フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
聖書の原典は ギリシャ語で書かれていましたが、 15~16世紀には もはやギリシャ語を知る人もなく、 原典復元のためエラスムスは ギリシャ語教師を探して 南欧の果てまで放浪しました。 西欧には古代に
西欧はイスラーム世界から、 また日本は支那大陸(半島はその一部)から 長い期間、制縛されていました。 そこからの「解放」がいわば「近代」です。 「解放」は古代像の先取り争いであり、 奪い合いです。
科学革命の名にふさわしい 宇宙観の根本的変革は地動説です。 しかし地動説の樹立にいたる天文学の発展には、 社会での実際的問題も関係しています。 それは航海において方位を知るために 惑星の位置を予測
科学革命の名にふさわしい宇宙観の 根本的変革は地動説です。 しかし地動説の樹立にいたらしめた 天文学の発展には、 社会での実際的問題も関係しています。 それは航海において方位を知るために 惑星の位
科学革命における天体の幾何学の 大きな礎石は、 コペルニクス(N.COpernicus1473-1543ポーランド)の 地動説によってすえられました。 ケプラー(J.Kepler1571―1630ドイツ) およびガリレオ(GalileoGalile
近代科学の時代区分の(1)、 いわゆる科学革命の時代において 近代科学の方法と体系の基盤がすえられたのです。 では、その経過の中軸となったのは どの科学分野だったのでしょう。 科学革命の中軸を 「
(5)1940年ごろ、 すなわち第2次世界大戦(1939-1945) にはいる前後から、 技術および科学はさらに目ざましく発展をとげました。 技術にかんしては、 技術革新という言葉でよばれる 飛躍的な発展がおこり
(4)19世紀の第4四半世紀にはいるころは、 科学の歴史における重大な転機です。 科学の発展自体が、 科学の本質についてのむずかしい問題を投じました。 それまで絶対の真理だ と信じられてきたニュートン
(3)いまのべたように (2)の山に含めてもよいが、 それと切り離すほうが分りやすいでしょ。 (2)の山に区切りをつけたその時期から、 19世紀の終り近くまでです。 この場合にも、19世紀の第3四半世紀と
つぎの山は18世紀の第3四半世紀と 第4四半世紀の境(1775年)あたりから 生じているのです。 1775年という年が 大きな意味をもっているわけではなく、 1世紀を四半世紀で区切るのは 時代区分を簡明にするの
近代科学の歴史において、 大きく時代を分ける山として、 5つの時代をあげることができます。 近代科学の成立の時代の第一の山は、 その方法および知識(学問)体系の 基盤がつくられた時代です。 中世科
現在の宗教学は 一神教の枠組みから脱却できていません。 山川草木に仏性の宿りをみる 日本人の宗教観は 当然にアニミズムとされます。 「死後の永世を信じてもいないのに 墓参りだけは行う」 「仏教の教
欧米のクリスチャンが「君の宗教は何か」と 問わずにはいられないのは、 キリスト教が歴史的に孕(はら)んだ 固有の問題性に深く根差しているからです。 彼等はまず、 自らの都合のよいように 宗教と宗教な
鉄鋼軍艦が大坂湾にはいれば、 本願寺の危機です。 本願寺方はこれを湾内にはいる前に撃沈しょうと、 雑賀から無数の小舟を出し、 矢・鉄砲を乱射して四方から攻めたてましたが、 大鉄砲のいっせい射撃で小舟
本願寺の旗色は しだいに悪くなってきました。 一五七八(天正六)年三月十三日、 上杉謙信も脳出血でなくなりました。 信長は、大坂湾・紀伊水道・瀬戸内海の 制海権を奪うため、 伊勢の九鬼嘉隆・滝川一
越前一揆を平定し、 岐阜から京都にのぼってきた信長は、 はればれとした心で、 新しい瀬田橋(せたばし)をわたりました。 この橋は、 かれが越前出兵の直前の 七月に着手したものです。 信長の軍政下にあ
四月一日からは 天守台の石垣が築きはじめられました。 高さは十二間(約二十二メートル)、 その上に近江平野と大潮をみはるかす 天守閣をたてるのです。 天守閣とはなんでしょうか。 安土城の天守の七
武田方は、1575年五月二十日早朝、 長篠の囲みを解き、織田・徳川軍と 七町はかりをへだてて陣をとりました。 その夜の雨は、翌二十一日の明けがたには すっかりあがっていました。 戦闘は午前五時ごろ始ま
キリスト教の布教許可は、 僧侶はもちろん、 朝廷も不満でした。 四月二十日、 フロイスが信長に面会した席上には、 法華宗の怪僧朝山日乗もおり、 フロイスが都にいたため、 前将軍義輝が暗殺された、 な
山国の甲斐では、 山のふもとに牧場が設けられ、 良馬が多かった。 そこで精鋭をほこる武田軍は、 騎馬隊を中心に、 長槍隊が敵陣をつきくずすという 戦法をとりました。 信長はこの長槍・騎馬隊と 正面
松永久秀は、フロイスが信長に面会する直前に、 信長に宣教師を追放するように懇願しました。 しかし信長は、 たったひとりのキリシタンが都にいて、 それで一国が乱れるというのは、 久秀の心がせまい、とい
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フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた
ボルテールにつづいて、 フランスの最大の知識人はルソーです。 ルソーは一七五五年に 「人間不平等起源論」を書き、 文明の発達にともない 人間の自由がうばわれて 不平等が生みだされたと主張し、 文明の
イギリスで市民革命が成功してのちも、 フランスでは国王の力がつよく、 国王による独裁政治がつづいていました。 しかし、 一八世紀に多くのフランスの知識人が、 独裁政治にたいしてたたかい、 一八世紀末
アメリカが独立したとき、 その国土はまだ東海岸に近い 東部十三州のみでしたが、 一九世紀のうちに、 アメリカ人は西へ西へと進撃をつづけ、 一八五○年ごろに、 ついに太平洋岸まで到達しました。 その拡
アメリカの独立宣言文の最初に、 つぎのように記されています。 「われわれは自明の原理として、 すべての人は平等につくられ、 造物主によって、 一定のうばいがたい諸権利を賦与され、 そのなかに生命、自
一八世紀の西欧は、 一七世紀のイギリスにおこった市民革命が 各国にひろまっていった時期です。 注目されるのは、 アメリカの独立(1770年代)と フランス革命(一八世紀末)です。 アメリカには一七世紀
不平等条約説は、 これまで述べてきた日米和親条約と その四年後に締結された 日米修好通商条約とを あわせて論じられてきました。 なお最恵国待遇(条項)がいきていたため、 そのほかの列強との条約も 上
大東亜戦争の戦後の時期に、 日本の戦争責任の問題もからみ、 日本とその他アジア諸国とのあいだに、 近代の「共通性」をもとめる力がはたらいて、 再度この条約の不平等性が強調されました。 その場合、アジ
日米和親条約の調印は 一八五四年三月三一日でしたが、 「正文」を何語にするか の話し合いがなかったため、 最後の段階で応接掛は 外国語文への署名を拒否し、 ペリー側をあわてさせました。 日本文(応接
ペリーの贈り物にたいして幕府は、 米をはじめ反物や漆器類を贈呈し、 さらにべリーからの要望により 作物の種子や苗も贈りました。 贈り物の点では、アメリカ側が、 それを条約交渉にうまく利用しました。
最初に宴会を催したのは幕府側ですが、 贈り物の贈与で先手をとったのは アメリカ側でした。 一八五四年三月八日の 応接掛が催した宴会で、 ペリー一行は条約草案を提示しました。 その一週間後に幕府の条
アメリカ草案にたいして、 幕府は一週間後に アメリカに草案をわたしましたが、 それはまるで木で鼻をくくったような そっけない内容でした。 すべての交渉を長崎でやる、 という意味の旧来の幕府の態度を
アメリカ草案は、 望厦条約を基礎に不必要な部分を削除する という手順と論理で構成されていました。 草案と望厦条約漢文版とを 同時に応接掛にわたした理由も そこにありました。 応接掛はその削除にとも
条約草案はまず アメリカ側からだされ(使用言語は漢文)、 同時に望厦条約の漢文版が添付されていました。 望厦条約とは 一八四四年に清米間で締結された条約であり、 二年前の清英間の南京条約にたいする
日米和親条約の交渉時の交渉陣をくらべると、 ペリー側はペリーを筆頭に 副官アダムス、中国語通訳ウィリアムズ、 オランダ語通訳ポートマンで、 幕府側応接掛では筆頭の 林大学頭ほか、井戸対馬守(町奉行)、
阿部は大型船建造の解禁を、 条約交渉の開始以前に、 老中みずからの手によって諮問のうえ、 決定してしまいます。 ペリー艦隊の第一回来航の約三カ月後、 諮問から三週間ほどの短時間、 一〇月一七日のこと
阿部は大型船建造の解禁を、 条約交渉の開始以前に、 老中みずからの手によって諮問のうえ、 決定してしまった。 ペリー艦隊の第一回来航の約三カ月後、 諮問から三週間ほどの短時間、 一〇月一七日のことで
一九世紀中ごろの段階では、 ①キリシタン禁制、 ②日本人の渡航禁止、 ③そのための外洋船(大型船)の 所有・建造の禁止などが重要であり、 鎖国を実施した一七世紀の ポルトガル船・スペイン船の来航禁止とい
交渉に使用する言語は 幕府側だけの問題ではなく、 双方の問題です。 ペリー側は各種の理由から 日本語通訳をつれてくることができず、 口頭ではオランダ語(担当は若きポートマン)、 文書では漢文(宣教師
外交は幕府(将軍・老中)の仕事であり、 幕府の責任で条約が必要なら調印する、 そのどこかの段階で 御三家・有力大名などから必要な意見は聞くが、 責任をもつ外交主体は幕府であった。 三権分立の原則が承
15世紀後半には, たとえば天文学における新しい動きが生じたり, 科学者としても大先覚者である レオナルド・ダ・ゲインチ (Leonardo da Vinci 1452-1519イタリア) のような人物があらわれたりしています。
豊臣政権のとった外交方針は、 統一政権の基礎を 外国貿易と海外発展によって堅固にし、 外国に対する威圧と征服とによって 勢威の拡大をほかる 封建的国家権力独得の方法であって、 そこにイスパニヤ・ポルト
徳川家康(とくがわ いえやす)の生涯は 多くの困難と戦いに満ちていました。 幼少期には今川家の人質となり、 その後独立して織田信長と同盟を結びます。 信長の死後は豊臣秀吉との 関ヶ原の戦いで勝利を
豊臣秀吉による朝鮮出兵は、 文禄の役(1592年~1593年)と 慶長の役(1597年~1598年)です。 これは、秀吉が 天下統一を成し遂げた後に行われた 大規模な軍事遠征で、 秀吉は、 明の征服を目指し、 李氏
秀吉は1588年の刀狩令で武装解除を進め、 農民から武器を取り上げることで 社会の安定を図り、これによって兵農分離を行い、 近世封建体制の基礎をつくりました。 刀狩令の目的は、一揆を防ぐことで、 安定し
秀吉は織田信長の家臣として出発し、 本能寺の変のあと、 秀吉が光秀を倒して 信長の後継者として認知され、 織田家の実権を握り、 天下統一を目指しました。 天下の趨勢を決したのが「中国大返し」でした。
本能寺の変は、1582年6月21日に発生した、 日本の歴史上非常に重要な出来事です。 この事件で信長は、 家臣の明智光秀による謀反に遭い、 京都の本能寺で自害しました。 信長は当時、 天下統一に向けて大
信長の世界観は、 当時の日本における伝統的な 価値観や宗教観とは一線を画すものです。 彼はキリスト教を受け入れ、 その教えに興味を持ち、 日本における キリスト教の布教を保護しました。 信長はキリ
長篠の戦いは、 織田信長率いる織田軍と 武田勝頼率いる武田軍が対峙した 大きな合戦です。 この戦いは、 天下統一のきっかけとなる出来事で、 現在の愛知県新城市で行われました。 織田信長は、鉄砲を積
新兵器、鉄砲の登場にすぐさま反応したのは、 各地の戟国大名たちだった。 最も早く実戟に投入したのが薩摩の島津氏。 伝来から六年目のことです。 中国地方の覇者、毛利元就は、 敵の鉄砲に気をつけるよ
守護大名の分国支配体制では、 守護がおのおの分国の 支配権を握っていましたが、 その国内には大小種々の土豪が自立散居し、 その上、荘園の遺制が残存し 公家・社寺の所領が散在する土地も多かったので、 領
応仁の乱の後、 約百年の間続いた群堆割拠の戦国時代が、 織田信長・豊臣秀吉の覇業によって治まり、 彼らの支配のもとに 新たな時代の幕が開かれたことは、 封建制度史上に劃期的特色をなすものです。 戦国
時尭は直ちに鉄砲の複製をつくることを命じました。 鉄砲伝来のわずか半年前の天文一二年三月、 種子島氏は、大隅半島の豪族、禰寝氏に攻め込まれ、 領土であった屋久島を奪い取られ 久島奪還をめざす時尭にと
日本人が初めて出会った鉄砲は どのようなものでしょう。 天文一二年(一五四三)、 種子島に漂着したポルトガル人によって、 日本に初めてわずか二挺の 鉄砲かが伝えられました。 火縄銃は一五世紀にヨー
アフリカ研究者の 山口昌男(やまぐちまさお)氏によれば、 「ポルトガル人は、東アフリカ沿岸 (現在のケニア)にフォート・ジーザスなどの 要塞を建設したが、一六世紀のおわりには、 ジンバ人(アフリカ人)に
ポルトガルは、その最盛期といえども、 東洋貿易の一部分をになっていたにすぎず、 主役はいぜんとしてイスラーム商人だったのです。 やはり、アフリカ南端をまわる航海は、 地中海ルートにくらべて危険が大き
一六世紀にポルトガルはコショウだけでなく、 アジアからシルク・茶・宝石などを西欧へ運送し、 一時はいちじるしく冨みさかえました。 しかし、東南アジア史の専門家である 永積昭(ながづみあきら)氏は、 「
つぎのパスコ=ダ=ガマの、 インドへの航路ですが、 さいわいにケニア沿岸のモンバサという港で、 アラブ大のイブン=マージという 水先案内大の援助を得て、 ついにインド南端の貿易港 カリカットへ到着でき
インド、エジプト、イタリアの商人が コショウの貿易ルートによって、 もうけていましたが、一六世紀はじめから、 これにわりこんできたのがポルトガル人でした。 ポルトガルは、一二世紀に イベリア半島の西
西欧人は、長いあいだ 牧畜に依存して生活してきた関係から、 大量の肉をたべる習慣が 今日までつづいてきています。 そのために、西欧人は 殺した家畜の肉を保存することについて、 むかしから大きな関心を