chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
J.W.Mccallister,jr
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2014/11/03

arrow_drop_down
  • 『倭人伝』シリーズ(8)

    「投馬国」の位置として「邪馬壹国」の北にあるという主張があります。その根拠としては、「邪馬壹国」の前に「南至る」と有り、それが「郡治」からの方向であるとして、その構文と同一である「投馬国」も同様であるというものです。しかしそもそも『倭人伝』の冒頭は「倭人在帯方東南大海之中」という大方向指示があり、そこには「東南」とありますから「南」が「郡治」からの方向とすると食い違ってしまいます。あくまでも「南」が「郡治」からの方向であるとすると「東南」は「邪馬壹国」の方向ではないこととなりますが、「常識的に考えて」それはいかがなものと思われます。「倭人」の代表として「邪馬壹国」の「卑弥呼」を「倭王」としたからには、「倭人」のいる方向としてはやはり「邪馬壹国」の方向を示して当然です。そうであれば「南至」という「邪馬壹国」...『倭人伝』シリーズ(8)

  • 『倭人伝』シリーズ(7)

    すでに述べましたが「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていたであろうことを推定しています。さらにこれに加え「一大率」が「常治」していたという「伊都国」の重要性を指摘することができます。「伊都国」は「郡使往來常所駐」という書き方から見ていわば「ベースキャンプ」とでもいうべき位置にあったと思われ、ここは列島内各国へと移動・往来する際の拠点となっていたと考えられますが、それを示すのが以下の記事であり、この記事はいわば「道路」の「方向・距離表示板」の如く「行程」記事が書かれていると考えます。つまり以下は全て「伊都国」からの方向と距離を示していると考えるものです。(但し「邪馬壹国」の「水行十日陸行一月」は「郡より倭に至る」...『倭人伝』シリーズ(7)

  • 『倭人伝』シリーズ(6)

    「伊都国」と「一大率」の拠点としての博多湾岸について考察したわけですが、それは必然的に「邪馬壹国」の領域としてやや南方に下がった位置を措定することとなります。古田氏をはじめとする多元史観論者の多くは「邪馬壹国」の領域として「博多湾」に面した「筑前中域」と称する領域を措定していますから、上に展開した私見とは異なります。古田氏は「卑弥呼」が「魏」の皇帝から下賜された宝物類に良く似たもの(構成)が「須久・岡本遺跡」の遺跡群から出土するとしてこれが「卑弥呼」の「墓」と理解しているようですが二つの点で疑問があります。一つは「薄葬令」です。「魏」の「曹操」とその息子の「曹丕」は共に「薄葬」を指示し、墓には華美な宝玉類を入れないようにと遺言しています。「卑弥呼」が(あるいは「倭王権」が)これを守ったなら墓からはそのよう...『倭人伝』シリーズ(6)

  • 『倭人伝』シリーズ(5)

    『倭人伝』の記述によれば「郡使」あるいは「皇帝」からの「勅使」は「いつも」「對馬国」を経て「一大国(壱岐)」~「末廬国」へと行くコースを使っていたと理解されます。「始度一海、千餘里至對馬國。…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。…又渡一海、千餘里至末盧國。…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。…自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」これによれば「一大国」を経て「郡使の往来」に「常所駐」とされる「伊都国」へという行程には途中「末廬国」を経由するというコースが常用されていたものと考えられ、いいかえればこのような往来...『倭人伝』シリーズ(5)

  • 『魏志倭人伝』シリーズ(4)

    『魏志韓伝』には以下のような記述があります。「…辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。有巳柢國不斯國弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國勤耆國難彌離弥凍國弁辰古資彌弥凍國弁辰古淳是國冉奚國弁辰半路國弁楽奴國軍彌國弁軍彌國弁辰彌烏邪馬國如湛國弁辰甘路國戸路國州鮮國馬延國『弁辰狗邪國』弁辰走漕馬國弁辰安邪國馬延國『弁辰涜盧國』斯盧國優由國弁辰韓合二十四國大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸其十二國属辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立為王。土地肥美冝種五穀及稲暁蠶桑作?布乗駕牛馬。嫁...『魏志倭人伝』シリーズ(4)

  • 『倭人伝』シリーズ(2)

    前回から続く『倭人伝』では「半島」と「対馬」の間ではなく「対馬」と「壱岐」の間に「瀚海」という名称が書かれています。そのことは「対馬」と「半島」(狗邪韓国)との間に「国境」があることが推定でき、またこの「名称」(漢語)は「倭人側」の命名とみることができるでしょう。つまりここだけに特に名称がついている理由として「対馬」までが「邪馬壹国」率いる「倭王権」の範囲とみられるからです。もし「半島」にも「倭王権」の統治が及んでいるのなら「半島」と「対馬」間の「朝鮮水道」にも名前がついていて当然と思われます。「対馬」に至って初めて「倭王権」の統治範囲に入ったと考えれば(逆に言うと「対馬」までが倭王権の統治範囲であるとすれば)、その向こう側の海域には「倭王権」による命名がないのは当然といえます。「対馬」から「壱岐」までの...『倭人伝』シリーズ(2)

  • 『倭人伝』シリーズ(3)

    さらに前回から続く『三國志』の『高句麗伝』をみると以下のことが書かれています。「…又有小水貊。句麗作國、依大水而居。『西安平縣北有小水。南流入海。』句麗別種依小水作國。因名之爲小水貊。…」(『高句麗伝』より)ここには「西安平縣」の「北」に「小水」があると書かれています。この「小水」は「西安平縣」の中にあるのでしょうか。そうではないことは同じく『高句麗伝』の中の次の記事から判ります。「漢光武帝八年、高句麗王遣使朝貢。始見稱王。…宮死子伯固立。順、桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷。又攻『西安平』、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」(『高句麗伝』より)また『漢書』をみても「西安平縣」は確かに「遼東郡」に属しています。「遼東郡,秦置。屬幽州。?五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平,有牧師官。...『倭人伝』シリーズ(3)

  • 『倭人伝』シリーズ(1)

    以下は以前投稿したものをやや改変したものです。『魏志倭人伝』に現れる「国名」と「官名」については、「邪馬壹国」率いる体制の中での「国名」であり、「官名」であると考えられます。つまり、「倭王」たる女王(卑弥呼)がいて、彼女の元に一種の「官僚体制」が存在しており、その体制の中で各国に「官」が派遣、ないし任命されていたものと考えられます。このような権力集中体制は「東夷伝」による限り「倭」だけであったと思料され、先進的な国家体制が構築されていたと見られます。このことはこの時の「邪馬壹国」とその統治範囲の「諸国」が「部族連合」であるというような評価が妥当しないことを示します。部族連合ならば「中央」から「官」が派遣されていることはあり得ないといえるからです。その点から考えると、この『魏志倭人伝』の行程を記す記述の中に...『倭人伝』シリーズ(1)

  • 「倭」と「倭国」―金印の読み方との関連で―

    リバイバルシリーズ第3弾です。「倭」と「倭国」―「金印」の読み方との関連で―「要旨」『後漢書』に出てくる「委奴国王」はその授けられた金印には「倭国王」とも「倭王」ともされていないこと。「帥升」は「倭国王」と呼称されているものの「金印」を授与されていないこと。そのことからこの『後漢書』の「倭国王」という称号には疑いがあること。「卑弥呼」も「魏」の皇帝からは「倭国王」ではなく「倭王」という称号を授与されていること。それは「倭地」内に「狗奴国」という反対勢力があったためと思われること。「倭」は一種の「地方名」「地域名」に過ぎないものであり、その時点では「国家」としての体裁を整えていたとは思われないこと。『後漢書』の性格から「倭国」「倭国王」という呼称は「五世紀」の実情を古代に延長したものであると考えられること。...「倭」と「倭国」―金印の読み方との関連で―

  • 「鞠智城」について ―「北緯三十三度」の地とは(再度)

    リバイバルシリーズの第2弾です。(第1弾は「遣隋使」関連のもの)以下の論はかなり以前に投稿したものですが、このままでは採用されずその後前半部分を割愛した形で再編集したものが「古田史学会報一五五号」に採用・掲載されています。「鞠智城」について―「北緯三十三度」の地とは「要旨」『延喜式』に残る「日の出・日の入り時刻」データから「平安京」以外の場所である「北緯三十三度」の地点が「都」であった時代があると推察され、その場所としては「鞠智城」付近が想定されこと。その「天文観測データ」の収集開始時期は「倭の五王」の最後の王である「武」の時代付近ではなかったかと考えられること。そのことなどから「肥後」が「倭国王権」の中心であった時代があったと見られること及び「難波京」のプロトタイプとして「鞠智城」が存在していたと推察さ...「鞠智城」について―「北緯三十三度」の地とは(再度)

  • 隋皇帝からの「訓令」とは-2

    「隋」の高祖「文帝」は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教を解放し、仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれているわけです。彼はそれまでの「北周」による宗教弾圧から回復させたわけですが、「学校」における教育の中身が「儒教」が中心であったことから文帝はその「学校」を縮小したことが知られています。それは仏教重視のあまりであった事がその理由の一つであったものと思われ、そのように仏教に傾倒し、仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいると考えられた「倭国王」に対して、やはり仏教(特に「南朝」からもたらされ...隋皇帝からの「訓令」とは-2

  • 「釆女」と「兵衛」-2

    「釆女」と「兵衛」について引き続き検討します。「裴世清」の来倭記事を『書紀』に見ると以下のような流れとなっています。「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而...「釆女」と「兵衛」-2

  • 隋皇帝からの「訓令」について-1

    以前として再投稿の論となります。従来あまり重要視されていないと思われることに、「兄弟統治」と思われる政治体制を「遣隋使」が紹介したところ、「高祖」から「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件(『隋書俀国伝』における「開皇二十年記事」)があります。「…使者言俀王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。「劉曠,不知何許人也。性謹厚,?以誠恕應物。開皇初,為平?令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾,各自引咎而去。…」(「隋書/列傳第三十八/循吏/劉曠」)「元善,河南洛陽人也。…開皇初,拜?史侍郎,...隋皇帝からの「訓令」について-1

  • 采女と兵衛

    以下もまた以前投稿したものの再提出です。『隋書俀国伝』では後宮に「多数の女性がいる」とされます。「王妻號■彌,後宮有女六七百人。」これについては、これを「妃」や「妾」とする考え方もあるようですが、中国の例から考えてもさすがに多すぎると思われ、実際にはその多くが「釆女」であったと見るべきでしょう。この人数が「王妻」記事に続けて書かれている事からも、平安時代の「女御」「更衣」などと同様の職務を含むことが推定され、彼女たちについては「釆女」と見るのが相当と思われます。つまり「後宮」は平安時代などと同様に男王であるか否かに関わらず存在していたであろうと考えられますから、これら全てを「妃」などと考える必要はないと思われるわけです。またその数から考えて『隋書』の記事において全部で一二〇〇人いるとされる「伊尼翼」のおよ...采女と兵衛

  • 「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも-4)

    以下前回からの続きとなります。「観世音寺」の鐘と「妙心寺」の鐘には「銘文」の有無のほか微妙な違いがあり、若干「観世音寺」の鐘のほうがその製造時期として先行すると見方もあり、その意味では明らかな「同時期」とは言えない可能性もありますが、それがどの程度の時間差を伴うものかは不明とされ、同一の「木型」を使用しているとすると大きな時間差(年次差)は想定するのは困難ではないかと思われます。(同一の「鋳物師」によるとする説(※1)もあるようです。)(現在「観世音寺」では頒布資料などで「六八一年」製作としているようですが、これはその根拠となる事実関係が不明であるため、確定したものとは言えないと思われます。)さらに、この「筑紫尼寺」については『続日本紀』の誤記とする説が支配的であり、その理由のひとつとして資料から明確に「...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも-4)

  • 「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-3

    (以下さらに前回からの続き)ところでこの「壇林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように、「尼寺」であるとされます。『文徳実録』「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」ここで「比丘尼」を「持律者」として遣わしたとされており、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(後には唐から招来した僧「義空」が常住するようになったとされますが、唐初は「尼寺」であったものと思われ、「義空」が唐に帰国した後も「尼寺」として存在し続けたらしいことが推察されます。)そうであれば「鐘」がもたらされることとなった元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性が考えられるでしょう。その意味では『続日本紀...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-3

  • 「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-2

    (以下前回からの続き)ところで「徒然草」には「天王寺」の楽について書かれた段があり、その末尾に「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。(徒然草第二百二十段)「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて,ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の御時の圖今に侍るをはかせとす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-2

  • 「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-1

    下記の論はやや迂遠ではありますが、間接的に「遣隋使」による仏教奨励策の一環として「寺院」に必須の「鐘」が「隋皇帝」(文帝)から「下賜」されたという論の一部を形成しています。「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について鎌倉時代に「後深草院二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した「とはずがたり」という随筆様の文学があります。その巻三の中に以下のような記述があります。「…れいの御しやくにめされてまいる一院御ひわ新院御ふえとう院こと大宮の院姫宮御こと春宮大夫ひわきんひらしやうのふえかね行ひちりき夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」ここでは天皇以...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-1

  • 「七弦琴」について(再再度ぐらいかな)

    以前投稿したものですが、これもまた「遣隋使」に関連する論となります。「七弦琴」―「帝王の琴」と倭国要旨「隋書俀国伝」中には「五弦琴」が確認でき、まだ倭国には「七弦琴」が渡来していないと考えられること、「源氏物語」には「七弦琴」が(当時廃れていたにもかかわらず)「帝王」の楽として琴(きん(きむ))が現れ、これが「七弦琴」と考えられること、「五行」に音階をつけた「納音」が「七弦琴」とともに渡来したと思われること、また「尺八」も同時に渡ったものと思われ、いずれも「隋皇帝」からの下賜によると思われ、仏教治国策の一環としての供与であったと思われること、以上について述べます。Ⅰ.「隋書」における「五弦琴」倭国の「琴」としては古墳その他に出土する「琴」と思われる遺物及び「琴」を演奏している状態を示していると考えられる「...「七弦琴」について(再再度ぐらいかな)

  • 「遣隋使」関連論考として

    以下も「遣隋使」論考の一端に位置するものです。「高麗大興王」とは誰か「趣旨」ここでは『推古紀』と『元興寺伽起』に登場する「高麗大興王」について検討し、それが「高麗王」の誰かを指すものとは考えにくいこと、他の「高麗王」に「大興王」のような称号を冠したものが見られないこと、「隋」の「高祖」(文帝)と「大興」という地名には特別な関係があること、「文帝」と「仏教」にも特別なつながりがあり、「倭国」において「仏像」を造る際に助成することは当時の情勢からもありうること、以上を述べるものです。Ⅰ.「高麗」の「大興王」とは『推古紀』と『元興寺縁起』の双方に「高麗」の「大興王」という人物が出てきます。それによれば彼は「仏像」を造るに際して「黄金三百両」ないし「三百二十両」を「助成」したとされています。「(推古)十三年(六〇...「遣隋使」関連論考として

  • 「訓令」と「薄葬令」について

    「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」「要旨」「六世紀末」に(特に西日本で)「前方後円墳」の築造が停止されたのは「王権」から「停止」に関する「詔」(命令)が出されたと考えられること。『孝徳紀』の「薄葬令」の内容分析から、これが「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。その内容から実際には「六世紀末」時点で出されたものと考えて整合すると思われること。それは「隋」の「文帝」から「訓令」されたことと関係していると思われること。等々を考察します。Ⅰ.「前方後円墳」の築造停止各地の墳墓の変遷についての研究から「前方後円墳」は「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉にその築造が停止されるとされています。(註一)正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始め...「訓令」と「薄葬令」について

  • 別の論考として

    前回までと同趣旨ですが、別の論考を示します。「大業三年記事」の「隋帝」の正体―「大業起居注」の欠如と「重興仏法」という用語―「趣旨」『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次の信憑性に疑いがあること。その「大業年間」記事中の「倭国王」の言葉として表れる「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(文帝)に向けて使用されたものとしか考えられず、他の文言(「大国維新之化」「大隋禮義之国」等)も「隋代」特に「隋初」の「文帝」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当である...別の論考として

  • 「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-6)

    今回が表記シリーズの最後となります。「『遣隋使』はなかった」か?(六)「要旨」『隋書』の「開皇二十年」記事についてその内容が国交開始時点のものであると見られること。「隋代七部楽」の制定との関連から「隋初」に「遣隋使」が「倭国」の国楽を「隋」に献納したらしいこと。「伊吉博徳」の記録に「洛陽」を「東京」と称している部分があることから、大業年間の「遣隋使」が本当にあったか不審であること。記事の整合性から考えて、『隋書』と『書紀』双方に記事移動があったらしいことが推定できること。以上を検討します。Ⅰ.「開皇二十年」記事について先に行った「大業三年記事」についての疑いはそのまま「開皇二十年記事」にもつながるものと思われます。この「開皇二十年」記事を正視すると、「国交開始」記事であると推測できます。(確かにそれ以前に...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-6)

  • 「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-5)

    以下も前回からの続きとなります。「『遣隋使』はなかった」か?(五)―「重興仏法」という語の解釈を中心に―「要旨」ここでは『隋書』の「大業三年記事」にある「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(高祖)に向けて使用されたものとしか考えられないこと、さらに「大国維新之化」「大隋禮義之国」等の用語も「隋代」特に「隋初」の「高祖」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当であること、「裴世清」の昇進スピードについての解析も「大業三年」記事に疑いがあることを示すこと、以上を考察します。Ⅰ.「菩薩天子」と「重興仏法」という用語について前稿で述べた『隋書』の「大業年間記事」について信憑性に問題があるということについては、『隋書?国伝』の「大業三年」記事の中に「倭国王」の言葉として「聞海西菩薩天子重興...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-5)

  • 「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-4)

    さらに前回からの続きです。「『遣隋使』はなかった」か?(四)―『隋書』の成立に関する事情の考察から―「要旨」前項では古田氏の指摘した部分について検討し、『推古紀』記事が「唐初」とはいえない可能性を指摘し、実際には「隋初」のことではなかったかという点について考察したわけですが、ここでは『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次に疑いがあること。以上について考察します。Ⅰ.『隋書』に対する疑い-大業年間の「起居注」の亡失について-『隋書俀国伝』には「大業三年」の事として「隋皇帝」が「文...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-4)

  • 「『遣隋使』はなかった」か?再々再度かな-2

    以下前回の続きです。「『遣隋使』はなかった」か?(二)―「寶命」問題を中心に―「要旨」ここでは「寶命」問題について検討し、「寶命」が「初代」にだけ使用されるあるいは特異な即位の際に使用されるという古田氏の意見は成立しがたいこと、「寶命」は「前皇帝」との関連で使用されるものであり、「二代目」でも、あるいは通常の即位であっても使用される用語であること、「南北朝」以降は「禅譲」された「新王朝」の「初代皇帝」において(「前皇帝」の関係として)多く使用された実績のある用語であり、「天命」とは明らかに異なる意味として使用されていること、国書中の他の文言についても「唐」の「高祖」の使用例と合致しない語が多数に上ること、そのことから国書そのものの年代として「隋代」が想定されること、以上を考察します。Ⅰ.「寶命」問題につい...「『遣隋使』はなかった」か?再々再度かな-2

  • 「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-3)

    前回からの続きです「『遣隋使』はなかった」か?(三)―古田氏の指摘した事項についての検討―「要旨」前稿では「寶命」問題を中心に考察しましたが、ここでは氏が「遣隋使」ではなく「遣唐使」であると推論した部分についてさらに考察し、『書紀』編者の「唐」への傾倒はかなり強く、「唐」「大唐」という表記に統一することにより「隋」王朝はなかったこととされてしまったらしいこと、「豊章」(扶余豊)の来倭の年次については確かに「ずれて」いるという可能性はあるものの、『隋書』の範囲を超えた年次まで同様に年次移動が行われたとは考えられず、「遣隋使」記事に直結しないと考えられること、「呉国」表記は「南朝」を表すと見るべきであり、「隋初」の時期が真の時期として推定できること、『推古紀』記事の国書には「国交開始」を示す文言が存在するもの...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-3)

  • 「遣隋使はなかった」か?(再々再度かな)

    この頃研究も進まず、過去の論を見ているだけではありますが、やはり、何度でも言わずにいられないという気分になり、いくつか並べてみることとします。「『遣隋使』はなかった」か?(一)―「宣諭」という語の解釈を中心に―「要旨」ここでは「宣諭」という用語の意義から考えて「無礼」な国書を咎める内容の指示、あるいは強い指導とでも言うべきものが「倭国」に施されたと見られること、それは「隋」から見ると「許されない」性質のものであったために行なわれたものであり、国書の持つ本来の意義から考えて、このような「無礼」な国に対して「友好的な」内容の国書などは出されるはずがないこと、さらに「文林郎」という職掌は国書提出の任にないこと、以上から『推古紀』の「国書記事」と『隋書俀国伝』の「大業三年」記事とは大きく齟齬するものであり、同一の...「遣隋使はなかった」か?(再々再度かな)

  • 「伊都国」の位置についての新理解(再度)

    以下は以前投稿したものですが、最近「古田史学の会東海」で同様の思惟進行の論(「東海古代研究会」の会報「東海の古代」第277号、田沢正晴氏の「伊都国は吉野ヶ里だった」)を見たので、同意する意味で再度投稿するものです。また氏の論の中に「上陸地点」も「伊都国」もどちらも「肥」の国としてとらえることができるという指摘は強く示唆的であり、その後「倭王権」が「肥後」方向に移動したと見る立場からすると、それもまた同一統治領域の中の移動としてとらえることが可能となり、移動に関わる政治的理由もわかりやすくなります。『倭人伝』に出てくる「伊都国」について新しい理解に到達したので、以下に記します。『倭人伝』には以下の記述があります。「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往...「伊都国」の位置についての新理解(再度)

  • 昨年の木星「第2弾」

    昨年の木星第2弾です以下は木星の衛星が木星の前を通過していくにつれ、その影が木星表面に落ちて移動する映像です。(昨年12月3日20時16分から21時10分まで)最初の画像で「輝点」が右側に見えますが、これは衛星「エウロパ」と思われます。その後この「輝点」が左側に移動していくと今度はその影が「右端」に表れます。(衛星本体が「木星」表面に埋もれてしまい見にくくなりますが)この移動に要する時間はわずか54分間であり、まさにあっという間です。木星を見る楽しみの一つがこの早い動きです。一晩中快晴ならほぼ木星全体が見えてしまいます。(自転周期が10時間ほどのため)この日も曇りがちでしたが、この直後全面的に曇ってしまい、店じまいとなりました。(大気の乱れがあると木星表面の前に屈折率の違うレンズがあるような状態となってピ...昨年の木星「第2弾」

  • 昨年の木星

    昨年撮影した木星をいくつかアップします。撮影機材は昨年入手したセレストロンの28cmシュミカセに2022年同様CMOSカメラの「NeptuneCⅡ」及び3倍バーローレンズという組み合わせです。以下の1-6まで画像は1時間15分ほどの間の木星の自転と衛星(確か「イオ」だと思う)の運動が記録されており、見ているとあっという間に動いているという感じでとても面白いものです。(「イオ」は後ろから現れたと思われます)撮影日は2023年10月8日22時01分から23時17分までです。共通撮影データはアナログゲインが「237」、露出時間「13.0860ms」、フレーム数は1000です。(最高画質から95%範囲をコンポジットしており、ステライメージで編集しています)この日は曇りがち(というか雲の合間に木星が見えるという程度...昨年の木星

  • 「庚午年籍」と「国印」

    当ブログをご覧の皆様遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。本年が皆様にとって良き年になりますよう祈念いたします。このブログも開設して10年を半年ほど経過しました。これからも折々記事を投稿していこうと思います。ということで以下が本年第一号投稿となります。といっても単に思い付きの域を出ないものですが…。『続日本紀』に「筑紫諸国の庚午年籍」に「官印を押した」という記事が出てくるのは知られていますが、この「庚午年籍」は元々どこにあったものなのでしょうか。当方は以前からこれが「大宰府」にあったはずのものでそれがいずこかに持ち出されていたものを新日本王権が探索し、それが入手された時点がこの「七二七年」であったと考えていますが(今でもそうは思いますが)、この「庚午年籍」にはもとも何が押されていたのでしょうか...「庚午年籍」と「国印」

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、J.W.Mccallister,jrさんをフォローしませんか?

ハンドル名
J.W.Mccallister,jrさん
ブログタイトル
古田史学とMe
フォロー
古田史学とMe

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用