京都のお寺で育ったしばやんの歴史考察等。令和2年以降は、新しい記事は「歴史逍遥『しばやんの日々』」に掲載しています。
50代になった頃から日本の歴史に興味を覚えて、いろいろ調べることに楽しさを覚えるようになりました。8年前から「しばやんの日々」を書き始め、いつの間にか容量が少なくなり、バックアップにも問題があるので、同名の別のブログを立ち上げて手作業で主要な記事を移し、新しい記事も同時に掲載してきましたが、2014年からはこのブログに一本化しています。
長篠の戦の武田勝頼公本陣跡から満光寺庭園、阿寺の七滝などを訪ねて
設楽原歴史資料館の駐車場から医王寺(新城市長篠字弥陀の前256)に向かう。長篠の戦いで、武田勝頼がこの寺に本陣を置いたとされ、境内には『武田勝頼公本陣跡』と記された石碑が建っている。新城市のHPによると、『三川日記』という文書に、武田軍の長篠包囲において本軍の武田勝頼らは医王寺山に三千の兵を配置したことが記されているそうだが、山麓の医王寺境内地内には陣城と思われる遺構は確認されていないという。http://www....
毎年梅雨が明けた頃に車で旅行することにしているのだが、先日愛知県の新城(しんしろ)市を巡って来た。最初に向かったのは長篠城址(新城市長篠市場22-1 ☏0536-32-0162)である。長篠城は豊川と宇連川の合流点の崖の上の天然の要害の地に、菅沼元成(もとなり)が今川氏の命を受けて永正5年(1508)に築いた城で、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いののち今川氏から松平氏の支配に移り、元亀2年(1571)に武田氏の支配に移り、天正元年(1573)に...
満州国にわが国が莫大な投資をして築き上げたインフラを掠奪した中国
前回の記事で関東軍が満州の匪賊を討伐したことを書いたが、それまでの満州は、法治はおろか人治すらなく、軍閥・匪賊が支配、跋扈する無法地帯であった。黄文雄氏は『日本の植民地の真実』でこう解説しておられる。「そのような状況を一変させ、近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せたのが関東軍であり、新設の警察制度であった。この軍閥、匪賊社会をわずかな期間で一挙に近代社会に作り変えた功績は、近代ア...
昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件から始まった満州事変で、30~40万いたとされる張学良軍は、およそ1万の関東軍によって総崩れとなって満州から駆逐されてしまったのだが、彼らは圧倒的に兵士の数では関東軍よりも優位にあっただけでなく、さらに飛行機や戦車などの近代兵器も大量に保有していた。にもかかわらず、簡単に関東軍に敗れてしまったのはなぜなのか。Wikipediaにはこのような記述がある。文中の「彼」は張学良である...
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