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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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2014/09/11

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  • エラスムス

    聖書の原典は ギリシャ語で書かれていましたが、 15~16世紀には もはやギリシャ語を知る人もなく、 原典復元のためエラスムスは ギリシャ語教師を探して 南欧の果てまで放浪しました。 西欧には古代に

  • 西欧の世界侵略1

    西欧はイスラーム世界から、 また日本は支那大陸(半島はその一部)から 長い期間、制縛されていました。 そこからの「解放」がいわば「近代」です。 「解放」は古代像の先取り争いであり、 奪い合いです。

  • 地動説とその発展

    科学革命の名にふさわしい 宇宙観の根本的変革は地動説です。 しかし地動説の樹立にいたる天文学の発展には、 社会での実際的問題も関係しています。 それは航海において方位を知るために 惑星の位置を予測

  • 地動説とその発展

    科学革命の名にふさわしい宇宙観の 根本的変革は地動説です。 しかし地動説の樹立にいたらしめた 天文学の発展には、 社会での実際的問題も関係しています。 それは航海において方位を知るために 惑星の位

  • ガリレオとニュートン

    科学革命における天体の幾何学の 大きな礎石は、 コペルニクス(N.COpernicus1473-1543ポーランド)の 地動説によってすえられました。 ケプラー(J.Kepler1571―1630ドイツ) およびガリレオ(GalileoGalile

  • 科学革命の軸

    近代科学の時代区分の(1)、 いわゆる科学革命の時代において 近代科学の方法と体系の基盤がすえられたのです。 では、その経過の中軸となったのは どの科学分野だったのでしょう。 科学革命の中軸を 「

  • 技術革新

    (5)1940年ごろ、 すなわち第2次世界大戦(1939-1945) にはいる前後から、 技術および科学はさらに目ざましく発展をとげました。 技術にかんしては、 技術革新という言葉でよばれる 飛躍的な発展がおこり

  • 重大な転機

    (4)19世紀の第4四半世紀にはいるころは、 科学の歴史における重大な転機です。 科学の発展自体が、 科学の本質についてのむずかしい問題を投じました。 それまで絶対の真理だ と信じられてきたニュートン

  • 科学の巨大な発展

    (3)いまのべたように (2)の山に含めてもよいが、 それと切り離すほうが分りやすいでしょ。 (2)の山に区切りをつけたその時期から、 19世紀の終り近くまでです。 この場合にも、19世紀の第3四半世紀と

  • ニュートン力学

    つぎの山は18世紀の第3四半世紀と 第4四半世紀の境(1775年)あたりから 生じているのです。 1775年という年が 大きな意味をもっているわけではなく、 1世紀を四半世紀で区切るのは 時代区分を簡明にするの

  • 近代科学の確立

    近代科学の歴史において、 大きく時代を分ける山として、 5つの時代をあげることができます。 近代科学の成立の時代の第一の山は、 その方法および知識(学問)体系の 基盤がつくられた時代です。 中世科

  • 自然宗教

    現在の宗教学は 一神教の枠組みから脱却できていません。 山川草木に仏性の宿りをみる 日本人の宗教観は 当然にアニミズムとされます。 「死後の永世を信じてもいないのに 墓参りだけは行う」 「仏教の教

  • 宗教と哲学の分離

    欧米のクリスチャンが「君の宗教は何か」と 問わずにはいられないのは、 キリスト教が歴史的に孕(はら)んだ 固有の問題性に深く根差しているからです。 彼等はまず、 自らの都合のよいように 宗教と宗教な

  • 本願寺と講和

    鉄鋼軍艦が大坂湾にはいれば、 本願寺の危機です。 本願寺方はこれを湾内にはいる前に撃沈しょうと、 雑賀から無数の小舟を出し、 矢・鉄砲を乱射して四方から攻めたてましたが、 大鉄砲のいっせい射撃で小舟

  • 鉄鋼戦艦

    本願寺の旗色は しだいに悪くなってきました。 一五七八(天正六)年三月十三日、 上杉謙信も脳出血でなくなりました。 信長は、大坂湾・紀伊水道・瀬戸内海の 制海権を奪うため、 伊勢の九鬼嘉隆・滝川一

  • 安土城

    越前一揆を平定し、 岐阜から京都にのぼってきた信長は、 はればれとした心で、 新しい瀬田橋(せたばし)をわたりました。 この橋は、 かれが越前出兵の直前の 七月に着手したものです。 信長の軍政下にあ

  • 安土城2

    四月一日からは 天守台の石垣が築きはじめられました。 高さは十二間(約二十二メートル)、 その上に近江平野と大潮をみはるかす 天守閣をたてるのです。 天守閣とはなんでしょうか。 安土城の天守の七

  • 長篠の戦い2

    武田方は、1575年五月二十日早朝、 長篠の囲みを解き、織田・徳川軍と 七町はかりをへだてて陣をとりました。 その夜の雨は、翌二十一日の明けがたには すっかりあがっていました。 戦闘は午前五時ごろ始ま

  • 朝山日乗

    キリスト教の布教許可は、 僧侶はもちろん、 朝廷も不満でした。 四月二十日、 フロイスが信長に面会した席上には、 法華宗の怪僧朝山日乗もおり、 フロイスが都にいたため、 前将軍義輝が暗殺された、 な

  • 長篠の戦い

    山国の甲斐では、 山のふもとに牧場が設けられ、 良馬が多かった。 そこで精鋭をほこる武田軍は、 騎馬隊を中心に、 長槍隊が敵陣をつきくずすという 戦法をとりました。 信長はこの長槍・騎馬隊と 正面

  • 布教許可

    松永久秀は、フロイスが信長に面会する直前に、 信長に宣教師を追放するように懇願しました。 しかし信長は、 たったひとりのキリシタンが都にいて、 それで一国が乱れるというのは、 久秀の心がせまい、とい

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