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  • 【伝説の集落】百夜月 - 陸路からは絶対に到達できない!古い伝承が残る廃村の現在の姿を追う

    全国には至るところにこのような物語があるものだ。ただの作り話や虚構などではなく、必ず由来があって、そして言い伝えとして残っているのである。そのことをお寺の歴史を調査していく中で改めて思った。一見してみると全く関係ないと思っていたことが、まさか、となって繋がっていった。必ず由来があるのだ。この動画に出てくる尼僧や護良親王の妻子にまつわるお話もなんだか由縁を知ると切ないながらにも、実際の廃寺跡、ひっそりとある五輪塔やお墓を観ると何だか伝わってくるものがあり、胸が苦しくなる。【伝説の集落】百夜月-陸路からは絶対に到達できない!古い伝承が残る廃村の現在の姿を追うhttps://youtu.be/6XxzqA3Uqjs【伝説の集落】百夜月-陸路からは絶対に到達できない!古い伝承が残る廃村の現在の姿を追う

  • 古・神感寺由来の柘榴(ざくろ)について

    古・神感寺が由来と思われる柘榴(ざくろ)の木の子孫が往生院に現存してある。江戸期に、往生院には日本一有名な大木の柘榴があり、これは更にその子孫(5本現存確認)の、去年に成って、まだ木についていた実の種。この種から苗木を作れたら、その幾つかを古・神感寺の跡地に植えることで、南北朝期には楠木家の城として互いに会通していたが、楠木正行と高師直が激突した四条縄手の戦いで、生駒側から攻め込んできた佐々木道誉軍により灰燼と帰して、それが元で室町期には廃寺となった神感寺の面影を偲べる供養とできればと考えている。とにかく、まずは芽が出てくれたら。。大要塞・生駒山神感寺改訂版http://blog.livedoor.jp/jinjamall/archives/9636993.html河内神感寺跡http://www7b.b...古・神感寺由来の柘榴(ざくろ)について

  • 年表関連の一考集について

    往生院・最新年表はこちらになります↓http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html本能寺の変についての一考明智光秀による「本能寺の変」の背後には、南北朝の対立による影響もあったのではないだろうかと考えられる。織田家は信秀の時代から、有力臣下には南朝功臣たちの子孫が多く、やがて信長を総大将として、南朝方による復権へと向けた工作意図があった可能性も否定できない。楠木家の子孫である楠木正虎も、書記官として信長の近くにて仕えている。南朝最大の遺臣である北畠家に織田信雄(のぶかつ)を養子として北畠の家門を継がせたのも、南朝功臣たちの子孫への配慮であったと思える。また、津島大橋家(大橋重長)と織田家(信秀の娘)との間の子・信弌(のぶかず)は、織...年表関連の一考集について

  • 「 焼香の意義について 」岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料

    「焼香の意義について」岩瀧山往生院六萬寺令和5年8月・お盆施餓鬼法要配布資料岩瀧山往生院六萬寺令和5年8月・お盆施餓鬼法要配布資料「焼香の意義について」現代における仏教の供養、祭祀儀礼において、実際に自らの行為として行うものとなると、その一番の代表として、「焼香」を挙げることができます。昔は、共に読経をしたり、お遍路のような講巡り、写経の納経等、後生や故人・先祖への追善のためとして、実際に、様々な仏事、供養、功徳に取り組むことが多くあったものの、今では、そのほとんどが成されることが少なくなりつつあり、焼香(線香)のお供えが、主となって残っているのが現実的なあり方となっています。特に、葬儀においては、喪家、会葬者共に実際に、自らの行為として具体的に行う主な供養も、焼香となっている次第であります。また、寺院の...「焼香の意義について」岩瀧山往生院六萬寺令和5年8月・お盆施餓鬼法要配布資料

  • 日本における祟りや怨霊伝説についての一考

    日本における祟りや怨霊伝説についての一考日本においては、祟り、怨霊伝説はたくさんあるし、絶対に立ち入ってはいけない、禁足地として現在でも残ってあるところも多くある。樹木伐採が古来より厳禁されてあるところなどもそうである。祟り、怨霊の類は、有るのか、無いのかといえば、無いとは言えないぐらいにしか考えてはいなかったが、最近は有ると考えるようになった。顕密共の精緻な仏教教理哲学、認識論・論理学を有するチベット仏教においてでさえも、シュクデン等、怨霊への畏敬崇拝が、時にゲルク派をも二分するほどのものとして、この現代でさえ控えている。話は少し変わるが、近場でもよく店が変わるところがいくつかすぐに思いつく。立地条件は抜群なのに、潰れてはコロコロ店舗が変わるのである。条件は良いので店子は入るのだが、まず長くもたない。土...日本における祟りや怨霊伝説についての一考

  • 往生院関連年表を最新に更新しました

    往生院関連年表を最新に更新しました桜井寺・善信尼帰国入寺役行者・岩瀧山開山女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった聖武天皇勅願・行基開基六萬寺・本尊・薬師如来宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。...往生院関連年表を最新に更新しました

  • 本能寺の変・徳川家・関ケ原の戦い・後南朝・美作後南朝についての一考集・加筆修正

    本能寺の変・徳川家・関ケ原の戦い・後南朝・美作後南朝についての一考集・加筆修正本能寺の変についての一考明智光秀による「本能寺の変」の背後には、南北朝の対立による影響もあったのではないだろうかと考えられる。織田家は信秀の時代から、有力臣下には南朝功臣たちの子孫が多く、やがて信長を総大将として、南朝の復権へと向けた工作意図があった可能性も否定できない。楠木家の子孫である楠木正虎も書記官として信長に仕えている。南朝最大の遺臣である北畠家に織田信雄を養子として北畠の家門を継がせたのも、南朝功臣たちの子孫への配慮であったと思える。また、津島大橋家(大橋重長)と織田家(信秀の娘)との間の子・信弌は、織田家の連枝(一門)となっている。一説には津島大橋家が後醍醐帝の後胤であったとされることからも、南朝方においては、南朝後...本能寺の変・徳川家・関ケ原の戦い・後南朝・美作後南朝についての一考集・加筆修正

  • 本能寺の変・徳川家・関ケ原の戦い・後南朝・美作後南朝についての一考集

    本能寺の変・徳川家・関ケ原の戦い・後南朝・美作後南朝についての一考集本能寺の変についての一考明智光秀による「本能寺の変」の背後には、南北朝の対立による影響もあったのではないだろうかと考えられる。織田家は信秀の時代から、有力臣下には南朝功臣たちの子孫が多く、やがて信長を総大将として、南朝の復権へと向けた工作意図があった可能性も否定できない。楠木家の子孫である楠木正虎も書記官として信長に仕えている。南朝最大の遺臣である北畠家に織田信雄を養子として北畠の家門を継がせたのも、南朝功臣たちの子孫への配慮であったと思える。また、津島大橋家と織田家との間の信弌は、織田家の連枝(一門)となっている。一説には津島大橋家が後醍醐帝の後胤であったとされることからも、南朝方においては、南朝後胤を天下統一間近である織田家の一門に加...本能寺の変・徳川家・関ケ原の戦い・後南朝・美作後南朝についての一考集

  • 往生院関連年表を更新しました

    往生院関連年表を更新しました桜井寺・善信尼帰国入寺役行者・岩瀧山開山女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった聖武天皇勅願・行基開基六萬寺・本尊・薬師如来宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、...往生院関連年表を更新しました

  • 往生院関連年表を更新しました

    往生院関連年表を更新しました桜井寺・善信尼帰国入寺役行者・岩瀧山開山女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった聖武天皇勅願・行基開基六萬寺・本尊・薬師如来宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、...往生院関連年表を更新しました

  • 美作後南朝について

    面白いことに気づいた。正史では、後水尾天皇の後は、すぐに明正天皇となっている。この間で朝廷と幕府ではかなり揉め事が色々と起こっている。しかも、高仁親王の名も正史には確かにあるが、それは夭折した後水尾天皇の実子とされている。一方、美作後南朝史では、1626年に後水尾天皇より譲位されて、後南朝天皇・高仁天皇(正統歴代には含まれていない)が即位し、1634年には幕府により廃位、明正天皇(女帝)と次になるわけである。後水尾天皇の第二皇女で、母は徳川秀忠の五女の和子。つまり、徳川家の外戚が天皇となったのである。この間に、もしも後南朝側からの天皇を幕府が意図的に即位されていたとするならば、その意図は、南朝勢力への配慮と言えるのかもしれない。南朝功臣たちの活躍により関ヶ原の戦いも勝利できたため、その最大級の見返りという...美作後南朝について

  • 往生院関連年表を最新に更新しました

    往生院関連年表を最新に更新しました桜井寺・善信尼帰国入寺役行者・岩瀧山開山女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった聖武天皇勅願・行基開基六萬寺・本尊・薬師如来宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。...往生院関連年表を最新に更新しました

  • 往生院関連年表を最新に更新しました

    往生院関連年表を最新に更新しました桜井寺・善信尼帰国入寺役行者・岩瀧山開山女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった聖武天皇勅願・行基開基六萬寺・本尊・薬師如来宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。...往生院関連年表を最新に更新しました

  • 破地獄偈について

    破地獄偈は、他にも代表的なものとして三つある。在家にとっては、特に葬送においてやはり有り難く安心となる偈となる。浄土真宗にとってもそのようなものとして受容されたと言えるでしょう。ただ、「其仏本願力聞名欲往生皆悉到彼国自致不退転」のこの場合の「皆悉到彼国」は、極楽が想定されてあることは窺えるところではあり、真に往生先とする一如宝海、阿弥陀如来の法性法身のところとは、やはり異なってあるのかもしれないと考えることもできるでしょう。一如宝海への信心決定、信心獲得はやはりそう簡単ではないため、在家皆が成就するのはとても難しいことになります。そこで、ワンクッション先としての阿弥陀如来の方便法身、報身の極楽浄土へ向けて、安心させるためにと捉えることができるのではないかと思われます。他の破地獄偈・・八十華厳の「若人欲了知...破地獄偈について

  • 往生院関連年表更新

    往生院関連年表更新桜井寺・善信尼帰国入寺役行者・岩瀧山開山女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった聖武天皇勅願・行基開基六萬寺・本尊・薬師如来宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には...往生院関連年表更新

  • 往生院関連年表を更新しました

    往生院関連年表を更新しましたとにかく市の文化財課の調査が来週に迫り、調べられるものは調べまくって、やっと一段落に…お盆を控えての忙しい合間だから誤字、脱字、ズレと、校正に校正したものの、まだ見直したらいくらかあるだろう、、しばらくはもう無理、、とにかく今まで知らなかったことの新発見もあった。特に戦国時代には、渡辺惣官家の渡辺孫三郎の所領地となり、三好家、信長に、その所領が安堵されていたことがわかった。そのため戦乱にありながらでも寺院の体裁は何とか保たれていたものと思われるのである。平安時代からの仏像が、激しい戦禍の中、無くなることなく守られてきたのも、これでやっと納得ができたのでもある。柘榴のことも知らなかった。やはり由来があるものだと分かると共に、由来元の古神感寺が今では礎石を残すだけで何も無いのは、紙...往生院関連年表を更新しました

  • お坊さんの結婚と離婚(住職はシングルファザー!)を読んで・・

    1.お坊さんの結婚と離婚(住職はシングルファザー!)https://kangaeruhito.jp/article/756882炎上?してるから読んでみてほしい、と。確かにあまり好意的な感想はタイムラインに流れてはいなかったが…読んでみようとも思わなかったのだが、、まあ、色々とわからなくはないという感じの内容ではあると思う。自分が仏教を変えるんだ、仏教を取り巻く閉塞した慣習、環境を変えるんだ、と、意気込みすぎた面があったのではないだろうかとは思われる、、しかし、若い時は誰だって仕方がないことだとは思う。私も福祉活動、市民活動、ボランティア活動に取り組みまくった時代があった。政治にもだ。プライベートを潰しまくった。失われた15年だった。しかし、またその反動にも苦しむことになる。今もまだその中にある。しかし、...お坊さんの結婚と離婚(住職はシングルファザー!)を読んで・・

  • 往生院関連年表更新

    桜井寺・善信尼帰国入寺役行者・岩瀧山開山女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった聖武天皇勅願・行基開基六萬寺・本尊・薬師如来宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には天台系の浄土教であ...往生院関連年表更新

  • 「新しい領解文」について・メモ

    内局はかなり不安定になっているようである。総局が全ての責任を被り、新しい領解文に関する一連の問題解決を図れなくはないはずであると思うのだが、全くその気配がまだない。前総長への配慮、遠慮なのだろうか。前総長に従ってきた論功行賞で得た地位を失いたくないということもあるのだろうが、、総局が主導して責任を認めて、取り下げて謝罪し、総辞職、議会解散。選挙後に新たな体制で臨むようにすれば、宗門としての体裁を守ることは簡単にできるとは思うのだが、、門主を傷つけずに守りたいと本気で思っているのであれば、すぐにでもそうすべきであろうに、、やはり、門主に責任があると総局はどこか考えているところもあるのだろうか?時間切れとなり、門主が責任を認めて出ていくのを待っているようにも思えなくはない。あとは連枝に門主を交代させれば良いと...「新しい領解文」について・メモ

  • 往生院関連年表を更新しました

    往生院関連年表を更新しました桜井寺・善信尼帰国入寺役行者・岩瀧山開山女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった聖武天皇勅願・行基開基六萬寺・本尊・薬師如来宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、...往生院関連年表を更新しました

  • 「新しい領解文」の問題の本質はどこにあるのか

    今更ながら、前にも述べてあるように、「新しい領解文」においての決定的な間違いは、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」のところであり、ここについてどのように訂正すれば、まだ許容できるものとなるのかということでありますが、以前にも、蓮如の機法一体説、仏凡一体説、あるいは、石泉僧叡の本具仏性説からも検討させて頂いてあるように、「私の信心と仏の救いは本来一つゆえ」(機法一体)「私の煩悩と仏のさとりは一つになるゆえ」(仏凡一体)「私のさとりは本来そなわってあるゆえ」(本具仏性)このいずれかであれば、本願寺派教学的には、議論の余地がもちろんあるものの、まだ許容されうる範囲内となる可能性が十分にあったわけです。解せない点は、上記の表現のあり方については、創案者・起草者、門主、総局内でも、その作成過程において、検討、校...「新しい領解文」の問題の本質はどこにあるのか

  • 往生院関連年表(大正以降)・更新

    往生院関連年表(大正以降)を更新しました。桜井寺・善信尼帰国入寺役行者・岩瀧山開山女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった聖武天皇勅願・行基開基六萬寺・本尊・薬師如来宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃から、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)。九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往...往生院関連年表(大正以降)・更新

  • 川口宗勝と伊達政宗の関係性について

    川口宗勝が、関ヶ原の戦いで西軍であったにもかかわらず、伊達政宗の嘆願もあり、徳川秀忠に旗本として召し抱えられたのは、信長、家康との血縁関係からでもあるが、何よりも伊達政宗の嘆願によるところが大であったのではないかと教えて頂いた。どうしてなのかと詳しく聞くと、伊達家は、南北朝時代は南朝の忠臣であり、第7代、伊達行宗(行朝)は、後醍醐天皇に従い、義良親王(後村上帝)、北畠顕家の式評定衆として尽くしており、同じく南朝の忠臣であった津嶋・大橋家とも同朋の関係であったことから、一説に後醍醐帝の後胤であるとされる大橋家から養子となり川口家となった子孫である宗勝を、とにかく何としてでも擁護するのは、南朝忠臣の伊達家として当然のことであったということなのである。これも南朝に纏わる歴史の妙というわけである。紙一重のところで...川口宗勝と伊達政宗の関係性について

  • 往生院にある弘法大師坐像の由来について

    あれから一つ新たに分かったのは、先々代(川口蓮海)は、岸和田の久米田寺(高野山真言宗)にて得度していたということである。また関連年表を修正しなければならない・・久米田寺は、往生院とも似たような歴史を持っており、奈良時代に聖武天皇勅願・行基菩薩開基の四十九院の一つとして創建されたとされており、平安時代に九条兼実の姉・皇嘉門院の持仏堂である九条御堂の末寺として寺域が整備されている。往生院も、その前身である六萬寺は、聖武天皇勅願、行基菩薩開基の四十九院の一つとされ、その後に平安時代に安助上人により往生院が創建、そして、九条兼実によって金堂が建てられて寺域が整備され、九条家の祈願寺となっているのである。更には、久米田寺は、南北朝時代には、楠木正成らによる南朝の一大拠点となっており、南朝からの庇護を篤く受けているの...往生院にある弘法大師坐像の由来について

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