コペルニクス革命の真意がしみ通るまでには いくらか時間がかかりました。 それは、単純で、 天文表を改良する手段として 精密というにはまだ遠いにせよ有用だったので、 職業天文学者によって 最も早期に受
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
セルジュク朝は、 イスラーム世界では最初のトルコ人の帝国ですが、 その領土の東半分を引き継いだのは、 やはりトルコ人イスラーム教徒の ホラズム・シャ一朝です。 ホラズムというのは、 現在のウズベク共
西アジアのイスラーム世界は、 七世紀のアラブ帝国の大征服が創り出したものです。 この帝国は八~九世紀、 バグダドのアッパース朝のハリーファ(カリフ)のもとで 最も繁栄したが、この時代から、 中央アジ
一二五〇年代に、 モンゴル軍は第三次西征にでかけ、 一二五八年に 有名なバグダッド(現在のイラクの首都)を攻略しました。 さらにエジプトへ進撃しようとしたのですが、 このときも国内からの不幸の急報に
もともと、モンゴルの文化は それほど高くはなかったのですが、 ホラズム遠征によって、 中央アジアやイランの 高い文化や都市の繁栄をみて、 はじめて世界に目をひらいたのでした。 そして、さらに西方を攻
アジアでは民族がつぎつぎにあらわれましたが、 モンゴル帝国はそのもっとも成功し例です。 モンゴル帝国の出現によって、 当時のユーラシア全体の情勢が一変しました。 モンゴルは、 モンゴル高原(支那本
これからのモンゴル帝国の発展は、 いくつかの段階に分かれます。 第一の段階は、西夏王国の征服でする。 チンギス・ハーンの即位前の一二〇五年から、 すでにモンゴル軍は西夏に侵入を開始し、 一二二七年
フランスの美術評論家プウジナは、 一九三五年の著述 『支那のイタリア・ルネサンス絵画への影響』のなかで、 技術と内容の両方から分析し、 支那絵画の影響について、 つぎのように指摘しています。 「技術
ルネサンス思潮を もっともよくあらわしたのが、 レオナルド=ダ=ビンチや ラファエロに代表される 絵画だといわれています。 それ以前の西欧中世の絵は、 完全な宗教画だったのですが、 レオナルドやラフ
ルネサンスのもとの意味は、「再生」です。 つまり、古代ギリシア・ローマに 花ひらいた人間賛歌の文芸がほろび、 その後イスラーム勢力や宗教によって 抑圧されていた時代をこえ、 いままた再生したというわ
中世の末期(一五世紀)に イタリアに大きな変化がおきました。 西欧は、一二世紀になって ようやく都市文明の時代へはいりましたが、 都市の発達のもっともはやかったのは、 北イタリアでした。 一四~一
航海について、重要なことは、 天文学も地理学も イスラームの学術書からまなんでいることです。 西欧人がイベリア半島からイスラームを 追いはらって建国した国の一つに カスチラ王国があります。 この国
一二世紀にはいると、 西欧にはいくつかの都市が誕生し、 大学も設置されるようになりました。 そして一三世紀になると、 西欧のいたるところに都市があらわれ、 また多くの大学がもうけられました。 これ
トレドには多数のイスラームの学術図書が 保存されたイスラームの大図書館があり、 そこには、古代ギリシャの学術研究を アラビア語に訳した書籍 もたくさんおかれていました。 そして、トレド図書館をみつけ
当時の西欧の軍事力では、 とてもイスラーム軍に対抗できず、 エルサレムを奪回することは一時的にはできても、 けっきょくは成功しませんでした。 しかし十字軍によって、 西欧よりはるかに文化の発達したイ
イスラームの勢力圏が もっとも拡大したのは一七世紀で、 マホメットの布教から一千年のちのことです。 一七世紀には 旧大陸(ナジアとアフリカ)のじつに半分以上が イスラームの勢力下にはいっていたのです
モンゴル(元)の国王につかえた イタリア商人のマルコ=ポーロは、 帰途スマトラ島(インドネシア)に しばらく滞在したことがあります。 そのころスマトラには、 ほぼ現在のインドネシア全域を支配する 大
アフリカには今日ではアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国が かなりあります。 たとえば
アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二〇〇年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまっ
チムール帝国で二つの注目すべきことがあります。 一つは、チムールがイスラーク教に改宗したために、 イスラームの勢力が一層つよまっていったことです。 もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期に、
永楽帝は南へは、 鄭和という提督に数十せきの大艦隊をあたえ、 一四〇五年から三〇年までのあいだに 七回にわたって航海させています。 鄭和の大艦隊は、東南アジアの タイ、マレー、ジャワ、スマトラをはじ
「ブログリーダー」を活用して、beabea65さんをフォローしませんか?
コペルニクス革命の真意がしみ通るまでには いくらか時間がかかりました。 それは、単純で、 天文表を改良する手段として 精密というにはまだ遠いにせよ有用だったので、 職業天文学者によって 最も早期に受
科学者の独創性と個人主義は 表面的なものにすぎず、 その研究の大部分において、 彼らは同一の伝統に依存し、 同一の方法を用い、 同一の問題にひきつけられました。 これらの問題は、ルネサンスの 定性的
グレシャムはロンドンの大商人の一人で、 王室の財政支配人で、 王立取引所の創立者でしたが、 商人資本と新科学との同盟を その一身に体現した人物です。 一世代古いコレージ・ド・フランスとちがって、 グ
オランダとイングランドでは 科学教育の端緒さえ現われました。 それは第一期の スペインとポルトガルの学校をまねて、 航海術にかたよったものでした。 フランドル人の へンマ・フリシウス(一五〇八-
新しい実験哲学者たち、 今日の言葉でいえば科学者(scientist)、 は、ポーランド、イギリス、フランス等 どの国から来た人であろうと、 イタリアで知識を獲得し、 イタリアで各人の最良の仕事の多くを なし
一五世紀の科学の イタリアへの集中に代わって、 この時期には科学が 西欧全体に広く拡散しました。 ただし封建的伝統から脱出した 西欧諸国のうちの最初の国だったイタリアは、 その政治的・経済的重要性を
封建的な雰囲気のなかで、 新しい西欧の科学が成熟しました。 それは、特権と腐敗が 広くはびこっていたにもかかわらず けっして不利な雰囲気ではありませんでした。 西欧の プロテスタンティズム(新教運
近代産業は 封建的条件から興こることはできませんでしたし、 ルネサンスの大公たちの大権から興こることも できませんでした。 大公たちはふんだんに浪費し、 常に金に不自由し、 また常に人から金をだまし
スタートヴァントは 開発費用と採算性の吟味を十分考慮に入れ、 資本調達の方法についても はっきりした計画をもっていました。 しかし彼は失敗しました。 技術上の無能のためではありません。 彼は今日
スタートヴァントは、 新産業時代の夜明け前に 発明の技術面と経済面との問題について、 多くの点で貴重な発言を書き残しました。 彼は次のように述べています 「ユーレテイカ――発明の術、 新しいものを発見
発明家の一人に コルネリウス・ドレベル(一五七二-一六三四年)がおり、 潜水船を作ってテムズ河で人にみせましたが、 もっと儲かる事業として緋色染料を輸入しました。 オランダ人で後世に名を残さなかった
産業革命の需要が加えた圧力が、 新奇なものに対する態度を変えました。 ひとたび利潤というものが公然と認められ、 新奇な方法が 富を約束することができるようになると、 人は新奇なものをさけるより むし
一方、西欧ではルネサンスから 科学の応用の実用の時代が始まりました。 科学の確実な応用の場として 航海者が要求したのが天文学と航海術です。 これは古代から、 占星術と暦の作製に奉仕して 活動してき
一六世紀末から一七世紀始めの西欧の 産業の高揚は最初の産業革命 と呼ばれてきましたが、 そこに含まれた技術上の新機軸の点でも 科学の利用の点でも、 それは一八世紀の大産業革命と 同列に並べることはでき
儒学を見れば江戸文明が、 健全な日本文明の特色を 具備していたのは、明らかです。 当時の知識人である武士というものを 形づくつてゆく原理となった 日本独自の発展を見た儒学は、 支那の儒教をもとに つ
一七七〇年代前半は、錦絵が流行し、 日本文化の百花斉放がくりひろげられます。 杉田玄白らが 『解体新書』を翻訳・出版して蘭学をおこし、 三浦梅園がヘーゲルにさきがけて ヘーゲルの弁証哲学と同等の哲学
江戸の人口は、 一六三四年(寛永一一年)に 約一四万八〇〇〇と記されていますが、 一八世紀の.一七二一年(享保六年)には 五〇万を突破し、大阪をしのいでいます。 ただし当時の人口調査では 少年・幼児
すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、 出版界が活気づいていましたが、 一七七一年に本居宣長の 『直毘霊』があらわされて、 国学が一つの頂点に達し、 一七七四年に杉田玄白らが 『解体新書』の翻訳をおえ
このような江戸を中心とする 都市の発展は、 じつは一八世紀の日本の商工業が、 いちじるしく発達していたことを 意味しています。 その一つの例ですが、 一七五○年代には、 すでに日本には初期資本主義の
衣類や茶や紙の生産が活発になり、 これらの消費がさかんになります。 商品流通が発達しはじめたのです。 そこで、 商品生産と流通をつかさどる 新興商人があらわれ、 日本の社会は、それ以前の 単純な封
一三〇〇年以後の時代の西欧文化の特色は、 一般に中世文化の総合が、衰えたことです。 十四、五世紀にあっては、 神聖の理想およびそれと対立関係に立つ 現世での人間の満足は、 真に人を納得させる決着点に
東洋では十一世紀において 北宋時代に儒学の復興がなされ、 文体においても漢以前の 古文復興が支配的となり、 印刷術や火薬、羅針盤などの科学の発達、 そして芸術の発展がなされて、 学芸復興がなされました
「文化」において、西洋の学者たちは 自分たちが古代ギリシャ・ローマを 受け継いでいると自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているように
北畠顕家の『太平記』は、 日本の南北朝時代を舞台にした軍記物語で、 全40巻からなります。 14世紀(1370年ころまでには 現在の40巻からなる太平記が成立) に成立したこの作品は、 後醍醐天皇の即位から始
聖フランチェスコの 強烈な聖なるものの追求は、 彼を異端の際まで押しやります。 弟子たちのある者は、 教皇や教会の司教たちが、 (托鉢士たちが実行することを 原則としているように) 貧しい暮らしをし
行動の領域では、合成総合よりも、 多様さと矛盾の方がきわだっていました。 しかし、対立しあう傾向や思想は 互いにバランスをとりあい、 結果として人間の 衝動の範囲の広さが生かせました。 例えば、キ
「文化」において、 西洋の学者たちは自分たちが 古代ギリシャ・ローマを受け継いでいる と自負しているため、 「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、 いかにも西洋「文化」が一貫して 継続しているよう
アクィナスには 批判者がないわけではなかった。 そのうちで最も影響力があったのは、 論理的証明の長い連鎖に不信を抱いて、 神秘的体験により得られる 神的なるものの確実性の方を好み、 世俗のものの知に
中世末期の日本の変化は、 社会の発展がその基礎にあり、 南蛮人の影響でおこったのではない。 その発展を一向宗と法華宗いう 二つの宗教がささえました。 親鸞のひらいた一向宗(真宗)は、 農民ばかりで
西欧における神学の領域では、 信仰と理性は、 聖トマス・アクィナス(一二七四年没)や アルベルトウス・マグヌス(一二八〇年没) のような神学者の力で、 決定的に和解させられました。 アクィナスの『神
西欧の中世文化が ようやく芽生える準備を始めたころ、 日本は後醍醐天皇によって、 天皇親政による専制国家という 近世の政治様式を目指しました。 しかし、 この建武の中興は容易に進まず 所領問題、恩賞
およそ一二〇〇年と一三〇〇年の間に、 中世西欧文化の上昇曲線の躍進は、 もっと複雑で困難ではありますが、 しかし大きな豊かさを持った構造へと 発展をとげました。 一方においては、キリスト教の信仰、
日本に仏教文化が花開いたころ イスラーム教が生まれ、 イスラーム勢力は ゲルマン民族の大移動により 秩序の崩れた西欧に侵入していきます。 これに対しフランク王国の カール・マルテルが勝利し フランス
西欧の中世では、キリスト教は、 社会生活と密接に関連しています。 教会は絶大な権力をもち、 社会生活もすべて キリスト教を中心にしてうごいています。 そのため、教会の腐敗は、 たちまち社会の堕落に
西欧では長年、世俗の権力 (ローマ市の貴族やローマ周辺の有力者)が ローマ法王を決定する習慣がありましたが、 これが堕落の源となっていました。 ローマ法王庁が 世俗の力によって支配されるなら、 ヨー
西欧での農業生産がすすむと、 社会も大きくかわりはじめました。 まず「農村」がいたるところにあらわれます。 さらに重要な点は、 この農村が生まれたことによって、 農村から都市へ発展していく 要因が
一〇世紀までの西欧では、 農業はひどくたちおくれて 牧畜が生産の主流でした。 それというのも、 西欧の土はしめり気が多く重いので、 たがやすのに困難をきわめたからです。 「一粒の種をまいて一粒の麦
社会における産業の発達の段階と、 科学の発展における様相の変化は、 かなりの程度に並行しています。 生産の発展のための技術的問題が 科学研究を推進するということもあるし、 科学と技術がともに社会の発
15世紀なかばごろから 現代にいたるまでの近代科学の発展は、 どのような様相を示しているかを見るためには, 近代科学の歴史を いくつかの時代に区分することが必要であり、 またその区分を可能にするような
西欧の回復がはじまってから 一二〇〇年ごろまでの二世紀以上の期間、 西欧は、アラビア、ビザンティンの 高度に発達した科学や数学、天文学を 食欲(どんよく)に吸収し、 同時に大胆で精力的な創造に力を注いだ