おい、とか何とか、制止とも非難ともつかない声を聞いた気もするが、勿論無視した。更に力をこめて忍足を抱きすくめながら、佐上は囁いた。「ただいま」「・・・それ、普通に言えないのか」 さも呆れたと言いたげな口調。だがそれとは裏腹に、忍足の両手は佐上の背へと回され、やわらかな抱擁を返してくる。「言えない。だって淋しかったから」「何が?」 判ってるくせに、と内心で佐上はぼやく。判ってて言わせようとしてる。 ...
程々の時間をかけてグラスをカラにすると、佐上は立ち上がった。ご馳走様、と渚に声をかけると、こちらこそと返された。「次は二人で来てよ。ていうかさ佐上ちゃん、言われるがままに一人で来てないで、強引にでもエスコートしてきてあげなさいよ。ああいうことを言う子を一人きりにしてちゃダメよ」 あ、猫ちゃんもいるなら一人きりってわけじゃないのかしら。などと言っている渚を急かして、会計を済ませる。 ごつくて重い木...
「ていうか!」 渚の言葉を吟味する間もなく、大声を張り上げられて、佐上は軽く上体をひいた。すると渚はその分、前へと乗り出してくる。「忍足センセって、そんな可愛いヒトだったっけ?」「・・・可愛い人だよ。俺に対してだけね」 微笑して佐上がこう返すと、渚は大きく上体を退けてアハハと笑った。ご馳走様、という台詞とともに、さりげないい動作で灰皿を差し出されたが、それにはかぶりを振る。「煙草やめたんだ。もう一年...
何だろうなあ、と佐上自身も思う。そう思いつつも、取りあえず事実だけを口にする。「追い出されちゃったんだ。渉なりに、俺のこと考えてくれたみたいで」 佐上のパートナーである処の忍足渉の声が耳に蘇る。彼独特の、感情を交えない声音で、立て板に水の如くまくし立てられた。あれは絶対、あらかじめ考えて用意しておいた台詞だったんだとと思う。 ――俺は通勤時間中とか、付き合いで呑んだりとか、一人になる時間もあれば好...
この店は、忍足とまだセフレ関係だった頃によく出入りしていた。佐上が忍足に、付き合おうと初めて口にしたのもここだった。 それまでに既に、佐上も忍足もこの界隈では知れ渡っていた。職業年収外見全てハイスペックなのに中身は人でなしという、事実なだけに身も蓋もない評価を二人揃って受けていたのだ。 そういう者どうしがくっついたって時間の問題だというのが大方の意見で、渚も同様だった筈だ。佐上が忍足を口説いてい...
実際、渚は黙っているとお洒落オーラが漂う、いわゆるいい男だ。 年齢は不詳だが、長身だし体躯は引き締まっているし――勿論趣味は筋トレ――、顔立ちも整っている。 髪型は割にころころ変えるタイプで、前に見た時は髪色をアッシュブラックにしてスパイラルパーマをかけていた。こういう洋犬いるよなと忍足が言っていたのを、佐上は覚えている。 ちなみに今はオレンジがかった茶髪、セミロングのワンレングスになっている。ざっ...
八段分の階段を降り、ごつくて重い木製のドアを開ける。 すると中から、間接照明の薄暗い光とごく絞った音量で流れるジャズの音色、それから幾種類もの煙草の香りが流れ出してきた。ついでに、響きのいいテノールの声音も。「あらーっ、佐上ちゃん!」 それら全てが醸し出す空気を、佐上は肺の底まで吸い込んだ。 懐かしい、と思った。「久しぶりじゃなーい、どしたの、一人? 忍足センセは?」 向かって正面に設置されたカ...
なんだかしょっちゅう、このタイトルで書いてる気がしますが・・・(すすすみません) しかも本日はお知らせのみです←おいこら というわけで、明日から連載再開いたしますー。 元気になったかといえば、なったようななってないようなという感じで、ほぼ見切り発車なんですが(苦笑)。 まあ、ぼちぼちとね。細切れ更新になるかとは思いますが、またお付き合いいただけたら嬉しいです。 では明日から、よろしくお願い致します!...
というわけで終了いたしました、「月へと伸びる梯子段」。いかがでしたでしょうか。 なんだか今回のお話は、作者がいろいろと弱っていた時期(正確には弱りかけていた時期と回復期)に書いたものなので、いつも以上に暑苦しいというか、ヒューマニズム系というか・・・。 ほぼ平常に戻った現在となっては気恥ずかしいやらウザいやらで複雑です。はい。一度は丸ボツにして書き直そうかと思ったくらい。 とはいえ、そんな余裕もな...
いやいやと司は手を振る。 実のところ、面白そうだからうちでもひとつ買おうかと思ってますという向井からのメールに、それならまずうちに来て試してみてからにしなよと強引に誘ったのは司なのだ。 学も大島も賛成してくれたからでもあるが、家族になった自分たちを見て欲しいという気持ちもあったのは確かだ。 向井と長谷川は、学との馴れ初めから司が大島姓になるまで、全てを見てきてくれているから。「うん、これね、いろ...
「わあ、これが噂の・・・! やってみたかったんですよ、ね、向井先生!」 月を目指して、初めて三人で梯子を組んだその夜からしばらくして。 司は向井に、学は長谷川に、それぞれが写真を添付して布教メールを送りまくった結果、向井と長谷川が土日一泊で大島家へ遊びに来る運びとなった。 目的はもちろん、月を掴まえるべく長く高く梯子を組むことである。「まあまあ皆さん、まずは腹ごしらえしましょう。といってもカレーで申...
外箱を再び引っ繰り返して、表側に描かれたイラストを司は見つめた。「月まで届く梯子をかけていく・・・」 以前学に聞いた話が脳裏に浮かぶ。それはすぐさま、司の中でひとつの影絵となって浮かび上がる。 ランドセルを前に、背中には小さな息子を背負った男の影。その背中から空へと伸ばされる、小さなてのひら。 月へと向かって。「・・・いいですね、すごく」 声には自然に気持ちがこもり、笑みになってあふれた。 対する大島...
そう言うなり、大島はやおら身体を傾けて食卓の下へと手を伸ばした。そうして再び司に向き合った時には、二人の間にはひとつの箱が置かれていた。「・・・『月を掴まえろ』?」 箱に書かれた商品名は英文だったが、訳すとこうなる。パッケージも幻想的で、黄金色に染まった雲を突き抜けるようにして立った梯子とその上に乗って手を伸ばしている人物の背中、そしてその先に大きな三日月が、淡い水彩画のようなタッチで描かれていた...
「あのー・・・ええと、司くん」 夕食の後で大島がそう発言するまでは、それはごくありふれた土曜日でしかなかった。 司は土日祝日が休診日だが、大島書店の定休日は日曜だけだ。だから、司の土曜の過ごし方は完全に定型化している。 まず、朝食後に出勤していく大島と学を見送った後で皿洗い及び台所の掃除。 その後病院に顔を出してから、帰宅して学の詰めてくれた弁当を食べ、一息ついてから居間と風呂場の掃除。 その後、持...
ある夜は司が意気揚々と、「ボードゲームの王道、言っていい? 人生ゲーム」 しかし簡単に撃沈。「この家の三人とも、実際の人生がヘビー寄りだからなあ。ゲームでまで、浮き沈みがある人生を味わうのはちょっと、どうでしょうか」「・・・確かに」 そしてある夜は、学が満を持して。「スポーツ系なんてどうですか? サッカーとか野球とか」 しかし今度は司が、「長続きするかなあ。いや俺が。スポーツ全般、あんまり興味ない...
かくて司と学は夜な夜な――といってもお互いに無理のない範囲で――、企画立案と検討を重ねた。 まず最初に決めたのは、家の中でできることにするということ。そして、テレビに接続したりネットを経由したりする類のものは除外するということだった。「時間と場所を選ばず、思い立ったらすぐに始められるようなのがいいと思うんだ」 そう主張したのは司だったが、学もすぐに同意してくれた。「ですね。デジタル系だと、親父の奴、...
「えーっと、それは・・・」 そんな学の言葉に、司としては首をひねらずにいられない。「無神経とか重いとかウザいとか、そういうこと? それとも俺、ちょっとバカ?」 考えあぐねた挙げ句そう訊くと、大笑いされた。「違いますって、ていうか何でそうなるんですか。俺、今、全力で褒めたのに」「そうだったかなあ?」 更に首をひねる司に、学はにこりとしてみせた。「そうですよ。俺が好きになった人ってこういう人だよなって、...
「うーん・・・」 学はもう一度そう唸ると、湯呑みを両手で包むようなしてしばし考え込んだ。 それから、ふと思いついたように司に尋ねる。「あ、司さん、ごはんのおかわりは?」「うん、ください」 一口だけ残していた茶碗を差し出すと、学はそれを受け取って身軽に立ち上がり、ごはんをよそうと食卓に戻って来た。 はい、と両手で茶碗を渡され、司もまた両手で受け取る。「ありがとう」 こういう時、いつも言っている言葉を今...
「え?」 その日のメニューは鰆の塩焼きと豆ごはんと菜の花の辛子酢味噌和えだった。ちなみに鰆は、司の帰るコールに応じて一人分焼いてくれたので、できたてだ。 ほかほかと湯気の立つ皿が並んだ食卓を眺め、春だなあと内心ほっこりした司だったが。「このままこういうの、ってどういうのですか?」 温かい番茶の湯呑みとともに、学からの問いかけを目の前に置かれて、司ははっと我に返った。「お父さんのこと。俺たちとの同居...
かくて。 この役割分担に沿って、現在の大島家は動いている。 まず朝食。仕度は基本的に学だ。それを三人揃って食べる。 その後、司が最初に出勤していく。その際に、学が詰めてくれた弁当を忘れずに持って出る。 ちなみに学も、昼食は手弁当で済ませているが、大島は「開業以来、昼飯はここと決めている」という定食屋で食べる。 夕食はというと、司は帰宅時間が決まっていないので、学と大島だけで先に済ませてもらうこと...
それから季節はひとつ移り、春。 三人暮らしも、ぎこちながらも徐々にペースができてきた。いや単に、ぎこちないことに慣れてきたというべきだろうか。 その暮らしというのは、たとえばこんな具合だ。 生活費の徴収及び管理については、学が担当する。食事の仕度もメインは学だが、大島が思い立って得意料理を作ることもあり――学曰く「親父の必殺技」、内訳は炒飯とカレーとオムライスと豚の角煮――、そこは割合、流動的だ。 ...
「・・・そっか」 すっかりしみじみしてしまいつつ司が相槌をうつと、学は途端に照れた顔になった。「って親父の腰の犯人、実は俺だったりして。悪いことしたなあ。だから、そういう意味でもね、早々にばあちゃん家に越しときゃ良かったんですよ」 いや、と司は微笑してかぶりを振った。それから、目の前に居る学の頭に手を乗せ、優しく撫でてやる。「愛着があったんだよ、お父さん。学のお母さんと、ちっちゃい学と、三人で暮らし...
その時に、この家との関わりについても学は話してくれた。「この家で生まれ育ったって、百パーセントの意味でいえるのは親父だけですね。俺は、ばあちゃんが亡くなるまでは店の近くのアパートで暮らしてたから。お袋が亡くなるまでは親子三人で、その後は親父と二人で」 しかし、母の病没後は、学は学校からまず祖母の家を経て帰宅することになる。「で、おやつ食べて宿題して、ばあちゃんと一緒に夕メシの支度をして食べて、店...
でもなあ、と司は言ったものだ。「学もお父さんも、あの家には思い出がたくさん詰まってるんじゃないのか? 特にお父さんには、養子縁組の話を受け入れてもらっただけでも精神的な負担を強いてるのにさ。その上、余計な出費まで」「気にしないでくださいってば」 学はそう繰り返し、またも笑った。「リフォームったって、玄関を二つにするとか二階建てを三階建てにするとか、そういう大がかりなものじゃないし。単に、古くなっ...
司が名実ともに大島家の一員となったのは、街がまだクリスマスイルミネーションに彩られていた頃のことだった。 それに伴い住民票も、それまで大島が一人で住んでいた家――大島の実父が建て、父親の死後は母親が独居していた木造家屋――へと移した。 要するに大島と同居するべく引っ越した、のだが。 それに至るまでには、二階部分の改築工事を経る必要があった。大島が、それが必要だと言い張って退かなかったのだ。 もっとも...
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