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  • 西光寺廃寺跡地か?

    西光寺廃寺跡地と有力視しているところの土地を管理されている方から、年代不明な石仏について、改めてご連絡を頂いた。画像を見るとお地蔵さんかな。。かなり溶けてしまっているが・・相当に古そうだ。これで、旧山畑墓地跡で間違いなく、いよいよ西光寺境内地と考えてもよいかも。ならば、不明となっている「忠臣小楠之墓」の石碑所在確認に向けて更に一歩近づきそうだ。葬儀が入り、すぐ確認に行けそうにはない。週明けになるかな。。西光寺廃寺跡地か?

  • 河内・浄土院 歴史表舞台デビューへ 大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて

    昨日は、考古学者の小林義孝先生と瓢箪山のカフェにて、来月7.14講座についての打ち合わせ。軽い打ち合わせのはずが、気が付けば3時間も経っていた、、互いに古代から中世にわたり、色々な説を論じ合う。。歴史学は仏教学でもあると実感。先生の仏教知識に、仏教に詳しくないと歴史学も深く入れないのかもと何となく思った。そういえば、昔は、学者ではなく、僧侶で郷土史家が多いのも何となく分かる気がした。歴史と仏教は深い関係性にある。浄土院の再発見、西光寺跡の探索も、仏教に詳しくなければ難しいと思われる。西光寺も日想観に着目することで、いよいよ跡地調査も大詰めとなった。万法蔵院跡もやはり日想観がキーワードと思われる。30分の時間を頂いたので、往生院と浄土院の紹介、宗教的役割、当時の信仰についてお話できればと考えている。http...河内・浄土院歴史表舞台デビューへ大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて

  • 西光寺廃寺跡の調査について 候補地を選定 ついに有力候補を発見か!? 東大阪市上四条町 2024年6月18日

    いよいよ西光寺跡地の核心に近づきつつあります。西光寺廃寺跡の調査について候補地を選定ついに有力候補を発見か!?東大阪市上四条町2024年6月18日https://youtu.be/Cxk6p7mLD5g?feature=shared西光寺廃寺跡の調査について候補地を選定ついに有力候補を発見か!?東大阪市上四条町2024年6月18日

  • 字「天王堂が芝」について 福富神社の由来 やはり字名の由緒は古代に皇族の建てたお堂にあるのか? 2024年6月18日

    字「天王堂が芝」と福富神社について。やはり古来より聖地であったと思われるのである。字「天王堂が芝」について福富神社の由来やはり字名の由緒は古代に皇族の建てたお堂にあるのか?2024年6月18日https://youtu.be/Gg9cMnWdbFo?feature=shared字「天王堂が芝」について福富神社の由来やはり字名の由緒は古代に皇族の建てたお堂にあるのか?2024年6月18日

  • 山畑古墳群 山畑2号墳の紹介 府下最大級の玄室 上円下方墳 西光寺廃寺跡探索 東大阪市上四条町 2024年6月18日

    少し話題が逸れますが、山畑2号墳についての紹介。玄室、圧倒される大きさでした。山畑古墳群山畑2号墳の紹介府下最大級の玄室上円下方墳西光寺廃寺跡探索東大阪市上四条町2024年6月18日https://youtu.be/cfiN3hZyK3Q?feature=shared山畑古墳群山畑2号墳の紹介府下最大級の玄室上円下方墳西光寺廃寺跡探索東大阪市上四条町2024年6月18日

  • 三種の神器のつくられたところ

    ちなみに、天皇継承の象徴である三種の神器は、若江(東大阪)にて鏡、石切(東大阪)にて剣、神立(八尾)にて勾玉と、当時、最も渡来人文化が発達していた河内において作られたものであったとされているのでもあります。三種の神器のつくられたところ

  • 山背大兄王と生駒山 聖徳太子と道鏡

    また、別の調査にて、山背大兄王が、蘇我入鹿らによる画策での襲撃によって斑鳩宮から逃げた際、生駒山麓で隠れられたのが、まさに生駒西麓で、今の上四条のあたりであった可能性も。それが、隠れた先が、父、聖徳太子ゆかりの寺であり、当麻寺の前身とされている万法蔵院で、そこに逃げられていたという説も。ならば、やはり天王堂が芝に、聖徳太子の勧めにて当麻皇子の建てられたお寺があった可能性が高まるわけです。山背大兄王は、結局、斑鳩寺に戻り、一族、皆、自害されるに及ぶのであります…ただ、子の弓削王一族は、河内八尾、若江に逃れて土着し、勢力を維持、その後に、道鏡が出世するわけであります。道鏡は歴史上、かなり貶められて語られていますが、相当な学僧の智者でありました。道鏡が天皇となるべくの宣託が、しかるべきにあったのは、やはり聖徳太...山背大兄王と生駒山聖徳太子と道鏡

  • 西光寺跡地探索・山畑4号墳

    今日、昼の合間に山畑4号墳へと参りましたら、丁度、字花草谷の古い地主の方と4号墳周辺の土地の借り主の方がおられて、色々と有り難い話が聞けました。なんと、花草神社、福富神社以外にも、字花草谷にはもう一つの神社があったらしいです。代々神職だったとその地主の方に教えて頂きました。また、4号墳にも案内して頂き、少し周囲を探索させて頂きました。立地的にも西光寺跡、このあたりがかなり有力かもです。また動画で経過をご報告致します。今後、調査にも協力して頂けるとのことで、いよいよかなりの進展が期待できます。有り難いことです。西光寺跡地探索・山畑4号墳

  • 新しい領解文・弘願助正説・疑心往生説の共通した問題点について

    ああ、当時は信前、信後の報恩行の範疇として考えていたわけか、、結局、弘願助正云々どころか、浄土真宗でもなく、仏教でもないものに転落したのが、新しい領解文の正体であり、ほどなくして石泉学派についても考える意味がなくなったとして言及しなくなった。今回の疑心往生の問題は、簡単には、「みんな頑張れ」のような主張、言葉の暴力で相手を追い詰めること、傷つけることになりかねないということであるが、新しい領解文のあり方も似たようなものになっていると言えるだろう。更にそれを強制させるなど、論外でもあるわけだ。「みんな頑張れ」という主張は、頑張れないものを排除した物言いであり、どうしても頑張れないものを追い込むことになる。下手したら自死へも向かいかねない。「みんな救われる」、「みんな往生できる」というのも現実、救いようのない...新しい領解文・弘願助正説・疑心往生説の共通した問題点について

  • 弘願助正説

    愚聞のともにきくラジオ「領解を語ろう」3https://www.youtube.com/live/k102i_jrjOc?feature=shared岡林さんが言いたいことがようやくによくわかった。まあ、対機説法とは違った、とにかく安心感を与えたいと思っての悪気の無い自分の主張の押し付け、それがきっと為になる、正しいとの正義感からの自分の主張の押し付け、そういうことに対しての懸念であるのだろう。疑心あっても往生できるからと、とにかく安心して彌陀本願を頂きましょう的な、、また、それが弥陀本願を頂く入口にもなればオッケー的な、、言わば、弘願助正説みたいなものでしょうが、結局のところ、あれもこれもと類推、拡大解釈、援用して助正になるとしていけば、やがては人殺し、戦争も助正ということになるわけであります。そうなれ...弘願助正説

  • 上四条・経塚付近の楠正行公碑・正時公碑について

    西光寺跡本命と考えていた公碑周辺は、本命でなく、先日に寄った山畑4号墳あたりになるのではないかと考えています。この公碑は、昭和初期の建立で、目的は軍国主義戦意高揚のためとして建てられたもので、西光寺境内跡、もしくは旧山畑墓地、正行公・正時公五輪塔二基が元々にあった場所を考証して建てられたものではないと結論付けました。この公碑にやや惑わされ過ぎてましたね。上四条・経塚付近の楠正行公碑・正時公碑について

  • 福富神社・木曽御嶽本教・関西天王教会本部

    福富神社の詳細、やっと見つけた。現代編に載っていた。大正2年であるから、そう古くはない。天王教会だが、字名とは関係がないのは明らかなものの、やはり、ここが字「天王堂が芝」であったとの意見もある。また、西光寺跡地ではなさそうである。ただ、飛鳥時代以降にお寺があった可能性もなくはない。霊託、託宣を受けての創建とならば、古代からの聖地であったのは間違いないだろう。同じ話は今の神感寺でもある。ならば、ここに「天王堂」があったとの推測も成り立つ。桜井寺、万法蔵院、六萬寺があった可能性も捨てきれない。福富神社・木曽御嶽本教・関西天王教会本部

  • 木曽御嶽本教・福富神社

    客坊から四条へ向かう途中に「奥ノ宮道」の古い道標があった。「奥ノ宮」は、木曽御嶽本教の福富神社のことか?山畑地区に入る前に奥乃院の案内板もあったから多分、福富神社のことなのだろう。道標のすぐ近くに古墳かな?と思う盛り土があり、周囲を歩くと、少し空いた穴が、、覗くと間違いなく古墳だと確認できた。あとから調べると山畑4号墳で、発掘調査はされていないらしい。まだ順番が回ってきていないのか、、このあとに山畑2号墳も玄室入り口まで行ったが、画像は撮っていない。ただ大きさにかなり圧倒された。山畑2号墳は市内最大規模、明治時代に日本考古学の父、ウィリアム・ゴーランドが調査した記録もあるらしい。古墳好きな方なら一度は訪れるべきでしょう。西光寺跡地はまだ分からず。そういえば、この福富神社に関しては河内四條史に全く言及されて...木曽御嶽本教・福富神社

  • 客坊廃寺~上四条へ 西光寺跡の調査

    今日は合間に客坊へと行ってきた。平安時代から南北朝時代まで存在していた客坊廃寺付近から上四条へ。西光寺跡地、字天王堂が芝を調査。客坊廃寺は、蓮華紋の立派な軒丸瓦が出土している。客坊廃寺のやや南東にて石塔群、滝行場と出会った。客坊廃寺の修験道との関わりとも言えるだろう。密教系の寺院であったのかもしれない。その後、西光寺跡を重点的に探索したが、結局、分からないままに帰った、、客坊廃寺~上四条へ西光寺跡の調査

  • 未発見の石碑「忠臣小楠之墓」 江戸時代・西光寺廃寺(東大阪市上四条)の境内に建立された石碑が行方不明のまま? 2024年6月12日

    この石碑も必ずまだどこかにあるはずである。発見に尽力したい。未発見の石碑「忠臣小楠之墓」江戸時代・西光寺廃寺(東大阪市上四条)の境内に建立された石碑が行方不明のまま?2024年6月12日https://youtu.be/XWekEM-A_Hw?feature=shared未発見の石碑「忠臣小楠之墓」江戸時代・西光寺廃寺(東大阪市上四条)の境内に建立された石碑が行方不明のまま?2024年6月12日

  • 「忠臣小楠之墓」碑はどこへいったのか? 上四条にあった西光寺の境内裏に、小楠公碑が江戸時代末期に建立されている

    上四条にあった西光寺の境内裏に、小楠公碑が江戸時代末期に建立されている。おそらく畑小路地蔵堂内の五輪塔二基が元々あった側に建てられたのだろう。しかし、この「忠臣小楠之墓」碑はどこにも現存していない。西光寺が廃寺になった際に何処かに持ち出されて不明になったのか、もしくは五輪塔と共に隠匿された際にまだ別のところに隠匿されたままか、、おそらくは隠匿されたままになっている公算がかなり高いと思われる。この発見にも努めねば。。「忠臣小楠之墓」碑はどこへいったのか?上四条にあった西光寺の境内裏に、小楠公碑が江戸時代末期に建立されている

  • 往生院六萬寺 歴史館の紹介 展示物の簡単な説明 実際の見学は事前完全予約制・寺務所まで事前に必ずご連絡下さい 見学無料

    主に拙動画の撮影舞台となっている往生院六萬寺の歴史館、展示物の改めての紹介。往生院六萬寺歴史館の紹介展示物の簡単な説明実際の見学は事前完全予約制・寺務所まで事前に必ずご連絡下さい見学無料https://youtu.be/EFK08uxguOU?feature=shared往生院六萬寺歴史館の紹介展示物の簡単な説明実際の見学は事前完全予約制・寺務所まで事前に必ずご連絡下さい見学無料

  • 疑心について

    ご質問を頂いたのだが、疑心は、倶生諦執や無明、煩悩、我執や迷乱知、転顚知、煩悩障や所知障などとは性質を異にしている。なぜなら、それらと疑心は対治方法が根本から全く異なるからだ。主に空性を修習して対治していくのが、上記に挙げた疑心以外のものとなる。疑心は、空性の修習によって対治されるのではなく、ひたすらに弥陀本願を窺い、聞法によって対治されることになるからである。よく疑心を無明や煩悩、我執などと同一視して考えようという向きもたまに見かけるが、それは全くの見当違いであると思うのである。疑心について

  • 字「天王堂が芝」場所の特定が難しいのはなぜか? 飛鳥時代の寺院が存在していた可能性も。河内・桜井寺・六萬寺の実態解明にも期待できる 2024年6月10日

    字「天王堂が芝」の地名が、明治期に消された理由とは!?字「天王堂が芝」場所の特定が難しいのはなぜか?飛鳥時代の寺院が存在していた可能性も。河内・桜井寺・六萬寺の実態解明にも期待できる2024年6月10日https://youtu.be/aaOZshwUDBU?feature=shared字「天王堂が芝」場所の特定が難しいのはなぜか?飛鳥時代の寺院が存在していた可能性も。河内・桜井寺・六萬寺の実態解明にも期待できる2024年6月10日

  • 上四条・字山田付近に桜井寺→万法蔵院→六萬寺とあった可能性も

    このことに関しては、更に興味深いこともあり、桜井寺、六萬寺の所在地の解明へと繋がる可能性も極めて高くなる。もしかすると、桜井寺→万法蔵院→六萬寺とあった可能性も出てくる。ならば、現在の桜井寺・六萬寺の想定地である六萬寺・字院堂よりも四条よりの字山田付近が六萬寺の本命と目されるのである。字「天王堂が芝」が、字山田のどこにあったのかということに関わることになる。場合によっては大発見となる。もちろん鍵となるのは飛鳥時代の瓦、寺院跡、礎石となる。拙考が正しければあの未開地の調査を進めれば、本当に見つかるかもしれない。上四条・字山田付近に桜井寺→万法蔵院→六萬寺とあった可能性も

  • 字・天王堂が芝と字・山田 天皇・皇子の建立したお堂があったか? 河内国に当麻皇子の建立した当麻寺の前身である万法蔵院・禅林寺のあった可能性も?

    河内国山田に当麻寺さんの前身となる寺院があったとされるわけであるが、関連でかなり気になったのが、上四条の字山田と字天王堂が芝である。字天王堂が芝を特定、調査して、飛鳥時代の寺院跡が見つかれば、万法蔵院禅林寺の可能性も出てくる。天王堂=皇族が建てたお堂というわけである。上四条の山手は古墳も点在してあるし、しかも、未開地、未調査地がまだまだある。未だに開発が本格的に入らないのは、やはり四條縄手の戦いにおける怨霊、祟り伝説が根強くあるからでもあるのだろう。確かに気をつけなければならない土地柄ではあるが、しかるべくに地鎮、慰霊をすれば大丈夫である。新発見に期待が高まるが、すぐにはもちろん無理であろう、、とにかく、今はやれることで地道にやるしかない。字・天王堂が芝と字・山田天皇・皇子の建立したお堂があったか?河内国...字・天王堂が芝と字・山田天皇・皇子の建立したお堂があったか?河内国に当麻皇子の建立した当麻寺の前身である万法蔵院・禅林寺のあった可能性も?

  • そもそも一般在家門徒において真実浄土と極楽報土を区別して往生のあり方について理解できるのか

    そもそも一般在家門徒にとっては、真実浄土と極楽報土を区別して往生のあり方について理解できるのかとなれば、半数以上の方において、それは難しいのではないだろうか。むしろ、わかりやすい聖道自力、善根功徳が必要となる極楽報土往生を説く向きに傾くとしても仕方がない面もある。もちろん、信心決定しておらず、疑心あっても、極楽報土ならば往生の可能性がある。まあ、一定、自力修行、功徳が必要にはなるが、、新しい領解文も、衆生、門徒の側におけるそのような要請、需要に合わせて、真実浄土から極楽報土の往生へと教義転換を図ろうとした意思もあるように思えなくもない。しかし、親鸞思想の純粋性は失われ、教義が俗なるものへ傾斜するどころか、仏教でもない訳の分からないものへと転落することになってしまったわけである。笑えないお粗末さながら、いま...そもそも一般在家門徒において真実浄土と極楽報土を区別して往生のあり方について理解できるのか

  • 楠木正行公・正時公 畑小路地蔵尊堂内・五輪塔の伝来地を探す 東大阪市上四条町・山畑地区 2024年6月8日

    伝承にも若干のズレがあり、特定に困難さがあります。ただ、現在の山畑地区・旧山畑集落は、かなり荒廃しているものの、だからこそ遺跡が未だ残ってある可能性も高くあります。山畑地区に開発が入り、遺跡、遺構が出てくれば、いよいよ四條縄手の戦いに関する遺物も再発見される可能性があります。それにより、いずれの地が小楠公終焉地であったかの決着もつくように思われます。楠木正行公・正時公畑小路地蔵尊堂内・五輪塔の伝来地を探す東大阪市上四条町・山畑地区2024年6月8日https://youtu.be/YVdA95JJScg?feature=shared楠木正行公・正時公畑小路地蔵尊堂内・五輪塔の伝来地を探す東大阪市上四条町・山畑地区2024年6月8日

  • 疑心残存説について・潜在的自力心

    疑心は、本願への疑い、他力への疑い、仏智への疑いと、広い意味合いにて使われており、定義として一定しているわけではない。ただ、潜在的に有してある自力心に関わる問題であり、それは一体どのようなものなのかを考えるのが重要となります。例えば、この迷い苦しみの世界、迷い苦しみの輪廻の存在から逃れるために、救われるためには、何かをしなければいけないという強烈な衝動、もしくは、焦燥は、自力心であるとも言い得るが、これは仏教における「出離心」であり、仏教への入門、何よりも「菩提心」へと向かうための前提となるものである。そして、全ての者たちが同様に迷い苦しみの中に喘いでいることを知り、自分も皆も救われるための道である仏教を修するとの志を立てる心が「菩提心」である。やがて、仏教を修する中において、自力道で進めるか、他力道にて...疑心残存説について・潜在的自力心

  • チャンネル登録を宜しくお願いいたします。

    サブ垢で調査メモ程度として始めたYouTube動画。お寺の法話をアップしていた本垢がログインできなくなり、やむなく使うようになった。あまり宣伝もしていなかったので、チャンネル登録者数は相変わらず少ないが、1000回視聴を超えるのが二本になった。下記は現時点で1500を超えている。さほど凝った編集等は全くせず、スマホでただ動画を分けて撮り、編集アプリで繋ぎ合わせるだけである。一つ、自筆メモによる解説は意外に好評。これは法話フリップからの癖みたいなものだが、案外分かりやすいようだ。また、展示ケースの上で撮影しているのも珍しいパターンでそれも新鮮なよう。とにかく、これからも調査研究の記録として続けていければと考えています。古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて四條縄手の合戦戦没者供...チャンネル登録を宜しくお願いいたします。

  • 山畑子安地蔵尊 旧山畑墓地の六地蔵尊 四条春日神社、近年に再建か? 東大阪市上四条町 2024年6月6日

    山畑子安地蔵尊は、地蔵誓願が台座に刻石されている全国的にも珍しい地蔵尊であります。訂正晦朝→晨朝山畑子安地蔵尊旧山畑墓地の六地蔵尊四条春日神社、近年に再建か?東大阪市上四条町2024年6月6日https://youtu.be/eiGRxn8xYNM?feature=shared山畑子安地蔵尊旧山畑墓地の六地蔵尊四条春日神社、近年に再建か?東大阪市上四条町2024年6月6日

  • 経塚古墳(東大阪市上四条町)再調査 壁面の陀羅尼の解明 経塚古墳の由来について考える 2024年6月5日

    壁面に書かれた陀羅尼を確認しに、再び経塚古墳へと行って参りました。間違いなく楞厳呪でありました。また、千手千眼の文字も確認しました。経塚古墳(東大阪市上四条町)再調査壁面の陀羅尼の解明経塚古墳の由来について考える2024年6月5日https://youtu.be/-JTKwn-c9o0?feature=shared経塚古墳(東大阪市上四条町)再調査壁面の陀羅尼の解明経塚古墳の由来について考える2024年6月5日

  • 春日神社(東大阪市上四条町)元春日・中臣氏と生駒山麓 河内・往生院との関係 2024年6月4日

    生駒山麓における春日神社各春日神社は元春日と呼称されており、春日大社の祭神は、生駒山麓より勧請されたのであります。春日神社(東大阪市上四条町)元春日・中臣氏と生駒山麓河内・往生院との関係2024年6月4日https://youtu.be/V5t_XcFAN_0?feature=shared春日神社(東大阪市上四条町)元春日・中臣氏と生駒山麓河内・往生院との関係2024年6月4日

  • 信前・信後の不審のありようについての検討

    疑心を煩悩障に対応させるとしたら、所知障にあたるものが不審になるのかどうかであるが、この不審が、信後のものだとしたら、そう考えられるものとなる。要は、歎異抄における唯円の不審が、信前、信後、いずれの文脈で語られてあるのかどうかである。つまり、唯円とのやりとりで、親鸞聖人がおっしゃった意はどちらであるのかの検討になる。下記論文において紅楳英顕先生は、信前とお考えである。https://www.jstage.jst.go.jp/.../36/1/36_1_167/_pdf/-char/jaしかし、疑心の強烈な残り香、習気が信後にもあると考えるのが拙見解であり、また、推測でもある。むしろ、この信後にも残ってある習気により、衆生の迷い苦しむありよう、疑心に苦しむありようを把捉することができると考えられるのである。...信前・信後の不審のありようについての検討

  • 疑心残存説についての続き

    疑心残存説についての続き。煩悩障を断滅しても、所知障が対治できていない限り、悟りへと至れることがないように、信心決定、疑心断滅しても、所知障と同じように残り香的、習気として、何らか疑心の残存もありうるかどうかであるが、これはありうると考えるのである。まず、所知障とは何か、ということであるが、拙図を参考にして頂くと、簡単には「虚偽の現れ」をもたらす障りのことである。この「虚偽の現れ」とは、モノ・コトは本来は空性であり、実体として成り立ってはいないものであるにもかかわらず、まるであたかも実体として成り立ってあるかの如きにモノ・コトが現れてしまっているありようのことである。もちろん、煩悩障を断滅した行者においては、三昧・等引から離れた後得知の状態において、そのような「虚偽の現れ」があったとしても、もう騙されずに...疑心残存説についての続き

  • 疑心残存説について

    疑心残存説について、疑心が無くなった後に、疑心が生じたり、残ったりすることはあるのかどうか、ということですが、これは煩悩障におけることと同様の事態として考えればよいのである。煩悩障断滅後には、煩悩は一切生じることはなく、業が汚されることもなくなります。同様に考えれば、疑心が無くなり信心決定した後に、疑心が生じたり、信心が後退することはないと考えることができます。つまり、不退転(位)ということです。ただ、煩悩障の場合、煩悩障を断滅しても、その残り香的な習気である所知障が残ることになります。ならば、同様に、疑心を無くし、信心決定しても、疑心の残り香的な習気は残ってあることは十分に考えられるものとなります。疑心残存の事態をこのように考えるならば、どのようなものとなるのか?要は、疑心の本体は無いが、その残像がある...疑心残存説について

  • 浄土真宗の本義は真実浄土への往生を目的とすることにある・疑心往生についての補足

    疑い(疑心)があっても救ってくださるのが阿弥陀さま、とご意見を頂戴した。このことは随分と前にもお答えしたことがあるが、もちろん、お救いは下さるが、その救い先への往生は、真実浄土ではないということである。もしも、真実浄土以外の阿弥陀如来の報土、化土、六道等へとなれば、当然に善根功徳、菩提道次第の修行は必須になる。つまり、他力法門からは外れることになる。もちろん、しかるべきに修行すれば、疑心あっても往生はできるが、その先は親鸞聖人がおっしゃられた真実浄土ではないということなのである。浄土真宗でも阿弥陀経を読むことがあるため、極楽報土でも往生できれば良いという考え方もあるのでしょうが、それなら何のために親鸞聖人は開宗なされたのかということにもなりかねないのである。あくまでも、浄土真宗の本義は、真実浄土への往生を...浄土真宗の本義は真実浄土への往生を目的とすることにある・疑心往生についての補足

  • 東大阪市上四条・経塚古墳・壁面の墨書について

    東大阪市上四条・経塚古墳・壁面の墨書について経塚壁面の陀羅尼、やっぱり楞厳呪だった。三会だ。江戸時代に禅宗系(おそらく黄檗宗)の僧侶により始められたのではないだろうか。(同集落の花草神社には隠元書の扁額が伝わっている)となれば、やっぱり厄除け祈願になるであろうか。疫病や飢饉など。こちらもまた興味がわいてきますね。東大阪市上四条・経塚古墳・壁面の墨書について

  • 疑心往生について・真実浄土へ至る地図の作図は・・

    疑心断滅・信心獲得と真実浄土往生のセットと、煩悩障断滅と空性現量了解のセットが同様な事態であることを考えれば、その行者の境地についてもよくわかることになる。つまり、疑心断滅、信心獲得した現生の行者の状態も自ずと推測がつくことになるわけである。要は、阿羅漢果、菩薩八地以上ということなのである。ならば、疑心断滅・信心獲得の行者においては、まだ所知障を断滅できていない状態にあるとも言い得ると考えられるのである。疑心往生について・補足https://www.facebook.com/share/p/puXwebXnuCfSbx75/また10年以上前のこの図を持ち出してくることになるが、要は疑心とは、対応させると、有染汚の無明と同様な事態とも言い得ることになる。このように仏教の基本と比較検討すると、先に述べてあると...疑心往生について・真実浄土へ至る地図の作図は・・

  • 疑心往生について・補足

    疑心往生の件は、拙このポストを参考にして頂けたらと思うが、https://www.facebook.com/share/p/tKMmH6eQrKn8MDsz/疑心が微塵でもあれば、真実浄土への往生は不可であります。これは、煩悩障が微塵でもあれば、空性を了解できないという事態と同じようなものであると考えると分かりやすいでしょう。もちろん、疑心があっても真実浄土以外のところへの往生は可であります。そちらを想定する場合もあるため、それらそれぞれの往生先へと向けた条件の相違については、より細かく説明していく中で、誤解を生まないようにするのが望ましいことになるでしょう。いずれにしても真実浄土への往生を勧めるのであれば、疑心は完全に無くす事態としなければならないというのが、親鸞聖人の意であると考えなければならないので...疑心往生について・補足

  • 四條縄手古戦場(東大阪市上四条) 地鎮法要・追善法要 楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養 経塚前祠堂にて厳修 法要の様子と経塚古墳について 2024年5月29日

    ようやくに東大阪市上四条の字・天王堂が芝・西光寺廃寺跡地・四條縄手古戦場跡・砂山城跡へ赴き、法要を厳修いたしました。これで安心して畑小路地蔵尊の堂内五輪塔二基の元々あった場所についての調査にも入ることができます。また、経塚の内部につきましても少し扱わせて頂いております。読経、回向も編集なしとなっており、全体がかなり長くなっていますので、ご興味のあるところだけご覧頂けましたらと存じます。四條縄手古戦場(東大阪市上四条)地鎮法要・追善法要楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養経塚前祠堂にて厳修法要の様子と経塚古墳について2024年5月29日https://youtu.be/PW2mDGLL-EU?feature=shared四條縄手古戦場(東大阪市上四条)地鎮法要・追善法要楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養経塚前祠堂にて厳修法要の様子と経塚古墳について2024年5月29日

  • 疑心往生・疑心残存の議論について

    この問題は、疑心のないこと、信心獲得したことを明確に証明するのが難しいのに起因する問題であり、また、自内証であるため、第三者からの判定も無理なもので、何がそもそも疑心であり、何が自力にあたるものかも、かなり個々人の恣意的なものに委ねることになってしまう面もあり、議論自体が堂々巡り、水掛け論に陥るのも仕方のないところがあります。まあ、疑心なく、自力でないとしても、周りからはそれは自力、功徳行、雑行、雑修と見られてしまうことも多々あるわけです。行動一つからでもです。例えば、道にカタツムリがおり、車に轢かれて亡くなると可愛そうだと思って、脇に避けてやる行為でも、本人の動機、内証などわかりようがないわけです。ある者は不殺生戒、慈悲行、功徳行として行う場合があるでしょうし、これは功徳行、自力行として行うのではない、...疑心往生・疑心残存の議論について

  • 古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて 四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて 2024年5月27日

    忌み地や禁足地への向き合い方について古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて2024年5月27日https://youtu.be/L0U-HHhNrlc?feature=shared古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて2024年5月27日

  • 上四条・西光寺廃寺跡・四條縄手古戦場跡地調査の前に楠木家・戦没者供養を勤める予定

    上四条の西光寺廃寺跡地調査は、単なる史跡調査や研究目的ではなく、やはりまずは供養をメインへと切り替えることにする。近日に西光寺廃寺跡、楠木正行公、正時公五輪塔が元あったところの調査へと向かう予定だが、すでにここだろうというところは最初に赴いた時に感じてはいる。おそらくは間違いないだろう。また、周囲においては、やはり、古来より古戦場跡であるだけに禁足地、忌み地としての伝えも多い。つまり、失礼があれば、祟りがあるということだ。気をつけなければならない。明治二年の村の願書にもあったように、以来、慰霊を丁寧になされてはいたが、もうここ数年は滞りがちとなっているのは明白で、明治、大正、昭和、平成と慰霊を続けていた施主たちが、次々と亡くなり、後の世代への継承が残念ながらなされなかったためであろう。花草神社跡の小祠が無...上四条・西光寺廃寺跡・四條縄手古戦場跡地調査の前に楠木家・戦没者供養を勤める予定

  • 上四条・経塚の祠堂

    上四条、経塚の祠堂、下記のブログ記事は10年前だが、まだ祭祀はしっかりなされていたようである。ただ、現在でも注連縄、紙垂(しで)はまだ代えられているようには思うが・・河内彷徨~郷土を見にゆく~私の故郷「中河内」を見に行きますhttp://ovw100bj.blog129.fc2.com/blog-entry-1061.html上四条・経塚の祠堂

  • 四條縄手の合戦の怨霊を慰霊したい旨の願書・四条村

    上四条(四条村)で実際に出されていた四條縄手の合戦の怨霊を慰霊したい旨の願書が記されてある項。祠、社建立は、恐らく経塚の前にあった社となったのであろう。菊水の紋が瓦に入ってあったことから、これに間違いない。ということは明治期の建立になる。公碑は、大正以降になるだろうか(大正十四年(1925)建立のようです)。やはり、元々に五輪塔、塚があったとされるところに建てられた可能性が高いが、隠された五輪塔の大きさから考えても、石組があまりに大き過ぎて不自然である。また、二石塔は並んであったと思われる。前回、公碑に赴いた際にピンときていたところが別にあった。間違いなくそこだと思っている。今回も不思議に御霊に呼ばれたのかもしれない。四條縄手の合戦の怨霊を慰霊したい旨の願書・四条村

  • 楠木正行公墓所・公刊物からの考察

    楠木正行公の往生院胴塚墓所、上四条西光寺跡墓所、四條畷雁屋南墓所、公刊されているものからの歴史認識としては、上四条の河内鑑名所記が、今のところ一番古いことになる。次に大日本史、そして、和漢三才図会、諸州巡覧記となる。編纂時、あるいは調査時、見聞から考えても、河内鑑名所記が一番古くなる。次に、大日本史と諸州巡覧記は同時期ぐらいになるだろうか。政府(幕府)公刊としての考証からは、やはり大日本史となる。もちろん、往生院における鷹司信房公による墓所整備が、1650年代であるため、その際に墓所としての認識に至る何らかの文献が、その前にはあったと考えられる。それは、大日本史編纂でも参考とした資料であったと思われる。彰考館による南朝関係資料の徹底調査においてで。もしかしたら、彰考館に残ってあるのかも。空襲でほとんど焼け...楠木正行公墓所・公刊物からの考察

  • 四條縄手の戦い跡・東大阪市上四条町の伝承

    上四条町には、いまだに馬の嘶き、軍勢の足音や雄叫びが山から響き渡るということがあるらしい。四條縄手の戦いは、最後には往生院城、客坊寺城、砂山城の正行軍は、山側からの佐々木道誉軍、東高野街道からは高師直軍に挟まれ、阿鼻叫喚の地獄であったと想像ができる。南朝方の城、砦、寺院、館、朝廷内裏などは吉野に至るまで容赦なくことごとく焼き払われてしまった。いかほどの無念であったであろうか。関連かもしれないが、やはり、往生院でも謎の地響きがいまだによくあり、小さい頃から聞いているが、南北朝時代の侍たちがこの辺りをまだ彷徨っているということであるのかもしれない。また、四條村には、明治期に村が騒動しく、落ち着きがなく、諍いが絶えないのは、四條縄手の戦いで亡くなった怨霊たちの仕業であるから、楠木正行の御霊を鎮めたいとの切実な訴...四條縄手の戦い跡・東大阪市上四条町の伝承

  • 西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!? 2024年5月21日

    ついに畑小路地蔵尊にある楠木正行・正時兄弟の五輪塔の元々祀られていたところが特定できた。やはり、砂山城跡だったが、そこには西光寺というお寺もあったことがわかった。また一つの謎が解けた。更に、村では当時に色々と障りが多く混乱が起こっていたのは、四條縄手の戦いで亡くなった者たちの供養をちゃんとしてないからだということで、供養をするための請願も出されていたことも改めて知った。しかし、逆に四條畷神社建立を避けるために正行公・正時公のお墓を壊して、五輪塔を隠匿するのでもあるが・・果たして、五輪塔が元にあったところへと戻ることは、これから先いつかあるのだろうか・・西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!?2024年5月21日h...西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!?2024年5月21日

  • 新しい領解文問題・有志の会いまだ本丸にたどり着けず

    ようやくにかなり踏み込んではいるが、今更感でもあり、遅きに失している。これを機に浄土真宗でも中観思想について学ぶようにするのが良いであろう。何よりもツォンカパ大師の思想考究をお勧めする。ならば二度とこのような間違いも起きないことであろう。とにかく、まだ有志の会も何が問題の本丸であるのかについては見えていないようでもある。これではまだまだ解決には時間が掛かるだろう。附論―冊子の内容と記述手法の問題―このたび公開された総合研究所冊子(以下、「冊子」と呼ぶ)について、一部では「学問的に厳正に立論された満井論文」などと評価し公言する人もいるようであるが、率直に言って、この冊子の内容は、「論文」と呼ぶに値するものではない。この冊子は、一見すると様々に論を展開しているように見え、それを証明しているかのように先学の文章...新しい領解文問題・有志の会いまだ本丸にたどり着けず

  • 花草神社跡(東大阪市上四条町)と神宮寺小太郎首塚 楠木正成公・正行公親子二代に仕えた八尾市神宮寺の武将 2024年5月20日

    花草神社跡(東大阪市上四条町)と神宮寺小太郎首塚楠木正成公・正行公親子二代に仕えた八尾市神宮寺の武将2024年5月20日https://youtu.be/cS6TYIuGEGg?feature=shared花草神社跡(東大阪市上四条町)と神宮寺小太郎首塚楠木正成公・正行公親子二代に仕えた八尾市神宮寺の武将2024年5月20日

  • 四條縄手の戦いの史跡群をめぐる(東大阪市上四条町) その激戦の痕跡 霊光院 旧楠公院 畑小路地蔵尊 歯神さん 砂山城跡 2024年5月20日

    四條縄手の戦いの史跡群をめぐる(東大阪市上四条町)その激戦の痕跡霊光院旧楠公院畑小路地蔵尊歯神さん砂山城跡2024年5月20日https://youtu.be/8d1qQJqr9MQ?feature=shared四條縄手の戦いの史跡群をめぐる(東大阪市上四条町)その激戦の痕跡霊光院旧楠公院畑小路地蔵尊歯神さん砂山城跡2024年5月20日

  • 四條縄手の戦いの戦闘経過検討

    四條縄手の戦いの戦闘経過は、当然に太平記を基準に考察されるのだが、物語的に脚色されているところもあるため、そのままを鵜呑みにはできない。砂山城跡に初めて行ったが、山岳戦を戦うにはもってこいの要所であり、背後の神感寺城の役割を補完するにも十分と感じた。しかし、生駒山の背後から佐々木道誉軍が進撃し、鷲尾砦、慈光寺砦、神感寺城と落され、客坊城、往生院城も襲われ、砂山城にも敵軍が迫ったのは、前線の正行にも伝えられたはずである。または、狼煙台が至るところにあり、急変を知ったはずだ。正行には渡辺橋の美談があるように、敵でさえも戦闘が終われば救うようなお方であった。そんな正行が、後方の味方が危ないと知った時に果たして無視して、更に高師直軍へ向けて進軍できただろうか。答えは否である。即座に引き返し、砂山城に迫った佐々木道...四條縄手の戦いの戦闘経過検討

  • 楠木正行公・御墓所 全国七ヶ所目・東大阪市上四条町・畑小路地蔵尊五輪塔 / 明治元年に小楠公神社建立計画が往生院にあった!? そして、明治時代後期に発足した南木会とは!? 2024年5月19日

    四條畷神社創建に際して翻弄された四条村・・隠匿された正行公・正時公の二石塔を再確認。そして、明治期に小楠公神社建立を図った往生院の哀愁・・楠木正行公・御墓所全国七ヶ所目・東大阪市上四条町・畑小路地蔵尊五輪塔/明治元年に小楠公神社建立計画が往生院にあった!?そして、明治時代後期に発足した南木会とは!?2024年5月19日https://youtu.be/qGCVN4vsNqw?feature=shared楠木正行公・御墓所全国七ヶ所目・東大阪市上四条町・畑小路地蔵尊五輪塔/明治元年に小楠公神社建立計画が往生院にあった!?そして、明治時代後期に発足した南木会とは!?2024年5月19日

  • 上四条・砂山城跡の楠正時公碑の前にあったお社・経塚古墳

    上四条・砂山城跡の楠正時公碑の前にあったお社。菊水の瓦の社があったが、ここが経塚だった。お経が彫られた石がたくさん祀られてあると文献で見ていたが、このお社の裏手にある古墳の中にあるようだった。後から見たら確かに裏手に石組がある。この経塚はもしかしたら四條縄手の戦いで亡くなった者たちの供養として古墳が活用されたのかもしれない。上四条・砂山城跡の楠正時公碑の前にあったお社・経塚古墳

  • 東大阪市上四条町にも楠木正行公・正時公供養の石塔が存在していたか!? 四條畷市雁屋南町の小楠公墓所由来の補足について 2024年5月18日

    隠蔽された楠木正行公・正時公供養石塔を確認か?東大阪市上四条町にも楠木正行公・正時公供養の石塔が存在していたか!?四條畷市雁屋南町の小楠公墓所由来の補足について2024年5月18日https://youtu.be/lnNf80Gp9JI?feature=shared東大阪市上四条町にも楠木正行公・正時公供養の石塔が存在していたか!?四條畷市雁屋南町の小楠公墓所由来の補足について2024年5月18日

  • 上四条、砂山城跡にある正行公碑、正時公碑

    上四条、砂山城跡にある正行公碑、正時公碑を見に行ったが、もう荒れ放題だった。探すのにも難儀した。近くには廃神社も、、小楠公神社の建立計画は、往生院、上四条、現在の四條畷神社と明治時代にもちあがっていた。往生院もあと少しのところで神社となるところだったが直前に頓挫し、上四条も土地の強制接収を恐れての反対運動があり、結局は現在の四條畷神社に決まることになった。しかし、この廃神社を見て、もし、こちらに小楠公神社が決まっていたなら、と想像してしまう。上四条は、一大観光名所になり、瓢箪山駅の次に四条駅が敷設され、参道も賑わうことになっていただろう。瓢箪山駅、四条駅、枚岡駅、額田駅と。往生院も四条駅からならば徒歩10分で今よりかなり楽に。上四条の史跡群、また動画でも取り上げます。上四条、砂山城跡にある正行公碑、正時公碑

  • 南北朝時代、南朝方陰陽を司っていた勘解由小路家

    南北朝時代、南朝方陰陽を司っていたのが、勘解由小路家、つまり、賀茂家であったことを裏付ける後醍醐天皇の綸旨書。後醍醐天皇は、八咫烏信仰と共に、賀茂家を重用したわけでもある。南北朝時代、南朝方陰陽を司っていた勘解由小路家

  • 楠木正成公・正行公の戒名について 補足 小楠公・正行公墓所・往生院胴塚についての歴史認識 2024年5月17日

    いくつか伝わってある楠木正成公、正行公の戒名。戒名の由来、それぞれについて考察してみました。楠木正成公・正行公の戒名について補足小楠公・正行公墓所・往生院胴塚についての歴史認識2024年5月17日https://youtu.be/Lv5l5EnmSNo?feature=shared楠木正成公・正行公の戒名について補足小楠公・正行公墓所・往生院胴塚についての歴史認識2024年5月17日

  • 南北朝時代・四條縄手の戦い(1348年・正平3年1月5日) 楠木正行・正時 vs 高師直・佐々木道誉 四條縄手 東大阪市四条町・上四条町周辺 四條畷市北条周辺 2024年5月16日

    南北朝時代・四條縄手の戦い(1348年・正平3年1月5日)楠木正行・正時vs高師直・佐々木道誉四條縄手東大阪市四条町・上四条町周辺四條畷市北条周辺2024年5月16日https://youtu.be/6q1MCBM0Dgs?feature=shared南北朝時代・四條縄手の戦い(1348年・正平3年1月5日)楠木正行・正時vs高師直・佐々木道誉四條縄手東大阪市四条町・上四条町周辺四條畷市北条周辺2024年5月16日

  • 小楠公墓所・楠木正行公のお墓 往生院胴塚・宝筐院首塚・額田首塚・正行寺首塚・四條畷墓所・甑島墓所 全国六ヶ所に伝わる楠木正行公ご墓所の由来について 往生院六萬寺 2024年5月15日

    楠木正行公のお墓全国に伝わってあるお墓の由来について小楠公墓所・楠木正行公のお墓往生院胴塚・宝筐院首塚・額田首塚・正行寺首塚・四條畷墓所・甑島墓所全国六ヶ所に伝わる楠木正行公ご墓所の由来について往生院六萬寺2024年5月15日https://youtu.be/E2bPJRYfQrA?feature=shared小楠公墓所・楠木正行公のお墓往生院胴塚・宝筐院首塚・額田首塚・正行寺首塚・四條畷墓所・甑島墓所全国六ヶ所に伝わる楠木正行公ご墓所の由来について往生院六萬寺2024年5月15日

  • 楠木正行公の念持仏について 毘沙門天・多聞天立像 懐中仏 携行仏 守り本尊 戦勝祈願 岩瀧山往生院六萬寺 2024年5月14日

    楠木正行公の念持仏・毘沙門天立像の由来について楠木正行公の念持仏について毘沙門天・多聞天立像懐中仏携行仏守り本尊戦勝祈願岩瀧山往生院六萬寺2024年5月14日https://youtu.be/uEV5JeiEYsU?feature=shared楠木正行公の念持仏について毘沙門天・多聞天立像懐中仏携行仏守り本尊戦勝祈願岩瀧山往生院六萬寺2024年5月14日

  • 今後の配信予定 楠木正行念持仏について 楠木正行御墓所について 四條縄手の戦いについて 楠木正成・正行の戒名について 楠木家一族による寺院開基開山について 2024年5月13日

    次回から楠木正行公関連について扱う予定です。今後の配信予定楠木正行念持仏について楠木正行御墓所について四條縄手の戦いについて楠木正成・正行の戒名について楠木家一族による寺院開基開山について2024年5月13日https://youtu.be/GNGBFSV7G5o?feature=shared今後の配信予定楠木正行念持仏について楠木正行御墓所について四條縄手の戦いについて楠木正成・正行の戒名について楠木家一族による寺院開基開山について2024年5月13日

  • 叡尊(興正菩薩)と枚岡神社 元寇降伏祈願法会 蒙古襲来・元寇 全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命 2024年5月11日

    1274年~1275年には全国の寺社で宗旨宗派関係なく、元寇降伏祈願法会が開催されていたのでしょう。叡尊(興正菩薩)と枚岡神社元寇降伏祈願法会蒙古襲来・元寇全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命2024年5月11日https://youtu.be/LsKjS2uDLj4?feature=shared叡尊(興正菩薩)と枚岡神社元寇降伏祈願法会蒙古襲来・元寇全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命2024年5月11日

  • 往生院と修験道 往生院と陰陽道 妙見菩薩像・八臂弁財天像 土御門家と額田歴代組 金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山 役行者 不動明王 2024年5月10日

    土御門家と勘解由小路家。双方の明暗が分かれた拙仮説として、南北朝の争いにその要因があったとみています。八咫烏陰陽道と美作後南朝。少し止まっていますが、早く美作後南朝も再考察を再開したいですね。往生院と修験道往生院と陰陽道妙見菩薩像・八臂弁財天像土御門家と額田歴代組金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山役行者不動明王2024年5月10日https://youtu.be/WD1ii0u1SmI?feature=shared往生院と修験道往生院と陰陽道妙見菩薩像・八臂弁財天像土御門家と額田歴代組金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山役行者不動明王2024年5月10日

  • 勧学・司教有志の会 声明(七の四)に思ふ

    結局、声明七も的外れなままに終ってしまったか、、残念。まあ、あまり期待もしていなかったけども、、いまさらに、「空」、「縁起」、「無分別」をめぐる解釈の誤用については書くまでもないと思っていたが、要は「新しい領解文」問題も根っこの部分にあるのは、これである。有志の会が、声明七(まだ途中)にて、くだんの問題論文のことと併せて、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の間違いについて、「仏願の生起本末」の観点からの反論をされているが、本質的な問題はそこではなく、明らかな「空」、「縁起」、「無分別」の誤用にあるのである。どうしてこの点をもっとダイレクトに指摘されないのかが不思議なのである。もちろん、従前より親鸞思想・浄土真宗教学において最も弱いのが、空思想、中観思想であります。もっとも、元々は世親、曇鸞、道綽、善導...勧学・司教有志の会声明(七の四)に思ふ

  • 河内・浄土院跡へ 瓦の散在状況の確認と記録 東大阪市横小路町 2024年5月9日

    再度、浄土院跡へと赴きまして、現況を記録しておきました。河内・浄土院跡へ瓦の散在状況の確認と記録東大阪市横小路町2024年5月9日https://youtu.be/vg_0Olg-xNk?feature=shared河内・浄土院跡へ瓦の散在状況の確認と記録東大阪市横小路町2024年5月9日

  • 往生院本堂に祀られてある妙見菩薩・八臂弁財天の由来について

    これまで、本堂に妙見菩薩が祀られてある由来が、あまりわからなかったが、河内の陰陽道の古い歴史から、葛城修験の宿場でもあった往生院なら修験道(立派な役行者坐像もある)と共に陰陽道を扱っていたのも頷けることになる。すぐ近くの額田に土御門家に仕えて祭祀を行っていた額田歴代組の鎮宅霊符神社があり、金剛生駒山系における修験道と共に、古来より河内は陰陽道の盛んな土地柄でもあったわけである。とすれば、本堂にある八臂弁財天も、やはり陰陽道関係として祀られてあったと思われるのである。江戸時代は、浄土宗鎮西派にありながら、別に額田歴代組によっての行者堂等も有して、修験道・陰陽道も修めていたということなのであろう。その名残が本堂に安置されてあると考えることができる。そして、親鸞聖人自作坐像を御影としたお堂もあり、四月の春ごとと...往生院本堂に祀られてある妙見菩薩・八臂弁財天の由来について

  • 往生院金堂・焼失時期について 南北朝時代・四條縄手の戦い 室町時代・河内守護畠山家内紛 2024年5月8日

    鎌倉時代の金堂、室町時代の金堂、2回の焼失の時期について往生院金堂・焼失時期について南北朝時代・四條縄手の戦い室町時代・河内守護畠山家内紛2024年5月8日https://youtu.be/Ui8kMT-acns?feature=shared往生院金堂・焼失時期について南北朝時代・四條縄手の戦い室町時代・河内守護畠山家内紛2024年5月8日

  • オウム真理教の殺人肯定の論理と同じような論理・新しい領解文・「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」

    オウム真理教の殺人肯定の論理と同じようなものですか、と。まあ、同じようなものということになります。煩悩による行為も、仏の悟りによる行為も、空、縁起、無分別で同じだと言うわけなのであります。悪取空見の典型というわけですね。いまさらに、「空」、「縁起」、「無分別」をめぐる解釈の誤用については書くまでもないと思っていたが、要は「新しい領解文」問題も根っこの部分にあるのは、これである。有志の会が、声明七(まだ途中)にて、くだんの問題論文のことと併せて、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の間違いについて、「仏願の生起本末」の観点からの反論をされているが、本質的な問題はそこではなく、明らかな「空」、「縁起」、「無分別」の誤用にあるのである。どうしてこの点をもっとダイレクトに指摘されないのかが不思議なのである。もち...オウム真理教の殺人肯定の論理と同じような論理・新しい領解文・「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」

  • 枚岡神社と往生院との関係性について 枚岡神社と生駒山系の地蔵菩薩信仰 六萬寺の寺名の由来仮説 念仏法難中の法然聖人の枚岡神社参詣 2024年5月7日

    河内一ノ宮・枚岡神社と往生院との関係性について考察してみると、今まで見えてこなかった興味深いことが色々とわかってきました。生駒山系で地蔵信仰が盛んな理由と六萬寺の寺名の由来についても、枚岡神社との関連で改めて考えてみました。また、枚岡神社に法然聖人が参詣された記録があることと往生院との関係についても推察してみました。枚岡神社と往生院との関係性について枚岡神社と生駒山系の地蔵菩薩信仰六萬寺の寺名の由来仮説念仏法難中の法然聖人の枚岡神社参詣2024年5月7日https://youtu.be/jAdjJgNTh8Y?feature=shared枚岡神社と往生院との関係性について枚岡神社と生駒山系の地蔵菩薩信仰六萬寺の寺名の由来仮説念仏法難中の法然聖人の枚岡神社参詣2024年5月7日

  • 河内・浄土院の存在確定! 枚岡市史・江戸時代の字名「浄土院ヶ谷」発見!! 河内国河内郡横小路村 天保14年(1843年)の村明細帳 2024年5月6日

    奈良県国立博物館所蔵の当麻曼荼羅・銘文にある「河内国河内郡浄土院」と同定できる史料をついに確認しました。河内・浄土院の存在確定!枚岡市史・江戸時代の字名「浄土院ヶ谷」発見!!河内国河内郡横小路村天保14年(1843年)の村明細帳2024年5月6日https://youtu.be/TjQ02Bc2xqc?feature=shared河内・浄土院の存在確定!枚岡市史・江戸時代の字名「浄土院ヶ谷」発見!!河内国河内郡横小路村天保14年(1843年)の村明細帳2024年5月6日

  • 法然聖人の往生院参詣の可能性も

    もう一つ、法然聖人の往生院参詣も、枚岡神社参詣と共にあった可能性が出てきた。時期的な問題はあるが。九條家と法然聖人との関係からも往生院参詣は十分に推測できたことであったが、意外にも近いところにその足跡があったのである。由来がなければこのような話も残るものではない。この点もまた掘り下げていければ。法然聖人の往生院参詣の可能性も

  • 江戸時代の横小路村明細帳に「字浄土院ヶ谷」を確認

    ついに発見した。江戸時代の横小路村明細帳に「字浄土院ヶ谷」と。枚岡市史に。執念。字浄土谷や字浄土寺ではなく、「浄土院」とはっきりあるのに、なぜ、字浄土谷となったのか、、また、近くの古墳が、浄土寺谷古墳群となったのか、、「院」と間違っていなければ、奈良国立博物館にある当麻曼荼羅の銘文、河内國河内郡浄土院は、まさに横小路村の「浄土院」と同定されたはずであったのに、、ついに二つ目の痕跡を歴史上にて発見できた。間違いなく、河内浄土院は存在していたのである。江戸時代の横小路村明細帳に「字浄土院ヶ谷」を確認

  • 「新しい領解文」問題の根っこにあるもの 「空」「縁起」「無分別」をめぐる解釈の誤用

    いまさらに、「空」、「縁起」、「無分別」をめぐる解釈の誤用については書くまでもないと思っていたが、要は「新しい領解文」問題も根っこの部分にあるのは、これである。有志の会が、声明七(まだ途中)にて、くだんの問題論文のことと併せて、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の間違いについて、「仏願の生起本末」の観点からの反論をされているが、本質的な問題はそこではなく、明らかな「空」、「縁起」、「無分別」の誤用にあるのである。どうしてこの点をもっとダイレクトに指摘されないのかが不思議なのである。もちろん、従前より親鸞思想・浄土真宗教学において最も弱いのが、空思想、中観思想であります。もっとも、元々は世親、曇鸞、道綽、善導と空思想、中観思想を扱わなかったというわけではないものの、その比重は明らかに軽くなっていくことに...「新しい領解文」問題の根っこにあるもの「空」「縁起」「無分別」をめぐる解釈の誤用

  • 怒濤文学の研究も

    先々代、川口蓮海、ペンネーム、怒濤の小説。「千鳥の曲」を入手した。怒濤文学の研究もようやくに開始である。怒濤文学の研究も

  • 河内・浄土院 歴史表舞台デビューへ 大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて 2024年5月2日

    浄土院についても、更に調査研究・考察を鋭意進めたいと思います。河内・浄土院歴史表舞台デビューへ大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて2024年5月2日https://youtu.be/6-RUJyoIOv4?feature=shared河内・浄土院歴史表舞台デビューへ大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて2024年5月2日

  • 浄土院 歴史表舞台デビューへ 大東市・アクロス歴史アカデミー講座「河内往生院の世界」にて

    河内・浄土院にあった本尊当麻曼荼羅をめぐっての新発見について、考古学者の小林義孝先生に、25年ほど前に往生院六萬寺史に寄稿の論文にて、往生院において来迎会・お練り供養がなされていたのではないかと、先生が推論されていたことが、推論ではなかったことが明らかになりつつありますと、ご報告しましたら、その浄土院、当麻曼荼羅のことを、私の講座で15分、話をしてほしいとのお返事を頂きました。パンフレットを送って頂きましたが、なんと、タイムリーにも先生の講座「河内往生院の世界」にて、2時間講義の中、15分、話をさせて頂けるようです。早速に、浄土院の調査研究の成果を発表できる機会に恵まれました。浄土院、歴史表舞台デビュー第一歩であります。有り難いことでございます。大東市、住道駅のすぐ近くです。講座は一回700円で、できれば...浄土院歴史表舞台デビューへ大東市・アクロス歴史アカデミー講座「河内往生院の世界」にて

  • 勧学・司教有志の会 声明(七の三)に思ふ 外道・邪教に堕ちた西本願寺・本願寺派

    まあ、結局のところは、「新しい領解文」にて、西本願寺・本願寺派は、仏教から著しく逸脱、転落し、外道、邪教に陥ったのは覆せない歴史的事実となってしまったわけである。改悔批判前に、そのように警告した文書をしかるべきに具申したのは、もはや、これでは外道、邪教との誹りを免れないであろうが、その是非を問うた次第であった。今さらにまた声明を再開しても、もう遅きに失してしまっている。やるなら御正忌報恩講・改悔批判前にもっと声高にやるべきであっただろう。また、声明ではなく、門主への諫言状としなければ意味はほとんどない。一連のことは「門主の意向」で進んできたことであるのは間違いないのだから、門主の翻意を促さないとどうにもならないだろう。的外れなのである。勧学・司教有志の会声明(七の三)ー総合研究所冊子の問題点ー衆生、仏願の...勧学・司教有志の会声明(七の三)に思ふ外道・邪教に堕ちた西本願寺・本願寺派

  • 歴史に埋もれたままの寺院 経塚 楠開基 多門寺 について 2024年4月30日

    おそらくは、四条縄手の合戦の後、楠木正儀によって開基された楠木正行らの供養のためのお寺であったのだろう。歴史に埋もれたままの寺院経塚楠開基多門寺について2024年4月30日https://youtu.be/dHoNHcQX40g?feature=shared歴史に埋もれたままの寺院経塚楠開基多門寺について2024年4月30日

  • 経塚 楠開基 多門寺 横小路・多門寺跡石碑

    合間に横小路、多門寺跡の石碑へ。経塚楠開基多門寺と確かに彫られてある。上方にある浄土院跡の瓦群は、兵火により焼かれた跡が顕著だった。焼けた瓦、すすこけた瓦、溶けた土壁・・1348年の四條縄手の戦いで、往生院城、往生院と共に、浄土院も高師直軍により焼かれ尽くされたのであろう。多門寺は、その戦乱で亡くなった多くの者を供養するために、楠木正儀により建立されたのではないかと推察する。四條縄手の戦いの翌年に楠木正儀は往生院を訪れ、正行の菩提を弔っている。その足で浄土院にも訪れ、その際に供養の経文を納めたのが、この多門寺であったのではないだろうかと、初めて拝し、そのように思った次第である。その後、横小路のなだらかな里山へ。古い土器や土師器、甕等は散見されるが、奈良や平安、鎌倉期の瓦は畔を歩いてみた感じではなさそうだっ...経塚楠開基多門寺横小路・多門寺跡石碑

  • 河内・往生院・中興開山についての再考察 2024年4月29日

    当初は四天王寺別当系から類推していましたが、興福寺別当系でほぼ間違いないと結論付けました。河内・往生院・中興開山についての再考察2024年4月29日https://youtu.be/spGkyL1qAx0?feature=shared河内・往生院・中興開山についての再考察2024年4月29日

  • 横小路新池

    横小路新池の周りを少し散策。しかし、古い瓦類は全く見当たらなかった。浄土院以外に上方に古いお寺があれば、必ずこの新池にそれなりの瓦が溜まってきてあるはず。それが全くなかった。調査はとにかく一つ一つ、、横小路新池

  • 寺歴の再調査研究における今後の課題について 往生院六萬寺 2024年4月26日

    未解明点といまだ謎となっている課題についてまとめてみました。寺歴の再調査研究における今後の課題について往生院六萬寺2024年4月26日https://youtu.be/2cV4JGcZbWo?feature=shared寺歴の再調査研究における今後の課題について往生院六萬寺2024年4月26日

  • 「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・

    もう1年近く相当なる有志が声高に反対しているにもかかわらず、「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・この問題の根底、裏にあるものが見えていないからでもあろう。的が外れているのである。もっと本質について2014年の門主交代の時期ぐらいからの過程をじっくりと見ていくべきであろう。新しい「領解文」問題点指摘の声明総研冊子に本願寺派有志「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・

  • 勧学・司教有志の会 声明(七の二)について思ふ

    7-2にも、これまでのテンプレだった「ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。」はなく、7-3に持ち越しとなるのだろうか。しかし、くだんの論文が論外の間違いだらけのハリボテなのは誰からも明らかであり、それはそれとして、本丸は、新しい領解文の撤回、取り下げであり、この問題は門主の失政によるもので、門主の責任がやはり最も大きい。門主に諌言するのが勧学の役割であるのだから、遠回りの「声明」でなく、門主への「諌言状」として、「新しい領解文」の撤回、撤廃を図れるように、門主のこれまでの推進の意向の翻意を促すようにするのが、手っ取り早い解決の道になると思うのだが、、勧学・司教有志の会声明(七の二)ー総合研究所冊子の問題点ー衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『教行...勧学・司教有志の会声明(七の二)について思ふ

  • 河内ふるさと文化誌 「若楠(わかくす)」のご紹介 2024年4月24日

    河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)について郷土文化誌は、地域地域の大切な文化資源を後世に伝えていくためにも大切な役割を担っています。やお文化協会さんの郷土誌「河内どんこう」は43年の歴史に幕を下ろされました・・120号にて終刊・・誠に残念なことでした・・https://blog.goo.ne.jp/.../8a42d802177f11b32d2749187fd3d48e皆様のご支援とご協力で、「若楠」(わかくす)が末永くに存続されていくことを祈念申し上げます。河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」のご紹介2024年4月24日https://youtu.be/X2tL_0loIlU?feature=shared河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」のご紹介2024年4月24日

  • 『兜率天の百の神々』法話会 ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下

    御寿まもなく89歳と思えないほどのご健勝、ご転法輪でございます。本当に尊く有り難いことでございます。口自在たる慧蔵にて至善なる勝者流の、教誨の真髄を持す比類なき御方、無数なる勝者の海を凝集せし御身に祈願せん。最上と共通の悉地を給わんことを。ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下に最敬礼申し上げます。合掌『兜率天の百の神々』法話会1日目https://youtu.be/Xw-eYRyamFY?feature=shared『兜率天の百の神々』法話会2日目https://youtu.be/kXb-aNsW9Bs?feature=shared2024年4月19-20日、インド、ヒマーチャルプラデーシュ州ダラムサラ/ツクラカンダライ・ラマ法王が『兜率天の百の神々』(gadenlhagyama)に...『兜率天の百の神々』法話会ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下

  • 勧学・司教有志の会 声明(七の一)に思ふ

    そう言えば、7-2があるのだろうが、これまでのテンプレだった「ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。」は7-1にはないが、7-2にはやっぱりあるのかな?まあ、この問題は門主による失政でもあり、門主の責任がそもそも大きい。門主に諌言するのが勧学の役割でもあるのだから、「声明」ではなく、「諌言状」として、「新しい領解文」撤回への意向を門主が総局に促すようにすれば良いのではないかとは思うのである。勧学・司教有志の会声明(七の一)に思ふ

  • 河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)2024年春季号発行・拙稿「玉日姫坐像について」

    河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)、2024年春季号が無事に発行されました。拙生は、「玉日姫坐像について」。親鸞聖人自作坐像奉納との関連を詳しくご説明させて頂いております。やはり、これも往生院と九條家との関わりでありますね。次回は、「法然聖人三日月の御影について」。すでに原稿はお渡ししています。その次を「往生院と南朝について」(これも原稿入稿済)に予定していましたが、「歴史から消えていた謎の山麓寺院河内・浄土院について」に変更しようと思います。定期購読(年2000円)ご希望の方は、ご入会のお誘いを参照下さいませ。草川様はじめ、ご入会賜りました皆様、本当にありがとうございました。もうまもなくで届くかと存じます。引き続きに宜しくお願い申し上げます。河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)2024年春季号発行・拙稿「玉日姫坐像について」

  • 河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ 現地見学説明会 2024年4月22日

    本日に市文化財課に金堂跡の現況、そして、浄土院跡を確認して頂くために現地説明をさせて頂きました。調査へ向けて進むことを誠に願っています。とにかく、引き続き両者ともに調査研究を鋭意に進めて参ります。河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ現地見学説明会2024年4月22日https://youtu.be/89gh9chyprU?feature=shared河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ現地見学説明会2024年4月22日

  • 『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』論文の間違いについて

    あぁ、、問題論文、出されたのは1月だったか、、時が過ぎるのは速いな…反論文をお願いしますと言われたが、私は、正式な研究者でもないし、学術学会員でもなく、どの学会にも属していない。また、「議論の余地はない」と、念押しして述べてある時点で、呆れてその気も無くなるレベルでさえある。先に示した満井秀城勧学(与奪者)の改悔批判における『「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」は、生死即涅槃の法義です。仏智見から見れば自他一如として、仏と衆生と隔てるものはありません。それを凡夫の分別心が両者を隔絶してしまうのです。』の主張に対しての拙反論のあれだけで、もう十分にお腹いっぱいという感じでもある。。要は、論文における下記に対して反論するだけで、もう十分ということである。『・・これを私は約仏の視点として説明して来た。約仏の視点...『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』論文の間違いについて

  • 勧学・司教有志の会 声明(七の一) ー総合研究所冊子の問題点ー

    かの低レベル問題論文への声明。彼岸中にあの大恥論文を門末全てへ郵送配布したことを聞いて呆れたのが先月、、暖簾に腕押し、厚顔無恥さに脱力したものです。勧学・司教有志の会声明(七の一)ー総合研究所冊子の問題点ー衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『教行信証』「信文類」(『註釈版』二五一頁)このたび池田行信前総局名で、『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』という総合研究所の冊子(以下、冊子と呼ぶ)が、本願寺派全寺院へと送付された。その序論によれば、この冊子は、総局主催で行われた「新しい領解文」についての各教区の学習会において多くの僧侶・門信徒から投げかけられた疑問や困惑の声を承け、総合研究所所長(当時)満井秀城氏が自身の説明論理として作成したものであるという。しかし、...勧学・司教有志の会声明(七の一)ー総合研究所冊子の問題点ー

  • 証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について 当麻曼荼羅の普及への貢献 2024年4月21日

    動画にしていく方が考察が進むという・・文章にまとめるより楽という・・一つのサボりですね。まあ、記録にもなるので、助かる面も。。証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について当麻曼荼羅の普及への貢献2024年4月21日https://youtu.be/QQg2DJPVb4I?feature=shared河内・往生院の中興開山はいったい誰であるのか?当麻寺との関係から読み解く2024年4月21日https://youtu.be/KX1wygsB1_o?feature=shared往生院六萬寺の歴史について(動画説明)新しい順http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92790532.html証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について当麻曼荼羅の普及への貢献2024年4月21日

  • 浄土院の当麻曼荼羅は、往生院のものだった可能性も

    浄土院の当麻曼荼羅は、往生院のものだった可能性も出てきた。九條道家により東福寺末寺となり、臨済宗に改宗した際に、浄土系儀礼を浄土院に全て引き渡したのかも。いや、むしろ引き継がせるために道家が1240年頃〜に浄土院を建立したのかもしれない。ならば、往生院中興開山は、証空上人、その近い門弟であった可能性もやはり高いか。再調査の際に憑依されてお知らせ下さった浄興と名乗られたお方なのか?いずれにしても、証空上人による西山浄土宗として往生院は中興されたのはもう明らかとなった。これも全ては当麻曼荼羅のお陰様である。浄土院の当麻曼荼羅は、往生院のものだった可能性も

  • 河内・往生院中興開山についての推論

    当麻寺と九條家、九條家と往生院、信円さんと当麻寺、来迎会練供養と往生院、当麻曼荼羅と九條家(慶政、教実、頼経、道家等)、当麻曼荼羅と浄土院・往生院、当麻寺と葛城修験と往生院、、、いよいよ、往生院中興開山、ほぼ信円さん(興福寺・当麻寺別当)で間違いないかと。。河内・往生院中興開山についての推論

  • 河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか? 日想観と共に華麗荘厳な来迎会 2024年4月18日

    河内・浄土院についての関連から、往生院でも迎講、来迎会、二十五菩薩お練り供養、聖衆来迎練供養会が修されていたと考えられることについて。考古学者・小林義孝先生は、20年以上前に、早くからこのことを指摘されていました。色々と解明が進み、誠に有り難いことでございます。河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか?日想観と共に華麗荘厳な来迎会2024年4月18日https://youtu.be/jLFVh6IFfiI?feature=shared河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか?日想観と共に華麗荘厳な来迎会2024年4月18日

  • 往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説・指摘

    寺史掲載の考古学者、小林義孝氏の論文からである。往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説されていたのである。慧眼に恐れ入る。もちろん、双子、兄弟寺院であった河内浄土院に本尊、当麻曼荼羅があったこととは無関係ではなかっただろう。つまり、浄土院、往生院ともに、迎講、来迎会、練り供養がなされていたのであろう。もちろん、往生院にも当麻曼荼羅があった可能性も極めて高い。東大阪市の文化財課の文化財調査官を往生院金堂跡とともに浄土院跡にも案内するが、練り供養がなされていたとなれば、娑婆堂と金堂が確実にあったと思われるため、その痕跡についてもその際にしっかりと見極めたい。往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説・指摘

  • 河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まる

    九條道家の兄、慶政上人(九條良経の子・兼実の孫)が、実質的に当麻曼荼羅の由来を世に広め、その普及に努めていたことを突き止めた。もちろん、証空上人の当麻曼荼羅普及に関することも書かれている。やはり、河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まったと共に、河内往生院にも当麻曼荼羅が本尊としてあり、二十五菩薩お練り供養がなされてあった可能性が極めて高い痕跡があることも改めてわかった。金堂跡の地勢から小林義孝氏の論文にてそれが詳細に述べられてある。後ほどにそれはあげることにする。https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/.../KU-1100-19940331-02.pdf河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まる

  • 字「南九重堂」 「九重」は「九輪」と混同したか!? やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた? 2024年4月17日

    結局は、字「院堂」に、桜井寺金堂、六萬寺金堂、安助上人御堂、往生院金堂、全て多重的に存在していた可能性がやはり高いかも、、字「南九重堂」「九重」は「九輪」と混同したか!?やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた?2024年4月17日https://youtu.be/vwaqZ_RkML4?feature=shared字「南九重堂」「九重」は「九輪」と混同したか!?やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた?2024年4月17日

  • 正行の城あと 字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ 楠木正行の城あとを確認 往生院金堂跡・北側 2024年4月16日

    いよいよ、本命となる六萬寺の探索へ向かった。残念ながら、奈良時代、平安時代の瓦は見つからなかったけど、別に成果があった。しかし、もう藪蚊がかなりすごい、、藪の中の探索はもう無理かな、、正行の城あと字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ楠木正行の城あとを確認往生院金堂跡・北側2024年4月16日https://youtu.be/LMt8vU0EuqM?feature=shared正行の城あと字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ楠木正行の城あとを確認往生院金堂跡・北側2024年4月16日

  • 河内・往生院と浄土院 当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く 2024年4月15日

    浄土院跡を確認できた流れに乗って、いよいよ、六萬寺の本丸を探すために、字「南九重堂」周辺へと行きたかったのですが、市の文化財課の調査官を迎える準備のために、まずは歴史館の資料整理、掃除を優先。往生院金堂跡、浄土院跡へも案内するため、効率よく回れるようにしたいですね。とにかく、やる気があるうちにやるしかない。。河内・往生院と浄土院当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く2024年4月15日https://youtu.be/Ikn99qGB93g?feature=shared河内・往生院と浄土院当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く2024年4月15日

  • 河内・浄土院・当麻曼荼羅銘文の分析

    往生院の金堂落慶法要は、遅くとも1210年までかな。。浄土院は、1230年頃になるかな、、やはり、同時というわけでは無かったかも。しかし、九條家が両方ともに関わりの深いことがわかった。更に浄土院の開山の検討にて、往生院の中興開山についても誰であったのか、かなり絞れることにはなりそうだ。重源、叡尊、忍性、慈円、信円、、信円はありえるかも。浄土院は、当麻曼荼羅を本尊としての落慶ならば、やっぱり証空が有力になるかな。しかし、当麻曼荼羅銘文は本当に有り難い。まさに情報のタイムカプセルだ。修復と修複はやはりちがうのだろう。。原文は複なのである。つまり、複写した、新しいものということであろう。原本はやはり破損したわけだ。修復不可、要は焼けるなどしたのではないだろうか。ならば、1337年の後醍醐天皇が立ち寄られたことと...河内・浄土院・当麻曼荼羅銘文の分析

  • 河内・浄土院と往生院 その関係性について 当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考える

    浄土院・当麻曼荼羅の銘文を分析することで、往生院の歴史についても解明できていけることがあるとみています。つまり、中世に往生院に建立された金堂の落慶法要の導師となった中興開山と、浄土院の開山が同じなのではないかということです。今のところ証空上人(浄土宗・西山派の祖)ではないかとみています。とにかく今後の研究がずいぶんと進みそうです。有り難いです。河内・浄土院と往生院その関係性について当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考えるhttps://youtu.be/L5cqkU3zOpQ?feature=shared河内・浄土院と往生院その関係性について当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考える

  • 河内・浄土院か? 浄土寺跡について 往生院の兄弟寺!? 当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解く

    河内・浄土院の成立年代、開山、開基を当麻曼荼羅銘文から推測してみました。限りなく往生院の兄弟寺ということかも。金堂が同時期に建てられた可能性が、、本当に不思議なことです。(そういえば、法名の阿号は時宗でしたね・・)河内・浄土院か?浄土寺跡について往生院の兄弟寺!?当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解くhttps://youtu.be/MWzfFt9mqrE?feature=shared河内・浄土院か?浄土寺跡について往生院の兄弟寺!?当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解く

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