内は読書三昧と、家で過ごす時間が長くなつた。食品スーパーは4日に一回タクシーで、買い忘れた品は爺がリュックをを背負ってゆっくり歩いて10分程の所にある食品スーパーで、併せてスーパー内の本屋を便利に利用している。気分転換のため、郊外にある食品スーパーでの買い物や馴染みになった好みのラーメン店、洋食店、和食処で食を楽しんだり、軽いドライブが出来なくなった寂しさが少しはある。長生きしてしまった今では、乗り物を利用して遠くへ出かけたい気持ちは全くなくなった。時々我が家を訪ねてくれる80歳と75歳の知人ご夫婦とのランチやお茶飲みが元気の元になっている。老夫婦のこの頃

  • 父の実家

    汽車通学していた中学、高校生時代の冬季は汽車が雪で運休することがあり、父の実家に泊まっていた。叔父さん夫婦、お婆ちゃん,従兄、従姉の5人から大事にされながら、伸び伸びと過ごした。爺より5歳年上で昭和3年生まれの税務署勤めだつた従兄の仁さん、映画に連れて行ってもらったり、表2階で一緒に寝起きしていた。身内で一番好きな人だったのに、68歳の若さで旅立った。仁さんより2、3歳年上の従姉のトミさん、嫁入り前の家事に専念していた。トミさんから赤ん坊の頃の爺をおんぶしていたと聞かされていたが、母親並みの細かい面倒を見てくれた。13歳でお嫁に来たというお婆ちゃんのキンさん、囲炉裏の前でキセルで煙草を吸いながら座っていた姿が印象深い。何時も爺の濡れた靴下を囲炉裏で乾かしてくれた優しいお婆ちゃんだった。父の実家

  • 汽車通学

    大東亜戦争末期の昭和20年4月、旧制中学(5年制)に進学、12歳である。羽越線坂町駅から学校のある村上駅まで20分ほど乗車する汽車通学が始まり、生徒間では汽車通と言われてた。頭に一本の白線が縫い込まれた戦闘帽を被り、足にはゲートルを巻き、ズック靴である。坂町駅から学校までは団体行動で、中学生は先頭の汽車に、女学生は最後尾の汽車に男女別に乗る。村上駅に着いて学校まで約20分ほど2列縦隊で上級生に引率され整然と歩く。4年生と5年生は学徒動員で不在とあって、3年生が先輩ずらして後輩に厳しく対応していた。帰りは仲間同士で汽車時間に合わせて行動するが、通学コースは指定され、女学校の前を通る近道もあったが御法度だった。団体行動と男女別の通学も8月の終戦をもって終わった。汽車通学

  • 長寿食

    平均寿命40歳時代に75歳まで長生きできた徳川家康が愛した食事は、麦飯、焼き味噌、味噌汁、焼き鳥、ゴボウ、昆布、いわし、にんにく、クルミ、茶の湯が定番メニューだったとある。家康の食事のキーワードは粗食だったこと、弱小大名の生まれだったので、自分だけが贅沢をしていたら、家臣に示しがつかないと質素な暮らしをしていたと言われている。戦国時代は庶民の素朴な食べものであり、戦場での兵糧としても用いられた「いわし」を家康が頻繁に食べたのは、為政者として倹約の大切さを家臣や農民に示すためだったそうで。我が家も昔ながらの食材と和食の調味料である砂糖、塩,酢、醤油、味噌味での地味なバランスで、夫婦ともに89歳の今も自立した生活が続いている。長寿食

  • 嫌な運転体験

    マイカーを運転すること52年、大きな加害事故もなく家族で十二分に楽しませてもらったが、スピード違反で罰金刑に処せられたり、追突されてむち打ち症になったり、嫌な体験もした。忘れもしない昭和45年8月13日の早朝のこと、取り締まり中の新潟市内で40キロ制限のところを30キロオーバーだと言われた。家内と小学生の息子二人を乗せて墓参の途中だつた。50キロ前後で走っていたと思う。家族を載せて、免許を取得して4か月の爺に市内を70キロで走行する自信はなかった。今も当時のスピード測定方法に疑問を持っている。昭和47年公用車で国道を運転中のこと、後方車から追突されて道路わきに転落したが外傷は全く無かったが、むち打ち症で1年ほど通院、その後も天候次第で頚部の痛みが続いた。嫌な運転体験

  • 貰い風呂

    爺が小学校低学年のころは、夏休みになると一人で母の実家(呉服や)で過ごす事が多かった。実家では毎日入浴する習慣がなかったので、近くの本家(建設業)で「貰い風呂」をしていた。本家の風呂桶は一般家庭の風呂よりも大きめだったので、従弟と風呂桶の中で騒いで叱られたり、夕食を御馳走になったり、入浴後はトランプやお喋りしながら楽しいひと時だった。知人で80歳の女性からメールが入った。近くに住む娘さんの家の給湯器が故障して入浴ができず、我が家が夕食付きの風呂屋さんになったと、ほのぼのとした情景を伝えてきた。人間関係が疎遠になった現代では、よその家の風呂に入れてもらう「貰い風呂」など、昔は珍しくなかったが今は耳にすることは無い。知人はボヤきだったのか嬉しかったのか、昔を懐かしく思い出した。貰い風呂

  • 後悔先に立たず

    91歳の男が運転する車が女性をはねて、過失運転傷害の疑いで現行犯逮捕された。被害者に申し訳ない、免許証を早く返しておけばよかった」などと供述し、容疑を認めているという。加齢に伴う高齢運転者の事故のリスクが次のように指摘されている〇動体視力の低下で、信号機・道路標識・歩行者など、瞬時に複数の情報に適切な判断・対応ができなくなる。〇体力や筋力の低下で、正確なハンドリングやアクセル、ブレーキの操作が難しくなる。〇判断力の低下で、不測の事態への対応が遅れ、瞬時に判断し、安全な行動が出来なくなる。自家用車は無いより有った方が便利なのは当たり前のこと、後悔先に立たず、人身事故を起こして苦しみ続けるよりもタクシーをフルに活用して余生を優雅に過ごそう。後悔先に立たず

  • 小学生時代

    小学生時代(昭和14年~20年)、クラスの殆どが農家と自営業の生徒で占められ、僅かな鉄道官舎住まいの生徒は、「官舎もん」と呼ばれて、よそ者扱いされていたので、学校での楽しかった記憶は何もない。3年生だった昭和16年12月8日には大東亜戦争がはじまり、日本軍の勝ち戦だけを知らされながら、神の国である日本は絶対に負けないと教え込まれ子供心に信じ続けてきた。立派な軍人にするための教育だったのだろう、一般教科よりも体育や行軍と称した遠足、水泳、スキーなどの体力づくり、学校行事も、薬草の採取、イナゴ取り、落穂ひろいなどの奉仕活動が多かった卒業写真もない珍しい学校で、21年4月には旧制中学に進学したので、クラスメートの名前も顔も一部の生徒しか分からないままである、進学当初は他校出身の生徒との学力差を痛感した。小学生時代

  • 高齢男性の買い物

    老夫婦の定例行事は食品スーパーの買い物だけであり、店内の商品が出揃う9時半から10時ころをめどに出かける。馴染みになった売り場やレジの店員と会話を楽しむひと時でもある。この頃はスーパーで高齢男性が一人で買い物しているのが目立つ。料理する男性が増えたのか、奥様から頼まれたのか、一人暮らしか、実態は奥様のお使いが一番多いらしい。奥様のお使いである男性は、片手に奥様が書かれたと思われるメモを持ちながら、店員に商品の場所を聞いたり・探している商品の有無や種類を問い合わせしたりすることが多いと言う。ある日のこと、一人暮らしだろうか高齢男性の買い物籠に、おにぎりが2個、かき揚げが一個、カップ(みそ汁)が一個、精算してから店内の飲食コーナーで食べている姿を見て寂しくなる。高齢男性の買い物

  • 大雪が降ると

    昨年12月には大雪のため新潟県長岡市や柏崎市の幹線国道で多くの車が立往生したり、雪の影響による停電が長期化したことで大勢の方が豪雪による厳しさを体験されたと思う。雪の少ない新潟市内も一晩で40センチほどの積雪で除雪車が出動するも降り続く雪で、幹線道路の除雪優先のため生活道路は圧雪状態となり、利用しているネットスーパーも閉店になる。昭和52年から3年間の豪雪地で勤務時代の時、冬季のマイカー通勤は安全のため3人による交代制にした。同乗者はチェーン着装時、緊急時の連絡要員として心強い存在となったのである。降雪時は、高速道路やバイパスなどは避けて、出来れば緊急避難し易い部落や町並がある一般生活道路を利用することを、豪雪地で運転歴が長い先輩から教ったのを思い出した。大雪が降ると

  • タクシー運転手

    運転免許を返納して、52年前の生活に戻ってから半年になる。徒歩、タクシー、バス利用の生活に少しは慣れてきたとはいえ、マイカーが無いよりは有った方が便利であることには変わりはない。最寄りの小さなタクシー会社なので、タクシー依頼の電話も町名と名前を言えば、「ハイ分かりました」と一つ返事、顔も名前も覚えられないが、殆どの運転手と出会っており、初対面の運転手はいなくなったようだ。全国のタクシー運転手の平均年齢は59歳と高く人手不足の職種で、65歳定年制になっいるが、75歳まで勤めるめることが出来るそうである。一度耳の遠い人に出会ったが、自宅までの案内に苦労した。運転手の間でも、お客様に迷惑をかけている辞めて欲しい人も居るし、辞めたい人も居るという話を親しくなった運転者から聞いたが、後任がいないのでやむを得ない事情...タクシー運転手

  • 今日から新年

    明けましておめでとうございます。昨晩は、神様とご先祖様にお礼を申し上げ、老夫婦が互いに感謝の言葉を交わしながらお神酒で乾杯、爽やかな新年を迎えた。今年は3月に爺が、8月に家内が、卒寿を迎える節目の年である。老夫婦にとっては今年も願いは一つ、「転倒→骨折→寝たきり」にならないこと、朝茶を飲みながら誓い合ったところ。大きな願いは戦争の終息である。ロシア、ウクライナ双方には爺が知らない戦争に至るまでの複雑な背景があるのだろう、国連の無力さを感じながら平和が訪れる年になることを祈りたい。日頃は神様に手を合わせることのない高校受験を控えた中学生たち、センター試験を控えた高校生たちも絵馬を奉納して合格祈願で神様も大忙し、願いは公平に叶えてくれるだろう。今日から新年

  • 年賀状じまい

    終活年賀状とか縁切り状とも言われている年賀状じまいの習慣が、スマホの普及で40代~50代の中年層にも広がっているか゛爺は21日に例年通り年賀状を投函したところ。今年いただいた長いこと会っていない年賀仲間一人一人の年賀状を読み返して昔の顔を懐かしく思い浮かべながら、年賀状の余白に近況を知らせたり、尋ねたり、一言の添え書きを。毎年のように年賀状を書くのが大きな負担になった高齢者の終活年賀状が来るし、年賀状スルーと言う賀状を黙って辞めてしまう方もおられるが、まだ爺は年賀状終了宣言はしない。爺もいよいよ来年3月には卒寿を迎える。元気をいただいている現役時代の親しかった後輩たちやリタイア後にご縁のあった仲間達からの年賀状に感謝の意を伝え続けていきたい。年賀状じまい

  • 雪との戦い

    個人の家の除排雪は、今も昔も全て自己責任であり、豪雪地で作業が出来なくなった高齢者には冬の生活は厳しく、豪雪地の上越市(旧高田市)から雪の少ない新潟市(西区)に転居してから32年になる。屋根の雪下ろしをすることは無く、玄関先と車の雪を払うだけだが、加齢とともにスコップの雪も年々重く感じつつ老骨に鞭打ちながら、運動不足解消を兼ねて無理せず直営で行ってきた。警報級の大雪予報のとおり、19日早朝には20センチほど積もったろうか、今冬初めて除雪車が出動、日中も降り続いた。マイカーが無くなったので、除雪車が各家庭に配給した雪の始末は通路だけで済ませた。長いこと豪雪地での生活で雪の扱いに慣れているとは言え、3か月後には卒寿を迎える爺、昨年までは何とか行っていたスノーダンプで玄関先の雪を排雪する体力も気力もなくなった。雪との戦い

  • 総合診療医

    新潟県津南町では高齢化が進み複数の病気を持つ患者が多く特定の専門医だけでは対応し切れないケースが増えたので、総合診療医の確保対策に取り組んでいるとか、大賛成である。確かに内科の案内看板を見ると、消化器、循環器、内分泌・代謝、腎臓、呼吸器、神経、アレルギー・膠原病、感染症など多くの領域があるので、複数の症状がある時は不都合である。爺もS病院で心筋梗塞術後は一年に一度の診察、入院中に服用した薬は最寄りの内科(内分泌)から貰っているが、便秘薬をお願いしたら丁重に消化器科を紹介され診察は断られている。今は血液サラサラ、便秘薬なと数種の薬を服用するだけで、元気で体調も良く、生活動作に不自由もないので支障はないが、近くに総合診療医の開業医が居られたらいいなと思う。総合診療医

  • 一歳児

    昨年3月10日に生まれたひ孫の紗奈ちゃん、今日で1歳9か月になる。専業主婦である孫のYちゃんから、順調に成長している紗奈ちゃんの様子が頻繁にラインで送られてくる。送った新潟スイカを美味しそうに食べている紗奈ちゃん、スマホを持ってプッシュしたり、マイカーのハンドルを動かしたり、動物にエサを与えたり、知恵付きが早くて頼もしい。静岡県の保育園で保育士が一歳児に虐待行為を繰り返した3人の女性保育士が逮捕される事件があった。子どもに3人の先生の写真を見せたら、「嫌だ嫌だ」ってすごくいやな顔をしたと言う。日頃はお母さんとマンツーマンで、休日はお父さんも一緒に伸び伸びと過ごしている紗奈ちゃんの動画を見る度に、保育園で虐待されている子ども達のことを思うと可愛そうでならない。一歳児

  • 思いがけない事

    今年も早や師走、無事にお歳暮の手配を済ませホッとしているが、特に明るい話題は無かった。運転免許証の返納によって日常生活が大きく変わり、身内では思いがけないことが続いた。6月早々、昭和3年生まれの叔父さんが老衰で亡くなり、27年一人暮らしだった爺より年下で昭和9年生まれの叔母さんが自宅で転倒して家事不能となり老人施設での生活になった。、。8月初め新潟県村上市が水害で、市内の各地で避難命令が出たので、76才なる従弟に電話したら、奥さんから本人は歩行困難で入院中、退院後の本人から車いすの生活になってしまったと。10月下旬、埼玉検県在住のMさんと言う見知らぬ方から封書が届いた。内容は、故郷である村上市内に爺の母方の祖父母名義で7坪ほどの土地に爺も相続権があり手続きに関するものだった。思いがけない事

  • 89歳の思い

    薬と仲良くしながらも長生きして、まだ介護保険の世話にもならずに自立した生活ができるだけで幸せを感じているし、国の介護保険財政に貢献しているという自負もある。ひと月に一回かかりつけ医を受診して治療することは無く薬をいただいてくるだけだが、自立している89歳の老人に、年6回の血液検査に疑問を感じているが医師に質問する気もない。免許を返納してタクシーでの買い物してから4か月、一回千円前後のタクシー代を財布からの出し入れ、お釣りのやり取りは煩わしく思う。チャージ型プリべーどカードがあればと願っている。10月の知事選挙は最初から勝負が決まっている情勢だったこともあり、タクシーを利用してまで投票する気持ちになれず、初めて棄権した。車のない人たちのために自治会として一考願いたい。89歳の思い

  • 高齢者の交通事故

    福島市内で97歳の高齢者が歩道に突っ込み5人の死傷者が出る大きな交通事故を起こした。ブレーキ痕がなかったと言うから、またもやブレーキとアクセルの踏み間違いだろうか。高齢ドライバーの殆どは、自動車なしの生活は不便であり、運動能力の低下は感じているが免許返納するほど衰えていないので、まだ大丈夫だと思い込んでいる気持ちはよく分かる。高齢者の事故の半数は、認知機能での問題はないが、アクセルとブレーキの踏み間違い、高速道路の逆走など、大きな事故に結びつきやすいという傾向だとある。爺は8月に免許返納前の一年は、駐車場内でバックしながら壁にこすったり、停車中の車に当たったり、運転技能の低下と注意力が散漫になったことを自認して返納を決断した。高齢者の交通事故

  • タクシーでの買い物

    タクシーを利用してスーパーで買い物をするようになって3か月になる。月7回から8回ペースで利用するので、顔なじみになって親しく会話できる運転手もおられる。現在の新潟市のタクシー料金は、基本料金が570円から始まり80円づつ加算される。馴染みのスーパーまでの料金は、車の流れが良い時は730円、渋滞や信号次第で810円になる。タクシー業界はコロナ禍で人の動きが少ないので暇らしいが、朝は時間帯によって通院のための高齢者の利用、特にお天気の良い日は整形外科へ通院する高齢者の利用で混んでいるとか。運転手の客扱いも様々である、買い物をトランク保管してくれる人、帰りを予測してスーパー近くで待機してくれている人、降り易いように右のドアも明けてくれる人、たまに無愛想な人も。タクシーでの買い物

  • 障害者には親切に

    森喜朗元首相が、「杖をついていると身体障害者に見えて、みんなが大事にしてくれる」との発言にSNSで物議を呼んだ。本人は何が悪いのか分からないと言っておられたが、爺にも分からない。爺もひざ痛で、杖を利用するようになってから、ゴミ捨ての途中で散歩中のご婦人から「捨ててあげましょうか」と声を掛けられたが、お礼だけ申し上げ丁重にお断りをしたことがある。10年以上の前のこと、年に一度のOB会に出席するため、駅まで歩いていたら革靴のかかとが取れそうになり、片足をかばいながら歩いた。女子大生が席に座るまで寄り添ってくれた。身体の不自由な方に対する小さな親切は時々見かける自然な行為である。爺も数少ないが、体の不自由な方と出会えば、自然に横断歩道を寄り添って歩いたり、手荷物を持ってあげたりした。障害者には親切に

  • 新老人

    105歳の天寿を全うされた日野原先生が政府は75歳以上のお年寄りを後期高齢者と呼んでいるが、新老人と呼びたいと言っていた。確かに高齢者より元気で活動している老人に聞こえる。90歳になったとき新しいことをはじめたいと思い、老人が慰め合うだけの会ではなく、生き生きと活躍する社会を作るために「新老人の会」を立ち上げ、全国的に展開されていると言う。来年3月には90才になる爺、目がかすみ、耳が遠くなり、歯が無くなり、ひざ痛に悩まされながら、ブログの投稿と物書き仲間8人の新老人達と月に2回の集いを楽しんでいる。新しい事に挑戦する意欲も体力もないが、最後の予定としてブログ「爺の世間ばなし」の投稿数が1000回を超えたのを機に卒寿を記念して2回目のブログ百選を発刊しようと思っている。新老人

  • 鮒釣りとカジカ取り

    初めて魚釣りをしたのは小学校低学年の時である。お隣りの父と同じ鉄道員の斎藤さんから、釣り竿、糸、釣り針、浮き、重り一式を揃えてもらい、近くの農業用水池で鮒釣りを教えてもらった。餌は何処の家でもあった生ごみの捨て場からとった小さなミミズである。元気に動き回るミミズを小さな針に付けることから教わったが難しくて繰り返しながらコツを覚えた。去る8月に大水害に襲われた新潟県村上市を流れる荒川は、上級生に連れられて、水浴びをしたりカジカ取りをして楽しんだ懐かしい川である。河原で焼いた串刺しのカジカは美味しかった。木枠にガラスの窓が付いた四角形の箱メガネのガラス部分を水面に押し当てて水中をのぞきながら、カジカは前進するだけなので、カジカの前方に小さなタモ置いて捕獲する。鮒釣りとカジカ取り

  • 小学生時代

    昔々のことである、昭和14年から20年まで県北の小さな田舎の小学生時代はと爺に問われたら、良く遊び、遊び過ぎてよく眠り、良く学ばなかった6年間だったと答えるだろう。3年生だった昭和16年12月8日には大東亜戦争がはじまり、日本軍の勝ち戦だけを知らされながら、日本は神の国であるから絶対に負けないと教えられて、子供心に信じ続けていた。学校では、一般教科よりも軍人になるための体力づくりとして体育や行軍と称した遠足、水泳、スキー教育が、学校行事も薬草の採取、イナゴ取り、落穂ひろいなど奉仕活動が行われていた。国防婦人会と書いたタスキをかけた勇ましいお母さんたちの防空訓練があつたが、アメリカの爆撃機B29が飛来することもなかったので、戦災にも会わず穏やかな6年間だったと思う。小学生時代

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