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大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」 https://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ

大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」
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2014/09/26

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  • もう出てこないだろう 2・26事件資料

    昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料

  • 『宮沢喜一日録』の存在

    昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在

  • 『ZK』を見て

    映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て

  • 山本陽子、死去、81歳

    女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳

  • 『恋の浮島』

    ポルトガルと日本の合作映画だが、ほとんどは日本側で作られた作品で、撮影の岡崎宏三さんによれば、日活スタジオで撮った日本側の映像と、ポルトガルで撮影した部分の調子を合わせるのが大変だったとのこと。主人公は、ポルトガルからマカオを経て神戸、そして徳島に来たモラエスの伝記映画で、彼は海軍士官だったが、日本の文化や事情を本国の新聞等で紹介した人だった。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンもそうだが、欧州に人間には、非西欧的文化に強い興味を持つ者がいる。英国の監督デビット・リーンもそうで、彼の題材は、アラブ、アイルランド、ロシアと非西欧世界で、日本の女優岸恵子を気に入り、本当は彼女を主役に映画を撮るつもりだったそうだ。さて、モラエスについては、結構伝記本があり、その一つは横浜市図書館にもいた佃実夫さんの『わがモラエス』...『恋の浮島』

  • 『ダイヤモンドは傷つかない』『二十歳の原点』

    私は、「藤田敏八、ベケット説」で、『ゴドーを待ちながら』のように、うろうろしているが、いきなり破局が来るのが藤田の映画だと思っている。ここでは、予備校の教師山崎努が、妻朝丘雪路がいながら、帽子デザイナーの加賀まりこ、そして学生の田中美佐子との間をうろうろするもので、田中を「宝物」と言い、「50年たったら結婚しよう」とも言う。実に自分勝手で、いい加減な男だが、最後まで同じで終わる。ただ、田中は、学生と一緒になろする。「なにこれ」と言いたくなる。実は、これと田中裕子主演の映画『ザ・レイプ』が東映系で2本立てで公開されて、そこそこ当たったのだ。ダブル田中映画だが、東陽一の『ザ・レイプ』の方が、作品としてははるかに上だった。田中美佐子をダイヤモンドとは言えなかったし、山崎努に愛嬌が不足していると思う。前に見た『二...『ダイヤモンドは傷つかない』『二十歳の原点』

  • 東條英樹、暗殺計画

    CSで、山田朗先生の『軍人としての三笠宮』を見るが、この方は、戦時中に東條英樹暗殺計画に加担させられたことがあるそうだ。日本の歴代首相で、一番嫌われたのは東條英樹だろうが、戦争末期には、3つの暗殺計画があったそうだ。1高木惣吉らの海軍グループ2細川護貞グループ3津野田知重・牛島辰熊グループこの内、最後の津野田とは、陸軍で旧知の仲だったので、計画書を見せられたことがあり、沈黙を黙認と見なした津野田は、実施に向かったが、サイパン島陥落で東條が首相を辞めたので、沙汰止みになった。だが、憲兵隊の知るところとなり大問題になったが、三笠宮にもかかわるとのことで、大事にはならなかったようだ。なお戦後、津野田は、東京12チャンネルの創設にも関わったとのことだ。こうした三笠宮を、昭和天皇はかなり警戒していたようだ。東條英樹、暗殺計画

  • 佐久間健治さん、死去

    いろいろな方の訃報が伝えられるが、先日、佐久間健治さん死去の報が息子さんから葉書で来た。91歳。佐久間健治さんは、日本のコンケンション事業の第一人者であり、パシフィコ横浜の営業部長として、また横浜コンベンションビューローの常務として、私が長年にわたりお世話になった方だった。佐久間健治さんは、高校までは山形県で、上京して早稲田大学文学部に入ると共に、東京税関に勤務された。税関では、当時の日本の国際空港である羽田空港に勤務したほか、芝浦にあった輸入映画の保税倉庫に勤務したこともあったそうだ。羽田空港では、「滑走路で相撲を取ったりして遊んだものだ」と言っておられたが、まだのんびりした時代だったわけだ。だが、もともと海外で仕事をしたいという意欲があったので、1964年の東京オリンピックを契機に(特)国際観光振興会...佐久間健治さん、死去

  • 山の上ホテル、休業

    お茶の水の山の上ホテルが、休業するそうだが、閉鎖だろう。大岡昇平によれば、日本の都市では企業などの民間の物はどんどん変わるが、公共の物は変わらないそうだ。これもその一つで、いずれマンション等を含んだ建物になるのだろう。ここに入ったのは、一度だけで、故下川博がNHKの仕事をしているときで、「ここにいるから見に来い」とのことで行ったのだ。当時は、NHKのスぺシアル番組の企画、脚本を書いていたときで、中国が題材だった。例によって、スタッフの悪口で、下川のよくない癖だったが、大手の連中と仕事すると、すぐに彼らの悪口になるのだった。私は思った「我々は、倉本聡や山田太一のような一流の人間ではないのだから、お相手をしてくれるスタッフも、それなりなんだから」だが、彼は最後まで、考えは変えなかったようだ。それも、素晴らしい...山の上ホテル、休業

  • 市大病院は、やはり山下ふ頭に整備を

    先週、用があって南区浦舟町の横浜市大センター病院に行った。15年ぶりくらいだったが、その混雑に驚く。横浜の市大病院と医学部は、もともとこの地にあったのだが、拡幅するために金沢の埋め立て地の福浦に移転させた。だが、やはり金沢区では不便で、シーサイドラインを使かわないといけないので、次第に浦舟のセンター病院に戻って来ているようで、大混雑になっているのだ。先日、発表された市大病院と医学部の移転整備計画では、さすがに医学部は、根岸の旧米軍住宅地区に整備するが、病院は、浦舟のセンター病院に作るのだそうだ。センター病院の西側に緑地と駐車場用地があるので、そこに作るのだろうか。それはいいとしても、やはり根本的には、山下ふ頭地区に、市大病院と医学部を整備するのが最上の作ではないかと思った。そして、医学等の研究施設、先端技...市大病院は、やはり山下ふ頭に整備を

  • 武道館の小澤征爾

    小澤征爾が亡くなったが、彼の指揮を見たのは、一度だけだと思う。なんとそれは、日本武道館でのトロント交響楽団の公演だった。たぶん、1960年代末で、兄から貰った招待券で行ったと思う。武道館でクラシックなど、今では考えられないが、小澤は、NHK交響楽団とのトラブルがあったので、おそらく普通のホールでは公演できなかったのだと思う。このときは、武満徹の曲もやったと思うが、さすがに良く憶えていない。日本から出て、世界で活躍された方のご冥福を祈るが、確か最近、ピアニストの江戸京子さんも亡くなられている。皆、もう忘れているが、江戸京子は、小澤の最初の妻であり、彼の活動を助けた方である。お二人のご冥福を祈りたい。武道館の小澤征爾

  • 『その人は女教師』

    映画は、見てみないと分からないものだと思う。宮内富貴子脚本なので、だが映画『俺たちの荒野』以外、ろくなものがない出目昌伸監督なので、期待せずに行ったが、大変に良かった。1968年10月21日、新宿は大騒乱で、一人列を離れてさまよっていた高校生に三船志郎は、偶然に出会った岩下志麻のOLのような女に抱擁・キスされて、機動隊の追及から逃れた。そして、三船の三島市の高校の数学の新任教師として岩下がやってくる。これは、校長の案ではなく、生活指導の戸浦六広のアイディアで、学生時代に運動をしていた岩下なら、学生に上手く対応できるだろう、「毒には毒を持って制す」だった。三船の家は、地元の有名医師神田隆と一の宮敦子の夫婦、高校のクラスには、美少女の髙林由紀子、日活の不良の中沢治巳らがいて、高林と三船は一番親密で、彼らは常に...『その人は女教師』

  • 西河克己の偉さを思う

    早見優主演の映画『KID』を見る。1985年の公開時に併映の『ブレイクタウン物語』もひどいと思い、『ミュージック・マガジン』に書いたが、やはりひどい。ここで思うのは、百恵・友和映画をヒットさせた元日活の西河克己の偉さである。最初、東宝から山口百恵の映画の企画が来た時、ホリプロは「女学生映画」を考えていたそうだが、西河は、女学生ばかりだと百恵が目立たないと反対し、『伊豆の踊子』にしたそうだ。早見優は、体は大きいが、まだ大人の情感はないので、それこそ「女学生映画」でもよく、女学生映画には、大成功ではないが、伊東ゆかりの映画『愛する明日』があり、そこそこ映画として成立していたのだから。ただ、この愚策を見て、発見したことが三つあり、松尾和子と小坂一也がまだ生きていたこと、宍戸錠の映画『殺しの烙印』で、錠が最終の相...西河克己の偉さを思う

  • 若山と勝新

    若山富三郎と勝新太郎は、言うまでもなく兄弟だが、その性格はかなり違ったようだ。先日の『座頭市千両首』を見ると、若山は、最後であっさりと勝新に負けてしまうが、これは「座頭市は勝新の映画だ」と心得ているからだろう。若山は、勝新の後を追って映画界に入ったが、新東宝、大映、東映と必ずしも順調な歩みをしたわけではない。そうした経験が、生かされたのが、黒澤明監督の『影武者』の時である。当初、この企画で東宝では、勝新と若山の共演でやるつもりだった。当時、東宝では、勝新の『座頭市』と若山の『子連れ狼』がドル箱だったからだ。だが、このとき、この企画を若山が断った。「勝と黒澤が組んだら、きっと喧嘩になる。その時、俺が仲裁役になるのはご免だ」これは、彼の予想通りになって、撮影1日目で、勝新の解任となる。これは、普通に言われてい...若山と勝新

  • 「女中映画」

    かつて日本には、女中映画と言うジャンルがあった。左幸子の『女中っ子』が典型だが、若水ヤエ子の「女中シリーズ」もあった。小沢昭一によれば、女中と言うのは、「お女中」と言うように尊敬語だったが、いつの間にか差別用語になった。ただ、つい最近まで、女中は普通にいたもので、私の元妻の家でも、そう裕福ではなかったようだが、いつも女中がいたそうだ。それだけ、若年の女性の人件費が安かったからだろう。だが、差別用語のなったので、1976年の森昌子主演の映画化に時は、左幸子と同じ原作なのに、『どんぐっ子』に替えられた。最近の女中映画と言えば、テレビの市原悦子主演の「家政婦は見た」シリーズである。これは、テレビ、マスコミが持っている「のぞき見」的本質をよく生かしたシリーズだったと思う。世田谷線沿線にある家政婦紹介所にいる市原悦...「女中映画」

  • 『座頭市千両首』

    出入りで、心ならず殺してしまった男の墓参りに、市は上州のある村に馬で来るが、その馬子は少年姿の坪内ミキ子で、もちろん市が殺した男の恋仲だった。村では、飲めや歌えの大騒ぎ。代官が化した「千両の負荷」を納めたからで、もちろん代官は悪代官で、受けた千両を、伊達三郎らの悪漢に横取りさせ、さらに自分の屋敷に隠してしまう。この村人の歌が、八木節なのは、実は問題であるが、後に書く。さて、勝新太郎は、「役者バカ」なので、相手役が良いと自分も燃える。ここでは、国定忠治に島田正吾、日光の円蔵に石黒達也と言うのが憎い。当然、ここでは島田に「赤城の山」を演じさせて、勝新は、板割りの朝太郎を負って山を下りる。さらに、城健三郎も出ているので、ここで島田と城の殺陣があったら最高だが、それはなくて、城は当然最後に勝と兄弟決闘をして死ぬ。...『座頭市千両首』

  • 『クレージーの花嫁と七人の仲間』

    1962年のクレージーキャッツの映画で、松竹とは珍しい。松竹では、ハナ肇が単独で出ている作品が沢山あるが、クレージーキャッツとして、全員が出ているのは珍しいと思う。というのも、クレージーキャッツのアメリカ的なジャズ志向と松竹の体質は異なるように見えるからだが、この作品では違和感がなく、言ってみれば東宝的な出来になっている。ハナ肇と谷啓は、東京の寿司屋の板前で、場所は明確ではないが、店の次女倍賞千恵子が出ている浅草国際劇場に出前しているので、浅草の近くのようだ。店主で長女は高千穂ひづるで、彼女の叔父で伊豆の修善寺で旅館をやっている伴淳三郎は、何人も見合いの相手を持ってくるが、彼女は見向きもしない。実は、電源開発の社員の水原弘と恋仲なのだ。寿司屋に来る客に芸者の淡路恵子がいて、ハナ肇や伴淳は惚れていて、一次は...『クレージーの花嫁と七人の仲間』

  • 1963年の映画

    衛星劇場で、江利チエミ主演の『咲子さん、ちよっと』を見たが、結構よくできていて感心したが、それ以上に1962,3年ごろの日本映画と社会は、今とは比べられないほど、良い時代だったなあと思った。この1963年は、日本映画は最高だったと思う。よく言われるに、日本映画の観客動員数は、1957年だが、内容的には1963年が最高だったと私は思うのだ。理由は、簡単である。溝口健二は亡くなっていたが、内田吐夢、伊藤大輔は元気で、小津安二郎もまだ生きていたのたのだが、この年に亡くなるのだが。松竹には、まだヌーベルバーグの余韻があり、日活、東宝、大映には、戦後派の新人監督もいたからだ。もちろん、黒澤明は、正月映画に『椿三十郎』を公開している。このように、1963年は、日本映画の頂点だったと思えるのだが。1963年の映画

  • 『マハゴニー』

    この30年くらいで、一番参った映画である。なにしろ筋もドラマもなく、特に感動的なシーンもないのだから。監督の篠田正浩が、松竹の城戸四郎の監督試験のとき、「君は、小津安二郎について、どう思うか」と聞かれ、篠田は「1920年代の欧州に絶対映画、純粋映画があったが、僕は小津安二郎にそれを見ます」と答えたそうだ。絶対映画とは、映画から、小説、劇、などの余計なものを取りのぞき、映像だけで映画を成立させようとするものだった。小津安二郎の映画は、よく見ていると、筋やドラマやテーマなどはどうでもよく、テンポよくカットが進んでいくことの快感に酔ってくる。その意味では、篠田が言うように、「小津映画は、絶対映画」であろう。だが、このブレヒトの劇『マハゴニー市の興亡』を基にしたそうだが、それはほとんど感じられず、各シーンは「どう...『マハゴニー』

  • 恵方巻を食べる

    昨日、今日と恵方巻を食べる。「恵方巻なんて、コンビニの宣伝だ」との声もあり、たしかに関東に、昔は恵方巻はなかったと思う。ただ、江戸時代から、「恵方」という考え方はあり、むしろ初詣などは、明治以後に生まれた鉄道会社の宣伝によるものなのだ。鉄道など交通機関が発達していなかった明治中期まで、庶民は、遠くの神社等に詣でることは不可能だった。だから、普通の庶民は、正月は、その年の恵方に行く、「恵方参り」をしていたのだ。そして、節分に食べるのは、だいたいは散らし寿司だったと記憶している。まあ、恵方巻は、結構おいしいので、それでよいと思って食べている。恵方巻を食べる

  • テレビの『陽の当たる坂道』

    石坂洋次郎の『陽の当たる坂道』は、日活で2回映画化されているが、1965年夏のTBS版も非常に良かった。脚本は、山田正弘、演出は村木良彦だった。主演は、芦川いずみで、彼女が教える少女は小川知子で、非常に可愛かった。その家の長男は、横内正、二男で芦川の相手になるのは、新克利だった。1965年夏は、日本と韓国の国交正常化が最大の政治的課題で、高校生だった私は、日韓条約阻止高校生会議の一員として活動していた。といっても、当時のことなので、勉強会、街頭デモへの参加程度で、後の過激派の暴力とはまったく別だった。このテレビの『陽の当たる坂道』では、芦川が通う大学の先生は、福田善之で、皆がデモに参加して機動隊に殴られると言ったシーンもあった。今、考えると当時のTBSテレビは、本当にすごかったと思う。村木らは、後にテレビ...テレビの『陽の当たる坂道』

  • 俳優座の『三人姉妹』

    1967年だったと思うが、俳優座が日生劇場で、チェーホフの『三人姉妹』を上演した。当時、付き合っていた女性と見に行ったが、このときの3姉妹は、岩崎加根子、河内桃子、そして人気スターになっていた栗原小巻で、「大河ドラマに便乗した公演」と言われた。内容はよく憶えていないが、俳優座も、この頃が一番良かったのではないかと思う。当時、「新劇3代美女」という言い方があり、岩崎加根子、河内桃子、そして渡辺美佐子だったと思う。河内桃子は、早く亡くなられてしまったが、岩崎と渡辺が、ご健在なのは、喜ばしいことである。俳優座の『三人姉妹』

  • 『新幹線大爆破』の豊かさ

    なんども見ているが、BS12で『新幹線大爆破』を見る。なんども見ているが、やはり面白く、またときどきで挿入される回想場面の抒情性がすばらしい。この映画は、当初は菅原文太主演で企画されたが、文太が「新幹線が主役の映画なんかに出られるか」と断ったので、高倉健になったが、この交代は、作品の持つ抒情性からみれば大変によかったと思える。菅原文太主演では、もっと殺伐としたドライなものになってしまっただろう。そして、俳優の豊かさ、高倉健、宇津井健、丹波哲郎、千葉真一、永井智雄、志村喬、山内明、山本圭、郷英治と近藤宏、鈴木瑞穂、さらに元大映の伊達三郎と元日活の川地民夫など。実に、豊かな俳優陣なのは、この1975年の頃、大映はすでに倒産し、日活が一般映画をやめたこと、そして新劇が興隆していたことが、この作品の俳優の豊かさを...『新幹線大爆破』の豊かさ

  • 『三姉妹』の残したもの

    栗原小巻の回想は、大河ドラマの『三姉妹』(さんしまい)だったが、1966年にNHKで放送されたドラマは、栗原小巻の名を全国的にしたが、もう一つ残したものがあった。それは、姉妹を「しまい」と呼ぶようになったことだ。長い間、姉妹は、兄弟と同様に、きょうだいと読まれていた。嘘だと思うなら、日本映画の名作を見ると言い。溝口健二の『祇園の姉妹』は、「ぎおんのきょうだい」であり、小津安二郎の『宗方姉妹』は、「むねかたきょうだい」である。1961年の川島雄三の『赤坂の姉妹』は、「あかさかのきょうだい」であり、中でチェーホフの『三人姉妹』が上演されるが、「さんにんきょうだい」と言っている。やはり、NHKが全国放送でやったことは大きかったのである。もう一つ、この頃から「ウーマンリブ」の運動もあり、女性の権利が強くなったこと...『三姉妹』の残したもの

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