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大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」 https://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ

大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」
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2014/09/26

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  • 昨日の朝は、

    昨日の朝は、目が覚めずタイマーのテレビの音で、やっと目が覚めた。さすがに、一昨日の土方巽の映画『疱瘡譚』には疲れたのだと思い当たった。それだけ、緊張して見ていたのだろう。普段は、緊張しないで見ていると言うことなのだろうか。昨日の朝は、

  • なぜ蓄電池をさらに開発しないのか

    猛暑で、節電が大騒ぎである。だが、電力が逼迫するのは、ほんの数時間で、大体昼から夕方で、夜は当然に余裕がある。電力は、基本的に溜めることができないので、こうなるのだが、本当は大型の蓄電池があるのだ。実は、大型電池はすでに開発されていて、2002年のサッカーワールドカップ日韓共同開催のとき、パシフィコ横浜は国際メディア・センターになった。この時、FIFAは、「日本は地震があって停電になると大変だ」として、大型の電池畑を臨港パークに作らされたのだ。それは、東電自慢の「NAS電池」といい、東電の那須元社長に因む立派なものなのだ。これをどこか広い場所に設置すれば、電力不足はなくなると思う。それをしないのは、やはり政府も東電も、原発を再稼働させたいからだと思うのだ。ひどい話だと思うのだ。なぜ蓄電池をさらに開発しないのか

  • 『疱瘡譚』

    私が苦手なものの一つに、ダンスとシャンソンがある。お上品なものがダメで、ダンスの中でも、もっとも評価が高いのが実は、舞踏なのだ。国内はともかく、世界的に日本発の芸術ジャンルとして評価されているのが舞踏なのである。この夜の、映画上映の後のトークで初めて知ったのは、ヤスカズが若いときに土方巽のところにいたとのことだった。1970年代に、日本で騒がれていたヤスカズは、二度見て私は到底良いとは思えず、その旨中村とうようさんに話すと、「その通りだ、第一にあんなに民俗楽器を舞台に並べるのは、実はいちばん金の掛かることで、彼は大金持ちなのかね」と言われ、中村とうようさんと最初に合意した事柄の一つだった。ヤスカズの大げさな演奏も、土方的なものの最悪の継承なのだったのかと、あらためて思った。1972年10月に、新宿文化で上...『疱瘡譚』

  • 『田園1968』

    文学座の支持会員だったのだが、今年は会費を納入していないので、一般料金で見に行く。紀伊国屋サザンシアターへは、代々木から歩くが、ここもひどい駅で、近道の地下道があるのだが、そこは急階段を降りて、昇るしかないので、迂回して行く。途中に踏切があり、以前は貨物線だったが、湘南ライナーによって踏切が次第に「開かずの踏切」化しつつあり、この日も一時止められた。作の東憲治は、1968年は5歳だったそうで、彼の福岡の田舎育ちと、演出の西川さんが、ちょうど19歳だったそうで、この二つが合わさったような話になっている。福岡の農家の次男の主人公梁瀬文徳は、地元の大学を受けて落ち、浪人になり、予備校生となっているが、ろくに通わず、映画館に入り浸っている。この幕開きの映画館のシーンは、清水邦夫・蜷川幸雄の『なぜか青春時代』のよう...『田園1968』

  • 『太陽を抱く女』

    高校1年の時、隣の席にK君がいた。サッカー部だったが、英語が非常にできる男で、現役で一橋大に入った。だが、彼は変な趣味で、歌手は三沢あけみ、女優は真理明美が好きだったのだ。この映画は、一応彼女の二作目の映画となっているが、本当は違い、PR映画の『恋の羊が海いっぱい』と『わが愛、北海道』に主演級で出ていて、どちらも監督は黒木和雄である。当時は、本名の及川久美子である。もっとも、東レの宣伝映画には、彼女の他、久里千春、五月女マリ、水垣洋子などの若手タレントが多数出ている、そしてなんとミュージカルなのだ。つまり、彼女は、故郷から出てきて、いろんな作品に出ていたが、松竹が募集した映画『モンローのような女』に合格して、正式に女優デビューしたのだろう。だが、彼女は、モンロー的ではなく、むしろオードリー・ヘップバーン的...『太陽を抱く女』

  • ヒカリ座の実演

    1968年に見た映画のノートを見ていたら、前年の1967年に実演というのがあった。1967年9月4日で、蓮沼ヒカリ座実演とあった。内容については何もないが、5,6人のストリップ団が来て実演をやったのだと思う。ここは、通常は300円くらいだったが、この時は2000円くらいだったと思うが、満員だった。そして、ご丁寧なことに幕間にコントのトリオが出ていたことである。当時は、ストリップと言っても極めて低い露出度で、今のビーチバレー以下の重装備だった。翌年になると、大映の作品を沢山見ているので、結構普通の映画をやっていたのだなと思った。ヒカリ座の実演

  • 『北京の55日』

    午後は、NHK総合で阪神・中日戦を見ていた。私は、解説の伊東勤が好きで、ぜひ矢野の次は、阪神の監督になってもらいたいと思っている。伊東が監督になれば、カイザー田中、野村、矢野に次ぐ4人目の捕手出身の監督になるのだが。夜は、見るものがないので、『北京の55日』を見る。1900年の義和団事件を、英米等の連合国側から描いた大作で、中国人の描き方など問題はあるが、当時としては、ましな方だろう。義和団を、英米の連中は、「ボクサー」と言っている。拳のことなのか。これは、スペインのマドリッドで撮影された作品である。この頃、ハリウッドの大作が、イタリアやスペインで作られることがあった。理由は、二つあり、一つは人権費がやすいことだが、もう一つは、外国為替の問題があった。当時は、現在のように外国為替は、自由ではなかったので、...『北京の55日』

  • 私の1968年の映画 1

    ノートで、1968年に私が見た映画を振り返ってみる。最初は1月12日、五反田大映で、『ゴジラの息子』と『君に幸福を』、もちろん後者の内藤洋子を見に行ったのだ。だが、映画館には20人くらいしか客がいなくて、『ゴジラの息子』の出演者は100倍くらい出ていたなと思う。次は1月23日、新宿国際で『殺しの烙印』『東京流れ者』『けんかえれじい』の鈴木清順監督の最高時代の3本立て。新宿国際は良い日活をやっていたが、地下はピンク映画で、こちらの方が長くやっていたが、ビル自体がなくなった。25日は、蒲田ヒカリ座で『ある殺し屋の鍵』『男なら振り向くな』『駅前探検』の3本立てで、森一生の『ある殺し屋』が最高だった。翌26日にも、有楽シネマで、前作の『ある殺し屋』と勝新の『やくざ坊主』1月31日は、蒲田松竹で『樹氷のよろめき』(...私の1968年の映画1

  • 1968年の日本映画

    『田園1968』を見たが、1968年の日本映画について書いてみる。私は、大学3年で、この年から大学に戻った。日本映画は、混乱期で、悪く言えば滅茶苦茶、よく言えばなんでもありだった。日活は、スパーダースだが、この年に最後のヒット作『無頼シリーズ』が始まる。松竹は、ハナ肇と渥美清で、ドリフターズは、松竹と東宝に出ていた。東映は、当然ヤクザ映画で、だが晩年の傑作『総長賭博』があった。東宝は、最も混乱していて、いろんな監督作品が出ていた。最後、『日本沈没』のヒットで、大作路線になるのだが。この時期、一番ヒットしていたのは、ピンク映画だったわけだ。1968年の日本映画

  • 岡鬼太郎の作だったが

    今日の歌舞伎座の『猪八戒』の作者は、岡鬼太郎だった。私は、この人の劇評が好きなのだが、以前渡辺保さんの本について書いた中で、次のように書いた。この本で、一番面白かったのは、劇評家の目標として、三宅周太郎、岡鬼太郎、戸板康二の3人を上げていることである。戸板康二は、テレビにもよく出て、推理作家、劇作家としての仕事もあったので知られているし、三宅周太郎も歌舞伎の評論家としては有名なので、知っている方も多いだろう。だが、岡鬼太郎は、その名を知っている人は、そう多くはないのではないかと思う。私は、20代で、偶然に実家の池上にあった古本屋で『歌舞伎と文楽』を買い、この人の批評に引かれた。渡辺さんも書かれているが、この岡鬼太郎は、劇評が辛辣なので有名で、六代目尾上菊五郎でも「ニン」に合わない役の時は、「ご苦労」の一言...岡鬼太郎の作だったが

  • 民間企業の松竹よりひどい国立の新国立劇場

    横浜稻門会で、歌舞伎座に行く。演目には、多少の意見もあるが、観客席の座席がきちんとバリア・フリーになっているのにはあらためて感心した。3階席だったが、エレベーターで上がり、3階席も左右に鉄の柵があるので、安心して上れる。対して、新国立劇場、まず地下鉄の初台駅から小劇場に行くまでに、段数は少ないが2回階段がある。今度は、ロビーから階段で上がり、客席を見下ろすと、慄然として足が震えた。客席への通路のどこにも柵はなくて、がら空きなのだ。仕方ないので、左右の座席の上部を捕まりつつ降りた。20年前に脳梗塞となり、左足に障害が残る身には、実に過酷な一時だった。それとも、「障害者は、新国立劇場に来るな!」と言うのだろうか、小川絵梨子芸術監督さんよ。「健常者だけで観客は十分だ」と言うのだろうかね。民間企業の松竹よりひどい国立の新国立劇場

  • 『リンダ・ロンシュタット ザ・サウンド・オブ・マイ・ボイス』

    1970年代、リンダ・ロンシュタットは、日本でも人気で、私も3枚LPを持っていた。ただ、特に強い感銘は受けていなかったが、私の周辺には、大好きな連中もいた。私の盟友の下川博がそうで、彼は1979年春の武道館公演にも行き、大感激していた。その武道館では、女優として一緒にやったこともある、伊藤比奈子も観客にいたそうで、一般の人気はすごかったわけだ。今回、この映画を見て、「彼女はライブで実力を発揮するシンガーである」ことがよくわかった。その分、LPではわからなかったのも無理はないなと思った。彼女のライブの迫力を示す挿話がある。アリゾナのツーソンからロスに出てきて、いろんなところで歌っていた時、ジャクソン・ブラウンのツアーの前座に出た。リンダは、そう乗り気でもなかったが、ツアーで前座の彼女の方が、メインのジャクソ...『リンダ・ロンシュタットザ・サウンド・オブ・マイ・ボイス』

  • 『夏の夜の夢』の日だった

    昨日は、夏至で、英語ではミッド・サマーとなる。『ミッド・サマー・ドリーム』と言えば、シュエークスピアの『夏の夜の夢』である。これは、原題どおりに『真夏の夜の夢』と訳した時期もあったらしいが、日本で真夏というと、8月で、夏至ではない。そこで、今では『夏の夜の夢』とされている。高校1年の秋、都立小山台高校文化部演劇班でやった芝居である。班というのは笑えるが、小山台は文化部と運動部に別れていて、その下は班と言うのだった。「大日本帝国陸軍内務班か」と思ったものだ。『夏の夜の夢』の日だった

  • 女優の枯渇

    先日、『命果てる日まで』を見ていて、1960年代後半は、松竹も女優が枯渇していたなあと思う。この作品には、桑野みゆき、岩下志麻、倍賞千恵子が出ているのだが、実は脇に廻っていて、中心は香山美子と生田悦子、さらに生田の妹で尾崎奈々なのだ。このうち、香山は歌手の三条正人と結婚して引退し、生田は、テレビの『キン・ドン』での喜劇役割に行ってしまい、映画には出なくなってしまう。尾崎は、松竹内だが、京都の撮影監督石原興と結婚して、これまた引退してしまう。その結果、70年代に松竹の看板女優になるのは、元大映の松坂慶子となるのだ。実に、不思議というしかないが、結局スターは容易には作れないと言うことなのだろうか。女優の枯渇

  • 『武蔵坊弁慶』

    1942年の東宝映画、監督は渡辺邦男で、弁慶は岡譲二、牛若丸は髙峰秀子、小式部は山田五十鈴、平清盛は高堂国典。弁慶は、京の都が荒れているのは、清盛の悪政の性だとし、それを払うために千本の刀を集めようとしている。彼は、夜盗のような連中と荒寺に住んでいる。言ってみれば梁山泊と言ったところか。平清盛は、酒池肉林に耽っていて、多数の白拍子が踊っているが、タイトルには古川ロッパ舞踏団となっている。この映画は、ロッパ劇団の演目だったのだろうか。清盛は、内侍に惚れていて、彼女はそれが嫌で、六波羅を出て、弁慶のところに来る。この映画が面白いのは、10分ごとくらいに歌や踊りが入ることで、まるで「10分間に一度セックスシーンを入れる日活ロマンポルノみたいだな」と思う。この辺が、渡辺邦男映画の魅力の元なのだろうか。『明治天皇と...『武蔵坊弁慶』

  • 『人形佐七捕物帖 裸姫と謎の熊男』 最後の場面は三渓園だった

    熊男は出てくるが、裸姫などどこにも出てこない。大蔵貢得意の、羊頭狗肉の題名である。人形佐七は、ここでは中村竜三郎で、若山富三郎ではない。佐七の他に目明かしで、小畠絹子がでてくるが、彼女の時代劇は珍しいと思う。江戸で、春日屋などの商人が次々と殺され、女中の隅田川への飛び込み事件等がある。熊男は、浅草の非人部落にいるというので、佐七も行くが、犯人はいない。いろいろとあるが、最後悪人は、松平藩の家老の細川俊之であるのがいい。その藩主は、ここだけ出てくる嵐勘壽郎で、さすがの貫禄。監督の山田達雄は、アラカンの座付き監督的だったこともあるようだが、殺陣のシーンなど結構スピーディーに撮っている。最後、細川以下の悪人一味との立回りは、なんと横浜の三渓園の園庭内だった。映画で三渓園が使われるのは、非常に珍しいと思う。『人形佐七捕物帖裸姫と謎の熊男』最後の場面は三渓園だった

  • 『愛、革命に生きて』

    フランス革命に、こんなことがあったなんて知らなかった。高校で、日本史の荒久保先生は、非常によい先生で、歌舞伎マニアで、授業の70%が歌舞伎のことになる人だった。この先生から、『四谷怪談』と『忠臣蔵』は、テレコで上演されていたことがあると教えてもらたのだ。『四谷怪談』は、『忠臣蔵』の外伝だから、そうした上演もあったのだろう。対して世界史は興味がなく、フランス革命も適当に聞いていたのだ。本心では、ロシア革命をもっとやれと思っていたのだが。フランス西部ブルターニュ地方の小き貴族のフィリップ・ノワレは、百科全書派のインテリで、教会に捨てられていた娘のソフィー・マルソーのセリーヌ、自分の息子のオーレル、さらに聡明な平民の子のタルカンの3人を自分の子のように育てる。そして、1789年、フランス革命が起きる。マルソーは...『愛、革命に生きて』

  • 国立劇場建設予定地

    平河町の国立劇場が、来年で取り壊され、改築されるそうだ。ここが、以前国立劇場建設予定地だったことを聞いたのは、早稲田の劇研の8年生林さんからだった。今週が、何年目かになる1960年6月15日に、国会南通用門から国会敷地に入ったという林さんに、どうやって入ったんですか、と聞いたのは、多分1966年の秋頃だと思う。「あの国立劇場予定地に集まって、そのままずっと行って入ったんだよ」と言われた。当時は、戦後の瓦礫の山のような広場で、自由に集会が出来たのだ。市川崑の映画『億万長者』で、原爆製造を訴える久我美子が叫んでいるシーンは、あの広場である。その後、市民を威嚇する最高裁判所と国立劇場がで来て、広場は失われたのだ。だから、日韓闘争の頃は、四谷の清水谷公園か、信濃町の明治公園で集まっていた。そして、国会に近づくと、...国立劇場建設予定地

  • 「横浜さわやかさん」だった

    朝、ゴミ出しに出ると、ゴミが一杯だった。やはり、土曜日はゴミを出しやすいのだろうか。そして、戻ると、曲が聞こえてきた。「横浜さわやかさん」である。これは、細郷道一氏が市長になった時に、「横浜さわやか運動」を始め、その曲の詞を募集した。そして、高木東六が作曲したものだ。いまもまだ使われているのか。「横浜さわやかさん」だった

  • 『貴婦人の来訪』

    新国立劇場の芸術監督が小川絵梨子になって初めて面白い劇を見た。別に彼女のお力ではない。フリードリッヒ・デュレンマットの原作と演出の五戸真理枝、さらに主役の秋山菜津子の力だろう。秋山については、彼女がまだ20代の頃、1991年7月の劇団健康の『カラフルメリでオハヨ』という愚劇で、唯一の救いと評価して以来、私はずっと注目してきた。ここでも、主役として堂々たる演技だった。原作は、1956年に書かれたものだそうだが、現在の世界のことのように見えるのは、すごい。話は、欧州の小都市のギュウレン、かつては栄えたらしいここも、今は衰退している。そこに昔いた女のクレールが45年ぶりに戻ってくる。女優として成功した彼女は、「町に五兆、市民にも5兆を上げると言う。ただし、45年前に町の有力者イルから受けた陵辱の報いとして、彼を...『貴婦人の来訪』

  • 『またまたあぶない刑事』

    テレビ版は、一切見ていなかった。浅野温子と館ひろしが、嫌いだったからだ。一応、柴田恭兵は、愛嬌があるので、許せるが、この二人にはないからだ。1998年で、随分と横浜の古い物が残っていたなと思う。冒頭の倉庫は、キリンビールの鶴見倉庫だった。キリンが工場を改築されたとき、壊されたのだ。また、最後で臨港線が出てくるが、多分本牧操駅で、この頃は盛んに使用されていた。この頃、山下埠頭からの臨港線は、みなとみらい開発にじゃまとのことで、廃止した。これが、港湾局での私の最後の仕事になった。この時、国からの補助金の問題があった。1963年の建設のとき、20億円の内、10億円をもらっていたのだ。廃止を申請すると、「もう意義は果たした」とのことで、補助金返還はせずに終わった。当時、山下からの臨港線は、ある冷凍倉庫からのキリン...『またまたあぶない刑事』

  • 日本映画史における石原慎太郎の役割

    石原慎太郎が亡くなり、いろいろと言われているが、彼の日本映画史における業績というか、彼がした結果について考えてみたい。彼は、原作・脚本の他、俳優として以下のとおり映画に出ている。1956.05.17太陽の季節日活...サッカー選手1956.07.12狂った果実日活...特別出演1956.09.26日蝕の夏東宝...三島直樹1956.11.20婚約指輪東宝1957.07.30危険な英雄東宝...冬木明1957.10.15穴大映東京...青年作家1960.06.26接吻泥棒東宝...石原慎太郎彼には、監督作品もあり、1958年の『若い獣』である。これは、実に変な映画で、日頃の彼の言動とは正反対の人間が主人公の作品なのだ。負け犬の映画なのだ。だが、この映画化の時、東宝の助監督連中が猛反対をし、他の部署の助手たち...日本映画史における石原慎太郎の役割

  • 『命果てる日まで』

    1966年の松竹映画だが、こういうのを見ると、西河克巳監督が言う「メロドラマは、戦争や革命がないと成立しない」説が正しいと思う。新幹線で、東京から京都に行く車内で、服飾デザイン会社の社員の山口崇は、自分の絵がデザインされた帯をしている女性に会う。これが、生田悦子で、彼女の売り出し映画である。彼女は、京都の帯屋の娘で、ある画帳で見て気に入り、店で作らせたのだ。話を聞いて、父親で店主の加藤嘉は、「8万円で買い取らせてくれ」と言い、今後仕事をやってくれと山口に言う。この頃の8万円は、今で言えば50万くらいだろうか。山口には、同じ会社の香山美子と恋仲で、肉体関係もある。この山口、香山、生田の三角関係だが、その上に会社のオーナーの桑野みゆき、画廊の倍賞千恵子、さらに生田の叔母に岩下志麻と、上手く女優を配置しているの...『命果てる日まで』

  • 石阪君について

    2013年に猪瀬直樹が都知事を辞職したとき、私は次のように書いた。猪瀬直樹都知事がついに辞職したが、テレビを見ていて横浜市役所には、彼に似た人がいたことを思い出した。今は、町田市長として二期目の町田市政にご尽力されている石坂丈一氏である。石阪氏は、横浜市で主に企画部門を歩み、中田宏氏が2002年に高秀秀信氏を破って横浜市長に就任されたとき、彼は若手改革派として中田市長に大変に重用され、2004年には57歳で港北区長に任命された。だが、2006年3月、定年直前に退職され、出身地である町田市の市長選挙に、自民・公明の支持で出て、見事当選された。石阪家は町田の名家だそうで、「北村透谷の妻・石阪ミナは、俺の先祖なんだよ」と、共に経済局にいたとき彼から直接聞いたこともある。確かに石阪家は三多摩の名家の一つで、明治初...石阪君について

  • シダックス系のカラオケ店では

    今は退却してしまったが、一時はシダックスは、全国でカラオケ店をやっていた。その店では、石原裕次郎、小林旭、渡哲也等の曲は、日活の原画が出てくる。それは、日活の役員がシダックスに天下りしていたからだ。もちろん、ロマンポルノ時代のことである。逆に言えば、日活映画の使用権を手にシダックスに行ったのだと思う。ただ、日活時代のことなので、石原裕次郎の曲は、彼が日活を辞めて以降も多いので、それは新作映像になっている。だが、先日裕次郎の『俺の小樽』を聞いていたら、日活時代の映像が流れていて驚いた。石原裕次郎、北原三枝の『勝利者』だった。まあ、マニアでなければ、どれでも裕次郎が出ていれば良いのだろう。シダックス系のカラオケ店では

  • 石坂市長の係累は

    先週、「ブラタモリ」で、町田市を取り上げていた。その最後で、石坂昌孝町田市長のことが言われた。この人は、立派な方だったようで、北村透谷らを援助した民権派だった。透谷の妻のミナは、石坂の娘だった。さて、その後はと言えば、現市長の石坂丈一氏も、この係累のようだ。私が経済局にいたとき、「石坂ミナって知っているか」と聞かれ、「透谷の奥さんだろう」と答えたところ、「私は、その石坂家だ」と言った。彼は、地元の人間とのことで、自公から出て、当選し、五期もやっているのは、ご立派である。ただ、横浜市を辞めるとき、職員に迷惑を掛けた。私も、県警の事情聴取を受けるという貴重な機会を得た。だが、この時のことについて、石坂君は、その後横浜市職員にまったく謝罪しなかった。これは問題だと思う、人間としてである。石坂市長の係累は

  • 『瀬戸内寂聴・99年生きて思うこと』

    今年5月で100歳になる予定だった作家瀬戸内への長年のインタビュー。じつに明るく、伸び伸びとしているのには参る。なにも怖いものはないのだから。作家で99歳といえば凄いが、普通の人間で、今や100歳もいくらでもいる。なんと横浜市でも、2500人近くいるのだ。まことに超高齢化時代である。100歳になると、「100歳訪問」として、総理大臣彼の賞状、金一封、市長からの記念品だかが贈呈され、区長が行くのだ。私も、某区で区長について、家庭を訪問したことがある。その年は、3件だったが、どれも木造家屋で、三世帯同居で、女系家族だった。つまり、娘、孫と一緒に木造家屋に住んでいる元気な女性だった。男性もいたのだが、施設にいるとのことで行かなかったの。この私の「100歳訪問」と瀬戸内産の生活は、驚くほどよく似ている。瀬戸内は、...『瀬戸内寂聴・99年生きて思うこと』

  • サブチャンネルはピントが落ちる

    テレビのBSで、野球の中継を見ていると、予定時刻が過ぎると、サブチャンネルに変わることがある。それはそれで良いのだが、どこでもサブチャンネルになるとピントが甘くなる。どうしてなのだろうか、教えてください。サブチャンネルはピントが落ちる

  • 石井隆氏、死去

    以前、私は次のように書いた。石井隆氏には、学生時代に一度だけ会ったことがある。1966年の終わりか、1967年の始まり頃、私は当時すでに映画研究会から劇団演劇研究会に移っていたが、ある日久しぶりに映研の部室に行った。部長の曽根益男さんがいて、そこにおじさんのような学生が現れた。それが石井隆で、学年は1年生だったと思うが、何浪かしていて、年は随分上に見えたが、私より1歳上だったらしい。彼は、映画がもちろん好きで、シナリオ研究会に入った。シナリオ研究会は、大和屋竺や田中陽造も出た名門サークルだったが、文学部のサークルであり、全学部の映画研究会とは少し違った立場にいた。彼によれば、「シナ研は、完全に革マルのサークルになり、嫌になったので、映研に入りたいので来た」とのことだった。それは驚きで、サークルを支配するな...石井隆氏、死去

  • 沢田研二は、沢田研二を演じていた

    先日の中川佑介さんの講座で、あらためて「沢田研二は1977年の『さよならもいう気もない』以後は、衣装を必ず変えている」ことを聞く。彼の芝居を、セゾン劇場で見たことがあり、随分と歌の時と違うなと思った。「歌よりも、もっと男っぽい大人の演技なのだ」要は、彼は沢田研二という役を演じているのだと思ったのだ。彼は、実はローリングストーンズのようなハードなロックが好きなのだが、表に出るときは、まったく無関係な歌を唄い、その歌の役を演じている。さすがだと思う。沢田研二は、沢田研二を演じていた

  • 創価学会発祥の地 大田区

    創価学会発祥の地は、どこだろうか。それは、東京都大田区である。牧口も戸田も、池田大作も、皆大田区で活動を始めている。だが、それは宗教活動ではなく、教育活動で、創価教育学会と言っていた。実際には。塾や受験参考書の販売、テストの実施などで、私の父も大田区で教員をやっていたが、父は、「学会は、テスト屋だ」と言っていたそうだ。昭和初期、公教育も不十分で、私学は金のない家庭には無理だった時代、こうした教育事業は大いに儲かったにちがいない。だが、戦争ですべてのものを失った学会は、池田大作の指導の下、宗教活動に専念していく。戦後の経済の成長と共に、学会は全国に普及し、ついには公明党として政治にも出て行く。そのすべては、大田区にあったのである。ちなみに、池田大作会長は、大森の海苔のヒビを貸す仕事を生業として家庭に生まれ育...創価学会発祥の地大田区

  • 根岸湾埋立2

    いきなり港湾局に現れた二人組の話を調べるため、港湾局の書庫で昔の書類を調べた。すると、根岸湾埋立は、昭和初期に横浜市が住宅地を作るために権利を取ったところだった。関東大震災もあったのだろう、良好な住宅地を作るのが目的だった。だが、当時、横浜市はあまり金もなく、すぐに日中戦争、支那事変になってしまったので、埋立は放棄されていた。そして、太平洋戦争になり、負けて米軍の進駐になる。そこで、米軍は、横浜市内の自分たちの爆撃で出た瓦礫を処理するため、それを根岸湾に埋めさせたのだ。だから、二人組が工事をしたというのは、嘘ではないのだ。だが、米軍がきちんと書類を残していないわけはなく、連中が口頭で言われたと言うのは嘘なのだ。そして、根岸湾埋立の最初が出来たが、まだ使用法は決まっていなかった。その時に、神奈川にあった日本...根岸湾埋立2

  • 『サムライ』の衣装は、『愛の嵐』だ

    昨日は、中川さんの講座の最終回で、1970年代、沢田研二、ピンクレディ、山口百恵の時代のこと。中で、1978年の沢田研二の『サムライ』、題名はアランドロンの映画だが、ナチス風の衣装は違う。それは、リリアーナ・カバーニ監督、ダーク・ボガードとシャーロット・ランプリングの『愛の嵐』だと思った。ともかく、1970年代後半は、この3人の争いだったなと思うが、山口百恵の貫禄は凄い。1978年、NHKの『紅白歌合戦』で、紅組のトリを取ったのだから、なんと19歳。そして、1979年、松田聖子が上京してきて、完全にニューミュージックの時代になったのだった。『サムライ』の衣装は、『愛の嵐』だ

  • 根岸湾埋立事始め

    港湾の管財係長をやっているとき、公明党の遠藤議員から電話があり、根岸の土地のことで相談がある人がいるので、会ってくれと言われる。その日、二人の男が来た。産廃業者の人と、かなり高齢の弁護士だった。聞くと、凄い話で、「根岸の横浜日赤病院の土地は俺の物だから寄こせ」とのこと。驚いて、港湾の埋立の生き字引田中常義さんに聞く。「指田さん、それはPD工事ですよ、米軍の命令工事で、プロキュアメント・デベロップメント工事で、敗戦直後、市内の瓦礫を根岸湾に捨てさせた工事だ」とのこと。「その連中が、瓦礫を根岸湾に埋めたのはそうだろう」彼らは言う、「工事をすれば、後で土地を上げるので、ただでやれ」とのこと。私は聞いた、「いずれ土地をやるから工事はただでやれ」との米軍の指令書はあるのですか。「ない、当時米軍の命令は絶対で、口頭で...根岸湾埋立事始め

  • ステーイブ・ウィンウッド公演の中止について

    昨日、あるイベントに出て、そこでステーイブ・ウィンウッドのことが出て、彼が来日し、横浜アリーナで公演をすることになった。たぶん、1989年のことだと思うが、横浜アリーナに行ってもなかなか始まらない。その内に、ウドーだったと思うが、プロモーターが出てきて、「今日は公演中止です」を言った。たぶん、体調不良だったと思う。この辺のことが、すこし曖昧で、ノートを見ても書かれていない。当時は、ブログもなにもしていなかったので、詳細が不明なのだ。誰か、分る方はいるでしょうか、教えてください。さて、ウドーだが、ここは横浜の呼び屋で、以前は横浜の基地に日本のアーチストを入れていた会社だと聞いたことがある。ベトナム戦争も終わり、米軍相手の仕事はもうダメとのことで、日本への外タレの仕事に変わったのだと聞いたことがあるが、本当で...ステーイブ・ウィンウッド公演の中止について

  • 磯子駅の凋落

    昨日、用があって磯子駅に行ったが、数年前の比べて一層さびれていた。横浜銀行の駅前支店もなくなっていて、スルガ銀行は、昼休みをとっていた。もともと、この磯子駅は、本来の磯子ではない場所に作られたのだ。本来の磯子は、今は警察と消防署がある磯子区の「浜」近くのことで、昔の磯子区役所もそこにあった。美空ひばりが生まれた滝頭も、このエリアの奥で、昔から人の多いところだった。だから、磯子駅は、この辺に作ればよかったのだが、西武の堤康二郎が、自分が取得した旧東伏見宮家の下に駅を作らせたのだ。彼は、運輸族の大物で、衆議院議員だったのだから、容易に出来たのだろう。だが、磯子エリアは、すぐに崖で、土地が狭く、人口はほとんど増えなかった。だから、磯子エリアは、成長せず、新杉田が再開発されると、そこに区民の需要は移動してしまった...磯子駅の凋落

  • 太平洋ひとりぼっちではなく、日本国ひとりぼっちだったのだ。

    1962年の堀江謙一の太平洋横断航海を基にしたのは、石原裕次郎主演の映画『太平洋ひとりぼっち』だが、これを見ると非常に興味深い。堀江は、地元はもとより、大学、ヨット仲間にもひとりの友人もいない。西宮港を密かに出た時、見送ってくれたのは,ハナ肇だけ。その意味では、当時の堀江氏は、「太平洋ひとりぼっち」ではなく、「日本国ひとりぼっち」なのだ。最後、父親の森雅之はマスコミの前で言う、「二度とさせないようにします。皆さんにご迷惑かけないようにします」と誤るのだ。堀江氏の今回の壮挙となると、この50年間の日本も大きく変わったと言えるだろう。NEWS.YAHOO.CO.JP堀江謙一さん、83歳で単独無寄港太平洋横断を達成世界最高齢(毎日新聞)-Yahoo!ニュース米サンフランシスコから日本に向けてヨットで航海していた...太平洋ひとりぼっちではなく、日本国ひとりぼっちだったのだ。

  • 川崎あかねが出ていた 『剣客商売・越後屋騒ぎ』

    夜、阪神が勝ち、巨人が負けて、非常にいい気分で、『剣客商売』を見る。藤田まことなので、2004年頃だろう。脚本は野上龍郎で、監督は小野田嘉幹、道端で藤田は、子供が誘拐されてようとしているところに会い救う。子は、蝋燭問屋越後屋・草薙幸二郎の孫で、店には孫に対して千両をよこせという手紙がきている。岡っ引きの峰岸徹が、店の諸事を請け負っているが、この強請については、早く金を払えばと言っている。草薙も峰岸も、もう亡くなっている。その峰岸の情婦が川崎あかねで、川崎は、大映末期の京都の女優で、東京の渥美マリと並ぶスターだった。話は、簡単で、強請は、峰岸が仕組んだもので、最後はすべてが分って立ち回りとなって終わり。峰岸は、本当にいい男だったが、やや暗いところがあり、爆発的な人気にはならなかったようだ。私は、東陽一の映画...川崎あかねが出ていた『剣客商売・越後屋騒ぎ』

  • 西口浩君について

    小山台高校、41年卒A組のクラス会があったので、一番有名になり、一番最初に死んだ西口浩君について書く。2年A組になった時、彼は創価学会で活動しているので、有名だった。私が、「学会なんてくだらないところでなんでやっているの」と聞くと、「いい女がいるんだよ」との答えだったが、テレだったのか。当時、今村昌平が『復讐するは我にあり』で作る西口彰事件もあり、われわれは「西口、西口」とからかっていた。彼は、住所は浦和で、いわゆる越境入学だったが、当時は沢山いたものだ。後に、ウォーマッド横浜を一緒にやった田村光男は日比谷高校で、中学は田園調布中だったが、住所は九品仏で、彼も日比谷に入るために越境で田園調布中にいたのだと思う。西口浩は、成績は非常によく、現役で東大法学部に入った。そして、学会が作った大学生組織・新学連(新...西口浩君について

  • 『東京暮色』の表返しか 『抱かれた花嫁』

    『抱かれた花嫁』は、浅草で寿司屋をやっている望月優子の話で、長女は有馬稲子、長男は大木実で劇作家、次男は田浦正巳で大学生だが、浅草の踊子の朝丘雪路と恋仲になっている。望月は、店の看板娘有馬を早く結婚させようとし、銀座の袋物屋の息子永井達郎と見合いをさせ、永井も店で働く。実は、有馬は動物園の技師の高橋貞二と恋仲なのだが、煮え切らない高橋との仲は、進行しない。最後は、潮来に行ってしまった有馬を追って高橋が行き、ハッピーエンドとなる。だが、望月は、昔は浅草で、浅草オペラ歌手の日守新一と恋仲だったことがあるのだ。店のために、日守との愛を諦めて寿司屋をやったのだ。この戦前の愛と、戦後の自分の娘有馬との関係は、小津安二郎の唯一の失敗作『東京暮色』を陽画にしたような作品に見えるのだ。『東京暮色』で、田浦正巳と関係して妊...『東京暮色』の表返しか『抱かれた花嫁』

  • 『あぶく銭』

    1970年4月の大映京都作品、大映単独としては最後の方で、2ヶ月後には日活との共同配給のダイニチ映配になる。時代は、大正末期あたりで、サイレント映画館が出てくるのは、勝新の趣味だろうか。賭場を荒しで金を手に入れている勝新と藤岡琢也と酒井修の3人組み。このトリオは、面白い組合わせだと思うが、大映撮影所が崩壊したので、2作目はなし。ある賭場の売上げ金を横取りして、勝新らは、そのカバンを煉瓦の竈の中に隠すが、数日後に探すとないので、さらに賭場荒しをするはめになる。土地の組は、高木丈二が代貸しで、善玉、悪玉は成田三樹夫や伊達三郎らで、そこに勝新を狙う殺し屋の天知茂がやってくる。彼の女は、水野久美で、もちろん、勝新ともいい仲になる。酌婦で野川由美子も出てくるが、彼女は日活にもよく出ていたが、この頃はナベプロに属して...『あぶく銭』

  • 横浜開港祭

    昨日は、みなとみらいの臨港パークを中心に、開港祭が行なわれたようだ。横浜開港祭は、もとは「横浜ドンタク」として始められたもので、実は私の劇団時代の後輩のGが横浜博報堂の下で始めたものだった。Gは、いろいろと問題を起こす人間で、横浜のJCからその経理を疑われ、なん年後かにクビになった男だった。このGは、元は同志社大にいたが、東京が面白そうだとのことで、早稲田に入って来たとのこと。そして、劇団等が九号館を占拠して、最後は排除されたときにもいて、村上春樹の小説に「バッハを流した」と書かれた連中である。この九号館共闘会議の代表は、赤尾君で、今は衛紀生と名乗られている方である。横浜開港祭

  • 文体で見た都はるみ

    今日、6月2日は、横浜開港記念日で、横浜の公立小学校は休みで、いろんな行事が行なわれる。昔は、横浜文化体育館で市主催の「記念行事」が行なわれ、その後にコンサートがあった。いつかは忘れたが、ある年、都はるみが出たことがあった。彼女は、いきなり舞台に飛び出てきて、ノリノリで歌ったのだ。「ああ、ライブではこういう風に歌うのか」と思ったものだ。だから、1991年のウォーマッド横浜のラストに、中村とうようさんの前説の後、ステージに飛び出してきて、ロッド・スチワートのようにマイクを握って歌っても、私はまったく驚かなかったのだ。だが、この時、田村光男に聞くと、都さんは、出るまでドキドキで、「演歌なんか帰れ」と言われるのではないかと不安だったノだそうだ。また、この時、都はるみさんの出演を決めると、横浜市役所役人は、「演歌...文体で見た都はるみ

  • 鶴見の沖縄

    NHKの朝ドラには、横浜の沖縄のことが出てくるようだが、見ていないので分らない。だが、なぜ横浜に沖縄の人がいるのだろうか。理由は、以下のとおりである。CMで高橋一生が、「旭硝子は、AGC」と言っているが、旭硝子の工場は、横浜市鶴見区末広町にある。大正時代に、この工場が建てられた時、労働者として、沖縄の人を多く雇用した。その理由は、ガラス工場は高熱で非常に暑いので、南方の沖縄の人間は「耐熱性」があるだろうとのことだったそうだ。ひどい偏見だが、それは川崎市の日本鋼管もそうで、製鉄所の周辺には沖縄の方が多く住んでいる。これも元は沖縄の人間は暑さに強いという偏見から来たもののようだ。…そのために、横浜、川崎の臨海地区には沖縄出身の方が多く住んでいて、川崎市の郷土芸能と言うとなんと沖縄の歌と踊りであって、驚いてしまう。鶴見の沖縄

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