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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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2014/09/11

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  • 四つの体制

    これら四つの体制上の区別が 明白になってくるのは、 一九世紀の中ごろ、 ちょうどペリーとのあいだで 日米和親条約が成立した時期です。 日本は、一八三九年からの 前哨戦をふくむアヘン戟争の情報を 刻々

  • 当時の国際情勢

    まず①列強とはなにか―― 列強(powers)とは、自国の船により 世界のどこへでも到達できる力をもって、 それを保護するだけの海軍力を有する 「海洋国」です。 世界では、「超大国」イギリス、 日本と長く親

  • 阿部の大船製造

    早急に武備の充実を計るには、 一時的にも外国との交易を行って、 近代的な艦船や大砲を 入手する必要があります。 しかし、 それが鎖国政策によって禁止されています。 自分で自分の手を縛りあげて 身動

  • 徳川斉昭

    正弘はその頃、鎖国政策の矛盾に 一番頭を悩ませていました。 鎖国政策は、日本の泰平無事と 幕府自身の安泰を願う政策です。 そのため、幕府は 努めて諸藩の勢力を弱くすることに 意を用いてきました。

  • 大槻磐渓

    論議を続けているうちに、 海防掛に注目すべき建白書が仙台藩の 儒者大槻磐渓(ばんけい)から寄せられました。 磐渓は蘭学者だった父 玄澤(げんたく)の影響を受け、 儒学者にもかかわらず、 世界の情勢に明る

  • ロシア国書の受領2

    正弘は、 老中評議と海防掛会議終了後、 海防参与の徳川斉昭に対し、 ロシア国書受取りに関する 公文書翰を認(したた)めさせました。 それには、五老中の連署があり、 さすがの斉昭も反対はできません。

  • ロシアかアメリカか

    ロシアのネッセルローデ首相兼外相の 親書は江戸城に未着だが、 八月上旬から海防掛は対ロシア交渉の 論議をはじめていました。 親書の内容は、 長崎奉行の書状で明らかです。 議論を重ねていくうちに、

  • ペリーの威嚇

    老中評議の後、 正弘は海防掛会議を召集しました。 そこで正弘は、 在府長崎奉行の水野筑後守に命じ、 ロシア艦隊の長崎来訪の儀と ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な交渉態度を紹介させました。

  • ロシア国書の受領

    老中首座伊勢守阿部正弘は登城すると、 すぐに海防掛の川路聖謹(としあきら)を招き、 「さきほど、長崎奉行の水野殿が この書状を届けにこられた。 まずお読みいただきたい」 「オロシャの提督はペルリとは

  • 阿部伊勢守

    豊後守は、直ちに 在府長崎奉行の水野筑後守と 老中首座阿部伊勢守に書状を認めました。 ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な申入れに免じ、 ロシア首相の親書を受理してほしいと懇願しました。

  • プチャーチンとペリー

    翌八月十日(嘉永六年七月十八日)朝、 プチャーチンは、 全艦隊に警戒態勢に入るよう命令し、 伊王島沖を抜錨しました。 伊王島の西北端の真鼻岬沖を大きく右に迂回して、 昼過ぎに長崎湾口に浮かぶ高鉾島の

  • 艦長との夕食会2

    「それは相手の出方を見た上で決めるつもりだ。 しかし、レザーノフのように、 なんの成果もあげずに 長崎を去ることは絶対にしない。 アメリカ艦隊は かなり強硬姿勢で対日交渉を行うようだ。 ロシアは強硬姿

  • 艦長との夕食会

    八月九日の夜、 プチャーチン提督は、 パルラダ号艦長ウンコフスキー少佐と、 水いらずで夕食を共にし、 語り合いました。 「艦長、十カ月に及ぶ大航海、 ほんとうにご苦労だった。 無事に長崎に来られたの

  • ロシア艦隊は長崎へ

    ロシア艦隊が 父島からそのまま直行して 浦賀に向かっていたら、 幕府が江戸城で諸大名に 意見を聴取していた六月末頃、 ロシアの黒船四隻が 江戸湾に出現したことになります。 しかし、プチャーチン提督の

  • プチャーチンの派遣4

    結局、ロシア艦隊が後になって、 パルラダ号はインド洋の玄関口ケープタウンに 一八五三年の三月十日に入港しました。 先のカラス(黒船)ミシシッピ号の入港は 一月二十四日であり、すでに一ヶ月半の遅れです

  • プチャーチンの派遣3

    メンシコフは、プチャーチンに対し、 いかなる交渉も平和的に行い、 諸外国との紛争は極力避けるよう命じました。 当時のロシアは、トルコ政策をめぐって、 英仏両国と外交関係が悪化しており、 アジアでロシ

  • プチャーチンの派遣2

    ロシア政府は、 アメリカの後塵を拝することを恐れ、 四月に極東政策特別委員会を結成し、 五月にプチャーチン海軍中将を 通日全権大使に任命しました。 アメリカに対抗できる遠征艦隊を編成、 日本との三度

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