chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
Levi
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2012/12/23

arrow_drop_down
  • イエスによって御父が示される

    「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18新共同訳)---イエスの公生涯のさなか、このイエスは実に様々な人々とかかわった。多くの人々をあわれみ、給食の奇跡を起こし、病人をいやし、死者ラザロを生き返らせた。それはなぜだろう。多くの人々に御父の本質を示すためである。奇跡やいやしそのものが目的なのではない。だが、イエスによって示された御父を信じようとする人は稀であった。パンに喜びたらふく食べた人々は満腹するとあっさり解散してしまう。それでもイエスが示した御父を信じようとする人には、イエスのわざであるところの十字架と復活を通して恵みに預かった。イエスは今も、御父の本質を示し続けている。それをどう受け取るかを、私たちは問われている。---[...イエスによって御父が示される

  • イエスの栄光とは

    「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)---「ことばは人となって」は、「ことばは肉となって」とも訳せるとのこと(新改訳聖書の注釈欄より)。個人的には、後者の方がずっと分かりがいい。イエスが肉をまとっておられた公生涯において、イエスにあわれんでもらった人、イエスに敵対した人、イエスの弟子になった人、ともかく、さまざまな立場の人たちがイエスを知っており、言葉を交わしていた。しかし、ヨハネ福音書の記者は「私たちはこの方の栄光を見た。」と書き記す。このことを言い換えると、さまざまな人たちとは違って記者はイエスの中に神を見いだしたのである。十字架で肉を処分して復活したイエス...イエスの栄光とは

  • 人として死んでいる人も神によって生まれることで生きた人になる

    「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:9-13)---アダムの違反以来、人は神を知ることがなかった。世は神の子を知らず、また、受け入れることがなかった。この断絶それ自体が人の罪なのであり、人々はやみの中でのたうち回り続けた。これらの人々にはいのちがなく、人として死んでいた。しかし、神の方から救いがもたらされ、まことの光...人として死んでいる人も神によって生まれることで生きた人になる

  • やみの中の私たちを照らすいのちの光

    「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:3-5)---「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」とは、イエスに依らずに存在するものは、やみのものであるということである。実際、私たちはやみの中にいるのである。このやみの中で救いを求めてあえいでいる。しかし、人の光であるところのいのちが、やみに射し込んでいる。この光はやみの中にあって燦然と輝いており、やみの中にいた私にもこの光が照らされた。どの人にもこの光は照らされる。だが、照らされるのを嫌う者も少なくない。人の光を喜ぶ者は、イエスによる救いに招待されたのである。--...やみの中の私たちを照らすいのちの光

  • ことばは神とともにあった

    「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)---ことばにはそれ自体に意味があり、ことばの連なりがまた意味を生む。このことばによって、人から人へと意味が伝わる。聖書のことばも、もっぱら文字面の意味で理解される。ところが、「ことばは神」としかいいようのない出会いが、聖書にはある。文字面の意味をはるかに超えた聖書のことばが飛び込んできて、読む者に「いのち」を与える、そういうことがあるのである。アウグスティヌスにとってのそれは、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)であった。これは、大きな苦悶のさなかにいた...ことばは神とともにあった

  • イエスの復活

    「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:16-20)---イエスは極刑の死から復活した。11人の弟子たちの前に、復活の御姿を現す。私は以前、この復活の仕方が不思議でならなかった。エルサレム中の人々の前に復活の...イエスの復活

  • 世のすべてが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」とうめき続けている

    「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(マタイ27:45-46)---人は神に造られた被造物であったが、アダムの違反によって神と人とが断絶してしまった。神は、人との関係を回復しようと、御子イエスをこの世に送られた。このために、イエスは今まさに、この十字架の道を切り拓こうとしている。死んで、新たによみがえるという道だ。ところが、十字架に架かった御子イエスご自身が、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と、御父との断絶に苦しみの声が思わず漏れる。私たち世の人の神との断絶による悩み苦しみを、ここでイエスが味わうのである。このことを角度を変えて...世のすべてが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」とうめき続けている

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、Leviさんをフォローしませんか?

ハンドル名
Leviさん
ブログタイトル
平成隠れキリシタン
フォロー
平成隠れキリシタン

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用