「投馬国」の位置として「邪馬壹国」の北にあるという主張があります。その根拠としては、「邪馬壹国」の前に「南至る」と有り、それが「郡治」からの方向であるとして、その構文と同一である「投馬国」も同様であるというものです。しかしそもそも『倭人伝』の冒頭は「倭人在帯方東南大海之中」という大方向指示があり、そこには「東南」とありますから「南」が「郡治」からの方向とすると食い違ってしまいます。あくまでも「南」が「郡治」からの方向であるとすると「東南」は「邪馬壹国」の方向ではないこととなりますが、「常識的に考えて」それはいかがなものと思われます。「倭人」の代表として「邪馬壹国」の「卑弥呼」を「倭王」としたからには、「倭人」のいる方向としてはやはり「邪馬壹国」の方向を示して当然です。そうであれば「南至」という「邪馬壹国」...『倭人伝』シリーズ(8)
すでに述べましたが「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていたであろうことを推定しています。さらにこれに加え「一大率」が「常治」していたという「伊都国」の重要性を指摘することができます。「伊都国」は「郡使往來常所駐」という書き方から見ていわば「ベースキャンプ」とでもいうべき位置にあったと思われ、ここは列島内各国へと移動・往来する際の拠点となっていたと考えられますが、それを示すのが以下の記事であり、この記事はいわば「道路」の「方向・距離表示板」の如く「行程」記事が書かれていると考えます。つまり以下は全て「伊都国」からの方向と距離を示していると考えるものです。(但し「邪馬壹国」の「水行十日陸行一月」は「郡より倭に至る」...『倭人伝』シリーズ(7)
「伊都国」と「一大率」の拠点としての博多湾岸について考察したわけですが、それは必然的に「邪馬壹国」の領域としてやや南方に下がった位置を措定することとなります。古田氏をはじめとする多元史観論者の多くは「邪馬壹国」の領域として「博多湾」に面した「筑前中域」と称する領域を措定していますから、上に展開した私見とは異なります。古田氏は「卑弥呼」が「魏」の皇帝から下賜された宝物類に良く似たもの(構成)が「須久・岡本遺跡」の遺跡群から出土するとしてこれが「卑弥呼」の「墓」と理解しているようですが二つの点で疑問があります。一つは「薄葬令」です。「魏」の「曹操」とその息子の「曹丕」は共に「薄葬」を指示し、墓には華美な宝玉類を入れないようにと遺言しています。「卑弥呼」が(あるいは「倭王権」が)これを守ったなら墓からはそのよう...『倭人伝』シリーズ(6)
『倭人伝』の記述によれば「郡使」あるいは「皇帝」からの「勅使」は「いつも」「對馬国」を経て「一大国(壱岐)」~「末廬国」へと行くコースを使っていたと理解されます。「始度一海、千餘里至對馬國。…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。…又渡一海、千餘里至末盧國。…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。…自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」これによれば「一大国」を経て「郡使の往来」に「常所駐」とされる「伊都国」へという行程には途中「末廬国」を経由するというコースが常用されていたものと考えられ、いいかえればこのような往来...『倭人伝』シリーズ(5)
『魏志韓伝』には以下のような記述があります。「…辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。有巳柢國不斯國弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國勤耆國難彌離弥凍國弁辰古資彌弥凍國弁辰古淳是國冉奚國弁辰半路國弁楽奴國軍彌國弁軍彌國弁辰彌烏邪馬國如湛國弁辰甘路國戸路國州鮮國馬延國『弁辰狗邪國』弁辰走漕馬國弁辰安邪國馬延國『弁辰涜盧國』斯盧國優由國弁辰韓合二十四國大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸其十二國属辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立為王。土地肥美冝種五穀及稲暁蠶桑作?布乗駕牛馬。嫁...『魏志倭人伝』シリーズ(4)
前回から続く『倭人伝』では「半島」と「対馬」の間ではなく「対馬」と「壱岐」の間に「瀚海」という名称が書かれています。そのことは「対馬」と「半島」(狗邪韓国)との間に「国境」があることが推定でき、またこの「名称」(漢語)は「倭人側」の命名とみることができるでしょう。つまりここだけに特に名称がついている理由として「対馬」までが「邪馬壹国」率いる「倭王権」の範囲とみられるからです。もし「半島」にも「倭王権」の統治が及んでいるのなら「半島」と「対馬」間の「朝鮮水道」にも名前がついていて当然と思われます。「対馬」に至って初めて「倭王権」の統治範囲に入ったと考えれば(逆に言うと「対馬」までが倭王権の統治範囲であるとすれば)、その向こう側の海域には「倭王権」による命名がないのは当然といえます。「対馬」から「壱岐」までの...『倭人伝』シリーズ(2)
さらに前回から続く『三國志』の『高句麗伝』をみると以下のことが書かれています。「…又有小水貊。句麗作國、依大水而居。『西安平縣北有小水。南流入海。』句麗別種依小水作國。因名之爲小水貊。…」(『高句麗伝』より)ここには「西安平縣」の「北」に「小水」があると書かれています。この「小水」は「西安平縣」の中にあるのでしょうか。そうではないことは同じく『高句麗伝』の中の次の記事から判ります。「漢光武帝八年、高句麗王遣使朝貢。始見稱王。…宮死子伯固立。順、桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷。又攻『西安平』、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」(『高句麗伝』より)また『漢書』をみても「西安平縣」は確かに「遼東郡」に属しています。「遼東郡,秦置。屬幽州。?五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平,有牧師官。...『倭人伝』シリーズ(3)
以下は以前投稿したものをやや改変したものです。『魏志倭人伝』に現れる「国名」と「官名」については、「邪馬壹国」率いる体制の中での「国名」であり、「官名」であると考えられます。つまり、「倭王」たる女王(卑弥呼)がいて、彼女の元に一種の「官僚体制」が存在しており、その体制の中で各国に「官」が派遣、ないし任命されていたものと考えられます。このような権力集中体制は「東夷伝」による限り「倭」だけであったと思料され、先進的な国家体制が構築されていたと見られます。このことはこの時の「邪馬壹国」とその統治範囲の「諸国」が「部族連合」であるというような評価が妥当しないことを示します。部族連合ならば「中央」から「官」が派遣されていることはあり得ないといえるからです。その点から考えると、この『魏志倭人伝』の行程を記す記述の中に...『倭人伝』シリーズ(1)
リバイバルシリーズ第3弾です。「倭」と「倭国」―「金印」の読み方との関連で―「要旨」『後漢書』に出てくる「委奴国王」はその授けられた金印には「倭国王」とも「倭王」ともされていないこと。「帥升」は「倭国王」と呼称されているものの「金印」を授与されていないこと。そのことからこの『後漢書』の「倭国王」という称号には疑いがあること。「卑弥呼」も「魏」の皇帝からは「倭国王」ではなく「倭王」という称号を授与されていること。それは「倭地」内に「狗奴国」という反対勢力があったためと思われること。「倭」は一種の「地方名」「地域名」に過ぎないものであり、その時点では「国家」としての体裁を整えていたとは思われないこと。『後漢書』の性格から「倭国」「倭国王」という呼称は「五世紀」の実情を古代に延長したものであると考えられること。...「倭」と「倭国」―金印の読み方との関連で―
リバイバルシリーズの第2弾です。(第1弾は「遣隋使」関連のもの)以下の論はかなり以前に投稿したものですが、このままでは採用されずその後前半部分を割愛した形で再編集したものが「古田史学会報一五五号」に採用・掲載されています。「鞠智城」について―「北緯三十三度」の地とは「要旨」『延喜式』に残る「日の出・日の入り時刻」データから「平安京」以外の場所である「北緯三十三度」の地点が「都」であった時代があると推察され、その場所としては「鞠智城」付近が想定されこと。その「天文観測データ」の収集開始時期は「倭の五王」の最後の王である「武」の時代付近ではなかったかと考えられること。そのことなどから「肥後」が「倭国王権」の中心であった時代があったと見られること及び「難波京」のプロトタイプとして「鞠智城」が存在していたと推察さ...「鞠智城」について―「北緯三十三度」の地とは(再度)
「隋」の高祖「文帝」は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教を解放し、仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれているわけです。彼はそれまでの「北周」による宗教弾圧から回復させたわけですが、「学校」における教育の中身が「儒教」が中心であったことから文帝はその「学校」を縮小したことが知られています。それは仏教重視のあまりであった事がその理由の一つであったものと思われ、そのように仏教に傾倒し、仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいると考えられた「倭国王」に対して、やはり仏教(特に「南朝」からもたらされ...隋皇帝からの「訓令」とは-2
「釆女」と「兵衛」について引き続き検討します。「裴世清」の来倭記事を『書紀』に見ると以下のような流れとなっています。「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而...「釆女」と「兵衛」-2
以前として再投稿の論となります。従来あまり重要視されていないと思われることに、「兄弟統治」と思われる政治体制を「遣隋使」が紹介したところ、「高祖」から「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件(『隋書俀国伝』における「開皇二十年記事」)があります。「…使者言俀王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。「劉曠,不知何許人也。性謹厚,?以誠恕應物。開皇初,為平?令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾,各自引咎而去。…」(「隋書/列傳第三十八/循吏/劉曠」)「元善,河南洛陽人也。…開皇初,拜?史侍郎,...隋皇帝からの「訓令」について-1
以下もまた以前投稿したものの再提出です。『隋書俀国伝』では後宮に「多数の女性がいる」とされます。「王妻號■彌,後宮有女六七百人。」これについては、これを「妃」や「妾」とする考え方もあるようですが、中国の例から考えてもさすがに多すぎると思われ、実際にはその多くが「釆女」であったと見るべきでしょう。この人数が「王妻」記事に続けて書かれている事からも、平安時代の「女御」「更衣」などと同様の職務を含むことが推定され、彼女たちについては「釆女」と見るのが相当と思われます。つまり「後宮」は平安時代などと同様に男王であるか否かに関わらず存在していたであろうと考えられますから、これら全てを「妃」などと考える必要はないと思われるわけです。またその数から考えて『隋書』の記事において全部で一二〇〇人いるとされる「伊尼翼」のおよ...采女と兵衛
「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも-4)
以下前回からの続きとなります。「観世音寺」の鐘と「妙心寺」の鐘には「銘文」の有無のほか微妙な違いがあり、若干「観世音寺」の鐘のほうがその製造時期として先行すると見方もあり、その意味では明らかな「同時期」とは言えない可能性もありますが、それがどの程度の時間差を伴うものかは不明とされ、同一の「木型」を使用しているとすると大きな時間差(年次差)は想定するのは困難ではないかと思われます。(同一の「鋳物師」によるとする説(※1)もあるようです。)(現在「観世音寺」では頒布資料などで「六八一年」製作としているようですが、これはその根拠となる事実関係が不明であるため、確定したものとは言えないと思われます。)さらに、この「筑紫尼寺」については『続日本紀』の誤記とする説が支配的であり、その理由のひとつとして資料から明確に「...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも-4)
「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-3
(以下さらに前回からの続き)ところでこの「壇林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように、「尼寺」であるとされます。『文徳実録』「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」ここで「比丘尼」を「持律者」として遣わしたとされており、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(後には唐から招来した僧「義空」が常住するようになったとされますが、唐初は「尼寺」であったものと思われ、「義空」が唐に帰国した後も「尼寺」として存在し続けたらしいことが推察されます。)そうであれば「鐘」がもたらされることとなった元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性が考えられるでしょう。その意味では『続日本紀...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-3
「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-2
(以下前回からの続き)ところで「徒然草」には「天王寺」の楽について書かれた段があり、その末尾に「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。(徒然草第二百二十段)「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて,ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の御時の圖今に侍るをはかせとす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-2
「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-1
下記の論はやや迂遠ではありますが、間接的に「遣隋使」による仏教奨励策の一環として「寺院」に必須の「鐘」が「隋皇帝」(文帝)から「下賜」されたという論の一部を形成しています。「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について鎌倉時代に「後深草院二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した「とはずがたり」という随筆様の文学があります。その巻三の中に以下のような記述があります。「…れいの御しやくにめされてまいる一院御ひわ新院御ふえとう院こと大宮の院姫宮御こと春宮大夫ひわきんひらしやうのふえかね行ひちりき夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」ここでは天皇以...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-1
以前投稿したものですが、これもまた「遣隋使」に関連する論となります。「七弦琴」―「帝王の琴」と倭国要旨「隋書俀国伝」中には「五弦琴」が確認でき、まだ倭国には「七弦琴」が渡来していないと考えられること、「源氏物語」には「七弦琴」が(当時廃れていたにもかかわらず)「帝王」の楽として琴(きん(きむ))が現れ、これが「七弦琴」と考えられること、「五行」に音階をつけた「納音」が「七弦琴」とともに渡来したと思われること、また「尺八」も同時に渡ったものと思われ、いずれも「隋皇帝」からの下賜によると思われ、仏教治国策の一環としての供与であったと思われること、以上について述べます。Ⅰ.「隋書」における「五弦琴」倭国の「琴」としては古墳その他に出土する「琴」と思われる遺物及び「琴」を演奏している状態を示していると考えられる「...「七弦琴」について(再再度ぐらいかな)
以下も「遣隋使」論考の一端に位置するものです。「高麗大興王」とは誰か「趣旨」ここでは『推古紀』と『元興寺伽起』に登場する「高麗大興王」について検討し、それが「高麗王」の誰かを指すものとは考えにくいこと、他の「高麗王」に「大興王」のような称号を冠したものが見られないこと、「隋」の「高祖」(文帝)と「大興」という地名には特別な関係があること、「文帝」と「仏教」にも特別なつながりがあり、「倭国」において「仏像」を造る際に助成することは当時の情勢からもありうること、以上を述べるものです。Ⅰ.「高麗」の「大興王」とは『推古紀』と『元興寺縁起』の双方に「高麗」の「大興王」という人物が出てきます。それによれば彼は「仏像」を造るに際して「黄金三百両」ないし「三百二十両」を「助成」したとされています。「(推古)十三年(六〇...「遣隋使」関連論考として
「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」「要旨」「六世紀末」に(特に西日本で)「前方後円墳」の築造が停止されたのは「王権」から「停止」に関する「詔」(命令)が出されたと考えられること。『孝徳紀』の「薄葬令」の内容分析から、これが「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。その内容から実際には「六世紀末」時点で出されたものと考えて整合すると思われること。それは「隋」の「文帝」から「訓令」されたことと関係していると思われること。等々を考察します。Ⅰ.「前方後円墳」の築造停止各地の墳墓の変遷についての研究から「前方後円墳」は「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉にその築造が停止されるとされています。(註一)正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始め...「訓令」と「薄葬令」について
前回までと同趣旨ですが、別の論考を示します。「大業三年記事」の「隋帝」の正体―「大業起居注」の欠如と「重興仏法」という用語―「趣旨」『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次の信憑性に疑いがあること。その「大業年間」記事中の「倭国王」の言葉として表れる「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(文帝)に向けて使用されたものとしか考えられず、他の文言(「大国維新之化」「大隋禮義之国」等)も「隋代」特に「隋初」の「文帝」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当である...別の論考として
今回が表記シリーズの最後となります。「『遣隋使』はなかった」か?(六)「要旨」『隋書』の「開皇二十年」記事についてその内容が国交開始時点のものであると見られること。「隋代七部楽」の制定との関連から「隋初」に「遣隋使」が「倭国」の国楽を「隋」に献納したらしいこと。「伊吉博徳」の記録に「洛陽」を「東京」と称している部分があることから、大業年間の「遣隋使」が本当にあったか不審であること。記事の整合性から考えて、『隋書』と『書紀』双方に記事移動があったらしいことが推定できること。以上を検討します。Ⅰ.「開皇二十年」記事について先に行った「大業三年記事」についての疑いはそのまま「開皇二十年記事」にもつながるものと思われます。この「開皇二十年」記事を正視すると、「国交開始」記事であると推測できます。(確かにそれ以前に...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-6)
以下も前回からの続きとなります。「『遣隋使』はなかった」か?(五)―「重興仏法」という語の解釈を中心に―「要旨」ここでは『隋書』の「大業三年記事」にある「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(高祖)に向けて使用されたものとしか考えられないこと、さらに「大国維新之化」「大隋禮義之国」等の用語も「隋代」特に「隋初」の「高祖」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当であること、「裴世清」の昇進スピードについての解析も「大業三年」記事に疑いがあることを示すこと、以上を考察します。Ⅰ.「菩薩天子」と「重興仏法」という用語について前稿で述べた『隋書』の「大業年間記事」について信憑性に問題があるということについては、『隋書?国伝』の「大業三年」記事の中に「倭国王」の言葉として「聞海西菩薩天子重興...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-5)
さらに前回からの続きです。「『遣隋使』はなかった」か?(四)―『隋書』の成立に関する事情の考察から―「要旨」前項では古田氏の指摘した部分について検討し、『推古紀』記事が「唐初」とはいえない可能性を指摘し、実際には「隋初」のことではなかったかという点について考察したわけですが、ここでは『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次に疑いがあること。以上について考察します。Ⅰ.『隋書』に対する疑い-大業年間の「起居注」の亡失について-『隋書俀国伝』には「大業三年」の事として「隋皇帝」が「文...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-4)
以下前回の続きです。「『遣隋使』はなかった」か?(二)―「寶命」問題を中心に―「要旨」ここでは「寶命」問題について検討し、「寶命」が「初代」にだけ使用されるあるいは特異な即位の際に使用されるという古田氏の意見は成立しがたいこと、「寶命」は「前皇帝」との関連で使用されるものであり、「二代目」でも、あるいは通常の即位であっても使用される用語であること、「南北朝」以降は「禅譲」された「新王朝」の「初代皇帝」において(「前皇帝」の関係として)多く使用された実績のある用語であり、「天命」とは明らかに異なる意味として使用されていること、国書中の他の文言についても「唐」の「高祖」の使用例と合致しない語が多数に上ること、そのことから国書そのものの年代として「隋代」が想定されること、以上を考察します。Ⅰ.「寶命」問題につい...「『遣隋使』はなかった」か?再々再度かな-2
前回からの続きです「『遣隋使』はなかった」か?(三)―古田氏の指摘した事項についての検討―「要旨」前稿では「寶命」問題を中心に考察しましたが、ここでは氏が「遣隋使」ではなく「遣唐使」であると推論した部分についてさらに考察し、『書紀』編者の「唐」への傾倒はかなり強く、「唐」「大唐」という表記に統一することにより「隋」王朝はなかったこととされてしまったらしいこと、「豊章」(扶余豊)の来倭の年次については確かに「ずれて」いるという可能性はあるものの、『隋書』の範囲を超えた年次まで同様に年次移動が行われたとは考えられず、「遣隋使」記事に直結しないと考えられること、「呉国」表記は「南朝」を表すと見るべきであり、「隋初」の時期が真の時期として推定できること、『推古紀』記事の国書には「国交開始」を示す文言が存在するもの...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-3)
この頃研究も進まず、過去の論を見ているだけではありますが、やはり、何度でも言わずにいられないという気分になり、いくつか並べてみることとします。「『遣隋使』はなかった」か?(一)―「宣諭」という語の解釈を中心に―「要旨」ここでは「宣諭」という用語の意義から考えて「無礼」な国書を咎める内容の指示、あるいは強い指導とでも言うべきものが「倭国」に施されたと見られること、それは「隋」から見ると「許されない」性質のものであったために行なわれたものであり、国書の持つ本来の意義から考えて、このような「無礼」な国に対して「友好的な」内容の国書などは出されるはずがないこと、さらに「文林郎」という職掌は国書提出の任にないこと、以上から『推古紀』の「国書記事」と『隋書俀国伝』の「大業三年」記事とは大きく齟齬するものであり、同一の...「遣隋使はなかった」か?(再々再度かな)
以下は以前投稿したものですが、最近「古田史学の会東海」で同様の思惟進行の論(「東海古代研究会」の会報「東海の古代」第277号、田沢正晴氏の「伊都国は吉野ヶ里だった」)を見たので、同意する意味で再度投稿するものです。また氏の論の中に「上陸地点」も「伊都国」もどちらも「肥」の国としてとらえることができるという指摘は強く示唆的であり、その後「倭王権」が「肥後」方向に移動したと見る立場からすると、それもまた同一統治領域の中の移動としてとらえることが可能となり、移動に関わる政治的理由もわかりやすくなります。『倭人伝』に出てくる「伊都国」について新しい理解に到達したので、以下に記します。『倭人伝』には以下の記述があります。「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往...「伊都国」の位置についての新理解(再度)
昨年の木星第2弾です以下は木星の衛星が木星の前を通過していくにつれ、その影が木星表面に落ちて移動する映像です。(昨年12月3日20時16分から21時10分まで)最初の画像で「輝点」が右側に見えますが、これは衛星「エウロパ」と思われます。その後この「輝点」が左側に移動していくと今度はその影が「右端」に表れます。(衛星本体が「木星」表面に埋もれてしまい見にくくなりますが)この移動に要する時間はわずか54分間であり、まさにあっという間です。木星を見る楽しみの一つがこの早い動きです。一晩中快晴ならほぼ木星全体が見えてしまいます。(自転周期が10時間ほどのため)この日も曇りがちでしたが、この直後全面的に曇ってしまい、店じまいとなりました。(大気の乱れがあると木星表面の前に屈折率の違うレンズがあるような状態となってピ...昨年の木星「第2弾」
昨年撮影した木星をいくつかアップします。撮影機材は昨年入手したセレストロンの28cmシュミカセに2022年同様CMOSカメラの「NeptuneCⅡ」及び3倍バーローレンズという組み合わせです。以下の1-6まで画像は1時間15分ほどの間の木星の自転と衛星(確か「イオ」だと思う)の運動が記録されており、見ているとあっという間に動いているという感じでとても面白いものです。(「イオ」は後ろから現れたと思われます)撮影日は2023年10月8日22時01分から23時17分までです。共通撮影データはアナログゲインが「237」、露出時間「13.0860ms」、フレーム数は1000です。(最高画質から95%範囲をコンポジットしており、ステライメージで編集しています)この日は曇りがち(というか雲の合間に木星が見えるという程度...昨年の木星
当ブログをご覧の皆様遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。本年が皆様にとって良き年になりますよう祈念いたします。このブログも開設して10年を半年ほど経過しました。これからも折々記事を投稿していこうと思います。ということで以下が本年第一号投稿となります。といっても単に思い付きの域を出ないものですが…。『続日本紀』に「筑紫諸国の庚午年籍」に「官印を押した」という記事が出てくるのは知られていますが、この「庚午年籍」は元々どこにあったものなのでしょうか。当方は以前からこれが「大宰府」にあったはずのものでそれがいずこかに持ち出されていたものを新日本王権が探索し、それが入手された時点がこの「七二七年」であったと考えていますが(今でもそうは思いますが)、この「庚午年籍」にはもとも何が押されていたのでしょうか...「庚午年籍」と「国印」
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以下は以前に書いたものですが、その後の研究の進捗から多少内容が変更されるべき点があり、ここに改訂版を提示します。「国号変更」について朝鮮の史書である『三国史記』の『新羅本紀』には「六七〇年」という年に「倭国自ら国号を更えて日本と号す。日の出ずる所に近し。故に名と為すと」と書かれています。この「国号変更」については以下のように考えられます。この「国号変更」はこのとき変更したということではなく、それが「新羅」に正式に伝えられたのがこの時点であったと理解すべきこととなりました。なぜなら「国内」及び「唐」に向けては以前にすでに「国号」を「日本」とするという意思表示が成されていたものであり、それが「新羅」に対しては遅れたということではないでしょうか。そして既に指摘したように彼らは「筑紫日本国」とは別に「日本国」を名...「天智」と国号変更について(改訂版)
以前投稿したように「倭国王権」の「東国直接統治」の開始とその破綻という事象の中で「倭国」が「東国支配」の実施時点で「日本国」と改称していたことを捉えて「近畿王権」による「遣唐使」による派遣(外交権を取得したと自負したもの)と、彼等が行った「日本国」自称が「唐」から「倭国」とは別の国として認定されるという事態になり、結果として「筑紫日本国」(旧倭国)と「難波日本国」(近畿王権)の両王権の並立ということが起きたと推定したものです。「近畿王権」の当初の意図はあくまでも「倭国」の後継者というものであったものが、「唐」からも「さらには「筑紫」の勢力(これは旧倭国でありその後「筑紫日本国」として存在したと推定)からもそうとは見なされず、「唐」からはその後も「倭国」と「日本国」は別という認識が継続したと推定し、また「筑...『古事記』編纂と「天智朝」の復活としての「新日本王権」
以前投稿したように「倭国王権」の「東国直接統治」の開始とその破綻という事象の中で「倭国」が「東国支配」の実施時点で「日本国」と改称していたことを捉えて「近畿王権」による「遣唐使」派遣され、彼等が行った「日本国」自称が「唐」から「倭国」とは別の国にとして認定されるという事態になり、結果として「筑紫日本国」(旧倭国)と「難波日本国」(近畿王権)の両王権の並立ということが起きたと推定したものです。(「唐」からはその後も「倭国」と「日本国」は別という認識が継続したと推定)その際「冠位制」について近畿王権にも元々あっただろうという別の推論を得たわけですが、それはさらに「郡」についても元々近畿王権の支配下で行われていたものではなかったかという推論に至りました。つまり「大宝令」について「近畿王権」の「日本国」が「近江令...郡制などの制度と近畿王権
「評木簡」つまり「評」が制度として行われた期間に「評」が記載された木簡の多くは「五十戸」という制度も併せて書かれています。(以下例を示す)①三形評三形五十戸生部乎知◇調田比煮一斗五升?031荷札集成-134(木研18-飛鳥京跡)②丁丑年(677)十二月三野国刀支評次米恵奈五十戸造阿利麻舂人服部枚布五斗俵032飛鳥藤原京1-721(荷札飛鳥池遺跡北地区)③丁丑年(677)十二月次米三野国加尓評久々利五十戸人物部古麻里?031飛鳥藤原京1-193(荷札飛鳥池遺跡北地区)④知夫利評由羅五十戸加毛部乎加伊加鮓斗031荷札集成-169(飛20-28藤原宮西方官衙南地区)⑤尾張海評堤田五十戸032飛鳥藤原京1-191(荷札飛鳥池遺跡北地区)この「評」という制度は『書紀』では決して記載されていません。明らかに隠蔽されて...「評」と「郡」について
以前「釈奠」について書きました。そのとき「その後の『永徽律令』では「釈奠」として祀る対象が変更となっているのですから、よく言われるように『大宝令』が『永徽律令』に準拠しているとかその内容に即しているというのは正しくないという可能性が高いと思われる」と書きました。改めて言うと「釈奠」とは儒教の祭祀儀式の一つであり、その祭祀を行う対象として「先聖先師」というものがありました。「唐」の時代、初代皇帝「李淵」(高祖)のはこの「先聖先師」として「周公」と「孔子」が選んでいます。「高祖」は「周王朝」を立てた「周公」を尊崇してたと思われ、自身を「周公」に見立てた結果「祭祀」の対象をそれまでの「孔子」から変更したものと思われます。しかし「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔...「大宝令」と「浄御原令」(再度)
以前日本国としての初めての遣唐使は白雉五年(六五四年)の高向玄理たちのものであると書きました。この時の遣唐使達が唐の都長安で「東宮監門郭丈挙」から国の名や地理について全員に問いかけがあったことが『書紀』に書かれており、それが「日本国」についての問いかけであったことから、これが「日本国」としての最初の遣使であることを示すものとみたものです。ただしこの年次としては『旧唐書』には何も書かれておらず、その意味で『書紀』の年次を信頼して述べたものですが、セミナーでもこの点について疑念が出されておりました。それは『書紀』の記事の中で「押使」である「高向玄理」らの「冠位」の表記が2種類書かれており、その一つがこの年次より後に制定されたと考えられているものだからです。「(六五四年)白雉五年…二月。遣大唐押使『大錦上』高向...近畿王権の冠位制と倭国の冠位制
以下は以前投稿したものを微修正したものです。趣旨は変わりありません。唐の二代皇帝太宗の諱「李世民」は「六四九年」に死去しましたが、生前は「世民」と二字連続するようなもの以外は「諱字」ではありませんでした。しかし、「高宗」即位以降、「世」「民」とも「諱字」となり、「官名」「氏名」などから避けるべきこととされました。そのため「隋代」から存在していた「民部」はこの時点(六四九年)以降「戸部」と改められたものです。『…尚書省,事無不總。置令、左右僕射各一人,總吏部、禮部、兵部、都官、度支、工部等六曹事,是為八座。屬官左、右丞各一人,都事八人,分司管轄。吏部尚書統吏部侍郎二人,主爵侍郎一人,司勳侍郎二人,考功侍郎一人。禮部尚書統禮部、祠部侍郎各一人,主客、膳部侍郎各二人。兵部尚書統兵部、職方侍郎各二人,駕部、庫部侍...「諱字」と『書紀』編纂(改)
以下は以前投稿した記事を微修正したものです。趣旨は変わりありません。『旧唐書』等中国側史料によれば「六三二年」に唐皇帝「太宗」(二代皇帝)が倭国に使節「高表仁」を派遣したとされます。(これは私見では実際には「六四一年」ではなかったかと考えていますが)この時「倭国王」あるいは同席した「王子」と「高表仁」が「礼」を争い、それに気分を害した「高表仁」が「朝命」を果たさず帰国する、という事件があったとされます。この「高表仁」という人物は『旧唐書』という史書の中では、以下のようにかなり明確に「けなされて」います。(「遠方の国を安んずる才能がない」という言い方をされています)「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十...「高表仁」の来倭と「不宣朝命」について(改)
「冠位制」が「冠位令」のもとのものである可能性があることを踏まえると、軍隊組織においても同様のことが考えられます。つまり「軍防令」的なものが存在していた可能性です。既に指摘していますが「百済を救う役」における軍隊構成において「軍防令」的なものの存在が推定されます。そもそも軍隊への兵を徴発しようとした場合、最も合理的で確実な方法は一つの集落や一つの地域から必要な人員を徴発することです。それは一定の人数が確保できるという点で優れています。任意にあちこち徴発して回るより下部組織に向けて徴発指示を出し、その指令により各地域で必要な人員を選出し供出するのが最も確実と言えるでしょう。これら一つの地域から選抜した人員により一つの部隊を構成すると各人共通の意識形成が容易であり、また言葉の問題も解決しやすいと思われます。つ...「軍制」と「百済を救う役」
以下はかなり前に書いたものですが、現時点での理解している内容にバージョンアップした内容として書き換えを行いましたので投稿します。改めて列島支配の権力の推移を概観すると、「新日本王権」に至る経過として当初「倭王権」であったものが「東方直接統治」の失敗により「日本国」が「「難波日本国」と「筑紫日本国」に分かれる形となって、その後「百済」を巡る戦いで「筑紫日本国」が一度滅びる形となって以降、「難波日本国」による列島支配があり、その後帰国した「薩夜麻」を中心とした旧「筑紫日本国」勢力によりいったん「倭王権」に戻り、その後それも「大地震」と「大津波」の影響などにより崩壊することとなった結果再度「難波日本王権」が復活する形で「新日本王権」となったと推定ています。この流れに深く関係しているのが「唐・新羅」と戦いとなった...「鎮将」と「都督」(改)
伊勢神宮の「式年遷宮」は二〇一三年に行われており、それまで二十年に一度遷宮が行われ続けてきたと理解されています。確かに『皇太神宮雑記帳』などを見ると「二十年に一度」という文言が確認できますが、実体は少々異なります。記録(『太神宮諸雑事記』)を見ると鎌倉時代までは実は「十九年に一度」の遷宮であったのです。この「十九年」という年数は明らかに「太陰暦」における「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までの期間(これは「章」と称されていたもの)を示すものです。「朔旦冬至」という現象は旧暦十一月一日の日の出の時刻に冬至となるというものであり、このような「天体の運動」に関する事も「皇帝」の支配下にあるという中国の伝統的考え方によって「皇帝」の権威を示すものとされていました。加えて、その「章」の期間である「十九年」(太陽暦と太...朔旦冬至と伊勢神宮
私見では「改新の詔」とそれと一体となって出された各種の「詔」について、いずれも「倭国」と「倭国王」がこの地域と人々に対して「直接統治」を行う宣言としてのものと理解しています。たとえば「東国国司詔」があります。「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。」この「詔」では「万民」は全て公民(国家所有)という前提(大義名分)が謳われていると思われ、それは諸豪族に対する「直接統治」の宣言の意義として行われたものです。それがさらに顕著に表れるのが「土地兼併禁止詔」と云われる「大化元年九月」の「詔」です。「大化元年(六四五年)九月丙寅朔甲申条」「遣使者於諸國。録民元數。仍詔曰。自古以降...倭国王権の東方進出と「改新の詔」
『書紀』で「倭」について「読み」が指定されていないのはなぜか、という文を先日書きました。そこでは八世紀に入ってから新日本王権が「日本」について「やまと」と読むという、これはいわば宣言とも言えるものですが、逆に言うとそれ以前は「日本」は「やまと」ではなかったこととなると指摘しました。そしてそれと同様の理由で「倭」には「やまと」という読みの指定がないのだと書きました。つまり「倭」や「やまと」ではないというわけですが、そうなれば「倭京」は「やまとの京」ではなくなるわけであり、「倭姫」は「やまと姫」ではないこととなります。それらはいずれも歴代中国から見て「倭」と認定されていた国に冠せられる語であり、国内的には「筑紫」を中心とした領域であることもまた既に指摘しています。これらから「倭京」が本来「筑紫の京」であること...「倭京」とは「難波京」か
いつもこのブログを見てくださっている方(どれほどいらっしゃるかよくわかりませんが)には厚くお礼申し上げます。今年も押し詰まってきていますが、今年のもっともエポックメーキングなことは11月に行われた古田史学の古代史セミナーです。この古代史セミナーについては、その趣旨が「七世紀倭国の外交について」と言うもので、講演の依頼があった時点ではそれに関する研究の蓄積があまりなく、講演が可能なのか我ながら疑問であったものですが、せっかくお声をかけていただいたのですから、挑戦してみようと思った次第でした。ただし研究の蓄積が少ないので満足な内容にはならないと思い、そこからいろいろ資料を調べたり、思索を巡らせたりする作業を始めたのですが、なかなか思うように進まず、9月段階で一旦そこそこまとまったのでこれをベースにお話しさせて...2024年度年末総括と古代史セミナー
「隋」の「高祖」「楊堅」は(諡「文帝」)は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教を解放し、仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれているわけです。それまでの「周朝」(北周)が「儒教的雰囲気」の中にあり、学校教育の中身も「儒教」が中心であったわけですが、「高祖」はその「学校」を縮小したことが知られています。それは仏教重視のあまりであった事がその理由の一つであったものと思われ、そのように仏教に傾倒し、仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいると考えられた「倭国王」に対して、やはり仏教(特に「南朝」から...「隋」皇帝からの「訓令」について(二)
以下も以前投稿したものですがあちらこちら見てもほぼ触れられることのないポイントのようですから、改めて問題として提起することします。従来あまり重要視されていないと思われることに、派遣された倭国からの使者が国内における政治体制を紹介したところ、「高祖」から「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件(『隋書俀国伝』における「開皇二十年記事」)があります。「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。「劉曠,不知何許人也。性謹厚,?以誠恕應物。開皇初,為平?令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾...「隋」皇帝からの「訓令」について(一)
ここに出てくる「大興」という用語については、この時代「隋」に関してのみ使用されているものです。「大隋?者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。…謀新去故如農望秋。龍首之山川原秀麗。卉物滋阜宜建都邑。定鼎之基永固。無窮之業在茲。因即城曰『大興城』。殿曰『大興殿』。門曰『大興門』。縣曰『大興縣』。園曰『大興園』。寺曰『大興善寺』。三寶慈化自是『大興』。萬國仁風?斯重闡。伽藍欝?兼綺錯於城隍。幡蓋騰飛更莊嚴於國界。法堂佛殿既等天宮。震旦神州還同淨土。…」(『大正新脩大藏經/第四十九卷史傳部一/二○三四歴代三寶紀十五卷/卷十二』)ここで見るように「城」「殿」「門」「県」「園」「寺院」などあらゆるものに「大興」という名がつけられたと...「大興王」と「隋」の高祖
これは以前投稿したものですが、改めてここに再度投稿し、問題を提起したいと思います。『推古紀』と「元興寺縁起」の双方に「高麗」の「大興王」という人物が出てきます。それによれば彼はこの「仏像」の「黄金三百両」ないし「三百二十両」を「助成」したとされています。(再掲)「(推古)十三年(六〇五年)夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一躯。乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時。『高麗國大興王』聞日本國天皇造佛像。貢上黄金三百兩。」「…十三年歳次乙丑四月八日戊辰以銅二萬三千斤金七百五十九兩敬造尺迦丈六像銅繍二?并挾侍『高麗大興王』方睦大倭尊重三寳遙以隨喜黄金三百廿兩助成大福同心結縁願以茲福力登遐諸皇遍及含識有信心不絶面奉諸佛共登菩提之岸速成正覺歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清使副尚書...「高麗國大興王」とは誰か
「裴世清」の来倭記事を『書紀』に見ると以下のような流れとなっています。「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。...「倭国」の「軍楽隊」と「裴世清」
ところで、「三善為康」は『二中歴』を書く際に当然かなり古い資料を参照したと思われますが、この「都督歴」について言うと、この「藤原元名」付近で一旦まとめられた資料があり、そこまでの分を「省略」し、その以降の未整理の分について自ら書き継いだと言う事ではないでしょうか。この『二中歴』は「百科事典」のようなものと言われ「有識故実」について書かれているとされますが、今で言う「現代用語事典」的あるいは「広辞苑」的なものではなかったかと考えられ、それらと同様にその時点における最新の知識が随時追加されていたのではないかと思われます。「故・中村氏」はまた『…二中歴は八十二の「歴」により構成され、各歴毎に原記(書き継ぎではない)と推定される記事に年代の異同があり、八十二歴全体が一挙に編集されたものではなく、各歴により成立年代...「都督歴」と「年代歴」
以下に「都督歴」に対応する「大宰府」に派遣されていた人物たちの記録を書出します。藤原元名大宰大弐天徳二年条参議従四位上藤元名七十四仁和元年生。/三木従三位清経三男。延木五二十七兵庫助。十四年正七従五下(陽成院御給)。十七年九月玄蕃頭。廿一年八十一能登守。延長五正十二備後守。三月廿六日従五上(治国)。承平二正廿七伊與守。同六八十五大和守。同七正七正五下。天慶四正九従四下。同五三廿九美乃権守。同十二一丹波守。天暦六正八従四上。同十一日民部大輔。同七正廿九山城守。同八三十四大宰大弐。天徳二閏七廿八三木(大弐如元)。天徳三年条参議従四位上藤元名七十五月日去大弐。藤國風記録なし小野好古大宰大弐天徳四年条参議正四位下野好古七十七左大弁。弾正大弼。正月廿四日兼備中守。四月廿三日任大宰大弐。止弁弼等藤佐忠記録なし橘好古大...「都督」「太宰」と「倭国」
『二中歴』の「年代歴」の冒頭には「年始五百六十九年内、三十九年無号不記支干、其間結縄刻木、以成政」とあります。それに続いて「継体五年元丁酉」から始まり、「大化六年乙未」に終る年譜が記されています。ここで「無号」といっているのは「年号」のことと思われますが、「年始」の「年」は「年号」ではありません。つまり、「年始」を「年号が始まった年」と解釈するのは正しくないわけです。(論理上も成立しません)これは、ある時点から「年」を数え始めた、ということであり、その最初の三十九年間は「年号」はなく「干支」もなかった、ただ「結縄刻木」していただけだった、というわけです。(この事から「結縄」あるいは「刻木」のいずれかが「暦」の役割をしていたことが窺えます。)そして、その後に「継体元丁酉」から始まる「年代歴」が接続されるわけ...「年代歴」の冒頭の「年始」について
引き続き『二中歴』の「年代歴」について年次移動を想定して考察します。「教倒」の項に書かれた「教倒五元辛亥舞遊始」という記事についても、これを通常「五三一年~五三五年」と理解するより六十年遡上した年次である「四七一年」と見る方が妥当ではないかと思われることを以下に示します。この「教倒」年間は年次移動を想定すると「四七一年~四七五年」のこととなり、この「年次」はすでに見たように「斉」と「興」が共に亡くなり「武」が跡を継いだとされる時期に相当します。「武」が「四七八年」に提出した上表文では「奄喪父兄」と書かれ、「父」(斉)と「兄」(興)の両者を「同時」に失ったように書かれていますが、実際には「四六二年」の「興」の遣使の時点では「斉」は死去しているとされ、また「興」自身も彼は「将軍号」を授号されていますから、当然...「舞遊始」とは
前稿までの推論は『二中歴』の記事について「干支一巡」の移動を考慮することが必要であることを示すものですが、さらに他の例で検討してみます。たとえば『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次についての混乱も『二中歴』と同様「六十年」ずれているという可能性を示唆します。『継体紀』には以下のように書かれています。「(継体)廿五年歳次辛亥(五三一年)崩者。取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。」つまり、『百濟本記』には「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事があり、こちらのほうを信用して『書紀』もこれにならったというわけです。しかし、近畿王権の国内伝承にはこの時点でそのような「王の一家の主要な人物...『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次について
「百済」から「五世紀初め」に仏法が入ってきて以来、倭国内ではその支持を徐々に広げていた(と思われる)仏教は、「武」の時代になり、「武」ないしはその後継者である「磐井」により積極的に受容されるようになった結果、その「教典」を自分たちだけではなく、一般民衆に理解させようとすることとなったものと推察されます。そこで「仏典」を「日本語」に「訳す」必要が出て来たものであり、「日本語」を表記するのに必要な「文字」を生み出すことになったものです。つまり、「普通の人」でも「日本語」を書いたり読んだりできるようにするために「文字」(「仮名」)が発明されたと考えられるのです。逆に言うと「王権」の上層部などでは「漢文」で事が足りていたという可能性が考えられるでしょう。必要な文章は「漢文」として書けばよいと言うわけです。(このこ...「万葉仮名」の成立
既に考察したように仏教の伝来が常識とは違って「五世紀の初め」である可能性が高いことが明らかとなったわけですが、そう考えると以下の『二中歴』の記事(年代歴)の内容に疑義が生じます。それは推定される仏教の伝来時期との「食い違い」です。『明要十一元辛酉「文書始出来結縄刻木止了」』この「明要」の元年干支である「辛酉」は通常は「五四一年」とされているわけですが、この記事を信憑すると仏教伝来から「結縄刻木」が止められ「文書始出来」まで「一二〇年」ほどかかったこととなります。これは時間がかかり過ぎではないでしょうか。『隋書俀国伝』を見ても「百済」からの「仏法伝来」と「文字習得」の間には深い関係があるかのように書かれており、(「…無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。…」)この表記からは「仏教伝来」から「...「年代歴」の真の年次
前回までと同様再投稿となります。『書紀』による仏教伝来記事は以下の通りです。「欽明十三年(五三八年)冬十月。百濟聖明王更名聖王。遣西部姫氏達率怒■斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶。逐所須用。盡依情。此妙法寶亦復然。祈願依情無所乏。且夫遠自天竺。爰■三韓。依教奉持。無不尊敬。由是百濟王臣明謹遣陪臣怒■斯致契。奉傳帝國。流通畿内。果佛所記我法東流。是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰。西蕃諸國一皆禮之。豐秋日本豈獨背也。物部大連尾輿。中臣連鎌子同奏曰...『百済』からの仏教伝来の真の年次
以下も前回までと同様以前の投稿の再提出です。以下は古賀達也氏の研究(※)に依拠します。仏教の伝来に関係したこととして、『書紀』の『推古紀』の中に興味深い記事があります。「(推古)卅二年(六二四年)夏四月丙午朔戊申。三有一僧。執斧毆祖父。時天皇聞之。召大臣詔之曰。夫出家者頓歸三寶具懐戒法。何無懺忌輙犯惡逆。今朕聞。有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼以推問之。若事實者重罪之。於是集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸尼並將罪。於是百濟觀勤僧表上以言。『夫佛法自西國至于漢經三百歳。乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲。而貢上佛像及内典未滿百歳。』故當今時。以僧尼未習法律。輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如。仰願其除悪逆者以外僧尼。悉赦而勿罪。是大功徳也。天皇乃聽之。」この記事の解釈の代表的なものは「大系」の注...『百済僧』『觀勤』の上表
前回と同様以前の投稿の再提出となります。『二中歴』の「年代歴」の冒頭部分に「結縄刻木」というものが出てきます。「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」これについては以前「縄の結び目のバリエーションで意志を伝え合い、年数は木に刻み目をつけて数を表す」というものと理解していましたが、その後検討した結果、これは「逆」であり、「縄の結び目で数を表し、木に文様を刻みつけて意志をを伝え合う」ものというように理解を変更します。「結縄」により「数字」を表すのは世界の各地で見られた習慣であり、ある意味普遍的なものでした。また「数字」を表すことができれば「日付」の表記には有効であるのは確かです。また「刻木」は「漢籍」を探ると以下のように中国の周辺の諸国(いわゆる夷蛮の国)において「メッセージ」(指示や伝達な...「結縄刻木」について
以下は以前すでに投稿したものですが、改めて記して仏教の伝来についての常識を疑ってみます。仏教の伝来については「高句麗」は「前秦」から四世紀前半に伝わったとされ(『三国史記』による)、また「百済」には四世紀後半に「東晋」から伝わったとされます。『三国史紀』によればそれは「三八四年」の記事とされています。「沈流王元年」(三八四年)「九月胡僧摩羅難自晉至王迎之致宮内禮敬焉佛法始於此。」(『三国史記』百済本紀)しかし、「倭国」(と「新羅」)には六世紀になってやっと伝わったものと従来考えられています。この時間差は何を意味するのでしょうか。「倭国」への仏教の伝来については従来二つの代表的な説があるようです。「五五二年」説と「五三八年」説です。「五五二年」説の根拠は『書紀』に「欽明天皇十三年」とあるところからです。「欽...「常識」としての「仏教伝来」
前回から続きます。「斉明」の詔からは新羅を攻めるという予定であったと思われます。紓拯(六六〇年)六年「冬十月。…詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。紓彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。」ここに出てくる「沙喙」という地名は新羅の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地と考えられていることを踏まえると、この時の派遣される軍は新羅を直接叩くという予定であったと思われます。そのことはこの「詔」とは別の記事においても同様のことが書かれていることで裏付けられます。同年是歳条「是年。欲爲百濟將伐新羅。乃勅駿河國。造船。…」ここでもやはり百済を救うために新羅を「伐」とされ...「唐軍の捕虜」という意味
以下は「大伴部博麻」の捕囚についての現時点での認識です。『書紀』には「持統四年(六九〇年)九月条として「三十年間」「唐」軍の捕虜になっていた「軍丁筑紫国上陽羊郡大伴部博麻」が「新羅」からの使節に随行して帰還した記事があります。咩「(持統)四年(六九〇)九月丁酉。大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽咩郡大伴部博麻。從新羅送使大奈末金高訓等。還至筑紫。」そしてその「直後」にその「大伴部博麻」を顕彰する記事があり、その内容は、彼が「百済を救う役」で捕虜になった際に、同じく捕虜になっていた「筑紫君薩夜麻等」を解放するために、自分の身を売って金に代え旅費とした、というものであり、「持統」の詔ではこの行為を「激賞」しています。「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫...「大伴部博麻」達の捕囚について
本年11月9―10日の日程で開催予定の標記【古田武彦記念古代史セミナー】で当方が講演をすることとなりました。現在そこでお話する内容を詰めていますが、正直ちっともまとまりません。5月17日までに講演タイトルと概要を提出することとなっているのですが、現時点ではいずれも悩んでいる最中です。与えられたテーマが七世紀の倭国の外交というものであり、日本国と倭国の存在状況について述べよというわけですが、当ブログをお読みの方はわかっていらっしゃると思いますが、そのあたりの論をあまり手掛けていないのが現状です。そのため急ごしらえで(!)論を練っているというわけですが、この時代の列島の状況はかなり混沌としており、そのせいか海外資料もそこそこ混乱しているなど信頼できる依拠資料にも事欠く有様です。そういうこともあってあまり深く考...【古田武彦記念古代史セミナー2024】での講演の件
以前何かで見たんですけど(すでに古いことなのでソースがわからない)。全国都道府県で「あなたの県の県庁所在地の言葉と東京の言葉とどちらが標準語に近いですか」という設問に対して、ある1か所を除いて全て「東京の言葉の方が標準語に近い」と答えたとのことで、その例外の1か所というのが「北海道」だったそうです。つまり北海道の人は「東京の言葉よりも札幌の言葉の方が標準語に近い」と考えていることとなります。この結果を以前知ったときは「北海道の人にとって札幌の持つ意味が他の県の人がその県の県庁所在地に対する感情と全く違うんだな」と思っただけでしたが、その後考えてみるとそれだけではないことに気が付きました。それは「標準語」の必要性が高かったのは北海道で特別であったということに気が付いたからです。ご存じのように北海道は国策で開...標準語と札幌
「改新の詔」に先立って「東国国司詔」が出されています。「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。」この「詔」では「万民」は全て公民(国家所有)という前提(大義名分)が謳われていると思われ、それは諸豪族に対する「牽制」の意義が強いと思われます。それが顕著に表れるのが「土地兼併禁止詔」と云われる「大化元年九月」の「詔」です。「大化元年(六四五年)九月丙寅朔甲申条」「遣使者於諸國。録民元數。仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又株國縣山海林野池田。以爲己財。爭戰不已。或者■并數萬頃田。或者全無容針少地。及進調賦時。其臣連。伴造...「改新の詔」と「部民」と「奴婢」
今日は「5月5日」「こどもの日」ですが、もともとは「端午の節句」であり、「薬獵(薬狩り)」の日でした。それにちなんで以前書いたものを再度投稿します。「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」)を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば『元亨釈書』によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの「垢こすり」をしたとされ、「全身」が「炎症」を起こし、あちこちが「膿んでいる」ような病気の方については、その傷口の「膿」を口で吸い取ったという逸話まであります。これほどの「献身」が、単に「光明皇后」という一人の女性の「思いつき」でできるものでしょうか。つまり、彼女には「啓発」されるよ...「薬獵(藥狩り)」について
「九州倭国王権」は「六世紀末」という時期に「近畿」へ勢力を進出させ、「難波」に仮宮を設けたと思われますが、その際に「評制」を全面的に施行し、「評督」や「助督」(あるいは評造)という「制度」(職掌)を定めたと見られます。そしてこれらの「制度」の「トップ」と言うべき存在は「都督」であったと思料されます。『書紀』の『天智紀』には「熊津都督府」から「筑紫都督府」への人員送還記事があります。「百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等送大山下境部連石積等於筑紫都督府」「(天智)六年(六六七年)十一月丁巳朔乙丑条」これによれば「六六七年」という段階で「都督府」が存在していることとなりますから、(当然)「筑紫」には「都督」がいたことと考えざるを得ません。そして、この「都督」が「評督」と深く関係している制度である...「評」と「都督」の関係
『書紀』では『天武紀』に「諸国限分」を行った記事があります。「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」この記事によれば「諸国」とありますが、実際には「限分」されたのは全て「東国」です。それは以下の記事が証明しています。「詔曰。東山道美濃以東。東海道伊勢以東諸國有位人等。並免課役。」「(天武)十四年(六八五年)秋七月乙巳朔辛未条」この中の「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国」という言葉からは、「分限」されたのが「東国」諸国であったことを示しています。これは「評制」施行のために「境界画定」作業を行なったことを意味するものであり、その労苦に報いて「課役」を免除すると...「評」と「防人」の関係
ところで、なぜ「磐井」は自らの業績を誇るために設置した石像などで、特に「猪窃盗犯」の裁判風景を描写したのでしょう。他の物品でも良さそうなものではないか思われるわけですが、ここで「猪」が特に登場しているのには、「意味」があるのではないかと考えられるのです。それは「当時」「猪」が最高級品であったからではないでしょうか。一番高価なものを盗んだ事に対して行なわれた「審判」の情景を「例」としてそのまま「陳列」し「展示」すると言うこととなったのではないかと推察されるものです。後に『天武紀』で「肉食禁止令」が出されますが、そこでは「且莫食牛馬犬猿鶏之完」とされ、「猪」が含まれていません。このことは「以前」から「猪」は食べて良いという事になっていたことを示すと考えられますが、その肉は「高級品」であり、「庶民」はなかなか口...猪と家畜